このエッセイは、「ふるばん新聞」昭和62年11月11日号に掲載した、私がアーネット・コブのライブをはじめて見たときき感動をつづったものです。古いものなので、何のこっちゃわからん部分もありますが、まあ、読んでみてください。
11月11日、私は朝から興奮状態におちいり、仕事も手につかぬありさまでした。それもそのはず。今日は、あの偉大な、そうです、アーネット・コブを生で見ることができる日なのです。会社の終業時のベルが鳴ると同時に「さいなら!」と言って会社を出た私は、かねて用意のちゃりんこを駆って、堂島は毎日ホールへとやってきたのです。
第1部のバディ・テイトも実に素晴らしい演奏でした。いきなり、アップテンポの「ジャンピン・アット・ザ・ウッドサイド」で始まり、ブロー&ブロー。すっかり興奮した私に、2曲目は何とフルートによる「サテンドール」。3曲目は、クラリネットをフィーチャーして、自作のスローブルース。これが目茶苦茶かっこよかった。もう、失禁寸前。
充分満足して、第1部は終わり、いよいよお待ちかねの第2部。横山プリンの紹介で、満場の大拍手の中、松葉杖をついてゆっくりと登場したのは、アーネット・コブである。あの顔、あの体・・・。写真で見たのとそっくりだ(当たり前だ)。いきなり吹き出したのはAフラットの循環の曲。これで聴衆はみな、ぶっとんだ。凄い。吠える。叫ぶ。絶叫する。咆哮する。「ぎょえー」とか「ぎゃおー」とかの阿鼻叫喚の地獄図が場内に展開した。まさしく、怪物だ。私は、前世紀のモンスターが現代に生き残っていて、それを目撃しているような気持ちになった。グロウルしまくる度に、唸っているのが聞こえる。ギャオーと叫ぶ度に、唾のしぶきが飛ぶのが見える。何しろ、最前列のど真ん中だったかんねー。しかも、コブはマイクとテナーのベルの距離が70センチぐらいあり、ほとんど生音に近いはずなのに、ものすごくでかい音だ。私は、時のたつのも忘れて、ただただ茫然とアーネット・コブに見惚れていた。
いろんな曲をやったが、バラードであんなにアーシーにブロウする人を私は知らない。はじめて共演する日本人ミュージシャンたちは完全にコブの言いなりであって、貫祿の差、年季の差を感じた。とにかく、おそろしいおっさんである。「アーネット・コブ・イズ・バック」でおなじみの「A列車で行こう」が始まった。テーマをおもいっきりひっぱるルーズな吹き方は、レコードと一緒だ。そこへ登場したのは、バディ・テイト。二人でにこにことアンサンブル。「いやー、すごいすごい」と言っているうちに、ミディアムの、ぐっとファンキーなブルースを二人で吹き出した。どわー、アンコールは「スイート・ジョージア・ブラウン」だ。例の「コブ・イズ・バック」リフはなかったけど、私は最高に興奮しました。あー、すごかった。
一緒に見にいったY・Sさん「めちゃめちゃかっこええやんけ」J・Sさん「あんなお年寄りがあんなすごい音をだすなんて、胸にじーんときました」とにかく、私は今日は眠れそうにないです。
このエッセイは、アーネット・コブが死んだときに、深い悲しみの中で書いたもので「ふるばん新聞」平成元年4月3日号に掲載されました。これまた古いので何のこっちゃわからん部分がありますが、まあ読んでみてください。
いつかは訪れるだろうと覚悟はしていたものの、実際にその日が来てしまうと、かなりのショックだった。平成元年3月24日、偉大なジャズテナー奏者アーネット・コブが永眠した。テキサステナーにふさわしい、地元テキサス州ヒューストンでの最期だった。
アーネット・コブは、テナーブローと呼ばれる分野の完成者である。イリノイ・ジャケーと、その創始者としての名誉は二分するといえども、ブローテナー、ホンクテナー、スクリーマー、ホンカーという名称で呼ばれるテナーサックスのジャンルを完成した男としての名誉は彼のものだ。また、ブルースとジャズの不可分の中からR&B、ロックンロール、ロック、ソウル、ブラック・コンテンポラリーという現代のポピュラー音楽を形作っていった一握りのミュージシャンの先頭に、常に位置していた、という男でもある。コールマン・ホーキンス、ベン・ウエブスターの影響を極限にまで押し進め、自分の個性を築いていった。何度かの事故にも負けることなく、松葉杖をつきながらテナーを唸らせていた。一音を聞くだけで、彼のものとわかったほどの偉大な個性。そう、そして彼はテキサス・テナーと呼ばれる一連のテナーマン達のボスである。テキサステナーという言葉を聞く度に、人はコブの名前を思い浮かべ、その荒武者のような勇姿を思い描くであろう。怪我や事故にあう度に不死鳥のように蘇ったアーネット・コブはもうこの世にいない。我々にできることは、彼の魂よ安らかなれ、と祈り、また、彼がこの世に残した膨大な(といってもそのほとんどは廃盤か、日本盤が出ていない)レコードを聞くことだけなのだ。
ジャズは、一瞬もとどまることなく、その姿を変えていく。一人の偉大なミュージシャンが出現して、一つのジャンルが築かれようとした瞬間、すでに次のスタイルが萌芽している、という。その典型が、ジョン・コルトレーンである。彼はその短い人生を同じスタイルに止まることなく走り抜け、現代のジャズテナーにおける厳然たるジャンルを築きあげた。いわゆる「コルトレーン・スタイル」と呼ばれるものである。現代のテナーマンのほとんどは彼のフレーズを中心として自己のスタイルを築き上げているのであり、それはマイケル・ブレッカーもブランフォード・マルサリスもボブ・バーグもゲイリー・トーマスもデイブ・リーブマンもスティーブ・グロスマンも同じである。しかし、コルトレーンが自己の芸術を具現化する過程で不必要なものとして削り落としていったもの・・・ブルース臭、ダルなさぼりの感覚、間の感覚、黒人らしいどぎついユーモア感覚、単純で粗野なパワーなど・・・は、やむをえないこととはいえ、現在のジャズシーンには希薄であり、それはコルトレーンの功罪ともいえるのだが、それらコルトレーンが削り落としていったもの全てを一手に引き受けているのが、アーネット・コブなのである。コルトレーンのそうした「削り落とし」は、ジャズがポピュラー音楽から芸術としての鑑賞音楽へと発展していく上で、どうしてもさけられないことであったのかもしれない。しかし、それがジャズの全てではない。コブのスタイルには、コルトレーン以降のジャズテナーが失ってしまった、ジャズとブルースが未だ不可分であったころの深いフィーリングがどっぷりと残っているのだ。
アーネット・コブは恐龍だった。原始の粗野で野卑なパワー、あらゆる黒人音楽のルーツであるブルース感覚の深い深い井戸からくみあげる黒い感覚・・・現代のジャズにない全てのものがそこに残されている、と知って、人々は恐龍を見にいった。現代に恐龍が生きているわけがないのに・・・。現代に恐龍が生きている、とすれば、それはネス湖の恐龍である。アーネット・コブのファンは、研ぎ澄まされたように鋭く、複雑で、爆発しない現代ジャズがとうの昔に失ってしまったもの、すなわち原始時代の恐龍がもっていた野卑で野蛮なワイルドで率直で直情的な力を求めていたのであろう。そう、かくいう筆者もその一人であった。
アーネット・コブ。偉大なアーネット・コブの後継者は、ない。偉大なジャズマンのほとんどが、あまりに自分のスタイルを際立たせてしまっているがために、誰もそのスタイルを真似できず、後継者はないのだ。スタンリー・タレンタイン? ビッグ・ジェイ・マクニーリー? デクスター・ゴードン? ジョニー・グリフィン? ウィルトン・フェルダー? ジョージ・アダムス? どれも小さい小さい。コブの域に迫るほどのテナーマンは、もういない。彼らはそれぞれコブの「ある部分」を受け継いではいる。それらを核にして、自分のスタイルを築きあげている。しかし、コブはコブである。
そう・・・アーネット・コブのパワーの爆発を思わせる男は、筆者にとってはあのペーター・ブロッツマンだ。前衛のための前衛、とまで言われたブロッツマンのテナーの咆哮が、筆者にとっては、アーネット・コブの咆哮を思わせる唯一のものである。不思議だが、本当のことだ。
そして、ネス湖の恐龍は再び湖に没して、我々の前から姿を消したのである。
アーネット・コブの死で確実に一つの時代が終わった。いや、もうすでに終わっていた時代の生き証人がこの世を去った、というべきか。その姿を見た・・・見てしまった我々は、次の時代のジャズシーンにそれを伝えていく義務がある。アーネット・コブを見た世代として。
今夜は「アーネット・コブ・イズ・バック」を聞くのは悲しすぎる。なぜなら、アーネット・コブは、二度とバックしないところへ逝ってしまったのだから。
(註・これを書いたときは、まだ、デクスター・ゴードンもジョージ・アダムスも健在だったのです)
このエッセイは、平成9年11月、「ふるばん新聞」復刊第一号に掲載されました。ライブの時はあまりに興奮状態にあったので、もし事実誤認があったら、関係者各位にはおわびいたします。
忘れもしない1996年○月○日(忘れとるやないか!)、日本におけるブローテナーの歴史に新たな1ページが付け加わった。そう。あの「狂乱吹きまくり男」ビッグ・J・マクニーリーがついに来日したのだ。私は、興奮をけんめいに抑えつつ、難波のウォーホールに向かったのである。
私もこれまでいろいろな外タレのライブを見てきて、見る前にこれだけ興奮したライブというのは久しぶりである。私は友人のテナー吹き(ジャズのことは全く知らない)を誘ってウォーホールに行った。共演は、というかバックバンドは、ブレイクダウンなきあと、日本最高のシカゴブルースバンドである「ローラー・コースター」+ウシャコダの藤井康一。ステージは、ウォーホールの場合、入口のある階の一つ下の階になっており、客はホールに入ってから中にある階段を下りて客席に向かうという仕組みになっているのだが、開演前に時間があったのでロビーをうろついていると、ローラー・コースターの面々がビッグ・JのCDやTシャツを売っている(というか手伝っている?)。私が持っていないCDを選んでいると、ギターの小出斉さんが「それはまだ日本に入ってないからお買い得」のようなことを言ったので即座に購入。Tシャツを買うと、あとでビッグ・Jのサインがもらえるで、というので、これも購入。結局、CDは4枚ぐらい買った。
ビッグ・Jについて全く予備知識のない友人のYには、どうせ、見ればわかると思い、何のレクチャーもしないまま、とりあえずローラーコースターが出てきて1曲目がはじまった。曲は、エディ・クリーンヘッド・ビンソンの「チェリー・レッド」。例の「バズバズシュビドゥビ」というCD(吾妻光良と藤井康一の双頭バンド「ジャジー・ジャイブ」のライブ。すばらしい)の1曲目でもある。藤井康一はテナーもうまいが、歌がむちゃくちゃうまい。クリーンヘッドのひっくりかえるようなシャウトを見事に真似している。同行のYは、ローラーコースターのあまりのうまさに驚いた様子。ハープの妹尾隆一郎も小出斉も、あきれるぐらいうまいしかっこいい。こんなすごいバンドが気軽に聞ける東京の連中は幸せだ……と思いつつ、それぞれがボーカルをとって3曲ほどが進行する。そして、ついに待ちに待った(ほんとに待ちに待った、という感じになる。ブルースやソウルのライブはこういったステージ運びがやはりうまい。ジャズなんか、全員がぼーっと出てきて、曲名も言わず、いきなりはじめるだけだもんなー)ビッグ・Jの登場である。
小出さんのアナウンスに続いてバンドが曲を演奏しはじめたが、ビッグ・Jは現れない。と、どこからかテナーの音が聞こえてきた。しかし、本人の姿はない。と思ってたら、やってくれました。ロビーのフロアから階段をゆっくりと下りながらテナーを吹いての登場だ。ぱっと見た印象は、とにかくでかい。そして、太っている。半ば白髪になったアフロヘアに白髪の顎ひげ。大きな目玉をぎょろつかせて、ゆっくりと客席の後方へと到着。そこから舞台までがなかなか進まない。観客一人ひとりに語りかけるようにあちこちで立ち止まりながらテナーを吹きまくる。かわいい姉ちゃんを見つけると寄っていって、くどくように吹く。昔、よくやっていたというブリッジをしながらの演奏こそなかったが(腰や膝が悪くてサポーターをしているらしい。そりゃ、あれだけ太ればねえ……)、片手をついてうずくまっての演奏や、姉ちゃんの膝に座って吹いたり、いろいろやってくれた。そして、きわめつけは、「ぎょおえーっ!」というフリークトーン。レコードで聞いていたのとは全然ちがう、野太い、ほんとに凄まじいようなフラジオの音を軽々と響かせるたびに、観客はのけぞる。いわゆるワイアレスのピンマイクではなく、テナーのベル(朝顔部)にアタッチメントを付けてそこに普通のワイアレスマイクを取り付けている。そして、ベルの横側にはもう一本のワイアレスマイクが……。これが何をするためのものかというと、時々、外して、歌う。ボーカル専用マイクなのだった。そういう「音に対するこだわり」は十分に感じられたが、とにかく音が太い。そして、でかい。「ボゲッ」という低音から、「バゴバゴバゴバゴッ」という中音域、そして、「ギャオエオエーッ」という高音、「ピーギョーエアエーッ」というフラジオの音域に至るまで、むちゃくちゃでかい音なのだ。
ライブ自体は、ビッグ・Jが説教師で聴衆を黒人教会の信者たちにみたてたゴスペルコンサートのようなノリで進んだ。「チルドレン……」と一曲ごとに語りかけ、その内容をローラーコースターの面々がおもしろおかしく(ほんとはこういう表現は使いたくないのだが)通訳するのだ。たとえば、ビッグ・Jは一人でぺらぺらと熱心にしゃべったあと、「トランスレイター!」と小出氏に呼びかけると、小出さんが「要するに、この世は女や、というようなことですな」と一言で片づけてしまい、ビッグ・Jが「ちゃんと通訳してとるんかい」と怒る、というようなギャグもあった。曲のリフのフレーズを、バックバンドが全員で大阪弁で歌ったり、単なるスターとツアー用バンドというのではなく、リハを重ねたレギュラーバンドとしての良さがあちこちに感じられた。
ライブはすごく長く、3時間ぐらいあった。しかし、それが長く感じられないほど、コンサートの密度は高かった。ビッグ・Jは、ものすごい集中力だったし、手抜きということはいっさいなく、吹いて吹いて吹きまくり、歌いまくり、踊りまくり、しゃべりまくった。そして、それをあおるローラーコースター。ライブのクライマックスは、バンドがワンコードの曲を延々刻んでいる間に、一旦、舞台袖に引っ込んだビッグ・Jが、なぜか手袋をして再び登場すると、ステージと客席のライトが消された。すると、テナーサックスと手袋にオレンジ色の螢光塗料が塗ってあり、客席から見ているとテナーサックスと二つの手袋だけが闇の中に浮かんで見えるのだ。ビッグ・Jはそのままステージに寝転がってブローしまくり、観客はアゼンボーゼンということになった。聞けば、たった1曲のために、螢光塗料を塗ったサックスとブラックライト(白いものがボーッと浮かび上がる特殊なライト)を持ってきているらしい。さすが、芸人魂! アンコールがまた長く、延々何曲もやる。すごい体力で、とてもついていけませんわ、という感じ。ビッグ・Jは、何と69歳なのだ(当時。今は70歳のはず)。ブローテナーに年はない、ということか。最近、発売されたかつてのブローテナーたちのCD(シル・オースチンとかジョー・ヒューストンとか)が、かなりガタがきているのに比して、何というすごい体力、気力、音楽性であろうか。しかも、選曲的にも、かつてのヒットナンバーをやるだけではなく、最近の音楽を取り入れた新曲がほとんどで、ヒップホップやどファンクみたいなものも楽々とやってしまうその若さ! 例えば「ディーコンズ・ホップ」という大ヒット曲も、「ディーコンズ・ヒップ・ホップ」として現代流にアレンジしてしまうし、「ハーレム・ノクターン」(カムバック後の重要レパートリー。サム・テイラーの同曲をイメージしていると、ぶっとぶ。咆哮につぐ咆哮の「ハーレム・ノクターン」)もファンク調のアレンジ。こういう「新しいもの」へのあくなき探究心が、良いか悪いかは別として、彼の音楽をみずみずしいフレッシュな感性に満ちたものにしているわけで、しかも、そのルーツはしっかりブルースに根ざしているのだ。
終わったあと、難波の飲み屋でさざえの壺焼きをあてにビールを飲みながら、すごかった、すごかったと言い合ったのだが、「すごかった」という言葉しかその時は出てこなかった。あれから1年以上たった今、やっと冷静(でもないけど)に振り返る余裕が生まれたという感じ。あれ以来、Yは、何の予備知識もなく見たビッグ・Jを、人に「尊敬するミュージシャンは?」と聞かれると「ビッグ・J・マクニーリー」と答えるほどになってしまった(聞いた方は絶対に「誰、それ?」という顔をするらしいが)。今年の春に再来日の噂もあったが、どうやら流れた様子。ああ、もう一度見たい。そして、あの圧倒的なブローの奔流に身を任せたい。ビッグ・J・マクニーリー、いつまでもお元気で吹きつづけてください(ちなみにウォー・ホールは潰れて、もうないそうだ)。