kaoru abe

「MORT A CREDIT(なしくずしの死)」(ALM RECORDS AL−8,AL−9)
KAORU ABE SAXOPHONE SOLO IMPROVISATIONS

 この二枚組を聴くには勇気がいる。かなりしんどいことは聴くまえから十分わかっている。途中、音がなくなって、終わったかと思ったら、またはじまったり……とおよそ「商品」としての体裁を整えていない。しかし、これは阿部薫が残した音源のなかでも最高の水準にあるソロサックスだ。今回は久々にがんばって聴き通しました。でも、いつもは二枚組のうち、A−1だけで挫折、というか、腹一杯になって、そのあとは集中力が続かないことが多い。それぐらい重い演奏だ。でも、けっして「聞きにくい」演奏ではない。逆にすんなり耳に入ってくる。録音状態もいいし、阿部のサックスの音がギューンという感じでスピーカーから飛び出してくる。針を落としてしまえば、あとは快感なのだ。でも、その「針を落とす」までがしんどいんです。だれかがどこかで書いていたが(ちょっとぐらい覚えとけよ)、聴くのがしんどい演奏はダメな演奏ではない、耳になじむ、耳にすんなり飛び込んでくる演奏が良い演奏とは限らない。たしかにそうだ。しんどいから、何年に一回しか聴く気になれないレコードを私はいろいろ所持しているが、どれも大切なアルバムばかりである。もちろん本作はその筆頭ですけどね。いわゆるポップスとか歌謡曲は、もちろんどれもめちゃめちゃ聴きやすいわけだが、そんなんばっかり聴いていたら、耳が衰えるのではないか、と思う。ジャズも一緒。ピアノトリオがブームらしいが、そんなにピアノトリオのスタンダードばっかり聴いてたら、飽きると思うんやけどなあ……まあ、好きずきですが。さて、最近、某所で阿部のソロの映像を見て、めちゃめちゃ感動した。いやー、あれはびっくりした。というか、映像を見て、阿部のアルバムの聴き方がそれまでとは変わってしまったような気さえする。このアルバムも、そうか、阿部はきっとこんな感じで吹いていたんだな、と頭のなかに彼のマウピのくわえかた、アルトを構えた姿勢、その目線、面構え、演奏中の動き、フラジオを出すときや、低音を出すときの感じ……いろいろなものが浮かぶのだ。ようやく、阿部薫の「音」と「肉体」が私の頭のなかでひとつになった、というか……うまく言えないが、そんな感じなのです。だから、今こそ、阿部薫なのである。そういえばその昔、阿部薫読本が出たあとだったと思うが、(まだデビューまえの)私がどこかに書いた阿部薫の即興に関するけっこう長い文章がどこかのだれかの目にとまり、今度出す阿部薫関係の本に収録したい、という手紙(だったと思う)をもらったことがある。すごく喜んだが、結局その本は出なかったように記憶している(もしくは形を変えて出たのだが、私の文章は収録されなかったのか)。

「WHAT BEYOND」(KING HARVEST)
阿倍薫

 一部では、この時期こそが阿部薫の絶頂期といわれているようだが、私はあまりそうは思わない。たしかにサックスの「音」の説得力というか凄みはいちばんあると思うし集中力や持続力(パワー)も凄まじいが、若さに任せて直情的に吹きまくっているという印象もあり、やはりこれに続く時期、あるいは晩年のよれよれの状態のほうに深みを感じる。このころは阿部薫の最大の個性である「間」よりも、音を噴出させ、重ねていくというほうに重点が置かれているように思う。このあと、阿倍の音楽からはどんどん無駄な音が削られていき、まさに和ジャズとしか表現しようのない、ワンアンドオンリーの世界が極められていくのだ。もちろん本作の演奏はすごいけど、絶頂期とは思わんということです。あと、ライナーに阿倍薫の使用楽器として、マウスピースがメイヤーの五番かオットーリンクのメタルと書いてあるが、私の知ってる限りではたいていセルマーのジャズメタルを使っているように思うが……。

「LAST DATE」(DIW RECORDS DIW−335)
KAORU ABE

阿部薫が亡くなるほんの少しまえ、北海道でのライヴ。よく、阿部薫は中期〜晩年の演奏がもてはやされているが、そのころはクスリでぼろぼろでまともな演奏ではない、阿部のいちばんすばらしかったのは初期の演奏でそれをきかなければ彼のほんとうの云々かんぬんどーたらこーたらという意見があり、なるほど御説ごもっともで、初期の演奏はたしかに力にあふれているし、音もよく鳴っているし、とにかくずーっと吹いている感じだが、それはクスリがどうのこうのという問題ではなく、阿部のスタイルの変遷だと思う。後期にいけばいくほど「間」をいかした演奏が多くなってくるし、それによって阿部の個性というかワンアンドオンリーの音楽が確立されていってると思う。そういう部分も、「間をあけるのは、クスリのせいで吹けないのだ。俺はライヴで見たから知ってるのだ」というわけだが、ちょっと待て。クスリをやってようが酒を飲んでいようが病床にふせって寝たきりで吹いていようが逆立ちして吹いていようが、ええ演奏やったらええのである。本作は、たしかに空白の部分もけっこうあるが、それが期せずしてか計算か芸術の神の気まぐれか阿部の天才ゆえかとにかく絶妙の緊張感を生んでおり、そこで繰り広げられる演奏は、剣豪が太刀で一閃するような気合いに満ちている。リラックスしたものではなく、緊張のボルテージのペダルをぐいっと踏み込んだような、異様で異形な世界観のなかで、微細な音から轟音までのダイナミクスを駆使して、あざといすりよりも恐れず、そのとき思ったように吹いた記録がこれだ。そういうことについても、構成力がなく破綻しており適当に吹いているだけだ、ダレてる箇所もあるじゃないか、と反論があるかもしれないが、それのどこが悪いのかと思う。禅宗に、すべてのものは自然のままに完成されている、という言葉がある。すべての即興はそのままで完成している、ともいえるのではないか。とか書くと、あーあ、結局ひいきのひきたおしで、阿部薫が吹いてたらどんなことでもいいって言うんだろ、やっぱり即興演奏というのはその善し悪しをちゃんと評価しないととかいう声が聞こえてきそうだが(空耳?)、そういうたぐいのことを言いたいのではない。音質も上々で、でかい音で聴くとめちゃめちゃ心地よい。少なくとも私はこれが死ぬ直前の演奏とは思えない。初期だとか晩年とか関係なく阿部薫はずっと阿部薫だったのだ。2曲目のギターとか3曲目のハーモニカは、これまたいろいろ批判するひとがいるが、私は好きです。ギターの弦をひと弾きするときのテンションは、アルトに息を吹き込み、鳴らすときのテンションと同じだと思う。ギターやハープを、サックスと同列に論じるなと言われたら、そりゃまあそうです、と答えるしかないが、私はめっちゃ好きであります。テクニックがない、とか、稚拙だ、とか、それ、いまさら言う? と私はうんざりぎみに答えるしかない。サックスのように自由にスクリームしたりブロウできないだけに、逆におもしろい部分もあるし、表現がシンプルでいいですよ。ハーモニカは、必死で崩そうとしても楽器の特性上、どうしても叙情性のある音階になるあたりも、じつにしみじみとおもしろい。めっちゃええアルバムやんか!

「阿部薫・井上敬三・中村達也 LIVE AT 八王子アローン SEP.3.1977」(DIW RECORDS DIE3044)
阿部薫・井上敬三・中村達也

 副島さんが主宰したライヴだそうで、副島さんがカセットで録音していたものが音源だというが、そんなことをまるで感じさせないぐらい音質良好、迫力十分。全部で20分弱しかない、1曲だけのアルバムだが、ほかの演奏と組み合わせて、一種のオムニバスとして出すよりは、この1曲に絞ったアルバムにして正解だったと思う。アルトふたりにドラムという編成(?)で、中村達也は終始うるさいぐらいパワフルに叩きまくるが、ふたりのホーンプレイヤーはそれを上回るぐらいの気合いで吹きまくり、あっという間の20分である。内容はすばらしく、当時井上敬三は55歳だったはずだが、まったく躊躇なくまっすぐにブロウしていて感動的である。ときどき阿部薫を食ってしまうような勢いがあり、その熱気はすべて音に出ているではないか。そして阿部薫はほんとうにすばらしい。この音……高音部の、繊細だが超パワフルという矛盾するものを両立させているこの凄い音がシャワーのように振り撒かれたり、観客の心臓を直撃したり、共演者の音とぶつかったり、それをかいくぐったりして、ライヴハウスのなかをアルトの音色の糸が蜘蛛の巣のようにびっしりと張り巡らされたような状態に変えてしまう。ただならぬスピード感のある音で、いやもうほれぼれする。演奏の展開は、いわゆるフリー系のセッション、というやつで、めちゃくちゃのでたらめのようだがじつは一種の構成感があり、3人が探り合いながらもなんとなくある種の道筋があって、それがインプロヴィゼイションにおけるお約束というか予定調和を感じさせるものなのだが(今でもそういう演奏は多いと思う)、この三人(とくに阿部薫)はそういったものを突き破ろうとする姿勢が感じられ、とてもスリリングだし、馴れ合いとかとは無縁の演奏だと思う。とにかく、冒頭のドラムのやかましさと、そこに突入する井上のテンションの高いブロウを聴いてくださいよ。この井上敬三の「やる気」がこの演奏を最高の空気で最後まで持っていた要因だと思う。昂揚する井上のアルトのさらにうえを行くように(実際、音程的にはかなりのハイノートで飛び込んでくる)ぶちかましてくる阿部薫が、演奏をさらに高みに引き上げる。演奏の展開は、事細かくライナーノートに書いてあるが、あまりに詳細なので、先に読んでしまうと、それに合わせた聴き方になるので、あとで読むほうが無難かも。とにかく、よく出してくれた、感謝それしかありません。こういうタイプの、熱血な演奏が古いとお考えの向きは聴かなくてもいいけど、私はこの演奏は時代を突きぬけて古びないものだと思います。一応、最初に名前の出ている阿部薫の項に入れておく。

「19770916@AYLER,SAPPORO」(DOUBTMUSIC DMH−171)
KAORU ABE

 実は、あるひとからまえにこの音源を私的に聴かせていただいたことがあるのだが、そのとき強く思ったのは、「これが正式に発売されたらどんなにいいだろう」ということだった。それぐらいすばらしい演奏で、おそらく「晩年の阿部薫」像を覆すようなものなのだ。いや、晩年に限定せず、我々の「阿部薫」像を覆すものかもしれない。阿部薫に関して賛否があるのは当然で、ネットでも「阿部薫についてほめているやつはまったくわかっていない」的な意見を見かけることはあるし、好意的なひとでも、「後期の阿部薫はクスリと酒でぼろぼろで、まったくよくない。そういう演奏を持ち上げるのはわかっていないやつ。阿部薫は初期の演奏こそ……」というような意見も見かけるが、私はまーーーーったくそう思わない。ひたすら吹きまくっていた時期に比べ、後年にいたるに従い、どんどん間をいかした、絶妙の即興になっていき、ほとほと感心……というと上から目線のようだが、あまりにかっこいいので嘆息するしかないような演奏になっていく。それを円熟といっていいのか、なにしろ28歳だから、このあとどんな風な展開があったのかわからないが、少なくとも「とんでもない28歳」であることは断言できる。そして、ここに亡くなる一年前の北海道のアイラーでのソロが登場したが、これこそ私の考えを裏付けするような、めちゃくちゃかっこいい演奏なのである。「かっこいい」という薄っぺらい言葉をわざと使っているのは、こういう演奏を神格化したくないからで、ここに聴かれる阿部薫のソロは、コールマン・ホーキンス、ドルフィー、ロリンズ、ブロッツマン、デヴィッド・ウェア、チャールズ・ゲイル、クリス・ピッツイオコス、広瀬淳二、エヴァン・パーカー、カン・テーファン……(まあ、なんぼでも続けられるが)といった即興サックスソロの系譜のなかでも、独自性を世界に主張しているすばらしい演奏だと思う。1曲目の冒頭から、切り裂くようなフレーズをノイジーにぶち込んでくるが、正直「奏法」としてはそれほど特殊な、独特のことをしているわけではない。しかし、「人間」が「管楽器」を吹く、という肉体的、物理的行為のうえでこれほど「精神性」を感じさせることができるのか……というのは驚異であり、しかも、この切迫感、というか、一期一会的な、もう、このあとはない、という焦燥感とでもいうべきひりひりするような空気は、我々がドルフィーに感じるものと一緒だと思う。ドルフィーとは、奏法的にも音色的にもフレーズ的にも共通項はほとんど感じないのだが、この切迫感、緊迫感はめちゃくちゃ似てる。精神性、などという茫洋とした言葉は音楽レビューで使うべきではないのかもしれないが、たとえば2曲目にあるものすごくたっぷりした「間」を即興演奏家として恐怖心なくぶつけてくる境地にあったこの晩年の阿部薫のソロは(だれでも、ものすごく長い無音の部分があったら考えますよね)、本当に「録音されていてよかった……」と思う。たとえば、チャーリー・クリスチャンのミントンズハウスのライヴのように。3曲目の冒頭のロンリー・ウーマンなどは、ソプラノ(ニーノ?)をひたすらグロウルしながら吹いたり、美しい高音部を駆使したりと自在に吹きまくっていて、サックス奏者としての基本的な実力をまざまざと見せつける。晩年の阿部薫があかん、という説のひとはこのしっかりした演奏をちゃんと聴いてほしい。話をもとに戻すと、この演奏は評論家によっていろいろ分析され、評価されるとは思うが、今の時点(あくまで私の個人的な感想)としては、「もうとにかくめちゃくちゃ超かっこいい!」ということに尽きる。よくぞ出してくれました。関わったすべてのひとに感謝します。どの曲も、終わると同時に拍手が来るのだが、私も聞きながらその箇所で思わず拍手してしまう。そんなライヴ感あふれる演奏です。ぜったい楽しめるから聴いてほしい。傑作!

「MANNYOKA」(NO BUISINESS RECORDS NBCD107)
KORU ABE/SABU TOYOZUMI

 いったいこのタイトルは何語なの? と思っていたが、そうか「マニョーカ」じゃなくて「万葉歌」か。阿部薫が亡くなる年の二カ所のライヴが収録されていて、とくに一か所目での演奏は亡くなる一カ月まえのもの。阿部薫というと、即興中に自然に生じる「間」をいかした、独自のインプロヴィゼイションを行い、それに個性的な音色や絞り出すようなフリークトーンなどがあいまってワンアンドオンリーな世界を形作っている……というイメージがあり、また、晩年になるほど、精神的なものを感じる音楽になっていってる感があるが、本作は最晩年にもかかわらず、かなり「普通のフリーインプロヴィゼイション」だと思う。「普通」が悪いわけはもちろんなくて、共演の豊住芳三郎との相性もあってか、超ハイレベルな演奏が延々と繰り広げられていて聴きごたえ十分である。なんというか、どんな難解な音楽だろう、と聴くほうが身構えなくても、ものすごく普通に盛り上がる、ということだ。阿部は(何度も書いたことだが)サックスの奏法上はなにも複雑な、高度なテクニックを駆使しているわけではなく、音圧、フリークトーン、グロウル、フラッタータンギング、ダブルタンギング……そういったシンプルな技術を組み合わせているだけである。それなのにこれだけ迫真の「音」が我々に迫ってくる……というのはやはり「精神性」という言葉を持ち出すしかない。といっても、それはスピリチュアルな意味合いとか思想的な意味合いとかではまったくなくて、気迫によって人間は、人間の肉体はこれだけの崇高で感動的な音楽を作り出せるのだ、ということだ。といっても、阿部薫の演奏は「音楽は技術や知識じゃない。気合いと根性だ」などと言ってるわけではなく、その真逆のものだと思う。いつ死んでもいいという気持ちで肉体とサックスを一体化させ明日のことなど考えることなくひたむきに吹いている……ことは否定しないが、同時に演奏全体を覚めた目で凝視しているクールな阿部の視点もちゃんとあるのだ。ただの偶然の積み重ねてでできている音楽ではない。ダイナミクスも周到に用意されていて、「そんなのたまたまだろ?」という意見をはねのけるだけの成果が上がっている。それらを実現するには、自分の楽器への理解と習熟がどうしても必要なのである。クスリと酒でぼろぼろのやつにこんな集中したテクニカルな演奏ができるわけがない。本作での阿部はこの時期の演奏としてはあまり「間」も少なく、ゴリゴリ吹いている場面が多い(とくに7月の演奏のほう)。こういうアグレッシヴな演奏でも、阿部の「音色」はきわめて魅力的で説得力がある。あと、自身が重要視していた「スピード」もここではとにかく滅茶苦茶速い。冒頭の1音目から、ダレる暇もなく、びゅうううん……と突っ走り、終了する。1月のほうの2曲目などのように、大きく「間」をあけた演奏でも、スピードを感じることができるのはいつものとおり。このアルバムでの阿部薫はおそらく(フリーインプロヴィゼイションが苦手だというひとも)だれでも楽しく聴けるだろう。楽しく、というのは、くつろいで、とか、ノリノリで、とかいう意味ではなく、すぐれたほかの前衛芸術と同様に、真摯に味わえるだろう、ということである。一本調子の演奏はなく、ちゃんと曲調もバラエティにとんでいて、客の興味を引くように工夫している(と思う)。録音もものすごくよくて聞きやすく、こういう演奏が録音されていて、こうして世に出る、ということは本当にありがたい。豊住さんのドラムも、阿部の最良の相棒としての傑出したプレイで、「ふたりでひとつのキャンバスを塗っている」という感じ。このふたりは、どれだけスピードがあっても、ぎゃくにどれだけ無音の部分があっても、まったく動じることなく、確信をもって演奏できるコンビネーションなのだ。いや、しかし、ほんまにダレんなあ。ジャケットも秀逸。阿部薫を聴いたことがない、というひとがはじめて聴くにもいいかも……とさえ思ってしまう(「なしくずしの死」とか「解体的交感」とかをさしおいて……)。アルトとソプラノのほかにニーノも吹いているらしいがよくわからん。めちゃかっこいい、濃密極まりない1時間。マジ傑作だと思います。ときどきネットで「阿部薫は偽もの」「阿部薫をほめるやつはわかってない」「阿部薫を神格化するな」……という意見を見かける。最後の「神格化するな」というのはまったくそのとおりだと思うのだが、阿部薫のサックスプレイヤー、フリーインプロヴァイザーとしての真価が、阿部にまつわるエピソードとかのせいで見えていないのだとしたら残念ですね。神格化もなにも、このアルバムに収められている「音」を聴けば、そのままストレートに「音」として「音楽」として受け止めるしかないと思うけど。

「STUDIO SESSION 1976.3.12」(メモリーエフ企画 POCS−9344)
阿部薫

 阿部薫晩年のソロ。しかもスタジオ。つまり、公開を前提にした演奏ということである。1曲目はピアノで、ライナーには、かつての阿部はライヴではピアノやギターを使うことはなかった、使い出したのは体力的な限界に付きあたっての痛ましい選択である、とか、彼がセイル・テイラーばりのピアノを弾きデレク・ベイリーばりのギターを弾こうがそれは彼の余技、と斬り捨てており、「私は、パーカーとドルフィー以外の主だったアルト・サックス奏者をほとんどライヴで聴いているが、阿部薫のライヴ演奏を上回る衝撃を残念ながら一度たりとも受けることはなかった」とあり、阿部薫に及ばない海外のビッグネームの名前をずらずらと書き連ねているが、このライナーの著者は「お気の毒様」としか言いようがない。1曲目のピアノソロ……ええと思うんやけどなあ。2曲目、3曲目の痛々しいというかとげとげしいハーモニカも、なるほど、この場でこう吹きたかったのだな、とめちゃくちゃ納得する。ハーモニカからはそんなにエグい音は出ないのである。それを必死で引きずり出そうともがく阿部薫は痛ましいがものすごくその気持ちはわかるのだ。なんというか……このちっぽけなおもちゃから美しく、あどけない音を引き出そうととしたら、グロテスクな、でも美しい音が引きずりだされてきた……そんな感じか。あるいはその逆か……? 4曲目以降はアルトのソロ。多くのひとはこの頃の録音を聴いても阿部薫の凄さはわからない、全盛期の演奏を聴かないと……みたいなことを言うが、私は晩年の演奏が好きであります。ライナーノートによると、本作は阿部薫としては珍しくスタジオ録音でしかもトリオレコードというメジャーからの発売だということで、録音はしたものの、もっと凄い演奏を理想とした阿部薫もしくはプロデューサーの意向によって発表が見送られたもの、ということだ。その気持ちは痛いほどわかるのだが、もっといい演奏をしよう、これまでやってきた殻を破り捨てよう、と真剣にもがいている姿を皆にさらしながら、音を絞り出している。模索に模索を重ねたその先に出てくる一滴の清水のような「音」がなんとも貴重だ。そして、このおっそろしいぐらいの長い「間」は本当に凄いと思う。マジで吹かないんだもんなー。ラストの6曲目はなんと44分にも及ぶ演奏で、圧倒させられる。よくそれだけ集中力が続いたなあと思う。後半になればなるほどどんどん研ぎ澄まされたような演奏になっていく。フリージャズとかフリーインプロヴィゼイション的な演奏をパワーミュージックというか、でかい音でギャオーッとスクリームしないのはダメ、と思ってるひとにとっては、昔の阿部薫のフリークトーンをガンガン使う演奏に比べると衰えている、やりたいことができていない……と思うのかもしれないが、阿部薫はここで(ライナーにあるように体調のせいで思うように吹けず)へろへろ吹いているのではなくて、完全に狙って、フレーズと長い「間」を組み合わせることで表現しようとしていると思う(途中で何度もフリーキーに轟音で吹く箇所があるのが証拠でしょう)。私はこのころの阿部薫が好きです。でも、帯にある「3枚のみ残されたスタジオ・レコーディング」というのはどういうことかな。「彗星パルティータ」とあと1枚はなんだっけ。まさか、ミルフォード・グレイヴスのやつとデレク・ベイリーのやつか? でも,それだと4枚か……。

「アカシアの雨がやむとき」(メモリーエフ企画 POCS−9335)
阿部薫+佐藤康和デュオ

 愛聴盤です。71年の東北大学でのライヴ。佐藤康和というのはYAS−KAZさんのことである。3曲収録されているがどれも長尺で、全部で70分ぐらいあるだろう。そして、珍しいことに全曲既成の曲をテーマにした演奏で、純粋な即興はない。1曲目は「アカシアの雨がやむとき」、2曲目は「チムチムチェリー〜暗い日曜日」のメドレー、3曲目は「ラヴァー・カムバック・トゥ・ミー」でいずれも阿部薫の愛奏曲。1曲目はバスクラリネットでのソロにはじまり、これがけっこう朗々とした太い音色での演奏で、演歌っぽいペンタトニックをベースにして吹いていることもあって、ちょっと笑ってしまうほほえましさがある。それはすぐにノイズ的なフレージングのなかに埋没していくのだが、基調にはずっとこの民謡っぽさというか演歌っぽさが感じられる演奏。テーマティック・インプロヴィゼイションというか、要するに曲のテーマの変奏としての即興なのである。佐藤康和のパーカッションはパワフルで鋭く、阿部の共演者としては本当に適任だと思う。普通のドラムセットではなく、金属板みたいなものを使っているのだと思う。阿部薫のバスクラは普通の意味で非常に上手く、表現力も豊かで、このひとがよくネットで揶揄されているような「偽者」でないことを示している。基本的にきちんと管楽器が吹けるひとなのである。最後はちゃんとテーマに戻って終わる。2曲目はアルトで、激しいデュオではじまり、そのノイズのなかに早い段階で「チムチムチェリー」のテーマが現れるところから考えて、最初から「チムチムチェリー」をやろうと思っていたことがわかる。音色もたくましく、フリークトーン連発の凄まじい演奏で聴いていてめちゃくちゃかっこいいし興奮するが、晩年のあの「間」はここにはない。性急である。世界中でこういう演奏(パワーミュージック的なフリージャズ)を志していたひとたちが大勢いたことを考えると、ここでの阿部は彼らのなかのひとりだが、こののち晩年に至る期間に高みにのぼりつめ、ワンアンドオンリーの表現をするに至ったと少なくとも私は思っています。途中で一旦終わり、ハーモニカに持ち替える。ハーモニカとパーカッションは息ぴったりで、絶妙のデュオである。ハーモニカのソロも壮絶。そのあとアルトになり、「暗い日曜日」になるが、ハーモニカとは比べ物にならないほど「好きに吹ける」という感じが伝わってくる。逆に言うと、ハーモニカやピアノなどは「好きに吹けない(弾けない)」から使っていたのだろう。阿部薫は常日頃、「誰よりも速くなりたい」「スピード感がもっと欲しい」と言っていたそうだが、たしかにここでの激烈なブロウは速く速く、もっと速く……という焦りのようなものを感じる。このやり方では「誰よりも速く」なれない、と悟った阿部薫が選択したのが、あの晩年に顕著な、ものすごい「間」を置くプレイだったのではないか、最高のスピード感を得るためには逆に「間」を開けなくてはならないのだ、という境地にたどり着いたのではないか……なーんちゃって、そんなことを考えたりしました。たとえばデクスター・ゴードン(阿部薫について述べるのにデクスター・ゴードンは変かもしれないが)のあの異常なまでにレイドバックした晩年のノリは、もたっているのではなく、めちゃくちゃスピード感があるからこそできることで、同じことが阿部薫の演奏にも言えるのではないか。3曲目のラヴァカンは、まるでジョニー・ホッジスのような朗々とした中音域〜高音でテーマが演奏され、阿部薫のアルト奏者としての一般的な意味での力を示している。こういう感じの音を晩年、出さなくなったために、阿部薫は衰えたという意見があるのだろうと思うが、スピードの話のところでも書いたけど、要は吹き方というか演奏に対する姿勢を変えたのだと思う。より自分に忠実な、ナチュラルな演奏をしようとしているように思える。ここでの若さみなぎるパワフルな演奏もすばらしいが、晩年のものに私はひかれます。でも、この3曲目は本当に凄まじいですね。もっと速く、もっと速く……でも俺の思う速さはこんなもんじゃないんだ……という心が現れているような気がする。一瞬たりとも弛緩する瞬間のない、えげつない緊張感が続く。パーカッションとも息ぴったりで、この3曲目が本作の白眉だと思う。よく録音されていて世に出た……と思う。ありがたやありがたや。傑作です。

「北〈NORD〉」(KOJIMA RECORDINGS URCD−5)
ABE・YOSHIZAWA DUO ’75

「なしくずしの死」の録音時に録音された音源で、「なしくずしの死」が阿部薫のソロだけを集めたものであるのに対し、本作は吉沢元治とのデュオ。正式な録音なので音もめちゃくちゃいいし(なぜか3曲目の途中で右左の立ち位置が入れ替わるが、これは録音場所が違うからだと思われる)、演奏もすばらしい。とくに吉沢のベースは凄くて、クールで、温かくて、繊細で、大胆で……さまざまな要素が詰まっていて聴き惚れる。カセットでダビングしてたら「曲間」と判断されて録音がとまってしまうぐらいにものすごく「間」をあける無音の部分などもあり、75年という時点で吉沢元治が世界的なレベルのインプロヴァイザーだったことの証明である。このふたりはお互い影響を与え合っていたのだろうと思った。阿部薫の音のほうが若干大きく録音されていることもあって、阿部主導の演奏のように聞こえるかもしれないが、実際は完全に対等。それも呆れるほど対等だ。ベースという楽器は、どうしても伴奏をしたくなる、というか「受け」に回りたくなるようなイメージがあるが、ここでの吉沢はまったくそういうことがなく徹頭徹尾攻め続けている。それでいて、ガリガリした鋭角的でヒステリックな部分のないこんな豊穣な音楽ができあがるのだから、やはり阿部薫との相性は抜群だった、ということだろう。阿部薫の真剣極まりない、えげつない集中力でのこのストイックなプレイを聴いて心を動かされないものがいるだろうか。この演奏を聴いておそらく当時の聴衆が抱いたのは、この先、この奏者はいったいどんな境地にまで達することになるのだろう、という恐ろしいような期待感だろう。しかし、それはこの3年後、いきなり切れてしまった。プツン……と。恐ろしいほどあっさりと。本作は上昇途中だった阿部薫の魂がこもった貴重な録音である。我々には、ここから先、阿部薫がどんな音楽的遍歴をたどり、高みへと進んでいったか……を夢想するしかないのだ。阿部薫を神格化するな、という意見がある。だが、正直、神格化などできないのだ。なぜなら、どう聴いてもこのひとはまだ発展途上だったから。ドルフィーがそうだったように。ラストの展開も超かっこいい。昨日、なってるハウスでの録音、と言われたら信じてしまいそうな「今」な演奏だと思う。私が学生のとき(つまり阿部薫の死後)に発売になったアルバムだが、当時は金がなくて買えなかった。傑作。