andrew cyrille

「SPECIAL PEOPLE」(SOUL NOTE 121012−2)
ANDREW CYRILLE

 まさにブラックフリージャズの典型ともいうべき作品。80年の吹き込みだが、当時アンドリュー・シリルはまだ41歳、デヴィッド・ウェアにいたっては31歳という若さばりばりのころだ。私の勝手な考えによると、このころのブラックフリージャズの特徴として、テーマをちゃんと合わせようとしない、リズムを前面に出している(ヨーロッパの即興中心の演奏と真逆)、空気感を大事にする……などがあると思うが、まさにそんな感じの演奏。なにがやりたいのかよくわからない、という瞬間も多々ある。やってる本人もわかってないのかもしれない。ダレる箇所もある。しかし、全体を通して、どこか「熱い」のだ。こういうわけのわからない、意味不明の熱さは、デレク・ベイリーやエヴァン・パーカー、そしてブロッツマンなども、ていねいに排除したものだと思う(ブロッツマンの熱さにはちゃんと理由や方法論がある)。そして、そのわけのわからない熱気は、ニューオリンズからブラックミュージックとしてのジャズのなかにかなり重要な要素としてしっかり在り続けたものなのだ……みたいな、でたらめな意見が妄想のように頭によぎるような演奏である。シリル、ラシッド・アリ、サニー・マレイといったドラマー、ウェア、(このころの)マレイ、オリバー・レイク、アーサー・ブライス、チャールズ・ブラッキーン、テッド・ダニエルズ、オル・ダラ……といった連中の演奏は、そんなマグマのようなどろどろした熱さが根幹にあり、それはおそらく、ブラックジャズの伝統、もっというとアフロアメリカンの血のようなところから発しているものなのかなあと極東の小島に住む私などは思ったりするのです。やはり、若きウェアのソロが一直線でいいですね(5曲目とか爆発している。一直線といっても、表現としてはねじ曲がっているのだが……)。テッド・ダニエルズのソロも力強くていい。1曲目はオーネットの曲だが、4曲目にジョン・スタブルフィールドの曲が入っているのも人脈的に面白い。その曲(4曲目)はそれぞれの無伴奏ソロをフィーチュアするという趣向で楽しい。ベースのニック・デ・ジェロニモ(本名か?)もいい味を出している(ある意味、本作のキモといってもいい)。ほかの曲が全部ドラマーであるシリルの作曲というのも、彼がリーダー、コンポーザーとして「胴を取っている」のがわかる。

「METAMUSICIANS’STOMP」(BLACK SAINT 120025−2)
ANDREW CYRILLE & MAONO

 上記の2年前の作品で、レーベルもほぼ一緒なので、こちらがマオノというバンドの第一作なのかもしれないが、上記作品ではマオノというグループ名は使っていないのはどうしてだろう(メンバーはまったく一緒なのだが)。上記作よりも、より「フリージャズ」感が強い。つまり、ジャズっぽい。骨太なベースとシリルの柔軟なドラムが作り出すベーシックなリズムのうえで、まだ20代のウェアがいきいきとはね回るようなソロを繰り広げる。テッド・ダニエルズも良いが、なんといっても耳はウェアの音に吸い寄せられる。このころから晩年と同じ音楽性だったのだなあと感心。音色もほぼ一緒だが、このあとどんどん研ぎ澄まされ、太く、個性的になっていく。2曲目は珍しく大スタンダード。ここでもウェアの大胆なバラード解釈が楽しい。後年のように完全にバラバラにしてしまうのではなく、まだ、よいメロディをフリージャズ的に……という頭が残っている。3曲目は、曲自体がかっこよくておもしろい。ベースとトランペットのデュオ、テナーとドラムのデュオ、テナーとトランペットのデュオ、ベース(アルコ)とドラムのデュオ、全員の集団即興を、テーマを一回ごとにはさみながらつなげていくという演奏。おもろーい。こういうのは、ライヴでやったら毎回感じが変わって、やるほうも楽しいだろうな。4曲目は組曲風になっていて、22分の大曲だが、ウェアの好調ぶりとダニエルズの無骨だが心に響くトランペット、ジェロニモの(ちょっとウィリアム・パーカーを思わせる)ベースワーク、そしてすべてを包み込むシリルのドラム、その全部が良かった。ジャケットもインパクト大。なお、本作のジャケット裏表記では、テッド・ダニエルになっているが、たぶんSが抜けただけだと思う。

「ODE TO THE LIVING TREE」(VENUS RECORDS TKCV−79098)
AFRICAN LOVE SUPREME

 どっちがバンド名でどっちがアルバムタイトルかよくわからないが、まあ一応「アフリカン・ラヴ・シュープリーム」というバンドの「オード・トゥ・ザ・リヴィング・トゥリー」というアルバムだと解釈しておこう(ライナーノートを読んでもよくわからんのです)。正直なところメンバー的には「またか」と思ったし、デヴッド・マレイとオリバー・レイクというのはあまり食指が動かないなあ、しかもドラムがシリルか……と個人的にはいまいちのらない感じだったが、なんとなーく購入して聴いてみると、あらー、なかなかええやないですかと先入観を大反省。アフリカ録音だが、最初はムスターファ・テディ・アディというアフリカの伝説的なドラマーとの共演盤になるはずだったのだが、いろいろあって(ライナー参照)話が二転三転し、結局、演奏場所がガーナからダカールに変更になり、そのためにアディとの共演はおじゃんになった。しかも、ほかのメンバーも、ピアノはジェリ・アレンの予定だったのがアデゴケ・スティーヴ・コルソンというロフト系のひとに、ベースもレジー・ワークマンからフレッド・ホプキンスに変更になった、という経緯がある。そういうごたごたがあったにもかかわらず、5人は一丸となった熱い演奏、しかも、言い方は悪いが、このメンバーだとけっこうそうなりがちな、手垢のついたフリージャズのルーティーンになっておらず、そのあたりはとてもよかった。1曲目のアルバムタイトル曲「オード・トゥ・ザ・リヴィング・トゥリー」というシリルの曲は、いかにも今のアフリカっぽい楽しくてはじけた感じの曲で、マレイもレイクもいいし、シリルもちょっとパワー落ちたなあという「あの感じ」がなくて、なかなかはじけている。2曲目のマレイの「ダカール・ダークネス」というのはいかにもマレイらしいリフのパターンをシンセ(?)がずっと続けるというものだが、ホプキンスのベースのラインもよくて、曲としてめちゃかっこいい。レイクのソロに続くマレイ自身のバスクラもええ雰囲気である。こういうのはほんと好きです。3曲目はシリル作曲のバラードだが、レイクが朗々と、なおかつフリーキーに歌い上げる。こういうところは、とてもあざとくて、普通なら「いかがなものか」と思ったりするのだが、このグループではその感じがほどよくて、とてもいいほうに現れていて、さすがレイクやなあと感心する。マレイもベン・ウエブスターもかくやというテナーの太い音色をきかせて、やはり上手いひとだと再認識。いっちょあがり的なアルバムを連発してたころは、ほんとに嫌になったが、こういうのは素晴らしいですよね。だが、肝心の(いや、肝心かどうかは知らないが)「至上の愛」パート1、パート2は、うーん……これをアフリカでやるということにどういう意味があったのか。さすがにみんな上手いし、ブラックジャズとしての処理だと思うが、それなりにかっこいい演奏になっていて、ライヴでもしこれがはじまったら「オオーッ」と思うかもしれないが、こうしてアルバムで聴くと、たんにモードジャズをやりました、有名曲をやりました、という以上の、なにかとんでもない、あるいはディープで熱いもの、みたいなこちらの勝手な期待を上回るものはない。いや、みんな熱演ですよ。でも、たぶん「至上の愛」でなくても、モードの曲がここにあったら、このメンツだったらきっと同じような熱演になると思うのだ。ラストはピアノのアデゴケ・スティーヴ・コルソンの曲で、レイクは(クレジットではアルトになってるが)ソプラノサックスをへろへろと吹いている。ピアノのコルソンはこの曲でもエレピを弾いていて、ライナーによると「アコピを弾いていないのはスタジオにエレピしかなかったからではないか」と普通なら信じられないようなことが書いてあるが、この演奏を聴くと、そうかもなあと思ったりするような雰囲気ではある。まあ、そういうアルバムでした。誰のリーダー作というわけではないのかもしれないが、便宜上、シリルの項に入れておく。

「GALAXIES」(MUSIC & ARTS CD−672)
ANDREW CYRILLE・VLADIMIR TARASOV

 アンドリュー・シリルとガネリン・トリオのウラジミール・タラソフのデュオ。ドラムデュオなので、フリージャズドラムバトルみたいなもんかなあと思っていたが、タラソフは自伝(?)のなかで、ヨーロッパでやってるようなフリーインプロヴァイズドみたいなのはめちゃくちゃしょうもない。私がガネリントリオでやっているのは、すべて作曲されたもので、いつどんなときでも再演可能なものだ、と豪語していたので、おそらく普通のデュオではないだろうなと思っていたら、やはりそうだった。たとえば1曲目の冒頭、タラソフはドラムだけでなく、キーボード、シンセ、打ち込み……と思われるようなものも使いながら壮大な音楽を作り上げていく。結果、パーカッションをフィーチュアしたクラシックの曲のようなものができあがっていく。しかし、そこにはシリルのアフロアメリカンな感覚や即興の鬼の経験も反映されており、できあがったものはふたりがこれまでに体験してきたさまざまな音楽の要素が盛り込まれた非常に興味深いものとなった。もちろん、パーカッションデュオ的というか「ドラマーとしての名人芸を聞く」的な部分も多いが、タラソフはすぐにそういうところをかわす、というか、別の要素をぶちこんでつぎの場面へと転換していく。一箇所に定住しない、という演奏方針なのか、そういうあたりはじつに過激なのである。しかも、この顔合わせだといくらでもグワーッと盛り上がることは可能だと思うし、放っておくとそうなってしまうだろうから、それをぐっと抑制しているというのはたがいの信頼関係などに基づく、強固な意志が感じられる。ダイナミクスの幅の広さもすばらしく、音量の変化だけで十分ひとつの表現をなしえている。クールでかっこいい。そして、きわめて「ジャズ的」な部分もある。4曲ともライヴ音源だが、繊細な表現から大胆で熱気あふれる表現、シリアスな表現からユーモラスな表現まで、アフロアメリカンのシリルとロシアのタラソフの生き様のぶつかり合いと融合までが聞き取れる演奏である。こういうのを聞くのが人生の糧になるのだ。ラスト4曲目の超短い演奏は、どう聞いてもコニーちゃんの「じゃかじゃかじゃんけん」にしか聞こえないのだが、な、なんとコルトレーンの「ワン・アップ・ワン・ダウン」だという。なるほどーっ! かなり長文のライナーを読むと、シリルは「ドラムソロ」について語っている部分で、「アート・ブレイキーの『ナッシン・バット・ザソウル』『メッセージ・フロム・ケニヤ』や、ベイビー・ドッズのトーキングドラムソロ、コジー・コールの『トプシー』などについて言及していて興味深い。傑作。

「JUNCTION」(OCTAVE−LAB/ULTRA−VIBE OTLCD2637)
ANDREW CYRILLE

 ホワイ・ノットで新録された音源ではなく、本作はシリルとミルフォード・グレイヴスが主催するレーベルに録音されたものをホワイ・ノットが買い取ってリリースした作品だそうである。デヴィッド・S・ウェアとテッド・ダニエルという強面の2ホーンで、ウェアはまだ26歳だそうだが、とにかく音の強靭さは群を抜いている(「ダーク・トゥ・ゼムセルヴズ」に参加するのはこの録音のすぐあとだそうです)。ライナーには「濁流のごときテナー」と評されているが、なるほどと思う。そして、シリルのドラムはセシル・テイラーのユニットでのあのパルスのようなプレイとは違って、ダイナミックでジャズのルーツも感じさせるものであります。20分に及ぶ1曲目の「ノタリ・バリエーション・オブ・春の海」という曲はたしかに「春の海」を感じさせる演奏。与謝蕪村の「のたり」なのかもしれないが、ここはひたすらウェアのスクリームを味わうべきでしょう。ベースソロもすばらしいのだが、このひと(ライル・アトキンソン)はめちゃくちゃオーソドックスなジャズの有名プレイヤーのバックを務めてきたひとらしく、こういう演奏は珍しいのではないかと思う。しかし、表現力はすばらしい。2曲目はテッド・ダニエルズとデヴィッド・ウェアのふたりが奔放に吹きまくる冒頭部分から心をつかまれてしまうテンション高い演奏(シリルは参加せず)。3曲目以降はライヴ。3曲目はシリルのサムピアノとダニエルのトランペットのデュオによるアフリカ的な演奏で、この時期(76年)にはここまでがっつりしたサムピアノの演奏は珍しかったかもしれない。力強い、見事な演奏。ラストの4曲目はタイトル曲で、シリルのドラミングから始まり、ダニエルの絞り出すような音のトランペットとのデュオになり、これがテンション高いまま延々と続く。8分過ぎぐらいからダニエルがフルート(?)に持ち替えての演奏になる。ダニエルはなんだかよくわからないエレクトロニクスのノイズへと移行するのだが、これがけっこうガッツリな感じなのも興味深い。このノイズはもしかしたらトランペットにエフェクターをかけたものかもしれない(後半は明らかにそんな感じ。ハーモナイザー的な音も聞こえる?)。デヴィッド・ウェア的な興味は前半2曲だけなのだが、全曲聴きごたえがある。「ダーク・トゥ・ゼムセルヴズ」が本作の翌年であり、初リーダー作「フロム・サイレンス・トゥ・ミュージック」(これもエグい傑作)がその2年後ということを考えると、本作はウェアのキャリアを俯瞰するうえでも重要作ということになる。「セレブレイションズ」というウェアやダニエルが参加したシリルのアルバムがあるらしくて(本作より少しまえのライヴ)聴いてみたいのだが、今のところ見たこともありません。