joseph jarman

「INHERITANCE」(TEICHIKU RECORDS KUX−189−B)
JOSEPH JARMAN

 このレコードはなあ……何度聴いても、個人的には「?」マークが頭に点灯する内容なのだ。ジョセフ・ジャーマンは、というかアート・アンサンブルのメンバー(とくにサックスのふたり)はサックスだけでもソプラニーノからコントラバスサックスまで、クラリネットも各種、それにフルート、ピッコロ類、さまざまな民族楽器的な笛その他、そして無数の打楽器類を駆使するが(駆使するからこそ、か)、正直言って、ひとつひとつの楽器の習熟度はすごく低いと思う(あー、言ってしまった)。主奏楽器であるサックスからして、楽器は鳴っていないし、音程は悪いし、指も回ってないし……なかでもテナーサックスがいちばん露骨かもしれない。たぶんもともとアルト吹きなのだろうなあ、テナーはえぐいメタルのマウピをつけて、ぶちぶち切れるアーティキュレイションで吹くのだが、楽器が鳴ってなくてしょぼい音なのだ。もちろん集団即興をあれほどいきいきと展開するのだから、なんら問題ない。だってジョセフ・ジャーマンの魅力は「一サックス奏者」というようなものとはとるかに遠いところにあるのだから。そういうことからしてこのアルバムのように、テナー一本で、ちゃんとしたリズムセクションをしたがえて、スタンダードなどを演奏するというのはいちばんヤバい趣向ではないか。ライナーノートにはジョセフ・ジャーマンのサックス奏者としての実力について綿々と語られているが、それがどうも説得力をもって響いてこないような中身である。しかし、本作を売っぱらったりできずにずっと手元に置いてあるのは、ジャケットにジョセフのサインが私の名前入りで黒々と書かれているからで、これは私が某レコード店のマスターとともにジョセフ・ジャーマンからダグラス・ユワートのライヴを主催したときにジョセフ本人にもらったのだ。私は、アートアンサンブルでのジョセフの演奏はめちゃめちゃ好きだし、主催したライヴでの演奏もすばらしかったが、このアルバムは……このアルバムだけは彼のよい面ではなく、逆の面ばかりが出てしまったなあ、と思います。残念。だけど手放せん。愛着は人一倍あるんです。

「AS IF IT WERE THE SEASONS」(DELMARK PA−7027)
JOSEPH JARMAN

久しぶりにLPを買った。じつはこのアルバムは一度も聴いたことがなく、フレッド・アンダーソンの記事によく名前が登場するので存在だけは知っていたのだ。こうして日本盤がでていたとは驚きだ。A面は、ジョセフ・ジャーマンのトリオ(チャールズ・クラークのベースにサーマン・ベイカーのドラム)にボーカルのシェリ・スコットが加わった4人編成。B面は、そこにリチャード・エイブラムスのピアノやフレッド・アンダーソン、ジョン・スタブルフィールドら六人が加わっての大編成の集団即興。正直言って、フレッド・アンダーソン目当てで買ったのだが、あまりにぐじゃぐじゃで、どれがフレッドの音だかさっぱりわからん。よくも悪くもジョセフ・ジャーマンである。シェリ・スコットのヴォイスは非常に刺激的でよかった。ジャケットもすばらしい。

「EGWU−ANWU(SUN SONG)」(BOMBA RECORDS BOM3505〜6)
JOSEPH JARMAN,FAMOUDOU DON MOYE

 二枚組CDで今回はじめて聴いた。存在はずっとまえから知っていたのだが、二枚組で高かったので手が出なかったのと、ジョセフ・ジャーマンかあ……という警戒心もあった。ライナーには、やはりというかなんというかコルトレーンとラシッド・アリの名作「惑星空間」がどうのこうのと書いてあるが、もちろんこのふたりの組み合わせにはそんな演奏はありえないわけで、それが吉と出るか凶と出るかは聴いてみなければわからない。しかも、まわりに持っているひともいなかったし、行きつけのジャズ喫茶にもどこにも置いていなかった……というような要因が重なって、ずっと聴けずにいたのだが、今回はじめて聴いてみて、めちゃめちゃええやんと感動した。こういうのは、いつか、めぐり合わせのように「聴くべきとき」が訪れるのだなあと思った。いやー、聴けてよかったです。何遍も書いているが、ジョセフ・ジャーマンもロスコー・ミッチェルも、偉大すぎるほど偉大な巨人であり、とんでもない音楽家だが、サックス奏者としてはいかがなものかと思う。その「いかがなものか」さ加減がまた、すばらしいのだ。ジョセフ・ジャーマンはとくに、テナーを吹かせるとへろへろなのだが、本作の、コルトレーンに捧げた演奏「OHNEDARUTH」ではかなりがんばっていて感動的ですらある。え? けなしてる? とんでもない。私が主催者のひとりだったジョセフ・ジャーマン〜ダグラス・ユワートのデュオライブのときのジャーマンは本当に凄かったし、アート・アンサンブル・オブ・シカゴで何度か生で見たときのジャーマンもすばらしかった。それはよーくわかったうえでのことです。だから、このデュオに、コルトレーン〜ラシッド・アリみたいなやりとりはまったく期待していないし、そういう方面にいったらヤバい。サックスなんか二枚組通して一回も吹かなくていい、笛とかパーカッションとかボイスとかを駆使してくれれば、そのほうがいい……というのは極論だが、そういう風にさえ思っていたわけですが、聴いてみると、うはははは……やっぱりな! 私の思ったような演奏でした。ほら貝やフルート、民族楽器的な笛、パーカッション、ヴォイスなどを自在に操り、しかもサックスまでも「おもちゃ」のように演奏するジョセフ・ジャーマンは永遠の「子供」であり、永遠の初心者だ。生まれてはじめて楽器に触れたこどものような演奏を、何十年にもわたって行っているというのはすごいことだと思う。普通は絶対うまくなっていくもんね。そして、ドン・モイエは全編にわたって見事な演奏を繰り広げていて、ジャーマンの発する、ややよれよれ気味の音を支え、意味を与えていく。正直、ジャーマンがこどものように遊んでいるのをモイエがひとつひとつ拾い上げて、「音楽」にしていっているような気さえする。おおきく分けて四部構成だが、第一部の一曲目はほら貝と思しき楽器による思わせぶりな超短いイントロダクション。2曲目は笛や打楽器で空間を構築していくいつもの技(こういうところがめちゃかっこいいのが彼らの強み。こんなことやらせてもセンスの差は歴然なのだよなー)が炸裂。もうこれだけでいいんです、サックスなんか吹かないでいいです、極楽極楽……と思いつつ聴いていると、5分ぐらいしたあたりでリズムが出てきてアフリカンな雰囲気に。パーカッションが消えてフルートだけになるが、ここもいい感じ。声を出しながらまるで民族楽器のようにフルートがしゃべる。そこに地鳴りのようなドラムが忍び込んでくるあたりのぞくぞくする感じはほんとにいい。アルトに持ち替えて、フリーな即興。そこからバタバタしたドラムソロ。テクニックを一旦忘れたような演奏で、じつに楽しい。アルトが加わり、またフリーな即興のあと、アルトの無伴奏ソロになる。ほんとうにぐちゃぐちゃな、かといって迫力があるわけでもなく、なにかの狙いがあるようでもなく、ただ思いついたとおりに吹いている。客をまえにしてこの境地にはなかなか達することはできない。ええなあええなあ。ほぼ無音になってから、ジャーマンがビブラフォン(?)に持ち替えてアフリカというより中国っぽいモードで旋律を弾きはじめて、気分は一転して横浜中華街。途中までドラムを叩いていたモイエもマリンバで加わり、鍵盤打楽器のデュオになる。このチャイナパートの意味はよくわからんが、とにかくこうやりたかったのだろう。それでいいのだ。延々続いたあと最後には崩れて、モイエが銅鑼を一発叩く(これがスカで、いまいち決まらない)のはやはり中国っぽい雰囲気を意図していたのか。ここで第二部になり、ジャーマンが、コルトレーンに捧げるみたいなことを言ってテナーを吹きはじめる。こういうゆったりした感じだとジャーマンのテナーもなかなかいいなあ。音が柔らかい。モイエが加わって、テナーとドラムのデュオになるが、基本的にはメロディックな演奏。ライナーのひとはこのあたりを「インターステラー・スペース」と比較しているのだろうが、音のスピード感から狙っているサウンドからなにから全部ちがうと思う。コルトレーンのあのデュオは、とにかく聴いていてびりびりするような、一音入魂の迫真のテナーなのだ。このジャーマンの演奏は、どちらかというとゆったりとしたおおらかな感じでコルトレーンへのオマージュを捧げている感じか。ドン・モイエは最高で、ラシッド・アリよりもずっとすばらしいと思う。あ、比較したらだめですよね。でも、ライナーのひとが(「具体例を挙げて)モイエは、サーマン・パーカーやスティーヴ・マッコール等の技量的にはるかに優れたドラマー云々」と書いているので、モイエの擁護のために書いておく。このライナーのひとはきっと耳がアホなのだ(私もひとのことは言えないが)。案の定途中でフリーになってからジャーマンはぐだぐだになり、それもまたよし。ドン・モイエのドラムソロになり、ここも素敵。こういうノリはモイエ独特のものですよね。またテナーが戻ってきて、今度はフリーキーなソロだが、やはりこういうことをやるとジャーマンのテナーは線が細いし、楽器に引っ張りまわされてる感じ。フルートとかのほうが、たどたどしいし音は出てないけど、はるかに自由なのだ。いや、ここでのテナーもがんばってるけど。最後はなぜか唐突にほら貝みたいなものを複数吹くパートが出現して、終わる。ここも短いけどかっこいい! 二枚目に移って、ここから第3部。パーカッションソロではじまる。この手のパーカッションイコールアフリカというのは短絡的かもしれないが、やはりどう聴いてもアフリカンなサウンドである。一曲目はそれに終始する。2曲目はバラフォンかなにか、マリンバっぽい鍵盤打楽器による超ハイスピードなソロ。かっこいいっすー。これもどう考えてもアフリカっぽくて、あの中華街のパートはなんだったのだろうとあらためて思ったりして。この曲も、バラフォン(?)ソロに終始する。3曲目は、ジャーマンのソプラニーノが(たぶん)フラッタータンギングでオーボエみたいな音を出して開幕。このニーノとパーカッションのデュオで、ジャーマンはちんどん的なメロディーを吹きまくる。ちょっと中世ヨーロッパとかハーメルンの笛吹き男を連想したりして。まあ、ようわからんパートであるが、モイエのパーカッションは心地よい。ここから最後の第四部になり、ジャーマンはバスクラ。上手くはないが、まあ味わいはあるので、これでいいのだ(バスクラというのは基本的に「上手さ」が必要だと思うのです)。そこからモイエの、おもちゃで遊んでいるようなパーカッションソロになり、(たぶん)サックスを二本くわえての演奏がそこに加わる。この部分は、ほんとになにを考えてるのかわからんような、思いつきの遊びで、こういう壮大な組曲の最後にこんなアホみたいなものをぶちこんでくるのがこのふたりの大物さ加減だと思う、マジで。そこからアルト一本でドラムとのデュオになるが、アブストラクトでフリーキーな音塊をばらまくような演奏。フラジオというよりリードをきしませて細い高音を出し、モイエもホイッスルかなにかで高音を出す……という変なパートから、ふたたびアルトとドラムのデュオ。細かく痙攣するようなフレーズを多用するアルトはたぶんなんにも考えていないが、それに真摯に応じるモイエ。おもろいなあ。両者消えて、ホイッスルみたいな笛だけが鳴り響く。ちょっとダレ気味だったのが、このあたりからにわかに面白くなる。そうだよ、なにをやってもいいんだよーん的なメッセージを私はこういう箇所から勝手に受け取ってしまうのだ。そのあとちゃらちゃらしたパーカッション群をバックに、ジャーマンが(たぶん)アルトの高音部で印象的なメロディを繰り返すパートになって、急に演奏の空間が大きく広がる。このあたりの切り替えというか、場面転換もすばらしい。そのまま演奏は消えるように終演する。全部で84分ほどの音絵巻。これをライヴでたったふたりでもたせるなんて……という根本的なところに感心してしまったりするが、AECがそうであるように極上のエンターテインメントだし、このふたりなら84分どころか一晩中でも聴衆を飽きさせないように演奏するだろう。なにしろ、このひとたちには「このノリ」があるから強い。傑作だと思います。

「TOGETHER ALONE」(DELMARK RECORDS PCD−4718)
JOSEPH JARMAN/ANTHONY BRAXTON

 AACMの二大巨頭のデュオ。めちゃ面白そうな気がしてわくわくしながら聴いたのだが、これはなかなか手ごわいアルバムだった。まず、コンポジションがしっかりしていて、ふたりの自由なデュオというわけではなく、しかも、曲があるだけでなくて、曲ごとのコンセプトもかなり決まっているようで、そのなかで動くという感じ。まあ、ブラクストンはもちろんのこと、ロスコー・ミッチェルもそういうタイプかもしれないが、ジョセフ・ジャーマンだからもうちょっとぐちゃぐちゃっとなるかと思っていた。1〜3曲目まではジャーマンの曲で、フリーキーなブロウはほとんどなくて、内省的といってもいいぐらいの静かな演奏が続く。曲も吹き伸ばし主体のものが多く、2曲目のフルートとピアノのデュオなど静謐で間もたっぷりととられた演奏でひじょうに興味深い。3曲目は、ブラクストンとジャーマンが右と左で同時にべつの詩(?)を朗読する。ブラクストンは叫ぶように、ジャーマンはゆっくり淡々と読んでいく。そのバックでは各種パーカッション類やフルートなどがノイズ的に演奏されており、本作では一番躍動感のある演奏か。4曲目と5曲目はブラクストンの曲だが、4曲目はジャーマンのシンセ(といってもほぼノイズメーカーとして使われている)とフルート、ピアノ、コントラバスクラリネットなどが同時に演奏されているので多重録音だと思われる。これもまたシンセがけっこうぐちゃぐちゃいってるが(さすがジャーマン)、ほかの楽器はいろいろ考えて鳴らされており、そのあたりをよく聴くと楽しい。ラストの5曲目はブラクストンのコントラバスクラリネットとジャーマンのソプラノによる演奏(ただし、バックでずっと鈴が鳴っている)で、15分近い曲だが、即興部分はなく、徹頭徹尾完全にコンポーズされたもの、しかも、全編ユニゾンである。そのうえ、ほぼ吹き伸ばしばかりで、ハーモニーはもちろん、リズミカルなもの注意深く削除されている。ある意味、そうとう攻めた演奏というべきであって過激なコンセプトである。ただ、なんとなく聴いていては、この面白さは伝わりにくいかも。あと、ライナーノートで荒井さんというひとが、この曲を「対位法」であると書いているが、意味がよくわからない。とにかく全部ユニゾンなのです。いやー、興味深いアルバムで、しかもめちゃくちゃ謎めいているので何度も何度も繰り返し聴いてしまったが、謎は深まるばかり。でもいちばん興味深いのは、このアルバムが日本盤であり、しかもP−VINEから出ていることで、ようこんなもん出したなあ。P−VINEえらい!

「POEM SONG」(TEICHIKU RECORDS TECP−30909)
JOSEPH JARMAN

 ジョセフ・ジャーマンが日本に住んでいたとき、日本人ミュージシャンと共演した貴重な記録。セッションではなく、ちゃんとしたバンドであることも貴重。沢井一恵、栗林秀明という筝のふたり、吉野弘志、斎藤徹というウッドベースのふたりは「和」テイストということでなんとなくわかるが、そこに板谷博とはなかなかピリッとくる人選ではないか。私はアート・アンサンブル・オブ・シカゴの大ファンだが、それぞれのメンバーのソロ作についてはあまり信用していなくて、とくにジャーマンは「?」な感じのアルバムを作るので本作も正直疑いの眼で見ていたのだが(ロスコー・ミッチェルはわけのわからんアイデアによる演奏を貫きとおしていて、それはそれで凄いと思う)……本作はめちゃくちゃよかった。死ぬほどよかった。あきれるほどよかった。大傑作でした。すまん、ジョセフ・ジャーマン。名刺をもらったのになくしてしまってすまん。ダグラス・ユワートとのデュオを我々が主催したとき、メイファーの二階での打ち上げで、白ご飯に山のように豆板醤を乗せて食べるのを見て笑ってしまってすまん。このころのジャーマンは仏教に傾倒し、禅や日本的なものの研究に余念がなかった時期で、本作にもそういう一面が露骨なまでにあらわれており、「ブルース・フォー・ザゼン」の歌詞にも反映している。だが、本作は単に日本趣味の演奏とかジャーマンが日本の古典音楽を真似た、とかいった表層的なものではなく、ジャーマンがシカゴの黒人としてつちかってきた深い表現に少しだけと東洋的な方面から光を当てたものであり、あたりまえだが基礎はやはりブラックミュージックであるところのジャズに立脚している。そのあたりが、いい具合に溶け合い、絶妙なブレンドの音楽になっていてすばらしい。とくに1〜2曲目に収録されている「ポエム・ソング」は、日本でもアメリカでもない、どこか遠い遠い国の民族音楽のようであり、あまりの心地よさににずっと演奏が終わらなければいいのに……と思ってしまうような麻薬的な魅力に満ちている。こうなると、ソプラノがしっかり吹けていないとか音色が雑だとかピッチが……とかいった非難は無意味になる(清水俊彦は解説で「音色のすばらしさ」と書いているが、そんなことはない)。圧倒的な表現力で聴くものを音楽のなかに捕え込み、放さないような演奏だ。3曲目の「ブルース・フォー・ザゼン」は、座禅をすることの意義について語った歌詞だが、そこにバスクラリネットがからみ、ええ感じのわけのわからなさを演出している。板谷博のトロンボーンがこの曲だけ参加しており、でかい音で弾けるようなソロを展開している。4曲目はフルートがリリカルに飛翔する。ジョセフ・ジャーマン、フルート上手い! 5曲目では法螺貝とフルートを吹くが、ジャーマンよりも筝とウッドベースを大きくフィーチュアした演奏で、これもいい。6曲目はアルトフルートのソロによる演奏で、なぜか突然アフリカっぽいメロディを奏でる。アルトフルートというよりアフリカの民族楽器かなにかのような、素敵な演奏。ジャーマンの情感的な面が出ている。無伴奏ソロではあるが、ルバートではなく、強靭なリズムを感じさせる。7曲目はバスフルートでコルトレーンの「ヴィレッジ・ヴァンガード」に入っている「スピリチュアル」。コルトレーンはエルヴィンたちをバックにした、ある意味大げさでドーカン!とぶちかます表現だったのに対して、ここでのフルートとベースのみの演奏は、この曲のべつの側面(というか本来の意味合い)を引き出しているような気がする。ジャーマンのバスフルートは「原始的」といってもいいぐらい素朴で、アフリカである。かっこいい! 最後の曲はこれもベースとのデュオで、ジャーマンはソプラノ。力いっぱい鳴らしている。いやー、これはすばらしいと思います。ジョセフ・ジャーマンの数ある作品のなかでも相当ええ作品では? 傑作!