shoji aketagawa

「SMALL PAPILLON」(AKETA’S DISK PLCP−112/AD−66CD)
明田川荘之&アケタ西荻センチメンタルフィルハーモニーオーケストラ

 最愛のピアニストのひとり明田川さんの西荻センチメンタルフィルハーモニーオーケストラの一枚。このアルバムにいわゆる「ビッグバンドジャズ」を期待したひとは激怒するかもしれないが、アケタさんのすばらしい曲を大編成用にアレンジして、いいソロをみんなでまわして、アケタさんのピアノも大フィーチュアしました……というような「音」が好きなひとにはたまらんアルバム(それは私です)。曲もいいし、高校生のときからかわらず愛聴しているアケタさんのピアノも最高だが、ソリストもすばらしく、とくに津上研太のパッショネイトなアルトソロと松本健一の骨太なテナーソロはどちらもすごい。何度聴いても、「ああ、ジャズで盛り上がるというのはこういうことなのだなあ」と単純な真実に気づかされる。何度もいいますが、ビッグバンドだと思ってはいけませんよ。なにしろ、ここまでアレンジに仕掛けのない、シンプルすぎるぐらいシンプルな「オーケストラ」はまずないからなあ。「わっぺ」も大好きだが、これもまた愛聴盤です。

「PLACE EVAN」(OHRAI RECORDS JMCK−1014)
SHOJI AKETAGAWA

 おーらいレコードの企画による録音ではなく、明田川さんの手元にある未発表の音源のなかから厳選したものをおーらいに貸し出した(?)ような形のアルバムらしい。全5曲のうち、1曲め、3曲め、4曲めがピアノソロで、2曲めと5曲めがクインテットという構成。正直言って、全部ピアノソロにしたほうがアルバムとしての統一感はでたと思うが、いかがなものか。ましてや、ソロの3曲のほうがずっとできがいい。クインテットのほうは、松本健一のテナーはかなりがんばっているが(このひとは大好き)、トロンボーンソロがどうも中だるみする。もうしわけないが、ワンホーンもしくはピアノトリオのほうがアルバムとしてはよかったかもしれない。曲は全部アケタさんのオリジナルで、さすがにいい曲ぞろい。しかし、どうしてこのひとの曲は、頭に残るのだろう。まさにメロディメーカーだ。

「BLACK ORFEUS」(AKETA’S DISK)
SHOJI AKETAGAWA

 最愛のピアニストのひとり、明田川荘之。20年以上まえ、高校生のときに「アローン・イン・徳山」をアケタの店に電話して、通販で買ったのが最初で、以来、ずっと聴いている。この新譜は期せずして、そのときとおなじピアノソロである。アケタさんのピアノソロは何作かあるが、やはり思い入れという点では、「イズンテュ・シー・ラブリー」(そういう表記になっている)などの入った「アローン・イン・徳山」がいちばん好きだ。しかし、この「黒いオルフェ」……タイトルはスタンダードからとった単純なものかもしれないが、なかみはすばらしいです。たぶん、「アローン・イン・徳山」はレコードなので、日頃の愛聴盤はこちらになるかも、という予感。どの曲も、哀愁と狂気とバップ魂が炸裂していて、一音たりとも聞き逃せない。こういうのを「垂涎」のライヴというのだろうか。選曲もいいし、こういうライヴに接することのできる東京のファンはほんとうらやましい。久々の「外はいい天気」の再演とか「リブル・ブルース」とか、おなじみの曲もやってるが、「ブラックホール・ダンシング」という曲のインパクトには驚く。とにかく明田川荘之入門にも最適だし、長年のファンにとってもすばらしい贈り物だと思う。(なぜかジャケットにもレーベルにもレコード番号の記載がないので空白にしておく)

「シチリアーノ」(AKETA’S DISK MHACD−2619)
AKETA・藤川義明・翠川敬基

 世にも珍しい、本番中のミュージシャン通しの殴り合いを記録したアルバムだという。よく一触即発というが、それを通りこして、どつきあいにまで行ってしまっているのだ。たしかに3曲目の途中で藤川と翠川との口論が聞こえ、そのあとにバシッという音が収録されている。また、3曲目が終わったあともぐずぐず言い合っているのが聞こえる。しかし、肝心なのは演奏であって、演奏がしょぼかったら、モンクとマイルスが殴りあっていようが、コルトレーンがエルヴィンを蹴っていようが、何の値打ちもない。このアルバムのすごいところは、そういった喧嘩状態にあったふたりを含む3人の演奏が非常な高みにあり、その高みには、波乱含みのテンションが大きく影響している、という点なのである。つまり、ドキュメントとしても、音楽としてもすぐれていて、しかもそのふたつが相互に影響しあっている、というある意味理想的な「レコード」なのだ。藤川のアルトはいつにもまして輝かしく、また、きちんとフレーズをつむいでおり、ピアノとチェロをバックにしている変則的な編成とは思えないほど美しい。しかし、そういったきちんとした部分を崩そう崩そうとする翠川のチェロもまた楽しく、触発されて藤川がフリーキーにブロウしはじめると、またちがった美が現出する。もちろん、アケタのピアノは私好みである。アルトのウォーミングアップからはじまり、軋轢が高まっていく過程が楽しいが演奏自体は逆にしっかりとスタンダードしている「アイル・クローズ・マイ・アイズ」を経て、ついに軋轢が暴力にまで進んでしまう3曲目のブルース(これもおもしろい)……というあたりを聞いたあと、ラストの2曲がめちゃめちゃ良いのは、これはどう考えても、会場を覆う一種異常な空気がここに凝縮したのだと思われる。アルバムの最後に入ってるアケタ氏によるメンバー紹介の、どんよりとした力のない声が印象的だ。おもろいわー、このアルバム。実際、よく出してくれたもんだ。アケタズ・ディスク以外ではぜったいに商品化されないであろうドキュメント。だって、アケタも藤川も翠川も、全員良いんだもんね。3者対等のライヴだと思うが、一応、明田川氏の項に入れた。

「さよなら室蘭長瀬氏〜そしてエミ」(AKETA’S DISK MHACD−2623)
AKETA〜西川沖縄ユニット

 変なタイトルで、メジャーなレーベルなら絶対に許されないであろうタイトル。内容も、タイトル同様、かなりラフで、これまたメジャーならおそらく商品化できなかっただろう。ベースが、沖縄の西川勲というかなりベテランのひとで、ベースソロを聴いていると、なんとも独特である。ドラムは串本卓司、ギターは石渡明廣とおなじみのメンバーだが、どんなメンバーがバックでも、アケタさんのピアノは訥々とおのれをつむいでいく。一曲目は、タイトルにもなっている古澤良治郎の「エミ」で、私のめっちゃ好きな曲である。たしか「キジムナ」の一曲目だが、私は「古澤良治郎の世界」という二枚組での演奏が大好きで、あの二枚組は宝物のように大事にしている(アケタさんも入っていて、すばらしい演奏をしている)。その「エミ」が再演されているわけだが、曲調といい、アケタさんにぴったりだ。二曲目、これがびっくりなのだが、ボーカルもので、歌っているのは明田川さんの娘さんでジャズシンガーの歩さん(レコードデビューだそうだ)。しかし、歌っている歌は「アルプ」という、父親であるアケタさん作のめちゃめちゃ変な曲で、「山羊に蹴られた」ということをものすごくちゃんとした歌い方で朗々と歌う。しかも、アケタさんの歌伴が、変なフレーズを入れたり、不協和音を入れたりとやりたい放題である。そういう「わけのわからん」感満載の曲だが、結果として、また聴いてみたい……という中毒症状を生むおもしろい演奏になった。3曲目の「テーマ・フォー・米やん」は、要するに「葬送行進曲」をモチーフに、最後におなじみの「カッコロリンのスッコンコン」をつけたマイナーブルースで、これまたアケタさんの独壇場的な曲。というか、そのあとの二曲、「室蘭アサイ・センチメンタル」「世界の恵まれない子供達に」も、曲調はアケタさん好み(つまり私好み、日本人好み)の曲で、楽しく聴ける。明田川荘之のピアノによってジャズピアノというものを理解した私なので、いつまでもこのひとのピアノは聴きつづけていく。

「集団生活」(AKETA’S DISK AD−5)
SHOJI AKETAGAWA3+KAZUTOKI UMEZU & MASUKO NAKAMURA

「ようこんなCD出したなあ」とか「このアルバム、むちゃくちゃや」とか、そういうセリフを口にすることは多いが、このアルバムこそ、その言葉にふさわしい。とにかく珍盤・奇盤数あれど、こんなわけのわからないアルバムはジャズレコード史上まれであろう。とにかく一曲目の「テーマ・フォー・吉田」という曲のむちゃくちゃさに、まずガツンとやられる。麻薬のような効果があり、二回ほど聴くと歌詞を暗記してしまう。「シェップが好き、録音うまい、末次好きなその名は吉田。それ行けファイトだ、やれ行けガッツだ、地のままよし行け、ぼくらの仲間だ、はい、吉田!」……ほら、こうしてなにも見ずに歌詞が書ける。しかし、なんちゅう歌詞や。そんなこと知らんがな、という内容。はじめて聴いたとき、「地のままよし行け、ぼくらの仲間だ」というフレーズが気に入ってしまい、すぐに歌詞を全部覚えてしまった。吉田というひととは会ったこともないが、「ふーん、末次が好きなのか」とそのプロフィールをなぜか知っていることになるわけだ。中村マスコというボーカルが歌いあげる、というか叫ぶ。二曲目もむちゃくちゃで、森山威男の「ぐがん」のリズムパターンに歌詞をつけ、マイナーブルースにしたもの。「ぐがんぐがんぐがんぐがんだぱととん、ぐがんぐがんぐがんぐがんだぱととん、ぐがんぐがんぐがんぐがんだぱととん、ぐがんぐがんぐがんぐがんだぱととん……へい! 森山」という歌詞。こんなもんをアルバムとして発表するその勇気。この曲ではアケタのピアノとともに、マスコのスキャットが爆発するが、なにしろ曲がなあ……。そしてB面はもっとわけがわからない「つのひろセンチメンタル」というつのだひろに捧げた曲が2テイク入っているのだが、これがまたむちゃくちゃで……とにかくこのアルバムを表現するには「むちゃくちゃ」という言葉を何回も使わねばならない。しかし、何度も言うようだが、このアルバム発表時、まだアケタさんは25歳ぐらい。もっとちゃんとしたアルバムを発表しようとは思わなかったのか。そのおかげで、今の我々はこんなアホなジャズ史に残る怪作を耳にすることができるのだが。若き梅津和時の、今ではちょっと聞けないような正統フリージャズ的アルトブロウがえんえんとフィーチュアされており(こんな梅津さんは、「集団疎開」のアルバムぐらいしか聴けない)、凄いといや凄いが、これも曲がなあ。「クソしていても、飯食っていても、酒飲んでいても、センチメンタル……はー、つのひろ」という歌詞だからなあ。「集団疎開」と「生活向上委員会」(もとは梅津〜原田のバンドだったが、彼らのニューヨーク渡航に際し、松風鉱一が受け継いでおり、そのメンバーがアケタさんだった)のメンバーが合体しているから「集団生活」というタイトルにしたらしいが、そのあたりも適当すぎてすばらしい。たぶんCDでの再発などありえないと思うから大事にしようっと。

「FLY ME TO THE MOON」(AKETA’S DISK AD−8)
SHOJI AKETAGAWA TRIO

 これも傑作だと思うし、めっちゃよく聴いた。アケタ氏がどしゃめしゃ弾きながらピアノの下に沈んでしまうまでを九枚の写真ですごろく風にしたジャケットも最高。当時の明田川さんのライヴをそのまま、手を加えずにドーンとアルバムにしただけの作品。アルバムなのだからもうちょっとコンパクトに、とか、いろいろ考えもあるだろうが、そのまま、というのが良いのだ。だから、いいところも山のようにあるが、悪いというか手探りだったりダレたりする箇所もいっぱいある。そういうことを全部ひっくるめての明田川荘之の演奏なのだ。東京のひとにとっては生でいつでも聴けるという感じだろうが、我々地方のファンにとっては、こういうアルバムがほんとうにうれしいのである。「ノー・グレーター・ラヴ」にはじまり、「フライ・ミー・テュー・ザ・ムーン」とつづくA面は、まさにアケタ節全開だが、本作の白眉はなんといってもB−2の「アケタズ・ブルース」。「大学一年生のときにドルフィーのアウトゼアに感動して作曲」したという曲だが、とにかく迫力満点の演奏。しかし、途中でブツッと演奏が終了する(テープがなくなったらしい)。残念。最後は「ユー・ドント・ノウ・ファット・ラヴ・イズ」のボサ。「世界初。さすが天才。終わりを飾るにふさわしい劇画チック。そして泣ける。偉い。アケタ偉い。万歳」と本人がライナーで書いているが、まさにそのとおり! ベースの山崎とドラムの宮坂も当時の鉄壁コンビですばらしい。

「SHOJI AKETAGAWA AT THE BABEL 2ND」(AKETA’S DISK AD−21)
SHOJI AKETAGAWA HIROSHI YOSHINO DUO

一時は本作こそ明田川荘之の最高傑作かと思っていた。最高傑作というのはちょっと変か。ようするに、ライヴでのアケタ氏の魅力がそのままアルバムになったような印象なのである。A面B面それぞれ一曲ずつという長尺演奏だが、聴いていてまったく飽きない……というか、ダレる箇所もあるのかもしれないが、私個人としてはそういう部分も含めてとにかくよだれを垂らして聴き続けたい……という感じのアルバム。ああ、もう素敵すぎる。ライナーによると、このときアケタさんは中耳炎でかた耳がまったく聞こえなかったらしく、また、客もめちゃ少なく、1ステージ目が終わると客が全員帰ったので2ステージ目が中止になったらしい。しかし、アケタさんは当時、ハイファイ・ビデオ・デッキを買いたてでうれしくてしかたなく、ライヴを録音。聞き返してみると、客が少ないし、中耳炎という悪状況にもかかわらず、「僕の主観かもしれぬが、一発でなく聴き込むうちスルメではないがかめばかむほどじわじわっとどんどん味が出てくるような」と本人が書いているようなすばらしい内容。よくぞ録音してあった! と叫びたくなるような、しみじみとした演奏である。

「YAMAZAKI BLUES」(AKETA’S DISK AD−15)
SHOJI AKETAGAWA TRIO & SOLO

一時は本作こそ明田川荘之の最高傑作かと思っていた……というフレーズは上記でも使ったが、本作もそのとおりで、このアルバムを入手したころは毎日毎日、飽きずに聴いていた。傘をさしてにっこりしたアケタさんの写真と、ごろりと横になった山崎さんの写真、そして「山崎ブルース」の譜面が載ったジャケットがかっこよくて、大好きだった。とにかく一曲目の「山崎ブルース」のあまりのむちゃくちゃぶりに衝撃を受け、「これはぜったいメジャーでは出ないなあ」とあきれた。「私あなたのなんなの? 私あなたのなんなの?」とくり返すボーカル(アケタさん)入りブルースなのだが、最後に、あはーんとあえいだあと「山崎、真性包茎」とか、そういった決めフレーズ(?)が入る、という曲調。聴くたびに爆笑する。しかし、アドリヴに入ると、ハードボイルドかつ曲調をちゃんと考慮したソロがほとばしるあたりもすごい。そして二曲目の「アフリカン・ドリーム」というアケタさんのオリジナル、三曲目ショーターの「フット・プリンツ」という二曲がめちゃめちゃかっこよく、ほれぼれするが、A−4の「チロルヒナ」というわけのわからないタイトルの曲を聴いて、またまた爆笑。演奏時間1分ほどのものすごく短い演奏(テーマだけ)だが、「おおブレネリ」と「ひなまつり」をくっつけた曲なのである(この曲、よくピアノで真似をして弾いた)。B面にうつると、一曲目の「亀山ブルース」は、なんと12小節ではあるが3小節ごとに区切った3小節×4という変態的構成。スタンダードを挟んで、最後はバド・パウエルも「イン・パリ」でやっている「ディア・オールド・ストックホルム」。これが泣かせます。ほんとうにいいアルバムだ。

「NEW STEP WITH MY STEP」(UNION JAZZ ULP−5503)
SHOJI AKETAGAWA

明田川荘之メジャーデビュー作品として当時は話題になった。プロデュースがアケタさんをよく知る沢井さんだし、曲も当時の名曲ぞろいでめちゃめちゃ期待したのだが、ソロピアノということとメジャーの制約なのか演奏がこじんまりとして、いまひとつ物足りない。たとえば「夜明け」とか「マジック・パルサー」とかはあのころ、生のトリオで聴くと、圧倒的な迫力で興奮のるつぼになったような記憶があるのだが、本作ではいまいち爆発しない……というような印象ではあったが、今回久々にひっぱりだしてきて、あらためて聴くと、なかなかよいではないか。やはりあのころは、聴き手としてアケタさんにはパワーを求めていて、こういう演奏がわからなかったのだなあ、と思った反面、やはりアケタズディスクの諸作にくらべると「よそいき」感があるなあとも思った。よいアルバムだが、これが明田川荘之のすべてだと思ってもらっては困る。「夜明け」や「マジック・パルサー」は、トリオでの録音を出してほしいです(もしかしたら、すでにあるのかもしれないが……)。

「ALONE IN TOKUYAMA」(AKETA’S DISK AD−10)
SHOJI AKETAGAWA

一時は本作こそ明田川荘之の最高傑作かと思っていた……と書くのは3回目だが、このアルバムは忘れもしません、高校生のとき、ラジオで明田川トリオの演奏を聴いてショックを受け、注文方法もよくわからぬまま興奮してアケタの店に電話。なんと明田川さん本人が出て注文を受け付けてくれ、通販で買ったという、生まれてはじめてづくしのアルバムなのだ。そして、内容も最高で、ソロピアノなのに信じられないぐらいのかっこよさで、まるでオーケストラのようにピアノが圧倒的なド迫力で響きわたる。なにしろ高校生で、あんまりレコードも持っていないこともあって、毎日毎日聴いていた。アケタズ・ディスク以外ではまだ「古澤良治郎の世界」だけしかでていないころだが、選曲もよく、A−3の「イズント・シー・ラヴリー」(アケタさんの表記では「イズンテュ・シー・ラブリー」)はロリンズをはるかに上回るすばらしい演奏。そして、これは大きな字で書きたいぐらいだが、B面に移って最初の「アケタズ・グロテスク」! これは名曲! あの傑作「ストレンジ・メロ」と並ぶアケタさんの作曲家としての才能をひしひし感じる。昔は自転車に乗りながら、よくこの曲を鼻歌で歌っていたし、自分でもピアノで弾いてみたりした。ラストの「イフ・アイ・ワー・ア・ベル〜オン・ア・スロー・ボート・トウ・チャイナ」のメドレー(アケタさんの表記では「イフ・アイ・ウァー・ラ・ベル〜スロー・ボート・テュー・チャイナ」)もいい。アケタさんは、管楽器しかわからず、ジャズピアノなんてどこがいいの? と思っていた私に、ジャズピアノのすばらしさを教えてくれた大恩人なので、高校のときにこのアルバムに出会えて、ほんとうによかった。そういう個人的な思い入れもあって、私にとって本作は特別なのです。

「POP UP」(AKETA’SDISK MHACD−2826)
AKETA MEETS TAISEI

青木さんは、何度か生で聴いたこともあるし、大原さんの晩年のライヴを客席でならんで観ながら、顔を見合わせてため息をついたこともあるが(向こうはそんなことは一切覚えていないとは思うが)、芳垣さんがプロデュースしたアルバムを聴いて、一時期めちゃめちゃはまった。リーダーアルバムを聴くのは、じつはそのアルバム以来で、明田川さんといったいどんな演奏をしているのだろう、と興味津々だったわけだが……なーるほど、こんな感じなのか。明田川荘之さんのライヴにはけっこう数多く接してきたと思うが、このアルバムは、彼のごく日常の演奏の一コマをすっぽり切り取ってアルバム化したような感じで、もっとも気取らない、いつものアケタさん、という感じがする。だからといってテンションが低いとか、ダレているということはなくて、こういう音が今夜も東京の片隅で熱く奏でられているのだ、という事実がわかるだけでも、地方在住者にとってはある種感動ものなのだ。なんやそれ? と思うひともいるかもしれないが、東京ジャズにアルバでしか触れることができない我々にとっては、こういった普段着の演奏がうれしかったりする。たぶん、けっこう再聴率が高くなるような気がする作品だ。

「I DID’NT KNOW ABOUT YOU」(AKETA’SDISK AD−26CD)
AKETA MEETS TAKEDA

 一曲目はシンセがボコボコ、バコバコいう即興。二曲目は一転して、コルトレーン風ジャズバラード。3曲目は「エアジン・ラプソディ」のコードだけを借りたアケタ氏得意の泣かせのマイナー曲(途中で切れる)。そして、4曲目は武田が入っていないアケタのピアノソロ。というわけで、主役(のはず)の武田和命が参加していない曲もあるし、メンバーも曲によってちがうという、せっかくの追悼アルバムなのに、統一感のないバラバラな選曲だが、これがどういうわけか、演奏を包み込む「空気」が、なぜかしら共通で、全体をひとつのカラーにまとめあげている。これはおそらく、アケタの店という「場」において行われた演奏ばかりだからだろう。東京の下町のライヴハウスで連日行われているさまざまな形態の演奏……ジャジーなスタンダードジャズから破天荒なフリーまで表現はまちまちであっても、そこには確固たる「日本のジャズはこれだ」という確信にみちたミュージシャンたちの日常がたっぷりとあふれていて、形態がバラバラでも違和感はまったくない。そして、武田の存在感がすべてを貫きとおしている。正直いって、どの曲も途中で若干ダレるが、それも含めて、あまりのライブ感をここにおさめられている演奏から感じる。ダレるということは、つねに挑戦しているからであって、短くまとめましょう、と思えば、このひとたちはいくらでもできるのだ。それをつねにソロにおいてチャレンジしているから、ときには妙な展開になったり、うまくかみあわなかったりするが、それがジャズなのだからしかたがない。ソニー・ロリンズでも、ライヴでつねに「サキソホン・コロッサス」みたいな完璧な構成のソロをしていたわけではないし、それはそれで気持ち悪いだろう。本作の白眉はなんといってもアルバムタイトルにもなっているバラード「アイ・ディデンテュ・ノウ・アバウト・ユー」で、武田のテナーに関していえばほぼ完璧な演奏だとおもうし、「ジェントル・ノヴェンバー」のファンにはたまらんだろう。しかし、本作のほんとのおもしろさは1曲目と3曲目にあると思う。フリーであろうと、コードのある曲であろうと、武田というひとは本当に自由なアプローチでソロをするひとだなあと感心する。ある意味、子供のように曲に接している。その場その場で考えついたことを音にして、自分でびっくりしたり喜んだりしている。そんな感じが伝わってくる。武田和命といえば、「ジェントル・ノヴェンバー」が最高、という意見が多いだろうが、私はあのアルバムはたしかにいいと思うけど、なにしろバラード集という企画ものなので、私が何度もライヴで体験した武田さんの凄さはあんまり感じられない。やはりアップテンポの曲も含めた、いい演奏をCD化してほしいなあ。武田さんの音は、テナーとしては理想的というか、すごく指向性の強い音で、まっすぐ正面にズドーンと飛んでくるような感じである。あの「音」の魅力を十分堪能できるようなアルバムを出してほしい。きっと音源はあるはずだ。たとえばピットインでのエルヴィンとの再会セッションなんか、ラジオでもやってたんだから音源あるはずだけどなあ。それにしても、これだけすごいテナーマンが死んだのに、どこも武田の演奏をCDにしようとしなかったのを、三枚も出して、アケタズディスクはえらい。ほんとうにえらい。友だちだからとかつきあいが深かったからとかいった事情だけでなく、武田和命というテナー奏者が存在したことをなんとかして後世に残したいという強い思いがあるからにちがいない。ラストを飾る明田川さんのソロピアノも、こちらの耳がそうなってしまっているのか、慟哭のソロに感じられて感動的である。武田和命の追悼盤ではあるが、明田川さんのリーダー作だそうなので(ライナーにそう明記してある)、明田川さんの項に入れておく。

「AKEDAIRO ORCHESTRA・BLACK」(AKETA’S DISK MHACD−2631)

「AKEDAIRO ORCHESTRA・BLUE」(AKETA’S DISK MHACD−2632)
AKETA MEETS DAIRO

こういうアルバムこそアケタズディスクの本領発揮だ。アケタズディスクがこういう演奏をCDにしつづけてくれていたからこそ、我々は30年もまえから、東京のライブハウスで日々演奏されている、めちゃめちゃおもしろい、ごった煮のような熱々のジャズシーンの魅力の片鱗を感じ取ることができたのだ。なんとかジャズフェスティバルや海外有名ジャズミュージシャンの来日公演、ホールでのジャズを見るだけではけっしてわからん、しかし地方在住の我々にとっては垂涎の熱気溢れるこういった演奏に接することができるのは、アケタズディスクを筆頭にしたマイナーレーベルのおかげである。それは、パーカーのダイアルセッションの時代から変わっていない。ありがたいことでございます。本作は本来二枚組で発表されるべき内容だが、おそらく購入者の買いやすさを考えて、二枚にわけたのだろう。できれば二枚とも聴いてほしい。とにかく、あまりにおもしろくて、おもしろすぎて、もう脳が点になった。ふつうは目が点になるのだが、脳が点になるぐらいボーゼンとして感動しまくった。そもそもスガダイローとアケタさんが共演してアルバムを作るという話をきいて、それってめちゃめちゃおもろいやん、でもうまいこといくのか、と思っていたら、いやーーーーーこんな大傑作になるとは! アケタさんは、アコースティックピアノをスガダイローに任せ、自身はキーボード(エレピ?)を弾いているが、これもメリハリがついておもしろい(もちろんオカリナも吹きまくっている)。アケタ対スガダイローのガチンコバトル……という感じではなく、全編、相手を立てつつ、じぶんも個性を出すというやりかたで、じつに深い、聴き応えのある内容になっている。メンバーは「オーケストラ」を名乗っているが、トランペットに3サックスという4管編成。でも、アケタオーケストラのアルバムでもそうだが、この人数で十分にアンサンブルもソロも「オーケストラ」というゴージャス感が出るのは、全員が手練ぞろいだからだろう。まずは「ブラック」のほうだが、一曲目「ブラックホール・ダンシング」はいかにもアケタさん作曲という響きの曲だが、ノリノリのリズムなので、いっそう変態的に聴こえる。2曲目「サムライ・ニッポン・ブルース」はオカリナがイントロで和音階を延々吹きまくり(つまり、りんご追分)、そこからマイナーブルースっぽい曲になるが、まるで「春の海」みたいな雰囲気のなかを粛々と進行する。かっこいい! ベースソロもしびれる。こういう長尺の演奏をたっぷりそのままに収録してくれるからアケタズディスクは好きだ! これを切ったりすると、こってり感が失われてしまう。正直言って、途中でダレたっていいじゃないか(この演奏がそうだというわけではまったくない)。それも含めてつぎの飛翔の瞬間が際立つのであって、それが生のジャズなのだ。とにかく全部聴かせてくれ! と叫びたい。3曲目「アルプ」はこのアルバムの白眉といっていい、最高に美しいバラードだが、美しいだけではなく諧謔のノイズが聴こえてくるバラードである。冒頭の松本健一のへしゃげたようなソロが美しい! このソロ、もう、めちゃめちゃ好き。なんというツボを心得たソロだろう。つづくスガダイローのソロも死ぬほどかっこいいのです。ラストはおなじみ「室蘭アサイセンチメンタル」だが、イントロのアケタさんのエレピが心に染みわたる。それにバッキングをつけるスガダイローのピアノ。ここはほんとにかっこいいですよ。林栄一〜榎本秀一とリレーされるソロもすばらしい。前者は鋭く、フリーキーかつ泣き節で、後者はパワフル、かつ(やはり)フリーキーで、どちらも日本を代表する荒武者ぶりをたっぷりと堪能できる。ああ、至福。最後のぐしゃぐしゃもアケタさんの世界観。そして、二枚目「ブルー」は、一曲目はあの「亀山ブルース」である。訥々としたオカリナがボーカルのようでよい。ブルースのお手本的フレーズを軽妙につむいでいく。オカリナは、楽器としてできることは限られているので、そこがいいのだ。つづくダイローのピアノソロが死ぬほどかっこいいし、林のアルトソロも爆発しており凄いとしか言いようがない。そして最後のアケタさんのエレピソロとドラムとの4バースは、エレピ独特の響きともあいまって、ああ、これが今東京のアケタの店はじめいろいろなライヴハウスから聴こえてくるリアルなジャズなのだ、という空気がドドーッと押し寄せてくる。2曲目「Mr・板谷の思い出」は、オカリナのソロから吉野弘志のベースソロになり、このあたりからすでにしみじみとするが、テーマに入った瞬間にけっこう泣けてくる。エレピとアコピの共演はしみるし、スガダイローのソロもすばらしい。技術と感情が一体となった表現力というか、こうなるともう最強ですね。要するに、順番に無伴奏ソロをフィーチュアしていくということなのだが、圧巻である。ええ曲やなあ。3曲目「アケタズ・グロテスク」はソロピアノ集でもアケタオーケストラでもやってるアケタさんの代表曲(グロテスクが代表ということで、私との共通項を感じたりして……)だが、エレピのぐちゃぐちゃのソロからはじまり(ああ、アケタワールド!)そこにスガダイローがからんでいき、テーマに突入。かっちょええっ! 単純にかっこいい。ピアノだけでやるときとはテーマの感じがちょっとちがうのだが、オーケストラアレンジとしてはこのほうが正解だと思う。ほんま、こんな曲を書けるなんて天才。あ、だから天才アケタなのか。テーマが終わった瞬間に飛び出すように出てくる榎本テナーソロは「ゴリゴリ吹く」という言葉がほんとにぴったりの熱狂的なソロ(なぜか途中でチュニジアのイントロが)。フラッタータンギングからのスクリームも見事に決まって、思わず拳を突き上げてしまう。男だねえ! これを根性吹きと笑うひとは顔を洗って出直してこい。いや、ある意味、真の根性吹きかも。すばらしいっっっ。まさに血の滲むようなブロウ。つづくスガダイローのソロは逆に、軽々とグロテスクな世界を演出してくようにみえる。これもめちゃめちゃかっこいい。最後は怒濤の混沌フリーに突入する。ぱらいそさ行くだーっ。4曲目はおなじみ中のおなじみ「エアジン・ラプソディー」。この曲調! ええなあ。ほんま、明田川荘之は日本の宝ですよ。渡辺隆雄のラッパソロも心の傷口にしみ込んでくる。つづく松本健一のソロは、またしてもへしゃげたようなトーンではじまるが、そこから丁寧にフレーズを積み上げていき、ついには大噴火にいたる過程もあまりに良くて感涙。おおげさにほめ過ぎてるって? とんでもない。このひとは本当に「音」がいい。こういう風に吹けたらどれだけうれしいだろう。その後、キ〇ガイじみたあおりのあと、リフ入りのドラムソロ。そしてテーマ。最後はなぜか「ブルーモンク」でメンバー紹介。これもメジャーレーベルならカットされるかもしれない部分だが、ちゃんと丸ごと収録してくれるところがアケタズディスク! この日、アケタの店に居合わせた聴衆は幸いなるかな。ああ、うらやましいです。しかし、私のようにハンカチを噛んでうらやましがるファンのためにこうやってアルバムをリリースしてくれるのだから、アケタの店には足を向けて寝られないのではないでしょうか、全国の皆さん! 最後に明田川さんのライナーにある「僕においてスガ・ダイローと石田幹雄という若き存在は、将来のジャズ・ピアノ界への不安をぶっとばしてくれる大朗報であります!! 嬉しい!」とあるのは、まったくそのとおり! と声を大にして返信したい。そうそう、みんなそう思ってるのだよなあ。傑作です。聴いてください。

「室蘭・アサイ・センチメンタル」(AKETA’S DISK AD−37CD)
明田川荘之トリオ

 94年のアケタの店でのライヴ。ベースは山元恭介さんでエレベである。1曲目は、「ストレンジ・ウッド・ブルース」といって、ベースとドラムは普通にジャズブルースのバッキングをしているのだが、アケタさんのピアノがどうにもならんぐらい変態で、これはテーマから呼び起こされたものだろう。とにかく、例の「ストレンジ・メロ」をはじめとする、アケタさんの「あの路線」の曲で、めちゃくちゃええメロディ、そして、ソロ。ときどき、バップフレーズがちょこっと顔を出すと、あっ、と思うぐらい、ほぼ全編変態的なフレーズで占められている。明田川荘之の個性爆発の真骨頂の演奏。ベースソロは、エレベなので最初ちょっととまどうが、すぐに気にならなくなる。2曲目はおなじみ「ディア・オールド・ストック・ホルム」で、哀愁、哀愁、ひたすら哀愁、よろしく哀愁な演奏で、私が明田川さんの演奏にひかれる(高校生のときからもう30年も聴きつづけている)のは、たぶん、この哀愁のせいだと思う。木訥な感じで歌をつむいでいくアケタさんのソロをずーーーーーーっと耳で追っていくと、すべての音が身体の細胞に染みてくるような気分になり、これで酒でも飲んでいたらヤバイ(今は飲んでないけど)。途中からまるで「夜明け」を聴いてるんだか「ディア・オールド……」を聴いてるんだかわからなくなるぐらい、とにかく哀愁なのであります。低音をグワーンとやろうと、だみ声をずっと発していようと、哀愁、哀愁、哀愁デイト。3曲目はスタンダードナンバーでオカリナでソロをとる。これだけオカリナでバップフレーズを吹けるひとはなかなかいないと思う。素朴な音色とあいまって、独特の味わいがある。後半はピアノも登場。4曲目(タイトル曲)は、これも哀愁の曲なのだが、もうアケタ節満開のめちゃめちゃええ曲である。テーマを聴いているだけで泣ける。ほんまにええ曲。ソロもダイナミックで、歌心とリズムに溢れ、ピアノトリオがオーケストラのように轟いたかと思うと、矮小で泣かせの四畳半の世界にもなる、この振り加減が凄い。このアルバムに収められたのはたった4曲だがこの4曲にアケタさんの魅力のすべてが集約されているといっても過言ではない。ファンはもちろん、明田川荘之入門にもぴったりの一枚ではないか。

「AIREGIN RHAPSODY」(AKETA’S DISK AD−24CD)
SHOJI AKETAGAWA & AKETA NISHIOGI SENTIMENTAL PHILHARMONY ORCHESTRA

 87年の録音。録音の約2カ月前に亡くなった国安良夫に捧げた演奏で、冒頭にそのことを明田川さんが一言言ってから演奏がはじまる。オーケストラといってもトランペット1、トロンボーン1、サックス2にスリーリズムだから、4管編成のハードバップバンドと変わらないのだが、たとえ4管用であってもアケタさんによるアレンジがきっちり施されており、全体の構成も決められており、たしかにこのグループはオーケストラなのだった。1曲目は国安良夫の曲で、素朴な南国の風景を連想させるようなメロディに、おおらかで広がりを感じさせるアレンジが施されている。榎本秀一の無骨なソロが延々と続き、空気を設定する。故板谷博のビッグトーンのトロンボーンがそれを受けるが、これもまた野武士のように無骨なソロである。流麗さを排した点が、いかにも国安良夫の追悼にふさわしいと思う。2曲目は明田川さんの作曲のなかでも名曲中の名曲で、あの名盤「アローン・イン・徳山」やアケダイローオーケストラのアルバムなどにも入ってる。ここでは、池田篤のアルトが爆発しており、フリー突入寸前の凄まじいソロを繰り広げる。吉田哲治のトランペットは正攻法の力強い演奏。つづくアケタさんのピアノソロは、まさにグロテスクといっていい凄まじい演奏で聴いてるほうも熱くなる。3曲目はシンプルでユーモラスなブルースで、ひとつのリフを4度、5度にずらすだけという一番簡単なブルース作曲法に基づいた曲。アレンジも、さすがにこの曲については「フィルハーモニー・オーケストラ」と名乗るのはいかがなものかと思われるような、ほぼ2管用のアレンジ。ソロはオカリナ、トロンボーン……と続く。ええ曲や。シンプルな曲というのは、ベイシーの例を出すまでもなくビッグバンド向きなのである。4曲目はこれもおなじみ「エアジン・ラプソディー」。「国安くんもよく演奏しました」と冒頭にアナウンスが入る。もの悲しい、名曲だ。池田篤のファンキーなソロが先発、明田川さんのねちっこいピアノがそれに続き、悲哀を煽る。長尺のドラムソロがあってテーマ。ラストに、「今こそ別れ」というルネッサンスの作曲家ダウランドの曲が、国安さん追悼の意味で演奏される。(オカリナとトランペットの二重奏ではじまり、ドラムのロールからアンサンブルになる。

「WAPPE」(OMAGATOKI SC−7105)
AKETA NISHIOGI SENTIMENTAL PHILHARMONIC ORCHESTRA

 明田川荘之率いる「西荻センチメンタル・フィルハーモニック・オースケトラ」は何枚もアルバムが出ているが、最高傑作はこれだろう。アケタズ・ディスクではなく、オーマガトキからの発売。購入したときは、毎晩聴いていた。アケタオケは、ソロ重視で、ビッグバンド的なアレンジの部分はテーマとちょっとしたリフぐらいの添え物、というイメージがあるかもしれないが、本作はその両者がうまくバランスしていて、普通の意味でのオーケストラ的な醍醐味も存分に味わえる。アケタさんのことだから、曲が日本人の心に染みるものや大胆な音使いで一度聴いたら忘れられないものばかり、という点も大きいが、アレンジ自体も、シンプルかつよく練られていて、めちゃめちゃかっこいい。ピアノとギターがじつにうまく使われているし、ホーンのユニゾン部分も野武士のように力強い。1曲目はおなじみ「ストレンジ・メロ」で、「アケタズ・グロテスク」と並ぶ超名曲。呼気イントロを聴くだけでもぞくぞくするほど興奮する。もともとピアノで弾くことを前提に作られたメロディなので、複数の管楽器でテーマ(の一部)を演奏すると、ちょっとイメージが変わるが、これもまたよし。途中で出てくるリフもかっこいい。先発ソロの榎本秀一のテナーがめちゃかっこよく、このアルバムの全体の印象は、この榎本テナーソロで決定づけられたといっても過言ではない。じつに気持ちよさそうにブロウし、次第にフリーキーになっていく。ギターとパーカッションが入ることでカラフルになったリズムセクションがソロを煽り、リフがソロを煽る。ブラックミュージックを感じる無骨なソロ。こういうのがビッグバンドの醍醐味なのだ。ピアノソロもオケをバックに炸裂していて、超かっこいい。ときどき空手チョップのように鳴らされる「キャンッ!」という音が心に突き刺さる。最後はピアノ主導で混沌とした世界になって、これからもう一盛り上がり……というところで残念ながらフェイドアウト。あー、これは全編収録してほしかった。2曲目は、タイトルチューンで「わっぺ」だが、イントロダクション的に「いかるが桜」という曲が演奏される。その部分だけで4分以上あるので、一種のメドレーか。いかにも「いかるが桜」というタイトルにふさわしい和風のメロディが(ほぼ)ユニゾンで奏でられて、あまりの哀愁に心がじくじくする。ピアノソロがじつになんとも美しく、まるで琴のように聞こえる箇所もある。途中で和歌の朗読が挿入され、そこから「わっぺ」がはじまる。「いかるが桜」の雅な「和」よりは、ちょっとわらべうた風の印象の「和」に変わるが、つなぎかたはスムーズ。このメロディを書いたひと(明田川さんだが)は天才だと思う。天才アケタの名前は伊達ではない。訥々と優雅に奏でられるピアノソロ、背後で蠢く怪しのトレモロギター。ああ、かっこよすぎる。間をいかした自由自在なギターソロも味わい深い。3曲目は一転してスタンダード「セント・トーマス」がオカリナフィーチュアで。テーマもオカリナのぴこぴこしたサウンドでかわいらしく吹奏されるが、ソロがバップフレーズ連発なので、はじめて聴いたひとはきっと驚くでしょう。これはホーンが参加しない演奏。4曲目は、これもおなじみの「エアジン・ラプソディ」だが、いつ聴いてもええ曲やなあ。ある意味、超正攻法のあざといメロディなのかもしれないが、とにかく哀愁哀愁哀愁……。この曲をはじめ、どの曲も、オケ部分と、そこからすーっと抜け出てくるおなじみのアケタ節のピアノの対比がなんともいえない。野太い音の故板谷博のソロが出てくると、泣かせは3倍にも5倍にも。そして、榎本秀一のソロはまったくもって私好みなのだった。この曲も残念ながらフェイドアウトだが、そうせざるをえないほどこのときの録音がもりあがったということかもしれまへん。5曲目は、変な歌詞のついた「アイ・ライク・ウメさん」というブギウギっぽい、というかトレインピースのようなリズムの曲。トランペットソロが大きくフィーチュアされる。歌詞のせいで、コミックソングのような印象を受けるかもしれないが、この曲のメロディはじつは相当かっこいい、よくできたものだと思う。それをあえて、こういうギャグっぽい歌詞をつけてしまうアケタさんの照れみたいなものを感じる。榎本秀一のテナーソロも自然体な感じで好きです。6曲目は「アージェンシー」という曲で、冒頭から咆哮ではじまる林栄一のソロは凄まじい。ものすごいスピード感を維持したまま、曲は終わる。7曲目は「オーヨー百沢」という、これも和風の旋律の曲。コード進行的には「エアジン・ラプソディ」的だが、とにかくこのほとばしる哀愁のまえには鬼神も泣く。最後はスタンダードで「サニー・サイド・オブ・ストリート」。これはアケタ氏もライナーで「アフターアワーズ」といっているように、きっちりしたオーケストレイションのない、ジャムセッション的な雰囲気をキープした演奏。オカリナやトロンボーンがコレクティヴインプロヴィゼイションを行い、デキシーランドジャズっぽい雰囲気を醸し出す。ハッピーなうちにアルバムは終わり、もう一度最初っから聴こう……ということになる。私は今回も3回聴きました。傑作!

「LIFE TIME」(AKETA’S DISK MHACD−3502)
明田川荘之、斎藤徹 DUO

 ピアノ〜ベースのデュオ、2枚組ライヴ。こういうものをあっさり(あっさりでもないと思うけど、メジャーでは無理)出してしまうところが、さすがアケタズディスク。デュオなのに、ひとりひとりのキャラが立ちまくり、人間性が前面に押し出されているためか、ドラムや管楽器がいるように聞こえる。いや、もっと言うと、オーケストラのようにも聞こえる。もちろん、両方とも一度に複数の音が出せる楽器だから、ということもあるが、このふたりは、単に楽器を弾くだけでなく、叩いたり、引っ掻いたり、声を出したり、小物を鳴らしたりと、さまざまなアプローチを間断なく行い、それが総合して壮大な音楽に聞こえるのだろう。とまあ、大げさなことは置いておいて、ここでの演奏はCD2枚組で7曲と、かなりたっぷりした長さだが、これは明田川さんのいつものことである。聴くほうも、たったふたりの演奏を延々と聴かねばならないわけだから、体力と気力が必要だが、実際聴いてみると、その起伏というか音楽的ドラマに、あっという間に聴き終えてしまう……と、これもいつものことだ。音楽的ドラマといったが、そのなかにはかなり前衛的な部分や露骨にベタな盛り上げや、哀愁や、リリシズムや、怒り、喜びなどが詰め込まれており、聴いているうちにどんどん引き込まれて、こちらがノッてくる。この緩急の自然な配分が、明田川さんワンアンドオンリーなのだ。1枚目2曲目のオカリナによる「ナウズ・ザ・タイム」や2枚目3曲目「セント・トーマス」といった大スタンダードもやれば、1枚目3曲目「アフリカン・ドリーム〜マライカ」といった、かなりシリアスな曲もやるが、どちらも明田川荘之という稀代のピアニストにかかると、じつにわかりやすく、楽しく聴けてしまうのだから、マジックとしか言いようがない。ほら、ときどき、なんの話をしても、ほかのひとがするよりもめちゃめちゃ面白くしゃべれるひとがいるでしょう。明田川さんというのはそういう面の天才だと思う。そして、相方である斎藤徹さんのベースは、まさにこの天才とがっぷり4つに組むのにふさわしいもう一方の天才で、伴奏というのではなく、個性というか「本音」をばんばんぶつけてくる感じ。ふたつの個性が螺旋のようにからみあい、ひとつのものに昇華していく姿は美しく、また恐ろしくもあるが、明田川荘之という個性の塊に対して螺旋を描くには、同じような個性の塊でなくてはならない。斎藤さんならばっちりなのです。2枚目1曲目の「アドリブ1700」という曲はオカリナのバロック風な無伴奏ソロではじまり、そこに後ろからぞわーっという感じでベースが入ってくる。ライナーによると、1700年ぐらいの、バッハのアドリブを意識したそうで、まさにそんな感じの演奏。2曲目はアケタファンならおなじみで、「わっぺ」や「旅」にも入っている「オーヨー百沢」という曲。セーラー服と機関銃のテーマの一部(「夢のいた場所に〜」という箇所ね)をいつも連想してしまうフレーズからはじまる、哀愁の極地のような名曲。アケタさんの個性全開のコンポジション。ええ曲やなあ。3曲目はこれもアケタファンならライヴでおなじみの、オカリナによる「セント・トーマス」。ラストの曲はこれもおなじみでアルバムにも何度も入ってる「アケタズ・ブルース」。ブルースといってもブルース臭のまったくない曲で、演奏もかなりフリーっぽく、ハードボイルド。斎藤徹のアルコもかっこいい。2枚組だが、演奏時間は足して100分ぐらいなのですぐに聴き通せてしまう。でも、けっこうヘヴィですよ。

「三階節」(AKETA’S DISK AD−42CD)
明田川荘之ユニットフィーチャリング松風鉱一

 大傑作。ジャケットは明田川さんと松風さんの写真……ではなく、なぜかアケタさんとバール・フィリップスの写真なのである。もちろんバールは本作には参加していないが、2曲目が「バール・ブルース・フィリップス」という曲なのだ。1曲目は2ギターのクインテットで、2曲目はトリオ、3曲目はカルテットと曲によって編成がちがうが、共通しているのはドラムがいないこと。これがまったく違和感なく、いや、すごくいい効果をあげていると思う。1曲目は「三階節〜長者の山」というメドレーで、三階節は新潟民謡、長者の山は秋田民謡だそうだ。オカリナをフィーチュアした部分ではじまり、そのあとはボサノバ的なリズムに乗って一聴して明田川さんだとわかるピアノソロ(泣ける〜)から、松風鉱一のアルトソロ。これもすばらしい。聞き惚れる。2ギターによる演奏がこれまためちゃめちゃいい効果をあげていて泣ける。ほんと、泣きまくれる演奏だよ。この2ギターの部分はめちゃくちゃすごい。異常に盛り上がる。何度聴いたかわからん。すごい。1曲目は25分近い長尺の演奏だが、まったく長さを感じない。最後はちゃんとオカリナによるテーマが奏でられ、ライブ録音ではあるがひとつの演奏として完璧に完結した感じの感動が味わえる。2曲目はバール・フィリップスに捧げた曲。いかにもアケタさん的なテーマが良い。はじめはピアノとベースのデュオなのだが、アケタ節全開のソロは何度聴いてもすばらしい。リズミカルで突拍子もなく前衛的でしかも哀愁である。これぞ日本のジャズだよなー。8分を超えたあたりで松風さんのフルートが登場。このソロが死ぬほどいい。ドルフィ的でどうのこうのという言葉が無意味に感じるぐらい、世界中で松風鉱一ただひとりの個性というべき鬼気迫るソロ。まさに「墨絵に描きし松風の音」とでも言うべき幽玄のきわみ。アケタさんのこれまた強烈な個性をぶつけるバッキングも聞きもの。ランニングから崩れていくようなベースソロも味わい深い。3曲目はスタンダードで「イフ・アイ・ワー・ア・ベル」。たしかソロアルバムでも演奏していたので、明田川さんの愛奏曲なのだろう。イントロが結婚行進曲と葬送行進曲という、まさにアケタさんの面目躍如。つづくソロもメロディがよく聴こえてくるし、オリジナリティあふれるすばらしいもの。3曲ともかなり長い演奏ばかりだが、まるでダレるところがなく、一気呵成に聴いてしまいます。いやもうほんま傑作です。

「LIVE IN HAKODATE”A−UN−DO−HALL”(AKETA’S DISK MHACD−2646)
SHOJI AKETAGAWA

 アケタさんのピアノとソプラノサックスのデュオだが、カーブドソプラノのひと(ふだんはアルトらしい)はまったく名前を知らない。松風鉱一さんより先輩というからけっこうな年齢のかただが、フリースタイルしかやらないという硬派なひとで、本作でもこのひとのパートはひたすらフリーである。しかも、なんというか、昔風というか、ひたむきにむちゃくちゃ吹くといった感じで、聴いていてほほえましい演奏だ。けっして悪い意味ではなく、そういう演奏がアケタさんのピアノと非常に合っているのだ。一曲目はいきなり打ち込みのドラムとベース(ベースは吉野弘志さんらしい)の音ではじまり、ちょっとびっくりするが、こういうチープなエレクトリックもまた明田川ワールドの一側面である。三曲目の「アイ・シュッド・ケア」ではアケタさんのジャズピアノ史を横断するような熱い演奏が展開。でも、いちばん気に入ったのはラストの「アフリカンドリーム」という曲で、こういうエキゾチックな曲をやるとまさに明田川荘之の独壇場である。ピアノも良い音で録音されており、例の唸り声もふんだんで、とても調子が良さそう。個人的には気に入ってる(というか、これこそ普段のアケタさん)が、明田川荘之をはじめて聴くというひとにはおそらくべつのアルバムをすすめると思う(純粋なソロとかピアノトリオとか)。

「マジック・アイ」(META花巻アケタ AD−64CD)
明田川荘之&枕

 明田川荘之のピアノとヴァイオリンの太田恵資、アルトの宮野裕司という変則トリオだが、違和感は皆無。アケタさんのピアノが基本的に全体を仕切り、ヴァイオリンとアルトがそこにからむ……というのが大半だが、それで音楽的にもバランスが取れている。。ヴァイオリンとアルトはそれぞれの見せ場になったら大活躍する……というやり方なので、実に「たっぷりした」感じだ。1曲目「わっぺ」はいつもどおり明田川ワールド炸裂で、ヴァイオリンソロは突然アフリカな雰囲気ですばらしい。2曲目(国安良夫さんの曲だそうです)はオカリナのイントロのあと、唐突に美しい世界に転ずる。これもまたたちまち明田川ワールドに引きずり込まれてしまう。美しいメロディを弾いていたかと思うと、左手で暴力的なアクセントをつける。しかし、全体としては美しさが保たれている、いや、かえって増大している……といういつもの絶妙のアレだ。ピアノソロのあとの眩惑的な展開もなんともいえません。3曲目は表題曲で、これもまた明田川さんとしか言いようがないおなじみの名曲。ピアノソロではじまり、ひとしきり弾いたあとマイナーブルースのテーマが登場する。ヴァイオリンのすばらしい音色とピアノのからみはもう美味しすぎて筆舌につくしがたい。かっこいい! 途中、ちょっと「マジック・パルサー」的なフレーズもでてきたりして、タイトルが似ているのはなにかあるのか? ああ、こういうマイナーキーの曲をやると明田川荘之の独壇場だなあ。ほんと、日本の宝ですよ。トミー・フラナガンがこんな風に弾くか? ブラッド・メルドーがこんな風に弾くか? どうなんだ、こらっ! と思わず興奮してしまうほど、アケタさんはすごいのです。この曲ではアルトの宮野さんの変態的なソロやヴァイオリンの独創的すぎるソロもフィーチュアされている。全部で22分もあるのでダレるのではないかとご心配のかたもおられるかもしれませんが、明田川ワールドに耽溺しておればそんなことはまったくありません。ラスト近くでわけのわからないヴォイスが突然飛び込んでくるのも、いや、ほんと、このメンバーだと自然に聴けてしまうのだ。不思議不思議。最後の曲「アフリカン・ドリーム」は最近(?)、この曲をタイトルにしたアルバムも出たが、名曲。オカリナのイントロではじまり、おなじみのテーマへ。明るさと暗さ、重さと軽快さをあわせもつ演奏だ。これも20分近いたっぷりした演奏。傑作だと思います。

「パーカッシブ・ロマン」(AKETA’S DISK MHACD−2610)
AKETA+斉藤徹+翁長巳酉

 1曲目「テイク・パスタン」、2曲目「テイク・パスタン・バリエーションズ」でこのトリオの魅力全開。アケタさんらしい日本調の泣かせの曲。明田川さんはマイクのせいか、いつもの唸り声があまり聞こえないが、フリージャズではないのにここまで自由に弾くひとも珍しい。昔からの共演者斉藤徹も、普段はコントラバスによるさまざまな試みを国際的に続けているひとだが、アケタさんとやるときは1ベーシストとして骨太なベースワークを披露する。アルコのソロも泣ける。翁長巳酉というひとはアクセントのつけかたが独特でめちゃかっこいい。明田川さんのピアノと合うなあ。いつもやってるオカリナの「セント・トーマス」せ、この強力無比のリズムセクションだとドライブしまくる。ベースをパーカッションのように使った斉藤徹のソロは凄い。途中からノコギリで木を切ってるような音が延々続き笑ってしまう。どこがセント・トーマスなんだよ! 本来のピアノトリオとしてのセント・トーマスになるのは14分ぐらいしてから。ラストはなんだかぐだぐだになって笑えます。4曲目の「てつ」というのはアケタさん作曲で斉藤徹氏に捧げた曲。細かいリズムがあるが一種のバラードで、しみじみと心を打つ名曲。まあ、明田川さんの曲は名曲ばっかりだが。途中からものすごく速いテンポになり、ぐじゃぐじゃになったあと、また復活。ラストはおなじみの「エアジン・ラプソディ」で、なかなかすごいピアノソロのイントロではじまり、あのメロディが叩き出される。かっこいい! ときどきズドン! と来る左手の不協和音、アー・テイタムが発狂したようなスケール、むちゃくちゃのフリー、そしてふたたび哀愁……頭がおかしいとしか思えない一連の展開はたぶん世界でもワン・アンド・オンリー。こうしてみるとマイナーキーの曲が多いが、気にすることはない。まるまる全部が組曲だと思えばいいのだ。いやー、いつものとおりといえばいつものとおりなのかもしれないがやっぱりアケタワールドは耽溺してしまう。それだけ、共演者をも取り込む魔法があるということで、だから明田川荘之はえらいのだ!

「アフリカン・ドリーム」(AKETA’S DISK MHACD−2648)
明田川荘之〜楠本卓司〜本田珠也

 2ドラムスに1ピアノという変則ピアノトリオ。可愛らしいピアノのイントロからはじまる表題曲はこれまでにも何度か録音されていると思うが、ついに表題曲に昇格した。聴いていると、ツインドラムが大迫力でぶつかり合い盛り上げる……というより、ピアノに対して双方が一言ずつ付け加えながら、ちゃんと3人のアンサンブルでじわじわ進行していく。ああ、これはたしかに「ピアノトリオ」だと思った。まるでうるさくない。そしてどんどんエキサイトしていくが、それが「ドラムが2台で派手にやってる」というのではなく、インタープレイとしてきめ細やかな駆け引きになっているので面白くてしかたがない。ピアノのリズムがしっかりしていて、しかもいつもの調子でマイペースなので、ふたりともなにを付け加えてもマイナスしても大丈夫だという意識からか自由に叩いている感じ。途中からドラムデュオになり、ライヴなのでかなり長いのだが、ここも「2大ドラマーの激突!」的なものではまったくなくて、親子の会話のように楽しく、グルーヴしながら交歓している。なんとなくだが、古いカンサスシティジャズのドラマーふたりがセッションしているような情景を思い浮かべてしまった。そこへピアノが入ってきてエンディング。構成的にもとてもまとまっていて、アケタさんにドラム2台……ということで連想されるどしゃめしゃな展開ではない分、ちょっとものたりないぐらいのちゃんとした演奏である。2曲目は「テネシーワルツ」でピアノソロから始まる。そこにドラムが入ってきて、ピアノは延々とテーマを繰り返し、ふたりのドラムの共演を支える感じになる。そして、ピアノが消えてドラムデュオになるのだが、ここも激しくぶつかり合う……とかではなくて、粗いロールを基本に訥々と会話をする雰囲気。このあたりの感じは実にしみじみ染みる。そして、ピアノがテーマをこれまたしみじみ弾いて終了。おお、この曲も破綻もなく、本当に1ピアノ2ドラムで「ピアノトリオ」が成り立っている。3曲目は、ライヴでオカリナといえばこれ! の「セント・トーマス」だが、2ドラムだとどうなるのか。カリプソということでふたりのドラマーが激突するのか。そういう興味で聴いていると、これがどうしてどうして、オカリナの小さな音をいかすようにドラムもぐっと音量を下げ、音楽的バランス優先での演奏。オカリナソロが終っても、ふたりのドラムはブラッシュでリズムをキープしながら対話する。スティックに持ち替えても音量も手数も抑えられたままで、そこにピアノが入ってきてエンディング。4曲目はこれもおなじみ中のおなじみの名曲「野尻の黄昏」。これもドラムは抑え気味だが、二台あってちょうどいいぐらいのバランスになるようにふたりがわかって叩いている。しかも、腕は4本、足も4本なので、明らか1台のドラムよりも複雑なリズムになっているが、それはポリリズムとか変拍子とかではなく、より柔軟できめ細かく、なんというか……ざらざらした独特のグルーヴが生まれているような感じなのだ。ツインドラムの効果がもっとも上がっているのはこの「野尻……」でしょう。途中で(例の)ぐしゃぐしゃな感じになったときも左右からリズムが矢継ぎ早に投げつけられるようで面白い。そのあとドラムデュオになって、ここは本作中で一番普通(というかドラムデュオということで連想されるような)演奏。個性が異なるふたりのドラマーがひとつに溶け合っていく。ひとしきりリズムの饗宴が続いたあとピアノが入ってきて、テーマを弾いたあと、突然「ブルー・モンク」になる。アケタ流引用フレーズのソロワンコーラスにドラムが交互にワンコーラスずつバースをするという展開。ここでふたりのドラマーの個性の違いもはっきりわかる仕組みになっている。
 全体を通して、これならドラマーひとりでよかったじゃん、というひとは、もっと音量をあげて聴きなおしてみたらいいのではないかと思う。この浮遊感というか快感はなかなか病みつきになりそうです。

「アケタズ・エロチカル・ピアノ・ソロ & グロテスク・ピアノ・トリオ」(AKETA’S DISK OTLCD2401)

 傑作であります。オフノートで「ジス・ヒア・イズ・アケタ」3作(VOL.3は見たことも聞いたこともない。ほんまに存在するんかなあ)を出したあと、ついに、というか、とうとう、というか、自己のレーベルを立ち上げたアケタさん。その第一作が本作だ。自分のライブハウスである「アケタの店」も作り、このアルバムは当然だがそのあけたの店でのライヴである。7曲中、6曲がソロ、最後の1曲が山崎弘一、宮坂高史(孝と表記)とのトリオによる。ずーっと探していたが、ついに購入することができず、こうして再発CDのお世話になっているが、いやー、ほんまに傑作ですね。「ジス・ヒア・イズ・アケタ」もそうなのだが、本作録音時にアケタさんが完全に自分のオリジナリティを構築していたことには驚愕する。凄いことだと思う。この時点で世界に通用するオリジナリティがあるのだ。全体の構成などよりも、感情の赴くままにアドリブするこの凄まじいスタイルはジャズ史において前例がない。1曲目から凄い演奏がほとばしり、私のようなものにとってはただただ感動の嵐なのだが、一枚のアルバムとして見た場合、正直、全曲ソロのほうが統一感が……とも思わぬでもなかった。だが! しかし! 最後のトリオによる曲を聴くと、うーん、なるほど、これを入れたかったのはわかる! というような名演だった。宮坂の凄まじいドラムのプッシュを聞くだけでも価値は高い。激しいドラムソロになり、そこに絡むピアノ……このあたりのかっこよさよ。なにしろ自分のレーベルでの一作目だし、いろいろ気合いも入りまくっていただろうし、もしかしたらこの1作目だけであとが続かない……という可能性もあっただろうから、かなりやりたい放題やったアルバムだと思うが、今聴いても最高である。たぶん1曲だけトリオを入れたのも、2枚目が出せるかどうか……というような思いもあったのだろうと推察する。明田川荘之の特色は繰り返しによるしつこさだ。本作も、どの曲も油絵を何度も何度も塗り直していくようなしつこい演奏が随所に聴かれるが、このしつこさこそ70年代以降のジャズに特有、かつ中央線ジャズ的なものに特有のものではないかと思う。ほんまにかっこええ! 例の声もふんだん。この声がなかったらアケタさんではないわ、と思うぐらい。そして、ぐちゃぐちゃに叩きまくってるようで、じつはそこか下降していく音列のリズムがびっくりするほどイーヴンで、そういうテクニックにも驚かされる。それにしても、このタイトルはなんとかならんかったのか。本作がもしこのタイトルでなかったら、発売された時点で世界中に評価されていた……かも……と思うと残念でならないが、ぶっちゃけアケタズディスクの第1作はこのタイトルがまさにふさわしい、とも思う。まさに「天才」アケタだと思う。いや、ほんとに。傑作としかいいようがないアルバムの再発……歴史的快挙であります。

「いそしぎ」(AKETA’S DISK MHACD−2640)
明田川荘之

 2012年のアケタの店での録音を集めたもの(1曲だけ2011年11月)。震災・津波によって大きな被害を受けた岩手の「クイーン」という店に捧げたアルバムということだが、個々の曲はそういうコンセプトで演奏されたというより、3.11のあとに明田川さんがライヴで演奏した曲のなかから、そういう気持ちで弾いたものをピックアップしてまとめた、というようなことらしい。「クイーン」のママさんは津波で亡くなられたそうだが、店が流されたことによって2万5千枚のレコード(とCD)が消失した、ということに衝撃を受けた。ライナーノートとともに掲載されている写真にはありし日の「クイーン」の店内の様子が写っているのだが、大量、というか、悪魔的に膨大な量のレコードや書籍がうずたかく積み上がっていて、それを見た私のなかに、ああ、ジャズ喫茶やなあ……という感慨が湧きあがった。これらのものがほんの一瞬のうちに押し流されて「無」になってしまった、ということにはある種の諦念を感じざるを得ない。たしかに人間は「本来無一物」なのだ、ということを突き付けられたように思う。個人の「死」はもちろんひとつの「終わり」だが、つぎの世代につなげていくことができる。しかし、二万五千枚のレコードが一瞬にして泡と消えることについては、もうどうしようもない。そういうことがここに収められた演奏を聴いているあいだにも頭を離れず、とうていちゃんとした鑑賞ができているとは思えないのだが、逆に明田川トリオの演奏はそういう感傷を離れて、非常にクールで音楽的なのがありがたい。ふつうに聴けばいいのである。ふつうに聴いて、そこからいろんなものを勝手に読み取ればいいのだ。そのなかには演奏者が思ってもいなかったようなものもあるだろう。突然話が変わるが、私は、小説というのは「嘘」だと思っていて、それが小説における一番大事な要素であると考えている。私小説だからといって、それは真実ではなく、嘘なのだ。その「嘘」によって「真実」を語らせよう、とするのか、しないのか……それは書いたものの勝手である。私小説だから、それを評するひとが誤読したからといって、そのことに抗議するというのは、まったく理解できない(媒体が、影響力を持つから、というのはもっと理解できない。影響力を持たない媒体ならいいのか?)。だから、このアルバムにおける明田川トリオの演奏も、CDとして世に出たのだから、それをリスナーがどういう風に受け取ってもいいわけで、3.11を念頭に置いた演奏だからといって、聴いたひとが「これはめちゃくちゃ楽しい! ハッピーな演奏やな!」と思ったとしてもなんの問題もないと思う。私が聴いた印象としては、ここに収められている演奏は、先入観なく聴いたとしたら、どれもまさしく明田川荘之の音楽そのものであって、かっこいいし、楽しいし、美しいし、スウィングしているし、まさに極楽である。しかし、その底の底の底になにか……憂いというか哀しみというか人間というか……もっと言うと「地獄」というか、なにかそういうものが感じられるのではないかと思う。だが、それはありとあらゆる音楽表現が内包しているもので、とくにこの演奏が、というわけではないのだが。一曲目は「いそしぎ」で、世界的に人口に膾炙したマイナーの哀しいメロを弾いているときに、左手が爆弾が爆発したかのような凄まじい音を発し、それはアケタさんの煮えたぎるような心のなかがマグマのように表出した瞬間なのである。これを聴きたいがために何十年も明田川さんのファンでいるのだ。しかも、その「爆発」は(たぶん)だれが聴いても納得する心理の流れの頂点でなされるので、「ジャズ」としても説得力があると思う。二曲目は明田川さんのオリジナルで、え? この曲どこかで聴いたなあ、と思うぐらいにポピュラリティのあるメロである。ボサノバを思わせるが、アケタさんの独特のパッションが演奏を狂熱のものにする。リズセクションのプッシュもすばらしく、シンプルなメロディがふくよかでスウィンギーで人懐っこい雰囲気で怒涛のごとく進んでいく。アケタさんのピアノは聴いているもの全員がビョン! と尻を浮かすような左手の凄みのあるドスン、ズドン、ドシャン……という爆雷に、ひたすら身体を動かして聴きほれる。一曲目の吉野弘志、この曲の畠山芳幸によるベースソロも、(このコロナ禍下に)東京のどこかで今夜も行われているであろうジャズ演奏の極上のソロのひとつであろうと思うとおろそかにはできない。三曲目も明田川さんのオリジナルでピアノソロ。アケタさんは基本的にはトリオが多くて、それ以外にもソロ、デュオ、カルテット、ビッグバンド……なんでもするが、こういうのを聴くとやはりピアノだけですべてを語れるひとなのだなあと思う。というか、ピアノがそういう楽器なのであって、明田川さんはそれを普通に使って表現しているだけなのかもしれないが……とにかく感動的であります。四曲目はアケタの店に石田幹雄が聴きにきていたときの演奏だそうで、ピアノは石田幹雄。アケタさんはオカリナに専念している(何度も持ち替えている)。そのあとの石田のピアノソロは本当にリラックスした感じのすばらしい演奏で、無駄削ぎ落したようなごりごりのベースソロに至るまでの部分は、めちゃくちゃかっこいい。それに続くドラムソロも、ピアノトリオのライヴでは定番とはいえ、録音しているとか関係なくしっかりとその場にいた聴衆の耳をそばだてる演奏である。最後の五曲目もピアノソロで「福島での若き日々」というタイトルは、24歳のときアケタの店が開店し、それから数年はマネージャーが福島出身だったこともあって福島に楽旅に行くことが多かったことからきたものだそうで、ひと懐っこく耳になじむメロディを訥々と弾き、訥々とソロを歌うアケタさんの演奏を聴けば、なんの先入観もなくても、この演奏に心打たれるだろうと思う。たいがいの音楽は歌が主体であって、だから歌手が主役である。しかし、ジャズは管楽器が主役になれるインストゥルメンタル音楽だから、ということでジャズにふらふらと入り込んだ高校時代の私だが、そういう経緯もあって、なかなか管楽器が主役ではない演奏(たとえばピアノトリオ)などは長いあいだよくわからなかった。高校生のころ、それを打破してくれたのがアケタトリオ〜ソロなのだが、今聴いても明田川さんの演奏はどんな素材を弾いてもまったく変わらない。つまり、管楽器がいないとなあ……と思う私にとって、管楽器なんかいらないよ、という気持ちにさせる数少ないピアニストなのである。いや、ほんま。帯の「岩手・大槌「クイーン」のママは、今作で「いそしぎ」になった!」というキャッチはたしかに力が入りすぎているように思えるかもしれないが、この「気持ちが入りすぎる感じ」もアケタさんならではのものである。傑作。

「世界の恵まれない子供達に」(AKETA’S DISK MHACD−2656)
明田川荘之

 長年のパートナーであったベースの斎藤徹の追悼アルバムの意味合いもある。2曲目「てつ」は、帯に「故 齋藤徹・追悼 捧げた名曲「てつ」の決定的名演が当CD!! これ以上なし!!」とある演奏。正直、あまりにストレートなタイトルはいろいろ考えさせられるのだが、この真っ直ぐさ、あからさまさが明田川さんの良さなのだろうと思う。やろう、と思ったら若くしてアケタの店をはじめ、アケタズディスクを立ち上げるその一直線な気持ちはここにも表れている。1曲目は「いそしぎ」にも入っていた曲で、東北の震災と津波を受けての作曲かと思いきや、あの津波の少しまえに作った曲で、初演を聴いたお客さんが「これは波だ!」と言ったので、このタイトルになったものだそうだ。いかにも明田川荘之という感じの哀愁の名曲。呻き声とともにメロディをつむぐピアノもあいかわらず胸に迫るが、歌いまくる石渡明廣のギターソロもすばらしい。2曲目「てつ」は斎藤徹に捧げた曲で、オカリーナのイントロからはじまり、ピアノが慟哭し、咆哮し、爆発する。続く石渡明廣のギターソロも明田川荘之と双子のような激熱で哀感あふれる名演。3曲目はあの「山崎ブルース」でオカリーナのバップ的なソロではじまり、アケタさんのボーカル、テーマ(ボーカルのあとにインストでテーマを聴くと、これってかなりの名曲のように思います)、そして、アイデアが明確でめちゃくちゃかっこいいギタ―ソロ。続いてピアノソロはテーマのフレーズが要所に出てくるしっかりしたソロで、この曲を単にただのブルース、ただのアドリブの素材とは考えていないことがわかる。しかし、アケタさんのこのソロを聴くと、40年ぐらいまえ、はじめて明田川荘之のピアノを(ラジオで)聴いたときにタイムスリップするなあ。あのときの震えるような感動が、このアルバムでも同じクオリティ、同じポテンシャルで奏でられている。うれしい。そのあと当人(?)山崎弘一のベースソロになるが、これはもういつ聴いても安定の渋さと適度なパワーを感じるこのひとならではの世界。それからドラムとのバースになりエンディング。こういうフツーのブルースを延々20分もやる、というのは「体力バンド」などを彷彿とさせるが、ブルースバンドでスローブルース1時間、みたいなことは昔はよくあったみたいだし、こういうのが良くも悪くもかつての東京のジャズを支えていたパワーだったのだろう。というか、私は「良くも悪くも」といって「良さ」しか感じませんが。小編成のコンボで、それぞれの奏者がソロを延々と、全部出し尽くすまでやる、というのは商業音楽的にはどうか知らんが、ミュージシャンを育てる、という意味ではぜったい必要なことであり、しかも、それを客が「ミュージシャンを育てるためだから我慢して聴こう」みたいなことにはならないのである。ジャズはそういうミュージシャンの成長の過程やベテランと若手がからみあい、溶け合う瞬間などは最初から完成された状態で提供される音楽では味わえない面白さも含んで楽しむことができるので得である。4曲目はタイトル曲で、「世界の恵まれない子供達に」という曲。たぶん難民の映像をテレビで見て作った曲らしい。それはいいのだが、そういう曲にこういう直接的なタイトルをバーン! とつけてしまうのが明田川さんらしいと思うのである。曲も演奏もいつものアケタ節であり、おそらくいろいろなものに心を動かされているのだろう、とわかるのだが、そのまえの「山崎ブルース」のギャグとの対比がひたすら重く、暗い雰囲気を救っている。タイトルを知らなくても名演である。ラストは、明田川さんの父孝氏に捧げた曲。アケタオカリーナの開発者であり、彫刻家であった孝氏のイメージなのか、冒頭は和音階でのオカリーナ独奏ではじまり、ボサノバ的な8ビートのリズムになって、これもまた明田川ワールドの哀愁かつパワフルな演奏だ。こういう和音階のマイナーコードの世界観にのめりこんでいくと「スピリチュアルジャズ」みたいな言葉が軽く吹っ飛ぶような幽玄でガッツのある世界が広がるのだが、そういうものを日本で最初に(?)提示したのが明田川荘之ではないかと思う。それはたぶん、計算というより、アケタさんのなかにあった世界観なのだろう。石渡さんのソロも最高! 最後は、なんかフワッと終わる。全編、アケタ〜石渡のコンビネーションというかインタープレイは4人ともただただすばらしい傑作!

「ロマンテーゼ」(AKETA’S DISK AD−43CD)
明田川荘之

 95年のアケタの店でのライヴ。ベースが望月英明、ドラムが木村勝利といつもの明田川トリオの面子ではないのだが、明田川氏のやってることはいつもと同じ……なのかなあ……。1曲目はシンセでイントロ〜テーマ〜アドリブソロが奏でられる「ソフトリー」。チャイムというかビブラホンというか……という音色なのだが、弾いてることは明田川節。なぜこんなことをやったのか。たぶん……やりたかったから、なのだろうな。こんな風にピアノではなくシンセで演奏しても明田川節は明田川節。心に染みる。和ジャズという表現がええか悪いかはわからないが、こういうフレージングを聴くと「和ジャズ」「日本のジャズ」としか言いようがないものが湧き上がってくる。同じフレーズが繰り返し聴かれるが、それも含めて明田川節なのである。望月英明のオーソドックスだが腹にずっしり来る重いベースソロや4バースのあとも延々とシンセのソロが続く。このしつこさ! このしつこさこそが明田川荘之の持ち味である。いや、マジで。この、ちょっとしたコードとかパターンを崩さず(つまりフリーにならず)、そのうえで延々と自己表現を続けるのは、大胆に言ってしまえば、日本のジャズの特徴であり長所であると思う。しかし、1曲聴き終えて、やはりなぜシンセで演奏したのかはよくわからない。そこがいいのだ(でも、なぜかシンセのときは例の唸り声(?)が出ませんね)。2曲目はタイトル曲のピアノソロ「ロマンテーゼ」で、ピアノによる爽快なリズムで奔放なイントロに導かれ、マイナーのテーマがはじまる。素朴でどこか民謡的なニュアンスもあるが、クラシック的でもある。これこそ明田川荘之。やっぱりピアノだとあの「イー……」という呻き声が始まるなあ。シンセではなぜ封印? 正直、この呻き声あってのアケタさんだと私は思っています。それまでは自由奔放なのに、曲に入ると、なんというか「固い」左手のコードと素朴なリズム。アケタさんの個性爆発。ラストの低音でのランニングもなんだかよくわからないがかっこいい。そこからはじまる3曲目「ミヤコシノ」もピアノソロでフリーな演奏。ピアノ弦をはじく感じも、めちゃくちゃいいんだけど、そのあとのぐしゃぐしゃなフリーも、なんか子どもが遊んでるような雰囲気もあって、そこがまた明田川ワールドなのだ。エンディングもかっこいい。4曲目はオカリナではじまる「マック・ザ・ナイフ」。こういうシンプルな楽器でのソロを聴くと、アケタさんの音楽が基本バップに根差しているのだなあと思う。3分50秒ぐらいでピアノに持ち替えるのだが、やはりピアノだと和音やリズムが出せるのでグッとジャズっぽくはなるが、単音だけのオカリナもまた別の趣なのである。ベースソロのノリがなんともいえない心地よさ。オカリナとピアノの「ひとりデュオ」もあるエンディング。いつ聴いても思うことだが、単音楽器であるオカリナでジャズ的なアドリブをリズムを感じさせながら吹く……というのは大変な音楽性+技術だと思います。5曲目はおなじみ「マジック・パルサー」。ピアノでやるときよりちょっとテンポが遅いかもしれないが、その分シンセのいろんな音色でこってりした味付けとグルーヴがこれでもかと積み重ねられていく。個人的には、「ニュー・ステップ・ウィズ・マイ・ステップ」に入ってるピアノソロ(オーバーダビングしている)のバージョンやこういうバージョンもいいとは思うがやはりピアノトリオでの16ビートのストレートなこの曲が聴きたいところです。ベースソロになるあたりから変なノリになってきて、コテコテになる。これでいいのです。ラストの「シシリアーノ」はシンセソロ。といっても、明田川荘之の世界になっているので問題はない。こういう濃厚な世界も、いいと思います!

「アルプ」(AKETA’S DISK AD−33CD)
明田川荘之

 1と2は岡野等のトランペット、板谷博のトロンボーン、が加わったクインテット。1曲目は高柳昌行に捧げた曲ということだが、B♭のミディアムテンポのブルースだが、単なるリフブルースと思いきや、テーマの端々にアケタ色が感じられる(高柳昌行に捧げたライヴのときに即興的に出てきたフレーズを譜面化したものだそうで、「ブルース・フォー・ジョジョ」のタイトルにいつわりなしである)。明田川荘之のソロはワンフレーズがめちゃくちゃ長い、くねくねしたクロマチックなものや、パーカッシヴなものを織り交ぜた緊張感のあるもので、こういうのをやると本当にワンアンドオンリーのアケタ節である。岡野のトランペットと板谷のトロンボーンのソロも今となってはたいへん貴重だが、こういうのが音源としてちゃんと録音され、アルバム化されているというのもアケタズディスクの偉大な功績ではないかと思う。チャーリー・パーカーなんかもそうだが、こういったセッション的なラフな録音のなかに後世に残るような「おおっ」と思うような演奏があったりするのはジャズという音楽の宿命である。2曲目はタイトル曲の「アルプ」で、金管2本のフロントをいかしたアレンジがほどこされていてかっこいい。いつものアケタさんの、哀愁の、リズムきつめのバラードである。アケタさんのピアノソロは、強い雨が、ぽつ……ぽつ……と路上に落ちてくるような、力づよく、厳しく、リズミカルで、朴訥で、しかも予定調和ではない……まさに私が好きな明田川荘之の演奏である。ジャズ的な即興演奏にはクールな視点が必要だと思うが、明田川さんはそこから少しだけ踏み込んだ情感の世界を保っている。それがなんともいえない独特の世界観を生んでいる。岡野等のソロも凛々しく、鋭く、しかもどこかに哀愁の感じられる演奏。3曲目の「マジック・アイ」はなんと28分もある(この曲だけ「エアジン」でのライヴ)。いわゆる「体力バンド」である(つのだひろが入ってるわけではない)。普通は、えっ、28分もあるの? しんど……となるのだが、明田川さんの演奏に限っては、28分もあるのか、聴こうじゃないの! と思ってしまう。ピアノではなく、シンセを使用。ストリングスのような左手と、右手のソロはヴィブラホンのような音。イントロのあと、哀愁のテーマ。このめちゃくちゃ「和」な感じの、一歩間違えると昭和ムード歌謡的な曲(そこがいいんですけどね)をこんなシンセの音色で演奏するひとはほかにいないと思う。しかも、それをCDにするというのはやはりすごいひとである。マイナーブルース(サビつき)ではあるが、マイナーブルースらしさのない、うーん、やっぱり「昭和歌謡」という感じのこの曲に対して、アケタさんのハマリまくりソロ、そして、岡野等さんのこれまたハマリまくりの……「ようわかってまんなあ」的なソロが続くので、30分近い演奏がほぼダレないのだ。これは根拠なく言ってるのだが、この岡野さんの見事なソロがここに記録された意味は重要だと思う。ベースソロのあと、ドラムとのバースになるが、この部分だけでもめちゃくちゃ長い……というのは当然ですね。コルトレーンがヴィレッジ・ヴァンガードで連日3ステージを真摯にやりきっていたように、ここに集うミュージシャンたちも同じくシリアスに全身全霊を傾けて演奏しているのだ。コンセプトというかテーマ性のないアルバムのように思われるかもしれないが、アケタの店のとある一日を切り取ったもの、と考えてもいいし、この3曲に深いテーマ性を感じてもいいし、受け取り方はそれぞれ自由だが、私はめちゃくちゃ好きなのです、このアルバム。

「ニアネス・オブ・ユー」(AKETA’S DISK AD−34CD)
明田川荘之

 ピアノソロだが、明田川荘之(ピアノ・オカリーナ・うなり)となっていて、ついに「うなり」も演奏の一要素ということになったか、と感動。もちろんアケタファンにはそんなことは百も承知でしょうが、アケタさんのうなりのおかげで、高校生だった私はそれまでまったくわからなかった「ジャズピアノ」に開眼したのだ。1曲目は「オーバー・ザ・レインボー」なのだが、聴いていても「え?」という感じで、ほとんどテーマは出てこないのである。どうやら冒頭、録音がちょっと切れたらしいのだが、そんなことはどうでもいいというぐらいの名演。全編どこを切っても明田川荘之色が噴き出してくる。美味しすぎる。ラストテーマでやっと「オーバー・ザ・レインボー」だとわかるが、このテーマの弾き方もリリカルでパワフルですばらしくないですか? 2曲目は「マイ・フェイヴァリット・シングス」。コルトレーンの演奏を上回るエキゾチックで、ねちっこく、執念深い(?)演奏で、正直、この曲においてコルトレーンがアトランティックのあのアルバムでやろうとしてできなかったことがここで果たされた、という気がする。たぶんコルトレーンはこういうことをやりたかったのではないだろうか。テーマに入ってもメジャーに行かないというのはええなー。最後までひたすら重量級の演奏であります。うーん、すばらしい! 3曲目は「オール・オブ・ミー」でオカリナによる演奏。大きさのちがうオカリナに順次持ち替えていくので、ときどきガチャガチャッというオカリナを取り替えるときの音が入る。足踏みだけをバックにして吹いているが、そのノリが、いわゆるはねるようなリズムにならず、ちゃんとジャズになっていてかっこいい! 4分半ぐらいのオカリナがストレートにテーマを吹くが、これだけでも実は感動なのである(たぶんこの曲はアケタファンなら何度も何度も何度も聴いているはずである)。そのあとピアノに移り、ストライドのまさにファッツ・ウォーラーかジェイムズPかカウント・ベイシーか……という演奏になり、ラストはオカリナによるエンディング。洒脱! 4曲目はタイトルにもなっている「ニアネス・オブ・ユー」で、テーマのドラマ性がアケタさんにぴったりである。ここでも、イントロ〜テーマを弾くだけで感動させられる。それはだれでもそうなるというわけではもちろんなく、明田川さんの「間」の魅力なのである。こういうのが高校生のジャズ聴き始めのときまるでわからなくて、それが明田川荘之のピアノ+うなりで「ああ、そうか!」となったのである。理由はわからんけど、「あー」と思ったのだ。チャーリー・パーカーも、高校生のときずっと聴いていてわからんかったけど、あるとき「あー」と思った。だから明田川荘之もパーカーも私にとっては恩人である。ラストテーマを聴いているだけでかっこいいです。ラストは「砂山」で、不穏な低音が続き、どうなるのか……と思っていると、フリーになる。パーカッション的な音やピアの弦をはじく音などがあいまって、アケタワールドを作り出している。フリージャズとかインプロヴィゼイションとかいう言葉が無意味に感じるぐらい、ここでの明田川荘之の演奏は、ただただ自分を出しただけの、プリミティヴなソロだと思う。これに感動しないってある? 7分頃から「砂山」になるのだが、山下トリオのひねった(?)「砂山」とはちがって、かなりストレート。こういうのもアケタさんでしかできないものだと思う。珍しくアケタさんのオリジナルが1曲も入っていないが、それもまたよし。明田川荘之のピアノソロをとことん堪能してもらえればそれでよし、というアルバムです。本人によるライナーノートもめちゃくちゃ名文で、私ごときがここで付け加えることはないのだが、あまりに好きな作品なのでこうしてぐだぐだ書いてみました。傑作!

「OMOIDE NO SALO」(AKETA’S DISK MHACD−2304)
AKETA LIVE IN FINLAND

 ギャグっぽい司会とアケタ氏のやりとりではじまり、無伴奏オカリナのソロでオープニング。なんとなく主催者側が明田川荘之のことをどう思ってるのかよくわからん感じだが、いきなりオカリナのソロをぶちかます。そのあとオカリナによるブルースになる。ものすごくオーソドックスなブルース(マイナーブルース?)になる。フィンランドという国に来て、オカリナ一本でブルースをかます明田川さんの根性に感動する。そのあとトロンボーンとベースを加えた変則トリオで「アイル・クローズ・マイ・アイズ」がはじまる。この曲でのトロンボーンのヤリ・ホンギストのソロは柔らかで、とにかくめちゃくちゃ上手い。すばらしい! オーソドックスな演奏だがトロンボーンもピアノもすばらしいと思う。魂を持っていかれるようななめらかで歌心あふれる演奏。ただし、ところどころにアケタ節が顔を出す。こってりしたジャズであります。つぎの曲は「チンギスハーンの二頭の駿馬」というモンゴル人のチ・ボラグというひとの曲で、吉野弘志さんが作曲者から譲り受けた曲らしい。これは明田川荘之作曲といってもいいぐらいアケタさんにぴったりの哀愁の曲。ピアノソロで、つぎの「世界の恵まれない子供達に」にも入っていた「孝と北魚沼の旅情」と途切れなく演奏される。この2曲はまったくいつものアケタ節であって、これがフィンランドでどう受け止められたかはとても興味深い。次の7曲目はもうひとつのアケタさんの顔である半音階の嵐。ひたすら弾きまくり、弾き倒す。トロンボーンもそれを察して(?)ぶりぶり吹きまくるが残念ながらフェイドアウト。ラストは「南部牛追歌」で、オカリナのイントロからはじまり、トリオによるフリーな感じの即興になり、そのままずっと演奏して、エンディングになる。なんというかドキュメントとしても面白いとも思う。全体として、なんとなくバド・パウエルトリオにカーティス・フラーが客演したブルーノート盤を思いだしたりした(お互いにいい演奏をしていて、殺し合っているわけでもないのだが、なんとなくいつもとちがう……みたいな感じか?)。テッポというベースのひとはフリージャズのひとで基本的にテンポのあるもの、コード進行のあるものはやらない、というけっこう一途(?)なミュージシャンらしく、リハも拒否してぶっつけ本番だったそうである。ものすごくオーソドックスで、かつ上手いトロンボーン奏者であるヤリ・ホンギスト(「アイル・クローズ……」のエンディングなどすごくがんばっている)と、尖ったベーシストのテッポ・ハウタ・アホ(全編ちゃんとベーシストの役割を果たしている)のあいだをアケタ氏が取り持つ感じだったとしたら、それはすごく上手くいったのでは? どちらもガリガリに自己主張を譲らない、ということもなく、自分を消すこともなく、3人の調和が微妙なバランスで取れていて、いつにもない面白い演奏になっているように思います。

「カリフア」(AKETA’S DISK PLATZ PLCP−64)
明田川荘之 林栄一 デュオ・パートT

 アケタの店でのライヴ。1曲目は「沢内甚句」という民謡で、オカリナソロのイントロからはじまる。いや、イントロと呼ぶのはおかしいか。たっぷり5分はある無伴奏ソロで、民謡のテーマをストレートに歌い上げるパートあり、インプロヴィゼイションのパートあり、でこれはこれで充実したひとつの区切りである。そのあと林のアルトと明田川のシンセ(とピアノ)がフリーにぶつかり合う。循環呼吸とノイズっぽいシンセが絶妙にブレンドしている。「沢内甚句」どこ行ったんや的なガチンコのフリーインプロヴィゼイションで、いやー、感動であります。そして、最後にふたたび民謡のテーマがオカリナによって浮かび上がり、エンディング。切れ目なく突入する2曲目は明田川氏がアフリカに行ったときの印象を曲にまとめあげた「カリフア」。アフリカを逆さまに読んだ曲名である。フリーなイントロからピアノの左手の重いけど溌剌としたビート(3拍子系)を強調した演奏になる。やがて林のアルトがへしゃげた音色で入ってくるが、ピアノの左手はそのまま持続される。重い、重い演奏だ。しかし、ダンサブルでもある。どんどん盛り上がり(単純な表現ですまん)、ピアノの左手のパターン、右手のぐちゃぐちゃ、アルトの咆哮……という三つが混ざり合って、いやー、これは「カリフア」としか言いようがないな、という世界に至る。そのあとぐちゃぐちゃのフリーになり、ふたたび左手のパターンがはじまる。かっちょええ! ラストの3曲目は「エブリシング・ハプンズ・トゥ・ミー」で、めちゃくちゃせつないピアノソロからはじまる。これは私の知っている同曲ではない。もしかしたらバース? とかいろいろ考えてみたがよくわからない。とにかく胸をしめつけられる、というか、完全に明田川荘之の世界観になっている。そのあと林のアルトが登場して、これは耳なじみのある「エブリシング……」のテーマを吹く。そのあとのソロを聴くと、こういうオーソドックスなスタイルでも完璧なのだということを思い知らされる。バップの範疇に徹した演奏だがつねにチャレンジングなのはフレーズの端々から聴きとれるし、バップのサックス演奏にかかせない(とくにアルトでは)アーティキュレイションの妙技(ハーフタンギングを駆使した8分〜16分のすばらしさよ)、いつもの鋭く圧倒的な音色を封印し、普通の音色で吹いたときの瑞々しさも感動である。後半、バップからやや逸脱した挑戦的な部分もあるが、基本的にはそういうノイジーなフレーズもバップに取り込んで、よりふくよかな表現にしてしまうあたりはゼツのミョーであります。そのあとアケタ氏のピアノソロになるが、ここは冒頭部とはまた違う雰囲気のごきげんさがあふれる展開になっている。演奏はピアノソロの途中、サビの部分からアルトが入ってきてテーマを吹いてあっさりと終わるが、それもまたよし。最後のエンディングも洒脱です。とにかくこのふたりのコンビネーションは魂の奥底でしっかり手を握りあっているのがわかるような反応の連続で、なんの不安もなく聴けるのだが、肝心なことは、こういうフツーの曲というか演奏でもふたりが瞬間瞬間にチャレンジしているということで、これは私もずっとそう思っているのだが、このアルバムの演奏を聴くたびにそれを再認識する(どんなにフツーの小説を書いてたとしてもつねにチャレンジがないとね)。傑作! 対等のデュオだと思うが、便宜上先に名前の出ている明田川荘之の項目に入れた。

「長者の山」(AKETA’S DISK PLATZ PLCP−73)
明田川荘之 林栄一 デュオ・パートU

 1曲目はタイトルにもなっている民謡で、オカリナソロからはじまるが、これはライナーにあるような「素朴な」ものでも「アケタのオカリナが日本の田舎の野山を描く」というものではなく、ウィリアム・テル序曲的なテッテケテッテケ……というリズムパターンが和音階のペンタトニックにぶちこまれているチャレンジングな演奏だと思う。そのあとアケタ氏はパーカッションというか鳴り物に持ち替え、アルトがまえに出る。7分ぐらいからピアノがコンピングをはじめアルトがそれに乗って吹きまくる。この圧倒的なソロとそれを支えるピアノのリズム、そして湧き上がる唸り声……すべてが私の好みです。林が循環呼吸を使ったノイズのようなサウンドを吹き続けているバックで明田川さんはキチッとリズムとコードを奏で続けている。このコンビネーションの良さよ! そのあとピアノソロになるが、ここはもう泣くしかないいつもの哀愁の展開。何度聴いても明田川荘之のこういう演奏を聴くと、高校生のころに戻って感動するのであります。エンディングの盛り上がりも見事。2曲目は「アイル・クローズ・マイ・アイズ」で、およそジャズミュージシャンなら、いや、我々アマチュアでも、この大スタンダードを演奏したことのないものはめったにいないだろう、というぐらいの手垢のついたこの曲に新たな命を吹き込んでいる。イントロのあと林が吹くテーマのバックでピアノがガンガンガンガン……と4拍子を刻むのもいい感じである。ソロに入っての林栄一のソロのすばらしさはもう筆舌に尽くしがたい。前作のレビューを見ていただければわかるが、とにかくこの「音色」と「アーティキュレイション」の妙はすごいとしか言いようがない。もちろん歌いまくっているのだが、それだけではなく、フレージングの全てに配慮が行き届いてのアドリブなのである。途中からかなりアグレッシヴなブロウになるが、相変わらず明田川氏のピアノは淡々と(というわけでもないが)リズムとコードの提供を崩さない。このあたりの呼吸はわかりあえているもの同士ということだろう。続くピアノソロも最高です。最後にルバートになるあたりの感じもいいのだが、そのあと「眠れ眠れ……」の変形みたいなフレーズを弾き出し、切れ目なく3曲目(「アイル・オープン・マイ・アイズ」というオリジナル。なんじゃそりゃー!)そこからフリーになったあと、なぜかまた「アイル・クローズ・マイ・アイズ」のテーマになる。そして、6分ぐらいで一旦演奏は終演するのだが、そのあとピアノが暴走し、アルトがそれに乗っかって、ふたたび混沌のフリーな世界になり、ここがなんともいえずかっこいいのだが、そこから「私馬鹿よね」になり、例のホワイトキックブルースから「今は山中、今は浜」……つぎつぎと繰り出されるアケタさんの悪ノリのフレーズの数々……このあたりが「日本のジャズ」という感じで、ほんと、美味しいです。でも、テクニックは確かなので笑いながら感動するのだ。ラストも壮絶かつ笑いあり。4曲目、5曲目は明田川ソロ。収録タイムに余裕があったのでどうしても入れたくなった、とのこと。ええやないですか。4曲目はスタンダードで「アイ・フォール・イン・ラヴ・トゥー・イージリー」で、収録したくなったのもわかるようなすばらしい演奏。「こんなに『間』をいかしたせつせつとした演奏がアリマスカ!」と叫びたい(いつものことながら)。そしてそれはこの呻きというか唸りと常に一体なのだ。明田川荘之のピアノには、というか、音楽には、ワンアンドオンリーな哀愁に満ちた世界とそこに加わる毒というかノイズというかそういうものの対比がいつも感じられる。その「毒」というのは美しいメロディの裏で絶叫されるこの呻きであり、正統派なフレーズのあいだに突如挟まれるどしゃめしゃとピアノを叩く狂気である。この「イイイイイイ……」という呻きとともに奏でられるピアノが「美しい」と感じることができるものはアケタワールドの住人になれるのだ。ラストの「アイ・リメンバー・タカシ」は父親に捧げた曲。2分半ほどの短い演奏だが、アルバムをしめくくるにふさわしい。オカリナによる独奏。傑作。対等のデュオだと思うが、便宜上先に名前の出ている明田川荘之の項目に入れた。

「THIS HERE IS AKETA VOL.1」(OFFBEAT RECORDS ORLP−1003)
SHOJI AKETAGAWA

 明田川荘之の初リーダー作。まだ25歳だが、その演奏に関してはのちの「天才アケタ」の個性がすでに確立していると思う。例の呻き声も、録音のせい(?)であまり聴き取れないがふんだんに発しているし、選曲やピアノプレイの過激な叙情性はまったく後年の演奏そのものである。「ユード・ビー」「アイ・ラヴ・ユー」「ソフトリー」とスタンダードが並んだあと(この選曲もいかにも明田川さんらしい)、例のユーモアを狂気にまで高めた「ホワイト・キック・ブルース」や、叙情性を過剰に押し出した「アケタズ・センチメンタル」、「アケタズ・グロテスク」や「ストレンジ・メロ」に通じる変態的でかっこいい「B♭センター」など、まさにアケタワールドとしか言いようがない曲が並ぶ。そのあと「グリーン・ドルフィン」「ポルカドッツ」で終演だが、バップをベースにした歌心あふれるソロが展開していたかと思うと、突然、ガガガガガ……ン! と鍵盤をどしゃめしゃに叩きまくる(アケタファンならおなじみの)暴挙が挿入されるあたりも、完全にこの一作目でそのスタイルが確立されているといえる。すごいことですねー。しかも、メンバーはベースが山崎弘一、ドラムが宮坂孝(高史ではない表記)という、これものちのちまで続く明田川トリオである。デビュー作にすべてが凝縮されている、とよく言われるが、まさにそういうアルバム。アケタさんは雑誌の座談会で日野元彦とかに「マル・ウォルドロンを下手にしたようなピアニスト」とかなり叩かれていたが、これだけの個性を持ったピアニストは世界中探してもほかにいないのだ。天才アケタがそのデビュー時から天才であったことを証明する一枚。傑作!

「THIS HERE IS AKETA VOL.2」(OFFBEAT RECORDS ORLP−1004)
SHOJI AKETAGAWA

 その第二弾。こちらは全編ピアノソロで、明田川荘之のソロピアノへのこだわりがこの二作目にしてはっきりわかる。明田川さんによるライナーノートはかなり過激で、ビル・エヴァンス、オスカー・ピーターソン、アート・テイタム、マイルス・デイヴィスを「BGMとしては聴けるがジャズとしてはほとんどナッシング」とばっさり斬り捨て、「コルトレーンなんかわが軽薄時代には、いいと思ったが、パウエルやマクリーンから受けるような感動はない」「C・コリアやK・ジャレットは幼稚で聞けたもんじゃない。批評家もとりまき連中も、次元の低い人が多いからね。気付いてなけりゃ、幸せだけどね」など言いたい放題であるが、こういうことを書くから座談会で叩かれるのだ。しかし、こうだと思ったことははっきり言う、いいものはいい、悪いものは悪い、という明田川さんの姿勢は尊いと思うし、それはあくまで自分のなかの美意識を基準にしているわけだが、そういう「おのれの感受性を信じて、貫く」みたいな正直こどもっぽいその姿勢がアケタの店を生み、アケタズディスクを生んで、こんにちまで続いて日本のジャズを育ててきたことを思うと凄いことではないかと思うのだ。そういう具合にライナーで好き放題書きまくり、ピアノソロで挑んだこの2作目が、2作のスタンダードをのぞいて、5曲を自作で固めた意欲作で、はっきり言って、言行一致の傑作であることはアケタさんのこの時点での日本のジャズシーンに対するひとつの宣言だと思う。しかも、そのピアノソロ作品の冒頭を飾るのがあの「ストレンジ・メロ」なのだ。この曲はジャズミュージシャンのオリジナル数々あれど、かなり上位に来るべき傑作で、25歳という若さでこの曲を書いたというだけでも、アケタさんが言行一致のひとだとわかる(後年(?)の弾き方とはちょっと違うのも初期バージョンということで面白いです)。まさしくアケタワールドとしか言いようがないこの曲が冒頭に来ることで、この作品がどういうものか、という意欲を示したのではないかと思う。例の呻き声も(ベース、ドラムがいないからか)VOL.1に比べるとかなりふんだんに聴こえる。2曲目の「MORZE」がこれまたいかにも明田川さん的な曲で、重厚な左手のうえにクラシカルなサウンド(しかも「和」を感じさせる)が構築されていくのだが、それを途中でみずからぶち壊してしまうあたりが唯一無二の個性だと思う。B面は「アイ・シュッド・ケア」を除いて全部オリジナルだが、スタンダードもオリジナルもすべて自分の個性で塗りつぶしてしまうような明田川ワールドの凄さがすでに全開になっている。すごいよねー。巨大な手でガシッとつかまれて、持っていかれるような強引さだが、こちらの気分としてはただただ快感なのである。オリジナルはどれも個性の塊のような曲ばかりで、ラストの「テラ」という曲は「ストレンジ・メロ」や「アケタズ・グロテスク」、第一弾に入っていた「B♭センター」などに通じる変態的かっこいい曲。こうして一枚聴きとおすと、心地よい疲労でへとへとになる。シンプルで、パワフルで、叙情的で、変態的で、しかも根本はビバップにある……まさに天才としか言いようがない。傑作! 聞くところによるとVOL.3まである、という話だが(明田川氏自身がそう書いているので間違いないはず)、見たことはない(画像検索でジャケットも引っかかってこない)。