hans koch

「ULURU」(INTACT CD014)
HANS KOCH

 ハンス・コッホという人のことはよく知らない。もともとはクラシックのクラリネット吹きだった、とか、セシル・テイラーのヨーロピアン・ビッグバンドに加わって頭角をあらわした、とかいった、雑誌で読んだ知識があるだけで、音はこのアルバムではじめて聴いた。とにかく、サックスソロと聞くと、なんでもいいから買って、聴くのである。一曲目のソプラノソロ、静かな演奏ではあるが、聴いていておもわずのけぞった。すごい。冒頭いきなり出てくるハフラジオ音のピッチの正確さや音色の確かさ、ハーモニクスを取り入れた楽器演奏技術の高さ、そして、それらをうまく融合させて自分の音楽を構築している音楽性の高さに驚く。二曲目、三曲目と聴き進むにつれ、のけぞり度合いはますます激しくなり、後頭部が床につきそうになるほど。ダブルタンギング、フラッタータンギング、オーバートーン、フラジオ、循環呼吸……といった技術を駆使して吹きまくるのだが、一曲ごとに様相がちがうので、飽きない。引き出しが多いことの証明だろう。ラリー・スタビンスのソロと並ぶ、テナーサックスソロの傑作だと思う(サーキュラーで吹きまくるソプラノもすごいし、バスクラもとんでもない表現力である)。一曲だけ、バスクラソロの曲で、通奏低音がずっと鳴っているものがあって、それをバックにしてラプソディックなメロディを吹くのだが、メロディ部分のダイナミクスが変化しても通奏低音のほうは変わらないので、この曲だけはおそらくオーバーダビングだと思うが、もしかしたら私の思いもよらぬ超絶技巧で可能になっているのかもしれない。

「ACCELERATION」(ECM1357)
HANS KOCH,MARTIN SCHUTZ,MARCO KAPPELI

 中古で何の気なしに買ったものだが、聴いてびっくり。めちゃめちゃよかった。どういうのかなあ、クラシック的な手法と過激なインプロヴィゼイションががっぷり四つになったような感じで、細かく譜面に書かれている箇所と奔放すぎるほど奔放な箇所が不可分に結びつき、大パノラマを形作っている……といってもなんのこっちゃわからんかも。とにかく一聴して感じるのはクラシック的ということだが、ジャズでクラシック的というと、サックスはたとえばクラシックのサックスのような、美しく、音程もタンギングも正確無比な、ああいうもの、あるいはジミー・ジュフリーやポール・デスモンドのような線の細いタイプを思うだろうが、コッホのテナーは、堂々とした、あるいはぶりぶりとした音色とアーティキュレイションのままで、クラシカルな譜面をごりごりとひたむきに吹ききる。それを支えるのはベースとドラムのみで、その結果生まれる音楽は、なんとも過激でえげつない、私好みのものである。かっこよすぎる! ハンス・コッホというひとは、もともとクラシックのオーボエだかクラリネットだかの演奏家だったはずだが、テナーを持つと完全に豹変する。まえに聴いて、ほとほと感心したソロのときも、テナーの音色やアーティキュレイション、ぎゃおおという叫びなどがよかった記憶があるのだが、このアルバムでもそういった良さは全開になっていて、いわゆる「クラシックとジャズの融合」みたいな軟弱な音楽とはまるでちがう、汗やキーのきしみ、人の叫び声……といった、クラシックでは排斥されるような要素があらわに伝わってくる、熱いアルバムである。

「HARDCORE CHAMBERMUSIC」(INTACT RECORDS INTACT CD042/1995)
KOCH−SCHUTZ−STUDER

 ハンス・コッホの意欲作。コッホはテナーサックス、ソプラノサックス、クラリネット、バスクラリネット、コントラバスクラリネット……のほか、サンプラーとシーケンサーを担当している。サンプリングした音源も全部書いてあって、たとえばジェイムズ・ブラウン、ボブ・マーリー、パブリック・エネミー、ネイキッド・シティ、ローリング・ストーンズ、エリオット・シャープ、スライ・アンド・ロビー、ジョージ・クリントン、ジミ・ヘンドリックス、ジョン・ケージ、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、ブーツィー・コリンズ、トム・ウェイツ……などなどなどなどといった具合。たった3人で、たしかにタイトル通りのかなりハードコアパンク的なサウンドを、しかも室内楽的に作り上げている。しかも、サックス〜ベース〜ドラムという編成ではなく(聴いた感じはそう聞こえる)、サックス〜チェロ(アコースティックチェロと5弦のエレクトリックチェロを使い分けている。コッホのサックスやクラリネットなどの音はあくまで木管楽器としての響きを保っており、ドラマーも各種パーカッションやゴングを使っているが、全体の印象としてはへヴィなハードコアミュージックなのだ。ヴァンダーマークのある種のプロジェクトに近いサウンドだが、サックス奏者としての立脚点が違うこともあって、手触りはまるで変ってくる。コッホは、ヴァンダーマークとちがって、コルトレーン以降の現代サックス的なフレーズをめちゃめちゃ速いスピードでつむいでいくことができるジャズプレイヤーとしての側面も大きく、それはこのアルバムでも発揮されている。本作は、モードジャズっぽいところもあり、フリーインプロヴィゼイションの要素もあり、ロック的な部分もあり、しかもどの要素の部分もかなり大きくて、なかなか一筋縄ではいかない内容なのだが、パッと聴くと、そういうことは考えずにすごく楽しく入り込むことができる。もともとハンス・コッホは大好きだが、本作を聴いて(その方法論や視点も含めて)ますます好きになった。このバンドはほかにもアルバムが出ているとかちらっと見たような気もするので探してみよう。

「FFLAIR」(HAT HUT RECORDS EZZ−THETICS 1048)
HANS KOCH & CHRISTINE ABDELNOUR

 これを「問題作」といったら「いまさら……」と言われるだろうか。だろうな。こういう試みは昔からよくあるのかもしれない。しかし、これほど成功した例はまれではないか。サックスデュオのようだが、実際はそうではなく、それぞれ別々に録音したソロサックス(ほぼ同じときにコッホはフランスで、アブデンヌールはスイスで、右チャンネルと左チャンネルに配置したという演奏。コッホはクラリネットやテナーは吹いておらず、ソプラノのみ。アブデンヌール(と読むのか?)はアルト。ズームかなにかでオンラインで即興をした、ということかと思ったがそうではなく、(ライナーなどを読む限りでは)とにかく「ソロ」を行い、それを重ね合わせたのである。趣向だけ聴くと、なんだかお遊びのように思えるかもしれないが、これがすばらしいのだ。ライナーを読まなかったら、同時に同じ場所で行ったデュオだと思うだろう。この演奏は、「即興演奏」というものの意義を根本的に問い直している、というか、ナイフを喉に突き付けられているというか……とにかく「即興」なのだからその場にいて、お互いの音を聞きながら自分も音を出し、なにかを形作っていくことによってひとつの演奏というか作品が出来上がる……という「誤解」を払拭するものかもしれない。演奏者それぞれの立ち位置や考え方にもよるが、この作品におけるデュオは、別々に録音されて重ね合わされたとは思えないような、即興性や音の自由なキャッチボール、インタープレイ、間……というようなものを感じ取れるのだ。しかし、実際には別々に録音されたものを重ねたものなので、そういう印象は、こちらが勝手にそういう風に受け取っているにすぎないのだ。うーん、これはかなりヤバいですよ。これも「おそらく」だが、先に演奏しているひと、それを聞いてあとから重ねているひとがいて、一種のインタ―プレイ的な状況が生じているのだろうが、それがまったく自然なデュオに感じられるというのが「不思議」なのである。個人的にはめちゃくちゃ面白かったが、最後まで「ほんまかなあ……」という気持ちが消えなかった。ズーム的なもので同時に離れた場所で即興を行っているのかもしれない(というかそうだと思う)がなんにせよテクノロジーの発達によって、こんな風にいきいきとしたインプロヴィゼイションが聞けるならば、それは歓迎すべきことだと思う。とにかく(録音も含めて)生々しい。世界が一気に狭くなったような印象である。それがええか悪いかは知らんけど、とにかくこのアルバムの生々しさはすばらしいです。コロナ下のひとつの試みといってしまえばそれまでだが、個人的にはいきいきとしたこの「デュオ」(とあえて言う)にいろいろな可能性を感じた。傑作。