keshavan maslak

「NOT TO BE A STAR」(BLACK SAINT 120149−2)
KESHAVAN MASLAK WITH PAUL BLEY

 ケシャバンは大好きなサックス奏者のひとりである。初来日(と思う)のときのICPオーケストラでのプレイを生で聴いてぶっ飛んで(このときのライヴに接したことが、私の音楽観などにいまだに大きな影響を与えている)、以来ずっとファンだ。ライヴにも何度も足を運んだ。自主レーベルも含めてかなりの量のアルバムがあるが、さすがにケニー・ミリオンズ名義のチープなジャズロックというかソウルというかそういうやつはついていけない部分もあるのだが、フリー系のものは全部好き。いちばんすきなのはLEOから出た「マザー・ロシア」というロシアでの演奏をおさめたやつで、小気味のよいアルトのフリースタイルの演奏がたまらん。このポール・ブレイとのデュオも、ケシャバンのアルバムのなかではかなりよい。珍しくテナーは吹いておらず、アルトとクラリネットに専念しているが、このクラリネットがじつに良い味をだしている。ポール・ブレイとは水と油じゃないのか、ケシャバンの諧謔的というかある種デタラメにデタラメを重ねるようなプレイと噛み合うのか、というのが危惧だったが、これがなぜかなんともぴったりで、交歓したり離れたり……とても心地よい。このふたりの顔合わせでこれほどの音楽的成果があがるとは思わなかった。いつも思うことだが、ケシャバンのエッジの立った硬質なアルトの音や、R&B的な濁ったぶっといテナーの音、そして完璧なテクニック、フリーとビート音楽、ポピュラーなどのあいだを行き来する自由さ、R&Bへのこだわり……などを見ていると、マーズ・ウィリアムスを連想する。ふたりとも、アルトもテナーも、どちらも主奏楽器です、といえるぐらい「持ち替え」感はない。あと、ケシャバンの音楽の持つ毒とか皮肉な雰囲気は巻上公一を連想する。とにかく一筋縄ではいかないひとである。

「MOTHER RUSSIA」(LEO RECORDS CD LR177)
KESHAVAN MASLAK

 もし、誰かにケシャバンのアルバムを一枚薦めることになったら、躊躇なくこのアルバムを選ぶだろう。本作は、ケシャバン・マスラクの最高傑作というだけでなく、フリージャズ史上に燦然と輝く名盤なのである……と私は確信しているのだが、あんまりそういう意見は聞かんなあ。でも、とにかく私ははじめて本作を聴いて以来、もうめちゃめちゃ惚れ込んで、何度も何度も聴きまくり、いろいろな意味でたいへん影響を受けた。私がはじめてケシャバン・マスラクというサックス奏者を知ったのは、ICPオーケストラの来日時であって、私の目当てはゲスト参加のブロッツマンや近藤等則、ハン・ベニンク……などであったが、金髪を逆立ててサングラスをかけた長身の若造(失礼)が偉そうに脚を組み、テナーを持って椅子に斜めに座っており、ミーシャ・メンゲルベルグが「ソロをしろ」と合図すると、やおら立ち上がり、ブロッツマンを吹き飛ばすかの圧倒的なブロウを展開したので度肝を抜かれた。ブロッツマンとミーシャも顔を見合わせてうなずきあっている。これが私がケシャバンを目撃したはじめであるが、以来ずっとファンなのである。しかし、このひとはリーダーアルバムにめぐまれず、買うアルバム買うアルバム、うーん……と首を傾げるものばかりである。これは、ケシャバンというひとが、たとえばレスター・ボウイと共通するような諧謔精神をもち、ものをわざと斜めから見るようなところのあるミュージシャンなので、それが発露されているのだと思う。ケニー・ミリオンズ名義で発表されている安っぽいフリージャズロックみたいなものも、なかなか彼の実力に見合っていない。多作なひとだが、これがケシャバンの傑作だ、と言い切れるようなものがなかなかない。何枚か、手応えのあるものもあるが、ファラオ・サンダースと同じで、私は惚れてしまっているので、なんだかよくわからないぐずぐずの作品も、これもあり、と思うが、一般のジャズファンはどうか……と思ってしまう。しかし! 本作は、もう掛け値なしに推薦できる傑作である。ケシャバンはアルトを中心に吹いており、私はこのひとはテナー吹きだと最初に聴いたときのイメージでそう思っているが、このアルバムを聴くと、アルトのほうがいいかも……と考えざるをえない。一曲目のアルトの無伴奏ソロで、もうノックアウトされる。すばらしい。これはおそらく、ウクライナ生まれの彼がロシアにルーツ探しの楽旅に行ったという設定が、彼をしてストレートアヘッドでひたむきな演奏に駆り立てたのであろう。ロシアの名高いサックス奏者との共演もすばらしいし、とにかく全曲すごい。こんな風に吹きたいと思って、ときどき真似するのだが、よほどの楽器を鳴らす技術、よほどのテクニック、そしてよほどの集中力がないと不可能である。ケシャバンのファンで本作を聴いていないひとがいたら、ぜひ聴いてほしいし、ケシャバンファンでなくても、フリージャズに関心のあるひとは一度は聴いてほしい傑作だと思います。

「BLASTER MASTER」(BLACK SAINT BSR0079)
KESHAVAN MASLAK WITH CHARLES MOFFETT

もちろん名作です。チャールズ・モフェットのドラムを相手にケシャバンがすばらしいサックスマスターぶりを披露する。ドラムとテナーの組み合わせというのはかなりアルバムの数は多いが、成功しているものはさほど多くはない。力と力のガチンコ勝負になるか、ベースやピアノが「いる体」で演奏されるか、サックス奏者のテクニックの開陳大会になるか……コルトレーン〜ラシッド・アリの「インターステラー・スペース」はひとつの頂点だが、それにつづく諸作はそういった欠点をはらんでいる。もちろん、最初からコード楽器を排した、問題のある編成なわけで、それに挑戦するという姿勢はすばらしいし、なにかひとつでも新しいことがそこで起きたとしたらそれだけでもすごいわけだが、なかなか最後まで飽きずに聴きとおせる作品(つまり、ベース、ピアノがいる作品と遜色ない、音楽としてごくフツーに聴ける作品)はさほど多くない。たとえばデヴィッド・マレイ〜カヒール・エルザバーのデュオや、おなじくマレイとディジョネットのデュオ、フレッド・アンダーソンとロバート・バリーのデュオなどはなかでも最高の傑作だと思うが……本作もその列のうちに入る作品だと思う。いやー、何度聴いてもいいですね。当時のケシャバンの充実度は半端じゃなかったのだと思う。アルトとテナーしか吹いていない、というのもよい。オーストリアでのライヴだが、ライヴ特有の荒っぽさは皆無で、じつに丁寧かつ豪快な演奏が繰り広げられている。こういう内容の場合、ケシャバンとチャールズ・モフェットがジャケットを飾るのがあたりまえだと思うが、なぜかケシャバンと嫁はんのパメラの2ショットで、ライナーにも「本作品は私の愛する奥さんパメラ・ライオンズに捧げる」という一文があって、ちょっと、というか、かなり引く。でも、内容のすばらしさには関係ありません。

「MAYHEM IN OUR STREET」(WATERLAND WM005)
KESHAVAN MASLAK

サニー・マレイをドラムに迎えたカルテットによる演奏。ケシャバンは、オランダのその名もウォーターランドというこのレーベルにはもう一作、ピアノレストリオによる「マスラク・ワン・サウザンド」というアルバムがあるが、私は聴いたことはない(めっちゃ聴きたい)。本作は、ローク・ディッカーというオランダのピアニストが重要な役割を果たしているが、基本的にはケシャバンがリーダーシップをとっていて、統一感はちゃんとある。しかし、このころのケシャバンのアルバムとしては、かなりビバップというか、ふつうのジャズ寄りの部分もあり、え? これってケシャバンとサニー・マレイのアルバムだよね、と思わずジャケットを確認したりして。それにしても、ケシャバンはある意味うますぎて、どんなシチュエーションでも対応できる。本作では、たとえばカリプソみたいな曲とかバラードとかもじつに雰囲気たっぷりにこなすが、やはりケシャバンの本領が出た演奏は、A面の2曲や、B−3のドルフィー的なテーマを持つ曲でのアルトでのブロウであろう。しかし、ほんとうに引き出しが多いひとで、ひたすらフリーキーな即興から、ビバップ的な演奏、ポップな演奏、エレクトロニクスを使ったチープなロック、ホンカー的なドスのきいたブロウ、そして、ダダイズムの影響があるといわれている諧謔的というか、八方破れというか、ナンセンスな演奏など、あれもこれもと目移り(耳移り?)してしまうほどだが、どこか一本筋が通っているのは、たとえば梅津さんやカルロ・アクティス・ダートとも共通した手触りである。おもろいなあ、ケシャバンは。

「HUMANPLEXITY」(LEO RECORDS LR101)
KESHAVAN MASLAK

 ミシャ・メンゲルベルグ、ハン・ベニンクというヨーロッパフリーの巨匠を従え、ケシャバンが堂々たる演奏をする傑作。全曲ケシャバンのオリジナル。一曲目はなんとアルトの無伴奏ソロ。これが最高なのです。「マザー・ロシア」でもこういうタイプのソロをしているが、ここでの初々しさ、気合いはまた格別。ミシャとベニンクというとだれもがドルフィーを連想するわけだが、ケシャバンはざらついた音色のアルトで、ドルフィーとはまったくちがうソロを披露しており、さすがです。二曲目はうってかわって、「イン・ナ・センチメンタル・ムード」的な極甘のバラードを思い入れたっぷりに吹いたかと思うと、ミシャとベニンクがフリーでめちゃめちゃ速いやりとりのデュオを展開、これがハードボイルドがかっこいい。そしてまたバラードに戻っていくという……意味深な演奏。その他、民族音楽っぽい演奏あり、いかにもフリー的なリフ曲あり、どの演奏もミシャとベニンクという実力者たちから最高の演奏を引きだしながら、ケシャバンがすばらしいリーダーぶりを発揮していて、言うことありません。

「KESHAVAN MASLAK」(ATMAN RECORDS)
KESHAVAN MASLAK

(おそらく)ケシャバンの初リーダー作。77年に吹き込まれている。その名もずばり「ケシャバン・マスラク」。私は、はじめてケシャバンの生に接したときにテナーをゴリゴリ吹いていたので、テナー吹きという印象が強いが、初期作品を聴いていると、基本的にはアルトから出発したひとなのかなあと思う。つまり、本作でもアルトとテナーを吹き分けているのだが、どちらかというとアルトの登場回数が多いし、テナーは音色的にも後年のあのブロウ炸裂! という感じではなく、持ち替え楽器という雰囲気だからである。本作では、そのアルト、テナーだけでなく、ソプラノ、フルート、ピッコロ、バスクラ、フレンチホルン、(ケシャバンファンにはおなじみの)フム・ファ・ホーン、チープなシンセ……などを駆使して演奏している。トロンボーン奏者がゲスト的に二曲入っているが(A−1とA−2)、正直言って、ワンホーンのほうがケシャバンの魅力がストレートに出たのではないか、とは思う。なぜならワンホーンの曲はどれもなかなかよいからで、とくにA−4のようなドルフィー的なテーマをもつ変態チックな曲でのケシャバンの暴れっぷりは最高である。しかし、初リーダー作にすべてがある、とよく言われるが、本作もまさにそんなところがあって、ケシャバンがのちに見せるさまざまな引きだしを全部ぎゅーっと詰め込んだ玉手箱のようになっている。それが、ちょっとごちゃごちゃした印象を与えるのだが、おもろいことはめっちゃおもろい。はじめっからケシャバンはケシャバンだったのだなあ、とある種の感慨をもって聴いたことでありました。

「LOVED BY MILLIONS」(LEO RECORDS LR105)
KESHAVAN MASLAK

 ケシャバンがピアノレスのワンホーンで挑んだアルバム。ベースはジョン・リンドバーグ、ドラムはサニー・マレイという豪華な布陣で、ジャケットのラーセンのメタルをつけたテナーをくわえた写真も、ケシャバンの強い意志が感じられる。このころからアルトが主奏楽器、テナーは持ち替え……という感じから、テナー中心に移行していく(ような気がする)。テナーも朗々と太く鳴ってきていて、もともとドルフィーやフリージャズ、フリーインプロヴィゼイションなどのフリージャズ的な要素と、R&Bというかファンキーな要素、ロシア的なもの、ダダ的なものなどさまざまなものを持っているひとだが、このあと、彼がチャレンジしていくチープなロック的演奏なども思いあわせたうえで、アルトから出発して、テナーでは豪放でアイラーっぽくもあるビッグトーンでメカニカルなフレーズも吹く……というと、だれを思いおこすか……というと、そうです、もちろん、マーズ・ウィリアムズである。私にとってケシャバンは、マーズ・ウィリアムズの先駆的存在(というのはいやな言葉だが……)なのである。正直、ケシャバンの紆余曲折も嫌いではなく、マーズが今「リキッド・ソウル」にはまっているのも、うーんしゃあないなあ、と思ってしまうのは、ケシャバンというおっさんを見てきているから、といっては言い過ぎか。ケシャバンは、ブロッツマンやヴァンダーマーク的な要素も持っているし、もちろんマーズとはちがう個性の持ち主だが、やはりいろんな演奏活動を見ていると、マーズ・ウィリアムズをはじめ、ヴァンダーマークやマツ・グスタフソン、梅津さん、坂田さん、カルロ・アクティス・ダートなどと共通する、ごった煮的だが筋の通った個性があり、ジャズの本流からはかなり外れているが、それを逆にパワーにかえて、ずっしりとした手応えのある存在として自分を深めることに邁進している……という点で、ケシャバンもそのひとりに加えたいと思うのである。ケシャバンを私が好きになったのは、そう言う意味で必然かなあ、と思うのだ。で、本作はケシャバンがそういった多彩な活動をはじめる直前の、どっちかというとジャズ〜フリー・プロヴァイズドの本道にいる時期の、非常にガッツのある、すばらしい演奏であって、個人的にはめちゃめちゃ好きである。アルトはやはりドルフィーを感じさせる部分が多く、ピッコロやバスクラもどことなくドルフィー的である。アルトの音色は全然ドルフィーっぽくなくて、ファンキーな、ルイ・ジョーダンとかデヴィッド・サンボーンとかメイシオとかを思わせるような音なのだが。というわけで、本作は、ケシャバンのドルフィーへの捧げ物といってもいい(これは勝手に私がそう思っているだけなんですが)。傑作であります。

「BIG TIME」(AFFNITY RECORDS AFF185)
KESHAVAN MASLAK

この作品をケシャバンの最高傑作だというひともいて、その気持ちもわかる。メンバーも豪華で、ミシャ・メンゲルベルグ、ジョン・リンドバーグ、チャールズ・モフェットという布陣に一曲だけなんとレイ・アンダーソンがゲストで入っている。なるほどなあ、と思う。ケシャバンというひとは、マーズ・ウィリアムズをはじめ、ヴァンダーマークやマツ・グスタフソン、梅津さん、坂田さん、カルロ・アクティス・ダートなどと共通する感性がある、と上記で述べたが、それはたとえば、ジャズと自分(ミュージシャン)の距離、みたいなものについて感じられることである。管楽器主体の音楽で、ある時期、ジャズやインプロヴァイズドミュージックに傾倒し、そののち自分のルーツを見つめなおす作業に入った……かなり強引かつ大雑把にいえばそんな感じだろうか。そういう匂い(?)を、一時期のベニー・ウォレス、そしてレイ・アンダーソンにも感じるのである。黒人ミュージシャンの豪放さにあこがれ、それを吸収しつつも、どこかクールにとらえて再消化する白人ミュージシャンであり、ルーツはべつのところにしっかり持ちながらも、ブルーズ、ジャズ、R&Bといったファンキーな音楽への傾倒もある……というあたりが似ていないだろうか。というような妄想はさておき、A−1「ミスター・モフェット」はチャールズ・モフェットとのデュオ「ブラスター・マスター」の表題曲と同じ曲(録音時期もほぼ同じ)だが、ハードバップ的、というか、かっこいいことはかっこいいのだが、ケシャバンが普通にかっこいいソロをするだけで終わっている(まあ、彼の伸びやかでソウルフルなサックスをきくだけでも気持ちいいのだが……)。このアルバムの白眉というべき演奏はB−1で、過激にブロウしまくるケシャバンの真骨頂が聞ける。やはり、ドルフィーの影響というのか、曲づくりの異常さ、ソロのいびつさ、そしてスピード感みたいなものが一体となって、めちゃめちゃ心地よい。ほかにも熱い、情熱をほとばしらせるような演奏が多々あって、たしかにケシャバンの最高傑作だと口走りたくなる気持ちもわかる。だが、ケシャバンというひとはもっともっとむちゃくちゃで、わやくちゃで、でたらめなサックス奏者であって、そういうものが開花していくのはこのあとなのだ。ケシャバンは「傑作」とか「名盤」こそ作らなくなるが、その凄まじい異常性が発揮されていく80年代以降こそ、彼の真髄ではないかと思ったり……思わなかったりして。レイ・アンダーソンがゲストで入った曲は、めちゃめちゃラフでタフな演奏だが、両者の、よい意味でのいいかげんさがパワフルなブロウにつながり、なんともいえないかっこいい一曲になっている。私がもっているのはアフィニティによる再発のLPだが、ラスト近くになぜか片チャンネルが消えて、左からしか音が出なくなる。何度聞いてもそうなので、録音のせいだろうか。まあ、最後のほうなので実害は少ないのだが……。

「LOVELY」(ITM RECORDS ITM0011)
LOVED BY MILLIONS

 LEOに「LOVED BY MILLIONS」というアルバムがあったが、あれはピアノレストリオによるたいへん硬派な内容だった。ケシャバンはあのタイトルが気に入ったらしく、こうしてバンド名にしたわけだが、本作はあのアルバムとは180度ちがう、かなりポップなロックである。奥さんであるパメラ・ミリオンズのボーカル(かなりうまい)が全編フィーチュアされており、パメラのバンドなのかと思う向きもあろうが、じつはすべてをケシャバンがコンポーズ、アレンジしており、全体の音楽性やサックスソロも含めて、ケシャバンの音楽なのである。ケシャバンはおそらくかなり真剣に、本腰をいれて作ったと思われるアルバムだが、最初に聴いたときは、相当引いた記憶がある。だってこっちはICPオーケストラでのあの演奏を観てファンになったわけだから、こんな風にマジでロックをやられるとそりゃ引きますよ。それも、坂田明のように「テノク・サカナ」「トラ・ウマ」「WHA−HA−HA」的な、一種の諧謔というかギャグとしてやってます的な見せ方があればまだしも、めちゃめちゃストレートで、笑いなし、遊びなしの真剣勝負なのだ。ケシャバンはなにを考えていたのか。最愛の奥さんをなんとか世に出したいと思ったのか。嫁とバンドができれば最高、と思ったのか。金儲けができると思ったのか。フリージャズに飽き足らなくなって、俺はこんなこともできるんだぜとアピールしたかったのか。まあ、そのへんの心理はよくわからないが、個人的には、近藤等則が即興からコンポジションを前面に出した過激なロックで自分を表現しはじめたあたりの感覚に近いのではないかと思っている。まあ、それはさておき、このアルバム、最初に聴いたときはかなり引いたとさっき書いたが、そのあと何度か聴いているうちに麻薬的にはまってしまい、いまだに聴き続けている。癖になるのだ。たぶんそういう音楽を狙って作っているのだろうが、こういうものの才能がなければ作れないわけであって、やはりケシャバンはいうひとはただものではない。ええ曲書くなあ、このおっさん。パンキッシュなボーカルも悪くありません。途中で挿入されるキチガイじみたサックスソロもめちゃめちゃぶっとんでおり、過激さはたっぷりだ。ある意味、マツ・グスタフソンの「ザ・シング」よりも過激かもしれないコンセプトの、しかもポップで聞きやすいロックアルバムです。

「BETTER AND BETTER」(LEO RECORDS LR150)
KESHAVAN KENNY MILLIONS

 ジャケットが白黒でしょぼいので、損をしているが、内容は悪くない。これも、はじめて聞いたときは、かなり引いた。なんやねんこれ? と思ったが、今の耳で聴くと相当いいです。一曲目をはじめ、ドルフィーっぽい、跳躍の多い変態的な曲を、ものすごいテクニックで吹いて吹いて吹きまくるというタイプの演奏は、従来ケシャバンが追求してきたものだが、このアルバムはその頂点をきわめた感じすらある。また、アルトの濁った鳴りにくわえて、テナーも豪快に鳴ってきており、どちらも主奏楽器になっているといってもいい。ただし、そういう演奏ばかりではなく、脳天気に「セント・トーマス」を演ったり、下手なボーカルを「ジョージア・オン・マイ・マインド」で披露したりと、レーベルのせいもあるのか、これまでのハードな即興路線と、ITM的なポップ路線が交互に顔を出すような、妙ちきりんな構成になっている。それを、ケシャバンのこの時点での音楽性を総合的にあらわしている、と考えればいいのか、あー、フリーっぽい演奏ばっかりにしてくれればなあ、と考えればいいのか、「セント・トーマス」「ジョージア」で見せる露骨にベタな感じがあってこそのケシャバンだからこれでいいのだ、と考えればいいのか、よくわからん。わからんが、とにかくゴリゴリの曲の凄さ、爆発的、暴力的、なおかつめちめちゃ「上手い」ソロの凄まじさなどははっきりとわかるのだ。私ですか? もちろん……ケシャバンが吹いてくれればなんだっていいんですけどね。

「GET THE MONEY(WHATEVER IT TAKES」(LEO RECORDS LR161)
KESHAVAN MASLAK

 これはさすがに「ケシャバンが吹いてりゃなんだっていいんです」と豪語していたケシャバンフリークの私も唖然としてあいた口がふさがらない、ケシャバンが「吹いていない」アルバムである。すべての楽器をケシャバン自身が演奏しており、マックを使ってつくりあげた「アメリカン・ノン・オペラ」なるしろものだそうだ。まあ、言ってみればサックス奏者の密室芸として坂田明の「テノク・サカナ」や泉邦宏の作品などを想起させられるが、さすがはケシャバン、めちゃめちゃ過激な内容であって、A面をしめる「BODHISATTVA」という曲はたしかに「オペラ」的な重厚なオーケストレイションがほどこされていてかっこいいが、B面はよりいっそう過激で、一曲目「キャッシュ・オンリー」という曲はその名の通り、ずーーーーーーーーっと変な声でダブサウンド風に「キャッシュ・オンリー」とくり返すだけだし、二曲目は「母がこどもを生で食べる」という過激なタイトル、3曲目はこれまたずーーーーーっと「金が入ったぜ」ということをひたすら言うだけの曲なのだが、このB面の3曲がとにかくめちゃめちゃかっこいいのだ。ケシャバンはほとんどサックスを吹いていないが、かっこいいから許す。ケシャバンのサックスが聴きたい、というひとには向いていないが、ケシャバンの過激な音楽性に触れるという意味では外せない一枚。

「I WISH I WAS A BIRD」(HUM HA RECORDS HUM HA#49)
KENNY MILLIONS & SERGEY KURYOKHIN

 めちゃめちゃよかった。ケシャバンの変態的というか諧謔趣味というか、ロックやポップミュージックに託した過激性と、もともとの古いフリージャズの土台というか伝統みたいなものが、うまく融合している。このふたりの相性はほんとうにばっちりだ。サックスも鳴りまくり、ブロウしまくりで、そういった面でも満足。この作品はあまりにすばらしいので、多くのひとに聴ける状態になってほしいものだ。これはケシャバンの自主レーベルなので、なかなか普通には手にできないと思われるからである。「HUM HA」は、ジャケットとかの造りがめちゃめちゃ雑で、しょうもなさそうに見えるけど、本当は宝の山なのだ。マジで。

「SOUL BROTHERS」(HUM HA RECORDS #31)
KENNY MILLIONS−DR.UMEZU−SABU TOYOZUMI

 92年の東京でのライヴ。買って、はじめて聴いたとき、私は神だの仏だの化け物だのに感謝しまくった。これは私のためにあるアルバムだ! そう思ったのです。1曲目はソプラノ(クラリネット?)とバスクラによる民謡みたいな超短い曲。なんで収録したのかわからないぐらいの短さ。2曲目は、ケシャバンのテナーが濁った音でファンキーなリフを吹き、豊住さんのドラムはそれに合わせながら笛みたいなものをピーピー吹いて、梅津さんはアルトでファンキーにブロウする、という気の狂った演奏で最高。この3人が寄ると、たちまちこんな不思議でしっかりしていて頭がおかしくて刹那的な音世界ができあがってしまうから不思議だ。たった3人、しかもドラムとサックス2本で、フリーインプロヴィゼイションではなく、こういうちゃんとした音楽ができてしまうのだからすごいもんだなあ。途中から混沌としたスクリーム合戦になるのだが、それでも一本筋が通っていて、リズムは崩れず、そのまま演奏は進行していく。皆、そこに戻ったり、自由に飛び回ったり、好き勝手にみえるが、クオリティの高い音楽がちゃんと形成されている。梅津さんは2本くわえて吹いたり、ケシャバンもギョエエエッと吹き倒しているが、いやー、やっぱり技術やなあ。3曲目は、ケシャバンの太い音のテナーが、サム・テイラーばりのムードミュージックのようにダーティートーンで吹きまくり、梅津さんのソプラノがそれにからむ。ああ、ええなあ。まず、「音色」に惚れぼれする。そのあと、リズムが消えて、皆が好き勝手を始めるのだが、なにをやってもツボを押してくる感じだなあ。全部おもしろい! テナーが野太い音でリフを吹き始めて、じつはそれだけでもかっこいいのです。そこに梅津さんのアルトがソロをかぶせて、ああ、ソウルブラザーや! と私は感極まってのたうちまわる。終わるとものすごい拍手と歓声。4曲目はケシャバンがぎょえええっと吹きながら「ナイス・ラヴ・ソング!」と叫ぶだけの一瞬の曲。えぐいユーモアセンス。5曲目はアイラーっぽいというかアイラーの曲で、タイトルは「アイラー・ミーツ・カラオケ」。たった3人で、アイラーミュージックのあの喧噪と陽気な祝祭を表現してしまうのはものすごいです。客の絶叫というか歓声がすごい。ヴァンダーマークとマーズ・ウィリアムスのエンプティボトルのライヴ「ウィッチズ・アンド・デヴィルズ」を思い出したが、あれよりすごいかもしれない。最後はほんとにカラオケ大会になり、みんな演歌を歌い出すというむちゃくちゃさ。梅津さんは「グンナイベイビー」を吹きはじめる。もしかするとこれが「梅津和時演歌を吹く」の原型か? それともダダか? 6曲目は、「リアル・ジャズ」という一連のセッションの一部(らしい)。いわゆる伝統的なフリージャズ、パワーミュージックで、ケシャバンと梅津さんがでかい音で吹いて吹いて吹きまくる。豊住さんも叩きまくる。客かミュージシャンかわからないが、途中で「馬鹿ども!」という声が聞こえて笑える。しかし、私はこういうときのケシャバンの「音」が滅茶苦茶好きなんです。ほんまええ音やで。ラーセンのメタルのはずである。しかし、伝統的なフリージャズと書いたが、そこに諧謔的な要素がたっぷりくわわっているのが、このふたりの特徴であり、個性的なところだ。途中から梅津さんのバスクラとケシャバンのアルト、ドラムという編成になるが、ケシャバンのアルトの濁った伸びまくる音も最高。7曲目も「リアル・ジャズ」のひとつ。3拍子でスウィングする曲で、ベースもギターもピアノもいないのに、こいつらはほんま、凄すぎるなあ。梅津さんのアルトがずーっとリズムを感じさせるぶっ速いフレーズを延々と吹いていて、ケシャバンはスクリームしまくるし、豊住さんのドラムは大暴れする。後半の展開の凄まじさはとうてい文章では書き表せないので、とにかくなんとか入手して聴いてほしい。この演奏が本作の白眉といってもいいかもしれない。無茶苦茶やってるようだが、異常なまでのハイクオリティなプレイなのだ。技術力、音楽性、前衛性、保守性、即興性、再現性……どれも一級なのです。ラストの曲は梅津さんがクラリネットでずっとパターンを吹き、そこにまったくちがうリズムでケシャバンがバスクラで乗っかって「そんなに別れが苦しいものなら……」というあの曲(タイトル忘れた)を吹くという狂気の沙汰だが、それが途中からブレンドして、ふたりのクラリネットが見事に一本のように聞こえるという離れ業。いやー、信じられないぐらいすばらしいですね。というわけで、私にとっては大傑作、超名盤なのだが、だれも知らないのかなあ。もし見かけたら、絶対ゲットですよ! ケシャバンにとっても梅津さんにとっても会心の演奏だと思うし、豊住さんも凄いし(最後の曲で炸裂します)、それがこうして録音されて商品になっていること自体が神の恩寵だ。何度聞いても興奮しまくりです。どの曲も途中からフェイドインではじまり、フェイドアウトで終わるあたりも、ケシャバンの自主レーベルのいい加減なところで、超チープなジャケットその他もこれまた好きなのです。傑作!

「ROMANCE IN THE BIG CITY」(LEO RECORDS CDLR104)
KESHAVAN MASLAK & PAUL BLEY 

「NOT TO BE A STAR」に続く、か、先行するかわからないが、なかなか興味深い顔合わせによるデュオだが、聴いてみると、ポール・ブレイの世界にケシャバンが参加しているという感じだ。頽廃的で耽美で繊細なブレイのソロの世界観を壊さないようにケシャバンが抑えているようにも聞こえる。もちろんかなりがんばってはいる。ダーティートーンを使ったり、クラスター的な音使いをしたり……でも、ブレイの手の上で遊んでいる感はいなめない。たとえば、3曲目はケシャバンのテナーソロでスタートし、それはかなりいい感じなのだが、そこへブレイのピアノが入ってくると、そちらの衝撃のほうが大きく、ブレイのプレイに引きずられた、やはり役者が一枚上という演奏になる。しかし……しかしですよ。そういう力関係の演奏が、じつにいいのです。ケシャバンの八方破れ、変態、ダダ、チープなロック、打ち込み、ヤバいボーカル……そういった部分が少なくなり、ジャズミュージシャンとしての有り余る実力だけがクローズアップされている。この演奏でも、いやー、むちゃくちゃだよ、というジャズファンはいるかもしれないが、ケシャバンファンからするとおとなしいとしか言いようがない。もともとアホほどうまいひとなので、これぐらいのことは朝飯前なのである。そして、ときどき逸脱して、ぎょえええっとブロウしまくるあたりもいいし、それをブレイがサクッとかわして終わらせるのもいい。けっして、クリョーヒンとのデュオみたいにはならんのである。4曲目はブレイのソロピアノ、5曲目はケシャバンのアルトソロで、どちらもすばらしい。とくに後者は、安定した音の出し方といいスケールの吹き方といい、彼のサックスプレイヤーとしての根本的な実力がわかる。6曲目の、ブレイのソロのバックでのケシャバンの吹き方などはめちゃめちゃかっこよく、ブレイに対してかなり踏み込んだ演奏だと思う。8曲目もケシャバンのアルトソロ。かなりきっちりした複雑なテーマを見事に吹きこなし、くねくねしたアドリブもすばらしい。しかも「マザー・ロシア」で爆走したような、ああいうむちゃくちゃな部分はまったくなく、ひたすらラインで表現している。すばらしい。9曲目の「ジュンコの夢」というのは、まさしく日本の歌謡曲みたいなケシャバンのオリジナルで、ムード歌謡的な演奏。コードなどはジャズっぽいのだが、またこのふたりがうまく表現してしまうのだ、こういう曲を。私の知っているケシャバンなら、こういうムードのときに茶々を入れたり、ぎゃあああっと無意味に吠えて演奏をみずから潰すような行為をしたりしたくてたまらないはずだが、そうはしないのがこの盤のケシャバンだ。10曲目もアルトの無伴奏ソロ。なんという豊かで伸びやかな音色だろう。でも、ただひたすらテーマを吹くだけなのだ。11曲目は本作でいちばん長い演奏だが、やはりブレイの世界にケシャバンが寄り添うような、繊細で深い演奏。もしかしたら、ケシャバンのなかにもそういうものが大きな音楽観として存在し、このアルバムはそれを表現するためのものなのか、とも思ったが、いや、それは考えすぎかなあ。12曲目もケシャバンソロだが、超短い。このあたりも、ケシャバンがこのアルバムをトータルな表現として考えているのがわかる。最後の曲は、フリーなデュオだが、ケシャバンの語りが入り、ケシャバンはクラリネットを吹いている。なんとも美しく激しい狂気の音世界。アナーキーなケシャバンしか知らない我々は、このアルバムには驚かざるをえない。ケシャバンのジャズ的な部分、叙情的な部分が最高に現れた作品だと思う。

「EXCUSE ME,MR.SATIE」(LEO RECORDS CDLR199)
KESHAVAN MASLAK/KATSUYUKI ITAKURA

 ケシャヴァンと板倉克行のデュオ。20曲の小品が入っていて、1曲ごとに、エリック・サティの曲とケシャヴァンまたは板倉克行の曲が交互に並べられているという趣向(「GNOSSIENNES」という曲は3パート、「LE PIEGE DE MEDUSE」という曲は7パートに分けて収録されているので、実質的には2曲というべきか)。サティの美しく、哀しく、スピリチュアルな輝きに満ちた曲を、サックスとピアノのデュオが奏でていくその様は、壊れやすい、氷でできた花びらの彫刻を扱うような丁寧さ、細やかさに満ちている。ケシャヴァンは、こういうときにその管楽器奏者としての根本的実力を露骨に表明する。サックス奏者として、音色、コントロール、アーティキュレイション、鳴り、音程などが完璧なのだ。これだけ吹けるひとが、アナーキーな演奏をするというところがケシャヴァンの真価だと思う。オリジナルなデュオの曲では、ふたりとも好き放題にやっているのだが、どこかしらサティの音楽を意識したような雰囲気の即興になっているところがおもしろい。耽美的で、リリシズムにあふれ、美しく、また醜い。そして自由である。いつものケシャヴァンのダダイズム的な狂気、あるいは力強いブロウを期待すると肩すかしかもしれないが、こういう叙情的側面も彼の魅力のひとつである(14曲目はかなりガッツのある演奏ではあるが、その分、超まとも)。なお、4曲目はケシャヴァンのソプラノソロ。などと書いていると、板倉さんの訃報が飛び込んできたのには驚いた。ご冥福をお祈りいたします。