miles davis

「LIVE−EVIL」(COLUMBIA/LEGACY C2K65135)
MILES DAVIS

 この時期のマイルスの作品はどれも凄いけど、そのなかではいちばん聴かないほうかもな。タイトルからして全編ライヴのようだが、じつはライヴのあいまに短いスタジオ録音を挿入して、二枚組がひとつの組曲のようになるようにしてある(のだと思う)。メンバーだけをみると、チック・コリア、ハービー・ハンコック、キース・ジャレットの3キーボードにグロスマン、ジョ・マクラフリン、デイヴ・ホランド、ディジョネット、アイアート・モレイラ……というようなぶっとびのメンツのものとか、ザビヌル、チック・コリアのツインキーボードにビリー・コブハム、ディジョネットのツインドラム+ショーターのものとか、まあ、ものすごいのだが、実際聴いてみると、サウンドとしては混沌として、誰がなにをやっているのかとかはよくわからないし、どれもあきれるほど短い。それよりも、ライヴの4曲を聴くべし。これは、キーボードはキース・ジャレットひとりだし、ベースもホランドからエレベ専門のマイケル・ヘンダーソンに代わっており、よりロックっぽい。演奏もある意味大味で雑だし、マイルスのトランペットもこの時期のほかのものとくらべて、フレーズを吹くというより効果音的になっている。ディジョネットのドラムも、曲によっては(今の耳からすると)バシャバシャと荒っぽくダサい8ビートを叩いてるものもある。しかし、全体としてはやはり「凄まじい」という言葉が適当だろう。なんといってもこのメンバーの「胆」はキース・ジャレット。ほとんどフリージャズの音塊をぶつけまくる。結局、あれですね、このアルバムをあまり聴かないというのは、荒っぽいということもあるけど、サックスがゲイリー・バーツでしょ。アルトには関心がない私(だから、ソニー・フォーチュンやケニー・ギャレットのいる時期もほとんど関心がなかった)。それと、マイルスの吹き方が変わったのがこのアルバムあたりからのような気がする。さっきも書いたけど、フレーズをあまり吹かなくなってきた。めっちゃかっこいいんだけどね。そして、ソリストの中心が、それまでのサックスからギター(このアルバムではジョン・マクラフリン。たしかにめちゃめちゃすげー)に移っていったことも関心の薄れた理由である。トータルミュージックとしてマイルスの音楽を聴くならば、そんなことは関係ないかもしれないが、なかなかそうはいきまへん。というわけで、このアルバム以降(つまり「オン・ザ・コーナー」からあと「アガルタ」「パンゲア」まで)マイルスの音楽への私の関心は急速に失われていくのである。

「1969 MILES−FESTIVA DE JUAN PINS」(SONY RECORDS SRCS6843)
MILES DAVIS

 凄い凄い凄すぎる。いやー、こんな音源が未発表だったなんて、信じられない。ハンコック〜ロン・カーター〜トニー・ウィリアムスのクインテットと、「ビッチェズ・ブリュー」のあいだにマイルスが結成していた「失われたクインテット」の唯一の公式音源である。「ビッチェズ・ブリュー」以降は、クインテットとかセクステットとか呼べるようなジャズ形式のバンドはマイルスは組まなくなってしまったので、これが最後の「ジャズ的バンド」といえるかもしれない。いやはや、とにかくすごいわ。聴いてもらわないとこの凄さは伝わらないだろうが、一曲目から最後の曲まで、ただただ「ハラホレヒレハレ〜」とつぶやいているうちにあれよあれよと通りすぎていく。聴き終えるとボーゼン自失になる。ディジョネットとホランドもたしかにものすごい。しかし、このチック・コリアはどうだ? むちゃくちゃやん! エレピの山下洋輔か。チックが弾きだすと、ディジョネットがものすごく燃える。このからみを聴くだけでも価値があるが、なんといっても最高なのはウェイン・ショーターである。このあと退団してしまうわけだが、いやはやキチガイですな、これはもう。とうてい予測不可能な、まったくオリジナルなフレーズを、ものすごい音圧で、すごいリズムで吹きまくる。聴いていて、あまりのすごさに「うわーーーっ」と叫びたくなる。このアルバムでのショーターを聴けば、どんなひとでも彼がワンアンドオンリーの、偉大なスタイリストであることがわかるはずだ。圧倒的すぎて、開いた口がふさがらない。もちろん、マイルスもすごくて、このころはちゃんとフレーズ吹くことによってバンドとコミュニケイトしようとしているし、何度も聴くと、そのフレーズを覚えてしまう、という、いわゆる「ジャズ的」あるいは「ジャズ喫茶的」な聴き方もできるようになっている。「ラウンド・ミッドナイト」のテーマ後のリフの凄さを聴け! 時空がゆがむほどのエネルギーがスピーカーをぶち壊さんばかりに噴出する。ああ、やっぱりマイルスは凄かったんだなあ、と再認識させてくれた。もしかしたら、マイルスの全アルバムのなかで一枚を挙げよ、といわれたら、今の正直な気持ちとしてはこの盤かも。ずっと「プラグドニッケル」だと思ってたんだけど、衝撃度、破壊力……どれをとってもあれより上じゃないでしょうか(まあ、ここまできたら上としか下とかあんまり意味ないけど)。それほど凄いです。必聴、必聴、また必聴の傑作。

「MILES DAVIS AT FILLMORE」(SME RECORDS SRCS9716〜7)
MILES DAVIS

 聴いていると、さまざまな色の絵の具をぶちまけたなかをごろごろ転げ回っているような快感に襲われ、その快感にひたったまま、二枚組をあっというまに聴き終えてしまう。とにかくいろんなことがつぎつぎに起こって、それを楽しもうとしたときには、すでにつぎの何かが起こっていて……とめまぐるしいにもほどがある。それはあの「ビッチェズ・ブリュー」も同じだが、本作あたりの感じは、「ビッチェズ・ブリュー」を3倍ぐらいの速度で演奏している、といえば伝わるだろうか。こんなにも聴いていてわくわくする音楽はない。つまり、「期待感」がものすごく喚起される仕組みになっていて、そのあたりがマイルスの魔法なのだろうな。たとえば、ベースとキーボードによるイントロが不気味な雰囲気をかもしだす曲など、うわあ、このあとどんなおもろい演奏になるんやろ、とわくわくどきどきする。そういう要素が、ほかのジャズに比べて100倍ぐらい強いのだ。メンバーもそれぞれ、自分の楽器から新しい音を発見していく、いや、発見せざるをえない状況にマイルスが追い込んでいるといったほうがいいかも。普通のラテンジャズだと、キューキューキュキュキュッと蛙を踏んづけたみたいな使われかたしかしないクイーカをこんなにも気持ち悪い使い方をした音楽がこれまであっただろうか。マイルスも、このアルバムあたりまではまだちゃんとフレーズを吹いていて、めちゃかっこええ。グロスマンのソプラもいいんだけど、これは「イッツ・アバウト・ザット・タイム」というフィルモアの未発表音源が出てしまい、それにおけるショーターの凄まじい演奏、単なるソロというより演奏の根源をどんどんチェンジしていくような演奏(つまり、マイルスがふたりいるような感じなのです)にくらべると、単に「コルトレーンスタイルの、いいソロ」というレベルではあるが、これはくらべるほうが無理であって、当時のショーターの到達していた高みには誰も席を並べることはかなわなかった、というべきだろう。たぶんテオ・マセロの手でかなりの編集がなされているのだろうが、それも含めて、絢爛豪華な音絵巻である。というのは、このころ以降のマイルスの音楽というのは、フリージャズ以上にフリーな音楽なので、なにがおこるかまるでわからない反面、ダレル危険性もあり、実際、音楽的にはなにも起こっていないが、リズムとグルーヴで持たせているような「待ち」の場面がときどきある(ライヴイビルとかもそういう場面多い)。ジャズなのだから、そういうダレの場面あっての盛り上がりであることは聴き手もじゅうぶん承知しているだろうが、そこにあえてハサミを入れるテオ・マセロのマジックによって、このアルバム二枚組は「待ち」の場面すらない、疾風怒濤のジェットコースターとなったのである。どうこの表現。当たってるんじゃないですか?

「WINTER IN EUROPE 1967」(GAMBIT RECORDS 69255)
MILES DAVIS QUINTET

 ハービー、ロン、アンソニー、そしてショーターという、あのクインテットが解体寸前の、スウェーデンとドイツのライヴである。どうせいつもの海賊版で、音質劣悪、ちょっと聴いてがっくり、みたいなやつだろうと思ったが、メンバーがメンバーだし、とりあえず買ってかえって、聴いてみて驚愕。すごい。音質ばっちり。演奏ばっちり。マイルスもショーターもハンコックもロン・カーターもアンソニーも……ようするに全員凄い。かっこよすぎる。「プラグドニッケル」、「イン・ベルリン」……その他と比較しても肩を並べるぐらいの超ハイテンションの演奏が詰まっている。もしかしたら、まだ手さぐり状態の「イン・ベルリン」やマイルス体調不良でその他のメンバーが突出する「プラグドニッケル」よりもある意味凄いかも。びっくりしたなあ、もう。、「フットプリンツ」や「ジンジャーブレッドボーイ」、「ウォーキン」など、ブルース形式の曲が多いのに、演奏を聴いてみると、まったくブルースを感じさせないのが驚きだ。また、一曲、バラードが入ってて、テーマ部分はマイルスが「マイ・ファニー・バレンタイン」あたりの感じで切々と吹くのだが、ソロに入るともうぐちゃぐちゃ。すごい。ようするにこのころのマイルスにとっては、曲の進行とか形式とかどうでもよかったのだろう。テンポも和声も好き勝手してるからなあ、こいつら。プラグドニッケルでのあの信じがたい「自由」な演奏は、あのときかぎりのものではなく、このグループが当時ごくふつうに獲得していたレベルなのだなあとあらためて思った。いやあ、しかしすごいわ。とくにショーター。マイルスのソロのあと、べらべらっとテナーの下のほうで吹くだけで、世界が変わるというか……。ちょこっとノイズが入るけど(テープの捩れのようだ)十分すぎるほど満足いく音質で、演奏レベルは信じがたいほど高い。マイルスファンのみならず全ジャズファン必聴。ただし、「イン・ベルリン」や「プラグドニッケル」を聴いてからね。(附記)えーと、先日、このコンサートのDVDが出たので買ってみたが、やっぱりすごい。映像が加わるとやはりいろいろわかることも多いので、両方買うことをおすすめします。

「GET UP WITH IT」(SONY MUSIC JAPAN INTERNATIONAL INC.SICP848−9)
MILES DAVIS

 わからんなあ。マイルスがラッパを吹いていない、あるいは吹いていても、ほんとにしょぼいことしかしていないこのアルバムがマイルスの最高傑作だとか、いちばん好きなアルバムだとかいうひとがいるということが。マイルスを神様扱いしている一部のマニアはいざしらず、今の耳で聴くと、うーん……やっぱりどの曲も長すぎる。何かが起こるまで、かなり我慢しなくてはならないのがしんどい。そこがええねん、というひとはやっぱりマニアなんじゃないですか? なにが起きるかわからない期待感……みたいなものは、やっりフリージャズのほうが露骨に大きいし、実際、なにかがおきるし。この時期のマイルスのスタジオ盤は、最初っから最後まで「なにかがおきそうな期待感」がビーッと続いたまま終わるというのが私の印象(そこがええねん、それがわからんやつは聴くな、と言われたらそれまでだが)。マイルスのオルガンはかっこいい……ところもあるけど、一方では、シンセが出始めのころのテクノでよくあったような、へー、こんなこともできるのかといろいろ遊んでみました的なチープな感じもあり、ダレる。緊張感は、あるような、ないような。つまり、テープをずっと回しっぱなしにしているので、その分、いつなにがおこるのかわからない、おこったらそれをつかまえて、うまく処理しなくてはならない、という緊張感もある反面、ああ、なにも起こらないなあ、もう1時間もこのライン弾いてるよ、そろそろやめようかなあ、みたいなダレもあるはずで、それをテオ・マセロが「音楽」にしたてあげるよう上手に編集した、ということではないのか。演奏してる連中も、しょっちゅうこんなことをやってただろうから、「どうせ、どこ使うかわからないし、テープ処理で音もねじまげられるし、編集でうまくやってくれるだろうし」みたいな慣れもあっただろう。それを「最高傑作」というひとは、きっとマイルスの音楽をよほどわかっているのだろう。一トランペッターとしてでなく、マイルスの世界というものを味わうべきだ、ということが頭ではわかっていても、なかなかピンとこない私。それに、こういう聴き方はいちばんいかんのだろうが、リーブマンもソニー・フォーチュンもフルートだけ。グロスマンとジョン・スタブルフィールドもカルロス・ガーネットもソプラノだけ。ギターが多すぎてうっとうしい。そんなアルバム、わしゃ聴きたくないで! といいつつ、たびたび聴いてしまうのはなぜなのだろう。やっぱり「期待感の魔力」としかいいようがないなあ(マイルスについて書くと、やたらに「やっぱり」の多い文章になるのはなぜ)。とにかく、一部のひとがいうように、「理屈ぬきでとにかくかっこいい」みたいな聞き方は私にはまったくできまへんわ。

「ON THE CORNER」(COLUMBIA/LEGACY CK63980)
MILES DAVIS

 この演奏は、ソロを聴く、という態度で聴いたらなんにも面白くない、ということはわかる。リーブマン(とカルロス・ガーネット)は唯一のソロイストで、あとのメンバーはマイルスも含めて、リズムを奏でている。リーブマンはソプラノでコルトレーンライクなソロを吹いているが、この時点ではまだレギュラーメンバーではなく、録音に呼ばれただけなので、いまいち「何やったらええんかなあ」的な手探り感があって、レギュラーになったときのあの吹きまくりの感じはない。ほかの曲でフィーチュアされているカルロス・ガーネットのソプラノと区別がつかん(カルロス・ガーネットにソプラノばかり吹かせている、という点をみても、マイルスが欲していたのは、その奏者というよりソプラノのサウンドであるということがわかる。ゲイリー・バーツ、ソニー・フォーチュン、ボブ・バーグでみんな不本意ながらいやいやソプラノを吹いていたにちがいない……って偏見かなあ)とにかく「リズム」……かっこいいリズムを聴くべきアルバムなのだろうが、私にとってのジャズはそういう音楽ではないのです。何年かに一度しか聴かないけど、聴くたびに「ああ、そうそう、こんなんやったっけ」と途中で聴くのをやめてしまう(1曲目と4曲目だけ聴くことが多いかも)。「ゲット・アップ・ウィズ・イット」あたりの、なにが起きるかどきどき……みたいな感覚もすでに削除されていて、ここにあるのはただひたすらリズムのグルーヴばかり。踊るための音楽、ということなのかなあ。おそらく、このあとのに続いた多くの音楽の手本になったのだろうと思うが、マイルスのアルバムとしてはいちばん聴かない部類か。このあたりですでに私にとってマイルスはどうでもええ感じになっていたのだろうなあ。

「DIG」(PRESTIGE UCCO−9038)
MILES DAVIS FEATURING SONNY ROLLINS

 恥ずかしながら、今回はじめて通して聴いた。それぞれの曲はばらばらの形ではよく耳にしたことがあって、とくに表題曲や「イッツ・オンリー・ア・ペーパームーン」などは各人のソロも耳なじんでいるのだが、こうしてアルバム単位で全部聴いたのははじめてなのだ。ビーバップとハードバップの間、みたいな演奏で、新しい時代の到来を思わせる活気に満ちた空気が感じられ、なんとも心地よい。まだめちゃ若いはずのジャッキー・マクリーンとロリンズのソロも堂々たるもので、とくにロリンズはすでに個性もあってすばらしい若武者ぶりである。この年齢で、突撃だけでなく引くことも心得ているというのは、ほんま感心するわ。もちろんマイルスも良くて、そのソロコンセプトは、どこがどうちがっている、とは指摘できないが、すでにビーバップのイディオムからは抜け出している。表題曲など、リーダーであるマイルスはソロは後発なのだが、彼が吹き出すと、やっぱりリーダーはこいつだ、という存在感をひしひしと感じる。マイルスの成長ぶりは著しい。音楽の革新とか新しいものへのチャレンジとかいわなくても、ここにおけるはつらつとした個々のソロを聴いていると、それだけで十分だという気になる。愛聴しまっせ。

「AGHARTA」(COLUMBIA/LEGACY C2K46799)
MILES DAVIS

 これと「パンゲア」は、じつはほとんど聴いたことがなかった。ジャズ喫茶で4面のうちのどれかの面を聴いたのと、大学のときに友だちのうちでぼーっと聴いたぐらいかなあ。なぜ、「アガルタ〜パンゲア」にこれほど冷たいのかというと、それはサックスがソニー・フォーチュンだからである。何度も書いたが、私はアルトにはほとんど興味がない。だから、マイルスも時期を問わず、アルトがフロントのアルバムは関心がない。ゲイリー・バーツはもちろん、ケニー・ギャレットも、そしてソニー・フォーチュンも。いやいや、彼らはアルト吹きというよりソプラノ奏者として雇われているのだから、関係ないでしょう、という意見もあるだろうが、聴き手の気持ちとしては、「アルト吹き」と思ってしまうのだ。すんまへんなあ。今回、はじめてじっくり向き合って、最初から最後まで真剣に聴いてみた。で、感想だが、あんまりピンとこなかった。ファンキーなリズムが、すごくダサく感じるし、それに乗って吹きまくるソニー・フォーチュンも、これがマイルスのアルバムでなかったら、おおっ、すげーっ、と思うにちがいないが、なんせマイルスですからねえ。しゃかりきになって普通のモーダルなソロを吹きに吹いているフォーチュンのとなりでマイルスが「おまえ、ちょっと吹きすぎやで」とぶつぶつ言ってる絵面が浮かんできて醒めてしまう。うまいし早いし、すごいといえばめちゃめちゃすごいのだが、ウェイン・ショーターやリーブマンのようなイマジネイティヴなソロとはまったくレベルがちがう。それにだいたい私はギターに関心がないので、ギターが全面にでてくるとその部分は脳が情報をシャットアウトしてしまう(つまり、ぼーっと聴いてしまう)。そのうえ、マイルスがかなりよれよれで、吹かんでええんちゃう?と思ってしまう。そして、全体にいらん部分が多すぎる。マイルスのようなやりかただと、ライヴでその場で体験しているぶんには生の迫力や昂揚もあるだろうから、つぎになにが起きるか、みたいな興味でとくに気にもならんだろうが、こうしてアルバムとして追体験するには、ダレる部分がいっぱいあって、なんで編集せんかったん? と疑問に思う。二回聴いたが、3回目聴いていて途中でとめてしまいました。やはり、「オン・ザ・コーナー」以降のマイルスは私にはつらいです。

「PANGAEA」(SONY RECORDS INTERNATIONAL SRCS 9752〜3)
MILES DAVIS

「マイルスを聴け!」によると、「アガルタ」より本作「パンゲア」のほうが凄い、とのことだが、それは普遍的な評価なのだろうか。少なくとも私は、「アガルタ」のほうがまだ好きだ。「パンゲア」は、よりいっそう荒い感じがするし、ほとんどがギターミュージックで、サックスやラッパを聴く楽しみはほとんどない。また、ソニー・フォーチュンのソロも「アガルタ」よりずっと荒いし、雑だ。そういう聴き方をしてはいかん音楽なのだろうが、そういう聴き方しかできんのよ。まあ、私にはあまり縁がない演奏だと思う。

「COLLECTORS’ ITEMS」(PRESTIGE LP7044)
MILES DAVIS

 たぶんチャーリー・パーカーのテナー(ロリンズとダブルテナーで共演)が聴きたくて買ったのだろうとおもうが、今にいたるまでほとんど聞き返したことのないアルバム。今回久しぶりに聴いてみたが、いかにもバップで、一応アレンジはほどこされているが、録音といい、ソロといい、無数にあるビバップレコーディングのひとつとしかいいようがない。パーカーはこのとき泥酔状態だったというがほんとうかなあ。2テイク入っている「ザ・サーペンツ・トゥース」はロリンズもパーカーもいまいち乗り切らないソロで(ロリンズのほうがテナーらしいソロをしているが、パーカーはアルトの指遣いをテナーに置き換えただけ)、主役であるはずのマイルスも、うまいけど、ブルーノートセッションのような緊張感がなく(泥酔のパーカーをなんとかサイドでつかうのに必死だったのか?)、ありきたりの演奏でおわっている。マイルスの「ラウンド・ミッドナイト」の初演(?)が入っているのも興味深いが、マイルスの吹くテーマがコケており、しまらないことおびただしい。A−4の「コンパルション」はテーマのアンサンブルといい、マイルスのソロといい、パーカーのソロといい、テンションが高いうえ、イマジネイティヴで、すばらしい。ひとつのセッションでこういう風に出来不出来があるところが、まあ、おもろいところやけどな。B面は、のちに重要なレパートリーとなる「イン・ユア・オウン・スウィート・ウェイ」(テーマの吹き方など、完全にバップを脱却していてすばらしい。ロリンズのソロも、なんだかコルトレーンを連想するような意気込みにあふれている)や「ヴァイアード・ブルース」(マイルスのソロは不発。ロリンズはスロースタートだが後半非常にいい)が入っているところが興味をそそられるが、とにかく一曲目の「ノー・ライン」の気合いの入ったマイルスのミュートソロ一発で圧倒される。つづくロリンズのソロは、多少破綻している感もあるが、後年の個性がすでに発揮されていて、ええ感じです。しかし、なにゆえにベースソロでブツッと切れるのか?

「MILES DAVIS VOLUME 1」(BLUE NOTE 1501)
MILES DAVIS

 大好きなアルバム。全編珠玉。プレスティッジやCBSのマイルスのアルバムで、ビバップの片鱗がみえると、とたんに熱がさめる、というか、白けた気分になるのだが、こういう風に超上質の、バップの塊というか純正バップの神髄だけをぎゅーっと凝縮されたような演奏ばかりをならべられると、感動するしかない。どの曲も、はじけんばかりに熱い、若きマイルスの極上のソロと、同じく若きサイドマンたち(JJやマクリーンやジミー・ヒースや……)のすばらしいソロが詰まっていて、最高である。短い収録時間でもこれだけのことがいえる、という典型である。とはいえ、もちろん、普通の意味では、これらはバップというより「バップを抜け出しつつある演奏」というべきなのだろうが、私にとってはこれこそマイルスのビバップですね。「ディア・オールド・ストックホルム」など、「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」収録のものよりこっちのソロのほうが好きだし、「CTA」とか、とにかく小気味よくてかっこいい演奏ばかり。第2集もよいが、私はこの第1集を偏愛しています。

「MILES」(PRESTIGE LP7014)
MILES DAVIS

 このアルバムに対する非難の最大の原因は、このジャケットのひどさにあるのではないかと思う。若きマイルスがはじめて自分のレギュラーバンドを率いることになり、試行錯誤のすえ、この人選に落ち着いての初レコーディングで、グループ名も「ニュー・マイルス・デイヴィス・クインテット」と書かれており、マイルスがこのアルバムにかける意気込みが伝わってくるようだが、それにしてもこのジャケットはひどすぎる。プレスティッジというレコード会社は、なーんにも考えていない会社で、ときどき信じられないような手抜きのジャケットを最高の内容のアルバムに臆面もなくくっつけてよしとする。たとえば……えーと、あまり例を思いつかないが、スティット・パウエル・JJとか。このマイルス盤もそんなプレスティッジの手抜きの犠牲になったわけで、なんやねん、この青い、枯れた木が並んでいるモノクロの写真は。どこがマイルスと関係あるねん。何かの象徴か? いや、ぜったいに適当にそのへんにあった写真をなんの意味もなく使ったにちがいない。また、中央にどーんと横書きされたという白くてまん丸い字がダサすぎる。もうちょっと考えろや! というわけで、このアルバム、「ラウンド・アバウト・ミドナイト」に先立つ、マイルス・クインテットの記念すべき初吹き込みであるにもかかわらず、あまり評価されていないようだが、内容はそんなに悪くない。コルトレーンはまだまだ下手だが、それを言うなら、「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」でもじゅうぶん下手だったわけで、このアルバムがとくに顕著なわけではない。しかも、すでにほかのサックス奏者にはない独特のフレージングがあちこちで聴けて、びしびし個性を感じる(あとはそれがなめらかに、自信をもって、スピード感をもって吹けるようになるのを待つだけである)。リーダー、マイルス自身のできはあいかわらずの歌心とリリシズムが同居した、「ラウンド・アバウト……」やマラソンセッションと遜色ないかなりのものだし、選曲もよい。そもそもさしてこの時期のマイルスファンではない私がこのアルバムを買ったのは、「ノー・グレーター・ラヴ」「テーマ」「ステイブルメイツ」という選曲が自分の勉強になるのではないかと思ったからで、実際そのとおりだった。「ノー・グレーター・ラヴ」は一般的に行われているよりも遅いテンポで演奏されて興味深い。でも……やはりジャケットの魔力がアルバム全体を覆っている感じです。うちにある邦盤ライナーで岩波洋三が「マイルス・テーマ」を「マイルス・シーム」と発音しているところが笑える。シームってなに?

「ROUND ABOUT MIDNIGHT」(COLUMBIA CL949)
MILES DAVIS

 うちにあるのは偽ステ盤。学生のころ、さんざん聴きまくった。はじめのうちはこのアルバム、というかモダンジャズというものがよくわからなくて、「わかろう」と思って聴いたのだ。そして……あるときわかった……ように思う。とにかくこのアルバムは一曲目につきる。あの、ダッダッダーッ、ダッダッというソロまえのリフは、ギル・エヴァンスが考えたという説もあるようだが、ほんとかねえ。あのリフがあまりに印象的なので、モンクの原曲を聴くと、ちょっと違和感があるほど。イモだのなんだの罵声を浴びていたコルトレーンも、この曲でのマグマが煮えたぎるような熱いソロは、文句のつけようがない。まあ、さんざんいろんなところでほめられまくっているだろうから、この曲に関してはこれぐらいにして、ほかの曲を聴こう。すると、意外にほかの曲はダサいというか、古いビバップの枠から抜け出していない演奏が多いことがわかる。ブルーノート盤でも演奏されていた「ディア・オールド・ストックホルム」もそうだし、「アー・リュー・チャ」などはパーカーとの演奏の再現だし、ふーん、A−1しか今まで聴いてなかったんだなあ、と思った。「オール・オブ・ミー」「バイバイブラックバード」「タッズ・デライト」……どれも死ぬほど聴いた演奏なのでめちゃめちゃ愛着はあるし、どれも悪くないが、A−1が到達している世界とはかなりの格差があるように思う。

「STEAMIN’」(PRESTIGE LP7200)
「COOKIN’」(PRESTIGE LP7094)
「RELAXIN’」(PRESTIGE LP7129)
「WORKIN’」(PRESTIGE LP7166)
MILES DAVIS

 この歴史的マラソンセッション4部作を十把一絡げにまとめて評するなんて、という怒りの声が聞こえてきそうだが、まあ、なにしろ固め録りした音源をバラバラにして発表したものだから、こういう扱いが正しいように思う。はっきり言って、この4枚、どれも甲乙つけがたいできばえで、全部好きである。ちまたでは「クッキン」と「リラクシン」人気が高いようだが、私もたしかに黄色と黒のジャケットと幾何学的な絵で「リラックス」を表現した「リラクシン」の選曲(「イフ・アイ・ワー・ア・ベル」は最高。「オレオ」もいいし、「イット・クッド・ハップン・トゥ・ユー」の、あまりに単純だが、めちゃめちゃ歌になっているマイルスのソロはすごい)は好きだし、黒一色でラッパを吹く男を表現したジャケット(よく見るとラッパのベルがない変な絵なのだが)の「クッキン」の選曲(「マイ・ファニー」もいいし、「エアージン」「チューン・アップ」……)もいいと思うが、なんだかうれしそうなマイルスの写真ジャケの「ワーキン」のちょっとハードな選曲(一曲目ももちろんいいんだけど、「フォア」はじつに見事。「イン・ユア・オウン・スウィート・ウェイ」は絶品)も、煙草をふかす幻想的なマイルスの横顔のジャケットの「スティーミン」の選曲(「飾りのついた四輪馬車」がとくに好き)も好きで、どれか一枚といわれたら困ってしまう。つまりこの4枚は、4枚で一枚なのだ。どれも切っても切れない4部作なのである。マイルスはどのトラックでもすばらしい演奏で、歌心とリリシズムの同居した独自の世界を示す。これがほぼワンテイクとはなあ……。レッド・ガーランドやフィリー・ジョー、チェンバースのコンビネーションもこの作品あたりが絶頂期だったと思うが、特筆すべきはコルトレーンであって、下手くそだとかいろいろ叩かれているこの時期のコルトレーンだが、じつはどの曲でも非常に前進意欲にあふれた演奏をしており、テイクワンで終わるこのセッションにおいて、こういう風に吹けるというのはなかなか根性のいることだと思う。彼の音楽を表現するには、あとは強烈なテクニックとリズム感が必要だっのだが、この時点でのコルトレーンはそういう部分ではまだ弱い。しかし、だからといってこの時点で持っているテクニックで表現できる範囲内で無難な演奏をしよう、と思わなかったことが、コルトレーンのコルトレーンらしいところである。のちにつながる演奏をしているのである。マイルスのアルバムでどれか一枚、孤島に持って行くとしたら、たぶんちょっとずるいがこの4枚でお願いします。

「WALKIN’」(PRESTIGE LP7076)
MILES DAVIS

 人気盤だが、私が聴くことは、まずない。というか買った覚えがないので、誰かからもらったのだろう。A−1の「ウォーキン」が人気の中心だろうが、あのイントロのあとに登場するテーマ部分はその後の多くのミュージシャンがやるようなハモリをほどこしておらず、ユニゾンである。ふーん、そうだったっけ。そして、それに続くソロは、マイルスは中音域中心に歌うソロ。たしかにビーバップの狂騒からは抜け出した、よくリラックスした感じの、いいソロだとは思うが、それだけ。でも、コピーしたわけでもないのにほとんどを歌えるのでびっくりした。いつのまにか覚えているもんですね。そのあたりがこのソロの魔力であって、どんなに楽器が下手でもこのソロを採譜して吹くことはできる。しかし、テクニックうんぬんよりもこのソロをはじめて吹いたマイルスはやはりえらいということだ。JJのトロンボーンは同時期の歴史的傑作群に比べるとそれほどの高みにはないのかもしれないが、逆に息の詰まるような技術や音楽性を見せつけられるより、リラックスしたテクニックと歌い上げが楽しめて、かえってよい。ラッキー・トンプソンのテナーは、バップというよりスウィングスタイルで、歌心はあるが心に深く刻まれるようなものではない。リフをつなげたような感じではあるが、スムーズすぎて心に残らない。どのソロも、キーワードは「歌心」だろう。盛り上げるというよりは、淡々と歌を奏でていく。二曲目の「ブルーン・ブギ」もようするにブルースであって、つまり長尺ブルースが二曲並んでいるわけで、同時期の同レーベルの、たとえばジーン・アモンズ・ジャムセッションとなんらかわりないセッティングなのに、これだけの緊張感が維持された演奏が展開されたことを驚くべきであろう。それはやはりマイルスの魔法というほかない。B面を評価する向きもあるようだが、デイビー・シルドクラウトとかなんとかいう、ぴらぴら吹くアルトは私にはぜんぜんおもしろくないので、ほとんど聴かない。ジャケットはたしかに秀逸。

「BAGS GROOVE」(PRESTIGE LP7109)
MILES DAVIS

 まあ、ようするに単なる長ーいブルース、それも同じ曲が二曲、A面いっぱいを占める、常識的に考えたら、とうてい名盤にはなりえないようなアルバム。それが歴史に残る作品となったのは、やはりマイルス〜モンクという組み合わせによる、徹頭徹尾ぴーんと張りつめた空気のせいだろう。いわゆる「ブルースに堕した」ような安易さは微塵もなく、これ以上シンプルにしようがないハーモニー構成のなかでマイルスが一筆書きのような、水墨画のようなソロをする。ミルト・ジャクソンのソロも雰囲気に引きずられて、MJQのときのような引き締まったものであり、モンクのソロは言わずもがな。これが喧嘩セッションといわれたのは、この張りつめたテンションが一触即発なぴりぴりした空気のように思えたからだろう。それほど、この演奏からは「ただごとじゃない」気配が伝わってくる。喧嘩とかそういったドラマが裏にありそうだ、という都市伝説を生んだとしても不思議ではない。単なる12小節のブルースをモダンジャズとしてここまで昇華した、彼らの音楽性はすごい。B面は、硬質な音でグキグキしたソロをするロリンズがいい。久しぶりに聴き直したが、やはり名盤でしょう。ジャケットもかっこええ。

「KIND OF BLUE」(COLUMBIA CL1355)
MILES DAVIS

 このアルバムの良さがわからんというひとがかなりの数いるのには驚いた。どこがいいのか教えて欲しい、と真剣に言ってるひともいるし、退屈なだけの駄作だと断言するひともいる。信じらんなーい。それに対して、ちゃんと聴けよ、という意見もあり、それはそれで乱暴なのかもしれないが(ちゃんと聴いたけどわからんから、教えてほしいといってるのだろうから)、このアルバムの良さがわからないひとにはいくら「説明」しても無駄である。本当に「ちゃんと聴けよ」としか言いようがない。もちろんジャズを千枚も聴きました、一万枚も聴きました、めちゃめちゃジャズ通です、でもこのアルバムはわかんなーい、というひとがいてもおかしくはないが、それはそうとう不幸だと思うよ。そういうひとと議論してもしかたがない。だって、音楽は、聴いてわからなければ、もういっぺん聴くしかないのである。それでもわからなければ、もっぺん聴く。禅の「悟り」と同じで、誰かにその良さを「教えて」もらうことはできないのである。また、良さを教えて欲しい、と他人に言うほうもどうかしている。教えてもらって、あ、ほんとだー、言われてみればそのとおり、たしかに名盤ですねー、ということは考えられないわけで、つまりはそういうことを言うひとは「本作は駄作だ」と言いたいのである。ほんと、どうかしてるよなあ。とはいえ、あまりに神格化してしまうのもどうかと思うが、このアルバムの示唆によって、その後20年のモダンジャズがたどるべき道が開かれ、くだらない繰り返しに終わることなくクリエイティヴィティを保つことができたわけであって、とにかく全ジャズマンおよびジャズファンはこのアルバムにいくら感謝してもしたりないはずである。月並みだが、一曲目の「ソー・ファット」のソロは、ドリアンだなんだといろいろ理屈をこねるよりも、そのあまりのテンションと、そして何度か聴いているだけで全部口ずさめてしまうマイルスの歌心(しかも、それはコード分解のうえに新しい歌えるメロディーを載せていく、といったいわゆる従来のジャズの「歌心」ではなく、モードジャズというまったく未知の領域ではじめて吹く、マイルスにとってもまったく新しい「歌」なのである)に驚嘆すべきであろう。この一発目のソロから噴き出してくる鮮烈なエアを感じ取れないというのは、そして、このアルバム全体を貫く、暗い地下室になにかを求めて降り立つような期待感に満ちた魂の震えと極度の緊張、そして、なによりも「美」を感じないということがありえようか。

「MILESTONES」(COLUMBIA CL1193)
MILES DAVIS

 歴史的演奏、画期的演奏と楽しい、リラックスした演奏のバランスがとれたアルバムである。とくに、高校生のときに最初に聴いたときは、マイルスセクステットのアルバムなのに途中でピアノトリオが挟まっているところがすごく新鮮で感動した。今から考えると、それはさほど驚くようなことではなく、マイルス一流のチェンジ・オブ・ペースなのだが、こういう配慮がこのアルバムを「記録」から「作品」へと昇華しているのだ。ジャケットも、これ以上ないというぐらい決まってるが、内容もよい。「マイルストーンズ」以外はどれも、どちらかというとバップに逆戻りしたかのような素材だが、それをかなりストレートに演奏しているにもかかわらず、なぜかバップ臭はほとんどなく、新しい時代の音楽であることが如実にわかる。そのあたりがこの時期のマイルスグループの凄さだと思う。そのバランスは、内部からほとんど崩壊しかかっている、かなり危ういものだった、ということはあとになってわかるわけだが、このアルバムが録音された一瞬は、たしかに完璧なバランスだったのである。キャノンボールとコルトレーンという凄いサックス吹きふたりの対比が鍵なのかも。とくにキャノンボールの存在がこの時期のマイルスバンドをクインテットとはまったくちがう次元に導いていることはたしかだと思う。そして、「マイルストーンズ」は、ほぼ完全にモードの曲であるにもかかわらず、このアルバムのなかに溶け込んでいる。これまた脱帽です。

「1958MILES」(CBS/SONY 20AP1401)
MILES DAVIS

 今回、うちにあるマイルスのLPをかため聴きしてわかったことは、ああ、私はさほどマイルスにはまっていないのだなあ、ということである。しかし、このアルバムは別。私的に、私にとってのベストマイルスであり、ファーストマイルスである。いや、ファーストモダンジャズかもしれない。このアルバムこそが、私をジャズの冥府魔道に導いた元凶であり、あのときこのアルバムを「乗り越える」ことができなかったら、たぶんジャズの道に挫折していたはずだ。高校生のときに、何日も何日も考え、悩みに悩んで購入したこのアルバム。そのまえに植草甚一の「マイルとコルトレーンの日々」という本を読んでいて、どうやら凄い人たちであるらしい、いろんな人名だけは頭に入っていた。このアルバムでは、マイルスだけでなく、コルトレーン、キャノンボール、ビル・エヴァンス、レッド・ガーランド、ポール・チェンバース、ジミー・コブ、フィリー・ジョー……というメンバーが一度に聴けるらしい。というような理由で購入した本作だが、最初は何度聴いても、良さがさっぱりわからなかった。植草さんの本であれだけ絶賛してあるこのメンバーなのだから、どんなにすごいのだろうと期待していたわけだが、とにかくさっぱりわからない。それまでに私が聴いていたのは、山下トリオやアイラーなどのフリー系を少しと、親父が持っていたベニー・グッドマンなどのスウィング系をもっと少し。それらはどちらもよくわかったのだが、このアルバムの演奏はだいたいどこまでがテーマでどこからがアドリブなのかもわからないし、ソロもアブストラクトで、モダンジャズというのは敷居が高いなあ、とつくづく思った。しかし、高校生にとっては高価な買い物を、清水の舞台から飛び降りたつもりで買ったわけだから、わかりません、じゃあ置いときます、というわけにはいかない。くる日もくる日も、学校から帰ってきたら針を落としていた。そんな繰り返しを続けていると、あるとき、天啓のように、といったらおおげさだが、B面ラストに入っている「リトル・メロネー」が、ふっとわかった。この曲はマクリーンの作で、コルトレーンも後年「セッティン・ザ・ペース」でとりあげている。中山康樹によると「悪趣味なテーマを持った曲」で、このアルバムから外すべきだ、とのことだが、私にとっては、この曲ありきなので、そうはいかない。よくいえば、ドルフィー的なニュアンスをもつ佳曲だと思うがなあ(でも、この曲だけ、めちゃめちゃ古い演奏だし、曲調もたしかに、全体の統一感を削いでいることはたしかである)。あとは一気呵成。一曲目の「グリーン・ドルフィン」のすばらしいことよ。マイルスのしみじみとしたソロのあと飛び出してくるコルトレーンのピックアップのかっこよさといったらない。これぞソロイストの対比というやつです(原田和典によると、このアルバムでのコルトレーンはなぜかおとなしい、とのことだが、全然そうは思わんがなあ)。キャノンボールもビル・エヴァンスも最高の演奏で、そのことが「リトル・メロネー」がわかったおかげで、ようやく理解できるようになった。「フラン・ダンス」も「ステラ」も全曲すばらしい。まあ、こういうのは個人的な思い入れなわけだが、いまだに一番好きなマイルスのアルバムです。モダンジャズをわからせてくれた感謝をこめて、第一位。

「BITCHES BREW」(COLUMBIA GP26)
MILES DAVIS

 聴くまえにさんざん「歴史的傑作」「こうこういう内容」「ロックリズムと電気楽器を導入」「リズム主体のグループエクスプレッション」……などと内容についてあちこちでさんざん予備知識を得てしまっており、そういう場合、たいがい期待値だけが高まって、実際聴いてみると、思っていたほどじゃなかった……と失望する場合が多いわけだが、このアルバムに関してはこちらの想像をはるかに上回った。聴くまでに時間がかかったのは、単に二枚組で学生である私にとってひじょーに高価だったという、しょーもない理由によるのだが、思い切って買ってみて、「あー、損しなくてよかった」としみじみ思った。このアルバムをジャズ喫茶でリクエストというのも、ちょっとなあ……。というわけで、せっかく高い金を払って買ったアルバムなので、買ってからしばらくは毎日聴き倒した。流し聴きするときもあれば、真剣に聴くときもあった(このアルバムは、カラフルなリズムが心地よいので、そういった「流し聴き」ができるのです)。とにかく、めちゃめちゃ敷居の低い音楽だった。すぐに、すっと入れたし、なんの違和感もなかった。A−1「ファラオのダンス」冒頭の、パーカッション群の乱舞とバスクラの不気味なカウンター、そしてマイルスの、預言者のようになにかを示唆するソロ……。なにが起きるのか、と期待が胸にふくらむ。マイルスは(テオ・マセロは、というべきか)こういったあたりがじつにうまい。「アガルタ」「パンゲア」あたりになると、これがもっと露骨で、期待感を高めるだけ高めておいて、実際にはスカ……みたいな部分もなきにしもあらずだが、それはやはり、この手の演奏には「編集」が不可欠、ということではないでしょうか。こういう演奏はじつは我々素人にも真似ができるタイプの音楽なのだが、それを超A級の実力があるジャズミュージシャンが全身全霊をかけて演っているところに意味がある。フレーズのひとつひとつ、場面転換、リズムの深み、キレ、楽器の重なりぐあい……すべてがすばらしい。そして、どの演奏も、マイルスがシメないとダメというか、マイルスの存在が全部を底から支えているというのもすばらしいと思う。全編、モウピンのバスクラがこちょこちょといい味を出しているのも注目(ソロはいまいちだが)。エレクトリックとリズムの奔流のなかで、この木管ぶりは、あるとないとで大違いだ。

「MILES SMILES」(COLUMBIA CL2601)
MILES DAVIS

 傑作だとは思うが、同時期のフリーブロウイングセッションのあまりの迫力を知っていると、起承転結もあり、かっちりまとまりすぎている物足りなさもある。でも、地味ながら何度聴いてもしみじみと凄さを感じることができる作品でもある。「ESP」とならんで愛聴している。「ネフェルティティ」や「インナ・サイレント・ウェイ」のような、当時のジャズを根底からひっくり返すようなコンセプトの作品でないだけに、その「ジャズっぽさ」が今聴くと新鮮に感ずる。このあとマイルスは、本当に凄い場所まで行ってしまうことが我々にはわかっているだけに、ああ、まだまだジャズだなあ、とホッとしたり、物足りなくおもったりする。

「MILES DAVIS AT THE PLUGGED NICKEL,CHICAGO」(CBS/SONY 23AP2567)
「MILES DAVIS AT THE PLUGGED NICKEL,CHICAGO VOL.2」(CBS/SONY 23AP2568)
MILES DAVIS

 マイルスの全作品中、もっとも聴くのに体力がいるアルバム。コンプリートボックスが出たときも、めちゃめちゃ欲しかったけど、何度も聴けないの、わかってるからなあ。いまだに入手しておりません。とにかく、凄い、とか、圧倒的、とかいうが、ここまで凄まじい、圧倒される「演奏」はない。最初に聴いたとき、これってフリージャズとどうちがうの? と思った。曲に明確なテンポがなく、倍テンとか半分とか、そういった倍々計算でテンポをかえることはままあるが、ここでの演奏は、とにかく好き勝手にリズムが早くなったり遅くなったりする。我々は、テンポが揺れたり、走ったり、もたったりすることは厳禁というふうに教わっているわけで、それをこんな風に自由自在にテンポを変えたりしていいのか! とまず激怒する。フリージャズの場合、リズムはあるけれど、明確なテンポがないものが多く、そういうのはわかるのだが、このアルバムのように、テンポはきちんと設定されるのに、それが場合場合で変化する、というのは、頭ではわかっても、実際にこうしてライブ録音で聴かされると正直ショックである。これはトニーだけの「しわざ」ではなく、ハンコックもロン・カーターも共犯であることはいうまでもない。また、ショーターのソロだが、もうむちゃくちゃである。フレーズとか、コードとの関係とか、どういうモードで、とか、そういったことは関係なく、そのとき頭に浮かんだ「もの」をテナーから塊のようにぶつけているだけ、みたいな気さえする。シェップやアイラーより、ある意味過激ではないだろうか。プラグドニッケルというのがどんな店かしらないが、20人入ったら一杯のロフトみたいな店でないことはたしかだ。おそらく相当の数入っているはずの客をまえにして、よくこんな徹底的な演奏ができるもんだ。そして、マイルス! 病気だったんじゃないの、このとき? ひたすら吹いて吹いて吹き倒す。「フォア・アンド・モア」「イン・ベルリン」でも、まだマイルスはちゃんとフレーズを吹いていたが、ここではもうアブストラクトな音塊をものすごいスピードでぶつけまくっている感じ。このスピード感が演奏を支配している。しかし、どうしてこうなるのかな。あまりに速すぎるテンポ設定は、もしかしたらマイルスは一足飛びにフリー状態に飛び込むことができず、テンポをめちゃめちゃぶっ早くして、ビートをパルス状態に近くすることによって、一種のフリーフォームな空気を作りだそうとしているのではないか(実際に演奏はそういう感じで進んでいる)……というような想像も働いてしまう。何時聴いても、中山康樹が書いているような「マイルスとほかのメンバーの喧嘩」には聴こえない。高みを目指して一丸となって突き進む、一匹のアメーバのように有機的結合をした異形のバンド、という感じだ。

「MILES IN BERLIN」(CBS/SONY 18AP2065)
MILES DAVIS

 正規盤では「イン・ヨーロッパ」、「イン・トーキョー」と並んでフリーブローイング系ライヴ3部作のような感じだが(なぜか「フォア・アンド・モア」「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」は別格のような気がする)、そのなかでは一番最後。ここに至ってついにショーターが参加したわけだが、曲はあいかわらずのマイルスヒットメドレー。しかし、内容がちがう。ショーターというひとはつくづく凄い。このライヴのとき、まだ31歳のはずだが、彼のソロはハンク・モブレー、ジョージ・コールマン、サム・リバース……の誰ともちがう。めちゃめちゃちがう。コルトレーンともぜんぜんちがう。それって……ものすごいことではないだろうか。この若干31歳の若者のソロが、異常なまでにオリジナリティを感じさせるのだ。しかも、この男は、マイルスバンドという、プレッシャーかかりまくりのはずの大舞台で堂々と、自信をもって自己主張しているのだ。これでええのかなあ……みたいな感じが常につきまとっていたジョージ・コールマンやサム・リバースとえらいちがいである。こうしてようやく、ハンコックやロン・カーター、アンソニーらと同じレベルでグループ演奏ができるサックス奏者が加わり、マイルスグループは向かうところ敵なし状態になった。現行のCDでは「ステラ」が入っているそうだが、それは聴いたことがない。

「MILES IN TOKYO」(SONX 60064−R)
MILES DAVIS LIVE IN CONCERT

 あまり話題に出ないが、なかなかの傑作だと思う。サム・リバースも、巷間言われているほどひどいわけではなく、逆に、ジョージ・コールマンなんかよりずっといいソロをしていると思うほど。ただ、このときのマイルスバンドには合っていない、とは思う。まず、音色の点で、セルマーのエボナイトを吹いている彼の音はあまり大きくなく、フリーっぽくギャーっと叫んでもいまいち迫力がない。それに、ウォーキンとか聞いていると、意外とまともにフレーズをつむいでいて、ショーターの思い切った演奏に比べるとまるっきり保守的である。また、彼がいくらいろいろ仕掛けてもバンドはほとんど反応しないし、バンドがなにかやってもリバースはそれに反応して、なにか別の高みへと向かっていく……みたいな演奏にならない。リバースのソロのあいだはソロイストとバックという関係なのに、彼のソロが終わったあと、たとえばハンコックがポロンと弾き出すと、途端にバンドが有機的に一体化して、新しい表現をはじめる。彼のフレーズひとつひとつにアンソニーもロンも過剰に反応して、どんどん演奏が新局面に展開していき、ひとつになってシェイクする。これはもう比較にならん。マイルスはまあまあ。サム・リバースは悪くないが、やはりここはショーターに登場してもらうほかない。しかし、演奏レベルは、リバースも含めてきわめて高く、世評を信じて聴かず嫌いでいるのはもったいないですよ。なにしろ彼の演奏はブートも含めて日本公演のものしか残っていないのだから。

「”FOUR” AND MORE」(COLUMBIA CL2453)
MILES DAVIS RECORDE LIVE IN CONCERT

 マイルスは圧倒的に凄いし、リズムセクションも文句なし。傑作だと思います。ジャズのかっこよさ、ここに極まれりといった感じのスーパーライヴ。聴く気になることはあまりなくて、よほど体調のいいときにかぎられる。愛聴盤などというが、しょっちゅう聴くアルバムがいい作品、というか最愛の作品とはかぎらない。一回聴くとあまりにヘヴィでぐったりして、もう当分聴く気がおこらない……といった作品も愛聴盤なのである。その一回は、たとえばオスカー・ピーターソンのアルバム100回聴くのと同じぐらい体力を要すかもしれない。そんな「聴くのがしんどい作品」も大事にしましょう。というわけで、このアルバムはかなりしんどいほうだが、唯一の救い、というか欠点はやはりジョージ・コールマンで、無難だが、チャレンジのない、ありがちなソロを展開して、そのあいだだけ聴き手はホッとして気を抜くことができる。「ソー・ファット」のソロとか、ほんとにおんなじことばっかり吹いてるもんなあ。リズムセクションがいくらしかけても、それにうまくのっかっているだけで、コールマンのほうからリズムセクションに影響を与えて、演奏を変革していくことはないのである。これが、ショーターにかわると、すべてのソロに気が抜けなくなって、しんどさも100倍。というわけで、「夏の月蚊を疵にして五百両」という其角の句になぞらえると「名盤やジョージを疵にして五百両」というところか。

「MY FUNNY VALENTINE」(COLUMBIA CL2306)
MILES DAVIS IN CONCERT

「フォア・アンド・モア」と対になったアルバムで、どちらも聴くにはかなり体力のいるヘヴィな作品だが、こちらのほうがよりしんどさが増す。というのは、タイトルがそうであるように、基本的にバラードやミディアムのゆっくりした曲が多く、この時期のマイルスグループはそういったスタンダードを解体し、再構築する作業を自在におこなえる状態になっていて、聴く側としてはその作業にじっくりとつきあわねばならない。でないと面白くないのだ。一般的な意味での、スタンダードを気楽に、ごきげんに楽しむという聴き方はあきらめるしかない。とくにA−1「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」とB−1「ステラ」は、ハンコックともども凄まじいバラード解釈が聴ける。「マイ・ファニー〜」など、私の嫌いな曲なのだが、こういう風に演られると頭を下げざるをえない。このアルバムの演奏を真剣に聴いていると、マイルスが手慣れた曲を素材にして、いかに自由に、新しい美の世界を作りだしていたかがわかるが、そういうことはひとりではできない。ハンコック以下のリズムセクションへの深い信頼があってこそのマイルスミュージックなのである。カルテットでもよかったかも。というか、ほとんどカルテットなのだが。ほんと、ジョージ・コールマンはいらんなあ。ノー・アイデアの垂れ流し的ソロで、ある意味モブレーよりあかんのでは。マイルスのチャレンジングなソロのあと、彼のソロが出てくると、いきなり「ジャズ」に引き戻された感じで興ざめする。音にも魅力がないし。よく、コールマンの音が凄い、とてつもないビッグトーンである、楽器が身震いしているうんぬんという話を聴くが、アルバムで聴くかぎりはそのあたりがさっぱりわからないのはなぜだろう。

「SOMEDAY MY PRINCE WILL COME」(COLUMBIA PC8456)
MILES DAVIS SEXTET

 ジャケットも含めて、あまり好きではないアルバム。このアルバムでのモブレーを、単にスタイルがちがうだけ、とか、モブレーはモブレーなりにいいソロをしている、とか、擁護する声もあるようだが、どう聴いても、コルトレーンに比べてしょぼい感じはいなめない。だったら、モブレーをクビにしてコルトレーンに全曲吹かせればいいのに、マイルスはふたりを並べて、比べさせるという残酷なことをするのである。一曲目の「サムデイ……」では、マイルス→モブレー→ケリーとピアノソロをはさんでコルトレーンがでてくるという構成で直接のバトル的ではないうえ、コルトレーンもちょっこっとしか吹いていないのだが、その差は歴然。B−2の「テオ」では、スパニッシュモードのこの曲を、マイルスが歌心も音色のバランスも絶妙のソロを繰り広げたあと、コルトレーンが登場して自分のリーダーアルバムのように吹き倒す(「オレ」みたいな感じか)。もちろんドラムがジミー・コブだし、がんがん盛り上がるわけではないが、それがかえってコルトレーンの過激さを浮かび上がらせる。そして、マイルスふたたび登場。さっきよりももう少し気張った感じのソロをしてテーマ。モブレーの出番は、当然のようにゼロ。それでいいのです。

「IT’S ABOUT THAT TIME/LIVE AT THE FILLMORE EAST(MARCH 7,1970)」(SONY RECORDS INTERNATIONAL SRCS2517〜8)
MILES DAVIS

 マイルスの全アルバムのなかから一枚選べといわれたら、これ。このアルバムが正規発売されたことで、過去のマイルス論は全部紙くずになった……かどうかはしらないが、まあ、それに近い状況を作り出したと思われる。これだからジャズは怖いよなー。中山康樹というひとがマイルスについてあーだこーだと述べていることのほとんどは私にとって無意味かつ無価値だが、ただ、こういうアルバムを聴き、もしこのライヴを目の前で見せられたら、まちがいなく私もマイルスマニアとなり、生涯マイルスを追いかけたにちがいないと思う。なにしろ私がはじめてマイルスを見たのは、あの「ウィ・ウォント・マイルス」の扇町プールで、もしもあのとき、いきなりはじまった演奏がこのアルバムの演奏だったとしたら……いやー、想像もつかないが、たぶん気が狂っていたのではないだろうか。それほどこの二枚組につまっている音楽は総毛立つほどの恐怖である。この世にこんなにかっこいい音楽があるのか、とはじめて聴いたときに思ったが、もしこれに10代後半とかに接していたら、きっと中山康樹になってしまっただろう。それほど影響力のある、かっこいい、深い、暗い、恐ろしい音楽だ。一曲目のベースラインから心臓をぐっとつかまれたような緊迫感。マイルスが凄いのは当然だが(アーティキュレイションといい、音圧といい、リズムに乱れがない点といい、この時点ではトランペッターとしても強力無比)、なんといってもショーター! 何度も言ってるが私はアルトに感心がないので、バーツやソニー・フォーチュンではまったく満足できないのだが、テクニックで音楽を表現している彼らに比べてショーターはまるで別の場所に立って演奏しているように思う。フリーとかモードとか、そういった分別が無意味になるような、「テナーソロ」としか言いようのないプレイ。ブロウ。そして、チック・コリア! この集中力、表現力はただごとではない。一言でいえば「むちゃくちゃ」。こんなチックはこの時代でしか聴けない。このふたりはほんとうに自由な状態でこの場にいる。それにくらべると、マイルスはたぶん、リーダーとして全体をまとめなけばならないからか、やや自由さに欠けるように思うが、それもまたよし。鉄人の統率力がひしひし伝わってきて感動的である。二枚を一日で聴くなんて無理。一枚ずつか、できるなら一曲ずつ毎日聴いていきたい。それぐらいここには多くの情報が詰まっている。こういう演奏を聴くと、マイルスはアコースティックでないと……とかいうひとの気が知れない(同様に、コルトレーンはフリー以前でないと……とかいうひとも)。でも、これだけは言いたい。「マイルスはやっぱりテナーと一緒じゃないと」……ちがう?

「COPENHAGEN 1973」(ELECTRIC BLUE EB001・EB002)
MILES DAVIS

 たまーーーーにマイルスのブートを買うが、たいがい外れである。少なくとも本作は、いくらブートでもこんなにリーブマンが遠くで吹いていては、どうしようもないと断言せざるをえない。しかも二枚組だし、よほどのマイルスマニア以外には価値はあるまい。マイルス自身のソロはそこそこちゃんと録れているけど、私はマイルスはどうでもよくて、リーブマンが聴きたいだけですから。

「MILES DAVIS & JOHN COLTRANE LIVE IN STOCKHOLM 1960」(DRAGON DRLP 90/91)
MILES DAVIS & JOHN COLTRANE

 そりゃもう、あなた、いくら「サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム」がどうの「1958マイルス」がどうのといっても、マイルス〜コルトレーンでいうと、この二枚組が最高でっせ。CDになってどういう形で出ているのかしらないが、スリル満点のこのアルバムを聴かなければ、マイルスファンだともコルトレーンファンだとも名乗れないのではないか……と言いたくなるような、それほどの重い演奏が詰まっている。コルトレーンはすでにマイルスに、グループを離れる意志を伝えており、マイルスはどうしてもそれを許さず、いろいろあったすえ、このヨーロッパツアーだけつきあうということになった。その因縁(?)のヨーロッパツアーでの演奏なのである。これまでも、音使いをぎりぎりまでに単純化して歌いまくるマイルスに対して、コルトレーンが多くの音を使ったソロで対比をはかる……といった図式が見られたが、ここでのマイルスとコルトレーンの関係はそんな「対比」といった生やさしいものではない。一曲目の「グリーン・ドルフィン」から、コルトレーンはマイルスという親分の存在を忘れたかのように、いや、わかっていてわざと無視するようなソロを展開している。時間配分も、どう考えてもバランスがおかしいぐらい、リーダーマイルスのソロ時間を遙かに上回る時間をかけた延々たるもので、それもまさにシーツ・オブ・サウンドというような怒濤の音の奔流である。ジミー・コブやウィントン・ケリーといった、どちらかというと歌心あふれる演奏をするタイプのミュージシャンをバックに、完全に異質な感じで吹きまくっている。つまり、ここでのコルトレーンはリーダーが誰で、どんな音楽性のバンドで、バックが誰……みたいなことを一切気にせず、ひたすら自分が吹きたいように吹いているのだ。この状態を「むちゃくちゃだ。音楽になっていない」と斬り捨てるのは容易いが、いやー、これこそ「ジャズ」というものではないでしょうか。マイルスのアルバムのなかでは、「プラグドニッケル」に匹敵するような圧倒的存在感のある作品で、私は大好きです。じつは、このときのヨーロッパツアーの様子は何枚かのアルバム(海賊版含む)で出ているのだが、なぜか本作品だけが突出してコルトレーンがぶちきれているように思える。生演奏というのは不思議ですね。

「ANOTHER BITCHES BREW」(JAZZDOOR JD1284/85)
MILES DAVIS

マイルスの海賊盤はなるべく買わないようにしているのだが(きりがないから)、これは東京の中古屋で見つけ、タイトルにひかれて思わず買ってしまった。二枚組で、一枚はゲイリー・バーツだがもう一枚はリーブマン。いやあ、期待が高まりますなあ。で、結論としては、なるほど、なかなかかっこええ。さすがはリーブマンだ。録音状態も悪くない。私としては、このメンバーでこのセッティングでこの時代のリーブマンが聴けるというだけである程度満足なので、これは買ってよかったです。

「THE UNISSUED JAPANESE CONCERTS」(DOMINO RECORDS 891212)
MILES DAVIS QUINTET

「マイルス・イン・トーキョー」の前後に日本の二カ所で収録されたライヴ二枚組。じつは「マイルス・イン・トーキョー」(LP)はもう滅多に聴かないので、物置の奥にしまいこんでしまった。この日本ツアーのときのマイルスバンドに対してはその程度の思い入れなので、このアルバムも買わないつもりだったが、先日CDショップで見かけて、つい買ってしまった。聴いてみると、やはり内容はすばらしく二枚組があっというまである。この時期のマイルスバンドは、スタンダードやオリジナルを、バラバラにして再構築するような作業を人前でたえず行っている印象があるが、本作でもそういったリアルタイムなリアレンジ……みたいな演奏が聴けて、非常に生々しい。スピード感、インタープレイ、即興性などどれをとっても超弩級のクオリティである。しかし、何遍も聴くかどうかはわからない。音質も最高である。あと、あらためて今回思ったのは、サム・リバースのことで、よくも悪くも音量が一定のひとで(マウピがジョー・ヘンダーソンと同じセルマーのラバーということもあるのか?)、ドルフィー的な跳躍の多いフレーズを多用した、アブストラクトなソロを展開するが、どうも「あと、ひと盛り上がり」がない。そのあたりのぐにゃぐにゃした感じを楽しめばよいのだろうが、自身のリーダー作ならともかく、マイルスのサイドマンとしては最適とはいいがたいなあ。無論、ドキュメントとしては貴重です。昔、おまえのソロはサム・リバースみたいやな、と言われたことがあって、今回、なるほど、と思った。

「A TRIBUTE TO JACK JOHNSON」(COLUMBIA/LEGACY COL519264 2)
MILES DAVIS

 このころのマイルスのアルバムのなかではかなり好きで、LPを持っているのだが、今回、突然思い立ってCDで買い直した。たびたび聴こう、というか、生活のなかにジャック・ジョンソンを取り入れよう、というか、そういうわけのわからないことを考えたのである。聴き直してみて、やっぱりええなあと思った。マイルスがハツラツしている。こういうグルーヴするリズムに乗って、ラッパ一本でこれだけ表現できるやつがほかにおるか? と思う。いや、その当時は、ですよ。今はこういうことをしてるひとはいっぱいいるけど、このアルバムこそそれらすべての先駆ではないかと思う。「ビッチェズ・ブリュー」とかではなく、このアルバムが。グロスマンのソプラノもかっこええ。このアルバムとかブラックビューティーでのグロスマンをショーターやリーブマンと比較してけなすむきがあるが、いやいや十分かっこええよ。どうせあんたら、マイルスさえよかったらええんでしょ。だったらグロスマンのことはほっとけって。我々のようなテナー〜ソプラノ好きが愛でておればよいのだ。ハービー・ハンコックはこのころのキース・ジャレットやチック・コリアのように狂乱のキーボードではなく、いたっておとなしい、フュージョン〜ロック的な正攻法なものだが、マクラフリンのギターがその分ど変態で救われる。まあ、アルバムに関してはぐだぐだ言わずに素直に聴いて、うひゃうひゃいうのが一番でしょう。

「MILES AT THE FILMORE」(SONY MUSIC JAPAN/COLUMBIA RECORDS SICP 30530−3)
MILES DAVIS

 フィルモアに関する感想は上のほうに書いてあるのでそれを参照。二枚組が四枚組になったということは、これはもう別のアルバムだと考えたらいいと思うが、とにかく内容凄すぎ、音良すぎで、もうたまらん。すばらしいとしか言いようがない。そして、グロスマンのソロはほとんどカットされていたことが判明したわけだが、こうして聴いてみるとあまりのかっこよさ、内容のクオリティ、斬新さなどによだれが落ちそうになる。うひょー、宝の山でんがな! フィルモアのころのグロスマンをけなしていた評論家は全員椅子から落ちろ。そして頭を強打しろ。とりあえず私がおすすめするのは、家にフィルモア二枚組があるひとはそれをたたき売って、この四枚組に買い替えることである。そうする価値は十分にある。というか、そうしたほうがいいです。以上。

「THE FINAL TOUR:THE BOOTLEG SERIES VOL.6」(COLUMBIA RECORDS 88985448392)
MILES DAVIS & JOHN COLTRANE

 マイルスではなく、コルトレーンを聴くべきアルバム……と言いたいのだが、いやいやそんなことはなくて、マイルスもウィントン・ケリーも、チェンバースもジミー・コブもひたすらすごくて聞き入るしかないのだが、やっぱりコルトレーンを聴いてしまう……そんな贅沢な、というか、歴史的というか、えげつないアルバムなのだ。ドラゴンから出た2枚組LPレコードには感動して、当時さんざん聴いたのでもうええか、と思ったのだが、それはこの4枚組の後半2枚に当たるわけで、結局全部聞きたくてとうとう買ってしまった。で、全部聴いたが、その後何度も何度も聴いてしまい、やはりCDで買い直してよかったなあという結論になった。音もめちゃくちゃいい。たとえば1曲目の「オール・オブ・ユー」などを聴いても、マイルスは「1958マイルス」あたりの、リリシズムを保ったテーマの吹き方でじっくり聴かせるのだが、直後に出てくるコルトレーンはひたすら自分の歌を歌うことに終始し、しかもそれがどれもこれも超ロングソロになるので、まるてマイルスバンドというよりコルトレーンバンドのようだが、マイルスもそのバランスを歓迎してるようである。しかもコルトレーンのソロはどれも傾聴にあたいするすばらしいものばかりで歌心あふれる最高の演奏であるばかりでなく、たとえばこの「オール・オブ・ユー」のソロの一番最後でフラジオでフリーキーに吹くところなどはかなり大きな一歩を踏み出している感じがあって感動的である。こういう雰囲気を「なにかで聴いたなあ」と思っていたが、思い出した。ファラオ・サンダースが加入したコルトレーングループである。コルトレーングループもこのマイルスバンド同様「マイ・ファイヴァリット・シングス」「ネイマ」……といったヒットメドレーなのだが、コルトレーンが吹いたあとファラオが出てきてひたすら吹きまくる。コルトレーンもそれをよしとする。ああいうバランス感覚はこの時期のマイルスバンドでつちかわれたのかもしれんなあ……と妄想。2曲目の「ソー・ファット」でもこの時期のマイルスは限られた音のなかで歌い上げようという意識があってそれはとてもいい感じなのだが、コルトレーンはこのライヴの場でモードという新しい方法論の実験をしようという意識が感じられ、それがとにかくものすごい意欲というかやる気を感じさせて新鮮である。ウィントン・ケリーまでもが引っ張られてかなりアグレッシヴな演奏をしているように思う。3曲目の「グリーン・ドルフィン」のマイルスのソロはあまりにすばらしくて、ビバップやハードバップの形式を使いつつ、自由に吹きまくり、しかもそれがマイルス流の歌になっているところなど、感涙である。しかし、それに続くコルトレーンのソロは(2曲目もそうなのだが)まさしくシーツ・オブ・サウンドの権化のような圧倒的な楽器コントロールと音楽性に裏付けられた凄まじい演奏でひれ伏すしかない。つづくケリーのソロも本当にすばらしいが、コルトレーンのソロとはでに時代性が異なっていて、感動の度合いが異なるのである。こういう感覚もこの時期のマイルスグループでしか味わえないものだと思う。みんなすごいだけどねー、という感じ。4曲目の「ウォーキン」は「ブルースなのに好き勝手」というこのあとのマイルスの方向性(ベルリンとかいろいろ)が味わえて興味深い。しかしコルトレーンのソロはとてつもなくて、いやもうこれブルースとか関係ないやろというぐらいただただ自由で自在でとんでもないものでありました。最後のほうでフリークトーンで吹きまくるあたり、観客が熱狂するのもわかる。新しい時代が来ている、ということが演奏者にも聴衆にもわかっているのだ。それはたんに「汚らしい音」を使ったということではない。既存のものをぶちこわそうという情熱というか意欲に皆が共鳴しているのだ。2枚目の1曲目は「バイバイブラックバード」で、マイルスももちろん「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」などで演奏しているが、コルトレーンも62年のカルテットなどで演奏している。でも、正直アホみたいなスタンダードなので、なぜマイルスやコルトレーンがこういう時期のレパートリーにしているのかはようわからん。1枚目は「1958マイルス」や「カインド・オブ・ブルー」を頃だなあ、という選曲だが、2枚目へ来て、急にもっとさかのぼったレトロな感じになる。リズムセクションもレイドバックした雰囲気でいい。そして、マイルスのソロは圧巻で、歌心、微妙な音色の変化、ちょっとしたテンションなどを組み合わせて壊れやすい即興の工芸品を作り出している。そして、コルトレーンはそういうところから一歩抜け出して先へ進んでいる感じで、これもまた筆舌に尽くしがたいほどすばらしい。すでにプレスティッジのころからあった「マイルス寡黙に歌う。コルトレーン饒舌に歌う」という図式をもっともっと過激に引き延ばした感じがある。コルトレーンの(調性のなかにとどまっているが)凄まじいロングソロの最中に何度も何度もピーピーという口笛の音が聞こえるのだが、拍手が伴っているのでおそらくブーイングではなく感動のあまりだろう。何度もそうせざるをえないほどすばらしいソロなのだ。そして、ウィントン・ケリーのソロになって、バンドはもとの楽しくスウィングするバンドに戻る。「ラウンド・ミッドナイト」は「ラウンド・ミッドナイト」に入っているのと同じアレンジを踏襲しているのだが、テーマのあとのリズミックなリフのあとコルトレーンが出てくるところで、マイルスが短いハイノートを連発しているのが超かっこいい。コルトレーンのソロはラストにマルチフォニックスで締めくくるところなんかニクい。「オレオ」は、マイルスのソロは普通にええ感じなのだが、コルトレーンが出てくるところのふたりの交歓(?)がアヴァンギャルドでちょっと泣きそうにになる。2枚目の半ばから3曲が3日後の演奏となる(そして、CD3枚目、4枚目に入っている、以前ドラゴンで出た演奏は1枚目の翌日のもの)。最初の「ソー・ファット」のマイルスのソロを聴くと、ほんと、フツーに上手い、上手過ぎるプレイヤーだとはっきりわかる。このころのモードジャズ(というか最初期のモードジャズ)はたしかに、よく言われているように、シンプルな音だけを組み合わせて新しい歌を歌おうとしていたのだなあ、ということもわかる。そして、またまたマイルスからコルトレーンのソロのチェンジのときのやりとりが渋い。コルトレーンのソロはマイルスとは正反対の、音数を使いまくった、テナーのこれまた全音域を縦横無尽に猛スピードでかけまわる壮絶かつかっこいい演奏(シーツ・オブ・サウンドっていうやつっすね)。まさに対比。ジミー・コブのドラムも絶妙(これはもうどの曲でもそうなんだけど。このころのマイルスバンドにはほんとぴったりのひとだなー)。つづく「グリーン・ドルフィン」ではウイントン・ケリーがノリノリで歌いまくり、チェンバースが例のぎこぎこアルコをたっぷり聴かせてくれる。最後の「オール・ブルース」はゆったりしたノリはキープしつつ、コルトレーンがどの角度からみてもコルトレーンでしかない、どこを切ってもコルトレーンが流れ出すようなソロを繰り広げていて感動する。9分過ぎぐらいからのソロは、通常の音とハーモニクスを交互に出す、ということにこだわったいびつなフレージングで、もうめちゃくちゃかっこいい。その直後、ケリーがブルージーなブルースとしてのサイコーのソロを弾くので、そのギャップがいい。いやー、なにからなにまでいい。以上、あまりにすごくてこの4枚組をずーっと連日聴いていたので、ほかのアルバムが溜まる一方で困った。だって、毎日聴いてもまったく飽きないんだもんなー。コルトレーンの演奏の感想に終始したような気がするが、全員すげーからね。たまたまライヴを何日か分録音したらこんな正規の傑作ができてしまいました状態なのだが、それぐらいこの時期のマイルスがすごかったということだ。あー、感動。あー、快感。3枚目と4枚目の感想は、上記のドラゴンレコードのレビュー参照ということで。いやー、すごいです。

「MILES DAVIS LIVE IN PARIS IN 1991」(HI HAT HH2CD3126)
MILES DAVIS

 海賊盤で出ていた音源だが、これは正規盤なので音はすごくよい。マイルスが自分の半生を振り返るようなプログラムをモントルージャズフェスで、クインシー・ジョーンズの指揮のもとにギル・エヴァンスのスコアを演奏した例のアルバムの二日後の演奏である。  冒頭3曲はアクティヴなツアーバンドとしてのマイルスグループで、アルトはケニー・ギャレット、ドラムはリッキー・ウェルマンである。たしかにマイルスが吹くと、「あの」サウンドになるのだが、音楽の内容自体は棘もないし、ざらつきもしない、口当たりのよいもので、クオリティはめちゃくちゃ高く、高齢のマイルスも若いミュージシャンの演奏にまったく違和感なく溶け込んでおり、全体にすばらしい演奏だと思うがマイルスがやらなくてもだれかがやるだろう、というものだ。マイルスがリードしている、というより、マイルスはバンドの一員としてそこにいるだけで、一吹きでガラリと場面が変わったり、緊張感が喉までせり上げてくるような、あの感じはない。どちらかというとノリというかグルーヴを全面に出した演奏だと思う。とくにケニー・ギャレットは上手過ぎるし、心得過ぎていて、盛り上げ方も超王道をひたすら進む感じで、これがマイルスのバンドか? と思ったりもする(それが悪いとはとても言えないが、そういうものを聴きたいのではないのだった。でも、何度かギャレット入りのマイルスバンドを生で見たがやはりそういう感じだったかもなー)。しかし、聴衆は熱狂している。というわけで4曲目の「オール・ブルース」に期待。サックスがビル・エヴァンスとグロスマン、チック・コリアにデイヴ・ホランドにアル・フォスターなら期待しないわけにはいかない。すごく早いテンポではじまるが先発ソロのグロスマンは……おおーっ、かっこいい! しかし、これはやっぱり好みで言ってるな。ギャレットのソロがグロスマンに劣るわけではない。グロスマンの、どこかはみだそう、はみだそうとするソロが私の好みにあう、というだけなのだろう。でも、かっこええ。マイルスの短いソロを挟んでビル・エヴァンスのソプラノが炸裂。アル・フォスターが煽りまくるのもかっこええ。チックのエレピのソロはドラムの刺激もあってか、かなり過激に迫る。そのあとすぐにマイルスがテーマに入ってしまうのは惜しいなあ。みんな、とことこんまでやり倒したらええのに。5曲目はマイルス抜きで、ザヴィヌルとショーターのデュオで「イン・ア・サイレントウェイ」。こういうことはマイルスが死んだあとでやったらええのに、と思ったりもするが、ザヴィヌルも亡くなってしまった今となっては貴重すぎる演奏。そして、めちゃくちゃかっこいい(ただし、ノイズ多し)。そこから「イッツ・アバウト・ザット・タイム」へ行く瞬間がひたすらすばらしいです。この懐かしの(と言ってしまっていいのか)感覚。最初のヘンテコでかっこいいソプラノソロはショーターじゃないかと思うんだけどどうかなあ。一定のファンキーなリズムとモードに乗って全員で作り上げていく……というあのころのマイルスミュージックなので、だれのソロがどうとかこうとかいう感じではないが、ザヴィヌルがところどころでピリッと自己主張する。マイルスは、なんだか楽し気で、晩年の音楽より、こういうののほうが自由に演奏できたのではないか、と思ったりして。マイルスのソロのバックでリフを吹いているのはケニー・ギャレットか? そのあとに出てくるしっかりしたソプラノソロは(たぶん)ビル・エヴァンスか。こういう分析(?)はこういう演奏の場合ほとんど意味はなさないが、どうしてもそういう風に聴いてしまう。1枚目のラストはジョン・マクラフリンとジョン・スコフィールドという2ギターをフィーチュアした曲。もともとは「ユア・アンダー・アレスト」に入ってたやつでギターはマクラフリン(ジョンスコは不参加の曲)。マイルスはちょろっと出てくるが、あとは「おめーらに任した」的な演奏。  2枚目は急に「昔」に戻った感じになる。1曲目は「ディグ」としてクレジットされているがじつは「ディグ」に入ってる「アウト・オブ・ザ・ブルー」という曲だと思う。いやー、そこまでさかのぼらなくてもええんちゃう? と思うが、ジャキー・マクリーンが参加しているからこそのこの選曲なのだろう。あとはグロスマン、チック・コリア、デイヴ・ホランド、アル・フォスターという、バップ曲はバップ曲でもとんでもないメンバーのバップ曲なのである。中身も、単なる再現というより新感覚のバップで、マクリーンの音も力強いし(私は70年代以降のマクリーンの音の方が好きです)、一瞬の隙もゆるみもなく、ケニー・ギャレットかと見まがうばかりの斬新かつひたすらバップなソロを繰り広げていてすばらしい。チックがエレピで攻め気味のバッキングをしているのもおもろいといえばおもろい。つづくグロスマンがジャズテナーとしては大正解のすごいソロを展開していて、これはもうすべてコピーしなくては……というぐらいの力のみなぎった、音もアーティキュレイションも完璧な演奏なのだが、グロスマンだけにもっとはじけてもよかったのでは、とついないものねだりをしたくなったりする。演奏としては満点だと思う。そして、続くマイルスのソロは、久しぶりのバップで若干の緊張はあったかもしれないが、チックとのコラボも「なにがやりいたねん!」という感じで迫力あって面白いし、ええんちゃうかと思う。ジャズですなー。ホランドとフォスターのリズムセクションもすばらしいです。バップだかなんだかわからんが、少なくともテーマだけはバップの曲だったね、という、ジャムセッションでよくある光景がここでも繰り広げられている。ええやん! そのあとフランス語のアナウンスが入って、2曲目は(なぜかCDとしては1曲目として切れ目がないのだが)これもバップ曲としておなじみの「ディグ」である。先発はマイルスで1曲目よりも硬さが取れた感じで流暢にバップフレーズを重ねる。二番手のマクリーンはマイルスよりもかなり長めのソロを取り、グロスマンもハードバップに徹した一瞬の躊躇もなくひたすら吹きまくる。私がグロスマンに求めるものはこれじゃないのだが、めちゃくちゃ上手いからしかたがない。ここでのグロスマンは「ディグ」におけるロリンズの代役だからなあ。そして、その代役ぶりはたいしたものである。チックのエレピのやや短いソロのあとテーマ。3曲目はハンコックが入って「ウォーターメロン・マン」。オリジナルに入ってないマイルスにこんな自分のヒット曲をやらせるとはハンコックめ。だいたい「ウォーターメロン・マン」の初出であるブルーノート盤(「テイキン・オフ」)のトランペットはフレディ・ハバードではないか。ハンコックはマイルスにハバードの代役をやらせた、とも考えられるわけで……ハンコックめ。しかし、さすがにマイルスはこういう曲調だとノリノリだしツボを押さえた渋い演奏。ビル・エヴァンス、ケニー・ギャレットとソロが続くが、ケニーは逆にこういう曲調だと普通のファンクアルト的なソロ。かなりえぐいオルガン(?)ソロはハンコックが弾いてるのかなあ。会場はさぞかし盛り上がっただろうが、豪華な顔ぶれの顔見せ、という感じ。4曲目はレギュラーバンドでの演奏。全体にケニー・ギャレットがあのころのマイルスバンドのライヴでは必ずフィーチュアされていた感じのファンキーなロングソロをするのだが、こういうメイシオ・パーカーというかサンボーンというか……みたいな演奏を当時のマイルスが欲していたのだなあ、という感想しかでてこない。いや、もちろんめちゃかっこいいのですが。5曲目も4曲目とエレベが代わっただけだが、急に超アップテンポのドファンクになり、やっぱりダリル・ジョーンズはすごいなあ、と単純に思いました(この曲、オリジナルを聴いてないのでよくわからんのです)。そのあとテンポが落ちてドスのきいたというか腰のすわったファンクになる。そういうノリがずっと続いて、最後はまた速めのテンポになってエンディング。ダリル・ジョーンズ万歳! という感じの演奏。6曲目はショーター再登場で、チックとホランド、フォスターとの5人で「フットプリンツ」。さすがの5人によるすばらしい演奏で、この2枚組ではいちばんかも。ただし時間はかなり短い。個性のぶつかり合いって大事ですね。ラストは全員による「ジャン・ピエール」大合奏大会で16人が参加。ビッグバンドか(ザヴィヌルはいない)。最初にマイルスの嗄れ声が一瞬聞こえて、なんだかよくわからないが演奏がぐっと締まる。まあお祭りにはちがいないが、マイルスとマクリーンとショーターとグロスマンとギャレットとビル・エヴァンスが同じステージに並んで吹いてる……というだけで凄くないか? そういう単純な高揚感は、たとえばサン・ラー・アーケストラと渋さ知らズが同じステージで並んで演奏した、とかそういったものと同じで、非常に大事なことではないかと思う。すべては先人たちの天才と努力による積み重ねの結果としての歴史と伝統のうえに全員がいて、それを壊して先に進んだのもまた彼らなのである……ということを再確認するためにたまに行う「儀式」みたいなもんだ、と思えば納得いく。そして、途中フィーチュアされるグロスマンのソロは、来た来た来た! これが聴きたかったのだ! という感じの、短いけど(私の考える)グロスマンらしいゴリゴリの演奏で、あー、これを聴くための2枚組だったのかも……と思ったりして。  とにかくこの演奏は、マイルスが後ろを振り返った、とか、常に前進すべきマイルスにあるまじき、とか、そういう感じの目くじらを立てる必要はなく、すなおに楽しむのが一番だと思う。私はすごく楽しみました。本作を何度か聴いたあとグロスマンの訃報に接した。ジャズ史に名をとどめるべき傑出したテナー奏者だったと思います。

「LIVE IN TOKYO 1973」(HI HAT HH2CD3140)
MILES DAVIS  SEPTET

 海賊盤では一部を聴いていたマイルスの1973年来日時のライヴ。正規盤なので(だよね?)音質はすばらしい。メンバーは、今から考えるとめちゃくちゃ凄くて、アル・フォスターのドラム、マイケル・ヘンダーソンのベース、ムトゥーメのパーカッション、ピート・コージーとレジー・ルーカスのギター、そしてリーブマンという布陣である。当時のマイルスは「オン・ザ・コーナー」と「イン・コンサート」というコンセプトの共通した二枚のアルバムを出したあとで、この日本での演奏はその2作とメンバーもかぶるし、音楽的にも似通った部分があるが、いちばん大きな違いは、ピアノ〜キーボード奏者が不在、ということだろう。でも、その分、マイルスのガーッというオルガンが響き渡っており、実際、それほどキーボード奏者の不在は感じない。じつは、本作が「オン・ザ・コーナー」や「イン・コンサート」と音楽的にもっとも異なっているように思えるのは、もしかするとリーブマンの存在ではないだろうか。「オン・ザ・コーナー」にもリーブマンは参加しているのだが、あまりソロはフィーチュアされていない。というか、全体がファンクであり、ソウルであり、つまり、リズムを主体とした音楽なので、管楽器が真ん中でソロを吹いて……みたいなノリは意識的に排除されているのだ(といっても、このアルバムは今の耳で聴くとやはり思いっきり「ジャズ」だが)。それはおそらく、テオ・マセロの編集のたまものではないかと思われる。  ディスク1の冒頭、ドラムとパーカッションとともにワウワウギターのカッティングが始まると、ああ、マイルスやなあ……と思う。客の反応もすごくて、わくわく感が半端ない。私はこのころのマイルスのあまりよいリスナーではなく、世間の皆さまがアガパンだのゲット・アップ・ウィズ・イットだのジャック・ジョンソンだのオン・ザ・コーナーだのと言ってるのを聞いてもいまいちピンと来ない。たぶん、思い入れも違うし、そもそも聴き込んでいる回数がまったく違うのだろう。その理由ははっきりしている。ほんとにしょうもない理由なので、ここに書くのも情けないのだが、正直、テナーサックスにしか興味がないのです。マイルスのアルバムを聴く楽しみのひとつに、そのときどきの相方サックス奏者の演奏を聴く、ということがあると思う。それはもう、コルトレーンとやってたころからずっとそういう聴き方ができるわけだが、私は不幸にも、ゲイリー・バーツとかソニー・フォーチュンとかケニー・ギャレットとかにさほど関心がないので、そういうひとたちが相方のアルバムはどうしてもあまり聴かない、ということになってしまう。楽器で音楽を差別するな、と言う意見にはまったく賛成だが、これは好みなので、どうしてもそういうチョイスになってしまう。そのせいで、多くのすばらしい演奏、すばらしい作品を聴き逃している……ということはわかっているのだがどうしようもない。いまどきそういう聴き方をしているというのは「あかん」とは思います。いや、ほんま。というわけで、「オン・ザ・コーナー」以降のマイルスの良い聴き手ではない、と自任する私だが、ところが、本作はバーツではなく、リーブマンが相方なのである。やった! テナー〜ソプラノだ! リーブマン在籍時の正規録音は、編集のせいか、リーブマンはちょこっと登場するぐらいでその真価を発揮しているものは少なく、海賊盤は音が悪くてサックスの音が遠かったりして、なかなか「これだ!」というものはないと思うが、本作はめちゃくちゃ音が良い(放送用録音だから当然か)。だから、リーブマンの白熱のソロがたっぷり楽しめる。マイルスの相方のサックスは、ビル・エヴァンスにしてもケニー・ギャレットにしても、ソロがいわゆるジャズ的に盛り上がっていこう……という瞬間にマイルスが「はい、やめー」と言ってやめさせてしまう。おそらくソロイストとリズムセクションの関係で単純に盛り上がってしまい、ソロが終わるとそこで一旦全部をキャンセルし、新しいソロイストが1からはじめる……という図式が嫌なのだろう。そして、そのやり方でやると、ソロイスト的には欲求不満のまま盛り上がりの途中で引っ込むことになるのだが、その分、バンド全体がじわじわと高まっていき、最後にはソロイストが盛り上げたであろうレベルよりはるかに高みで音楽的な爆発が来るわけで、それを聴き手も楽しみにしているのだ。しかし、マイルスはけっしてそういうやり方だけに固執していたわけではなく、リーダーである自分の何倍もの尺を使ってソロを吹きまくるコルトレーンを放置して好きなようにさせていたように、ソロイストに異常な力があったらそれを優先することもあった。そんなサックス奏者はマイルスグループの長い歴史のなかでは、コルトレーンとショーター、そして、リーブマンの3人だと思う。ここでのリーブマンは全曲に渡って挑みかかるような凄まじいソロを展開している。しかも、アイデアが明確で、音がすごく、着実に盛り上がり、狂気や異常性も感じる……という、ほとんど完璧なソロばかりで、正直、リーブマンのソロを聴きたいがために本作二枚組を何度も聴いてしまう。マイルスはエレクトリックトランペットをほとんどパーカッションのように吹いているが、リーブマンはさまざまなバリエーションをつぎつぎ繰り出してきて飽きさせない。しかし、それもこれもリーダーであるマイルスの音楽性がベースにドーン! とあるわけで、そのうえに乗っかっている演奏だし、マイルスの度量によってリーブマンは好きに吹けているわけだから、結局はマイルスの音楽なのである。正直、「オン・ザ・コーナー」や「イン・コンサート」(そして「アガルタ」「パンゲア」)より本作の方がずっと好きです。まあ、1曲が長く、同じソロイストが二回吹いたりして(リズムやリフが変わるからかもしれないけど)、まだやっとるんかい、とときどき思わんでもないが、全員が凄腕なので、どんな場面でも結局感心させられてしまうだけの説得力がある。しかも、随所にヤバい感じがひしひしとあり、今の耳で聴いてもほとんど古びていないし、逆に突出感さえある。どうしてこの演奏を当時正規録音で出さなかったか首をひねりまくるようなライヴ2枚組です。傑作。

「WE WANT MILES」(SONY MUSIC JAPAN INTERNATIONAL INC. SICP 4019−20)
MILES DAVIS

このアルバムについては語りたいことが山ほどあって、逆にめんどくさいから感想を書かずに放置してあったのだが、あー、ついにそれを書くときが来た(べつに、だれから強要されたわけでもないが、勝手に「書く気分」になっただけ)。本作について書くには、どーしても自分語りをしなければならないので、それがうざいなー、と思っていたのだが、まあ、お付き合いください。とにかく我々はずーっと待っていたのである。なにを? 帝王の復活を、である。私がジャズを聞き出した高校生のころは、マイルスは引退状態にあり、「アガルタ」「パンゲア」を最後に新作は発表されておらず、たまに未発表の旧録音が出る程度だったが、まあなんというか、ジャズシーン全体のマイルスに対する期待度はかなり凄かったと思う。時代はフュージョン全盛であり、そのフュージョンも、帝王マイルスが「ビッチェズ・ブリュー」などで示唆した音楽である、みたいな論考がジャズ雑誌に載っていて、私はよくわからないながら、へーん、そうかー、ふーん……と思って読んでいた。エンターテインメントであるフュージョンとマイルスの音楽は決してイコールではなかったと思うが、当時はそんな感じだったと思う。なにしろ、フュージョンシーンで活躍していたミュージシャン(ジョー・ザヴィヌル、ウェイン・ショーター、ハービー・ハンコック、チック・コリアなどなどなど……)がみんなマイルスの息のかかったミュージシャンだったのだから、これはそう思われてもしかたないのだ。そして、高校生の私としては、近日中にマイルスが復活して、このゆるみきったフュージョンシーンに喝を入れるような音楽をぶちあげてくれるにちがいない、と思っていたわけです。ゆるみきったフュージョンシーンという言葉に難がある、と思うひともいるだろうが、当時、山下トリオ、ドルフィー、アイラー、アート・アンサンブル・オブ・シカゴ、ファラオ・サンダース、生活向上委員会、高柳昌行……などをガリガリ聴いていた私としては、ナベサダの「ナイス・ショット」やらバーニング・ウェイヴやら神崎オンザロードやらスパイロジャイロやらリーリトナーやらデイヴグルーシンやら……といったひとたちの新譜を聴くたびに、あーっ、もう! ええかげんにせえ! と叫んでドルフィーを聴く、というような日々を送っていたわけで、とぼしい小遣いをためてフリージャズを聴いていたガキがそういう言葉を発するのも無理はなかったと思うのだ。今になって聴き返すと、当時のそういったシーンの意味あいもわかるし、楽しめることは楽しめるのだが、まあ、私としては、マイルスという「救世主」が復活して、神の刃を振るって、堕落した音楽シーンをぶった切り、「夜明けは近い!」みたいなものすごい展開を示してくれるのでは、と思っていたのですね。「先生、こんなぬるい音楽ばかりの状況をどうすれば打破できるのでしょう」「心配いらぬ。もうすぐマイルスという偉大な神が復活し、われらに来たるべき道を示してくれるであろうぞ!」……みたいな感じだったのである。戦時中に神風が吹くと信じていたような、あるいは新興宗教の教義みたいなもんで、アホとしか言いようがない。しかし、当時のジャズ雑誌には毎号のように、「マイルスの復活は近い」的な生地が載っていたように思う。リーブマンがヒノテルをマイルスのところに連れていったら、マイルスは復活に向けてトレーニングしていると言って唇にもマウピのカタがついていた、とか、キクチがマイルスと一緒にリハをしたけど、マイルスはオルガンしか弾かなかったが凄かった、とか……そういう記事がしょっちょう載っていて、我々はその復活をひたすら待ち焦がれていたのだ。今から考えると、かにそういうカリスマ的な力を持ったミュージシャンがいないから、マイルスに頼るしかなかったのかもしれないが、当時読んだ相倉久人の「ジャズは死んだか」という本の結論も、マイルスが復活することがジャズ蘇生の鍵である、みたいなことだったように記憶している。そして、とうとう「ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン」というスタジオ録音のアルバムが発表され、我々はみんな飛びついたのである。そこで、「あれ?」と思ったのだ。たぶん、みんな……。マイルスを讃える「ヒズ・ア・メン・ウィズ・ザ・ホーン……」というボーカルが入る1曲目から、おいおい、と思ったし、曲もなんだかつまんないリフみたいなものが多くて、バックもなんだか荒いロックっぽい感じだし、しかもベーシックトラックにマイルスがトランペットをダビングしてるのかあ……と、個人的にはいろいろと「思ってた感じじゃない」というアルバムだった。でも、友達のトランぺッターは「とにもかくにもマイルスの新譜なんだから」という理由(?)で、毎日しつこく聴いていて、ジャズ喫茶でもよくかかっていたので、私もかなり聞き込んだと思う。そんななかで「マイルス来日」の情報である。とりあえず「ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン」は横に置いといて、伝説が蘇るのを自分も観たい、もしかしたらとんでもないスゲーことが起きるのではないか、これを見逃したら一生後悔するのではないか……というような思いが重なって、当然、観にいくことにしたのだが……コンサートの入場料がめちゃくちゃ高かった。当時の学生としては清水の舞台を五つぐらい重ねて、そのうえから飛びおりるぐらいの決意を要する金額だったのだが、それでも「生のマイルスが観られる」「世界がひっくり返るようなすごい演奏を聴くチャンス」ということで、みんな金を工面して、大阪は扇町プールにわれもわれもと足を運んだのである。期待値が異常に高すぎた? いやー…………そうだろうか。とにかく私たちはアレを目撃したのである(プール越しに)。脚をひきずりながらヨタヨタと歩き、ぱふー、ぱふー、と力のない吹奏をするマイルス、金髪、長髪でやかましいギター、「ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン」でさんざん予習はしていたもののなんだかつまんない曲、なんか盛り上がらない演奏、そして、入場料のわりにあっという間に終わってしまったコンサート、そして……そして、終演後のアンコールで肩を組んでにこにこ笑っていたマイルス……。マイルスは笑わないはずではなかったのか。みんな、そう言っていた。あんやったんやあれは。一緒に行った知人たちは怒りというか、失望とともに帰路についた。ビル・エヴァンスゆうやつだけはよかったな、めちゃかっこよかった、でも、あのマイク・スターンゆうやつはなんやねん、みたいな意見が大半だったと思う。そして、その後、このアルバムが発売された。私は当然買わなかったのだが、さっきも書いた同じ学年のトランぺッターが購入して、聴かせてくれた。信じられなかった。めちゃくちゃかっこいい。最初は、こんなはずはない、とそのかっこよさを認めることすら難しかったのだが、どう聴いても本作はかっこよかった。力のない吹奏と思ったマイルスのトランペットも、激しく、鋭いブロウを展開しているし、バンド全体を完璧に支配して、自分の音楽をぶつけいてる。どういうことだ。あのとき我々が観ていたのはなんだったのだ。こうしてCDとして何度も聴き返していると、なんとなく理由がわかってくる。我々はマイルスが、アガルタ、パンゲアのころのように舞台中央でトランペットを獅子吼して、メンバーにも上から目線でガンガン指示しまくり、ある意味マッチョな感じのバンドリーダー、クリエイター、トランぺッターとして、停滞しきったジャズ〜フュージョンシーンを根底からひっくり返すようなことをのぞんでいたのだが、実際には脚の痛みをこらえきれない老人が、トランペットを吹きながらよたよた歩く(歩くことで若干痛みがまぎれるのだろう)場面を高い金を払って見せられた……というギャップがこういう感想を生んだのだと……今では思います。で、今の耳でこのアルバムを聴いてみるとどういう感想かというと、「もう、めちゃくちゃすごい。最高。マイルスすごい」というものでありまして、ねー、人間の耳(とか目とか)なんてほんとあてにならんもんですね。もちろんテオ・マセロの編集のすごさもあるのだろうが、1枚目の1曲目のいきなり来る「ドッ」というマーカス・ミラーのシンプルなベースの一音からしてもうかっこいい。テーマを崩したようなベースソロのあと、すぐに遠くから近づいてくような感じでマイルスのミュートトランペットがシンプルなテーマを吹く。今聴くと、この渋さはなんだ! と慄然とするぐらいすばらしいのだが、当時は「なんじゃ、このアホみたいな曲は」と思っていたのだからなー。このスカスカな感じは、「オン・ザ・コーナー」や「アガルタ」「パンゲア」などでファンクリズムが洪水のように空間を埋めつくすなかをマイルスのエレクトリックトランペットが切り裂くようにブロウされる……というものとはちがっていて、とにかくスカスカである。このスカスカ感がこのころのマイルスの特徴だと思う。とにかく超シンプルで、ぎゅっと集約されたリフひとつで自由になる感じ。長いブランクのあと、よくこんな曲ばっかりで復帰第一弾(正確には第二弾か)を作ろうと思ったな。マイルスはさすがである。そして、マイク・スターンのド派手な(と当時は思った)ギターが炸裂するが、今聴くとものすごくストレートでまともである。このときまだスターンはまだ20代だったが、ビル・エヴァンスにいたっては20代前半で、まあグロスマンがかつてそうだったようなポジションなのかもしれないが、グロスマンに比べてもエヴァンスは、このすごいメンバーを引っ張りまわすような堂々たるプレイで驚く。当時のインタビューで驚愕したのが、エヴァンスは広いマウスピースに硬いリードというマッチョな組み合わせがジャズサックス奏者にとって当たり前、というかそれをみんな目指していたときに、狭いマウスピースに柔らかいリードで軽く吹く、と言っていたことだ。しかも、そのセッティングでめちゃくちゃいい音を出す。そして、今はみーんな当たり前のようにそういう感じになっている。時代を先取りしていたのだ。それともうひとつ「長いソロを吹くと自分で飽きてしまう」と言ってた記憶があり、コルトレーンの影響がまだ残っていて、サックス奏者はだれもがロングソロをしてへとへとになるまで吹きまくるのが普通だったときに、うーん、なるほどと思った。新世代やなあ、と学生の私でも思ったのだ。2曲目の「バック・シート・ベティ」はマイルスのジャズトランぺッターとしての上手さをひたすら見せつけられる。「なんや、めっちゃちゃんと吹けるやん」とこうして録音を聴くと思う。やはり基本はバップなのだなあ、というのもわかるし、高音部でもしっかり盛り上げる。後半はアル・フォスターとの「勝負」みたいになって、それも凄まじいが、とにかくマイルスのトータルミュージシャンとしてではなく、トランぺッターとしての凄みを思い知らされる演奏。3曲目は「ファースト・トラック」というタイトルになっているが「ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン」では「アイーダ」というタイトルになっている曲で、CD化にあたって本作に追加された1枚目の6曲目でも「アイーダ」となっていて、たぶん聞いたひとは混乱するだろう(いくら廉価盤でも、なぜそのことについて記載がないのかよくわからん)。とにかく「ようこんなもんを『曲』て言うて金取ったなあ」と言いたくなるような、3つの音だけで構成されている曲。しかし、そこから引き出される豊穣な音楽は底知れぬものがある。マイルスの最初のソロのあとマイク・スターンのソロになるのだが、アル・フォスターが気が狂ったようにシンバルを叩きまくって煽るのにスターンはマイケル・ブレッカーのようにクールにえげつないフレーズをきっちり弾き倒していてめちゃかっこいい。火を噴くようなソロである。そして、ふたたびマイルスが登場し、スターンとめちゃくちゃ過激なバトル(?)になる。このアルバムのハイライトともいうべきゴリゴリの白熱の演奏。そして、ミノ・シネルのコンガがフィーチュアされてクールダウン。再度マイルスのソロになり、ものすごくかっこいいし、圧倒的な存在感を示すが、もしかしたらマイルスにとって、こういうタイプの、激しいリズムに乗って高音で切り裂くような、アブストラクトな感じのソロは案外簡単(?)なのかもしれない。やはり2曲目での、フレーズ主体の演奏の方が利きごたえはある。4曲目は1曲目の「ジャン・ピエール」再び。ゴスペルっぽい響きもあるテーマだなあ。5曲目、6曲目はCD化に伴って追加された東京公演の音源。5曲目はすごく短い演奏。6曲目はさっきも書いたが、3曲目と同じテーマである。ビル・エヴァンスのかなりアグレッシヴなソロがフィーチュアされる。フリーキーなトーンも交えつつ、超かっこいいソロをぶちかます。まだまだこのあといくらでも盛り上げますよ、というところで親分マイルスのリフが入り、ソロをやめさせられる。この時期のマイルスバンドはこのやり方である。マイク・スターンも同じくだ。ミノ・シネルの歌心あふれるパーカッションソロ。まるでトーキング・ドラムのようだ。というわけで、2枚目に参りましょう。1曲目は、「ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン」でも取り上げていた唯一のスタンダードで「マイ・マンズ・ゴーン・ナウ」。「ポーギー・アンド・ベス」がどーたらこーたらギル・エヴァンスがどーたらこーたらという話はもういいですね。とにかく、地を這うような暗く重い演奏で、原曲からは、というかマイルスの「ポーギー・アンド・ベス」での演奏からもかなり遠い感じになっている。モードジャズ風のベースのパターンに乗ってビル・エヴァンスのソプラノとマイク・スターンのギターが暴れる。マイルスも、この曲ではいちばんジャズ的なソロをするのか、と思いきやそうでもなかった。「マイ・マンズ・ゴーン・ナウ」をちょっとだけモチーフにした演奏ということでいいのかも。カオスのようなどろどろした雰囲気のなか、フェイドアウト。2曲目も呑気なリフ曲で、しかも一回聴いたら忘れないというような、なかなか天才的な曲である。マイルスのソロはけっこうバップ。ビル・エヴァンスのテナーは非常に正統派な感じで、がっつりした手応えのあるソロ。マイク・スターンもこのアルバムではいちばんストレートなソロだと思う。そのあとのマイルスのソロは1枚目2曲目を上回るような、本作でもっともジャズ的なソロで、いやー、マイルス、まだまだバリバリやん、という凄みを感じる演奏。ビル・エヴァンスのテナーソロはひたすらかっこいい。このころは、ソロイストが盛り上がってくると合図を送ってやめさせていた感のあるマイルスだが、こうしてちゃんといい具合にソロをさせているし、そういうこと(短い時間でソロを追えることができる)メンバーをちゃんと選んでいる。3曲目はボーナストラックで、あからさまなスパニッシュ風味の曲。マイルスのソロもビルのソプラノもマイク・スターンのギターソロもフツーに「ジャズ」として聴きごたえがあるもの。やっぱりこれは「バンド」としての良さで、だれかがソロをしているとすかさずそこにベースやドラム、パーカッションの合いの手が入り、そのソロをより一層意味あるものに高めてくれる感じがある。マーカス・ミラーもすごいと思うのだが、このバンドではやっぱり重鎮アル・フォスターが相当がんばってるように思える。マイルスはたぶん若手ばかりで固めようとしたのだろうが、ドラムはアルに頼んだというあたりが、いろいろ察せられて面白い。そして、それは大正解なのであった。個人的な感慨も含めて、「傑作」としか言いようがない。