clifford brown

「THE BEST OF MAX ROACH AND CLIFFORD BROWN IN CONCERT」(GNP S18 LAX3081)
CLIFFORD BROWN AND MAX ROACH

 ジャスト・ジャズ・コンサートのライブで、A面がハロルド・ランド、リッチー・パウエルを擁したおなじみのメンバー、B面はテディ・エドワーズ、カール・パーキンスらの入ったメンツだが、演奏のクオリティに差はない。現在では、オリジナルジャケットのものや、編集のない完全版も簡単に入手できるわけだが(というか、そっちのほうが主流)、私にとってはこの赤にドラムとラッパの絵の描かれた盤こそが偏愛の対象である。というのは、高校生のころ、まだジャズというのがよくわかっていない時期(今でもよくわかっていないことは認めます)、私はずっと山下トリオ、オーネット・コールマン、ドルフィー、コルトレーン、セシル・テイラー、ファラオ・サンダース、アーチー・シェップ……といったフリージャズばかり聴いていた。それが、たまたま中古で買ったこのアルバム(しかも廉価盤)を聴いて、フツーのジャズもおもろい! ということに目覚めたのである。以来、いろんなジャズを聴くようになり、そのうちにパーカーやデクスター・ゴードンの良さ、カウント・ベイシーの良さもわかるようになったが、あのときこのアルバムに出会わなかったら、いまだにひたすらフリージャズだけを聴き続けていただろう(それはそれでよかったと思うけど)。久々に聴いてみたけれど、とにかく一曲目の「ジョードゥ」からラストの「ブラウニーズ・アクス」まで一瞬たりとも間然とすることのない作品であることを再確認した。このときブラウニー、若干24歳。しかも、ライヴだというのに、隅から隅まで完璧である。信じられないが本当だ、と思わず呟いてしまう。アップテンポからバラードまで、音、フレーズ、タンギング、ノリ、リップコントロール……とにかく完璧すぎるほど完璧なのだが、なぜかマルサリスのようにそれが嫌みに聞こえない(マルサリスの不幸は、凄い演奏なのに、なぜか嫌みに聞こえる点にあると思う。なんでやろ)。しかも、このグループのすごいところは、ブラウンひとりが突出している感がなく、全員が一丸となって突進していくことにある。本当に「ユニット」なのだ。ブラウン〜ロー地の傑作はあまたあるが、どれか一枚といわれると、迷わずこれでしょう。たぶん、死ぬまで聴き続けるだろう至高の大傑作。天才というのは本当に存在するのだなあ、としみじみ思う。

「STUDY IN BROWN」(MERCURY 15PJ−2008)
CLIFFORD BROWN AND MAX ROACH

 クリフォード・ブラウンに駄作はないが、たとえば3枚あげろといわれたら、「イン・コンサート」はぜったいにはずせない。しかし、あとの2枚はひとによってまちまちだろう。私はたぶん本作を入れると思う。あとは「ザ・ビギニング・アンド・ジ・エンド」かなあ。とにかく不動のメンバーによる傑作であって、A面一曲目「チェロキー」からBラスの「A列車」まで一直線に聴いてしまう。ハロルド・ランドがブラウンと同じぐらい活躍しているが、このころのハロルド・ランドはよかった。オーレックスで来日したときにはすでに、バッパーとしての姿はなく、代え指を多用した、下手くそなモード風スタイルにかわっていて驚いたが、ブラウン〜ローチのころのランドは、ラーセンのメタルを使った、やや濁り目の音色で歌心溢れるフレーズをばしばし決める男性的なビバップマスターであった。それは、裏を返せば、冒険心や前進意欲に欠ける、オーソドックスすぎるスタイルともいえるわけで、その意味ではランドがいつまでもこのスタイルにとどまらず変貌していったのは「えらい!」ともいえるが、フランク・フォスターのような大変身ではなく、なんか中途半端なかわりかただったのが残念。しかし、ランドはめちゃめちゃいいプレイをしまくっている本作だが、やはりブラウンが一吹きすると、世界がかわってしまう。それぐらい強烈な個性と完璧な技術、歌心を兼ね備えた演奏で、そこにマックス・ローチの強力なバッキングが加わり、まさに向かうところ敵なし。どの曲もいい。

「CLIFFORD BROWN & MAX ROACH」(MERCURY 15PJ−2018)
CLIFFORD BROWN AND MAX ROACH

 これまた名盤だなあ。ブラウンは全部名盤なんだからしかたがない。ブラウン矢ロー血に関しては、マーキュリーのどれも一定のクオリティにあると思うが、本作の人気が高い理由としては、収録曲が「デライラ」、「パリジャン・ソロフェア」、「ブルース・ウォーク」、「ダーフード」、「ジョイ・スプリング」、「ジョードゥ」、「ファット・アワ・アイ・ヒア・フォー」……と全曲名曲だからだろう。「ジョイ・スプリング」はブラウンの作曲のなかでも最白眉だと思うが、演奏してみるとめちゃむずかしい。これを軽々と吹きまくるのだからすごいよなあ。でも、「ブルース・ウォーク」といい、ブラウンの作曲能力もすごいのだ。今回しみじみクレジットをみて、へー、「パリジャン・ソロフェア」ってバド・パウエルの曲なのかあ、「ファット・アワ・アイ・ヒア・フォー」はエリントンナンバーなのかあ、といろいろ発見した(まあ、普通のひとはよく知ってることでしょうが)。一途に吹きまくるブラウンと、マレットを持って破顔しているローチのふたりのジャケットが、このバンドの明るい活気を示しているようだ。

「BROWN AND ROACH INCORPORATED」(MERCURY 15PJ−2015)
CLIFFORD BROWN AND MAX ROACH

 マーキュリーのほかの盤とちょっとちがう点があるとすれば、ブラウンの曲が一曲、ローチの曲が一曲、あとはぜんぶスタンダード……という構成にあるだろう。しかし、クインテットのクオリティはまったく落ちておらず、まさに向かうところ敵なし……これってさっきも書いたなあ。とにかく、そういうしかないほどの完成度である。少なくともブラウンのソロに関しては、ただただため息をつくしかありません。

「CLIFFORD BROWN AND MAX ROACH AT BASIN STREET」
CLIFFORD BROWN AND MAX ROACH

 テナーがランドからロリンズにかわっている。ブラウン〜ローチでのロリンズは、だいたいにして評価が低いようだ。私も学生のころはそう思っていたが、もちろん、これはロリンズの個性と前進意欲のゆえなのであって、私は今回聞きなおしてみても、ぜんぜんOKでした。ランドは、ノリに任せておいしいフレーズを吹きつづけるタイプで、いわゆる「よくクックする」ソロイストなのだが、ロリンズはこの時期でもすでに思索的、実験的なところがあり、それはそれでたいへんすばらしいことだが、ロリンズのソロになると、ブラウンの超快調なソロで築かれた雰囲気が、ぐぐぐっ、と歯止めをかけられる感じになるので、それがクインテットの従来の展開というか調和を崩しているように受け取られているのだろう。でも……いいじゃない。ブラウンはあいかわらず凄いんだから。本作は、なんでこんなタイトルがついているのかよくわからないが、ベイズンストリートでのライヴでもなければ、ベイズンストリートブルースをやってるわけでもない、いつものニューヨークのスタジオ録音。一曲めの「ファット・イズ・ディス・シング・コールド・ラヴ」のこの演奏がまさしくウディ・ショウの「ユナイテッド」でまったく同じアレンジで引き継がれた原点なのである(ウディのバージョンは、こちらのいらない部分をカットして、よりシンプルになっている)。そのあとも、「慕情」や「アイ・リメンバー・エイプリル」などの、ちょっとポップな感じの選曲(とリッチー・パウエルの曲)が多いアルバムだが、ブラウンの快調さのまえには素材なんて関係ねーっ、という感じ。しかし、B面ラストの「フロッシー・ルー」という曲は、ずっとスタンダードの歌ものだと思っていたら、ダメロンの曲だったのですね。ダメロンはすごい。

「MEMORIAL ALBUM」(BLUE NOTE 1526)
CLIFFORD BROWN

 ブラウンに関しては、ほんと文句のつけようがないが、サックスがなあ……。A面は、ジジ・グライスとチャーリー・ラウズが入っていて、このジジ・グライスというひとは、私は昔から「音」がダメで、今回聞き直してみても、ぜんぜんあかん。ラウズも可もなく不可もない感じ。B面は、ルー・ドナルドソンで、私はこのひともあかんのです。だから、あの名盤といわれるメッセンジャーズの「バードランドの夜」もいまいち好きではない。このアルバムでも、ルーはちゃんとした音でちゃんとしたソロを吹いているのだが、ハッとさせられる瞬間もなく、コード分解してきちんと決められたコーラスを吹きました、というソロ。べつにいらんやろ、と言ってしまっては言い過ぎか。なにしろ相手がブラウンだからなあ……。ルーの強烈な個性が発揮されていくのは、これよりずっとあとであって、このころはパーカーの亜流なのだった。

「THE 2 TRUMPET GENIUSES OF THE FIFTIES」(PHILOLOGY 214W13)
CLIFFORD BROWN/CHET BAKER

 一曲めが、な、な、なんとクリフォード・ブラウンの「プラクティス・テープ」である。つまり、ブラウンの練習風景がそのまま収録されているということ。そういうアルバムがでた、ということを聴いて、探しまくって入手した。全11曲中、ブラウンはその一曲だけで(「チェロキー」らしい)、あとはイニシャルが同じのチェット・ベイカーのバンド。なんやねん、それ。そんなもん誰が買うかい、と思うかもしれないが、はっきり言って、この練習風景一曲を聴くだけで、このアルバムの価値は十分にある。というか、全トランペッター必聴である。私も、入手はしたものの、なにしろ海賊盤だし、ブラウンの練習風景? ほんまにそんなもんあるんかいな、誰かがブラウンの真似してるだけとちゃうか、と半信半疑だったわけだが、聴いてみると、いやはや、これはブラウン以外のなにものでもない。音は異常に悪い。壁を数枚へだてた向こうで吹いているような感じで、ずっとハーマンミュートをつけているようにも聴こえるが、たぶんオープンなのだろう。それぐらい音質は劣悪であるが、内容は信じられないぐらいすごい。そうかー、ブラウンってリズムセクションいらんやん。それぐらいすごいのです。吹きにくいフレーズになると、テンポを落としたり、何度かやりなおしたりしている点もリアルこのうえない。しかし、信じられないテクニックと歌心が、こういう練習だと余計に露骨につたわってくる。え? あとのチェット・ベイカーはどうかって? そんなもんどうでもよろしい。ブラウンのこの13分の一曲のためだけに買え!

「THE BEGINNING AND THE END」(COLUMBIA C32284)
CLIFFORD BROWN

 いったい誰がこんなアルバムを企画したのだろう。ひとりのミュージシャンの初レコーディングと、死の直前のジャムセッションでの演奏をカップリングして一枚にするという着想は凄い。だが、往々にして残されたものの自己満足というか感傷で終わってしまいそうなこういう企画が、本作においては着想倒れで終わるどころか、劇的な効果を生んでいるのである。ふつうは初レコーディングなどでは、ソロも与えられず、セクションのひとりとして参加している程度だと思われるが、ブラウンは初レコーディングであるこのR&Bっぽいセッションにおいても、目の覚めるようなソロを吹いているうえ、死をまえにしたジャムセッションでも、信じられないようなすばらしい演奏を繰り広げており、共演者はブラウンに比べると格落ちのメンバーであるにもかかわらず、ブラウンのソロに触発されてか、一段上の演奏でブラウンの熱演に応えていて、その二種類の演奏のカップリングだからこそである。それにしてもこのセッションでのブラウンは凄まじい。事故死なので本人はまさかこのあと数時間後に死ぬとは思っていないだろうし、レコーディングされているとは思っていなかっただろうから、つまりブラウンは日頃のどんなジャムセッションでも手抜きなく、このレベルの演奏をしていたということになる。すごいよなー、それって。天才としか言いようがない。「ウォーキン」「ドナ・リー」や「チュニジア」など、いかにもジャムセッションといった風のおなじみの曲がここでは壮絶なアドリブの素材として扱われており、ブラウンはひたすらに、ひたむきに自分のすべてを出そうと熱演し、共演者たちもブラウンをもり立てようとがんばっている。こういう言い方は意味がない、というか、よくないことかもしれないが、眼前に迫っていた事故死のことを考えると、このセッティング、この演奏、そしてそれが録音されていたという事実は神の恩寵ではないかと思ってしまう。しかし、神はブラウンの命を数時間後に奪ってしまうわけで、恩寵どころか、ある意味、業苦に等しいともいえるわけだが。聴くたびに胸がしめつけられるが、それでもあまりの内容の良さについつい聴き入ってしまうという、内容をともなった本当のドキュメント。