「SCRAWL」(CBS/SONY 28AH 2220)
TAKASHI KAKO
このアルバムは大好きで、同じメンバーでのライヴにも行った。加古隆というと、かつては現代音楽〜フリージャズのひとで、その後、環境音楽とかヒーリングのひと、みたいな扱いを受けているが、本作では主流派ジャズに真っ向から取り組んでいる。本作を聴くかぎり、それは加古にとってチャレンジでもなんでもなく、単に、彼のなかにずっとあった当たり前のものだったようで、じつに自然な、愉しい演奏になっている。共演者がまた興味深く、ドラムがポンタというのが鍵だと思う。彼の参加によって、じつにフレッシュでいきいきとした、いわゆる四ビートのひとのフィルインではなく、斬新なリズムが提供されていて、めちゃめちゃおもしろい。ベースが吉野弘志というのも、聴いてみると「なるほどなあ」と思う。フロントが井上淑彦と吉田哲治というのも意表をつく人選だが、この五人の組み合わせがじつに最高の効果を生んでいるのだ。このメンツでのライヴに行ったときも、ポンタがすごくて、それに応える加古さんのピアノもすごくて、身震いした記憶がある。もちろんフロントもすばらしくて、ああ、今にして思えば、ほんの一時期のぜいたくなぜいたくなユニットだったのだなあ。生で聞くことができたのは僥倖だった。じつは本作の演奏はどれもすばらしいのだが、とくにA−4の「フロム・トーキョー」という曲には影響された。ふたつのリフがあって、ふたりの管楽器がそれぞれ一つずつを吹くのだが、最後にそのふたつが合わさってアンサンブルになる、という編曲になっており、これが当時、非常にかっこよく思えたのである。そののち、こういう趣向(ふたつのリフをあとで重ねる)の曲を書いてみたりした。加古隆は即興演奏家であり、かつ、さすがの作・編曲家であることがあらためてわかる傑作である。じつはTOKとか、まったく聴いたことがないので、遅まきながら聴いてみようかな、思っております(管楽器が入っていないので、関心がなかったのです)。
「新海」(KAITAI RECORDS Y/T−CD−001)
加古隆/高木元輝/豊住芳三郎
76年の名古屋ラブリーでのライヴ。「深海」が69年だから、その続編というわけでもないだろう。深海に対する新しい世界という意味だとするならば、本作の主役は高木元輝さんということになるが、アルバムの体裁上は加古さんがトップに来ている。内容的にはすばらしく、とくに高木さんの、高音でのフレーズにときどきリズミカルに低音部を混ぜ込んでいく、という技法はかっこいい。加古〜高木というとパリ日本館コンサートが想起されるが、あれよりも高木さんは力強く吹いている(録音のせいもあると思う)。フラジオのぐしゃっとつぶれたような音をはじめとするねじ曲がったような音色の、しかも非常にパワフルなテナーの音は、こういう風にちゃんとした録音でないと本当に伝わったとはいえないので、そういう意味でも本作の存在は貴重である。細かいフレーズを吹かなくても、一音吹いただけで圧倒的存在感を示す……ここでの高木元輝はそういう存在である。ちょっとだけ吹くソプラノも凄い。加古隆のピアノも非常に独特で、この当時はフリージャズの語法を使っているが、単にガンガン打鍵するだけのリズミカルな部分でも、そこに変なハーモニーが聞こえたりするし、とくにソロの部分は「抒情的な狂気」とでも言いたくなるような世界があり、ためらいなく疾駆するなかに狂気のあるセシル・テイラーなどとはちがうニュアンスを(たぶん当時の聴衆は)聴き取っただろうと思う。豊住さんもいつもながら丁寧かつパワフルなドラミングですばらしい。三者一体という言葉は、もしかしたら手垢がついているかもしれないが、いろんな形の三者一体があるのだ、とこの演奏を聴いて思った。貴重すぎる記録である。で……先日、高木さんのアルバムについて「ほんと、わかってないなあ」としか述べようのない文章をネットで読んだが、俺だけがわかっている、ほかのやつらは言わないけど俺は言ってやる的な、まるで音楽を一面からしか見ていない評論(?)を読むと、そういう文章がこういう音楽に対してどれだけマイナスに働いているかを思って情けなくなる。まあ、自戒をこめて、みんな、もっとオープンマインドでなんでも聴きましょう。自分が嫌いなミュージシャンだからといって先入観で耳を閉ざすのはダメですよ。