billy harper

「BLACK SAINT」(BLACK SAINT BSR001)
BILLY HARPER

 このアルバムを聴くと、いつも笑ってしまう。75年に吹き込まれたビリー・ハーパーのリーダー作としては2作目のアルバム(1作目は「カプラ・ブラック」)。イタリアの有名なブラックセイントというレーベルの第一弾であり、つまりブラックセイントというレーベルはビリー・ハーパーのこの作品を吹き込むために設立されたのだ。すげー。大学生のときにこのアルバムをはじめて聴いたとき、その曲調のあまりに真面目さ、ソロのシリアスさというかシビアさに、かなり引いてしまった。なんというか、ストイックすぎて、たとえばそのソロにしても、ファラオやアイラー、ブロッツマン、デヴィッド・ウェア、ガトー・バリビエリらのような、ここで一発「ぎゃおおおおっ!」と吠えたら快感じゃーっ、みたいなアホなことはとことん避けようというストイックな姿勢が見える。正直、私はそういう「フリークトーン一発の快感」みたいなものをテナーには求めているので、たしかにシリアスに楽器と、音楽と向き合うのもすごいことだが、そういうアホな部分を削ぎ落とすというのはなんかもったいないなあと思ったのである。そして、ジャケットをひっくり返して、曲名を見て、思わずわははははと爆笑してしまった。1曲目は「ダンス、エターナル・スピリッツ、ダンス!」である。「踊れ、永遠の精霊よ、踊れ!」というわけで、いやー、自分の曲にここまで大げさなタイトルをつけるジャズミュージシャンがそれまでいただろうか。たいがいは「なんとかストンプ」とか「なんとかバウンス」とか「なんとかジャンプ」とかだったわけで、あのコルトレーンですら「ラブ・シュープリーム」とか「メディテイションズ」とまではいったが、「ダンス、エターナル・スピリッツ、ダンス!」とまではつけなかった。(これは、かなりおもろいやつかも)学生のころの私はそう思い、ハーパーを追いかけるようになったのである。これは憶測だが、ハーパーはものすごーく真面目なひとなのだ。コルトレーンも真面目だったが、あのひとの場合はどこか突き抜けたところや、麻薬や食い物、酒などに走ってしまうエピキュリアン的なところや弱さもたくさん持ちあわせていた。また、ユーモアセンスもあった。そういうなかでのもがきながらのシリアスさなのである。しかし、ハーパーはコルトレーンの真面目な部分をそのままずどーんと受け入れたのではないか。それは、(この例えがわかるひとが何人いるかはわからないが)西川きよしの息子の西川忠志が、きよしのものすごくきまじめな部分(小さなことからコツコツと、まがったことは絶対にしないし、嘘もつかない)をずどーんとそのまま影響されているが、実際には父親のきよしは、浮気もすれば博打で莫大な金額を一瞬でパーにしたりという不真面目でダメ人間的な部分もたっぷり持ちあわせており、それが芸人臭さというか魅力のひとつであり、そういう自分のダメな内面をふまえての、あの真面目さなのだが、息子にはそういう部分は伝わらない……というのと似ていると思う。真面目一徹の芸人に、横山やすしの暴走を食い止め、軌道を修正し、笑いに変える力はないのである。結局なにがいいたいのかというと、ビリー・ハーパーの徹底的なストイックなまでのシリアスさというのは、私が思わず笑ってしまうレベルのものなのだが、そういうところもまた愛すべきミュージシャンなのだと思う。なにしろ、このアルバムでの3曲のコンポジションのかっこよさ、そしてひたすら吹きまくるテナープレイの真摯さと過激さと暑苦しさは目をみはるような凄まじさがある(あまりにひとりで吹きまくっているときに没入しているので、はっきり言ってトランペットはいらんかったんとちゃう? と思うのだが、曲のアレンジ的には必要なのかも。もちろんトランペットは悪い演奏ではありません)。とにかく想像を絶するようなエネルギーを放散しているテナープレイである。と、ここまで書いてきたことでもわかると思うが、私はビリー・ハーパーはちょっと苦手といえば苦手なのである。同時代の、モードっぽい音楽の旗手であったウディ・ショウ、チャールズ・トリバー、ハンニバル・マービン、ジョー・ヘンダーソン、ソニー・フォーチュン、ゲイリー・バーツ、チコ・フリーマン……などなどといった「フリーにいかない黒人ミュージシャン」のなかでは、なぜか一番苦手である(今挙げたミュージシャンは全部めちゃめちゃ好きで好きで愛してる。フォーチュンとバーツはアルトだが、それでもまあ、うん、好きは好きだ)。なんでやろうなあ。どう考えても私が好きそうなタイプなのに。日本制作のやつはじつは全部好きで、たまに聴くと味わい深いなあと思うが、なんというか全体的に、それほどのめりこまない感じのひとなのだ。これも推測だが(自分の考えや嗜好に対して推測というのも変な話だが)、やっぱりあまりにストレートすぎるテナーの音の出し方(それと音そのものの愛想のなさ)、そして、フレーズが熱くなればなるほど一本調子になる感じが、ちょい苦手なのだろうと思う。あと、一番「ああ、これはきつい!」と思った事件というのがあって、それはハーパーが来日したときのライヴを観たときの印象で、あれはほんまにきつかった。あれがかなり影響していることはまちがいないが、そういう苦手なハーパーのなかで、本作はじつは一番好きなのです。すいません、めちゃめちゃよく聴いてます。この大げささが好きなのだ。笑うしかないほどの真面目で真面目で真面目で真面目な吹きっぷりがいいのだ。3曲目のタイトルなんて「野性的で平和的な心の呼び声」ですよ。なんのこっちゃねん! ねんのねん! 最後にドラムとテナーのバトルになるが、この汗だくの暑苦しさ、息苦しさは、ほんと最高なのである。ここまで音楽に、楽器にひたむきに、真摯になれる男、ビリー・ハーパーはやっぱりすごい。ジャケットの、シルバーのテナーを持って立っている写真だけで、十分それが伝わってきます。

「IN EUROPE」(SOUL NOTE SN001)
BILLY HARPER QUINTET

「ブラック・セイント」がブラック・セイント・レーベル設立第一弾なら、本作はブラック・セイントの姉妹レーベル(?)であるソウル・ノートの第一弾で、ここのオーナーがよほどハーパーに思い入れをしているのがわかる。彼の初リーダー作「カプラ・ブラック」は錚々たる豪華メンバーを擁してストラタ・イーストから発売された。第二作の「ブラック・セイント」も、ツアーメンバーだったが、トランペットにバージル・ジョーンズ、ピアノにジョー・ボナー、ベースにデヴィッド・フリーゼン……という豪華さだ。しかし、本作はそれほど名のあるミュージシャンはいない。エヴレット・ホリンズというトランペットは、このころのハーパーのレギュラーで、当時のアルバムにはほとんど入っているが、かなり変わった(大味な?)演奏をするひとだし、ドラムのホレーシー・アーノルドというひとは超有名だが、どうもビリー・ハーパーの音楽性に合っているようには聞こえない(録音のせい?)。正直、ハーパーのテナーだけを聴きたいアルバムなのである(あとはピアノ)。しかし、これもこの当時のハーパーのアルバムの常として、長尺の演奏が多く、本作も3曲目はB面いっぱいを占める長い曲なのだ。それと、ハーパーのソロも、いつにもましてスケールの上下運動を繰り返す(しかも、それにものすごい熱意をこめる。さらっと吹くのではなく、スケールやパターンを吹くだけでもめちゃめちゃ暑苦しく聞こえる)ことが多く、さすがに集中力が失せてくるが、いやいやこんなことではいかんと自分にカツを入れてスピーカーに集中する。グロスマン、リーブマン、ブレッカー、ジョー・ヘンダーソン……などではこういう禅の修行のような聴き方にはならない。不思議なのだ。こっちから集中して聴いてしまう。ハーパーだけが、こんな風に、ちょっと集中力を削がれてしまう。あまりに徹底して熱いので、それが当たり前のようになり、どこを聴いても同じな一本調子に聞こえてしまうのだろうか。逆に、そういうタイプの演奏は好きなはずなんだがなあ……。音色の変化や全体のダイナミクスが不足だからなのか……。わからん。ビリー・ハーパーはほんまにわからん。本作は、「プリースティス」をはじめ、ハーパーの有名曲が3曲入っていて、どれも熱い。有名曲といったのは、まあ、このひとは同じ曲(自作の)を何度も何度も、それも同じような編成、顔ぶれで吹き込むからでもあるのだが、やはりいい曲であることはまちがいない。とくにB面を占める「イルミネイション」はモードナンバーだが、ここでのハーパーの純粋な情熱のこもった徹底的な吹きまくりは、このエネルギーを発電かなにかに使えないものかと真剣に考えてしまうほどに、無駄なエネルギーの放散が延々と行われていて、もちろんそれはとても感動的ではあるのだが、もうちょっと、その、ハーパー先生、抑えていただいてもだいじょうぶかと……とそっと耳打ちしたくなるような、とめどないエネルギーの浪費である。そう考えると、たいへん凄いことではある。とにかく、このメンバーだと、ハーパーが曲を書いて、ソロをして、ひたすら吹いて、客を満足させるしかないのだから、それをきちんと実行しているハーパーはえらい。もうええやろ、この曲は十分やったから、というところを、いやいや、このあともう一回ドラムとデュオにして、そのあとラストテーマをしつこくしつこく繰り返すからよろしくっすーというタフでバイタリティの塊のビリー・ハーパーに拍手を! 客はもう死んでまっせ、という言葉は彼の耳には絶対入らないのだ。