「IN EUROPE,VOL1」(PRESTIGE 7304)
ERIC DOLPHY
「IN EUROPE,VOL2」(PRESTIGE 7350)
ERIC DOLPHY
「IN EUROPE,VOL3」(PRESTIGE 7366)
ERIC DOLPHY
1000円とかの廉価版で名盤を出す、というのは私は基本的に反対だが、ドルフィーの「イン・ヨーロッパ」は一枚も持っていなかったので、この機会に3枚まとめて買った。中身は、これまでに何度も聴いたことのあるものばかりだが、3枚続けて聴いてみると、すごく新鮮だった。今回通して聴いて気づいたのは、フルート、アルト、バスクラというドルフィーの3種類の主奏楽器のそれぞれのフレーズが、どれも相互に影響しあっている、というか、似ている、ということである。そんなの、同じひとが吹いてるんやからあたりまえやん、というかもしれないが、ドルフィーの場合、アルトは上下ジャンプの激しい、アグレッシブなフレーズ、バスクラはグロテスクな表現、フルートはリリカルでファンタジック……という具合に、それぞれの楽器に別の表情がある、とよく言われている。でも、今回それぞれの楽器をライヴでたっぷり聞き比べると、バスクラやフルートも跳躍の激しいフレーズがそこここに聴かれるし、アルトはバップの影響がいちばん強く出るが、バスクラもやはりベースはビバップフレーズだし、フルートも音色の印象でリリカルという言葉が出るのだろうが、意外にグロというか不気味な音使いである。たいしたことではないのかもしれないが、「なにを吹いてもドルフィーはドルフィーだ」と再確認できた。しかし、この3枚のライヴでのドルフィーはほんとに凄い。これもよく言われていることだが、ドルフィーだけが先に行きすぎて、サイドマンがついて行っていないのでバランスが悪い、という意見があるが、こうして聴いてみると、サイドマンはかなり健闘しているし、ドルフィーの音楽性を損ねるようなことはまったくなく、逆にスタンダードをやったり、バスクラソロをやることで、ドルフィーの剃刀のように鋭い音楽性が剥きだしになっているように思う。どの盤もいいけど、個人的にはフルートとバスクラだけで攻めている1枚目がいちばん好き。バスクラソロの「ゴッドブレス〜」は、30年ぐらい時代を先取りした名演。今でもフリージャズのひとがバスクラソロをやっているのを聴くと、この演奏と大差ない。それぐらいドルフィーは進みまくっていた。それが彼の不幸とはけっして思わない。二枚目では、いろんな曲調のなかでアルトが炸裂して、凄い。スタンダードやジャズマンオリジナルも、ドルフィー流にあちこちいじってあるのがおもしろい。3枚目は、変態ブルースが3パターン入っていて聞き比べができるという、マニア度の高いアルバムだが、これがまたよい。3枚とも、プレスティッジ一流の、なんにも考えていない編集だが、それが結果的によかったのか、じつに濃い内容になっている。ジャケットも、ひどい、というひともいるようだが、私は好きです。
「ERIC DOLPHY LIVE AT THE FIVE SPOT VOLUME1.」(PRESTIGE NJ8260)
ERIC DOLPHY
ドルフィーというこの稀有なミュージシャンについての私の考えは、以前にあるサイトに発表した文章が言い尽くしていると思うので、それを全文参照していただくとして、本作(それも第一集)は私にとってももっともなじみ深いドルフィーのアルバムである。高校生のときにはじめて買ったドルフィーのレコードであり、ちゃんとわかって聴いていたかどうかも定かではないが、とにかく毎日毎日聴いていた。その後も、行きつけだった西宮北口のジャズ喫茶でヘヴィローテーションでよくかかっていたので、折に触れて耳にしていた。ジャズのアルバムというのは、ある時期集中的に聞き込んでも、そのうちに聴かなくなって、久しぶりに聴くと、おお、懐かしい、いろいろ発見があるなあ、となるものだが、こんな風に何十年にもわたって、けっこうずーーーーっと切れ目なく聴き続けているアルバムも珍しい。しかし、飽きないなあ。たぶんこの先何百回聴いても飽きないだろう。ときどき、なるほど、ドルフィーはじつはけっこう軽く吹いているなあ、ブッカー・リトルのほうが気合い入りまくりのテンションの高いソロを吹きまくっているなあ、とか、いやいや、影の主役はベースではないか、とか、いろんなことを思ったりするが、結局、やっぱり全員すごい、ドルフィーすごい、という結論になる。しかし、いつも思うのは、もし音楽が好きだというひとがいて、ジャズはあんまり聴いたことないけど、ロックとかポップスとかソウルとかニューミュージックとかヒップホップとかレゲエとかはかなり聴いてるんだよね的な「音楽ファン」で、もしドルフィーを聴いたことがないひとがいるとしたら、そのひとはとんでもなく音楽人生における大損をしていると思う。ジャズという音楽を知って、いろいろいいことがあったが、そのなかのかなり大きなウェイトをしめるのが、「ドルフィーとの出会い」であって、こんな風に音楽をとらえ、演奏する人間がいるのか、そして、その音楽がなんとグロテスクでなんとか美しいことか、ということを知っただけでも、私の人生は価値があったと思う。もし、ドルフィーを知らずに一生を過ごすようなことがあったら、なんと空虚な人生だろう、とさえ思う。ドルフィーがいるかいないかで、ジャズという音楽の全体的な値打ちは大きく変わったとも思う。まあ、それぐらいドルフィーというひとはどでかいのである。つまらん、カクテル的な演奏もジャズの一部なら、ドルフィーの一吹きもまたジャズである。だが、そのあいだの距離はほとんど相容れないほど遠い。こういう信じられない偉大な演奏を、ドナルド・ハリスンとかテレンス・ブランチャードなんぞに「再現」させようと考えたやつはなんと馬鹿であることか(少なくとも、もう少し考えて人選せえよ)。新主流派などが百人かかってもびくともしないほど、この音楽は突出しており、また堅牢なのだ。
「OUTWARD BOUND」(PRESTIGE 7311)
ERIC DOLPHY
うちにあるのはファンタジーでの再発で、ジャケットもあのドルフィーの顔の絵ではなく、アルトを吹くドルフィーの写真なのだが、けっして悪くないジャケットである。内容も、個人的には大好きで、アルト、バスクラ、フルートをそれぞれフィーチュアして、ドルフィーの音楽性がどういうものであるか、だれにでもわかる作りになっている。初リーダー作なのだが、この時点でドルフィーに関してはほとんどその音楽性が確立されているので驚く。これは、なんど聴いても驚くのであって、しばらく聴かすにいると、いやいふ、さすがに初リーダー作ではそこまではいってないだろう……という気持ちになっており、そして、針を久々に落としてみて、またしてもびっくり、という、おんなじことを繰り返してしまう。この作品に関しては未来永劫、毎度かわらぬ驚きを提供してくれると思う。それは、ドルフィーが初リーダー作において、あまりに突出的な高みに達してしまっているからこその驚きであって、あのマイルスでもコルトレーンでも、初リーダー作ではバップをぶひょぶひょやっているのに、ドルフィーはなにしろ「ここまで」行ってるわけだ。もちろん、彼はレコード吹き込みのチャンスに恵まれなかったから、初リーダー作をようやく吹き込めたときにはすっかり成熟していたのだ、という反論もあるだろうが、たとえばリー・モーガンがまだ十代のころにすごい演奏をした、とかいうのとはちがう。リー・モーガンはガレスピーやナバロ、クリフォード・ブラウンなどのスタイルをコピーし吸収してそれを吐き出したわけだが、ドルフィーはまったくの突然変異的に、なんの土台というかコピーする素材もない状態で、突如、音楽的にもテクニック的にも完璧な状態で出現したのである(まあ、これにも多々反論はあるだろうが、ざっくりとそういえるのではないかと思う)。こういうことに、私はジャズの魅力を感じるとともに、表現者の性(さが)というか、ずっしりと重い運命のようなものを感じます。たとえ、たった四年あまりの録音機会だったとしても、その四年は、漫然と演奏を垂れ流すミュージシャンの五十年よりもはるかに重い。というより、ドルフィーがたった四年で、ジャズ史を変え、後進ミュージシャンの人生を変えるほどの影響を与える成果を残してくれたことをすなおに喜びたい。
「FAR CRY」(PRESTIGE NJ8270)
ERIC DOLPHY WITH BOOKER LITTLE
ドルフィーのアルバムで日頃いちばん聴くのはたぶん本作と「ラスト・デイト」だろう。ファイヴ・スポットのライヴは、ジャズ喫茶でよくかかるし、「アウト・トゥ・ランチ」はちょっとしんどいので、本作の出番となるのである。といっても、もちろん軽い作品ではまったくないのだが、いろいろな意味で聴きやすい。「ミセス・パーカー・オブ・KC」とか「オード・トゥ・チャーリー・パーカー」といったチャーリー・パーカーがらみの曲を多く演奏しているのも特徴で(どちらもドルフィーの曲ではなく、ピアノのジャッキー・バイアードの曲なのだが、ドルフィーがソロを吹くと、まるで彼のオリジナルのように聴こえる)、たしかに表題曲などもふくめて、ドルフィーというひとはパーカーがめちゃめちゃ好きで、死ぬほど好きで、それなのにこういう表現方法をとったのだなあ、ということがよくわかる。有名な「レフト・アローン」のフルートバージョンは、筆舌に尽くしがたいすばらしい出来ばえで、学生のころ、フリージャズが嫌いなアルト吹きの先輩が、このアルバムだけは愛聴していたのを覚えている。「テンダリー」はアルトの無伴奏ソロでこういう演奏を入れることで、アルバムに一本、芯が通る。もちろん共演者もよくて、とくにこのときまだ二十二歳だったブッカー・リトルのみずみずしさ、意気込み、高みを目指す志、そしてそれを表現しうる技術……がよい。同い年で、ドルフィーの「アウトワード・バウンド」に参加したフレディ・ハバードが、「アウト・トゥ・ランチ」ではかなりいい演奏をしているが、「アウトワード・バウンド」ではまだまだハードバップの領域にとどまっているのにくらべると、ここでのリトルは相当がんばってると思います。
「OUT TO LUNCH」(BLUE NOTE 84163)
ERIC DOLPHY
告白すると、昔はですよ……このアルバムはあまり好きではなかったのでした。なんというか、しんどいのである。志が高すぎて、「これがドルフィーが持った最良のコンボ」などという表現をきくと、「そうかあ……?」と思ったりしたものだ。しかし、あるときハッと開眼(?)した。たしかに敷居は高いが、すごい作品だということが今ではわかっているつもりだ。どの曲もテンションが高く、のんびり聴くことを許してくれない。「ながら聴き」などとんでもない。そういったところが「しんどい」と感じる所以なのかもしれないが、本作がドルフィーがたった四年の録音活動中に残すことができた「高み」であるとすれば、こちらも居ずまいを正して真剣に聴くべきだろう。ところが最近は有線などでかかったりするのでギョッとする。アホか! こんなアルバムを喫茶店のBGMにするな。ジャズファンのなかには、思わぬ場所で思わぬジャズがかかることを喜ぶひともいるようだが、ドルフィーはなあ……ちょっとやめてほしいです。ジャケットも最高。メンバーも最高(ハバードもいいんだよなあ……)。このメンバーでのライヴアルバムが残されていたら……などと夢みたいなことをちらっと考えてしまったりして。ゲバルト・ウルマンのアルバムタイトル(バンド名?)にもなっているこのアルバムは、多くの後進に多大な影響を今も与えまくっていると思う。はっきり言って、ブルーノートというレーベルは本作を録音したというだけでも存在した価値があったと思います。
「LAST DATE」(FONTANA PAT−502)
ERIC DOLPHY
うちにあるのは、例の絵のジャケットのやつで、オリジナル仕様ではないが、どう考えても、絵のほうがいい。ドルフィーのこのアルバムにこめた思いとか、このアルバムの意味というものが、音を聴くまえにはっきりと浮かびあがってくるすばらしいジャケットだと思う。内容は最高で、これがラストアルバムとは信じられないし、聴くたびに、ジャズ界最大の損失だという気持ちがふつふつと沸き上がってくる。パーカーもコルトレーンもマイルスもやることはやって死んだと思うが、ドルフィーはなあ……。夭折がこれほど惜しまれるひともいない。このアルバムを聴くと、そういう意味での「ああ、残念。悲しい」という気持ちが湧いてきて、まともに聴けないのがほんとうのところなのだが、でも、あまりに演奏がすごいので、ついつい聴きまくってしまい、うちにあるレコードはボロボロである。共演者であるミシャ・メンゲルベルグやハン・ベニンクらは、当時はまだドルフィーの演奏についていけずに、ドルフィーだけが突出したような演奏になったが、その後、それぞれにこのときの演奏から影響を受けて、ヨーロッパフリージャズの推進者となった……というようなことが巷間ではいわれているようだが、そうかあ? 私が聴くかぎりでは、メンゲルベルグもベニンクもベースのジャック・ショルも相当がんばっていると思う。私の耳では、最近のフリージャズのリズムセクションとして、まったく問題ないぐらいのレベルの演奏だと思う。彼らがそれだけのレベルに達していたのか、それともドルフィーとの共演ということでこのときだけある種の高みにのぼったのか、そんなことはしらないが、少なくともドルフィーひとりが突出している感はないと思う。メンゲルベルグは「ヒポクリストマトリファーズ」という、本作中唯一のドルフィーのオリジナル(とスタンダード)ではない曲を提供しているわけで、ドルフィーが彼を認めていた証拠だろう。まあ、そんなことはどうでもいい。有名な「ユードントノウ……」をはじめ、本作に入っているすべての演奏が好きで、好きで、好きであります。
「MUSICAL PROPHET」(RESONANCE RECORDS HCD2035)
ERIC DOLPHY
というアルバムが出る、というのは聞いていて、出たらまあ買おうかな、ぐらいに思っていた。ドルフィーの未発表についてはめちゃ音が悪かったりするので、それなら正規アルバムを聞き込んだほうがいいだろう、ぐらいに思っていたわけである。たしかに高校生〜大学二年ぐらいまではアルトのケースにドルフィーの写真を貼っていたぐらい好きだったが、そののちテナーに転向したので……という状態で、ドルフィーに関しては札幌のJOEさんにすべて任せればよいのだ、と思っていた。本作が出て、しかも、3枚組のうち2枚は既存の音源(「カンバセーションズ」と「アイアン・マン」)だということを知り、あー、これはますます買わなくてもいいか、とか考えていた。なにしろそのころちょうどお金がなく、うちの預金通帳の残高は6000円ぐらいだったのだ。あるライヴで演奏することになっていて、そのまえになんとなく難波のタワーレコードに寄ると、本作が視聴機に入っていたのでちょっとだけのつもりで聴いてみた。ぶっ飛んだ。それが既存の音源(つまり「カンバセーションズ」の一曲目「ジターバッグ・ワルツ」)であることもわからず、とにかくいきなりヘッドホンからぶつけられたフルートの凄まじい音圧と生々しい音色、そして「あの」フレージングに、「いかん……!」と思った。このあと自分のライヴがあるのだ。こんなものを聞き込んでしまったら、打ちのめされて吹けなくなる。おまえごときド素人が、なにをえらそうなこと言うとんねん、と思うかもしれないが、いや、ほんま、そういうことがよくあるのである。2曲目のバスクラの途中で私はヘッドホンを置いてタワーレコードを出た。これまで家でしょぼい音で聴いていた「カンバセーションズ」とは比べ物にならないぐらい音質がよくなっていると思った。まるで別の盤だ(あとで、今回のはモノラルバージョンであることを知ったが、そんなに変わるかね?)。その後、やっと金ができたので、本作を購入したのだが、しばらくは毎日飽きることなく3枚を順繰りに聴き続けていた。いや、ほんと、飽きるとかありえない、というぐらい毎日毎日聴いてたなあ。まあ、いい機会なので、これまでレビューを書いていなかった「カンバセーションズ」と「アイアン・マン」についてもここでレビューしておきます。
「CONVERSATIONS」
ERIC DOLPHY
パーソネルは曲ごとにちがい、一曲目はウディ・ショウとボビー・ハッチャーソンが、2曲目はクリフォード・ジョーダン(のソプラノ)とソニー・シモンズのアルト、プリンス・ラシャのフルートが入っており、3曲目はドルフィーのアルト無伴奏ソロ、4曲目はリチャード・デイヴィスのアルコとバスクラのデュオによる「アローン・トゥギャザー」。そして5曲目と6曲目は未発表で、同じくドルフィーのバスクラとリチャード・デイヴィスのアルコのデュオによる演奏である(コンポジションのようですね)。まず一曲目の「ジターバッグ・ワルツ」だが、この曲をドルフィーはかなり好きなようですね。躍動的で楽しい、素直な雰囲気できっちりアレンジされたテーマがはじまる。しかし、このテーマのアンサンブルのなかでもドルフィーのフルートが突出して聞こえるのだ。そして、テーマが終わった瞬間に飛び出してくるそのフルートによるソロがすべてを変えてしまう。いやー、これはだれでもびっくりするでしょう。こんなすごいフルート聴いたことない! と多くのひとが当時、スピーカーのまえで叫んだに違いない。つづく若きウディ・ショウのソロもがんばっているし、ハッチャーソンのヴァイヴもいいソロにはちがいないが、そのバックで「ぴよっ、ぴよっ、ぴよっ、ぴよっ……」と執拗に鳴らされるフルートのほうが存在感あるのだからしゃあないなあ。2曲目「ミュージック・マタドール」も楽しげなテーマなのだが(プャンス・ラシャの曲らしい)、そのあとすぐに出てくるドルフィのバスクラが奏でるのはテーマとは異質の、別世界(真の意味での別の世界)の美しさである。つづくラシャのフルートソロはリチャード・デイヴィスのベースとあいまってなかなか面白いのだが、そのあと一瞬出てくるバスクラにさらわれてしまう。そして、ソプラノのみで参加しているクリフォード・ジョーダンは、なにをすればいいのかいまいちわからぬままソロが終わってしまった感で、そのあとのドルフィーのバスクラソロにいたって、ようやくこの曲の真髄が発揮されたような……いわばバランスの悪い演奏だと思うが、それでもそれぞれの参加者は必死にリーダーであるドルフィーの意図を理解しようとして演奏しているのだと思う。「ドルフィーだけがなにもかもわかっていて、あとのメンバーはまるっきりそれを理解していないし、しようともしていなかった」みたいな演奏ではなく、とても真摯で、しかも楽しい音楽を皆で作り上げている。この演奏から各人が多くのものを得た、ということは、その後の彼らの歩んだ道や音楽をみれば明らかである。3曲目「ラヴ・ミー」はアルトソロだが、この力強い音のまえにはどんな言葉を持ってきても力を失う。ドルフィーの演奏を聞くときにいつも思うことだし、何度も書いていることだが、このひとの演奏は、昨日、東京の、あるいはニューヨークの、あるいはイギリスのシカゴのパリのオスロのライヴハウスで新進気鋭の前衛ミュージシャンが演奏した音だ、と言われて聞かされても疑いなく信じてしまうような「今日性」がある。それだけみんながドルフィーに追いついていないのだ、と言ってしまえばそれまでだが、そういうことではなく、ドルフィーはほんの何年かのあいだに「フリージャズにおいて普遍的な演奏」というのを作り上げてしまったのだと思う。しっかりした音色で、しっかりした意図のもとに放たれる13分余りのこの演奏は永遠の輝きを放っている。4曲目は「アローン・トゥゲザー」で、リチャード・デイヴィスとドルフィーのバスクラのデュオ。とにかく最高である。重量級なのに、どこか軽い。心の隙間にひたひたと浸透してくる凄い演奏だ。しかし、続く2曲がまた凄い。「ミューゼズ・フォー・リチャード・デイヴィス」というタイトルの曲が2テイク。これが未発表だったのだ。タイトルだけ見ると、4曲目の「アローン・トゥギャザー」に対して即興デュオか? と思うかもしれないが、ちゃんとしたコンポジションである。「アローン・トゥギャザー」よりなお重い、そして自由な軽さを併せ持つ、どう聴いても1963年の演奏だとは思えない、昨日のピットインの録音だといっても信じられるような内容だ。しかも、昨日のピットインの演奏と違うところは、この演奏には新しいものを今から切り開いていこう、たとえわかってもらえなくても、罵声を浴びせられても……という気合いと覚悟が感じられることで、とんでもない宝物を我々は手にしているのだ。そして、我々が日ごろ聴いて、楽しんでいるフリージャズ的なものはすべてこの演奏の孫でありひ孫である……そう思えるような演奏である。
「IRON MAN」
ERIC DOLPHY
「カンバセーション」と同じときの録音。一曲目「アイアン・マン」を聞くと、かっこいいテーマの直後ドルフィーの凄まじいアルトがほとばしり出るが、この「言語」をここまで流暢に語れる状態になっていることに驚愕というか感動というか、人間というものの凄さをしみじみ感じる。この言語を操ることができる人間は、この時点では(今でもそうかもしれないが)世界中にドルフィーしかいなかったのだ。ドルフィーはこの言語をどこで学んだのか。チャーリー・パーカーからか? 異星人からか? 別の世界の神からか? いや……ドルフィーは自分の頭のなかを探して、そこで鳴っている音を採譜してこういう風に吹くことになったのだ。そして、次第になめらかにこの言葉を使えるようになっていった。ほかにこの言葉を使う人間がいないことも知らずに。共演のウディ・ショウやハッチャーソンもがんばってこの言葉をマスターしようとしているが、なかなか流暢には語れない。そういう時期の演奏である。このアルバムにおいては、我々はひたすらドルフィーが話すドルフィー語を聞けばいいのだと思う。2曲目「マンドレイク」もええ曲である。やはりドルフィーがびゅんびゅん飛ばす。ウディ・ショウもしっかりした音でシリアスなソロを繰り広げるが、彼が軽々と音楽の間隙を飛び交うような自由な演奏をするのはもう少しあとである。ハッチャーソンのソロは一音一音がヴィブラホンとは思えないぐらい重くて、かっこいい。3曲目「カム・サンデイ」はバスクラとリチャード・デイヴィスとのデュオだが「アローン・トゥギャザー」や「ミューゼズ・フォー・リチャード・デイヴィス」に比べると牧歌的な感じである。アルコベースが主導するメロディにドルフィーが上下左右からからみついてるような演奏から、ドルフィーが抜け出し、最後はふたりが一体となる。すばらしいとしか言い様がない。リチャード・デイヴィスのアルコの音も心なしかいつもよりずっと美しく透徹的に聞こえる。4曲目「バーニング・スペア」は、分厚いアンサンブルとドルフィーのバスクラソロの対比によるけっこう騒々しい曲だが、アンサンブルのほうも「編曲されたドルフィー」的なので、自分自身との掛け合いのようでスリリングである。そのあとバスクラと掛け合い的に聞こえるアルトはじつはソニー・シモンズである。ウディ・ショウもがんばっていて、ドルフィーのソロから受け継いだテンションを落としていない。ハッチャーソンのソロからコレクティヴ・インプロヴィゼイションのようになるが、その後ピチカートベースとアルコベースのデュオになり、テーマ。ジャズ批評の「アルトサックス」という本にこの曲でプリンス・ラシャがいきなりフルートでドルフィーに喧嘩を売った、と書いてるあるのだが、どの部分だかわからない。そもそもフルートソロなんかないのだが(ぴりぴりぴり……とトリルしてるだけ)。「カンバセーション」に入っている「ミュージック・マタドール」と間違えているのかもしれない。ツインベースがじつに効果を上げている。3曲にバスーンが入っており、これがなかなかの効果をあげている(たぶんソロはない)。5曲目は、「オード・トゥ・チャーリー・パーカー」(ジャッキー・バイアードの曲)で、ドルフィーのフルートとリチャード・デイヴィスのベースのデュオ。何度も取り上げているこの曲で、ドルフィーはまさに入魂の演奏をする。アルトのように跳躍しまくるわけでもないし、そもそもパーカーに捧げるといっているにもかかわらずフルートを使っているのに、なぜかパーカーとドルフィーの深いつながりを感じさせる演奏になっている不思議な曲である。6曲目は……いやー、凄いです。「アザー・アスペクツ」にも入っていて、それをはじめて聞いたとき(某ジャズ喫茶で)、「なんじゃこりゃーっ」と思ったが、今回こういう形であらためて聴いてみるとぶったまげました。この曲も63年の録音とは思えない。「アウト・トゥ・ランチ」の一週間後の録音だというが、録音の生々しさといい音楽の生々しさといい、とんでもない演奏である。なにしろタイトルが「ジム・クロウ」だからなあ。しかも、なんとボブ・ジェイムズの曲だという。オペラ歌手とボブ・ジェイムズ自身のピアノにベース、パーカッション、そしてドルフィーというメンバーで、前半部分はほとんど全編ルバートによる自由すぎる演奏が繰り広げられるが、その力強さ、方向性やメッセージ性の確かさ、美しさと狂気……などは凄すぎるとしか言いようがない。そして、ドルフィーのソロはなぜかブルーズを感じさせる。そしてインテンポになり曲がはじまってからは、ボブ・ジェイムズの曲なのにドルフィーワールドに近いサウンドが展開する。ドルフィーもボーカルのひとも凄すぎるわ。とにかくこの3枚組は、「アザー・アスペクツ」を聞いたことがないひとがいたら、ぜひこの「ジム・クロウ」だけでも聞いてほしいと思います(今回のは別テイクなので、そういう意味でも価値あり)。こういうのを聞くと、やっぱり「天才」という言葉しか浮かんでこないんだよなー。
そして、今回の発掘の目玉である3枚目は、上記既発の2枚の別テイク集ということになる。どの曲もオリジナルテイクと遜色ない出来映えで、それはドルフィーだけでなくほかのメンバーも同様である。しかし、2曲目と3曲目に収録されている「ラヴ・ミー」の別テイクは、「遜色ない」とか「別テイク」とかいった言葉では語れない、ドルフィーが全身全霊をかたむけた、ある意味「命がけ」の演奏のように聞こえる。ドルフィーはこの無伴奏ソロを楽しんで演奏したのだろうか。いや、楽しんでいると思う。しかし、リスナーにとって聞こえてくるのは血のにじむような音塊である。よくこれが残っていたと思う。そして4曲目「アローン・トゥギャザー」の別テイクは本テイクとは違った様相を見せており、これもよく残しておいてくれたと感謝しかない。ドルフィーは、ジャズにとって忘れられていたバスクラリネットという楽器をよみがえらせた、とかいうが、こういう演奏を聴いていると、クラシックもジャズもひっくるめて、こんな風なバスクラの演奏をしたひとは史上初だと思う。あああ、ドルフィー、なんで死んだんや……と突然慟哭したりして……。いや、冗談ではないのだが。この音源を提供してくれたジェイムズ・ニュートンに感謝しつつ、腹も立つ。なんでもっと早く発表しなかったのだ。このアルバムを聞かずに死んだドルフィーファンもいたはずなのだ。5曲目は「ジターバッグ・ワルツ」の別テイクで、自在に空を翔るようなドルフィーのフルートソロはすばらしい。ウディ・ショウもバップから抜け出して手探りで自分を見つけようとするような演奏で、非常にリアルである。6曲目は「マンドレイク」の別テイク。これもドルフィーのアルトの凄まじさはひたすら頭を垂れるのみ。ウディ・ショウもがんばっていて、いい感じ。若手全員が「俺たち、こんな感じでいいのかな」とドルフィーの音楽を完全には理解していない状態なりに、それぞれに模索しながらなにかを貫こうとしている雰囲気が感動的である。ラストの7曲目は「バーニング・スペア」の別テイク。ドルフィーがバスクラソロの最初のほうでバックから外れたようなメロディを吹き、それがものすごく印象的である。ツインベースによる演奏が本テイクとはまた違った様相を呈していて、それもめちゃくちゃ興味深い。とんでもなく価値のある別テイク集である。ドルフィーファンならずとも聴いてほしい。というか、ドルフィーをはじめて聴くというひとにもこの三枚組はOKなんじゃないでしょうか。傑作!