yoriyuki harada

「原田椅子」(OFF NOTE ON−9)
原田依幸ユニット

 断言します。傑作です。完璧なユニットの完璧な演奏をとらえた完璧な二枚組。原田依幸の作品のなかでは「怪物」とならんで一番好きかも。とにかくフリージャズのあらゆる見せ場がこの二枚のなかに詰め込まれていて、次々と変転していく様相を聴いているだけでめちゃめちゃ興奮する。ピアノでフリージャズ一筋でやっているミュージシャンは、今や世界的にも少ないわけで、やはりフリーはサックスやドラム、ギターなんかのものなのかもしれないが、そういうなかで原田依幸は徹底してフリーミュージックを追求している希有なピアニストである。彼の演奏を表現するときに、皆が好んで使う言葉は「疾走感」である。たしかに、聴いていると、「どひゅーーーーーんっ」とものすごいスピードで通り過ぎていく。その快感。セシル・テイラーの絶頂期とタメをはる全力疾走である(「Aの第二幕」を連想させるが、共演者の良さによってそれを凌駕している)。しかも、このユニットでは、4人全員が同じ方向を向いて、一カ所もとまることなく疾駆しており、その破壊力、一体感は筆舌につくしがたい。一瞬も手を抜かずにインタープレイが繰り広げられており、そのレベルの高さ、密度の高さ、集中力のすごさは、一曲聴くとへとへとになるほどである。原田は梅津和時とのコンビネーションで名高いが、音色がつねに一定で、かつ饒舌な梅津(饒舌さゆえ、かならず主役になってしまう)よりも、千変万化する音色が武器で、即興アンサンブルにとけ込む時岡秀雄のサックスのほうが原田との相性がよいのではないかと思えるほど。あまりに凄まじい演奏なので、滅多に聴かない(聴けない)が、原田の最高作というだけでなく、日本のフリージャズの傑作と呼んでさしつかえない。しかも、このユニットは現在でも不動のメンバーで活動を続けている。聴くべし。一曲、「インターミッション」という短い演奏が収録されているが(篠田昌巳がカセットで録音したもの)、そこでなかなか良いソプラノを吹いているのは原田本人である。さすが、国立音大クラリネット科卒業。その曲のドラムは森山威男で、考えてみたらこのアルバムは山下トリオの二大ドラマーが参加しているわけだが、そんなことはどうでもいいと思えるほど、このアルバムはすごいのです。

「無明」(OHRAI RECORDS JMCK−1017)
原田依幸・松風鉱一

 このアルバムは、私がライナーを書いているので、ほめないわけがない。というのは冗談だが、ライナーを書くために、ほんとによく聴いた。20回ぐらいは聴いただろう。今回、また久しぶりに聴き直してみたが、やはりよい。松風さんのフルートの無伴奏ソロによるイントロから、アルバムラストまで、ひとつのストーリーを聴いているような感じである。原田依幸のアルバムでは、「怪物」や「原田椅子」、「五日のあやめ」の三枚が私の大好きなベスト3だったが、このアルバムもそれに加えたい。松風さんは、いわゆるドルフィー的な跳躍過多のフレーズを吹ききるだけのテクニックと音楽性のある人だが、このデュオではそういったことは一切いさぎよく捨てて、フリー・インプロヴィゼイションに徹しきっている。アルバム一枚まるまる即興で押し切ったのははじめてではないか。原田さんはあいかわらず、「疾走」という言葉がぴったりで、実に劇的な、ダイナミクスあふれる凄まじい演奏。このふたりは、静かな部分も激しい部分も、自由自在で、聴いていて、魂をつかまれて、振り回されてしまう感じ。そして、ふたりの、これまでの長い長いミュージシャン生活で得たさまざまなものが、こうしたデュオにおいては素直に、豊穣にあふれ出ており、底なし沼をのぞきみるようだ。あんまり話題にならないかもしれないが、実にすばらしい、成熟したデュエットである。傑作と思う。
(以下CDライナーより)
 音楽は、絵だ。本来、0コンマ何ミリという薄っぺらい紙のうえに絵の具を塗りつけただけのものなのに、見る人に深い奥行きと果てしない空間の広がりを感じさせる。この稿を書くために「無明」を何十回も聴き返したけど、飽きるどころかそのたびに新鮮だ。それはこの音楽の持つ情報量とかじゃなくて、出てくる音が聴き手の想像力をちくちく刺激してくれるからで、狭い場所にたったふたりの演奏家がいるだけなのに、そこに広がる闇は、あまりに広く、深い。これほど「豊穣」という言葉がぴったりする音楽はない。大勢で音を分厚く重ねた音楽が、紙みたいに薄っぺらく聴こえることがあるけれど、このふたりの生みだした果実は、デッキが潰れるまで聴きまくっても汲めども尽きないはずだ。デュオというと、聴いていてへとへとになるようなテンション過多のものもあって、そういうのもよいのだが、しょっちゅう聴くというわけにはいかない。この「無明」は、もちろん心地よい緊張感はずっと持続されているが、疾駆するピアノとどっしりしたサックス(逆の場合もある)の応酬を興奮とともに味わっていると、なんだかどんどんリラックスしてきて、めちゃめちゃ楽しくなってくる。よくわからないが脳内物質がわーっと出てきているのだと思う。興奮とリラックスは両立するのだ。仕事でバテているときなどには元気をくれるし、毎日でも聴きたくなる、そんな演奏だと思うが、それを一期一会の即興で生みだしてしまうこのふたりの熟練というものには、ほんと驚くしかないのだけれど、そういう「いらぬこと」を考えながら聴いてはいけない。この演奏を通して聴くと、「無明」というタイトルの連想から、まったく明かりのささない暗闇に、最初、ぽつんと明かりがともり、次第に光を帯びた空間が広がっていき、しまいには光の粒子が目まぐるしく飛びかって、閃光とともに大爆発し、ふたたび静けさ(今度は闇ではなく、喜びに満ちた明るい空間)を取り戻す……といった一連の光景を思い浮かべてしまうが、それもきっと「いらぬこと」なのだろう。とはいえ、無心に聴こうとしても、ついついいろいろなことを想像させられてしまうのだ、このデュオには。

「イヒャン」(AKETA’S DISK AD−35CD)
原田依幸ユニット・フィーチュァリング・アンドリュー・シリル

 原田依幸は、現在の世界のフリーミュージックシーンを代表するピアニストだと思うが、このアルバムは今から16年ぐらいまえのもの。でも、原田の凄まじさにかわりはない。全一曲、59分一本勝負という、やるほうはもちろん、聴くほうにも体力のいるアルバムだが、あまりにおもしろいので一気に聴きとおしてしまえる。それぐらい充実しているし、だれる瞬間がない。セシル・テイラー・ユニットでおなじみのアンドリュー・シリルが参加しているが、最初のうち、正直いって、シリルがこのときあまりいいできとは思えなかった。演奏の主導権は徹頭徹尾原田が握っているし、シリルはあわせているだけ、それも必死になってあわせているような感じがする。リズムに切れもなく、テクニックも衰えており、ときにバタつく演奏は、「シリルもあかんのかなあ」と思わせる。とうていあの「Aの第二幕」の巨匠とは思えぬとまで感じた。逆に、石渡はベースもギターもすばらしく、原田を支え、ときにリードする。果たしてこのアルバムにアンドリュー・シリルは必要だったのか……そんなことまで思ってしまったが、18分を過ぎたあたりから徐々にシリルがよくなってくる。原田主導はあいかわらずだが、ぐんぐんシリルがのってくる。演奏もダイナミックになってきて、これこれ、これでんがな、と聴く側もつい力が入る。シリルが衰えているのはたしかだし、本当はここはリズムは倍だろう、とか、ファンクっぽくなるといまいちださい、とか、ここで一発ガーンと来て欲しいと思ってもショボーンとしかこなかったり、とかいう場面も多く、シリルが原田をリズムで引きずり回すような箇所はひとつもない(と思う)が、それでもシリルは全体的には原田としっかり手を結んでいて、深くわかりあっているようだ。なぜなら、どんな局面でも全体の音楽はめちゃめちゃ昂揚し、場面がどんどんかわり、新しい世界が次々と目の前に猛スピードで開けていくわけで、シリルがマジでこけていたらこんなことはありえないから。石渡のベースとギターはさすがで、完璧にフリーの場面でいきなり4ビートのしぶいランニングをはじめたり、ノイズの雨を降らせたりと、音楽の展開に大いに貢献している。一時間という長丁場を、ほんとうに一カ所もだれずに聴き通せるというのは、たいしたことである。こんな音楽、なかなかないのである。原田依幸はすごい。あと、アケタさんのライナーで「フリージャズは芸術的になりやすいと思いきや、実は仕かけがあまりないということから8ビートを合体させたりしたパワーを中心としたお祭りにしやすいこと、また逆に非常に軽いものに限定し絵画とマッチングしたりして環境音楽っぽくしやすいこと、等々の利用によりフリーは現在コマーシャルになりやすいそして厄介なことに原点がフリーという芸術っぽいイメージから、芸術としてしまう傾向。これが今の日本のフリーシーンに多い」とあるのは、まったくそのとおり。今から15年以上まえの文章だと思うが、現在でもまったく状況は変わっていないと思う。そういう意味でも、原田のピアノは日本のフリーミュージックの宝なのである。

「KAIBUTSU」(M’S/CRAFT’S MCCD−001)
YORIYUKI HARADA

 原田依幸のリーダー作のなかでもっとも好きなアルバム。この尋常ならざるテンションと構成力はただごとではない。タイトルにもなっている怪物というのは辰野治徳のことだそうだが、どう考えても原田本人のことのように思える。凄まじい集中力と凄まじいテクニックで一瞬のためらいもなく鍵盤のうえを駆けめぐる両手。こういう凄いミュージシャンが日本にいるというのは、そしてその旬を体感できるというのは、同時代に生まれた我々の幸せだが、ライヴの場に足を運べないひとにとって、原田の真髄を味わうには、本作がもっともふさわしいと思う(「原田椅子」「六日のあやめ」あたりもいいけど)。何度聴いても、あー、この凄さをみんなに伝えたい、聴いてほしいっ、と叫びたくなるような、ほんとうの傑作。

「THIS IS MUSIC,IS THIS?」(UNION RECORDS GU−2002)
生活向上委員会大管弦楽団

 高校生のとき、このアルバムを買ったことが私のターニングポイントだった、と思う。それまで山下トリオ、オーネット・コールマン、ドルフィー、ミンガス、コルトレーン、アイラー、シェップ……と額に皺を寄せて真剣に聴き入るようなフリージャズしか聴いたことのなかった私は、この作品を聞いてぶっとんだ。そうか、そうだったのか、フリージャズは愉しいのだ! 私にとって、この作品は梅津さんたちのそういう宣言に聞こえた。未だにはっきり覚えているのは、ライナーに載っていた篠田昌巳の自己紹介の文章で「ぼくは大肉中背、キレイなものは好き。キタナイものもきらいではない」という箇所。これには影響を受けました。その後すぐにこのグループが大阪に来ることになり、高校生の私は、そういった「コンサート」には自分で切符を買って行ったことがなく(たいがいだれかが取ってくれるとか、もらいものとかだった。芝居や落語会はチケットを買って行ったことはあるのだが、音楽ははじめてだった)、どうすればいいのかわからず、きっとものすごい数のファンが押し寄せるだろうからなんとか入手しなくては……と新聞に載っていた前売り券の発売開始日に興行会社に電話して予約した。当日、心弾ませて会場に行ったら、なんと最前列のど真ん中だった。演奏がはじまって一曲目のメロディーを今もはっきり覚えているが、このレコードには入っていない曲で、こないだ原田依幸の大怪物團を聴きにいったら演っていたので、原田さんの曲なのだろうな、マイナーの民謡みたいなメロディーの曲だ。最初にソロイストとして出てきたのが篠田さんで、小太りの、サングラスをかけた彼が、アルトのマウピを「ばくっ」という感じでくわえて、最初から最後まで唾を飛ばしてひたすら吹きまくる。一回もまともなフレーズを吹かず、ずっとフリーにブロウする、とりつかれたようなその姿に感動した。たとえていえば、シェップの「ワン・フォー・ザ・トレーン」みたいな感じか(そういえばグラサンかけてサックスを吹く姿が「ワン・フォー……」のジャケットと似ていたかも)。その一曲目でノックアウトされ、あとはひたすら興奮につぐ興奮。全員が振り付けをしてサックスを激しく上下させる「変態七拍子」には興奮の頂点になり、もう極楽状態だった。ボントロ吹きを肩車して騎馬戦をやる「アフリカ象」やアカペラの「生向委のうた」など、もう涙なみだ。あれで私のフリージャズ観が180度変わったのだ。山下さんはまだ「山下洋輔の世界」や「寿限無」を発表するまえで、まだまだハードボイルドな印象だったし、坂田さんがハナモゲラとかの即興ボーカルで、ややフリージャズに楽しさを注入しはじめたころだったと思うが、生活向上委員会は徹底していた。テレビにも何度も登場していたし(ヤング・オーオーにまで出たのだ。あのときの映像は残ってないのかな)、ステージには大仏が出たりラドンが飛んだりした。私もすっかり影響されて、彼らのステージ衣装を真似て、ドテラを着て、サングラスをかけて、高校3年のときの文化祭に出て、ジェイムズ・チャンスとコントーションズのコピーバンドで「もみじ」を吹いた(坂田さんの「赤とんぼ」の真似ですけどね)。そんなこんなでいまだに「フリージャズは愉しい」と信じ、それをみんなに言い続けている私だが、その原点のひとつは確実にこのアルバムにあるんですね。生向委はその後二度ほど生で観たが、やはり最初に見たときの衝撃というか脳天から竹割り的なショックは忘れがたい。で、このアルバムだが、当時は冗談音楽的に扱われた面もあったかもしれないが、今聴くと、相当前衛で相当フリーである。とくに一曲目の「安田節」はまさにハードな前衛ジャズで、これを一曲目に持ってきたところに彼らのポリシーを感じる。アケタケタ行進曲での梅津さんの瑞々しいアルトソロもいきいきしてすばらしく、当時はアルトを吹いていた私は、毎日、ああ、こんなふうに吹きたいなあ、こんな音を出したいなあ、とあこがれていた。しかし、このグループの真髄は、ぜったいに生で観ないとわからんと思う。サン・ラと同様に。だから、現在、このアルバムだけを聴いても、彼らのものすごさはたぶん半分も伝わらんとは思うが、ないよりずっとましだ。あと、正直、彼らのライヴパフォーマンスの凄まじさをアルバムにパッケージすることはなかなかむずかしいとは思うが、当時の音源を発掘して、どんどん出すことによって、それはある程度まかなえるのではないだろうかと思う。きっとあちこちに音源があるはずなので、「フォーバス知事の寓話」とかいろいろ出してほしいものです。うちにすらラジオでエアチェックした音源があるぐらいだから、あるところにはきっとあるはず。今後の発掘に期待してます。だれがリーダーというわけではないだろうが、「リーダー格」のひとりとして原田さんの項に入れておきます。

「DANCE DANCE DANCE」(UNION RECORDS GU−2004)
生活向上委員会大管弦楽団

二枚目にしていきなり規模が縮小されてしまった生向委だが、内容的にも「ひよった」と思ったファンが多いのではないか。しかし、私はこのときまだ高校生。すっかりはまっていたので、あまりそういうことは思わなかった。ただ、メンバーが減ったのが悲しかった。いちばん好きなのは「ワナオキ」。この曲のテーマを真似して吹くことで、高校のとき、沖縄の音階を覚えることができ、それでいろいろ遊んだ。「シャッキン・トゥ・ミー」も気がつくとつい口ずさんでいることがあるほどよく聴いた。ギャグのようで、なかなか身につまされる歌詞だ。「チュニジアの夜」などは後半やや諧謔的な展開があるものの、基本的にはごくまっとうなビッグバンドジャズで驚くが、今の耳で聴くと……ということであって、当時はそんなことなんにも考えずに楽しんでいた。無理やりにでもあと一枚出してほしかったなあ。

「FDS」(META花巻アケタ MHACD−302(AD−61CD))
原田依幸、鈴木勲 1999 ORCH.

 アケタの店25周年記念イベントでの演奏を、記録用に録音したものだが、当日現場にいた明田川さんがあまりのすばらしい演奏に感激し、なんとか世に出したいと願って、CD−Rという形で発売したものらしい。録音は悪いが、それを上回る、えげつない昂揚感がびしびし伝わってくる。よくぞまあリリースしてくれたものだと感謝しまくりです。2曲しか入っておらず、1曲目は基本的には原田〜鈴木〜小山彰太のトリオによるガチ即興。そして2曲目はそれに4管とギター、キーボードを加えた編成による即興だが、これが死ぬほどいい。ああ、こういうことって起こるんだな、という「奇跡」である。こういう演奏を聴くと、ほんと、音楽上のことだけでなく、いろいろな「奇跡」を信じられる気分になる。すごいメンバーを集めたからといって、コレが起きるとは限らないし、同じメンバーでも今日はそうなっても明日はまるでダメということもありうる。それが即興というものであって、商業的な音楽だと、そういうダメな可能性をなるべく低くするために、すぐれたメンバーを集め、リハをしたり、譜面である程度の再現性をキープしたりするが、即興だとダメな可能性が99であっても、1の居合わせた全員、演奏している側も「シンジラレナーイ」という異常な高まりを示す場合があるのだ。そんなことないって。それは即興というものを神秘化しているだけだって。そういう意見もあるだろう。でも、そうじゃないのです。このアルバムはその証拠なのである。だからみんな、即興にこだわるのである。もちろん即興のほうがえらい、とか、譜面はカスだとか、そういうことはありえない。でも、こういうことが起きる瞬間をやる側も聴く側も、ずーっと待っている。これを信じてライヴハウスに足を運び、CDを買う。それが即興演奏のファンなのだ。いやー、因果な性分ですなあ。とにかく、ぜひ聴いてみてください。なにしろ証拠物件だからね。

「MARGIN」(OFF NOTE ON−61)
YORIYUKI HARADA TRISTAN HONSINGER

 だれがなんと言おうと傑作です。原田依幸〜トリスタン・ホンジンガーの組み合わせは「慟哭」というのがあったけど、あれは鈴木勲のリーダー作のトリオで、こちらは完全なデュオ。原田がピアノをちょっと弾くとそれに触発されてホンジンガーが饒舌にチェロから言葉をあふれさせ、逆にホンジンガーがちょこっと弾いたフレーズが原田から怒涛のソロを引き出す。そして互いに雄弁になり、ひとつの洪水のような音楽がリスナーを押し流す。あるときは異常なまでに冷徹で、氷のように冷たく、メカニカルな「音」の奔流となり、あるときは人間的な叫びやつぶやきや恨みやたわごととなり、あるときはひたすらインタープレイに徹し、あるときはそれぞれのソロとなり、ヴォイスも交えて、たったふたりなのにオーケストラを聴いているような迫力と壮大さがある。いちばん感じるのは信じられないぐらいのスピード感と、冷酷なまでにクールで知性的な部分とレスター・ボウイのような血の通った諧謔精神や熱情や涙の同居だ。竹中英太郎のすばらしい絵をふんだんに使ったジャケットやブックレットも見ごたえ十分。凝りに凝った作りのアルバム。CDの演奏は35分だが、長さではない。凄い演奏が詰め込まれているのだ。DVDには同じときの演奏が収録されているのだが、併せて味わう必要がある。原田さんが裸足でピアノを弾いていることやら天を仰ぎ見ながらチェロを弾くホンジンガーの表情やら立ち上がってがチェロを持ったまま(?)移動しながら弾く動作などがわかってすごく面白い。録音もすごくよくて、興奮しまくり。でも、カメラ1台だけなんですね。いや、それで十分ですが。傑作です。

「MIU」(NIPPON COLUMBIA COCB−54138)
YORIYUKI HARADA

 高校生のときに生活向上委員会のライヴを体験したことが人生の大きな節目となった私にとって、このアルバムへの期待はめちゃくちゃ大きかった。折しも、オーネット・コールマンが「プライム・タイム」を、坂田明が「テノクサカナ」を、デヴィッド・マレイやジェイムズ・ブラッド・ウルマーが「フリー・ランシング」を、オリバー・レイクが「ジャンプ・アップ」を、ソニー・シャーロックとブロッツマンが「ラスト・イグジット」を、チャールズ・ボボ・ショウが「ヒューマン・アーツ・アンサンブル」を、シャノン・ジャクソンが「デコーディング・ソサエティ」を……という具合に、フリージャズのミュージシャンが皆、こぞっとフリージャズ+ファンク的な音楽をはじめたような印象があり(ここにあげたものは時代的にはかなり前後があると思うけど)、そんななかでの「あの原田依幸」の初リーダー作がそっち寄りになるということでの期待だったのだ。ジャケットもタイトルもかっこよすぎて、期待は異常に膨らんだ。しかし、(学生のころの印象としては)その期待は肩透かしを食った。「変態七拍子」や「ワナオキ」といったなじみのある曲も演奏しているのだが、非常におとなしくて、生活向上委員会のような爆発力に欠け、フリージャズ+ファンクとしてもたとえば同時期の「フリー・ランシング」などのようなえげつないまでの揺さぶりと強烈なビート感がない。トニー木庭のドラムも山内テツのベースも私が勝手に思っていたよりも「普通」だった。たぶん、あのころはとにかくわけのわからないもの、えげつないまでにすごいもの、うるさいものを求めていたのだろう。私はこのレコードを売ってしまい、それから月日が流れた。そして、ついに「ミュー」がCDで再発されるときがきた。しかも、ラストにピアノソロがプラスされているという。今聴くとどんな印象なのだろう。あのころの私が馬鹿耳だったことが証明されるのか。それとも印象は変わらないのか。わくわくどきどき。――ということで聴いてみると、うーんなるほどなあ。半分当たって半分はずれた感じ。つまり、これはあの頃流行っていたフリージャズ+ファンクではなく、原田さんはもっとグルーヴ感を前面に出した演奏をしようとしていたのだろうな。一曲目なんかは、もろにそういうのが伝わってくるし、当時はめちゃくちゃ地味に聞こえた初山博さんのザイロホン(?)も、よく聴くとかなり変態的である。ドラムとベースはひたすらグルーヴに徹している。全体としてはやはり爆発はなく、ピアノやバスクラが暴走しても、それはうねりのようなグルーヴのなかに飲み込まれていく。そういう演奏が狙いだったとしたら、ちゃんとそうなっているのだ。ほかの曲も、原田さんは相当狂ったプレイをしていて、今聴くとじわじわと良い。やっぱり私の耳は馬鹿耳だったのだなあ、とあらためて認識した。でも、たしかに全体に狂気や爆発は感じられない。その理由はやはりドラムとベースで、グルーヴ優先なのだ。何度も聴き直したが、そのグルーヴはたいへん心地よい。ピアノ一台であれだけの凄まじい演奏を繰り広げる原田さんが、あえて初リーダー作にこういうセッティングを選んだのだから、そこには確信があったのだろうとも思うし、今となっては先見の明だったのだ。そして、ラストのピアノソロは、なんとも心が苦しくなるようなバラードで、これを聴いて、やはり確信的なのだと思った。

「1983」(OFFNOTE NON−24)
原田依幸WITHモンドリアン・アレオパディティカ・ストリング・カルテット

 1983年のライヴ。聴いてびっくり。原田さんはピアノではなくクラリネットなのだ。しかも、ひたすらグロウルしながらずっと吹きまくっている。そこにはクラリネットのさまざまな裏ワザ的テクニックが盛り込まれていて、やっぱり上手いなあ……と思う。表現力が抜群なのだ。バックは4人の弦楽器で、3拍子のマイナーの哀愁パターンをずっとキープしているが、なんと翠川敬基、望月英明、山崎弘一、米木康志という剛の者たちである。このクラリネット+弦楽器四人という編成がとても効果的なのだ。いかにもあのころの日本のジャズ、という感じの熱い、変態的な部分もある演奏で、しかも今に続いている道でもある。二曲目はカークの曲で、原田さんはピアノ。これも哀愁の演奏。本作の白眉はやはり三曲目で、いきなりとてつもない疾走ぶりの激しい演奏が展開する。スピードが半端ではなく、耳が追いつけないぐらいだ。原田さんというひとは途中でダレたり、失速したりすることなく、どんな長尺でもそのあいだを緊張感をキープしながら走り続けるが、ここでもまさにそういう演奏で、二〇分以上を駆け抜ける。弦楽器もそれぞれに爆走して、ここがクライマックスでは、と思わせるようなものすごい瞬間が何度も何度も訪れ、ピアノも弦楽器もどんどん盛り上がっていき、いったいこれはどこまでいくのか、この先どうなるのか、ここは天国か……と聴いてるほうが心臓がばくばくしはじめたころに、やっと演奏は終わる。この三曲目だけでも、よくぞ出してくださいましたオフノートさま、と拝みたくなるようなすばらしいアルバムです。

「SEIKATSU KOJYO IINKAI」(OFF NOTE NON−25)
生活向上委員会ニューヨーク支部

 こういう復刻をちゃんとやってくれるからオフノートはえらいとしか言いようがない。梅津和時と原田依幸がロフトジャズ全盛のニューヨークに渡り、アーメッド・アブダラー、ウィリアム・パーカー(!)、ラシッド・シナンらと録音した記録である。1曲目の原田の曲「ストラヴィザウルス」はストラヴィンスキー+恐竜ということだろうか、いかかにも原田依幸らしいテーマから、梅津の張り切ったソロが飛び出してきて、あとはひたすら疾走する。はつらつとしたアルトソロを聴いていると、梅津さんの今へと続く音楽の一本道の最初の門が開いた瞬間に立ちあったような気持ちになる。アーメッド・アブダラーのトランペットソロになるとまた場面が変わり、全体がよりいっそうアグレッシヴになる。このひとはずっとハイテンションでとてもすがすがしい演奏で、原田さんをはじめ共演者ともものすごくからみまくっている。そのあと、パーカーのアルコベースと原田さんのデュオ(本当はドラムも入っているが)のようになるのだが、ここはもうすばらしいとしか言いようがない。そして、トランペットとアルトが第2リフ(テーマを半分のテンポでやってるみたいな感じ)のようなものを吹きはじめ、ピアノ〜パーカーのからみが壮絶な様相を帯びていく。めちゃくちゃかっこいい。だんだん原田さん主体のピアノトリオのようになっていき、一旦音がなくなってから、テーマに戻り、ドラムソロを挟んでぐちゃぐちゃの集団即興になり、またテーマにばっちり戻って終了。2曲目は重いピアノの低音部ではじまり、ストイックな原田のピアノソロがはじまる。のちのあの凄まじいソロをすでに髣髴とさせるすばらしいソロで、ぶっ速い場面転換が繰り返されてどんどん昂揚していったところに満を持して梅津のサックスが登場し、デュオになる。これが先日、ドン・モイエを迎えてのトリオ公演の第一部にまでつながる演奏なのかと思うと感動するしかない。もう、このアルバムの時点でものすごい高みに達しているのだ。梅津さんのアルトの音も、すごくリアルにみずみずしくとらえられていて、入魂の演奏であることがわかる。デュオが爆発したあたりで、ドラムとベースが入ってきて、アルトはそのまま狂乱のブロウとなり、ピアノは自分のソロのごとく疾駆し、ドラムは猛烈に叩きまくる。いやー、聴きていてコーフンのるつぼです。10分を過ぎたあたりから一旦狂熱状態が沈静化するのかな、と思える瞬間があるのだが、結局またそのまま盛り上がり、怒涛の集団即興が続く。そして、アーメッド・アブダラーのトランペットにバトンタッチされるが、原田は管楽器がチェンジしたことを気にもとめてないようにガンガン弾きまくり(もちろん気に留めてないわけはないが)、4人での爆走は終わらないのだが、15分ぐらいでまた場面が変わり、ピアノが消え、ベースとトランペットのデュオのようになる(ドラムは残っているけど)。アブダラーのトランペットはわき目もふらず一直線に力技でブロウし続け、またピアノが戻り、集団即興は続くのだが、18分ぐらいでアルコの痙攣したようなフレーズをバックにトランペットが濁った音色でマイナーなフレーズをゆったりと奏で出し、最後はウィリアム・パーカーの大胆でかっちょいいアルコソロになり、それが消えると今度はパーカッションのソロになる。そこにアルトとトランペットが入り、パッと演奏は終わる。3曲目は「ダンケ」でもやってた「ノット・ソー・ロング・ダン」で、原田はバスクラを吹いている。これはテーマだけの2分もない短い演奏だが、アルバムの締めくくりにはふさわしい(ダンというのは梅津さんがバイトしていたニューヨークの日本料理店で、またすぐ戻ってくるよ、ダン……というような意味のようだ)。どちらの曲も、ときどきほんのちょっとだけダレるような瞬間があるのだが、これは私はロフトジャズの特徴だと思っている。まったく悪いことではない。「ワイルド・フラワーズ」とか聴いてもそういう感じのところがあるけど、これは真摯に?き出しの即興を行っている証拠だと思う。そういう部分も含めてのロフトジャズではないだろうか。ふたりがロフトジャズをちょっと齧ったとか、真似てみた、とかそういうことではなく、その渦中にどっぷりつかって、まさにロフトジャズを体現していたことの現れだと思う。本当に意義深い復刻で、オフノートに拍手を送りたい。このアルバムはしみじみと傑作だと思うし、このアルバムが2016年にストレートにつながっているのだということをまざまざと思い知らされる。傑作! なお、原田・梅津対等のリーダー作だと思うが、便宜上、原田依幸の項に入れた。

「東京挽歌」(OFF NOTE ON−69)
原田依幸 川下直広

 ピアノが弾く5つの音で演奏がはじまる。そこに、か細い高音でテナーが絡む。戯れるような音の流れに身をゆだねていると、徐々に強い音、厳しい音、激しい音、リズミカルな音が闇夜の蛍のようにあちこちに現れはじめ、やがて叫ぶような表現や奔流のような表現が噴出して聴き手を押し流す。しかし、ところどころにメロディの断片が明滅し、それに気づいた我々の心が揺さぶられる。メロディ、つまり、「歌」は、小説における「物語」のように、普段は「必要ない」と思っていても、ときどき彼方を照らす灯台や道しるべのように作用する。これは生身の音楽であり、剥き出しの演奏であって、ふたりともなにも隠していないし、出し惜しみもしていない。よく、ジャズはその場その場の反応だ、などというが、実際にはいろいろな思いが奏者それぞれの頭を巡っているし、譜面や綿密な打ち合わせがあったりする。しかし、この演奏は本当に今その瞬間に思ったことをぶつけ合っている。それでは単なる反応ではないか、と思うかもしれないが、その反応にはそれぞれの人生が賭けられているのだ。2曲だけ、時間にしてたった30数分のなかに、4時間のオペラに匹敵するようなドラマがあり、聴くたびにどうしようもなくのめりこんでしまい、聴き終えるとへとへとになる。あまりにアコースティックであまりに人間的な音楽なため、ここにいるふたりの演奏家、というかふたりのヒーローに感情移入して聴いてしまうからだ。ライナーノートにおける沖至氏の原田依幸評には「どデカイ筆で描いた墨絵」とあったが、私はこの表現は川下直広のサックスにも当てはまると思った。激しい感情が凄まじい炎のように噴出する部分ももちろんたくさんあるのだが、いわゆる「激アツ」とか「パワーミュージック」とか「戦い」とか「反抗」とかいうものとは少し違い、ぐちゃぐちゃしたクラスター的な表現の底にも透徹した美しいものが一貫して流れているように思う。それを沖至さんは「どデカイ筆で描いた墨絵」と表現されたのではないか。デュオという自由な形式をふたりとも存分に楽しみ、味わっていて、本当に好きなように演奏しているのがよくわかる。その結果が、こんなすばらしい音楽になる、というのはふたりのこれまでの蓄積と鍛錬と音楽性のたまものだ。録音も生々しく、ふたりの演奏家に手を伸ばせば触れられ、その温かみが感じられるような気さえする。とくに川下さんのサブトーンによるテナーの息遣い、太く豪快な音、スクリームの迫力……などがあからさまに捉えられていて感動的だ。最後の最後に出てくるむせびなくような「夢は夜開く」は、藤圭子というより三上寛のそれのように、安いアルコールの匂いが充満するなかでのざらざらした声による絶唱に聞こえ、聴いていて思わず「おおっ」と声が出そうになるほど感情が高ぶってしまう。そんな、場末の酒場に崇高なものが降臨したようないびつな輝きによって本作は締めくくられる。凄い。ジャケットはもちろん、ブックレットはさながらつげ忠男ギャラリーのようで、それを見ながら聴くとよりいっそうこの作品の世界に浸れること間違いなし。札幌のJOEさんは本作についてのレビューで「タイトルに嘘偽りなく、これが日本のブルースだ、といえようか」と書いておられて、それがあまりに的確なので、正直、私が付け加えることはなにもないのだが、同じことを書くわけにもいかず、こうしてぐだぐだ思うことを書き連ねてしまった。要するに、言いたいことはなにかというと……傑作!