「FORT YAWUH」(IMPULSE RECORDS 314 547 966−2)
KEITH JARRETT
本当にもうしわけないことだが、私はキース・ジャレットのよいリスナーではない。正直いって、ソロピアノはどこがいいのか全然わからん。「ケルン・コンサート」だけは持っているのだが、何度聴いてもよくわからん。嫌いだ、とか下手だ、とかしょうもない、とというのではない。わからんのだ。お、ここ、なかなかええな、とか、お、けっこうすごいやん、と思う瞬間もたくさんあるのだが、聴いていて、なーんかいらいらするのだ。ジャズ喫茶とかでかかると、めったに聴く機会がないのだから、ちゃんと聴いてみようと思うのだが、途中で耐えきれなくなることが多い。そして、あの「スタンダーズ」というのも、「ええような悪いような」感じだ。「すごいんだかすごくないんだか」「おもろいんだかおもろくないんだか」みたいな印象をつねに覚える。だいたいピアノトリオがあまり好きではないこともあるのだが、なーんかいらいらする。結局、相容れない、というか、私には理解できないのだろうな、キースというひとは。ただし、マイルスのバンドぶち切れたようなオルガンを弾きまくっていたキースは大好きである。キース・エマーソンでもキース・ティペットでもないよ。キース・ジャレットはあの当時まさに世界一のアグレッシブなキーボード奏者だったと思うのだ。それがどうしてあの「ケルン・コンサート」なのか……と、つい思ってしまうんでしょうね。もしかして、彼の一連のソロピアノは、じつは私の耳がアホ耳で、ほんとはマイルスのところにいたときと同等の過激さをもった凄いぶち切れのパフォーマンスなのか。そのへんのことがバシッと自分で判断できないあたりがキースというピアニストに対して私が距離感をおきたくなる原因なのだろう。なんか深そうだし、凄そうで、「つまんねー」と言いきれないもどかしさ。そんなことを言ったら「おめーは全然わかってないねー」と馬鹿にされそうな感じがあるのだ。たとえば、ビル・エヴァンスは私はあまり好きではないが、リハーモナイズを中心としたその凄さは痛いほどわかる。聴いていてしんどいので聴かないのである。でも、キースはそういうのとはちがう、なーんかしっくりこない感じがあるんだよなあ。で、長々と前置きをしてしまったが、キースのカルテットはどっちも大好きなのである。でも、アメリカン・カルテットはデューイ・レッドマンを、ヨーロピアン・カルテットはヤン・ガルバレクを聴くために聴いているようなもんだ。そうかあ、「スタンダーズ」に関心がもてないのは管がいないからなのかなあ(そのあたりも自分でよくわからん)。そして、このアルバムだが、ヴィレッジ・ヴァンガードでのライヴで、非常に熱い演奏である。とくにデューイ・レッドマンが凄い。たぶん、「ケルン・コンサート」でキースを知ったファンは驚く、というより、かなり引くであろう過激なソロを一曲目からぶちかましており、めちゃめちゃ楽しめる。しかし、キースのピアノソロになると、やはり「あの」演奏になる。フォーク調というんですか、メジャーな音階を積み重ねていくような、うまく表現できないが、ゴシック的というか牧歌的というか宗教歌的というか……その部分はやはり私にはダメなのだった。でも、このアルバムのいちばんすごいところは、もともとほかのアルバムに入っていたのだが、同じときのライヴなので、CD化されたときに本作に収録されたラストの曲である。なんと25分ぐらいあるこの曲が、本作中の白眉といっていい。キースが途中でピアノをやめてソプラノサックスを吹き始めるのだが、このソプラノが、ピアニストがちょっとカラーを変えるために遊びで吹いてみました的なものでは全くなく、楽器もよく鳴っているし、音色も、タンギングも全部すばらしいのである。びっくりしますよ。ソプラノサックスを演ったことのあるひとならわかるとおもうが、アルトやテナーに比べて、音程のとりにくい楽器なのである。それなのに、キースのソプラノ、音程もばっちりである。もちろんフレーズもすごい。パーカッションのみをバックにした、デューイ・レッドマンのテナーとふたりでのデュエット部分がまず凄くて、そのあと、ベースが入って、キースひとりのソロになってからがまた凄い。おいおい、ぜったいキースってピアノよりこっちのほうが才能あるで! と叫んでしまうほど、キースのソプラノに感心してしまう。ほかの曲もどれもかっこいいのだが、この長尺の曲こそがこのアルバムの白眉なので、オリジナルのLPではなく、CDのほうを絶対聴いてほしいと思うのです。