カシュー

 ヒカシューについて言いたいことは山ほどある。何といっても、これほど影響を受けたバンドもない。
 思い起こせば、私は音楽などというものとは無縁の、多々ひたすらにSFに耽溺した高校生活を送っていたのだが、ある日、たまたまラジオで耳にした山下トリオの「ホット・メニュー」の坂田明のアルトを聴いてサックスをはじめた。そんな頃、ニューウェーヴ特集とかいう一週間連続のラジオ番組があり、プラスチックスというへたくそなバンドに興味を持っていた私はその番組を聴いていたのだ。そして、それはたまたまヒカシューのデビューアルバムを紹介する回だった。私は、ヒカシューを「悲歌集」と思い込んでいた。つまり、憂歌団みたいなもんかとおもっていたのだ。大いなるかんちがいであった。
 どの曲にも驚かされたが、何といっても一番心の琴線をヒットされたのは「プヨプヨ」だった。そのとき、期末試験か何かの徹夜明けで体調の悪かった私は、この曲を聴いて、完全に体調を崩してしまった。つまり、それほどのインパクトをもった曲だということだ。胃の腑を直撃して消化不良を起こさせるような不健康な歌詞とサウンドにすっかり私は魅せられてしまった。
 次の日、学校に行くと、同じく同番組を聴いてショックを受けたというYと私はバンドを結成した。Yがヒカシューのデビューアルバムを買い(当時の我々にはLPを買うことはかなり大胆なことだった)、私はそれをダビングしてもらい、文字どおり、テープがすりきれるまで聴いた。私は味をしめて、そのラジオ番組を他の日もきいてみたのだが、ヒカシューのような衝撃は片鱗も味わうことができなかった。ある回にとりあげられたミュージシャンが、一連のバンドのなかで、10年先に生き残っているのは、うちとジューシー・フルーツ(といったか他のバンドだったか覚えてないがヒカシューでなかったことはたしか)だけだ、と豪語しているのを聴いて、絶対におまえら残ってないよ、残ってるのはヒカシューだけだよ、と私は思ったものだ。そして、そのとおりになった。なぜなら、ヒカシューは、高校生にもわかる強烈なオリジナリティを持っていたからだ。まがいものは残らないのである。
 しかし、何という衝撃であっただろう。「プヨプヨ」はもとより「テイスト・オブ・ルナ」「ビニール人形」「幼虫の危機」などの曲は、私の心を完全にとらえ、私はその日からヒカシュー的(というか巻上公一的)テイストを持った作詞をしようと試みた(今でも試みている)が、逆立ちしてもできないのである。あれはまさに天才の所業である、と私は結論せざるをえなかった(巻上の作詞家としてのすごさについては、「巻上公一」のコーナー参照)。とくに、「プヨプヨ」! 白い、白い、どこまでも白い、山のなかの精神病院の個室の白い壁を思わせるサウンド。イントロの前の、カッカッカッカッというリズムを聴くだけですでにその世界にひきずりこまれていく自分をどうすることもできない。印象的な5拍子のベースラインにのって、巻上公一の演劇的シャウトがはじまる。病人の不健康さ、太陽にあたっていない白くぶよぶよした肌、心を病んだ人間の異常が日常となっている世界を音楽でここまであからさまに描いたものがかつてあっただろうか(と勝手に思い込んでいるのだが、全然、当たってないかもしれないね)。最後の、巻上による延々と続く哄笑は、ヒカシューを、そして巻上公一を象徴している。
 その後発表された多くの作品に共通するのは、全てをあざわらうかのごとき嘲笑であり、目だけが笑っていないニヒルな含み笑いであり、どんな権威も愛も涙も吹き飛ばす哄笑である。巻上の笑いは、レスター・ボウイとの共通点がある。白衣を着て、サングラスをかけ、踊りながらトランペットを振り回すレスターのラッパからは、悪意に満ちた哄笑が、号泣が、激しい怒りが伝わってくる。表現者としての巻上のボーカルからも、そういった要素が、露骨に感じられる。それらが一体となって聴くものの身体を責めたてる。ヒカシューの数多いアルバムのなかから一枚あげるのは困難だが、私がもっとも愛しているものは、3枚目のLP「うわさの人類」である。はじめて聴いた時の衝撃は、いまだに忘れないし、そして、今聴いても全く古びていないうえに、世紀末に近くなってきた今のほうがこのアルバムの内容はよりよく理解されるだろうと思うほどだ。デビュー前をとらえた「ヒカシュー1978」から、現時点(平成10年5月)での最新作「かわってる」まで、一枚も手抜きやしょうもないアルバムはない。どれも推薦できる(もちろん、巻上個人の超歌謡やインプロヴァイズド・ヴォイス物も)。
 ヒカシューはばりばり現役のバンドである。オリジナルメンバー二人しか残っていないし、即興的要素も増えたが(非常にいいことだった)、テイストにかわりはない。永遠に、人類が滅ぶまで、地球が壊滅するまでやりつづけていってほしいものだ。