「入念」(MAKIGAMI RECORDS MKR−0003)
ヒカシュー
3曲入りのシングル盤。最新アルバムの「転々」は、(たぶん)歌詞も含めてほとんど即興で作られ、しかもヒカシュー独特のサウンドになっているという点で稀有の作品だったが、本作はイントロから歌詞からメロディーから、なにからなにまで昔のヒカシューのサウンドだ。しかも、そこに「転々」的なほんわかした要素が加わり、そのうえあいかわらず皮肉な視点も健在、というわけで、ヒカシューファンにはまたとない贈り物となった。まあ、第一作からずっとヒカシューを追いかけている我々としては、巻上公一や三田超人がそのときそのときどんなことを考え、なにをしたいか、その結果でてきた作品をそのまま味わう……これにつきるのだ。3曲のなかでは表題作の「入念」が気に入った。歌詞も、あの「出来事」を思わせる傑作。
「生きること」(MAKIGAMI RECORDS MKR−0004)
ヒカシュー
ヒカシューの最新作。前作「転々」は、即興の要素をかなり前に押しだしてはいるが、きちんとした歌詞があり、ヒカシューとしてのバンドサウンドになっている、という稀有なアルバムだったが、本作は、「転々」の後に出た「入念」というシングルのコンセプトに近い。つまり、「転々」が、即興と作曲(作詞)というものの融合という意味で、かつてのヒカシューの実験的な作品から一歩進み出た画期的なアルバムだとすれば、このアルバムは、その考え方はそのままに、よりヒカシュー的になった(と書くとなんのこっちゃと思われるかもしれないが、ものすごく新しいし、前衛的、実験的なのに、サウンドの響きは昔のヒカシューのように聞こえる)という点で凄い。ついにここまで来たのか、という感じである。長く続ける、というのは、どんどん古びていって、マンネリになって、ダメになっていく場合が多いと思うが、ヒカシューのように、どんどん進化して、どんどん新しく、おもしろくなっていく場合も、ひじょーに珍しいことではあるが、あるのだなあ、と感動した。こうなると、長く続ける意味もあるなあ。なにしろヒカシューはずっとヒカシューなのだから、そんじょそこらの昨日今日できたバンドなどでは太刀打ちできないオリジナリティと破壊力をもっているし、そのうえ常に新しいとなったら、無敵に近いではないか。小説家も、かくありたいものだ。かつてのヒカシューファンも、このアルバムはぜひ聴くべきです。一曲目の「生きること」の「擬態する/まるめこむ/理解遠のく/心揺れてく」という歌詞がまずすばらしくて、「まえにいたのは」がもっとすばらしくて、「入念」はシングルで聴いていたがこれまたすばらしくて、「ベトベト」や「カモノハシ」もすばらしくて、「故事によってその卵を茹でる」というわけのわからないタイトルの即興曲のラスト「ぐるんとまわしたなこいつー」というセリフ(?)にしびれ、ラストの「オーロラ」(「氷がだんだん溶けていく/海にはモグラが浮かんでる」という冒頭の歌詞にひっぱたかれます)で、うわー、やっぱりヒカシューはええなあ、と叫ぶ。毒、皮肉、揶揄、怒り、悲しみ、ダダ的でたらめ、テクノ、即興、演劇、口琴、ラッパ……すべてが入った名盤だと思います。最近はこのアルバムを一日一回は聴かずにはおれぬ状態で、完全に中毒してしまったようだ。
「HIKASHU HISTORY」(TZADIK TZ7235)
HIKASHU
ヒカシューはわが青春なのだが、彼らがいまだにグループを維持していて、しかも内容は日々進化・変貌しつづけており、つぎつぎと傑作を出してくれる、というのは、自分の青春がいつまでも過去のものとならずに存続しているような気がしてとてもうれしい。このアルバムは、ヒカシューがデビュー以来のライヴや放送録音その他をぐじゃぐじゃと集めてきた一種の寄せ集めだが、聴いてみると意外なほど筋が通っており、組曲っぽい仕掛けもあって、コンセプトアルバムのようにも聞こえるほどだ。おそらく膨大な音源から厳選したのであろう、どの曲を聴いても、オリジナルのものと比べても甲乙つけがたい出来ばえで、新しいなにかが加わっていたり、まるでちがう展開になっていたり、とヒカシューファンは必携である。こうしてヒカシューの「歴史」を一枚のアルバムで味わってみると、いまさらながらに偉大なグループだと思う。メンバー的にも初期メンバーから最近のメンバーまでが俯瞰できるし、コアなヒカシューファンにもはじめて聴くファンにもおすすめ。
「転々々」(MAKIGAMI RECOREDS MKR−0006)
ヒカシュー
最近のヒカシューが一貫して取り組んでいる「即興」と「コンポジション」をがっつり組み合わせた路線の作品。あの傑作「転々」の続編である。きちんとした歌詞があるのだが、その歌詞が非常に即興性が高く、しかもインプロヴァイズド・ヴォイスなどとは対照的に、しっかりと言葉を選び、磨き、ひとつの「詩」として歌いあげるのだから、説得力がものすごいのだ。誤解を承知でいえば、ウェザー・リポートが一旦インプロヴァイズしたものをすべて譜面に起こし、アレンジし、リハーモナイズする……という方法論に似通った部分があるのではないか。自由な雰囲気を十二分に残したまま、「ボーカリストがちゃんと歌詞を歌詞として歌う」という、ごくあたりまえの「バンド」として機能しているヒカシューはほんとうにすごい。どういう風に「演奏」されているのかはわからない。スタジオでミュージシャンたちとともに巻上がほんとうに純粋に即興的に歌詞をつむいでいる……とも思えない(思える曲もある。「声はまだ泡の中にある」とか「折り紙の服」といった曲は、即興的に歌詞をその場で生み出しているのかもしれない)。なぜならあまりに歌詞がちゃんとしているからで、前もって用意されているような気がする(たとえば「ニコセロン」の「慢心したのは「やがて」の魔物。うどんの白さにあやかりたいのか」とか、「入出力」の「入力しても起動しない。出力しても作動しない。べろべべ。ぽよぽ。べろべろべ。ぽよぽ」とか、「名もないところに前進だ」の「名もないところに前進だ。みっともなくても発見だ。用件すんだら解散だ。似ていますか?似ていません」とか……もう歌詞がすごすぎるのだ)。だが、正直、そういった「だんどり」はどうでもよく、大事なのは、この演奏がひじょーーーに即興的で自由な「空気」を濃密にかもしだしているということだろう。ジャケットもいいし、ほんと、心地よい音楽だ。巻上さんとヒカシューはついにこういうステージにたどりついたのだなあ。「疾走する曖昧なるもの!!ヒカシューは常にやりたい放題。答えは決めない、転がるばかり」というキャッチコピーはすばらしいですね。
「鯉とガスパチョ」(MAKIGAMI RECOREDS MKR−0005)
ヒカシュー
「転々々」は即興性の高いアルバムだったが、その少しまえに出た本作は三曲入ったミニアルバムで、曲は「生きること」(大々々傑作)のように前もって用意されたもののようだ。こういうヒカシューももちろんいいですねえ。曲によってメンバーの異同があり、なかには亡くなった野本さんのサックスが入っているものもあるので、おそらくストックしてあった音源を厳選して使用しているのだろう。三曲とも、耳に異常なまでに残る作品で、思わず繰り返し聴きたくなる。じつは「転々々」よりこちらを聴く回数のほうが多い。タイトル曲など、一瞬、キテレツ大百科のテーマのコロッケを作る歌かと思えるほどだが、ラストでにやりとさせられる。とくに3曲目のメロディが頭のなかをぐるぐるまわる。「ざらにはない増長するいい感じ。いつもの陽気な禅問答で、ヒカシューの音に溺れよう」というキャッチもすばらしい。とくに「いつもの陽気な禅問答」という文章にしびれます。
「ヒカシュー」(東芝EMI CT25−5571)
HIKASYU
このファーストアルバムをはじめて聴いたときの衝撃をなんと表現していいのか。まあ、簡単にいうと「人生が変わった」みたいなことなのだ。高校生のとき、夕方、ラジオでテクノポップ特集のようなのがあって、一週間毎日、日替わりで当時流行のきざしをみせていたテクノ系のバンドのアルバムを(ほぼ)まるまる一枚かけてくれたのだ(いい時代だった)。たしか初日がプラスチックスで(もしかしたら初日がヒカシューだったかもしれない)、私は「トップ・シークレット・マン」が好きだったのでそれ目当てで聴いて、翌日のヒカシューも、まったく知らない名前のバンドだったのにもかかわらず、その流れで聴いたのだ(記憶ちがいかもしれないが「マスク」も流れたような気がする。「でたらめな指」だったかもしれない)。なんの予備知識もなかったので「ヒカシュー」というのが「悲歌集」だと思って、「憂歌団」のようなものか、と勝手に思って、とりあえず聴いてみて……いやあ、ぶっ飛ぶとはあのことだなあ。じつはそのときちょうど、中間テストか期末テストの最中で、一夜漬けを信条としていた私は毎日徹夜で勉強して、そのまま試験を受け、夕方にふらふらになって帰ってきて、ちょっと仮眠して……という生活だったのだが、徹夜+試験で体調絶不調のとき、私はあの「プヨプヨ」をラジオで聴いたのだ。びっくりしました。「聴くひとを気持ち悪くさせる音楽」というのがあるのだなあ、と感動した。当時の私は、フリージャズを聴きはじめたころで、山下トリオやドルフィー、アイラーなどにはまっていて、自分でもアルトを吹いていたのだが、そういうものとはまるでちがったルートで入ってきたヒカシューの音楽に横っつらをバシッとひっぱたかれたような気になった。翌日、学校で「きのう、ヒカシュー聴いたか」と話をすると、今でも一緒に私と演奏している山中くんが「聴いた聴いた。めっちゃすごかった」と同調してくれた。そこで、思い出せるかぎり前日の演奏のことを話し合ったのだが、興奮した山中くんは「俺、LP買うわ」と言い出した。これはあのころの我々の財政状況から考えるとたいへんなことであって、たいがいはラジオのエアチェックですませ、清水の舞台から飛んだつもりでシングル盤を買うような状態だったのが、LPを買う? おまえ正気か、と言ってはみたが、彼の決意はかたく、私ももちろん大賛成で、彼にテープに入れてもらい、こうしてフルアルバムを順番に聴くことができたのだ。何度も書くが、とにかく心臓をわしづかみにされました。これだこれだこういう音楽を俺は生まれてからずーっと待っていたのだ、と思った。それまで野坂昭如とフリージャズにはまっていたが、それらは同時代的に心にズドーンと飛び込んでくる音楽という感じではなく、ヒカシューはまさにそういう「同時代的体験」だったのだ。一曲目の「レトリックス・アンド・ロジックス」から最後の「幼虫の危機」まですべての曲において私はイントロから間奏まですべてを口ずさむことができる。「モデル」を聴いてクラフトワークにもはまったが、それはまた別の話。全曲すばらしいが、なんといってもベストワンは「プヨプヨ」だ。このベースラインが5拍子であることに気づいたときの感動は忘れられない。この変拍子が独特の気持ち悪さを生む。しかし、このベースラインは思いついても、この歌詞とこのメロディーは思いつかんやろ。まさに天才の所業だ。あまりに聴きまくりすぎて、冒頭の、カチカチカチ……というリズムから馬鹿笑いまで完全に覚えてしまっている。いったいこの歌詞はなにを意味するのだろうとあるとき山中くんと話し合ったことがあるが、「精神病院のベッドに腰を掛けて白い壁をじっと見つめている男の独白的な歌」だという結論になった。変拍子というところからプログレの影響云々をいうひともいたが、私はこの間奏部分(コルネットが活躍)を聴いて、意外とフリージャズと関連があるのでは、と勝手に思っていたら、それは「ヒカシュー・スーパー」に収録された「プヨプヨ」のライヴバージョンを聴いて確信に変わった。巻上公一がインプロヴィゼイションもやるひとだと知ったのはそれからかなりたってからのことでした。アルバムの話に戻るが、「プヨプヨ」はベストだが、ほかもええ曲も目白押しで、今でも自転車に乗るとなぜか口ずさんでしまう「ヴィニール人形」(フェティシズムの曲だと思うがちがうのかな。「つんとつんざく鉛のようにめくるめく青、とがった香り」という歌詞はスバラシーっ)、カニバリズムの歌「テイスト・オブ・ルナ」、もはや天才という言葉を使うしかない壮大な狂気のオーケストレイション「幼虫の危機」、インドでサックスの戸辺さんが購入したというシャナイという楽器がフィーチュアされる「炎天下」(余談だが、このときはじめてシャナイという楽器のことを知った私は、以後ずっとチャルメラ系ダブルリード楽器に興味を持っていたが、今、国立民族学博物館にはこの種のダブルリード民族楽器が無数に展示されていて、感動する。「炎天下」がそこにつながったのである。それと、「炎天下」は一番の歌詞が「炎天下でパラプレロン」、二番の歌詞が「氷点下でパープリン」……なのだが、当時、私が山中くんと組んでいたバンド「マガサス」で私が作った曲「ザ・クーラー」というのをやっていて、その歌詞は一番が「残虐非道な真夏の太陽……」ではじまり「俺の恋人クーラー……」と続いていく。そして二番が「冷酷無惨な真冬の氷雪……」ではじまり「俺の恋人ヒーター……」となる。だから、はじめて「炎天下」を聴いたときは、発想が一緒だったのでかなりびっくりした。どうでもいい話ですいません)。あ、そうそう、これも書いておかなくちゃ。初期ヒカシューのサックスは戸辺哲さんというかただが、このアルバムでも聴かれるとおり、なかなか下手なのである。下手といっては語弊があるな。初心者っぽいのである。私もアルトサックスを独学ではじめたばかりだったので、戸辺さんの演奏には正直勇気づけられた。今でもたぶん、初期ヒカシューのアルトサックスのパートは全部、譜面なしに吹けると思う(ちゃんと楽譜集も出ていたのです。私は戸辺さんのヘタウマな演奏に慣れきっていたので、これらのサックスパートが、後年、野本さんによってライヴで完璧に演奏されたとき、私は正直、違和感を感じたほど)。テクノ的ということではアルバム冒頭の「レトリックス・アンド・ロジックス」(ダメさダメさダメダメ」という歌詞にきゅんとなる)のチープなリズムボックスの響きや、「20世紀の終わりに」のメロトロンの活躍などは、今聴いても心躍る。「ルージング・マイ・フューチャー」や「なぜかバーニング」(ラストの「燃えて!」というところがめちゃかっこいい)、「ラブ・トリートメント」(「心の病が不安不安不安、膨らんでゆくダンダンダン……ダンダンダダウダダンダンダン……」というところが異常に好き)などの演劇的で病的な切迫感のある歌唱っぷりも熱いし(どちらも高校生が聴くとけっこう「来る」歌詞なのだ)、「雨のミュージアム」のフランス語の歌い方も心に残る。つまり、全部いいのだった。もちろんその後すぐにLPを入手したが、かなりあとになってCDも買った。何度か再発されているだろうが、うちにあるやつはボーナストラックとして「ドロドロ」と「白いハイウェイ」が入っており、どちらも超超超大好きな曲だが、ここでは触れず、「ヒカシュー・スーパー」で詳述したい。
「夏」(東芝EMI CT25−5572)
HIKASYU
裏ジャケットが最高。二枚目にしてコンセプトアルバムというのはなかなか大胆な試みだと思うが、一曲目の「アルタネイティヴ・サン」でがつんとやられる。当時、ネイティヴ・サンというフュージョンバンドがあって、私は大ファンだったが、まったく関係ないと思う。歌詞もメロディーも演奏もなにもかもすばらしい。オルターナティヴということだと思うが、それをアルタネイティヴはカタカナ的に発音するとなんとなく別の意味のようでおもしろい。「こうして現在太陽はひとつ。心のエーテルこぼれてしまった」という冒頭の歌詞にぶっ飛ぶ。たしかにヒカシューは当時も現在もアルタネイティヴ・サンだと思う。「不思議のマーチ」で歌われている「お人形さん」は要するに「人間」のことであり、それを客観的に見ていて、「ぼくにはきみの言葉がわからない」と言っているということは歌っているのはだれ? という違和感が心地よい。本作の白眉はなんといっても次の「パイク」で、高校生のとき、買った安物のキーボードで何度もラジカセでピンポンダビングしてこの曲を弾いたもんである。いやー、信じられないぐらいかっこいいです。ベンチャーズが演奏しているバージョン(「カメレオン」というアルバムに入っているらしい)は聴いたことないが、「ヒカシュー・スーパー」にライヴのアップテンポのバージョン(ベンチャーズとジョイントしている)が入っていて、それもかっこいいのだが、やはり本作の、じわじわくる、なんとも不気味なバージョンが最高である。地を這うようなベースライン、単調なドラム、透明感のあるボーカルとリフレイン……ああ、もうかっこよすぎて死ぬ。そして、なにより歌詞ですが、これは信じられないほど影響された。この曲は巻上さん、山下さん、ふたりの天才の傑作です。「水をゆくひとつのパイク、陸をゆくのはふたつのパイク」……ですよ。これを天才と言わずしてなんというのか。余談だが、私がはじめて携帯電話(PHSですが)を買ったとき、着メロが自分で作れるということを発見し、長時間かけて入力したのが、ゴジラのテーマとこの「パイク」だった。発表当時は「チェンジリング」というホラーの日本版主題歌として有名になった。今、「チェンジリング」というと別の映画のことになってしまうが、正直、私はこの映画がめちゃめちゃ怖くて、これまでに観たすべてのホラーのなかで10本の指に入るぐらいコワイ映画だと思っている。これまでに3度観る機会があったが、二回目までは途中でリタイア。3回目でやっと最後まで観た。やっぱり「水」というのがコワイのかなあ。覚えているのは、「マウントフジジャズフェスティバル」の何回目かのとき(一回目だったかも)、みんなで泊まった民宿みたいなところで、夜中にこの映画の吹き替え版をやっていて、みんな観ていたが、私は途中で廊下に出て、座り込んでいたら、後輩が「田中さん、なにやってんですか」ときいてきて、コワイから外におるんやとも言えず、いや、まあちょっとな、とごまかしたのであった(これはほんとにもうどうでもいい話だ)。「イルカは笑う」は、これはもう私にとって大事な曲で、その証拠に「イルカは笑う」というSFを書いてしまっているほどなのだ(小説すばるに掲載されたが、今のところ短編集などには収録されていないのです)。「モーニング・ウォーター」は、サックスの戸辺さんがリードボーカルだが、これがなかなかいいのです。「あああおーあおー、あああおー」というリフレインが切迫感があって好き。「謎の呪文」はカラッと明るいサウンドだが、「真昼の視線、はすに構えて、ニヒルに笑う」とか「水をすする、土をなめる、それがフィロソフィー」といった歌詞がすばらしすぎる。ついでにいうと戸辺さんのアルトは下手すぎて、かえってはまっている。「オアシスの夢」と「スイカの行進」は、この「夏」というコンセプトアルバムの中心といってもいい、ど真ん中の曲だが、前者は「この胸の太陽がこの夢を焦がす」というキャッチーなリフレインが心に響く(このころのヒカシューは、一曲のうちに一カ所はかなりキャッチーな部分があった)。後者は最後の「しあわせそうだねスイカの行進」という歌詞が、もう目の前に深夜の畑におけるスイカたちの大行列が浮かんでくるようですごい(途中の戸辺さんの、ほんとにまったくわけのわからないサックスソロが驚異)。「マスク」は一枚目の「ヒカシュー」に収録されていてもおかしくないようなタイプの曲。めちゃめちゃ好きです。途中の歌詞の「それは……危険……」というのが好き。「ふやけた〇〇」は差別語だからといってエフェクターで歌詞をぐにゃぐにゃにしているが、高校生の想像力を非常に刺激して、なんやろなあ、この〇〇って……と議論したものである。最後に「食べちゃった」とあるから、食べられるものだよなあ、ということで、なかなか正解にたどりつけないが、結局、「脳味噌」ということだろうか。なんで差別語なのかわからんなあ。つまり、脳軟化症や痴呆症の状態こそが人間のたどりつく究極の楽園だということか。「禅」とも老荘思想とも通じるような気がする。「私は馬鹿になりたい」とも共通する内容。ラストの「トホホホホホホ……!」という絶叫がいいですね。「ビノ・パイク」はインストで、変拍子のプログレっぽいリズムと、いかにもテクノな感じのチープなシンセのびょんびょんしたメロディーが印象的。この演奏にもかなりはまりました。タイトルの意味はいまだに不明。ラストは「瞳の歌」という、意味深なバラード。ずっと「石のまぶたをあける」だと思っていたが、歌詞カードによって「意志のまぶた」だと判明。驚いたなー、もー。このアルバムも当然LPを持っているわけだが、うちにあるCDはおまけとして「ガラスのダンス」と「18才のドンキホーテ」が収録されている。どちらも傑作で、とくに「ガラスの……」はヒカシューのすべての作品を合わせてもかなり上位に来るぐらいの大傑作だと思っている(北野勇作もそう言ってた)作品だが、コンセプトアルバムとしての統一感を考えると、やはり「瞳の歌」が最後であるべきだろう。というわけで、この2曲については「ヒカシュー・スーパー」で詳述。
「うわさの人類」(東芝EMI TOCT−6601)
ヒカシュー
ヒカシューの3枚目にして、最高傑作との呼び声も高い、コンセプトアルバム。これをはじめて聴いたとき、私はいたいけな高校生で、完全に胸ぐらを、心臓を、内臓を、グワッとつかまれてしまい、もうへろへろになりました。私にとってそういうアルバムなので、かなり個人的な思い入れが入ることをお許しください。冒頭「ト・アイスクロン」といういかにもヒカシュー的な、思わせぶりたっぷりのスローナンバーではじまる。このぞくぞくする感じ、たまらんなあ。歌詞もすごいぞ。「生まれたときは裸のままで、知らずに空気を吸う」にはじまるこの曲の歌詞は、ほんとにすごい。そして2曲目はタイトル曲の「うわさの人類」……ああ、傑作だ! 「ここはここであそこじゃない」とか「ここはなぜか氷河期だ」とか「陽気な理性のパレードだ」とか……もうかっこいい歌詞のオンパレードである。もっともかっこいいのは、あまりに明るい曲調の果てに「そして踏みはずす……」という急転直下の暗さが出現するところ。演劇的な巻上公一のボーカルの表現力なくして、この曲はできあがらなかっただろう。そして、つづく「出来事」という曲の歌詞はほんとにほんとにすごすぎる。めちゃめちゃ影響を受けた。こういう歌詞を書きたいと思って当時はずっと努力したが、なかなかできない。そりゃそうです。巻上公一は天才だから。「出来事が出てこない、出来事ができそこない」ですよ。これは勝てん。そして、曲がまたかっこいいのだ。ラストのコーラスにかぶる「できそこなーい、できそこなーい」という絶叫もすばらしい。もう大傑作でしょう。「体温」という曲もすごくて、ある意味「プヨプヨ」の裏バージョンというか、人間がだれしも抱える「病気」というもの、身体というもの、人間というものと向き合った作品なのではないか(というのは勝手な解釈ですが)。これも大傑作なんだよなあ。そう、本作はまさしく「傑作ばかり」のアルバムなのである。つぎの「新しい部族」という曲も、目の前にブワーッとイメージが浮かんでくるようなタイプの作品で、「うわさの人類」の「なぜかここは氷河期だ」というフレーズと呼応して、地球が氷河期に突入して、結果、新しい人類が誕生し、それが大移動をしているような、2001年宇宙の旅のようなイメージが喚起される。「幼虫の危機」のような、異常性のある壮大なオーケストラだといえるだろう。途中で挿入されるノイズと、歌詞の部分の透明感の対比も最高です。「予期せぬ結合」は、これもいまだに自転車に乗るとついつい口ずさむ、いや、大声で歌ってしまう曲。「悪魔のように夜をかりこめば、死期迫り来るおろかな人生」という歌詞をこんな激しいリズムに載せてシャウトする、というのは、もうとにかくかっこいいとしか言いようがないですね。ビブラフォンのような音が演奏を引き締め、ドラム(泉水敏郎)がフィーチュアされる。B面に移っての1曲目は、えんえんと続くリズムのグルーヴとギターのフリーなイントロに身をゆだねていると、突然、裏切られるような形で絶叫系、演劇系のバラードがはじまる。歌いかたのあざとさがすばらしい。ラストの「あ、あ、あ、愛しているよ!」という悲鳴に近い絶叫が、これぞ巻上公一という感じで最高です。「二枚舌の男」と「恋人たち」は歌詞的につながっているようにみえるが、もともとそういうつもりだったのか、それとも収録順を決めるときに思いついた遊びなのかはわからない。どちらも意味深な歌詞、耳に残るメロディ、キャッチーなリフレイン……と当時のヒカシューを代表するような作風だと思う。前者は、「夕暮れせまる窓際に……」というところから曲調が変化して耳をそばだてさせられるが、そのあたりも心得まくった憎い作曲だ。後者は正調タンゴではじまり、美しいポップスに変化する。これも憎い。そして傑作「小人のハンス」。なにかの意味があるのだろうが、よく知らない一リスナーとしてはいくらでも深読みしてしまう。そんな巻上公一の術中にはまってしまう歌詞。北野勇作もこの曲がめちゃ好きだと言っていたが、イントロとラストに出てくる「がなり」のようなフレーズの解釈はちがっている。私は高校生のころはこの歌を歌いながら自転車で登校していたのだ。今聴いても壮絶な傑作だと思う。「ワン・オブ・アス」は、これもヒカシューのあざとい演出がほどこされた「ワン・オブ・アス、ワン・オブ・アス、ワン・オブ……」というフレーズだけが延々くり返される印象的な曲。しかし、確実に、ヒトラーの演説のように狂気のうちに盛りあがっていく。井上さんはこういうのを作らせると天下一品だ。そしてラストの「匂い」。めちゃめちゃ好きな曲。歌詞がとにかく最高です。とくに「日々是好日とテロルの匂い」って天才的じゃないですか。曲もよいが、なにより巻上さんの歌唱力、表現力あってのことだろう。この曲がアルバムの締めというのはほんとすばらしいとしか言いようがない。このアルバムのすごいところは、コンセプトアルバムなのに個々の曲がものすごくクオリティが高いことで、普通は「コンセプト」のためだけに奉仕するような捨て曲があるものだが、本作はそれを完全に両立している。これはすべてのアーティストがそうしたいと思っていてもなかなか実現できない離れ業であろう。万人に聴いてほしい名盤。ジャケットもいい(これはLPを手放せない)。
「日本の笑顔」(COLUMBIA MUSIC ENTERTAINMENT YOUTH−55)
ヒカシュー
4曲だけのミニアルバム。一曲目の「日本の笑顔」は後世に残る傑作だと私が勝手に思っていたのだが、北野勇作もこの曲が好きだと言ってたなあ。サファリパークを通してはるかなアフリカをそして地球を見通したような壮大な曲。冒頭の「君が見たのはダチョウの卵」で心臓をわしづかみにされる。一番好きな歌詞は「たまにはひとも食べたいね」というところ。ダリダリダ……というスキャット風の間奏もかっこいいーっ! だんだん盛りあがっていくという演出は巻上さんの歌唱力あってこそ。アレンジもよく聴くと細部にいたるまで考え抜かれている。傑作。「キリンという名のCafe」は意味深な歌詞をひねった曲想に載せるという、このころからのヒカシューの定番的な曲(と私が勝手に思ってるだけだが)。ほんと、何度聴いてもスフィンクスの謎に今夜も眠れないというリフレインは耳に残る。結局なにが言いたいのかまったくわからない。この、はぐらかされたような気分こそがヒカシューを聴く醍醐味なのだ。なにか意味があるのだろうと必死に考えてしまうのはファンの性。「波」はシンプルなタイトルだが、中身は濃い。歌詞だけみるとラブバラードのようだが、じつは8ビートのテンポのいい曲。それだけに演劇的な歌唱やひねった歌詞が際立つ。ラストの「太陽と水すまし」(「水に流して」にも収録されている)は、そのタイトルどおり、水たまりに映る太陽とそのまわりをくるくる回る水すましを歌ったものだが、もちろんそれは比喩である。一聴、美しいラブソングのようだが、じわじわ忍び寄る不穏な曲調に聴いていてキーッとなる。これもまたヒカシューの醍醐味でしょう。不気味さを残すエンディングもすばらしい。
「水に流して」(COLUMBIA MUSIC ENTERTAINMENT YOUTH−55−2)
ヒカシュー
「日本の笑顔」とともに愛聴しまくった傑作アルバム。メンバー的にはドラムが流動的である、など過渡期かもしれないが、その成果はすばらしい。レギュラーになる(もうなっているのか?)サックスの野本さんが本作で2曲参加している。アルバムタイトルにもなっている「水に流して」は、水に流してしまえばすべてOKという神道的な「禊ぎ」などを連想させられる名曲。「スカート」も大好きな曲。春のウキウキした気持ちをひらりとした「スカート」というものに集約して表現したような内容、だと思う。軽妙な「街のしあわせもの」もすばらしい。これを聴くと古きよき時代の「モボ」を思い浮かべるなあ。もちろんヒカシュー的にひとひねり、ふたひねりある。笑い声とか剽軽な歌いかたとか、とにかくボーカルの表現力の引き出しが多すぎていつも感動する。「そんなコタァないよ」は一度聴くとずっと頭のなかでリフレインされるような曲。めちゃめちゃ好きです。つづく「魅惑のペイブメント」はヒカシュー的な変拍子の曲だが、これも魅力的な曲調。聴いていると、つい「ペイブメント」というリフレインを歌ってしまう。「太陽と水すまし」は「日本の笑顔」にも入っていたが、せつないラヴソングをヒカシュー的な切り口で表現したすばらしい曲。上でも書いたが、なんともいえぬ不穏な感じがあとあと残る。「岩」は、「うわさの人類」の「予期せぬ結合」を連想させる傑作。このアルバムのなかで一番好きかもしれない。めちゃめちゃかっこいい。「という」というフレーズにしびれます。ラストの「氷河のララバイ」を聴くと、どうしても「生きること」の「オーロラ」その他の曲を思い浮かべてしまう。傑作です。
「人間の顔」(クラウンレコード RWD−8)
ヒカシュー
これも大好きなアルバム。一曲目で、アルバムタイトルにもなっている「人間の顔」のいきなりの歌詞「人間の顔はおもしろい……」こんなストレートな歌詞ってありますか! もうすばらしいとしかいいようがない。そうだ、たしかに人間の顔はおもしろい。2曲目「ゾウアザラシ」は、おそらくゾウアザラシという存在やその言葉から発想したとおもわれるすばらしい作品。単純に歌詞だけとりだして読んでも最高である。3曲目「何にもない男」は、冒頭唐突の「なーんにもない男」というフレーズでガツンとやられる。まさに巻上ワールド。「天国を覗きたい」は(このアルバムの作品はどれもそうだが)、信じられないぐらい私のハートをグワシッとわしづかみにする歌詞。途中のマーチみたいになるところもかっこいいし、野本さんのバスクラも効果抜群。本作の白眉か。つづく「クリプトビオシス」は、SFファンならたいがい知ってると思うが、クマムシの「無代謝状態」のことを指す。そういうことをわかったうえで聴くと、なんとなく標題音楽っぽく聞こえるから不思議。ベルベットのようなコーラスや巻上さんのコルネットなどが、硬質な8ビートのドラムと不思議に溶け合う。6曲目「さての温もり」は、「さて」という言葉をクローズアップした曲。巻上さんのなかにあるシュールな叙情が歌詞にあふれており、それが軽快な曲調や演劇的な歌いかたとのミスマッチによって強調され、酩酊感を生むほどのドラマになっている。傑作だなあ。つぎの「仏の出口」はまたインストでほとんどがフリーインプロヴィゼイション。このころからヒカシュー(と巻上さん)は即興に本格的に傾斜していき、フリージャズを聴き、ヒカシューも聴いていた私の音楽の好みと、もろにぶつかることになる。「ハイアイアイ島」は、例の「鼻行類」にインスパイアされた曲だというが、曲というか、一種の叫びであって、「ハイアイアイ!」というリフレインが心に刻まれる。野本さんのアルトもかっこいい。「でたらめな指」は、どうしてこの曲がアルバムに収録されないのかとたぶんヒカシューファンはずっと思っていただろう、初期からのレパートリーで、むかーしラジオで聴いたときはたしか、コラージュの手法で作った、というようなことを巻上さんが言っていた覚えがある。とにかく強烈なインパクトのある曲で、歌舞伎の見得のような、まあむちゃくちゃな曲ですごい。ラストの「でたらめな……指を……切る!」というのは、聴いていてドキッとします(この曲のボーカルは海琳正道さんです)。つぎの「猫にロマン」というのは、みんなの歌っぽい曲だなあといつも思うが、今ライナーノートをみると「こども番組用に書かれたが難しすぎるという理由で採用されなかった」とある。あたらずといえど遠からずかも。つぎはまたまたインストで「シャカ」という短い即興曲。シャカという言葉を手がかりに、ドッとやりました、みたいな感じか。「インディアンが訪れる」は軽快なハーモニカがカントリーとかアメリカの軽音楽を連想させる。アメリカという国、アメリカという文化に対する複雑な感情を、スパーン! とぶつけたようなすっきりした曲。つぎの「色彩はいにしえ」は、心臓の鼓動のようなベーシックなリズムのうえに乗ったバラード。これも野本さんのバスクラに耳がいく。間奏の大胆さ、緻密さはすばらしいが、そのあとにテーマに戻ったときのしみじみした感じは筆舌につくしがたい。ヒカシューを聴く、もういっぽうの醍醐味だ。ラストの「これは僕じゃない」はタイトルからして意味深だ。冒頭の「ボッ……ボッ……」というブラスの音はたぶん海琳さんのユーフォニウム(と思ってたら、ライナーにちゃんと書いてあった)。「なんだなんだ」というセリフ(?)がいろいろ連想を呼ぶ。ヒカシューはテクノから出発したが、こういう「生音」のおもしろさも並行してずっと追求している。というわけでこの作品も、そういう意図があるのかなんのかわからないが、ひとつのコンセプトアルバムといえるような完成度の高さなのだ。
「丁重なおもてなし」(VAP VPCC−80429)
ヒカシュー
すごいタイトルだなあ、とあらためて思う。ドラムはメインで谷口勝さんが叩いているが(おそらく)急逝されたためにつの犬さんが一部叩いている。大友良英さんが加わっているトラックもある。全体に坂出さんのベースがめちゃめちゃかっこいい。一曲目「かしわで」はいきなりノイズ系の即興で、こういうインプロヴィゼイションの扱いを中途半端だと思ったヒカシューファンもいるかもしれない。しかし、巻上さんの即興への傾斜が中途半端なものではなかったことは今なら皆がよく理解していることである。2曲目「丁重なおもてなし」はあいかわらずのシニカルな歌詞だが、そういったことをふまえて「丁重なおもてなしをしよう」と歌っているのが深い。「大航海」はまさにヒカシュー的な曲調でボーカルもまさに巻上さん的(という言い方も変か)。聴いていてると血湧き肉躍る。「いつか千年をこえて出会うはず」という歌詞が心に染みる。3曲目「さえずり」は、これまたヒカシューそのものの曲。歌詞は「禅」的な感じだが、曲調はストレートアヘッドなロックだ。「わが国」はタイトルからしてシニカルだ。聴いていると東京都知事と副知事の制定したアホすぎる条例のことなどが連想される。シニカルなだけでなく、心震えるような悲しさがある。世の中は、世界は、一朝一夕ではよくならない。「夢の話」は、あまりにスタイリッシュな歌詞が素敵なバラードだ(厳密にはバラードとはいえないかもしれないが、印象としてはまさしくそう)。ラストの「おやすみーーーーーーーーーーーー」という部分も感動する。つづく「キメラ」はめちゃめちゃ好きな曲。不安感をあおる曲調は、ヒカシューの得意中の得意。SFファンはこの歌詞を聴いて慄然とせよ。ああ、歌詞を全文引用したいが、とにかく聴いてほしい。かっこよすぎるやろ、ほんまに! 「アートマン」はボーカルが三田超人だが、一度聴いたら忘れられないぐらい強烈なインパクトがある曲。私はずっと「丁重なおもてなし」と言われると、ああ、「アートマン」の入ってるやつね、と反応していた。私にはよくわからんが、この曲を聴くといつも、ヒンドゥー教的な宇宙観やら諸星大二郎やら自分の小説のために調べたいろいろなことやらがブワーッと沸き上がってきて感動する。耳につきまくるリフレインの、「煩悩煩悩煩悩ボン」……と最後にボンで終わるところがすごい。つぎは「祈り」というタイトルのインストゥルメンタルの即興だが、一種のサウンドコラージュのような感じに聞こえる。こういうシリアスな即興を挟み込むことで、ヒカシューは活性化し、つぎのステップへ踏み出したように思う。それが、いまだに最前線のグループとして活動している(できている)理由ではないだろうか。こういう要素を取り入れることによって、ヒカシューは今バリバリに活動している意味が明確に「ある」と言い切れるのだから。「日向ぽこ」は、じつは本作の最大の問題作であり、傑作といえるかもしれない作品だ。従来のヒカシューの作風と思わせながら、めちゃめちゃ大きな、地球規模、宇宙規模の「人類の将来」を歌いあげている。単なる「日向ぽこ」や「昼寝」のなかに、そういったことをつきつけてくる……凄まじいとしかいいようがない。そして、ポップ……そう、ポップなのだ。ラストの「うたえないうた」は、このアルバムの曲を順番に聴いてきて、なんだか当然、こういう曲が最後に置かれるだろう……と思ってしまうような作品だ。小品ではあるが、「きみの愛情から『あ』が失われた『あ』の日」と歌われたらどーにもならん。ぼんやりした、はぐらかすような歌詞のなかに、聴くものをグサリと一刺しするような鋭利な刃物が混じっている。
「ヒカシュー・スーパー」(東芝EMI WTP−90110)
ヒカシュー
うちにあるのはLPだが、CDも出ているのかな。本作は、一種のベスト盤なのだが、それに加えて従来のLPには収録されておらずシングルのみで発表された曲が2曲、(「白いハイウェイ」と「ドロドロ」)、本作にはじめて収録された曲が2曲(「ガラスのダンス」と「18才のドンキホーテ」)、そしてベンチャーズとのジョイントライヴにおける演奏が2曲(「プヨプヨ」と「パイク」)収録されており、本作の価値を高めている。まずは「白いハイウェイ」だが、これはCMソングなのだが、あまりにすばらしい出来ばえ。完璧にヒカシューそのものの音楽であり、しかもCMソングとしても完璧。こういう曲を使った会社はえらい。いつも自転車に乗るとこの歌を歌ってしまう。しかも大声で。歌詞がめちゃめちゃいい。あらゆる箇所がよいのだが、たとえば「口笛吹けば地平が動く」というワンフレーズとっても、もう涙なみだ。パノラマパノラマパノラマ……というリフレインもよく考えついたなあと感涙。「ドロドロ」はかなり初期の曲で、しかもずーっとやっている。これは私の世界に近い。言葉は過激で、グロテスクだが、それがラヴソングに昇華しているのはボーカルの表現力に負うところも大だと思う。凡百の歌手が歌ったら、妙な結果になるかもしれん。「ガラスのダンス」は加山雄三版ブラックジャックの主題歌(エンディングテーマ?)として、私はドラマは観ていたのだが、加山雄三のブラックジャックぶりがあまりにあまりで(オペラ座の怪人みたいだった)、どうにも平常心で観ることができず、ヒカシューの主題歌もあまり耳には入っていなかったらしい。しかし、このアルバムではじめてちゃんと向き合って聴いたが、今ではヒカシューのすべての曲のなかでも好き好きベストテンの上位に入るぐらいめちゃめちゃ好きな曲になってしまった。とにかくすばらしい。歌詞と曲と演奏がこれほどまでにマッチングし、不可分のものとなり、ひとつの表現に向かって一体となった理想の状態の音楽というのは、まあなかなかない。それは神さまがときおり気まぐれに与えてくれる偶然の産物であり、どれかひとつ欠けても完璧なものにはならないのだが、この曲は巻上さんの歌詞のすばらしさ、山下康さんの曲のすばらしさ、そして、ヒカシューによる演奏のすばらしさが理想のトライアングルとなった稀有な稀有な稀有な作品だと思う。いや、もう、聴くたびに涙ですよ。歌詞を全文引用したいぐらい、一分の隙もない、完璧な「詩」だ。歌わずとも、暗唱するだけでこの「詩」のすごさは身に染みてわかる。「仰ぐ青空、ふたつの季節のすれちがい」……ですよ。芭蕉の「荒海や佐渡に横たふ天の川」に匹敵する雄大な、宇宙的な歌詞。そして、すごいのはこれが全部ちゃんときちんと「ブラックジャック」のテーマとして成立しているということで、「そうさ、ガラスの心溶かす薬あるなら」という部分だけでなく、全体がちゃんと手塚治虫のマンガの主題をとらえている。これは離れ業である。「18才のドンキホーテ」はラジオ劇「三銃士」の主題歌として制作されたものだが、たいへん演劇的な表現の曲で、一度聴いたら忘れられないインパクトがある。「ハアーッ!」という叫び(?)はまさにダルタニヤンっぽい。「プヨプヨ」と「パイク」は、ベンチャーズとの共演コンサートからのライブで、「パイク」のほうには加藤和彦と近田春夫が参加しているらしい。「プヨプヨ」は間奏部分に巻上公一のコルネットがフリーインプロヴィゼイション的なソロをしているが、それまで私はヒカシューと即興がさほど結びついていなかったので、この部分を聴いて、うわっ、ヒカシューのほうから自分の趣味に近づいてきた、と(勝手に)驚愕した。私は高校のころ、フリージャズも聴いていたし、ヒカシューも聴いていたが、それぞれ別のものと思っていたので、この部分を聴いて、よりいっそうヒカシューの音楽が親しいものとなったのである。「パイク」は、オリジナルバージョンの淡々とした、灰色のモノカラーの画面のなか、どんよりした川の流れに不気味な生物がゆっくりと泳いでいるような、あの「無」を感じさせる凄味のかわりに、8ビートを過激に強調したエレクトリックサウンドの嵐が吹き荒れて、最初に聴いたときはのけぞった。かっこいいのだ。なるほど、こういうアレンジにもできるよなあ、と感心するやら喜ぶやら。というわけで、本作は発売当時はヒカシューファンにとってのコレクターズアイテム的な感じだったかもしれないが、今から考えると、じつに重要作を詰め込んだ豪華けんらんなアルバムだったと思う。私は、一時、このアルバムばっかり聴いてましたよ。
「はなうたはじめ」(VAP RECORDS VPCC−80430)
ヒカシュー
一曲目「びろびろ」はだれもが認めるであろう傑作。「プヨプヨに対抗して」という副題がついているが、なぜ自分のバンドのオリジナル曲に「対抗」しなくてはならんのか。「プヨプヨ」「ドロドロ」「びろびろ」で三部作という見方もできる(できんか)。「ウイルスと共に」という意味ありげなタイトルがつけられた2曲目のインストも、いつもの全面即興かと思いきやまるでちがっていて中世ヨーロッパの街角風(?)のラプソディックで軽快な演奏(ただし、合間に即興部分はさむ)。3曲目「はなうたはじめ」はアルバムタイトルにもなっているが、めちゃめちゃいい曲。こういう風に「はなうた」がフィーチュアされるというのは、なんだか大正モボというか昔のエノケンとかを連想するなあ。サックスとバスクラが重ねられている。バスクラソロもいい。4曲目「くたびれた靴の軌道」はラブソングだが、それをこんな風な切り口で見せてくれるのはヒカシューしかない。5曲目「もったいな話」は傑作!
歌詞もまさに巻上さん流の諧謔に満ちていて、サウンドもドスのきいたサックスが効果ありすぎ(テナーですね)。かっこいい。超かっこいいです。こんなすごいアルバムなのに、みんな聴いとるんか?
まさにもったいない話でっせ。5曲目「いつしか夏の骨となる」は、これもまさしくヒカシューとしかいいようのないサウンド。自分の死、恋人の死、そして地球の死を否応なく考えさせる歌詞も胸に迫る。この曲でもサックスがめちゃめちゃ活躍していて、野本さんの存在がバンドのなかで大きくなっていることがわかる。そうだ、このアルバムを聴いて、ああ、ヒカシューはついにぴったりのサックス奏者を得たなあ、と感慨深く思ったものだ。だから、その後の野本さんの退団と間を置かぬ早世は惜しみて余りある。6曲目「虫の知らせ」はバスクラリネットとベースによるリフが不穏な空気を醸しだす。「光は宇宙を旅して奇跡の到着果たした」という歌詞が心をわしづかみにする。7曲目「偉大なる指揮者」は即興だが、巻上さんが指揮者として全体に指示を出しているのかもしれない(肩書にコンダクターとある)。8曲目「はなうたまじり」は、これも傑作!
バスクラに先導されるような、妙に心地よく、妙に不安なアンサンブル、そして歌詞! これはすばらしい。ダダ? いや、もっとちがうものか。アンビエント?
いや、もっとちがうものか。9曲目「ポトラッチ天国」を聴くと、私のようなSFファンはかんべむさし「ポトラッチ戦争」を連想せざるをえない。「当然だけど俺は最高、偶然だけど君も最高」ではじまる歌詞は全編刺激的。かっこいいっす。10曲目「偉大なる指揮者2」は、これも即興だが、やはり巻上さんがコブラ的なコンダクションをしているようにも聞こえる。11曲目「偉大なる指揮者3」は、ほとんど「2」とつなぎ目のないぐちゃぐちゃっとしたパワフルな即興。12曲目「はなうたむすび」は、打って変わって、水の流れのようなパーカッションだけをバックにしたソロボーカル。1番の歌詞が終わってバンドが入ってくるが、基本的な印象は変わらず、淡々と進行していく。蕪村の俳句のようだ、と勝手に思った。ラストの「アンナ・パーラー」は三田超人作詩作曲ボーカルによるナンバーで、擬音というか言葉のおもしろさを前面に押し出した曲。なんとなくはまって、一時、この曲ばっかり聴いていた時期があります。なお、1曲目と3曲目だけ高瀬アキがピアノで参加している。
「あっちの目こっちの目」(徳間ジャパンコミュニコーションズ TKCA−70165)
ヒカシュー
このジャケット、大好きなんです。中身ももちろんいいです。一曲目「石仏」(いしぼとけと読む)……めちゃかっこいい。曲もいいが、歌詞が深く、かっこいい。「風になるときは雲をしりぞけ、月になるときは海をあやつる」……しびれます。2曲目「零桜」(こぼれざくらと読む)も、歌詞は単体の詩として成立している。全文引用したいぐらいすばらしい。それに曲がつくと、こんな最高な表現になる。野本さんのソプラノが雰囲気を出している。ヒカシューの曲としてはあまりみんなが言わないように思うが、私はずっと絶賛してきました。3曲目はタイトルチューン「あっちの目こっちの目」。一度聴くと忘れられないリフレインがあるのはヒカシューのお家芸だが、そのあとに続く「どっちも神経だってね。うたって砕けろってか」という結びの部分が耳について耳について……。巻上さんの歌詞としては、もっとも口語的なもののひとつではないか。ええなあ、ほんまええ曲や。「シーラカンス」は、「ゾウアザラシ」などと並ぶ、ひとつの生物に焦点をあてて、そこから喚起されるイメージを増幅したような曲。みんなのうたで流れてもおかしくない内容。「πラップル」は三田超人さんの脳内で鳴っている狂気の言語を音楽的に再現したようなものではないか。くせになる。「さなぎ」は、もうタイトルを見ただけで傑作とわかる。とにかく聴いてもらわんとわからんだろうが、この不気味で不思議で深く埋没するようなサウンドと、何度も口ずさんでしまうこの歌詞の融合は、たまりません。ドラム最高。ヒカシューは本作でも進化をとげているが、「男は言った」は、初期から変わらぬヒカシューならではのサウンド。皮肉なユーモア。「だるま」は、仏教的、禅的、宗教的な歌かと思いきや、軽いフォークロア的な曲調で、内容もふわふわとした軽さがある。しかし、そのなかに禅的なものを見いだすのはたやすい。いろいろ考えさせられます。「草雲雀」はドラムのゆっくりしたマーチングロールだけをバックに巻上さんが歌いはじめ、そこにシンセがかぶさっていくあたりのワクワク感をどう伝えればいいのか。だれか有名な古い詩人が書いた詩に曲をつけたものかと思ったら、巻上さんの詩でした。この古典のような詩を凛とした感じで歌いすすめていく(そういう表現がぴったり)。とにかく聴いて!
「ハーシー#3」はローレン・ニュートンを迎えてのインプロヴィゼイションだが、非常にきちんと提示されていてすがすがしい。短いなかに起承転結もドラマも破綻もあるが、それが自然な、自由な形で表出していて、再聴にもたえるし、ヒカシューのアルバムのなかの一曲としても違和感がない。「夢植物」も、ローレン・ニュートンのヴォイスが随所で炸裂して演奏を引き締めている。なんというか、「言葉」というものの力や重みを剥き出しな感じでぶつけて、個々に反応してくださいというような刺激的な曲。「あいかんじる、あいかんじる」というリフレイン、サックスのリフがとにかく耳につく。傑作。ラストの「色えんぴつ」はもうフォークといってもいいような、しみじみとした、淡々とした、日常的な歌詞・曲調だが、そこにまとわりつくようなヴォイスやバスクラがなぜか不穏な気配をかもしだす。「ファックスをしたのは声が怖くて、その遠くの国は駅から5分」……ってすごくないですか。ああ、これはまさしくヒカシューだ!
というわけで、本作も名盤だと思います。
「かわってる」(東芝EMI TOCT−9775)
ヒカシュー
これまでのヒット曲(?)をリメイクしたアルバム。こういった再録音ものは、いろいろ工夫をこらしたり、切り口を変えたりしても、たいがいオリジナルにはかなわないことが多いが、それは聴き手の側にはオリジナル信仰のようなものがあって、それを絶対視するあまり、リメイクは不評……ということになる場合が多いように思う。つまり、セルフカバーは、最初からハードルが高いということなのだ。これは映画やゲームやアニメの「2」を作るときも同様で、観る側はなぜか「1」と同じもの、「1」の追体験を求めているようで、ちょっとでも「かわってる」と嫌がる。そんな意味で、このアルバムのタイトル「かわってる」というのは、そもそもオリジナルから「かわってる」ことを標榜しているわけで、ハードルはよけいに高いわけである。私も、このアルバムが発売されたときに期待して聴いたが、やはり同じような感想を得た。つまり、「これはこれでめちゃええけど、やっぱりオリジナルのほうがええやん」と思ったのだ。それは、私のなかでヒカシューの諸作品がいつのまにか神格化(というのはおおげさだが)されていて、たとえヒカシュー自身のセルフカバーでも認められないような部分があったのだろう。しかし、今回聞きなおしてみて、自分の耳のアホさ加減を呪った。めちゃめちゃすばらしい!
オリジナルよりすばらしい……といったらあかんのだろうが、いや、そう言いたくなるぐらいすばらしい。これは……たしかにセルフカバーした意味があったなあ。最初に聴いたときの私はほんとにアホやった。アホ耳やった。あまりに良すぎて、今日で10日間ずっと聴きつづけているがまったく飽きないぐらいすばらしい。ヒカシューを聴いたことがないというやつには、このアルバムを最初に推薦したい、というぐらい素敵である。いやー、しみじみと「人間の耳ってアホすぎる」いや「俺の耳ってアホすぎる」と思いました。というわけで各曲についてちょっとだけ触れる。まず、「20世紀の終わりに」。かっこいいイントロダクションの部分がつけ加わっているが、曲がはじまってしまうとオリジナルを踏襲。そして、ラストに和太鼓テイストのエンディングがつけ加わっているが、全体としてまったく違和感がないし、オリジナルよりアレンジ的にパワーアップした感じ(とくにリズムが凄まじい)。ドラマーがやたらと加わっているが、聞き分けはできない。ただ、リズムの迫力やパワーは伝わってくる。「人間の顔」は、オリジナルより全体に過激に攻めてくる。すごい曲だなあ、と曲のもつ力を再認識させてくれるアレンジで、これもすごい。雅楽の奏者のなかでも即興に大きく足を踏み込んだひとたち3人が加わっている。「うたえないうた」は「丁重なおもてなし」に入っている曲だが、イントロからなにからなにまであまりに説得力のある演奏で、ちょっと泣きそうになる。ギターも、コーラスも、ムードっぽいサックスのちょこっとした間奏も最高。なにより巻上さんの歌の表現力に耽溺。傑作です。「天国を覗きたい」は「人間の顔」に入ってる曲だが、もうあまりにかっこよくて死ぬ。ほんとです。オリジナルを聴いたときより、「ああ、すごい曲だなあ。名曲だなあ」とつくづく思った。今回、マリンバとアコーディオンがものすごく雰囲気を出している。「丁重なおもてなし」は、サックスのおそらく多重録音によるホーンセクションがかっこいい。表現力というのはヒカシューの最大の武器だが、この演奏はその武器を存分に全力でふるっている感じ。バリトンサックスも効いている。「パイク」はいろいろな形で演奏される曲だが、オリジナルのゆったりした雰囲気やライヴでやるときのアップテンポの感じのどちらも好きだ。そういう人間にとって、この演奏の「中間のテンポ」での表現は「ちょうどいい!」と思ってしまう。もともと永遠の傑作なので、それをこういう風に、オリジナルの空気(淡々とした、ストイックな、テクノな、クールな、非人間的な感じ)をちゃんと全面的に保ちつつ、それを超かっこよくブラッシュアップしたうえに人間的な深みを付け加えて、しかもなにも引き算になっていないこの演奏はすばらしすぎる。かっこよすぎる。死ぬ。「もったいない話」は「はなうたはじめ」からの曲。今回の演奏も、ええ歌詞やなあ、それを際立たせるええ曲やなあ、ええ演奏やなあ、と思う。野本さんのソプラノもいいなあ。「びろびろ」はメンバー表をみると、基本的にはコーラスとプログラミングで成立している演奏のようだ。ほんとに、こういう曲をちゃんと演奏してくれているバンドがある、というだけで、我々人類はシアワセだ。しょうもない、アホみたいな音楽があふれかえっている今の日本に、こんな曲、こんな演奏、こんなバンドがあるというだけで、なんとなく「がんばろう」「がんばれる」という気になる。マジですよ。だって「びろびろーーーーーーーーーーーーーーーー」ですよ。こんな曲、真剣にやってるやつら、どこにいます?
「キメラ」は「丁重なおもてなし」からの曲だが、大好きな曲なので、どう変わるかと思っていたら、基本的にはオリジナルをもっと強く押し出したような感じか。いやーーーー、ええ曲ですわ。なんだか、ナチス時代の収容所の実験室でかかっていてもおかしくない曲だよ。ラストは大作だ。「日本の笑顔」を「テーマと14のバリエーション」に変奏したものだが、これが涙がちょちょぎれるような最高の演奏。あの傑作「日本の笑顔」をスロバキア放送交響楽団がバッキング(?)をつとめたもの。録音もスロバキアである。10分を越えるこの大作を巻上さんはひとりで、彼らをバックにしてこの名曲を朗々と歌う。これは凄まじい。アレンジもすばらしいが、とにかく巻上さんのボーカリストとしての表現力の圧倒的なすばらしさに拍手するしかない。この演奏など、昔聴いたときには、オリジナルと全然ちがうやん、と思った自分が恥ずかしい。ほんとになにを考えていたんだろうなあ。というわけで、このアルバムはすごいんです。ヒカシューを知らんというひとにも、ヒカシューは好きだけど、再演ものはなあ、というひとにも、とにかく無心に聴いてもらいたい大傑作……と俺は思うよ!
「リミックス」(東芝EMI TOCT−9558)
ヒカシュー・レトロアクティヴ
ヒカシューのこれまでの曲を、いろいろなリミクサー(というのか?)がリミックスしたもの。音源はヒカシューの、こちらもよく知っているものばかりだが、どの曲も完全に別のものになっている。おそらくキーワードは「ダンス」ということであろうと思う。テンポが遅いものも、基本は16ビートのリズムを提供されているのだ。つまり、単にアーティスティックにリミックスしました、というのではなく、どれも今のダンスチューンとして生まれ変わっているわけで、なんや、こんな風にしてしまいやがって、とか、もっとめちゃめちゃにしたらええのに、とかいう批判はあたっていない。でも、さすがに「プヨプヨ」は(リズム的には)オリジナルをちょこっといじっただけ、という印象。オリジナルのぐにゃっとしたリズムの確立されかたが半端じゃないからかも。最後の笑い声のところだけをとりあげたフィーチュアのしかたはすばらしい。「瞳の歌」ももともとはバラードだが、速いリズムがつけられている。こういう処理をされても曲のもつイメージが変わらないのはすごいし、このドスの効いたリズムもくせになる。かっこいい!
「幼虫の危機」は、どえらい長い「ドンドカドカツパッ……」というリズムだけのイントロが延々とついていて、どないなっとんねん、どこが「幼虫……」やねん、とええかげんイライラしてきたころに、ああ、なるほど、これはイントロではなく、これがすべてだったのだ、とわかる仕掛けになっている。大胆さではこのアルバム中一番かもしれない。「謎の呪文」は、これぞリミックスという作りで、原曲の断片を利用して、まったく新しい音楽にしている。ヒカシューファンは怒るかもしれないが、これはこれで拍手である。たとえば、オリジナルの歌詞をバラバラに解体してつなぎあわせて、べつの意味のある言葉にしたてあげてしまっているあたりはすごい。耳に残る、という点では本作の白眉。タイトルの英訳「ミステリアス・スペル」というのもこの方法論の象徴のようである。「パイク」は、オリジナルが一番こういうリミックスに向いているような気がして、逆にやりにくいのではと思うが、それをあえて挑戦し、こういう風に料理したのは「なるほど!」と思う。正直、「パイク」のオリジナルの魅力(不気味な、淡々としたリズム)を全部おもいきって殺してしまい、まったくちがう魅力(バタバタした荒いリズムなど)を一から作ったような感じです。しかし、最後の最後のボーカルソロになる部分でオリジナルの魅力がドーン!
と出て、やられたっ、という気持ちにさせられ、そしてまた、リミックスの空気に戻っていくあたりはすばらしい。まさしく再構築! 「出来事」は、これもオリジナルをバラバラに解体して16ビートに乗せて再構築しているのだが、ほとんどがリズム部分だけで、ボーカルはほぼゼロに近いので、どこが「出来事」やねん、と思う。そういうやりかたのために、ほんのちょっとだけ出てくる巻上さんのボーカルの魅力がかえってクローズアップされているように思うのは偏愛がすぎるでしょうか。ラストの「ト・アイスクロン」は、このアルバムのなかで唯一踊れないパートのある曲だと思う。どの曲も、オリジナルに対する愛情が感じられるし、オリジナルのすごさが際立つ結果にもなっているし、リミックスというものの有効性も十分にわかる内容になっている。でも……まずはオリジナルを聴いてほしいとは思いますけど(わかってる?
失礼しました)。
「ヒカシュー 1978」(東芝EMI TOCT−9683)
ヒカシュー
あのデビューアルバム「ヒカシュー」より一年前に録音されていた、ヒカシューのもっとも初期の演奏。ある意味、密室にこもって作られたような音楽で、そのじめじめ、どろどろした部分もふくめて、商業的な側面のある「ヒカシュー」にくらべて、深く、暗く、人間的なものが聴こえてきて、いやー、ほんとにすばらしい。よくぞアルバム化してくださった。私にも覚えがあるが、こういうデビューまえとか初期のものというのは、恥ずかしくてずーっと「これだけは発表したくない」とか思っているのに、ある時期がきて聞き直すと、意外に「へー、けっこうええやん。今はこんなことできへんし」と思ったりする。そういう時期にきっとこのアルバムが出されたのだろうなあ。ありがたやありがたや。録音も、たぶんもともとはかなり悪いのだろうが、録音技術でここまで持ち上げてくれているのだと思う。ありがたやありがたや。「ヒカシュー」に入ってる曲も、微妙にあちこちちがうのだが、ぜんぜんちがわない部分もあって、ファンにとっては、ものすごくものすごーく興味深い。「プヨプヨ」なんて、完全に完成されてますよね。「20世紀の終わりに」は合いの手の「ハイハイハイ」が露骨な生声で、まるでお祭だ。おもろいなあ。「コンフュージョン」というのは聴いたことない曲だが、ベーシックなリズムパターンがあって、そこに即興っぽい演奏が乗る。戸辺さんのボーカルが登場してからは、なにを歌っているのかまるでわからず、そこがまたおもしろいのだ。全体のサウンドも、すでにコラージュ的だったりして、めちゃめちゃおもろい。まさに「コンフュージョン」だなあ。「「ドロドロ」は、とにかくテンポが速い。個人的には既発表バージョンのテンポのほうが煮えたぎるようなドロドロ感があって好きだが(いや、もっともっと遅いのも聴いてみたいぐらい)、これはこれではまっている。しかし、ダビングされている2本のアルトの音程がすごいことになっている。フリーなパートはいいのだが、リフとかはすごく気持ち悪くて、それがまた味わいなのだ。「スリル」はいかにもヒカシューという感じの曲だが、途中が突然ブルース進行になっているのが変。これって海琳さんがボーカルなのか。巻上さん的にも聴こえるぐらい低い、いい声で歌ってる。「炎天下」は「ヒカシュー」収録バージョンと全然歌詞がちがう。これを聴くと、レコードになったバージョンのバックコーラス(ずっと「イデサデ・イデサデ……」と言ってるのだと思ってたら、「ノーテンパーで・ノーテンパーで……」と言ってるのだ)がやっとわかった。戸辺さんのサックスがチープででたらめですばらしい。「レトリックス・アンド・ロジックス」はレコード収録のバージョンと基本的にはいっしょなのだが、バンドが一体となった切迫感というか演劇的な感じがすこし希薄だ(ボーカルはそういう歌いかたをしているのだが)。間奏のサックスはますますチープでいいかげんで、まるでウェイン・ショーターのように鼻歌まじりに軽々と吹いている感じでよい。「ヴィニール人形」は、巻上さんのボーカルが「ヒカシュー」収録バージョンよりも不気味で、沈んでいて、惚れる。「ぼくはっ、変わるっ」という部分をずっと「ぼくは……変わる……」と淡々と歌っていて、なんだかべつの曲のようでもある。コーラスもすばらしい。それにしても名曲ですねえ。私の青春はこの曲とあった、と言ってもいい。今でも夜中に自転車に乗るとこの歌を朗々と歌ってしまう私。「ルージング・マイ・フューチャー」はいかにもデモテープといった感じの演奏。ベースの音がチープでリアル。サックスの間奏が、もう、聴いていて身悶えするぐらいチープで、安っぽくてしびれます。バックコーラスの「やろうぜ」「ないなら」という声もリアル。「幼虫の危機」は間奏の演奏のしかたが「ヒカシュー」収録バージョンとは全然ちがう、スタッカート(?)な弾きかたなのだが、パコパコパコパコとしたリズムボックスの音が非常に硬質で粗雑で安っぽくて、いかにも当時、演劇の現場のために作られた音楽という感じでめちゃめちゃいい。こんな曲は天才にしか作れません。ラストの「プラウド・メアリー」は、「なんじゃこりゃーっ」的な演奏……というかドキュメント。いやはや、ハレホレヒレハレです。こういう遊びのような無邪気な演奏って、高校のころの自分のバンドのテープに山ほど入ってるはずだなあ。というわけで、このアルバムはヒカシューファンはぜったい聴くべき。
「転々」(MAKIGAMI RECORDS MKR−0002)
ヒカシュー
超傑作なので、力をいれて紹介したいが、どこをどう紹介したらよいのか……負け戦というか、「聴いてもらわなわからん」としか言いようがない。こういう言い方はしたくないが、どうしてもしなければならない。つまり、従来のヒカシューファンには若干敷居が高くなっているかもしれない。しかし、それはヒカシューがそういうことに「なってしまった」のだから、ついていくしかない。しかも、敷居を越えてしまえば、めちゃめちゃ快感がおそってくるし、ヒカシューは結局ヒカシューであって、なにも変わらんのだなあということもわかるはず。変わらないでずっとナントカグループサウンズのように、おんなじ曲をおんなじようにずーーーーっと変わらず演奏しながら続いているものを聴きつづけるのがいいとはヒカシューファンならだれも思わないはずだ。本作は、まず、ジャケットがいいですよね。CDのレーベル面もいい。ブックレットもいい。一曲目「転々」は、ある意味、このアルバムのコンセプトをドカーッと紹介したような演奏。ポップ+即興+アバンギャルド+ヴォイス+ノイズ……そして「詩」。今まさに現在進行形の「ヒカシュー」がここにある。ホーミーも、何の違和感もなくはまっている。ニューヨークで録音する意味があるのか、と思う反面、まさにニューヨークで録音する意味があった、とも思う。かっこよすぎるんです。「挨拶以前」は、不気味な、伊福部昭的な曲調のうえに、朗読のように、またナレーションのようにはじまる。ヴォイスが主導する即興のパート、シンセ的なものが暴れるパートがあって、「合格」……という一言で断ち切れるように終わる。「かくれんぼ」はベースとシンセ(?)のガチンコな即興ではじまり、ささやくような「言葉」がそこに、振りまかれるように乗っていく。ここへ来て、ヒカシューの(これまでのアルバムである程度の想像はついていたが)覚悟を決めたインプロヴィゼイション+ポップという方向性がはっきりと打ち出されたのだなあ、とリスナーにもわかったと思われる。我々も覚悟を決めて、新しいヒカシューを聴こう。「さっき」は、シンバルを打つ音が響くなか、即興的な「空気」のなかに、日本語が、いや、どこの国の言葉かわからぬ言語が、「音声」がばらまかれる。もうあまりの快感にたまらん思い。人懐っこいのにアバンギャルド。楽しいのに苦痛。おもろすぎる。本作の白眉といってもいい。「夕涼み」はインプロヴィゼイション。「たべたいものをたべたいときにたべるのがいちばんいいんだよーん」という歌詞(?)にはのけぞりました。笑ったあと、「やめろよくすぐるのは」という歌詞にも絶句。なに言うとんねん!
と笑って突っ込むべき部分。「突然(スイカの半分)」は、本作中(たぶん)もっともガチな即興。ブックレット中のイラスト、スイカの種のような蟻たちがコワイ。スピード感のあるロック的なインプロヴィゼイション。「生きててよかったなあ」は、歌詞というものが結局は「詩」なのだ、と理解させてくれる。なまなまなまなまなま……。「金の卵」は、ファンキーなベースラインが基本としてあって、そこに築き上げる即興の楼閣。これは昔からヒカシューがやってたことだ。ヴォイスはほとんど出て来ないが、存在感はある。長い即興の一部なのか、ほんとうにこれだけなのかよくわからないが、すばらしい。ラスト「ここにざくろあり」は、タイトルを見ただけで興味深い作品だが、坂出さんのベースがカウント・ベイシーみたいなラインを弾いたりして笑ってしまう。ボーカルが死ぬほどかっこいい。最後に、「パイク」みたいなドライヴするパートが突然あって、どうなることかと思っていたら、「さあ……さあ……」と言い出して、絶叫の果てに終わる。わはははははは……と大笑いするのがもっとも正しい反応だろう。というわけで、これはすばらしい。なにをやっても、もうええわ……という気分にさせられる。ヒカシュー万歳。
「ヒカシューライヴ」(VAP RECORDS VPCC−80434)
ヒカシュー
88〜9年のヒカシューのさまざまな場所でのライヴ音源をまとめたもので、当時のヒカシューのコンサートを体感しているような曲順、編集になっていて、すごくいい。いわゆる「名曲」に、即興のパートを挟み込むような体裁になっていて、ひとつのアルバムとしての完成度も高い。「モーニング・ウォーター」で開幕するが、かなりハードに攻めてくる感じ(ダブ的な音の加工のしかたも効果的)でかっこいい。「出来事」はめちゃめちゃ好きな曲だが、野本さんのアルトの合いの手(?)がすばらしいし、ラストのわめきちらし(?)もライヴ感満載でよい。「不思議のマーチ」は即興のイントロではじまり、オリジナルよりはるかに過激なテンポ、リズムで演奏され、ものすごく盛りあがる。しかし、オリジナルのもつ「触感」というか、空気は失われていないのはさすが。4曲目は完全即興でジョン・ゾーンが参加している(というか、ゾーンとベースのデュオ)。「予期せぬ結合」はオリジナルよりもややハードな感じだが、だいたい同じ。ただ、キーボードのバッキングの露骨でシンプルな盛り上げに心をわしづかみにされる。中盤のフリーキーなパートのあと、あっさりとインテンポになるところもかっこいい!
「そんなコタァないよ」は、のんしゃらんな軽やかな感じで演奏されるが、アルトがチャーリー・パーカーのフレーズを吹いたりして笑える。ペキペキするベースとドラムもかっこいい。じつに躍動感のある演奏で、ええ曲やなあとしみじみ思う。7曲目も即興だが、ドラムとギターのデュエット。「太陽と水すまし」も不穏な雰囲気をかもしだす超名曲だが、巻上公一の歌いあげが心を打ち、ライヴならではのドラムの躍動感が名曲の感動を高める。「ねこやなぎ」も即興で、ボーカルとサックス(ジョン・ゾーン)のデュオ。こういうのをやらしたら巻上さんの右に出るものはいない。「気持ちの問題」も即興だが、これは全員参加か?
ここからラストへ向けて怒濤のヒットメドレー(?)。観客とのインタープレイがあるらしいヴォイスパフォーマンスというか即興詩的なイントロをへて「でたらめな指」に。こういう展開はほんとにライヴ盤ならではですよね。くーっ、海琳さんかっこいいっす。「日本の笑顔」は、オリジナルと同じくゆったりしたテンポで演奏されるが、なんというか、ドロドロしたマグマのような熱さが感じられる。ほんとうに、ありえないぐらいいい曲だよなあ。ヒカシューがこの曲一曲しか発表しなかったバンドだとしても、十分、歴史に残っただろう。それぐらいすごい曲。そして「プヨプヨ」だが、ベースのイントロが流れただけで客が昂揚しているのがわかる。野本さんのサックスリフが、オリジナルのよれよれな雰囲気をわざと再現しているように思える。ライヴならではのいきいきした展開で、オリジナルのあの精神病棟にじっと座って壁を見つめているような、病的で、地獄へ落下していくような不穏な静寂はないかわりに、活発で激しいキ〇ガイ感があってすばらしい。ああ、名曲!
「パイク」は、これもオリジナルとはまったく解釈を変えた、ファンキー(?)で過激なバージョン。ライヴはだいたいこっちだったなあ。でも、どんな風に料理しても名曲は名曲。「アルタネイティブ・サン」はオリジナルにくらべて、ややハードな感じか。間奏の、巻上さんの叫び(?)もめちゃめちゃ興奮させてくれる。とにかく「いかれた呂律で心臓はいくつ?」……って、こんな歌詞、ありえないでしょう。すごいとしかいいようがない。「魅惑のペイブメント」も、ライヴならではの躍動感のあるバージョン。巻上さんのボーカリストとしてのすべてがここに叩きこまれている。これだけ声を張って、しかも微妙な表現力を失わないのはすごい。ラストは「うわさの人類」で、オリジナルの思索的な感じから、嵐のようにびゅーん!
と吹きすぎていくような爽快感がある。間奏のフリーインプロヴィゼイションもドラムを中心に全員一丸となってる感があってよい。ベースのリズムに乗せて、ボーカルが暴れだしてからは、もう筆舌につくしがたい愉しさ!
というわけで、とにかく傑作である名盤だと思うので、ヒカシュー好きで本作を聴いたことのないひとは必死に探してでも聴いたほうがいいですよ。
「ニコセロン part3」(MAKIGAMI RECORDS MKR−0007)
ヒカシュー
4曲入りのミニアルバムだが、その手応えはフルアルバムに匹敵する。「転々々」に入っていた「ニコセロンpart1」「同part2」につづく第三弾なのだが、1曲目「ニコセロンpart3」は、part1や2と同じく、ややラップのような、リズムを強調して言葉を乗せていくような感じ。そもそもニコセロンってなんのこと?
同じトラックを使っているのだろうか。2曲目「あしたにかけた」は軽快でお気楽なメロディとリズムに乗せて、ほとんどが7文字の短い文章(4つずつ脚韻を踏んでいる趣向)をつぎつぎとつむいでいく。即興なのか、いや、ちがうだろう。いきいきとした即興風ではあるが、考えつくされ、研ぎ澄まされた言葉の選びかたである。1曲目と基本的には空気感は共通している。3曲目は三田超人がリードをとる「青すぎるジャージ」は、勝手に「嵐」に歌ってもらおうという意図で作られた曲らしいが、これがめちゃめちゃすごい。「ジャージ、ジャージ、青すぎる」というリフレインの異常性が心を打つ。「僕は一人、娑婆バナナ」……などという歌を嵐が歌うかっ。最後の「ニコセロンsuper
mix」はpart1とpart2を坂出さんがリミックスしたもの。うーん、こうして聴くとやはり傑作だ。磨き抜かれた言葉が深すぎる。そして、それをぶち壊そうとするようなコルネットのでたらめぶり。4曲を通して聴くと、まさにコンセプトアルバムという印象だ。1曲目から4曲目までを貫く、「言霊」を中心にすえた音楽作りは傾聴にあたいする。傑作です。ジャケットにはヒカシューの最近の写真がたくさん載っていて、それも楽しい。
「私の愉しみ」(BALCONY RECORDS BOYS1)
ヒカシュー
これは、「いつものヒカシュー」ではない。なにしろ全曲インストで、ヒカシューをシカシューたらしめている巻上さんのボーカルと歌詞がないのだ(月面の2曲目だけヴォイスが聴かれるが、そこだけいきなり、いつものヒカシュー世界になる。これも巻上さんのその後のヴォイスパフォーマーぶりを考えると重要か)。しかし、ある意味では、これこそヒカシューだということもできる。発表当時は、たぶん聴いたひとはみんな「はあ?」という感じだったと思うが、その後現在にいたるまでのヒカシューの音楽を聴き続けているものにとっては、これが非常にエポックメイキングな傑作だったとわかっているはずだ。地球と月の写真をドカン!
と使ったピクチャーレコード。一度見たら忘れられるものではない。こういうのはCDがでてもぜったいに手放す気にはならない。しかも、それが「遊び心」という域をこえているのだ(こういった強烈なピクチャーレコードは、ほかにバレエのために書かれた「そばでよければ」があるが、買ったのはたしかだが、どこを探してもないのはなぜか?)。それにしても、ピクチャーレコードというのは普通に聴くだけのためならかえってその絵が邪魔になることが多く、音質的にもいかがなものかというのが多いが、本作は、こういった演奏を聴きながら、ふとターンテーブルをみると、月とか地球がぐるぐる回っている……というのはなかなか得難い体験で、さすがだなあと舌を巻く。ヨーガン・レールのファッションショーのための音楽ということだが、基本的には即興だと思う。巻上さんがまだベースを弾いていて、管楽器奏者はいない。即興といっても、リズムパターンは決まっていて、そこにいろいろな音をカラフルに載せていく、あるいは撒いていくような感じ。アンビエントとかそういった言葉がふさわしいのかもしれない(が知識がないのでよくわからない)。いわゆる「盛り上がり」のない演奏で、これがファッションショーのために使用されたとしたら、つまりはBGMとしてショーをより深くバックアップする用途に使われたのだろうが、もちろんそういう使われかたもできる音楽だが、じつは非常によくできていて、深く、かっこいい。しかしそのかっこよさに気づくには、注意深く、チリチリとしたその微妙な変化を聴きのがさないようにして対峙することが要求される。たとえば美しいピアノのアルペジオが続くなか、ふっ……と挿入される不穏な音使いとか、音色の微細な変色とか、民族音楽的な香りやジャズっぽいリアルな管楽器の挿入……そういったものを「美味しいなあ」といいながら味わいましょう。CD化もされていて、そちらはテイクがちがっていたり、未発表曲が収録されていたりするらしいが未聴。聴いてみたいなあ。
「うらごえ」(MAKIGAMI RECORDS MKR−0008)
ヒカシュー
めっちゃ期待していた。録音の様子などもあるひとからまえに聞いていたし、これは傑作だろうと思っていた。というか、聴くまえから傑作であることはわかっていた。なにしろジャケットが半端なくすばらしいのだ。ネットでジャケットデザインだけ先に見ていたのだが、うわー、めっちゃかっこええやんと思った。つまり、この時点で、あ、つまりは傑作ということか、とわかった。だって、これだけかっこいいジャケットをしょうもない内容の作品につけてしまったりすると噴飯ものだからだ。内容はよほどいいんだろうな、と期待したのです。そして、聴いてみて、やっぱりそうだったか、と思った。いえいえ、聴くまえからほんと、傑作であることはわかっとったのです。というわけで、今回も、即興をポップに聴かせるヒカシューのアクロバットが炸裂している。インストゥルメンタルならありえるだろうが、なにしろ巻上公一のボーカルが中心のグループなのだ。この、すごい、深い、かっこいい、リフレインとかもある歌詞が、即興とはなあ……。もちろん即興的に歌ったものをベースに、整える作業をしているのだろうとは思うが、その自由な空気は聴いたらすぐにわかる。よく、即興だとか作曲だとかは関係ない。いい音楽ならばそれでよい、という意見があって、それはそのとおりなのだが、即興をベースにした音楽の、この、なんというか「なにやってもいいもんね」という雰囲気は、ぜったいに大事な大事なモノなのです。こんな離れ業をここまで長く追求し、ここまでの高み・完成度まで高めているのに、しれっと、あたりまえみたいな感じでやってるバンドは世界でもヒカシューだけだって。1曲目のイントロだけでもう「キーッ」となるぐらいかっこいい。なにしろ曲名が「筆を振れ、彼方くん」ですよ。歌詞が「虫虫虫虫虫に虫になるなる」ですよ。サウンドもヒカシューならではなのだが、いつもいつも思うことだが、巻上さんの「声」が好き。ヴォイスパフォーマンスとして、とか、ボーカリストとして、とかはもちろんだが、ただただ単純に「声」が好きだ。高校生のときにはじめて聴いたときから、身体にすりこまれているのだろう。声の万華鏡とはこのことだ。千変万化、しかもずっと巻上さん。得に5曲目「ひとり崩壊」の歌詞は衝撃でありました(もちろん演奏も凄まじい)。この曲をシングルカットしたら、リスナーは20歳ぐらいのバンドだと思うかもなあ。9曲目「夕方のイエス、朝方のノー」のアレンジはすばらしい。巻上さんのジャズっぽいコルネットソロが快調なので驚く(失礼)。完全に即興と思われる曲もいっぱいあって楽しい。なかでも11曲目「曇天に紅」という曲のヴォイスは、ほんとにすごいから万人に聴いてほしいです。ぜったいおもろいから。12曲目の「生まれたての花」という曲が本作の白眉かも。最後の曲は「つぎの岩につづく」というタイトルのリズム主体のドライブ感あふれる12分にもおよぶ即興だが、巻上さんはラファティ好きなのか? なんかうれしい。次作へつづくよ、という意味もあるのかも。
「不思議をみつめて。」(徳間ジャパンコミュニケーションズ EGDS−60)
ヒカシュー
「超時空世紀オーガス02」というアニメのための音楽で、ヒカシューが好きで好きでたまらなかった私も、さすがにこのアルバムだけはスルーしていたのだが、そののち本作の音楽が私が当時思っていたような「アニソンとBGM」などではなく、まさにヒカシューそのものなのだと知って、うわっー、しまった、買っておくんだった、と悔やみまくった作品が、ついにリマスターされてCDで発売された。1曲目のイントロからして、まさに、もう、完全にヒカシューであった。私は思わず、スピーカーのまえで「うぎゃーっ」と叫んだ。ボーナストラックを含めて、ボーカルの入っている曲はきわめて少なく(ヴォイスはある)、ほとんどがインストだが、BGMといっても聴かせどころは多々あり、しかもそれらが手抜き一切なし、妥協なしの、「ヒカシューとしてのBGM」になっているものが多いのだからこたえられまへん。たとえば、3曲目のバスクラからアップテンポになるところ、4曲目のキャッチーなテーマの合間にアルトがしゃがれた叫びのようなフレーズを吹くところ、5曲目のサウンドエフェクトを駆使した切迫感を感じさせるところ、6曲目の陰鬱なバラードが不協和音によって歪み、そこに不気味な声が侵入するところ、7曲目のギターやバスクラ、金管を使っているようなノイズなどによるフリーインプロヴィゼイションのような効果音がしずしずと進行していくところ、8曲目(ヴォーカル入り)なんかはサウンドも歌詞も完全にヒカシューだ。そして、9曲目のボコーダー(とメロトロン?)を使ったグロテスクでユーモラスな表現、10曲目の殺伐とした繰り返しのマーチ(ボーカルもかすかに聞こえる)からの一転したバラード終わり、11曲目の「幼虫の危機」を思わせる重い曲調からのアルトのフリーキーな咆哮、12曲目のギターのピチカートによる自由な音列を主とした表現、13曲目のサックスの多重録音によるひとりアンサンブルとそれをバックにしたアルトの絶叫、そしてそれが崩れていくあたり、14曲目のこういった感じはなんといったらいいのかちくちくとした刺激に満ちたブラックなサウンドだし、15曲目はイントロからしてまさにヒカシューサウンドとしか言いようがない演奏だし、16曲目と17曲目はユーモラスでゴージャスなサックス多重アンサンブルがまた聴けるし、18曲目は中世ヨーロッパの街角を思わせる不思議な雰囲気で、19曲目はガムランのように重いパーカッションが鳴り響くなか、ヴォイスも混じった不気味なサウンド、20曲目は和太鼓がどんつくどんつくいうようなリズムのうえで、お囃子が軽く飛びはねているような演奏、21曲目はシンセがパイプオルガンのように荘厳な響きをかもしだし、22曲目はなんとなく不気味なベーストラックのうえをサックスが美しいメロディをつむいでいき(ちょっとグローバー・ワシントンやハンク・クロフォードを連想したりして)、23曲目はシンセがなんだかわからないが神聖な雰囲気のある響きを弾き、そこにトランペットが金属音を付け加え……突然終わる。いやはやすんませんでした。これはもうどこを切ってもヒカシューがあふれ出すヒカシューによるヒカシューのアルバムでした。聴けてよかった!
「万感」(MAKIGAMI RECORDS MKR−0009)
ヒカシュー
ニューヨーク録音の新作。期待して聴いたが、期待どおりの内容で満足。といっても、「ああ、いつものこのサウンドね。中身がどうとか関係ない。このテイストとサウンドが聴ければ満足なんだ」みたいな内容ではないことはヒカシュー好きなら当然わかっていることだ。一作一作新しく、一作一作チャレンジで、一作一作芯が通っているのがヒカシューなのだ。コンポジションの曲も、即興の曲もあるようだが、これは作編曲されているなと思っても即興かもわからず、これは全部即興だろうと思ってもじつは一部決まっているかもしれない……と思わせるぐらい、あいかわらず即興とコンポジションの境目がわからないような、完璧にとろとろにとろけた融合状態が聴かれ、こんなバンドはなかなかないですよ。歌詞が用意されている曲でも、巻上さんはそのとおりに歌っているとは限らないようだ。今のヒカシューは、どれだけむちゃくちゃやっても、それがしっかりしたリズムと(いかにも前もって決まっていたかのような)構成で提供されるし、しかも即興性による自由奔放でいきいきとした「空気」はその場にどーんと存在するので、ジャズ〜即興系ならともかく、ロックバンドでこういう本当に自由で柔軟なグループは少ないように思う(自由そうにふるまっているバンドはくさるほどあるけど)。ヒカシューは最初期から即興を取り入れていたが、ここまでのが自由さとロックとを融合できるようになるには、いろいろ試行錯誤を繰り返し、長い道のりだったと思うので、一朝一夕で真似できるものではないだろう。だから、みんなヒカシューを聴くべきだと私は大声で言いたいのです。一曲一曲を歌詞をじっくり味わいながら聴くという聴き方もできるし、たんにサウンドをサウンドとして味わうという聴き方もできるし、アルバムのなかのあちこちにはっとするような宝物がたくさん散りばめられていて(たとえば6曲目や10曲目の、尺八を吹きながら歌う場面とか)、それらをずーっと拾っていくという聴き方もできる。もちろんそれらをごちゃ混ぜにした聴き方も可能である(というか、それが普通?)。どう聴いても揺るがないのが、「ヒカシューならでは」としか言いようのないこの空気感なのだが。ところで、1曲目のホーンアンサンブルで、バスクラとともにバリトンサックスとおぼしき音が聴かれるのだが、参加メンバーのなかにサックスはいない。シンセ?
「チャクラ開き」(BRIDGE−INC. EGDS−62)
ヒカシュー FEATURING チャラン・ポ・ランタン
一曲目は「人間の顔」に収録されていた名曲。作曲は野本さん。アレンジなどのせいで、完全に生まれ変わった新しい曲に聞こえる。めちゃめちゃかっこいい。こうして聴くと、ますます名曲だという認識を新たにした。2曲目は「モスラの歌」をかなりストレートに演奏。昔はライヴでよくやってたよね。冒頭の語りがなんともいえない味わい。ピアノソロがちょっとフリーな感じで、すごくはまっている。井上さんがシンセで入っているのも泣かせる。ここだけの話、この曲は私もバンドで何度もやったことがあるのだが、男ふたりでハモるという荒技でした。「モスラの歌」から「大漁節」になるというアレンジでやったことも二回ほどあった。3曲目は「ダメかな?!」という曲で、私の印象では、初期の「でたらめな指」とか「マスク」などを連想させる、すごいいい曲。ゆったりとしたグルーヴのうえでフリーキーなトランペットなどが転げ回る。キーワードは徹頭徹尾「ダメかな」。わははははははは。これは名曲だ! 4曲目は「チャクラ開き」というトレパネーション的なタイトルの即興だが、リズムがはっきりしているので、そこにいろいろな要素が現れては消えていく感じ。構成もしっかりしているので、即興といっても、完全にフリーではなく、狙いというかテーマが感じられる。半分をすぎたあたりで「歌詞」が何種類か挿入されるが、これがなんともいえず怖いです。ライヴでも多い、ヒカシューならではのインプロヴィゼイションの方法だと思う。ラストの一言も、意味深なようで意味がないようで意味深。5曲目は「黄ばんだバンダナ」。この曲はライヴで聴いた……ような記憶があるがちがってるかも。とにかく変です。へんてこりんです。妙ちきりんです。三田さんのヴォーカルも、いつまでもヘタウマな感じを保っていてすばらしい。こういう変なアルバムはどんどん出されるべきであり、どんどん聴かれるべきです。私はそう断言します。
「生きてこい沈黙」(MAKIGAMI RECORDS MKR−0010)
ヒカシュー
ヒカシュー最新作はまたしてもニューヨーク録音。本当にコンスタントにアルバムが発表される。きっとそれはたいへんな努力によることなのだろうが、バンドとしてもノリにのっていて、「ヒカシューの『今』を発信したい!」という気持ちがよく伝わってくる。我々ファンも、気合いを入れて「さあ、聴きましょう!」という姿勢で待ちかまえている。タイトルはなんとも思わせぶりだが、その受け取り方はリスナーひとりひとりに任されているのだろう。もしかしたら「生きること」というアルバムと関係があるのかも……とか考えること自体がすでにヒカシューの術中にはまっている(「生きること」とジャケットが同じという点も意味深)。今回はかなりコンセプトアルバム的で、冒頭の「生きてこい沈黙」、中盤8曲目の「はてしない憶測」、ラストの「起きてこい伝説」という、ほぼ同工の静かな演奏がそれを示している。とにかくいきなりバラード的に「生きてこい沈黙……静かだなああ……」と歌われて、その意味を解することができぬまま、つぎの曲へ文字通り放り込まれる。ああ、こういうのがヒカシューを聴く快楽なのだ。なにがなんだかわからない。シュールで奇抜で深くて重くて軽くて楽しくて苦しくて悲しくてかっこよくて……つまり、初期のころとなんら変わっていないのである。しかし、めちゃくちゃ変わったのである。どっちやねん。変わったけど変わっていないのがヒカシューなのだ(そういえば「変わってる」というアルバムもあったよなあ)。2曲目「ナルホド」は、ベースラインとバスクラリネットが印象的なノリノリの曲だが、どこかリズム的に外れているようで(たぶん「なるーほど」という、ビートに合わないリフレインのせい)、そこがなんともいえない快感。コルネットが活躍し、何度聴いてもマイルスの「ビッチェズ・ブリュー」を連想してしまう。3曲目は「自由でいいんだよ」は、即興部分が多く、ついタイトルの「自由」という言葉について考えてしまう。「森へ……森へ行こう……行方……行方知らないまま……なななな……」というエンディングはすばらしい。4曲目「イロハ模様」は曲も歌詞もぐっとくるが、この不思議な面白さは聴いてもらうしかない。途中の巻上さんによる篳篥ソロも短いが変態的でよい。「ぼくは単なる模様」という歌詞に心を掴まれる。5曲目「マグマの隣」は、ピアノの連打がリズムを作る激しい曲だが、メロディラインの音程が非常に自由で、まるで「リズムを歌っている」ような感じだ。かっこいいです。6曲目「メロンを鳴らせ!ベルーガ」は、シロイルカのメロン器官のことを歌っているのかと思いきや、かなり過激なフリーインプロヴィゼイションで、今のヒカシューのライヴが思い浮かぶ。すごくピシッと終わる。口琴のびよよんリズムに導かれてはじまる7曲目「テングリ返る」は、本作の白眉といっていいすばらしい曲(演奏)で、めちゃくちゃ気に入った。シングルカットすればいいのに……と思ったりして。途中でちんどん風になり、テルミンやコルネットがでたらめ言葉のヴォイスなどがフィーチュアされる。なお、テングリというのはアルタイ〜モンゴルの古代信仰だそうだが、「はっきりした教義を持たないことで知られている」らしい。すごい宗教だ。「はてしない憶測」を挟んで9曲目「こんな人」は、3拍子系でドラムが叩きまくる激しい曲(佐藤さんの作曲)で、間奏部分に三田超人〜佐藤正治の激烈なやりとりが展開する。間奏というより、曲のもうひとつのハイライトのようだ。歌詞はあいかわらずよくわからないが、それも含めてすばらしい演奏で、アルバムのクライマックスといっていいかもしれない。10曲目「静かなシャボテン」は、軽快な楽しい曲。「未知な生物、産んでみようか」という歌詞は最高。サビでいきなりリズムが変わるのがまたかっこいいですね。歌詞の意味はやっぱりわからん! ええけど! 要するにサボテンにオシロスコープかなんかをつないだあの実験のことを言ってるのか。たぶんちがうだろうな。11曲目「アルタイ迷走」は、「メロンを鳴らせ!ベルーガ」と並ぶインプロヴィゼイション。そしてラストの「起きてこい伝説」でアルバムはしめくくられる。ジャケットはもう、額縁に入れたくなるほどすばらしい(歌詞カード(?)は広げるとその裏に大きな絵が描かれていて、それもまた凄い。あと裏ジャケットもね)。毎回楽しませてくれるヒカシュー。つぎのアルバム(とライヴ)が愉しみすぎる。
「あんぐり」(MAKIGAMI RECORDS MKR−0011)
ヒカシュー
めちゃくちゃよかった。傑作としか言いようがない。このところヒカシューはずっとニューヨーク録音が続いているが、今回もまたニューヨークでの録音。エンジニアとの相性などもあるのだろうが、よほどニューヨークという場所というか空間がヒカシューにぴったり合っているのだろう。「ゴジラ伝説」のコンサート(大絶賛を浴びたそうである。そらそやろ)とレコーディングがあり、そのすぐあとの録音だと思われるが、最近のヒカシューは、即興+ポップというか、歌詞やメロディも即興的な要素がぐーんと前に出ているものが多かったが、本作はやや雰囲気が変わり、しっかり作り込んだ曲と即興っぽい曲がバランスよく混ざった構成になっている(と思う)。そのぶん聴きやすいが、内容は逆にいつにもましてハードである。タイトルの「あんぐり」は巻上さんらしいネーミングだと思うが、口をあんぐりとあけた「もう馬鹿馬鹿しくて唖然としている」という「あいた口がふさがらない」的な意味のほかに、「怒り(アングリー)」という意味もかけているのだろう。一曲一曲が、最近の世の中に対する、もはやポカン……とするしかないヒカシューからのメッセージであり、その底にはいつものようなニヒルな哄笑、揶揄、諧謔……だけでなく怒りがふつふつと湧いているのではないか。つねにレスター・ボウイのごとく世間の常識や規範を笑い飛ばしてきたヒカシューにして「怒り」を覚えるような世の中がすぐそこにまで来ているのではないだろうか。まあ、これは勝手な私個人の受け取り方であって、どんなメッセージを受け取るかはひとそれぞれだろうけど。本作を聴いて思ったのは、リズムというかバンドのサウンドに乗っかる巻上さんの歌詞が、じつはリズムにぴったり乗るようなノリノリのものではない、ということで、たとえば海外曲の邦訳バージョンや日本のラップなどに感じる「日本語にするとノリが変わる」ということをものすごく意識的に行っているのではないか。リズムのノリとボーカルのノリのずれが、聴き手として、乗ろうとして乗れない、単純なダンスミュージックとは一線を画した世界を作っているのかもしれない。いや、ほんと。私としては、ダンスミュージックとして云々という論調には飽き飽きなのですよ。
というわけで、曲ごとに感想を。今回も歌詞がすばらしく1曲目「あんぐり」ではブラッシュのビートに乗って「声帯の 奥に連なる 叫びの系譜」とか「人間ゆえに ささくれてよし 憐れんでよし」とか手もうたまらん。2曲目は即興で、コルネットとバスクラがいい味を出してる。3曲目は、さっき書いたリズムに単純に乗ろうとしない巻上さんのボーカルの美味しさを存分に味わえる曲で、あー、もうたまらんなあ、こういうの。歌詞には「なんだろう なんだろう」と書いてあるだけなのだが、それを「なあんだろおおおう……なあんだろおおおおおう」と歌うのだ(こう書いてもなんのこっちゃと思うだろうが、とにくか聴いてもらうしかない)。歌詞もすごくて、「なんだろう 白の正方形のくすみは」って……アブストラクトか! 4曲目も即興。フルートみたいな音がフィーチュアされいるが、これは尺八なのか? すごい表現力だと思う。5曲目は口琴をフィーチュアした即興。巻上さんのヴォイスインプロヴィゼイションが全編炸裂する。面白すぎて悶絶。6曲目は、バスクラの低音をうまくいかした8ビートのロックンロール(?)。「いびつな機能に満ちている」と3度繰り返されると、「うーん……」となる。歌詞がほんとに素敵なので、いろいろ考えさせられる。詩集を読んでいるような気になる。こんなバンドはヒカシューしかない。こういうことをずーーーーーーーっとやってきているのだ。すごすぎるし、素敵すぎる。7曲目は胸をかきむしられるようなバラードで「きみは誰なんだ 透明すぎるよ」というリフレインがとにかく心を打つ。傑作。8曲目は、これまためちゃくちゃすばらしい曲。スマホでのやりとりなどでありがちな「了解です」という言葉を使った曲だが、いやー、ええなあ。この歌詞とその演奏は聴いてもらうしかない。ブラックユーモアで包んでいるが、このメッセージは包んでも包み切れないぐらいにストレートだ。9曲目も即興で、クリス・ピッツィオコスがアルトを吹く。ヴォイスの高まりとともにアルトもエキサイトしていくが、全体に軽々と演奏している雰囲気である。10曲目も即興で、アルトとコルネット、シンセによるハードなインプロヴィゼイションが展開される。11曲目は昭和歌謡的な曲調のナンバーだが、「疑い 炙りだし 安心 振りかけて 曇天 仰いでる」という歌詞にやられる。12曲目も即興。この曲だけ聴くと、ノリのよいインプロヴィゼイションのアルバムかと思うほど。かっこいい。最後の13曲目は、歌詞が前面に出た曲。「いい質問ですね」という、繰り返される歌詞が怖い。
ああああ、やっぱりヒカシューはすばらしい。ゲストも豪華で、クリス・ピッツィオコスをはじめ、モリイクエ、あふりらんぼ、吹雪ユキエなどなど(井上誠さんは、まあ、ゲストという感じではない)。ジャケットも秀逸で、ここ2作続いていた逆柱いみりさんではなく、こんどうあきのさん。すばらしいです。前衛で、なおかつポップ。ヒカシューは変わり続ける。そして、変わっていない。傑作!
「ヒカシュースーパー2」(EMI RECORDS EGDS−63)
ヒカシュー
「ヒカシュースーパー」は本当にすばらしいレコードで毎日繰り返し聴いた。「ガラスのダンス」や「ドロドロ」などはシングルにしか収録されていなかったし、「パイク」や「プヨプヨ」のライヴバージョンがオリジナルとはまるで変わっていたことに驚いたものだが、あれから34年経ってなななんと第二弾が出たのである。すごいっ! しかも、収録曲は「超・少年」「私はバカになりたい」という爆弾(?)2曲を冒頭に、「パイク」の英語バージョンや、ゴジラ伝説でも披露していたクラフトワークの「放射能」、「俗物図鑑」の主題歌「筋肉とフルーツ」(マスター紛失で新録したそうです)、内橋和久のダクソフォンを加えた「20世紀の終わりに」、ハンガリーのミュージシャンとの共演によるヴォイスインプロヴィゼイションの極致が聴ける「オボポイ」などわくわくしまくるラインナップで、いやー、何十回も聞いたけど飽きないですね。「超・少年」「私はバカになりたい」「筋肉とフルーツ」の完成度には背筋が寒くなるほどで、バンドサウンドももちろんだが巻上公一という詩人のつむぐ歌詞のすさまじさに驚くしかない。ちなみに、私は3曲とも歌詞を見なくても歌えます。「超・少年」は冒頭のベースのリフの印象が強いし、コーラスとかも入っていてゴージャスである(戸辺哲さんもいて、非常に初期のメンバーである)。「私はバカに……」は蛭子能収のマンガがジャケットのシングルを見たことは覚えているのだが、私は買ってなくて、いつどこでこの曲を聴いたのか思い出せない。聴いたことはまちがいないのだが(歌詞を覚えているから)。ラジオかなあ……。「放射能」は、クラフトワークのバージョンとはちがった雰囲気のもので、どっちもすばらしい。野本さんのサックスがすでに入っている。「福島」という言葉が出てこないのがかえって怖ろしく感じる。こういう寄せ集めのオムニバスでもヒカシューの魅力は輝いている。このバンドが一度も解散することなく今も第一線ですごいことをやり倒してくれているのは、本当にありがたく、うれしいことで、感謝しかないのだ。
「なりやまず」(MAKIGAMI RECORDS 2020 MKR−0016)
ヒカシュー
ヒカシュー3年ぶり、24枚目のアルバムだが、これまでのアルバムとは違った意味合いを持っている。新型コロナウイルスが世界中に猛威を振るいだしかけていた今年2020年3月、ヒカシューはエストニアツアーに出発した。しかし、ライヴを一回した時点でヨーロッパでパンデミックがはじまり、残りのツアーは全部中止になった。ヒカシューはただちに現地で小さなスタジオを借りて4曲を録音した。それがこのアルバムの後半4曲である。即興的な歌詞を聴くと、「誤解するウイルス、不確定な形して、フェイクを増殖して、人情もない」といった直接コロナウイルスを示す言の葉はもちろん、全体としてコロナ禍がこれからどのように広まっていき、自分たちが、世界が、人類が、文化がどうなっていくのか、という不安感や焦燥感などが、各楽曲から瘴気のように噴き出し、血のように垂れてくる。ヨーロッパに来た途端全公演が中止になるという、コロナの真っただ中にいるバンドが、リアルタイムに表現したものがこの4曲だ。そして、1曲目から3曲目までは帰国後の録音で、1、2曲目はスタジオ、3曲目だけはライヴである。一聴してわかるとおり、ここにあるのはいつものヒカシューの音楽である。しかし、ここにあるのはいつものヒカシューの音楽ではない。なにか、もっと、こう……言葉にしにくいが、これまでは(当然のことだが)ひねりや新奇さ、違った表現を追い求めてきたヒカシューの、これは「芯」というか、いつも以上に「ありのまま」の姿のような気がする。それはきっと、突発的な極限状況にさらされることによって、(想像だが)時間も余裕もなく、剥き出しの、裸の状態で録音せざるをえなかったためだと思われる。しかし、その結果として、とんでもなく高い、すばらしい表現が生まれた。壮絶といってもいい。いつもはもっと余裕があって、ユーモアたっぷりの巻上さんだが、このアルバムで聴かれるユーモアは、もっとぎりぎりの、ヤバい状況下で出てくるタイプのものに感じられる。だが……それでもヒカシューの芯は揺るがない。この3年ぶりの新作は、とんでもない傑作になったと思う。1曲目のタイトル曲「なりやまず」における副題「ことさらに面妖」という言葉に象徴される、言葉(と音楽)によってこの世の汚濁を白日にさらしていくような方法論、2曲目「千羽鶴のダンス」の延々と繰り返される狂気に満ちた歌詞、3曲目「モールメイラ(苦い)」における、まさに苦みに満ちた慟哭の演劇的バラード表現、4曲目の「あらゆる知恵から」における巻上公一の即興的な歌詞、メロディによるボーカルや暴風雨のようなテルミンを含むインプロヴィゼイションバンドの極致としてのこのグループの凄まじさ、5曲目「黒いパンの甘さたるや」という意味深なタイトルの曲における、延々と続くハードなビートのうえで狂乱する口琴、6曲目前半のかなり長尺のインプロヴィゼイション(巻上さんはおそらく尺八、コルネット、テルミン……と全部載せ)から一転してはじまるなんだかわけのわからない歌詞を朗々と歌い上げるボーカル、そしてラスト7曲目の前衛詩の端正な朗読(?)からの激しく暴走する即興がバシッと終わり放心するエンディングなど、とにかく聴きどころは満載だが、これだけの深みはやはり一朝一夕ではえられない。
この文章を読んだ皆さん、ご心配なく。いつものヒカシューです。でも、いつものヒカシューではありません。なんだ、それならやっぱりいつものヒカシューじゃないか、と思った皆さん。正解です。あと、こんなに無意味な歌詞カードはないなあ、と思った。
「虹から虹へ」(MAKIGAMI RECORDS 2021 MKR−0017)
ヒカシュー
前作「なりやまず」がたいへんな傑作だったので、本作への期待は高まる一方だった。逆柱いみりのジャケット(だけでなく、本作ではあちこちに逆柱さんの絵ががっつり使われていて、音楽とのコラボになっている)もめちゃくちゃすばらしい。1曲目はちょっと聴くと2曲目のイントロのようだが、独立した曲らしい。しかし、アルバム全体のイントロダクションのようにもなっているコラージュのような短い即興。そして2曲目「LA LA WHAT」には驚かされた。度肝を抜かれた、と言ってもいい。最近のヒカシューは即興を全面に出したかっこいいアヴァンギャルドロックバンドという感じだったが、この曲は冒頭からいきなりガツンと来るリズムとキャッチーなメロディ、耳に残る歌詞を強調した、言うなれば初期のヒカシューの曲に通じるような感じなのだ。そして、この方向性は本アルバム全体に共通している気がする。最近のファンも昔からのファンも感涙必至である。これは原点回帰とかではなくて、どんどん進化をとげて変質していき、超尖った音楽をやるグループとして今に至った、と思われている(であろう)ヒカシューだが(そして、そういう感想は間違いではないと思うが)同時にまったく変わらない部分を底辺に持ち続けていて、それがマグマのように噴き出した、という雰囲気である。そして、まったく衰えぬ、というか、逆に年々強靭になっていくパワーには驚くしかない。まあ、そういうようなことはアルバムだけでなくライヴに通っているファンにとっては「なにをいまさら」という感じでありましょう。3曲目「チンピーシーとランデヴー」もコンセプトは似ていて、キャッチーで変にひねったりしていない真っ向勝負なメロディーと歌詞を巻上公一とチャランポのももが絶妙の男声女声のバランスで歌い上げる。ええ曲や。歌詞に込められたありったけの諧謔は、詩人巻上公一の真骨頂である。4曲目は即興で、最初のほうでバチバチ鳴っている撥弦楽器はウクレレなのか? アナーキーなコルネットも大々的にフィーチュアされる。5曲目は「東京あたりで幽体離脱」という、タイトルを見るだけで面白そうなのだが、聴いてみると超歌謡的なムードミュージックの皮をかぶった「ヒカシュー・ミュ―ジック」だった。これも初期ヒカシューの曲を連想する。纐纈雅代のアルトがからむ。歌詞はまさしくヒカシューであって、こういう即興とコンポジションの分け目がない演奏を可能にした巻上さんとヒカシューというバンドの凄みを思う。6曲目「とびむしのごちそう」も即興だが、ドラムのリズムがずっとキープされるうえでの大暴れが続き、楽しすぎる。巻上さんのヴォイスや口琴がこれでもかとフィーチュアされる。歌詞カードを見ると、なんと「歌詞」が載っていて、これはあとで聞きとって文字に起こしたものだろうが、(その行為自体が)笑えます。7曲目は「残念なブルース」というタイトルだが、聴いてみるとほんとにブルース形式だったのでこれまた驚いた(実際は12小節+1)。ここまでストレートなブルースってヒカシューのレパートリーにこれまであったっけ……。しかし、巻上さんの書く歌詞や即興ヴォイスはブルース形式にもぴったりはまるのだ。なるほどなあ。なぜか巻上さんのコルネットソロはブルースではなく1発。8曲目もノリノリの曲調だが、歌詞が全編最高であり(冒頭いきなり「エレベーターに乗って宇宙に行く。でも、屋上までしかボタンがなくて……」というのは凄くないですか。「人間以上は人間なのか」とか……)、途中でバラードになる構成もめちゃくちゃ効果的だが、後半はソロの応酬になり、どこか懐かしい感じのする清水一登のシンセソロや三田超人のソロもツボを押さえまくっていてさすがとしか言いようがない。そこにハンドクラップやテルミンがかぶさってきて、ドラムが爆発するあたりの展開は、長年こういうことをやっているバンドとしてのヒカシューの凄みを感じる。9曲目も即興で、はっきりしたリズム(ただしどんどん変化していく)とフリーな音の数々がからみあい、独特のグルーヴ感が生まれている。尺八や笛、ヴォイス、テルミン、コルネットなどの断片がないまぜになって不思議な空間が作り出されている。いつものヒカシューの「アレ」である。かなり長尺だがダレるような箇所はもちろんなく最後までミュージシャンたちの心の動きにぴったりとついていくことができます。10曲目は6拍子の反復がかっこいい民族音楽というか呪術のような雰囲気の曲調で、巻上さんの歌詞がすばらしい(「アルハンゲリスク大天使なり」なんてなかなか言えませんよね……)。ラスト11曲目も即興で、本作中ではいちばんいわゆるフリーインプロヴィゼイション的な演奏。巻上さんの即興的な歌詞と変幻自在な発声は歌舞伎のようでもあり、聴いていると別世界に連れていかれる。全員イキイキとしているがとくに三田超人のギターが爆走していて聴き惚れる。「神も仏もない世界……」という独白が胸に応える。ヒカシューが現在のメンバーになってから長いが、この5人でしか表現できない世界というのが完全にここにあるのだから、驚くことはない。異常な緊張感とパワーとポップさが同居した信じられない音楽を私は毎度毎度聞かせていただいている。今回も、そして、また次も……。最高でした。
「雲をあやつる」(MAKIGAMI RECORDS 2023 MKR−0019)
ヒカシュー
前作「虹から虹へ」があまりに傑作だったヒカシューだが(毎回こんなこと書いてるのだが)、本作もすばらしかった。イリヤ・カバコフの詩そのものの引用がある曲(3、6、7曲目)以外もすべてカバコフにインスパイアされた楽曲のようだ。「カバコフの棚田」をテーマにした1曲目からヒカシューサウンドが爆発する。「黄色いさえずりしているね、あおいざわめきしているね、ひしゃげられたりひしゃげたり」という歌詞はすばらしすぎて、あまりに巻上公一すぎて泣きそうになる。2曲目タイトル曲の「雲をあやつる」は、タイトルからして巻上公一的な魅力全開だが、歌詞も「途方もないこと考えて、地上にふんわり着地せず、それでもまっすぐおいしくしたい」とか魅力的すぎる。本作中最大の傑作である思われる3曲目「どこまでが空なのか」冒頭のヒカシューがロックバンドであり続けていることがわかるシンプルなベースラインを押し出した演奏を聴くと、これがヒカシューのずっと変わらない部分なのだと思うが、そのあとクラシック的なリフがズドーンとフィーチュアされて、カバコフの詩が読まれるあたりの演劇的な演出(すばらしい詩ですね)……と続く構成は長い芝居を観ているかのような充足感がある。長いキャリアでつちかった表現力、ともいえるだろうが、まったく手垢がついていない新鮮そのものの表現でもある、というのがアクティヴな最前線のバンドであるヒカシューの強みだと思う。牧歌的(?)と言っていいのか4曲目にも棚田という歌詞が登場する。「地球に住むために家賃はいらない」「人間になるために証明はいらない」「天国に行くための免許はいらない」「苦しみを検索して何になる」……といった歌詞が心に強く強く染みる。どこかモンゴル的なサウンドであり、作曲者佐藤さんのパーカッション、巻上さんの即興ヴォイスも炸裂する。5曲目は「聞こえない音楽を作曲した」「透明な絵の具を発明した」などなど、巻上公一の詩人として魅力全開の歌詞や語りかけるような唱法がすばらしすぎる。全編ルバートで、深淵から響いてくるようなコルネットやギター、パーカッション(銅鑼やグロッケン?)などが最高の曲。この、ひたすらフリーリズムでのたゆたうような即興が続くようなロックバンドはなかなかないですよ。6曲めは全員によるインプロヴィゼイションから即興的な詩の朗読による表現になってるような気がする(吹雪ユキエさん参加)。7曲目「ソロマトキンさんは運転手」も激しくシンプルなビートと「人はどうしたらいい人間になれるのか、天使の羽をつけてみよう」という(カバコフによる)リフが繰り返され、コルネット、アルト、ヴォイスによる過剰な即興がぶちまけられる。かっちょいい! ラストの8曲目は「棚田式トランスパレント」という曲で、カバコフのモチーフをもとにした図形譜による演奏だということだが、聴いている分にはいつものヒカシューのカラフルで楽しいインプロヴィゼイションという感じである。ぐちゃぐちゃと終わっていく雰囲気もいい。アルバムを締めくくるにふさわしい充実の演奏だと思う。あー、今回も満足しました。なお、ゲストということになっている纐纈雅代さんはおそらく全曲参加しているので、本作にかぎっていえばほぼレギュラー的な参加だと思われます。ジャケットもすばらしい。傑作!