「IN THE WIND」(PASSIN’ THRU RECORDS 41220)
MAKADA KEN MCINTYRE
ケン・マッキンタイアのソロアルバムかと思って購入したら、「ケン・マッキンタイア・カルテット」となっている。あれ? と、ライナーをよく読むと、どうやら「ひとりカルテット」のようだ。しかも、各曲ごとに「クラリネットだけ」とか「フルートだけ」とか「オーボエ、バスーンなどのダブルリードだけ」とか「サックスだけ」とか……かなり変わった趣向のオーバーダビングアルバムである。アンサンブルとソロ、というような形ではなく、わざとなのか、結果としてそうなったのかわからないが、アンサンブルもソロも渾然一体となった、じつにフレキシブルな感じの演奏。デビュー時からそうだったが、ほんとうに個性のあるサウンドである。看板芸のダブルリード系はもちろん、クラリネットも、サックスも、フルートも、それぞれ何種類も使っており、まさにマルチリード。しかし、そんなことよりもなによりも、このアルバムを聴くポイントは、ケン・マッキンタイアーが晩年、死ぬまでずっと、こういった実験精神、前進意欲をまったく失わず、新しいことに挑戦し続けていた点だろう。本作を聴くと、デビュー後一貫してチャレンジャーであった彼の最後の息吹きが伝わってくるような気がして、本当にいきいきとした気持ちになれる。こういう作品を「ひとりよがりのわけのわからない作品」と片づけてしまう連中は、商業主義とは無縁のこういったミュージシャンが存在すればこそ、音楽が少しずつでも前進してきたということは一生わからんだろう。前衛と保守、両方なければ、音楽は死ぬ。
「YEAR OF THE IRON SHEEP」(UNITED ARTISTS TOCJ−50077)
KEN MCINTYRE
でこっぱちのケン・マッキンタイヤは大好きである。アルト、フルート、オーボエと持ち替える多楽器奏者だが、前衛ジャズにオーボエというダブルリードを持ち込んだ功績は大きいと思う(本作では吹いてない)。ドルフィーとの共演盤である「ルッキン・アヘッド」が代表作であり、しかもドルフィと対比すると、ドルフィーが変態的な跳躍フレーズを吹いてもめちゃくちゃなめらかなのに対して、マッキンタイヤはどことなくぎくしゃくしており、そういうところがドルフィーの追従者というか亜流的な扱いのもとになったのかもしれない。たぶんドルフィーの影響も受けてはいると思うが、ケン・マッキンタイヤはドルフィーとはまた異なった個性を、それもかなり独特の唯一無二のオリジナリティを持ったひとなのである。そんなことはもちろん、わかってるひとには当然のようにわかっているわけだが、わかってないひとがいっぱいいることも知っている。この6曲中5曲までをオリジナルでかためた意欲のかたまりのような単独リーダー作の、タイトルのかっこよさよ。オリジナル曲のすばらしさよ。そして、マッキンタイヤの音色の美しさよ。これを「太さのまったくない薄っぺらな音」と評したネット評を読んだが、いやー、ひどいなあ。そして、本作の日本語ライナーにも書いてあるが、「欲求する音楽と実際に自分が奏でる音のギャップを終生埋めることのできなかったひと」「ドルフィーのように自由に跳びたいという表現欲求は切に伝わってくるのだが、それを具現化するには彼の語法はオーソドックスに過ぎたのだ」「結果彼の演奏は、保守にも革新にもなりきれない、決定力を欠いたものとなった」「なにかが彼に、ドルフィーほど奔放になることを許さなかった」などという評価はひどくないか? いやー、これは言い過ぎ、あるいは不当な評価でしょう。ケン・マッキンタイヤはフレーズを考え考えていねいに吹いていくタイプなのだと思う。奔放だからいいということではなく、タイプが違うのだと思う。少なくとも、上記の「イン・ザ・ウインド」というアルバムを聴いた耳からすると、「欲求する音楽と実際に自分が奏でる音のギャップを終生埋めることのできなかったひと」というのは明らかな間違いだと思うが。このライナーを書いたひとは、「イン・ザ・ウインド」を聞いたことがあるのか? まあ、それはどうでもいいけど、本作はとにかく私にはたいへんすばらしく、好ましい傑作に思える。凡百のジャズアルト奏者のなかで、こんな高みに31歳ですでに達していたケン・マッキンタイヤを全力で支持したいと思う。この37分しかない凝縮された作品に惚れこまずにはいられない。傑作。