charles gayle

「KINGDOM」(KNITTING FACTORY WORKS KFE157)
CHARLES GAYLE WITH SUNNY MURRAY & WILLIAM PARKER

 さすがにヘヴィー級の伝統的フリージャズの巨匠である。聴き応え十分の絶叫系大迫力ブラックジャズ。あいかわらずのピアノレストリオだが、テナーだけでなく、ゲイル自身のピアノが大きくフィーチュアされていて、それはセシル・テイラー的というか、やたらとがんがん鍵盤を叩きまくるもので、なかなかかっこいい。バスクラもしぶくて、剛速球勝負のテナーとはちがった、柔軟な演奏も達者であることを示す。チャールズ・ゲイルに駄作はないと思うが、このアルバムは彼の多くのアルバムのなかでもかなり上位にくることまちがいなしの代表作である。こういう音が出せたらなあ……。いやーなことがあったとき、大音量でかければ、たちまちストレス解消……だが、家族や隣近所から文句が来ることもまちがいないと思われる。

「ANCIENT OF DAYS」(KNITTING FACTORY RECORDS KFW263)
CHARLES GAYLE

 チャールズ・ゲイルの演奏を聴いていつも思うのは、その「音」である。ゲイルだけでなく、デヴィッド・S・ウェアやフランク・ライト、フランク・ロウなどの黒人テナーマンの音は、血のにおいがするような肉体感覚がある。ヴァンダーマークやマーズ・ウィリアムズ、ルイ・ベロジナス、アシーフ・ツァハー、ハーコン・コーンスタ……といった白人テナーマンに比べても、なんというか、ものすごく音が重たい。ヘヴィである。ヴァンダーマークたちも、楽器はめちゃめちゃよく鳴っており、すばらしい音なのだが、やはり、どことなく「軽さ」がある。ゲイルやウェアは、音に腰が入っている、というか、血を吐くような音なのである。そういう音の持ち主が、うねるような、もだえるようなフレーズを重ねていき、ついにはフリーキーなブローに達したときは、それはそれは快感なのだが、「ヘヴィすぎる」「しんどい」「うるさい」という批判もあろう。だが、黒人フリージャズテナーの醍醐味というのは、この「ヘヴィさ」にあると思う。共演の3人もなかなかよくて、とくにベースとドラムは凄腕。ピアノは、ゲイルの音楽にはあわないように思うが、ここでのピアニストはがんばっている。とにかく真剣に聴かなければならない種類の音楽ではあるが、聴き終えたとき、ボクシングのスパーリングをこなしたような(やったことないけど)汗まみれの爽快感がある。でも、チャールズ・ゲイルってどれを聴いても同じ……いえいえ、そんなことはありません。たとえばこの盤だが、4曲目だったかに、ものすごい勢いで上下降するフレーズがあって、それがめちゃめちゃかっこいいのだ。しばらくリピートしてそこばっかり聴いていた。曲も多彩で、ゴスペルっぽい曲があったりして、このアルバムはゲイルの多くのアルバムのなかでも上位に位置するのではないだろうか。

「HOMELESS」(SILKHEART RECORDS SHCD116)
CHARLES GAYLE TRIO

 チャールズ・ゲイルはすごいけど、なにを聴いてもいっしょやんけ、という向きにはこのアルバムを聴かせたい。このアルバムはシルクハートからの二枚目で(つまり、ゲイルのレコーディングキャリアとしてはかなり初期のもの)、一枚めはなぜかジョン・チカイが入ってのカルテットだったが、本作はその後のゲイルのグループの主流となるピアノレストリオで、より凝縮された三人の怒濤の突撃を楽しむことができる。全曲、演奏に熱気がこもっていてすばらしく、代表作のひとつといえるのではないか。ベースは有名人(シローネ)で、重厚なリズムをうねらせていてすばらしいが、ドラムのデイヴ・プレザントというひとがめちゃめちゃいい。英文ライナーを読むと、大学で博士号かなにかをとったのに、アホげな音楽の世界にドロップアウトした(あくまで私の英語力によるものなので、ちがってるかもしれない)と書いてある。小技から大技まで駆使して、完璧なバックアップをして、なおかつ自己表現をする。パワーもあるし、このトリオにはぴったりである。うちにあるアルバムでは、「リペント」でゲイルといっしょにやっている。もう一枚あるらしいがそれは持ってない。とにかくゲイルは最初っから最後までずっと「血のブロウ」をしていて(つまり、圧倒的な音量、凄まじい音圧などから、「音」から血が滲み出ているように聴こえる吹きかた)、いやはやすげーよなあ、とひたすら感心。感心の果てにあるものは感動。こういうフリージャズがいちばん好きだ。シローネのベースの弓弾きのうえで、延々とフリークトーンをのたくらせる箇所は、壮絶を通り越して、このひと、身体は大丈夫かいな、と心配したくなるほどのエネルギーが放出されている。ゲイルは聴いてみたいけど、いっぱいでてるからなあ、というひとに、まずすすめるべき何枚かのなかに入る一枚だと思う。なんといってもタイトルが「ホームレス」ですよ。ゲイルは、ニューヨークで実際にホームレスをしていたこともあるわけで、そのことを考えるとなんとも意味深い。でも、実際の演奏を聴くと、そんなことどうでもいいもんね、という気分になってしまう。重く、圧倒的で、豪快で、爽快な一枚。

「SHOUT!」(CLEAN FEED CF033CD)
CHARLES GAYLE

 ゲイルにしては珍しくいろいろとスタンダードが入っているのだが、どう聞いても「ソング・イズ・ユー」にも「ファッツ・ニュー」にも「アイ・キャント・ゲット・スターテッド」にも聞こえない。ベースにシローネの入った、いつものピアノレストリオなので、ずっと聴いていても、ああ、チャールズ・ゲイルの新譜を聴いているのだなあ、という意識しかなく、ええっ、ゲイルがスタンダードをやってる? どう料理してるんだろう、わくわく……みたいな聞き方はしづらい、というか、できない一枚といえるだろう。つまりは、彼がそこまでスタンダードをばらばらに解体しているといえるわけで、それはすごいことなのかもしれないし、実際にはメロディーの断片とか、デフォルメされたテーマの細片などが耳に入るときもあるので、素材に対するある種の敬慕みたいなものも感じ取れないことはないのだが、うーん、やっぱりいつものゲイルだ。そして、いつものゲイルであるということは、すばらしいということで、それ以上なにも求める必要はない。あいかわらずやなあ、といいながら熱くなりました。酔っぱらって、終電のなかでウォークマンで聴いていたのだが、思わず途中で「おおっ」と叫んでしまった。やっぱりゲイルはすごい。生で聴きたいなあ。

「MORE LIVE AT THE KNITTING FACTORY」(KNITTING FACTORY WORKS KFWCD 137)
CHARLES GAYLE QUARTET

 いやー、なにげなく買ったのだが、二枚組だし、かなりしんどそうなので聴かずに置いてあったのだ。いやはやこんな傑作だとは思わなかった。すげーっ。チャールズ・ゲイルの最高傑作かどうかはわからんが、かなりそれに近いかも。少なくとも今は、チャールズ・ゲイルで何がいい?ときかれたら、ためらわずにこの二枚組ライヴをすすめるだろう。この異常なまでの集中力はなんだ。A−1冒頭における金切り声のような叫びを聴いたら、ゲイルを知らないリスナーのなかには、「はったりだ」と思うひともいるかもしれないが、そのあとこの2枚組をとおして、一瞬の休みもなく、ひたすら絶叫のうえに絶叫を積み重ねていき、クライマックスのうえにクライマックスを積み上げていくこの恐るべきテナーのバッファロー(ネットで、外国のサイトにそう書いてあった)の凄まじいパワーのまえには、「はったり」という言葉は力を失うだろう。とにかくもうめちゃくちゃかっこいいし、めちゃくちゃ汗だく。パワーミュージックというのはこれですよ! 共演者もウィリアム・パーカー以下すばらしいプレイでリーダーの情熱に応えている(ツインベースなのである)。たぶん、生で聴いたら気が狂うであろう、超高濃度、超ハイポテンシャル、超ハイテンションの傑作です(2枚目の5曲目の途中で音が途切れるような気がするが、気のせい?)。

「LIVE AT GLENN MILLER CAFE」(AYLER RECORDS AYLCD−015)
CHARLES GAYLE TRIO

 これは傑作だ。一曲目から最後まで興奮また興奮のライヴだ。しかし……なぜアルトなのだろうか。チャールズ・ゲイルといえばテナーである。だから私はこのアルバムを長いあいだ買わずにおり、こないだ某店で中古ででていたのでようやく購入したのである。聴いてみて、私は自分の不見識を責めたが、それでも「なぜアルトなのか」という問いの答は出ない。ゲイルのアルトがめちゃめちゃすばらしいのはわかった。最後のほうなど、テナーを聴いてるようなつもりで、ときどき、(あっ、アルトだっけ)と思ってしまうほどに、「ゲイルのアルトはテナーだった」といえる。でも……テナーでええやん。うーん……ここがわからんところなのである。ゲイルはテナーを捨てたのか。いやいや、そんなはずはない。単にヨーロッパに行ったときにテナーの調子が悪かったので、アルトにしぼったのか。それはありうる。でもなあ……ライナーを読んでも理由は書いていない。とにかく、私にできることは、このアルバムを聴いて、(ああ、すばらしい。ゲイルはアルトもすごいのはよくわかった。でも……テナーも吹いてほしかった)とつぶやくことだけだ。まず、一曲目の「チェロキー」だが、どこがチェロキーやねん、と叫びたい。「チェロキー」といえばサビの進行がめちゃむずかしい曲として知られているが、ゲイルの演奏のまえではそんなことが瑣事に感じられるほど、自由に吹いて吹いて吹き倒している。「ジャイアント・ステップス」も、コルトレーンチェンジの難曲として知られているが、これまたゲイルはそういうことは一切気にしていないようだ。「ソフトリー……」も「ファッツ・ニュー」も同様。しかし、だからといって、「どれでも一緒かい!」ということにはならない。チェンジは無視しても、なんというか「曲の心」はそれぞれにしっかり表現されていると思うのだ。とくに「ファッツ・ニュー」を聴いて、それを感じた。やはりただものではない。最後は自作からアイラーの「ゴースト」(ほかの曲のテーマも混じる)へのメドレーだが、あまりにアルトの音が太くて、もうこうなったら楽器なんか関係ないな、このおっさんはトランペットを吹いてもこんな音が出るかもな、と思った。そういえばピアノアルバムもありましたね、ゲイルには。聴いてないけど。

「SOLO IN JAPAN」(MODERN MUSIC PSFD−94)
CHARLES GAYLE

 ゲイルというと、テナーを野太い、ざらついた音で、ひたすら暴力的に吹きまくる肉体派のイメージがあるが、このソロでは、べつの側面をみせる。ホームレスも経験し、野外や路上でフリージャズの最先端を走り続けてきたおっさんが、ふとかいま見せた疲れ、というか、肩の力を抜いて「あー、しんど」という感じ……といえばわかるだろうか。わからんだろうなあ。読み返したけど、自分でもなにを言いたいのかわからん。しかし、とにかく他のアルバムではひたすら絶叫し、吹きまくり、緊張感を途切れさせることのないゲイルが、このソロでは緊張感がふっと切れる瞬間があっておもしろい。同じタイプ(と私が勝手に思っているだけだが)のデヴィッド・S・ウェアのソロアルバムが圧倒的な存在感を誇示する傑作だったのと比較すると、圧倒的な感動こそないものの、ゲイルが自分の音楽をどのようにして積み上げていくか、その過程が如実にわかるドキュメントとしてたいへん興味深い。ブロッツマンのソロにも通じる、手作り感のある、温かくて稚気にあふれた演奏である。もちろん、ぎょええとのけぞる瞬間もたっぷりあり、普通のフリージャズとしても十分楽しめます。しかし、ゲイルって昔は、こうやってアート・アンサンブルみたいに顔にペインティングしてたんだなあ。

「PRECIOUS SOUL」(FMP CD113)
CHARLES GAYLE 3

 これは傑作である。ベースにジェラルド・ベンソン、ドラムスにジェラルド・クリーバーを迎え、ピアノレスでゲイルがたっぷりと吹きまくる怒濤のライヴ。まあ、ゲイルのライヴに悪いものはないが、本作はなかでもテンションが高くて興奮する。とくに3曲目のフリーキーなブロウは聴いててもうへろへろになるほどの汗だく演奏。でも、ほかのアルバムとどこがどうちがうのかと言われると、まあ、おんなじといえばおんなじなのだが、リズムセクションのバネのある反応というか、とくにドラムがゲイルの咆哮に応えて、びいん! とたっぷりタメておいてから押し返すような柔軟かつパワフルな応戦(?)がたまらん。ゲイルは例によって(最近はあまりしないけど)、高音と低音を交互に発するような絶叫系のプレイで、すばらしい。こういう奏法って、トランジション以降のコルトレーンが最初にはじめたものだと思うけど、けっこう難しいのである。二曲ほどピアノ藻弾いているが、テナーでは出てこないバップのフレーズが出てきたりしておもしろいし、かなりうまい。曲名はゴスペルっぽいものが並んでいるけれど、実際に聴いてみるとあまり関係ないみたいです。

「DELIVERED」(2.13.61RECORDS THI21324.2)
THE CHARLES GAYLE QUARTET

 珍しくピアノを入れたカルテット編成になっているが、全体にゴスペルっぽい曲が多く(アメイジング・グレイスなど、そのものずばりの曲も取り上げているし、ゲイルのオリジナルもゴスペルっぽい)、その表現にピアノが必要だったのだろう。アイラー以来、フリージャズ系のテナー奏者がゴスペルに接近したアルバムを作ることはひとつの伝統だが、デヴィッド・ウェアとはまた違った手法でゲイルは自己のゴスペルを表現する。朗々とゴスペルシンガーのように歌いあげ、シャウトして、その延長のようにフリーキーに吹きまくり、クライマックスを現出するが、どういったらいいのかなあ、世俗のゴスペルではなく、本当に「祈って」いるように聞こえる。これはゲイルの奥深いところから発しているのだろうが、私のような異教徒にはわからない。ただ、ひたすら、ゲイルが熱をこめて吹く音の一つ一つを追っていくだけだ。ゲイルの演奏は、普段のフリーインプロヴィゼイションでも、どことなくゴスペル的なもの(高み、というか頂点を目指して、熱狂的に吹く、ただただ吹く……)を感じさせるだけに、このアルバムは好企画だったと思う。

「TOUCHIN’ON TRANE」(FMP CD48)
CHARLES GAYLE/WILLIAM PARKER/RASHID ALI

 ゲイルはいつものゲイルなのだが、ほかのふたりがちがう。つまり、ラシッド・アリというフリージャズ黎明期から活躍している大物と、ウィリアム・パーカーという現代フリージャズ界を牽引しているといってもいい大物。このふたりを従えての演奏。ラシッド・アリは正直いってかなりよれよれで、反応も鈍く、ゲイルのいつもの共演者たちのように、待ち構えていて、溌剌とフレーズを返す……みたいな応酬は期待できない。しかし、意外といっては失礼だが、どっしりした貫祿による大人(たいじん)的なプッシュは決して悪くない。そして、ベースは最高なのだから、本作はなかなかの傑作に仕上がった。まあ、ゲイルがふたりをひっぱっている感じはあるけど。収録曲は5曲で、どれも「タッチン・オン・トレイン」組曲となっているが、いつものゲイル節である。しかし、どことなくタイトル通り、コルトレーンの影を感じるのは私だけだろうか。もちろんラシッド・アリの存在もそれに大きく加担しているだろうが。

「BERLIN MOVEMENT FROM FUTURE YEARS」(FMP CD90)
CHARLES GAYLE 3 LIVE

 3曲の即興演奏、合計80分の長丁場を、ゲイルがひたすら吹きまくる壮絶極まりないライヴである。ベースにバッテル・チェリー、ドラムにマイケル・ウィムバーリー。もう、なにも言うことはない。ただ「聴く」だけだ。それにしても、最初にゲイルに接したのはいつ、どんなアルバムだったろうか。もう覚えてないなあ……。デヴィッド・ウェアは、たぶん最初に聴いたのは「ダーク・トゥ・ゼムセルブズ」で、そのあとシルクハートのアルバムやビーバー・ハリスと演ってるやつなんかを聴いたのだと思うが、ゲイルに関しては覚えがない。しかし、今ではあまりに私の生活に溶け込んでいて、なくてはならぬ「音」のひとつである。このアルバムも、ゲイルの傑作と呼んで差し支えない。もし、こんな風に吹けたらどれだけ手応えがあるだろうか。しかし、この演奏にはゲイルがこれまでに歩んできた艱難辛苦というか臥薪嘗胆というか、赤穂浪士じゃないけれど、そういった「苦しみ」を「音」に変換する作業がびりびりと感じられ、とうてい私のごとき薄っぺらい人生を歩んでいるものには出せない音なのである。そんなこといっても、音は単なる音でしょう、ただの一定の周波数における振動だよ……と思うひとがいるとしたら、それはあまりに「と学会」的というか、一面的ではないかと思う。

「LIVE AT CRESCENDO」(AYLER RECORDS AYLCD−077/078)
BY ANY MEANS

 このグループはチャールズ・ゲイル、ウィリアム・パーカー、ラシッド・アリという一種のオールスタートリオである。以前に同じメンバーでアメリカでライヴレコーディングしたのだが、チャールズ・ゲイルがその演奏が気に入らず、数年を経てノルウェーで録りなおすことになった、といういわくつきのライヴ二枚組。ゲイルはまたしても全編アルトを吹いている。演奏はすばらしく、まあラシッド・アリのドラムの大味な反応を割り引いても(貫禄はさすが)、テンションといい集中力といい、すごいトリオだとは思うが、やはりゲイルがアルトしか吹いていない点がどうもひっかかる。どうしてテナーを吹かんのじゃ。テナーはやめたのか。売ってしまったのか。どうなっとるんだ。もうすっかりアルト奏者になってしまったのだろうか。だとすると悲しい。ネットでいろいろ見たのだが、私の語諾力のなさのゆえか、アルトを吹いている理由がいまひとつわからない。これは好みの問題になってしまうのだろうが、やはりアルトで二枚組はちょっときついなあ……というのが正直な感想である。いや、めっちゃすごい演奏だとは思うんですけどね。

「BLUE SHADOWS」(SILKHEART SHCD157)
CHARLES GAYLE QUARTET

 シルクハートの残りテイク集だというのが信じられないほどのすばらしい演奏である。一曲目、いきなり暴発するゲイルのフリークトーンにのけぞる。なかには、途中でフェイドアウトされてしまうような、いかにも「残りテイク」といった演奏も収録されているのだが、内容的に聴き劣りするようなものはひとつもなく、若きゲイルの、暴力的ともいえるような凄まじい怒濤のソロが我々の耳を打つ。これを機会に、ゲイルのシルクハート時代のアルバムを聴き直そうと思ったが、どこに行ったのか、見あたらない。おかしいなあ。──でも、やっぱりゲイルはテナーですよね。

「FORGIVENESS」(NOT TWO RECORDS MW805−2)
THE CHARLES GAYLE TRIO

 このアルバム、たぶんチャールズ・ゲイルの最新のライヴである。じつはあんまり期待していなかった(アルトしか吹いていないのがわかっていた)のだが、聞いてみて、すごくよかった。でも、思いは複雑である。いい演奏なら、アルトを吹いていようがテナーを吹いていようが関係ないだろ、というのが一般的な意見だと思うし、私はそれはそうだと思う。しかし、ゲイルの場合、アルトを吹いたときは、ゲイル自身は「音色」をあんまり気にしていないように思う。テナーのときのあの鮮烈なサウンド、身を削るような峻烈な音が、どちらかというと細い、ひょろっとした音になる。フレージングとかリズムとか、即興にのぞむ姿勢にはまったく変わりがないし、逆によりフットワークが軽くなって、自在になっているような気さえする。しかし……しかし、なぜアルトなの? で、そういう私個人の勝手な思い、つまり、ゲイルはテナーでしょう! みたいなものがはっきりとあるにもかかわらず、本作はよかった。聞きおえて、自然にもう一度スタートボタンを押してしまったぐらい、心地よい瞬間の連続だった。これはさすがに、ゲイルはテナーだなどと言ってられんなあ、という、こちらの意識改革をさせてもらいました。そう、これからは「ゲイルはアルトでもいいかも」ということにさせていただきます。というか、こんなひたむきの演奏を聴いていると、テナーじゃないからなあ、などと言ってる自分が矮小な人間である気がしてくるのでした。すんまへん。

「REPENT」(JUMBA MUSIC/KNIT FACK FWCD122)
CHARLES GAYLE

 重い。めちゃめちゃ重い。山のように重い。あまりに重すぎて受け止められず、ゲエ吐きそうだ。そして、血みどろである。ジャケットのマウピをくわえた横顔を見ているだけで、なかの音が聞こえてくるようなアルバムだが、内容はもっともっと凄まじい。とにかく、どう言うたらええんかなあ、ひたすら「吹く」のだ。こういったタイプの即興(黒人音楽でアコースティックでフリージャズでテナーが中心)の場合、演奏するほうはたぶんいろいろ考えるはずである。ここでこう盛り上げて、とか、曲のバラエティとか、まあいろんな展開を頭にいれたうえでの即興のはずなのに、このおっさんの演奏からはただただ「ひたすら吹く」ということしか伝わってこないし、それがまたこちらの胸を熱くする。23分41秒の「リペント」という曲と50分35秒(!)の「ジーザス・クライスト・アンド・スクリプテュア」という曲の2曲しか入っておらず、ピアノレストリオなのだが、まあしかし、人間これだけのテンション(超ハイテンションである)をライヴで75分ものあいだ持続することってできるんですねえ。「こいつ、なんも考えてないなあ」というのをある意味半分ほめて半分揶揄的に使うことがあるが、実際にはまあそんなことはない。しかし、このおっさんはほんまになーんも考えてないんちゃうかと思えるぐらい、ただただひたすら……なのである。熱い。暑苦しいというぐらい熱い。そして単純である。吹くだけ、なのだ。それが聴くものにこれだけの感動を呼ぶとは……。すごいおっさんである。このひとが、後年、アルトに転向するとはだれが予想したであろう、と書くしかない、ほんとうに「テナーの音楽」である。かっこいいーっ!

「DAILY BREAD」(BLACK SAINT 120158−2)
CHARLES GAYLE QUARTET

 凄いメンバー。ベースにウィルバー・モリス、ドラムにマイケル・ウィンバーリー。これだけでも凄まじいことがわかるのに、なんとチェロにウィリアム・パーカー。パーカーは、チェロとピアノのみで参加し、ベースは弾いていない。チャールズ・ゲイルはテナーのほか、バスクラとピアノ、そしてヴィオラも弾いている。つまり、3人が弦楽器というパートもあるわけで、そういう部分のおもしろさもけっこうポイント高い。また、ある評論家は「個人的にはゲイルのピアノも、ましてやアルトサックスも聴きたいとは思わない」と書いていたが、本作ではヴィオラも弾いているし、そのひと的にはダメなアルバムということになるかもしれないが、私はゲイルのピアノはけっこう好きです。ただ、本作の価値がゲイルのテナーにあることは明白で、ひとつの音に百万の情念と怨念と愛憎を注ぎ込むような悲痛なブロウを聴いていると胸をかきむしられるような気持ちになる。ゲイルやデヴィッド・ウェアのテナーの咆哮を聴いていると、同時期以降のデヴィッド・マレイの演奏が薄っぺらく感じられてしまう。本作は、スタジオ録音で音もよく、メンバーも素晴らしく、演奏も丁寧かつ入魂なので、ピアノやヴィオラを弾いているからと遠ざけてしまうのはもったいない。タイトルの「日々の糧」というのは、たぶんキリスト教的な意味合いで使っているのだと思うが、ゲイルがホームレス生活を送っていたことを考えると、身につまされる(ジャケットの絵も、なんかそんな感じなのです)。ライナーにはゲイルのインタビューが掲載されていて、そこでも、「神」という言葉がしつこいぐらい繰り返されているし、彼の音楽がコルトレーン、ドルフィー、ファラオ、アイラーによって影響されていることも語っている。しかし、神への捧げものが、こういう風なぎょえーっ、ぎゃおーっ、きえーっという絶叫絶叫また絶叫によってあらわされるというのもなかなか興味深いものである。

「CHRIST EVERLASTING」(FOR TUNE PRODUCTION 0063040)
CHARLES GAYLE TRIO

 チャールズ・ゲイルの新譜。ベース〜ドラムによるライヴで、本人はアルトは吹かずテナーに専念しているのがうれしい(ピアノも4曲弾いてますが)。で、本作のポイントだが、ええっ? ななななんと「ゴースト」をやってる? ななななんと「オレオ」」をやってる? ななななんと「ジャイアント・ステップス」をやってる? いやいや、たしかにそうなんだが、そういうことじゃなくて、本作の一番き聴きどころは、「76歳にしてこの激演」というところだと思う。いやー、凄いです。(たぶん)ラーセンのメタルで、圧倒的な音圧で吹きまくるゲイルの姿には圧倒され、また、ほれぼれする。このジジイはほんまに凄いぞ。ブロッツマンよりだいぶ年上なのかあ。ピアノも、なかなかよいチェンジ・オブ・ペースになっているが、なんといってもテナーですね。どんな曲を取り上げようと、ぐちゃあっとした音色で咆哮するゲイル。いつまでも長生きして吠え続けていってほしいものだ。結局、こういうジャズがいちばんジャズらしいと思うのだ。ベースとドラムもリラックスしていきいきと演奏している感じが伝わってくるし、ソロあとに客の「いえーい!」「ひゅーっ」という、ごく普通のジャズを楽しんでいるリアクションをしていてすばらしい。これは札幌のJOEさんがレーベル直で取り寄せるというので便乗して購入してもらったのだが、いやー、買ってよかった。こういう演奏を聴くと、本当に感動するだけじゃなくて勇気づけられますよね。76になってもこういう風に吹けるんだ、という勇気をすべてのジジイフリージャズメンに与えてくれるゲイルに大きな拍手を!

「UNTO I AM」(VICTO CD032)
CHARLES GAYLE

 チャールズ・ゲイル驚きのソロアルバム。これは知らんかったなあ。たぶんその筋のひとには名高いアルバムなのだろうと推察。というのは、めちゃくちゃ内容がいいからで、ネットで検索するとけっこう入手しやすい作品のようだ。1曲目のテナーソロの凄まじいテンションからもう瞠目ものなのだが、そのあとのバスクラソロも、ここまでいくと楽器がなんであるかとか関係なくなるぐらいすごい。ピアノ〜ヴォイス、ドラム〜ヴォイスなども、ほかのゲイル作品ならば「ピアノソロはやめてテナーを吹いてほしいでがんす」とか思うところだが、本作においてはまったくそんな気にならない。いや、逆にすべてがすごいと思う。阿部薫のソロにおけるハーモニカとかギターとかピアノみたいなものかも。とにかく1曲目のテナーの、ノーギミックなひたすらシンプルかつパワフルな演奏が白眉で、何遍聴いても凄すぎる。ゲイルの演奏にいつも感じることだが、音に血が滲んでいるような、命を削って吹いているような凄みがある。テクニックを超えた感動がある……とい言いたいところだが、ゲイルの音楽表現の中心になっている「音」は、やはり技術の賜物なのである。3曲目はピアノをガンガン叩きながら叫んでいるのだが、父と子と精霊……的なことをいろいろ言ってるのだと思うが、途中で「カウント・ベイシー」と言っているように聞こえるのがどうも気になる。しつこく聞き返したが私の耳では前後がよくわからない。たぶん空耳アワー的な聞き間違いだろうねー。録音がいいので、たいがいの言葉はよく聞こえるのだが……。4曲目は多重録音のように聞こえるがよくわからん。しかし、多重録音であっても、聴いている分にはゲイルがずっとドラムを叩きながらテナーを吹き、シャウトしているようにしか聞こえない(どっちにしてもいい演奏に変わりはないですが)。それにしても異常な集中力である。5曲目もテナーソロで、凄いとしかいいようがない。とにかく何度聞いても、あー、こういう風に吹きたい、こういう演奏はどうやったらできるのか……としか思わんなあ。このシンプルな表現のなかに、学ぶべき要素がめちゃくちゃ含まれている。深すぎるぐらい深い。体力と気力がないとできない演奏。では、体力と気力が衰えたら演奏はできなくなるのか。それもまたちがうだろう。あー、考えさせられます。小手先の演奏とこういう深い演奏のちがいはどこにあるのか。それは…………………………………………わかりません! 傑作!