art ensemble of chicago

「BAP−TIZUM」(KOCH JAZZ KOC−CD−8500)
ART ENSEMBLE OF CHICAGO

 AECの諸作のなかではいちばんすきな何枚かに入る。ECMに移ってからの何枚かが彼らの転機になったような気がする。つまり、すっきりしているのだが、彼らのもつある面が強調されて、かつてのぐちゃぐちゃした混沌のなかからはっきりした主張をもって浮かび上がるそれぞれのソロ……みたいな部分とか、過剰さ、過激さ、諧謔精神……みたいなものが薄まったように思う。えーと、じつはECMのやつも大好きなんですが。それにライヴではその後もまったく変わることなくおもろい演奏を繰り広げていたのですが。だから、ここに書いていることはあくまでアルバム上は……ということだ。で、この「バプティズム」だが、彼らの最高の部分がぜーーーーーんぶ発揮されたすばらしい作品だと思う。私は、ロスコーやジョセフ・ジャーマンは少なくともサックス奏者としてはあまり「すげー」とは思わない。もっとはっきり言うと「楽器、鳴ってないなあ。音、しょぼいなあ。下手やなあ」と思ってしまうのだが(トータルミュージシャンとしてはもちろん最高だが)、ここでのふたりの演奏は、なぜか音も太く、文句のつけようがない。レスターのあいかわらず皮肉なソロを繰り広げ、ドン・モイエもめちゃめちゃかっこいいし、マラカイ・フェイバーズもベースだけでなくいろいろと大活躍……というわけで、ああ、こんな演奏がしてみたい……と心から思わせてくれる、あこがれの羨望の最高のアート・アンサンブルの一枚なのであります。

「FUNDAMENTAL DESTINY」(AECO RECORDS AECO008)
ART ENSEMBLE OF CHICAGO LIVE AT THE FRANKFURT,GERMANY JAZZ FESTIVAL WITH DON PULLEN

 89年のライブで、ゲストにドン・ピューレンが入っている。一曲目の「苦悩の人々」がいちばんぞくぞくわくわくする、私の一番好きなタイプのAEC。あとは、ちゃんとした曲が多く、こういうのは一種のパロディとしてやるのは好きだけど、あまりに正面切ってやられると、ちょっと引く。ECM以降のAECは、こういう曲を照れずに(?)どんどんやるようになった。でも、悪くはない。一曲目みたいなタイプの曲が、聴くほうの想像力をいちばんかき立ててくれる、ということである。ドン・ピューレンは、昔からのレギュラーのように、メンバーに溶け込んでいて、引くべきところは引き、はじけるべきところははじけていてさすがである。そして、特筆すべきは、ジョセフ・ジャーマンとロスコー・ミッチェルのテナーがかなり鳴っていることで、これは録音のせいなのかなあ、とにかくすごく迫力があるように聞こえる。私のこの二人の印象は、AECを聴いても、ソロアルバムを聴いても、「サックス、ヘタくそ」というものであったが、本作を聴いて、やや考え方が変わった。しかし、このアルバムで一番かっこいいのは、なんといっても一番最後のメンバー紹介。ファラオの「ライブ」みたいにかっこいいから、ぜひ聴いてみてほしい。

「THE SPIRITUAL」(BLACK LION BLCD760219)
ART ENSEMBLE OF CHICAGO

 まだ、ドン・モイエが参加していないころの4人による演奏。このころのほうが自由度だ高い。ただ、手探りの部分もあり、ひとつまちがうとダレた感じになるのも、アート・アンサンブルのファンならよくご存じ。ECM以降は、そういった部分をうまく自分たちで編集して(録音したものを、という意味ではない。演奏しながら編集しているわけです)、完成品を聴かせようという態度も見られたが、このころのAECにはそんな心配(?)はない。本作でも、たっぷりとダレたところを残してくれている。もちろんそのかわり、びっくりするほど高いところまで行ってしまう演奏もあって、そういう振幅の広さがこの当時のアート・アンサンブルを聴く楽しみだろう。私はもちろん大好きです。とにかく聴いていて、心遊ぶというか、一緒に演奏している気分にさせてくれる。ダレたときは、一緒になって、これをなんとかしなくちゃ、と心配し、うまくいってるときは、うわー、これ、このあとどうなっちゃうの、と興奮する。予定調和のかけらもない、ある意味、後年のラーロッパフリーインプロヴィゼイションよりも精神的には自由だったかもしれない。遊び心満載の演奏です。

「ANCIENT TO THE FUTURE」(DIW RECORDS DIW−8014)
ART ENSEMBLE OF CHICAGO

 これはなあ……アートアンサンブルは以前から「グレイト・ブラック・ミュージック(太古から未来まで)」を標榜していたわけだが、それはあくまでアートアンサンブルの音楽として消化し、昇華したものであった。本作のように、ブラックミュージックの過去から現在までの代表ナンバーをガチで演奏するというのははじめてではないか。アルバムのなかに一曲とか二曲、たとえばビバップ的な演奏やニューオリンズを思わせる演奏をすることはあったが、それは一種のパロディのように聞こえた。本作は、あまりにストレートに楽曲に取り組みすぎて、ヒットメドレーみたいになってしまっている。正直言って、庵とアンサンブルの良さは「ヘタウマ」なところであって、こういう風に未消化のまま有名曲を並べ立てると、下手さが前面に出てしまい、ちょっとつらい。いいところもいっぱいあるのだが、いつものアートアンサンブルのように「心遊ばせてくれる」、というところまではいかないのだ。なかなかむずかしいものですね。1曲目のAECオリジナルの曲がやはりいちばんしっくりくる。ただ、彼らの意気込みというか狙いはよく伝わってくる。あらゆるブラックミュージックを俯瞰して、それをチョイスするところまではいいが、それらをAEC流に再構築する、というあたりが未完成だったかも。「ドリーミング・オブ・ザ・マスターズ・シリーズ」の第一集というおおげさな副題がついている。

「URBAN BUSHMEN」(ECM RECORDS PAP−2057〜8)
THE ART ENSEMBLE OF CHICAGO

 ECMのアートアンサンブルの作品では「フル・フォース」がいちばん好きだったのだが、最近聴き直してみたら、やや考えがかわって、本作がいちばん好みかもしれないと思うようになった(しかし、そのあとで「フル・フォース」を聞き返したら、やっぱり「フル・フォース」一位はゆるがんなあ、とも思った。つまり甲乙つけがたい出来なのだ)二枚組で、この当時の彼らのライヴをそのままパッケージしたに近いと思うが、つまり当時このグループのもっていた圧倒的な実力がそのまま丸ごと味わえるのだ。全体にきっちりしていて、バップ的なコンポジションもある「ナイス・ガイ」「フル・フォース」にくらべ、いかにもアートアンサンブル的な自然発生、遊び心満載、リズム超強力のインプロヴィゼイションがたっぷり聴ける。ライヴの場で、これだけ「なーんも決めていない」即興をガーンと披露するというのはかなりの自信と根性がいると思うが、そこはそれ、長年こういうことを続けてきた手応えというか老練さもあるのだろうが、こんな風なヘタウマ的即興をやらせたらAECの右に出るものはいない。正直、私がグループとしていちばんあこがれ、真似をしたい、こんなふうにやりたい、と思っているのはアートアンサンブルおぶシカゴのです。でも、ぜったいにこうはいかない。即興主体になるか、コンポジションに頼るか……どうしてもこの絶妙で自然なバランスは無理だろう。本作は、パーカッションアンサンブル的な演奏も多いが、何度か生で体験した彼らの演奏でいちばん「すげーっ!!!」と思ったのはやはりなんということもないでたらめから出発して大河のうねりのように発展していく、ある意味稚拙で児戯に等しいようなプリミティヴなパーカッション(とか笛とか)によるでたらめ即興(と言ってしまうと誤解が生じるだろうが)である。ほんとにすごいんだからねっ。もう、生で見たら感動ものですよ。なーんとなく、ふっとはじまった「その場にあった木と木を叩きあわせる」ようなパーカッション演奏に、アフリカっぽい、音階も多くないような土着の笛で素朴なメロディを乗せるような即興が、異常なまでのグルーヴをともなって延々とつづき、ああ、このまま永遠に終わらないでほしい、と聴いていて思ってしまうのだから、この連中はすごい。ほとんどが故人になってしまったが、アートアンサンブルを生で何度か体験できた、というのは私の人生における大きな財産になっているし、本作はそれを追体験できるという意味で大事な大事なアルバムなのだ。

「FULL FORCE」(ECM RECORDS PAP−9222)
ART ENSEMBLE OF CHICAGO

 めちゃめちゃ傑作じゃないですか? このアルバムがでたとき(はるか昔の話やなあ……)はじめて聴いたときには、あまりにかっこよくてスピーカーのまえでひっくり返りそうになった。一曲目から、アートアンサンブルの本領発揮しまくりの即興で、もうビビるほどかっこいい。そうなのだ。アートアンサンブルはかっこいいのだ。顔にメイキングをほどこしたり、妙な民族衣装や白衣を着たりした連中がステージ狭しとずらり並べた巨大楽器群のあいまでわけのわからない打楽器を駆使して即興を行い、それが次第に大きな波となり、うねり、狂い、ついには怒濤となって会場を襲う。そして、魔術にかかった聴衆を我に返らせるようなゴングの乱打。ひえーっ、かっこいいーっ。まさにジャズのかっこよさの頂点だと思う。本作はアートアンサンブルならではの即興演奏とコンポジションが見事に融合して、しかもレーベルのせいもあってか録音もよく、5人ともいきいきとして飛び跳ねているのがスピーカーの向こうから伝わってくるのだ。彼らの新境地といってもいいすばらしい演奏が繰り広げられている。AEC一代の最高傑作のひとつに数えることができる。A−3のバップ風の曲、B−1のニューオリンズ風の曲なども、彼らなりのジャズへのトリビュートならびに再構築だと思うが、「エインシャント・トゥ・ザ・フューチャー」なんかよりもずっと素直に聴ける。あとから考えるとこのECM期というのは絶頂期ではなく過渡期だったんだなあと思うが、本作をはじめ「ナイス・ガイ」「アーバン・ブッシュマン」の価値はいささかも削がれることはなく、いまだにジャズ史や即興史において燦然と輝いている。もう、めっちゃ好きなアルバム。みんなに聴いてほしいです。このあと、DIWでは、すごく面白そうな企画ばかり連発されるわりには、なかなかはまらなかった(レスターの個人アルバムは別)のが不思議といえば不思議。

「NAKED」(DIW RECORDS DIW−8011)
ART ENSEMBLE OF CHICAGO

 ここに聴かれるジョセフ・ジャーマンやロスコーのサックスの弱々しさはいったいなんだろう。もう歳だ? うーん、そういうことなのか。いつもはもっとはつらつとしている集団即興までがルーティーン化、パターン化しているように聞こえる。この当時の来日時の演奏を聴いたが、力のこもったすばらしいものだった。このアルバムはそういう時期に作られたはずなのに、なぜかメンバーの一体感もなく、個々のソロも、音色もなにもかも「べほーっ」としている。不思議だなあ。ひとり気を吐いているのはレスター・ボウイで、彼のトランペットはコントロールのきいた、すばらしいものだ。何曲か、チューンを演奏しており、たとえばAABAの循環っぽい曲なんかでソロ回しをしたりしていて、そのせいかとも思うのだが、たとえばECMのころや、それ以前でも、ここで聴かれるようなバップ的チューンやマイナーメロの曲を演奏したりしているし、そういったものは非常に力強さや前向きな姿勢、クリエイティヴィティも感じられるので、チューンを演奏しているからフツーのアドリブが苦手という面が露呈してしまった、という批判は当たらないと思う。やはり、本作はメンバーがどうにものらなかった、そういう空気のなかで録音されたのではないだろうか。同じくDIWから出ている日本でのライヴは悪くないのに、ほんとよくわからん。そういったところがまた、アートアンサンブルの魅力なのかもしれないが。まずはかつての傑作群をのきなみ聴いてから、聴くべき作品だと思います。

「PHASE ONE」(AMERICA 30 AM6116)
ART ENSEMBLE OF CHICAGO

告白すると、生まれてはじめて買ったAECのレコードである。さらに告白すると、いまだに本作がAECの最高傑作だと思っている。三つ子の魂……というやつだ。これを買ったのは高校生のときだ。名前は知っていたが、演奏はまるで聴いたことがなかったこのグループのアルバムを中古屋で見つけ、さんざん迷いに迷ったあげく、清水の舞台から飛び降りたつもりで購入。その決めては、山下洋輔のエッセイにおけるAECに関する文章と本作のジャケットのあまりのいかがわしさ、そして裏ジャケットに並ぶ、膨大な楽器の数(とくにマリンバが何台も並んでいる。あとドラもめっちゃ多い……)とそこに凶眼でこちらをにらむ若き日のレスター・ボウイ、バスサックスを吹くロスコー、バスーンを吹くジョセフの圧倒的存在感だ。これはなんだかわからないけど、聴かなかったら一生後悔するのでは……そんな思いでなけなしの金をはたいたのだ。そして、いまだにこのグループのファンでいる。家に帰って、どきどきしながら聴いた。そりゃそうでしょう。まったく知らない、未知の演奏に今から触れるのだ。どう考えてもいかがわしい、そして、もしかするととんでもなくすごい演奏かもしれないのである。A面B面それぞれ一曲ずつで、B面の「LEBERT AALY」という曲名はどうやらアルバート・アイラーのアナグラムらしい。どきどきしながら針をおろし……度肝を抜かれました。いやー、興奮したなあ。信じられない「宝」を見つけたような気分。もう、こちら側へは帰ってこられない、という橋をわたってしまったような気持ち。とにかく、ああ、これは俺の音楽だ、と思った。もう、めちゃめちゃはまった。しかし、その後、AECのアルバム(当時入手できたもの)を聴いても、本作のような感動がない。その理由は、当時買えたものは、「苦悩の人々」のような、ドン・モイエがまだ未加入で、しかも音が悪いアルバムだったので(AECの音楽は、個々の音がクリアに聞こえないと、ぐちゃっとだんごみたいになって、おもしろさ半減なのだ)、どうもいまいちぴんとこなかったらしい。じつは「苦悩の人々」は大傑作との評価が高いが、私はその後売ってしまったのである。もしかするとCDなら音質が向上していて良さがわかるかも、とは思っているのだが、まだ入手していない。まあ、そんなことはどうでもいい。本作は久しぶりに今回聞き返したが、聴くのをかなり躊躇した。というのも、もし、「しょうもなー」と思ったらどうしようという気持ちが先に立ったのだ。青春時代のいい思い出……で置いておけばよかった、とあとで後悔するのはいやだった。しかし、思い切って久々に聴いてみると……なーんだ、やっぱりめちゃめちゃ傑作やないの!安心した。やっぱりこのアルバムはええわー。最初から最後まで、ほんとうにすばらしい。もしAECのファンで本作を聴いていないひとはぜひ聴いてみてください。私は、個人的思い入れもあるが、それを割り引いても、相当傑作だと思いますよ。マジで。

「GO HOME + CHI CONGO」(FREE FACTORY)
ART ENSEMBLE OF CHICAGO

「ゴー・ホーム」と「チ・コンゴ」というアート・アンサンブルの比較的初期の作品2枚をカップリングしたアルバム。どちらもジャケットデザインがよく、とくに「チ・コンゴ」はかっこいいので、ほんとうはオリジナルジャケットで持っていたいところだが、そんなことを言ってたらいつまでたっても聴けない場合もあるので、最近は手早く買っちまう、ということが多いなあ。両作ともコンセプトに共通するところもあるので、カップリングしても違和感はない。「ゴー・ホーム」は、「ハロー・チ」という非常にスロー、かつ明るく素朴な曲調で幕開けし、2曲目は一転してアフリカ的呪術的なパーカッションとワンノートのベースに笛が鳴り響き鳥の叫びのようなヴォイスが飛び交う、アートアンサンブルの独壇場な世界。これこれこれですよ。3曲目はスウィングジャズっぽいブルース。レスターのデキシーっぽいトランペットとジョセフ・ジャーマンのヘタウマ的クラリネットがいい味をだしている。4曲目は集団即興。そして5曲目は1曲目の「ハロー・チ」に、アートアンサンブルといえばこのひと、というおなじみのフォンテラ・バスがボーカルで加わったもの。つまりこのアルバムの1〜5は一種の組曲になっているのだ。6曲目はアートアンサンブルのメンバーに10数名のフランスのミュージシャンが加わったオーケストラで、ぐちゃぐちゃの混沌としたリズムに管楽器がそれと離れたとこすでリフによるリズムを付けたり、弦楽器が突如浮かび上がったりとかなり細かいオーケストレイションがほどこされている。でも、問題もあって、この時期(フリージャズ初期)の大編成ものは、どうしても録音の問題から音がつぶれてしまう、というか、個々の解像度が低くなり、なんだかよくわからんけどみんなでギャーッと言うとるなあ的に聞こえてしまうのだ。本作も、パワーは伝わってくるけど、やはり音はベチャッと水の多すぎた米飯みたいになっているのが残念。それだけに、ベースソロの部分や荘厳なリフが前面に出る部分などがめちゃめちゃかっこよく聞こえる。だが、それも混沌との対比としてかっこよく聞こえるのかもしれないが。それにしてもどうしてこの手のものは伊福部昭みたいになるのだろう。かっこいいけど。7曲目以降は「チ・コンゴ」から。一曲目の「チ・コンゴ」は軽快なパーカッション群が小気味よいリズムに導かれて開幕する。これはもうわくわくするなあ。アートアンサンブルのうまさは、こういう導入のうまさ、そして、チラ見せ的にこちらの好奇心をあおるところにもある。ライヴでこういう箇所を体感していると、あー、このままずっとこんな感じで死ぬまでやってくれと思う。まさに稀有なバンドだったよなあ。そこから手さぐりのようで確信があるような集団即興になり、レスター・ボウイ主導のテーマ(?)が完璧な音色、完璧なタイミング、完璧なアーティキュレイションで奏でられて終わる。続く2曲目は爆発的なバップリフみたいなものが炸裂したあといきなりマラカイのベースソロになり(こういうあざとさは最高ですなー)、そこに管楽器が載ってきて、集団即興になる。そのあと、かなり荒っぽいドン・モイエによるドラムに3人の管楽器が加わって吹きまくる感じになり、その雑さ加減がいいですね。思えば、「ゴー・ホーム」にはまだドン・モイエは参加していないのだ。もしかするとこれがレギュラーとしての初参加?(そういうディスコグラフィカルなことはわからんが)途中、一瞬だけフェイドアウトしてからフェイドインするが、それはもとのアルバムのせいだろう。ひとつづきの曲である。そしてラストチューンも、まあ、ほとんど同じ曲調。そして最後の最後に、2曲目のバップリフが奏でられる。なんやこの構成? つーことはつまり、大雑把な言い方をするとこのアルバムは全体で一曲と考えてもいいかもしれない。というか、アートアンサンブルのアルバムって、どれも「全体で一曲」なのかもしれない。いや、アートアンサンブルの音楽的な歴史のすべてが「一曲」といってもいいのかも……などと妄想は膨らみます。これらのアルバム群を残して、アート・アンサンブルはアメリカに帰郷するのである。

「AMERICA・SOUTH AFRICA」(DISK UNION/DIW THCD−153)
ART ENSEMBLE OF SOWET
 アフリカのアパルトヘイト廃止を訴えたコーラスグループとの共演による第二弾。悪くはないが、歌詞の意味がわからんと半減である。ワールドサキソフォンカルテットのラップのやつとかは全然OKなのだが、なぜこれはいまいちピンとこないのか。真摯な演奏だし、アートアンサンブルらしさも十分だし、どうしてだかわからない。いつもの演奏といえばいつもの演奏なのだが、どこかしっくりこない。でも、あちこちに(私にとっての)聴き所はあります。たぶんそういうところを捜して聴くのがしんどいのかもしれない。なぜなら送り手側の聴かせ所はあきらかにそこではないのだから。

「TUTANKHAMUN」(A FREEDOM RECORDS TKCB−70332)
ART ENSEMBLE OF CHICAGO

そういえば、今、ツタンカーメン展やっとるなあ……って関係ないか。収録されているのは2曲だけだが、このころのAECはだいたいそんな感じ。たいへん多作だった時期で、本作にも最初期の充実感というか、わしらのやりかただいたい固まってきたもんね、こんな感じだもんね、という自信がみなぎっているようだ。適当にやっているようで、じつは手さぐりな空気が一切なくて、紙には書いてないけど、メンバーだけはたがいに行き先がわかってる、暗黙の了解、そんなつながりが感じられる。1曲目はラフな演奏で、冒頭からいきなりだれかが延々としゃべり続けているが、何語かわからんし、なにを言ってるのかもさっぱりわからん。声明のような、お経のようなぐだぐだが続くのだが、なるほどこれが一応コンポジションなのだなあ、とわかったころにはつぎのテーマが奏でられる。ラッパ、バリサク、ベースによるテーマのあと低音の吹き伸ばしになり、そこにフルートによる新しいメロディが乗り、ラッパとアルコベースがからみあい、聴きようによっては西部劇のBGMのような雰囲気で演奏は進行する。え? これがエジプト? なるほど、そういわれるとそうかもしれん。そんな風にゆっくり、じわじわと進んでいくのだが、このころのAEC特有のダレた感じもあって、そこを楽しめるかどうかで、なんじゃこりゃ、となるか、いいねえこういう雰囲気となるかが大きく異なると思う。私は後者で、これはもうこういうもんなんである。ここをもう少し工夫すれば、とか、ダレないように……とか言い出すと、初期AECのこの微妙な空気がなくなってしまう。だって「失敗もあり」というルールがこれほど意味を持ってくるフリージャズグループもほかにないと思うのですよ。なにをやってもめちゃめちゃうまくいくときはいくが、この方法論だと、そうはいかぬときが必ず来る。せっかくそれまでうまくいってたのに、だれかが別のことをやりだすと、あ、それちがうなあ、と皆が一瞬でわかってしまう。しかし、それに音楽的意味をもたせて成立させるために、皆でなんとかしようとする……そういうくり返しだ。そこがいいのかな? いいんです。もちろん楽器をパッと取り替えたり、場面を転換したりして、音楽的な工夫はされているのだが、そのゆるさは今どきのスピード感ではない。こういう演奏は、熱いお茶でも啜りながら、ゆるゆると味わえばいいのだ。遊んでいるようで真剣そのもの、そして真剣なようでじつは遊んでいるAEC。ええなあ、ほんま。だって、(少なくともリードのふたりは)ぜったい下手だもんなー、楽器。そこがいいのかな? いいんです。楽しければなんでもいいのだ。1曲目は、テープが切れたような感じで唐突に終わるが、そこもまたチープでよい。2曲目は「9号室」という思わせぶりのタイトルの曲だが、ロスコー・ミッチェルの曲らしい。ちゃんとしたテーマとアンサンブルがある。重厚なマラカイのウォーキングベースに乗って、ラジオ(?)の声とか、メンバーのしゃべり、ゴムラッパ的なもの、こどもの遊びみたいなパーカッションなどに邪魔(?)されながらチープなアルト(たぶんロスコー)がチープな音色でずっとソロをとる。こういう「どこを目指しているのかわからないソロ」がAECっぽくていいですね。起承転結とか盛り上げようとかないのだ。ただただ、思いつくまま好き勝手によれよれよれよれと吹くのだ。それはメイン楽器であっても、そのへんに転がっているパーカッションやトイでも関係ない。そういう集団なのだ。つづくのはレスターのトランペットで、これも基本的には同じ路線。わざとじゃないかなと勘繰りたくなるほど盛り上げない(渡された譜面にそう書いてある、とか)。これはまさに「だれかがしゃべっている」ような感じだ。レスターのソロは、レスターがしゃべったり、怒ったり、笑ったり、急に話を変えたり、飽きたりしているような演奏であって(高音がパスパスいって、ほとんどでないのも笑える。音をベンドさせたらレスターは超一流でもある)、人間、普段しゃべってるときは、起承転結とか盛り上げとか考えずに、ただダーッとしゃべるだけでしょ。ライナーで「メロディアスで、トーンの激しさを除くと、前衛派とは思えぬほど、唄心を重視したプレイで、この部分だけを聴いていると、ハードバップ派のプレイヤーかと思うほどだ」と書いてあるが、もちろんそんなことは一切ないのが、またおかしいのです。そういう、だらだらしたラッパソロのあと、またしてもアルトが出てくる。構成とかバラエティとか考えると、ここはテナーとかにすればいいのに、アルト→トランペット→アルトなのだ。これも同じようなぐだぐだのソロで、この間マラカイはずーーーーーーっと延々4ビートのウォーキングを律儀に弾き続けている。変な演奏! ここでようやくマラカイがソロをはじめるが、これがめっちゃいいのです。左チャンネルからアホみたいなウッドブロックがきこえて、それもいい。すぐにソロは終わってベースがウォーキングに戻り、管楽器が順次入ってきて(つまりテーマ)、エンディングになる。私が持っている日本盤にはなんと瀬川昌久さんがライナーを書いているが、けっこうあちこちまちがっていて(とくに楽器の名前。オーボエと書いてあるのはバリサクかバスサックスだし、テナーと書いてあるのはアルト……みたいなのはいっぱいある)、しかたないですよねこれは、得手不得手というものがありますから。そもそも瀬川大先生にこういうぐじゃっとしたフリー系のライナーを頼むほうがまちがっとるよ。そういう目で読むと、このライナーもまた味わい深いのである。まだドン・モイエがいない状態のこのグループ、こういう演奏を聴くと、たしかにダラッとしていて楽しいのだが、ドン・モイエを入れざるをえなかったというのもよくわかる。そうすることでリズム的にぴりっとひきしまったものになったのだ。ブラックライオンのジャケットはツタンカーメンの顔と思われる印象的な絵だが、うちにあるアリスタのCDはただの写真です。

「SALUTES THE CHICAGO BLUES TRADITION」(AECO0022)
ART ENSEMBLE OF CHICAGO

 アート・アンサンブルがシカゴブルースに真正面から取り組んだアルバムで、スイスでのライヴ。ゲストとしてボーカル、ハープのシカゴ・ボー、ギターのハーブ・ウォーカー、アミナ・クローディン・マイヤーズ、フランク・レイシー、ジェイムズ・カーターが参加している。1曲目冒頭、トロンボーンがブオオオと吹いて、なんかリハーサルがはじまるみたいな感じから、アート・アンサンブルらしいぐちゃっとしたラフな演奏をバックに、シカゴ・ボーがトーキングブルースというかゴスペルシンガーの煽りのような感じで聴衆にアピールする。そこにレスター・ボウイのトランペットその他が合いの手のように入ってくる。後ろでゴスペルのコール・アンド・レスポンス的に叫んでいるのはアミナ・クローディン・マイヤーズでしょう。この混沌とした、しかし、たしかにブルーズを感じさせる演奏は、コルトレーンの「オム」のブルース版のような雰囲気もある(コルトレーンの名前も途中ででてくる)。2曲目はまさにブルースそのものな演奏でギターとブルースハープ主体ではじまるスローブルースは、どこにもアート・アンサンブルらしさはない。ただ、気合い先行でがなり立てるようなシカゴ・ボーのボーカルはちょっと大味で、その場にいた盛り上がったかもしれないが、こうしてCDで聞くと、相当ざっくりしていて力技である。ギターのひとはめちゃくちゃ上手くて、場をさらっている。しかし、アート・アンサンブル的な要素はまるでない。3曲目はおなじみ「フーチー・クーチー・マン」で、レスターとかロスコーとかがこういうホーンセクションに徹しているのもなんだかなあという感じ。ソロはジェイムズ・カーターだからそつなくこなす。後半、フラジオやマルチフォニックスなどでゴリゴリ吹くのも、なんというかカーターにとっては予定調和の範囲内という感じがする。もう少しはじけてもいいんじゃないですかね。ブルースのレコードというより、アート・アンサンブル・オブ・シカゴの作品を聴いているわけだから。シカゴ・ボーのラストのシャウトもかなりしんどいです。4曲目も有名な「ナイト・タイム・イズ・ザ・ライト・タイム」だが、ジェイムズ・カーターがリードするアンサンブルで最初のうちはインストで演奏する。そのあとシカゴ・ボーが登場するとやはり大味なブルースになってしまうのが残念。フランク・レイシーのソロはほとんどリフだがかっこいい。それからまたシカゴ・ボーが出てきてテーマを歌ってエンディング。5曲目はおなじみのテーマ曲「オドワラ」で、この曲だけ突然アート・アンサンブルっぽくなって、それはそれで変なのだが、やはりこういうのが聴きたいです。司会者(?)がメンバー紹介のときいちいち「トランペット、パーカッション、コンポジション」「サキソフォン、パーカッション、コンポジション」と一人ずつ並べ立てるのが面白い。ちなみにシカゴ・ボーは「ハーモニカ・アンド・ブルーズ」でジェイムズ・カーターは「テナーサクソフォン、ヤング・ファイア!」だった。ぐずぐずのエンディングのあと、(たぶん)アンコールで「ガット・マイ・モジョ・ワーキン」。ただただシカゴ・ボーが歌うだけでアート・アンサンブルのひとたちはなにもしない(コール・アンド・レスポンスのボーカルに参加しているかもしれない)に等しい。ソロはジェイムズ・カーターがゴリゴリと流暢にこなすが、ブルースとフリージャズのぶつかり合いとか融合とか軋みを期待して聴くとびっくりすると思う。つまり、非常にストレートなブルースアルバムになっており、しかも、ブルースアルバムとしては(おそらく)あまり上質のものとはいいがたい出来なのだ。よほどのアート・アンサンブルファン以外は聴かなくてもいいかもしれません。など、この演奏を仕切っている(?)シカゴ・ボーというひとは、アンソニー・ブラクストンとも共演したり、「グレイトブラックミュージック」という本を書いたりしている、まあ、そっちよりのひとのようです。

「NON−CONGNITIVE ASPECTS OF THE CITY−LIVE AT IRIDIUM」(PI RECORDINGS PI20)
ART ENSEMBLE OF CHICAGO

 一時抜けていたジョセフ・ジャーマンが復帰したが、レスター・ボウイとマラカイ・フェイバースが亡くなり、代わりにコーリー・ウィルクスとジャリブ・サヒドが参加した新生アート・アンサンブルのライヴ2枚組(と書いた翌日にジョセフ・ジャーマンが亡くなるとはなあ……。合掌)。ベースのジャリブ・サヒドはもうベテランで、ジェイムズ・カーターの初期作品には必ず入っているひとだが、ロスコーとの作品も多く、リチャード・エイブラムス、デヴィッド・マレイ、ジェリ・アレン、ワールド・サキソホン・カルテット(「ムビゾ」に入ってる)などとも共演しており、参加資格は十分なひと(偉そうな言い方ですいません)。そして、この界隈ではおなじみのコーリー・ウィリクスも妥当な人選だと思う(これまた偉そうな言い方ですいません)。曲は、集団即興の曲をのぞくと、一曲以外全部ロスコーの作。一曲目の「ソング・フォー・マイ・シスター」(ロスコーのバンドによるアルバムのタイトル曲でもある)から、もう変態的な世界に突入する。なんなんだろうなあ、この最初のテナーソロ(たぶんロスコー)。ゆっくりしたテンポなのにひたすら8分音符だけで、しかも延々ソロをする。盛り上がることもない。ただただ、変なソロが続く。そして、コーリー・ウィルクスの溌剌としたハイノート中心のソロで流れが変わるが、そのあとのテナーソロ(たぶんジョセフ)でまたしてもわけのわからない世界に引きずり戻される。この曲ではロスコーもジョセフ・ジャーマンもテナーのようだ(あとでひとりが(たぶん)ソプラニーノに持ちかえる)。ベースソロを経て、ソプラニーノの奔放なソロに木製パーカッションみたいなやつがからむいかにもAECらしい展開に。そこから(一応2曲目に入ったことになっているが実際は切れ目がない)いろんな楽器を適当に使った楽しい楽しいフリーインプロヴィゼイションになり、このあたりの雰囲気はレスターやマラカイ・ファイヴァースがいたころとまったく変わらない気がする。そのあとすごくいい感じの拍手が来る。3曲目は「ソング・フォー・チャールズ」で「ジャクソン・イン・ユア・ハウス」に入ってる曲。ベースのものすごく速いテンポのランニングにゆったりした曲が乗る。とにかく常識をぶっ飛ばされるような変な曲だ。おそらくロスコー・ミッチェルとおぼしき激しいアルトソロがサーキュラーも使って延々ぶちかまされる。かっこいい! ローランド・カークにも通じるとんでもないエネルギーの放出。そのあとトランペットソロが、普通ならかなりへんてこなソロなのに、まともに聞こえるほど。そして、ジョセフ・ジャーマンのテナーのバラード風のソロがはじまるところから4曲目に突入してるらしい(本当は切れ目なし)。このソロはすごく良くて感動。そして、ドン・モイエのかなりのロングソロがフィーチュアされるが、すごい迫力でやっぱりドン・モイエはいいなあ。そのあと全員による集団即興になり、途中でトランペットがリードするラプソディック(というのか?)な感じのパートが出てくるあたりは本当に興奮する。いやー、こういうのはアート・アンサンブルならでは。さすがコーリー・ウィルクス。レスターの穴をしっかり埋めてると思う。しかし、その横で我関せずとばかりにひたすらノイズ的なソプラノ(ソプラニーノ?)を吹きまくり続けているロスコーはほんまヤバい。5人が一丸となって(というのも変な表現だが)それぞれにめちゃくちゃしているこの感じは、まったくレスターやマラカイがいたころのAECそのもので、ああ、そうか、こういうグループもちゃんと継承されるのだなあ、と感無量になった。そして、今日、ジョセフ・ジャーマンが亡くなり、オリジナルメンバーはロスコーだけになったが(ドン・モイエも途中参加だから)、まったく心配いらない、と本作を聞いて思った。アート・アンサンブルの魂は、グレート・ブラック・ミュージックの魂はちゃんと引き継がれていくはずだ。最後はムビーラや鈴なんかが出てきて即興パートが終了し、ドン・モイエのドスの利いたドラムを合図にはじまるのは「ビッグ・レッド・ピーチズ」で、ロスコーの「ナイ・トゥ・ゲット・レディ」に入ってる曲。どすん、どすんという重たいベースラインに乗ったファンキーでヘヴィな曲。そこにロスコーのわけのわからんソロが乗っかるという異常な面白さ。ハードバップな曲で、こういう曲も書いてしまうところがロスコーのすごい、というか、変なところ。ロスコーによるメンバー紹介があり、エンディング。めちゃくちゃかっこいい。そして、アンコール的におなじみの「オドゥワラ」。パーカッションを叩きながら歌うのだが、この素朴なかっこよさはライヴで何度か体験したことだ。パーカッションさえあれば、いや、どんな楽器でも、こどものおもちゃ的楽器でも、なんでもいいからあればこれだけスウィングし、グルーヴし、ジャンプする凄い世界が展開できるのだ、ということをAECははっきりと教えてくれた。たとえばサン・ハウスにも通じるような、楽器なんかなくても大丈夫、ということをこれほど明確に伝えてくれたのが、山のような楽器類を舞台に運び込む多楽器主義のこのバンドだというのは不思議だ。そして、2枚目に移るが、一曲目は「エリカ」で、いろいろなアルバムに入ってる曲。表記は「ERICKA」と「ERIKA」と二種類あるが、本作は後者。ベースとポエットリーディングのデュオ(?)を中心にほかの楽器がからむ。ロスコーの曲だが、ロスコーはサックスに徹していて、ポエット・リーディングはたぶんジョセフ・ジャーマン。深くて、いい声である。広島のことにも言及があるように聞こえるが私のヒアリング力ではよくわからん。非常に感動的な演奏でロスコーのサックス(アルト? 最初のほうはソプラノかも)での超ロングソロは慟哭しているようである(スクリームしたりしていないのに、なぜかそう感じる)。サックスソロが終わったあとかなりの拍手が来る。ベースソロに引き継がれ、ドラムソロになる。どれも見事な演奏。ドラムソロから2曲目のマラカイ・フェイヴァースに捧げた曲になる4ビートのいたって普通のちゃんとした曲(と断られなければならないあたりがロスコー・ミッチェルの凄いところ)。先発はコーリー・ウィルクスで、たしかにレスターと共通の音楽性を感じるが、それはAACMというか、シカゴで育ったトランペッター全員に共通する「なにか」であって、ウィルクスは十分個性的ですごい。自分のやり方でレスターの後釜をちゃんと務めているのだ。「レスター役を演じる」だけなら彼ほどの実力があれば簡単だと思うが、そういう道は選ばないのである。たいへんなプレッシャーだと思うが、見事に務めを果たしている。ジョセフ・ジャーマンのテナーソロも、ロスコーに負けず劣らず変やなあ。ドン・モイエのドラムが煽る煽る。ドラムソロになってそのあとグロッケン(?)のような鍵盤打楽器っぽい楽器とドラムのデュオによる可愛らしいパートになる。このグロッケンはジョセフ・ジャーマンかなあ? このあたりから(本当は途切れずに続いているのだが)3曲目になる。本作で唯一のロスコー以外のコンポジションで、ジョセフ・ジャーマンの「ザ・J・ソング」である。途中からミュート・トランペットがからむが、これも変なノリで面白いです。ふと冷静になると、「このわけのわからん音楽はなんなのだ!」と絶叫したくなるが、それこそがアート・アンサンブルを聴く醍醐味でもある。「一期は夢よ、ただ狂え」みたいな感じか(ぜったい違う)。そのあと、フルートが登場して日本っぽい音階の演奏になる。ここもめちゃくちゃいいなあ(たぶんこの部分が「Jソング」なのだと思う。4曲目も楽しい楽しい集団即興。全員がいろんな技をそれぞれに繰り出しているのだが、ちゃんと相手の音を聞きあっていて、見事なバランス……よりも一、二歩ぐらい前に出た状態ぐらいで推移していくのが気持ちいい。かなり長尺の演奏だが、どんどん場面が変わっていき、テンションも落ちないのがさすがだ。適当にはじめたものがすごいものに育っていく過程を体感するのは、最高の音楽体験だ。それに続くように5曲目の「スロウ・テナー・アンド・ベース」というそのまんまの曲名の曲がはじまる。短い演奏だが、かっこいい。そのあとメンバー紹介になり、テーマの「オドゥワラ」になって、ボーカルも入って、めちゃくちゃかっこいい締めくくり。このベタな感じが、ぞくぞくするほどかっこいいのだ。AECは永遠だ! 傑作!

「EDA WOBU」(JAZZ MUSIC YESTERDAY JMY 1008−2)
ART ENSEMBLE OF CHICAGO

 アート・アンサンブルが大好きで、まあたいがいの作品は聴いたと思っていたが、本作は知らなかった。入手して以来、ヘビーローテーションで聞いている。めちゃくちゃ気に入った。ドン・モイエがまだ不参加の初期のパリ録音(ライヴだけど場所は書いてないです)だが、ドン・モイエ好きの私もこのアルバムが傑作であることは声を大にして言いたい(BYGの「ライヴ・イン・パリス」2枚組と同日録音であることも謎だ)。なんというか、それぞれの音が若々しく、いきいきしていてこちらの身体にびんびん響いてきて、それだけで感動的である。ところどころ機材のトラブルと思われるノイズが入るが、それも「わざとやってるかも」と思えば気にならない。冒頭、いきなりバスサックスかコントラバスクラリネットかなにかの低音のソロが延々とフィーチュアされ、そこにマラカイのアルコがからんでくる……という部分からもう胸倉をつかまれたようにアート・アンサンブルの世界へ引きずり込まれる。高校のときにはじめてアート・アンサンブルのレコードを買って、どきどきわくわくしながら針を落とし、その内容に驚愕したときのあの胸の高鳴りは今でも覚えているが、本作はあのときのそんな気持ちを思い出させてくれる内容である。本質的にはなんの変わりもないものの、本作録音時のドン・モイエがいない状態からモイエが入り、レーベル的にもあちこち渡り歩き(ECMや日本のDIWまでも……)、世界中で音楽の旅を続けてきたアート・アンサンブルだが、初期録音である本作を聴くと、「なにがなんだかわからないけどめちゃくちゃ面白い」というこのグループの魅力が、まだ世間に認められていない、浸透していない状態でここに詰まっている感じがする。まあ、とにかくすごいので聴いてほしいのだが、聴きどころ、見せ場が満載で、どこを切り取ってもわくわくするような箇所ばかりなのだ。もちろんそれはAECの演奏としては「いつものこと」なのだが、AECの演奏はダレることもあって、それもまた楽しい、というよくよく考えてみればかなり大胆な、だが、フリーミュージックとしては本質的な問題を踏まえた音楽でもあるのだ。フリーな即興なのだが全編つねに興奮するような演奏……ということがありうるのか、というのを世界に先駆けて解決(?)したのは山下トリオだと思うが、正直、ダレたって全然かまわんのである。しかし! ここにおけるアート・アンサンブルの演奏はほとんどそういうダレ場がない。それだけ充実していた、ともいえるし、たまたま、ともいえるだろうが、とにかくそうなのだ。聴いてみてくれーっ。四人の若い、志のあるミュージシャンたちによって「直感的」に形作られているこの音楽……もちろんそのベースにはブラックミュージックがあるわけだが、なんというかものすごく普遍的で純粋な演奏になっている気がする。このあとドン・モイエが加入するわけだが、それは「リズムが手薄だからだれか入ってくれよ」ではなくて、これだけ完璧に作り上げられてしまったものにドラムなんか入れなくていいやろ、と思ってたら、「こいつが入ったら俺たちもっとすごくなるってやつがいたぜ!」的な感じだったのだろうと思った。ドン・モイエはたぶん、ドラマーとしてではなくドン・モイエとして加入したのだ。それはほかのメンバーにもいえる。アート・アンサンブル・オブ・シカゴのすばらしさは、メンバーをサックス、トランペット、ベース……という風にではなく、ロスコー、ジョセフ、レスター、マラカイ……という個人名で集めているところだと思う。つまりサックスがいないから今日誰々がトラね、というわけにはいかない音楽なのだ。今のアート・アンサンブルはメンバーがだいぶん変わってしまったが、それでも「あのころのジャズメッセンジャーズの再現」「あのころのベイシーの再現」みたいな馬鹿げた「なぞり」になっておらず、「今」の音を高らかに奏でていられる、というのはおそらくこの「個人名で集めている」からだと思う。いや、もうすばらしい瞬間の連続で、いろいろな要素が詰め込まれていて、めちゃくちゃいいからとにかく聴いてほしいです。傑作! ところで「エダ・ウォブ」ってなに?

「LIVE IN PARIS」(BYG RECORDINGS FUEL 2000)
ART ENSEMBLE OF CHICAGO

 初期アート・アンサンブルのパリ録音のなかの一枚(というか二枚組)。はっきり言って、録音のバランスは悪いです。でも、いきいきした音楽がここに詰まっている。冒頭、いきなりサックス(ジョセフ・ジャーマン?)とパーカッションによる、どこへ行くのか目的地がはっきりしない、ひたすら垂れ流すような演奏がはじまり、これが延々と続く。いやー、めちゃくちゃ面白いではないか。当時のパリのひとたちが度肝を抜かれただろうことは推測するに余りある。こういう「どこへ行くのかわからん」即興がアート・アンサンブルの真髄なのだ。そういうなかからこのひとたちは宝石を見つけてしまうのだからすごいよね。そういうのが15分ぐら続き、レスター・ボウイが登場。このソロがすさまじい。うしろでなんだかんだ言ってるのはフォンテラ・バスか? とにかくトランペットとは思えない、シンセサイザーのような、ひとの声のような、吹きすさぶ嵐のようなソロである。そして、それが普通のバップ的なフレーズへ、そしてワウワウによる叫びのような音へとだんだん変化していく。パーカッション軍団はシンバルを民族楽器のように叩きまくり、ここはどこだアフリカか、マラカイはどうしたのだ、このバンドにはコード楽器はなかったんだっけ、とか言いつつ、音楽がうねりまくり、変化しまくり、たかまっていくのを魔法のように感じながらあれよあれよと「持っていかれる」のだ。いやー、かっこいいねえ。23分を過ぎたあたりからやっとマラカイのアルコが登場する。バラフォンかマリンバのような木琴(ロスコー?)との相性も抜群で、混沌とした演奏のなかからそのふたつが浮き出て聞こえる。鳥のさえずりのような笛、カタカタと鳴るおもちゃのようなパーカッション、なんだかよくわからない楽器……そういうものすべてがアート・アンサンブルなのだ。どこがどうなってそういう展開になったのかわからないが、ひとつの音の吹き伸ばしのまわりに全員が寄り添うような感じになり、その緊張感がたまらん。夢を見ているようなふわふわした演奏が、自然発生的に生み出され、そして、どこへ向かうというあてもなく、その一瞬一瞬の美しさを選択しつづけることによって進行していく。こういう音楽は、イントロがこうでそのあとこういうテーマがあっててというしっかりしたアレンジのある音楽に慣れていると「穴だらけ」に聞こえるかもしれないが、その「穴」がいいんです。バスクラなどが加わり、銅鑼が響き渡り、ますます混沌とした感じが深まっていく。こうして聞くと、このころのアート・アンサンブルの音楽というのは「パーカッションの音楽」だったのだなあ、と思う。全員がパーカッショニストである音楽。パーカッションを、それも素人がそこに打楽器がかったからこどものように無邪気に叩きまくるのをよしとする音楽なのだ。それによってこの崇高な音楽が生まれているのだ。録音のせいか、あまりよく聞こえないソプラノサックスもバスクラも、もう聞こえなくてもどうでもええやん! と思ってしまうようないやー、これは向かうところ敵なしだわ……とか言ってるまにフェイドアウトで1枚目が終わり、2枚目になるが、1枚目の続きかと思っていると、これはまったくべつの演奏。だれが叩いているのかわからんが、ブラッシュによるドラムで開幕。かなり上手いんですがだれでしょう……とか思っていると、どんどんボルテージが高まっていくぞ。なんだこれは。ドン・モイエとしか考えられないではないか。そうでしたか、ドン・モイエさん、クレジットはされていないが、いらっしゃったのですか……というわけで、この曲は(たぶん)ドン・モイエのショーケースです。これも「たぶん」だが、1枚目にはドン・モイエは参加していなくて、2枚目にだけゲスト的(にしては大フィーチュアされているが)に参加しているのだろう。録音バランスもドラムばっかり聞こえて、あまりよくないが、もうすこしこのド変態なソプラノとかがちゃんと録音されていればなあ……とは思う。まあ、わけのわからん演奏である。なんじゃこの無意味なエネルギーの発露は……とか言ってるうちにどんどん盛り上がっていき、まさにグレート・ブラック・ミュージックとしか言いようがない。トランペットはまあまあちゃんと録音されている。そういうこともおそらく舞台上での高揚のせいで録音のことまで注意が行き届いていなかったのだろう、と納得してしまう。つづくもうひとりのソプラノソロも、「こいつはいったいなにがやりたいんだ!」と聞いていて叫びたくなってしまうような演奏で、最高である。途中で急にエコーがかかり、音量が増すのはたぶんPAのひとがマイクの音量を上げたかなにかしたのだろう。ベースが3拍子系のリフを弾きはじめ、そこに全員が集まってくる。フルートやトランペット、パーカッションなどがしだいにひとつになっていき、ボーカルも加わって、ぐちゃぐちゃとしたなかにも筋の通った演奏になる。そして、タンバリン(?)のリズムが重要な働きをはじめ、ボーカルが主体の音楽になっていく。このあたりも一筋縄ではいかず、ゴスペル的な雰囲気のなか、それをぶち壊すような諧謔的なことがぶつけられたりもする。ボーカルのパートのあとは、またしても混沌としたカオスな集団即興になる。トランペットがひとりでジャズっぽいリフを吹いているが、だれもそこに寄り添おうとしない。バスサックスのノコギリのような低音などがでたらめに吹き鳴らされ、ラストへと向かっていく。「全員一丸となって」ではなく、それぞれの道筋をたどりつつ、そこにたどりつこうともがている感じだ。そして、ラストはお決まりのフェイドアウト。この2時間はなんだったんだ! というような終わり方だが、これこそがこの時期のアート・アンサンブルなのである。アルバムとして傑作かどうかはしらないが、ドキュメントとしてすばらしい。しかも、とてつもないドキュメントである。