「COMME A LA RADIO」(SARAVAH PROP−10013)
BRIGITTE FONTANE
めちゃくちゃ有名なアルバムだし、一曲目に入っているタイトル曲は、「ロンリー・ウーマン」などと並んでフリージャズ(とくに日本の)ひとがこぞって取り上げる超有名曲だが、このCDがなぜかうちのプレイヤーでかからない。なんべんやってもエラーになる。でも6回に一回ぐらいかかるのだ。レコードは持っているのだが、めんどくさいので最近買ったCDで聴きたいのだが、これがどういうわけかかからないのである。で、たまにかかると、ものすごく得をしたような気になる。それにしても、このアルバムはすごいよね。ブリジット・フォンテーヌというひとは正直言って良く知らんし、シャンソンのことも全然知らないが、バックをつとめているアートアンサンブルの面々の「方法」は、本当にいい加減で、ラフで、要するにフリーなものなのだが、それがこのひとの歌とマジでバチーッと合体したわけである。こういうことはたしかにライヴの場ではありえることだし、くだらないジャズボーカルの伴奏(フェイクもスキャットも前もって用意されてるみたいな、ね)、みたいな場面では逆にありえないことだと思うが、この雑然とした、シカゴからやってきた黒人たちによる伴奏(?)が一期一会のものになったのだ。メロディ自体もアートアンサンブルの用意した、というか、適当にその場で考えたものだというし(十分ありうる)、そのあたりがとにかく全部、いい方向にいい方向にと作用している。1曲目以外の曲はどうかというと、これはもう私がどーこー言うようなものではないが(シャンソンのことはかけらも知らないからね)、たとえば2曲目の、途中で突然演奏がとまるところとか、3曲目のアレスキによるプリミティヴなパーカッションとこれまた原始の悦びを奏でるようなソプラノとの演奏などを聞くと、シャンソンだろうがなんだろうが、とにかくおもろいもんはおもろい、という気分になる。ベース(マラカイ・フェイヴァースもしくはジェニー・クラーク)も重要な働きをしているが、ツィターを弾いてるひと(だれ?)とかいろいろなひとが参加しているようだが、主役であるフォンテーヌがまったくそういうことに動じることなく、というか、それらをすべて自分の表現のなかに取り込んでいるという異様なほどのふところの深さである。黒人の生みだしたフリージャズという方法論がここでは、フォンテーヌの音楽にずぶりと取り込まれてしまっているように思える。これはすごいことであって、若さゆえの大胆さなのかそうでないのかは門外漢である私にはわからないのだが、アート・アンサンブル・オブ・シカゴもジェニー・クラークもワダダ・レオ・スミスも……とにかくグレート・ブラック・ミュージックだかなんだか知らないが私がこう歌うんだからね、というしっかりした意志を感じる。感じまくる。しかし、この表現はどう考えてもアート・アンサンブルがいないと成り立たないわけで、7曲目の「レオ」とか聴くとひしひしとそう思う。そうなのだ。これはシャンソンとグレイトブラックミュージック(をはじめとする民族音楽)との怖ろしくも美しい一期一会の出会いであり、別れだったのだ……などとかっこつけて書く必要もないほど、このアルバムは露骨にそのことを音で表現している。たとえシャンソンのことがわからなくても、少なくともこのアルバムが凡百の作品に比べて圧倒的に聳え立つような傑作であることは私のようなものにもわかってしまうのである。音楽とか絵画とか小説とか……なんでも一緒だと思うが、不思議なものありますね。とか書いてたらこのアルバムのレーベル(サラヴァ)を作った人物でもあるピエール・バルーが亡くなったので驚いた。