「DUO & TRIO IMPROVISATION」(KITTY RECORDS MKF1034)
DEREK BAILEY
ミルフォード・グレイヴスとほぼ同様のメンバーで、デレク・ベイリーと当時の日本の若手気鋭の即興ものたちの初共演が実現したわけだが、そのドキュメントである。正直言って、ミルフォードのアルバムは、みんなでビビリあいながらけっこう単調なコールアンドレスポンス形式の即興をずーっとやっている感じで、古臭い連歌のようなものだが、本作はそれにくらべてずっと衝撃的だ。私が、はじめてデレク・ベイリーの演奏に接したのが本作であり、その後、このすばらしいギタリスト〜即興演奏家のふところの広さ・深さはとんでもないということを知ったが、まず最初にこのアルバムで彼の演奏に接したことは僥倖だった。ふたりの即興演奏家が相次いで来日し、ほとんど同じメンバーと共演して2枚のアルバムを作ったわけだが、その影響度などはべつにして、単純に作品の出来で考えると、こちらのほうがずっとおもしろい。最初聴いたとき、マジでびっくりしました。そのあと、カンパニーとさまざまな作品を聴き、「インプロビゼーション」という本も大学のころに読み、なるほどなあ……と深く深くこのギタリストに入りこむことになったのだが、管楽器奏者ではないので、それほど「はまる」ことはなかったけど、もし、「即興」というものが音楽の極北であり、とにかく「即興」であることに意味があるのだ、という考え方の奏者がいたら、こういう演奏になるだろうなあ、と思ったり、いろいろ考えさせられたりした。今にして思えば、学生のころにそういう風に即興というものについて思索する機会を与えてくれたことはほんとうによいことだった。本作を聴くと、たしかにデレクは言行一致なのだ。ミルフォードのアルバムは、そこまで私に「詰め寄る」というか、崖っぷちに立たせるようなことはなかったもんなあ。その後、高柳さんを聴き、内橋さんを聴き、ようやく私にも、なるほど、デレク・ベイリーの演奏は「ギター・ミュージック」なのだ、ということに気づいた。楽器へのこだわりというか偏愛が根本にあってこその「即興」なのだ。今は、楽しく聴けるデレクの演奏だが、あのころは、なんというか、針を落とす際に「居住まいを正す」みたいな感じがあった。ものすごくむずかしく考えていたんですね。
「INCUS TAPS−1973」(ORGAN OF CORTI 10)
DEREK BAILEY−SOLO GUITAR
エヴァン・パーカーは大好きで、昔からずっと聴き続けているわけだが、歴史的重要性も含めて彼と双璧をなすインプロヴァイザーであるデレク・ベイリーに関しては、あまりいい聴き手ではなかった。アルバムが膨大だし、共演者もさまざまなので、どれを聴いていいかわからん。というわけで、私がデレクを聴くのは、例の初来日のときのアルバム(これは学生のころに買った)か、共演者がサックス奏者であるアルバムに限られていた。最近、いろいろと心境の変化(そんな大げさなものではないが)があり、楽器にとらわれることなく聴いていかないと人生の損をしているのではないか、と思うようになった。テナーでないとねー、とか頑ななことを言ってると、とんでもないすごいものを聞き逃しているような気になったのである。それで、こういうもの(ギターソロ)も聴いてみることにした。なるほど、ギターソロだ。ほかのアルバムでも、何曲かソロが入ってたりするが、まさにそれを集めたようなアルバム。こういうスカスカな音の即興は心を遊ばせてくれるというか、じつに楽しい。デレク・ベイリーの演奏を聴いていると、いかにも、フリー・インプロヴィゼイションってどういうもの? とたずねられたときに、こういうものだよと提示できる教科書的な内容だと思う。カンパニーの一派が即興をはじめたとき、おそらくみんな手探りだっただろう。そういうなかで、真摯に、ギターにおける即興というものと前向きにがっぷり四つに取り組み、少しずつ体得していったものが「これ」だったのだろう。それは感動的ですらある。教科書的というのは悪いことではない。べつの意味では、ここに収められている演奏はすべて、教科書的であり、なおかつ反教科書的なのだ。今でも輝きを保っているこれらのギターソロは、一弾き一弾きのなかにデレクの魂がこもっている。大げさな言い方かもしれないが、そう思えます。
「LIVE AT VERITY’S PLACE−JUNE’72」(ORGAN OF CORTI 9)
DEREK BAILEY HAN BENNINK
ハン・ベニンクというひとは、私の印象ではおよそ真面目からほど遠い、ユーモアたっぷりの表現を即興に持ち込んだひとであって、音楽的にどうこうというより、そこに「笑い」を介在させることによって、より自由に、より高くインプロヴィゼイションの地平を押し広げた……という風に思う。そのハン・ベニンクが、超真面目(あくまで私の印象です。学者みたいな感じ?)のデレク・ベイリーとデュオというのは、じつに興味津々だが、結果的にこんな楽しい演奏になった。もちろん、楽しいというのは笑えるとかユーモアとかそういったものではないのだが、ほかの共演者とのデュオにくらべて、ふたりのベクトルが完全に一致しているわけではないので、そのあたりのずれというか、ぴったり息が合った瞬間と、そうでない瞬間がめまぐるしく訪れ、そういう連鎖がいきいきとした人間的なインプロヴィゼイションを生んでいる。息のつまるようなシリアスな即興もいいが、こういうダイナミックで、カラフルな即興もすばらしい。普通の意味でのスウィング感は皆無だが、この演奏はスウィングしている、と言ってもおかしくはない。ときどき、人生ってしんどいなあと思ったときに聴き直したい。なお、アルバムタイトルだが、ジャケット表にはなんの文字もなく、背中には「デレク・ベイリー・ハン・ベニンク」とだけあり、逆にCD自体のレーベル面には「ライヴ・アット〜」というタイトルが大きく書かれていて、どれが正しいタイトルかわからないが、一応このようにした。それと、対等のデュオだと思うが便宜上デレク・ベイリーの項に入れた。
「TRIO PLAYING」(INCUS RECORDS INCUS CD28)
BAILEY/BUTCHER/MARSHALL
このトリオは凄い。ベイリーはあいかわらずすごくて、ジョン・ブッチャーは(この録音時は)若いのに堂々と凄くて……とここまではわかるが、もうひとりのオレン・マーシャルというチューバ奏者がめちゃ凄くて、3人が年齢とかキャリアとか関係なく対等な関係でのトライアングルになっている。チューバの即興というと高岡さんを思い出すわけだが、またちがうアプローチのひとで、最初はトロンボーンだとばかり思っていた。高音で朗々とメロディックに吹いたりするあたりでそう勘違いしたのだろうが、世の中にはいろんなすごいひとがいるものだ(クラシックもやるひとらしく、チャーリー・ヘイデンやエルメット・パスコール、ムーンドッグなどと共演歴があり、チャーミング・トランスフォーム・バンドというのを率いているらしい)。普通は、いくら対等の立場での演奏といっても、楽器特性や演奏技術や存在感や音楽性などから、結局はだれかがリーダーシップを握り、それに合わせる形になるものだが、ここまでイーヴンだとすがすがしいですね。データがあまりに少なくて、ジャケット裏の1997というのが発売年だとしても録音も同年なのかどうかわからない(ネットで調べると録音は1997年、1994年、1995年……といろいろ出てきて信憑性に欠ける)。仮にそうだとすると、このときベイリー67歳、ブッチャー43歳、マーシャル31歳ということになる。この若いマーシャルの参加が鍵になっているような気がする。じつはこのアルバム、中古で適当に買ったのだが、めっちゃ気に入って、もう10回ぐらい聴いているのだが、ベイリーとブッチャーは〈1989年からデュオをやってるらしい)手慣れた即興を、手垢の付かない一期一会の感じで行っているが、マーシャルがここに持ち込んでいるのは、そういうのとはやや違った感覚というかべつのもので、それが見事に溶け込んでいるのは、彼がよほどの自信をもってそれを演奏しているからだと思う。彼は自作(?)の「オレノフォン」という馬鹿でかいチューバを使ってクラシックの曲をばりばり演奏するという変態的な楽器馬鹿で、エレクトリックチューバ(どんなんや?)も使うらしくて、そのあたりのぶっ飛んだ感覚がここでもいいほうに作用している。ベイリーとブッチャーのからみはもう芸術的な域に達しているが、若いマーシャルがそこに加わることで、本作は歴史的傑作となった……とか勝手に断言してもいいのかな。いいのだ、これだけの演奏なのだから。色の違った三つの目玉があるジャケットも印象的だ。
「LIVE AT FAR OUT,ATSUGI 厚木 1987」(NO BUSINESS RECORDS NBCD 132)
DEREK BAILEY/MOTOTERU TAKAGI 高木元輝
デレク・ベイリーと高木元輝のデュオ、というと、とにかく聴きたい聴きたい聴きたい聴きたいというひとが多いと思う。私もそのひとりでした。高木はここではソプラノしか吹いていないのだが、それがどう演奏に影響するか興味津々である。聴くまえの予想ではいわゆる「インプロヴィゼイション」的な展開になるのではないか、と思いながらスタートボタンを押した。高木のソプラノというと、個人的には、沖至の「しらさぎ」では宇梶昌二のバリトンが相方だったが「インスピレーション・アンド・パワー」では高木のソプラノサックスが見事な効果を挙げていたことを思い出す。1曲目の冒頭、訥々と鳴らされるギターの和音と融合するように演奏されるソプラノを聴いて、正直、驚いた。もっとふたりとも我が道を行く感じなのかと思っていたら、ものすごく寄り添ったものだった。はじまってものの数秒で、ふたりの音は溶け合って、ひとつになっているのだ。ベイリーの音数がかなり多く、リズムも出しているので、高木がそれに合わせにいっているのか、とも思ったが(つまり、ベイリーの演奏に乗っかって吹いている)、そういうわけではなく、これは本当にこのふたりが最初からピタッと合ったのだなあ、と思えてきた。どちらも相手に遠慮することなくガンガン弾いて(吹いて)いて、ある意味すがすがしく、力強い。私は高木のテナーをこよなく愛するものだが、この時期の高木はレイシーの影響でソプラノしか吹かなかった、とかいうが、そういう話はさておいて、この演奏はすばらしい(テナーだと、ぶっとい音の魅力やグロウルすることによる音の捻じ曲げ……などが魅力なのだが、ソプラノだとそういう音の加工はほとんどとみられないので、それもまた魅力である)。最初に聞いたときに、なぜか「もやっ」として、そのあとたぶん10回ぐらい聴いたが、その理由はおそらくこの演奏が「楽しい交歓」に聞こえないからだと思う。ずっとテンションが高くて、ふたりとも演奏に風穴を開けようと真剣そのもので、それが延々と続く。なれ合いの部分がなく(即興演奏という場においては、あっても全然悪くないと思う)、けっこうきつい反応に終始している。「引く」という場面がどちらにもほとんど見られない。そういう演奏がなぜ「すがすがしく」感じるのかというと、たがいにこの時点での自分を全部出して即興としてぶつけ合ったからだろう。正直、よくこの演奏が録音されていて、こうして私が聴くことができるようになったなあ、と思う。奇跡に近いことなのだ。音楽の現場ではこういう奇跡が、けっこう起こっている(たとえば、札幌のアイラーでの阿部薫のソロが商品化されたことも奇跡だと思う)。2曲目はなぜかよくわからないノイズ(生活音?)が聴かれるなかでのベイリーの気合いの入りまくったソロからはじまる。バチン、バチン……と弾かれる弦の音を聴いているとベイリーの「ノリ」というのは、私が思うリズムよりもかなり速いなあ、と思う。ずんずんずんずん……と雪崩落ちるようなノリだ。もっとタメるのが(個人的には)自然だと思うのだが、ベイリーはすごく性急である。どんどんまえに進んでいく(阿部薫と高柳昌行のデュオなどでは、こういう性急さはないのでは……と思って、最近出た「ライヴ・アット・ステーション’70」を聴き直してみたが(本作の17年まえの演奏)、やはり、スピード感はものすごくあるのだが、やはりふたりとも思っていたより速い。しかし、ここでのベイリーよりはずっと遅く、ぐっとタメたような感じに聴こえる。でも、まあ、それはそれとして)。ベイリーの一音一音にぶち込む「厳しさ」「冷徹さ」はぴーんと透き通っている。弦をはじく生々しい音がこうしてクリアに録音されていることには驚きと喜びを禁じ得ない。このままソロで終わるのか、と思っていたら、12分を過ぎたころにようやく高木のサックスがからんでくる。一挙にガチンコのデュオになり、スリリングな展開になって、あれよあれよと言ってるうちに終演。エンディングも見事。3曲目は冒頭からふたりが音をぶつけ合い、高めあい、絡み合い、まさに「交感」という感じの演奏が続く。めちゃくちゃかっこいい。1曲目で「もやっ」とした私だが、ここでその感想は吹っ飛ぶ。最後の4曲目も同様で、高木のソロでリードを噛むような高音の軋りではじまり(後ろでかすかにギターが聞こえる)、すぐにふたりのがっぷりのデュオになる。ほとんどソロ的なパートはない(あっても、すぐに相手が入ってくる)。7分前後からのギターのけっこう荒っぽく力強いリズムの提示とそれに応えるソプラノ、そして次第に崩れていくリズム……というあたりはスリリングで、そこからエンディングに至る凄まじいというべき展開は美味しすぎてべろべろと舌なめずりをしたくなるほどである。いやー、すごいっす。ラストはテープがなくなったのか、ふわっと切れてしまうのが惜しい。それにしても、良質の即興の多くがそうであるように、これはひとつのドキュメントだと思った。70分以上ある長い演奏だが、聴いてみるとあっという間である。よくぞ発売してくれました。傑作。なお、日本語ライナーには解説者の名前が抜け落ちている(金野吉晃氏である)。