joe mcphee

「A MEETING IN CHICAGO」(OKKA OD12016)
JOE MCPHEE/KEN VANDERMARK/KENT KESSLER

 便宜上、マクフィーのところに入れた(名前が一番最初に書いてある)が、3人対等のアルバム。1996年録音というから、けっこう古い(97年に8THデイミュージックディスクというところから出たものの再発らしいが、出た翌年、よそから再発というのはどういうことか)。ヴァンダーマークとジョー・マクフィー、ケント・ケッスラーという組み合わせ。ドラムがいない分、ふたりの管楽器奏者の音がリアルにきこえてくる。正直なところ、ヴァンダーマークは、サックス、ベース、ドラムというトリオだと、メンバーにあまり関係なく同じような内容になってしまうので、こういう変則的組み合わせのほうが、いつもとちがう展開になり、それだけでも聴く価値あり。しかも、相手がジョー・マクフィーとケッスラーなのだから、いうことなし。ジョー・マクフィーという人は、すでに巨匠だと思うが、こういうセッティングは実にあう。緩急自在の展開で、ふたりの管楽器奏者がときに協調し、ときに反目し、すばらしい瞬間をつくりあげる。それをケッスラーが骨太のベースでしっかりとささえ、ときどきソロで突出した自己主張をする。また、トリオのセットだけでなく、それぞれのソロやデュオなど、曲ごとに編成もかわり、とくにヴァンダーマークとマクフィーのデュオは心躍る。たまに聴くとすごくはまるアルバム。

「GUTS」(OKKA OD12062)
MCPHEE/BROTZMANN/KESSLER/ZERANG

 ブロッツマンとシカゴ派という組み合わせのなかの一枚で、ドラムがマイケル・ツェラングというところが鍵か。ブロッツマンもマクフィーも、豪快に吹きまくっているのだが、めちゃくちゃやり倒す、というほどではない。そのあたりの微妙なバランスがいい。私は気に入ったし、非常に楽しく聴けたが、「ガッツ」というタイトルからは、もっと破天荒で半ば崩壊したようなパワー一辺倒の吹きあいを想像していたので、ちょっと肩すかしか。でもね、このぐらいがいちばん音楽としてはいいかもしれませんよ。何度聞いてもこっちがしんどくならず、また聴こうという気になるから。それに、4人ともじつにいきいきと自由にやっている感じが伝わってくるし。ジャケットに載っているジョー・マクフィーの写真がやけにかっこよくて、4人が楽屋で並んでいる写真もヤクザ以外のなにものでもない。いやー、極道たちですなあ。音の極道。ブロッツマンが例によってジャケットデザインを担当しているが、裏ジャケの自分の名前のつづりをまちがえているのはどういうことか(BROETZMANNとなっている)。

「BETWEEN」(OHRAI RECORDS JMCK−1016)
JOE MCPHEE & SATO MAKOTO

 ジョー・マクフィーは大好きなテナー奏者だが、トランペット奏者としてはどうかな……。本作にも、ラッパを吹いている曲がけっこう入っているのだが、オーネット・コールマンのトランペットのように、どうもいまひとつピンとこない。マクフィーのラッパは、たぶんかなり遊びの要素が強い演奏で、正直なところテナーのほうが好きである。しかし、マクフィーがラッパなどのほかの楽器を吹く理由は、おそらく演奏の袋小路を脱却したい、ということだと思う。演奏としてはサックスで十分究極を極めている。しかし、そんな慣れ親しんだサックスでも、ときに馴れ合いになったり、マンネリになったり、演奏中、どうしても越えられない壁があったりするものだ。それを越えるにはあがいたりもがいたりするしかないが、自分の主奏楽器でないものをひょっと吹くことで案外乗り越えることができたりするものである。それマクフィーにとっての金管だと思うが、ここでのマクフィーはそういった主奏楽器でないものもうまく使い、即興の幅をひろげている。ジョー・マクフィーといえば、ほかにいくらでも主要なリーダー作を上げることができるのだが、本作もなかなかよい。やはり、サックスを吹いた曲のほうが総じて出来がいいと思うがどうか。

「TOMORROW CAME TODAY」(SMALLTOWNSUPERJAZZSTSJ148CD)
JOE MCPHEE PAAL NILSSEN−LOVE

すごく楽しみにしていたニルセンラヴとマクフィーのデュオ。最近のニルセンラヴはこういったデュオでも、演奏の方向性を決めてしまわずに、じつに自由自在に自然な展開をとることができて、円熟という言葉を使いたいぐらいだが、ここでもヴァンダーマークやグスタフスンにくらべて「自由人」であるジョー・マクフィーに対して、真っ向から全身全霊でぶつかってはいるが、その音数に比して、けっして相手を阻害したり、俺が俺がといった感じになっておらず、ほんとうにうまくブレンドしている。マクフィーはときに激しくドスの利いたブロウを展開し、ときには童歌というか鼻歌みたいなフレーズをちゃらちゃら吹いたり……これはいいなあ。久しぶりに魂を遊ばせてもらったような気がした。こういうデュオは大好きです。なお、私のもっている盤はレーベルになーんにも印刷されていないのだが、どれもこうなのかな。

「ALTO」(ROARATORIO ROAR17)
JOE MCPHEE

へー、ジョー・マクフィーのアルトソロかあ、となにげなく注文したのだが、届いてみるとLPレコードだったので驚いた。ジャケットは、和紙みたいなものを両面テープで貼り付けただけのええ加減なものだが、その手作り感もよい。「アルト」というタイトルだが、アルトサックスだけでなくアルトクラリネットも吹いている。ライヴだが、あいかわらず抽象的で繊細、そしてブラックミュージックを感じさせる演奏ですばらしい。両面通して何度か聴いたが、聴けば聴くほど味わいのでてくるスルメのような演奏。しばらく寝かせておいて、また聴いたときにどんな感触を受けるか楽しみだ。ソプラノ編もでているようだが、そちらは未聴。

「BLUE CHICAGO BLUES」(NOT TWO RECORDS MW841−2)
JOE MCPHEE INGEBRIGHT HAKER FLATEN

 これも傑作じゃないでしょうか。ノットトゥーレーベルはすごい。このデュオのメンバーを見るだけで、ある程度の成果は期待されるが、聴いてみるとこちらの期待を越えていた。うーん……タイトルが「ブルース・シカゴ・ブルース」で、フレッド・アンダーソンに捧げているというだけでも涙がちょちょぎれるが、もちろん全編即興で、ブルース形式のものは(たぶん)一曲もない。しかし、こういうときによく使われる「ブルースではないが、ブルースを感じさせる」という表現は、たいがい「お世辞」に近い場合が多いと思うのだが、本作はまさに言葉の額面通り、ひしひしとブルースを感じる。これはマクフィーというひとの本質がそうなのだろうなと思う。そして、あいかわらずフラーテンもウッドベースとは思えないパッションあふれる演奏で、ベースから破壊音、破裂音など多彩極まりない表現を引きだしており、まさにふたりでオーケストラ。このすばらしい演奏がフレッド・アンダーソンに捧げられているというのがもう個人的には感動なのだ。マクフィーとフラーテンでは年の差もかなりあると思うが、そういう世代間の溝をこえてこのすばらしい即興が行われたことに感謝。これは当分愛聴盤になるでしょう。なお、プロデュースもふたりでやっている対等の作品だと思うが、裏ジャケットにポエムを載せているマクフィーの項に便宜上入れた。

「MANHATTAN TANGO」(LABEL USINE1008)
JOE MCPHEE & JEROME BOURDELLON

 あー、これはおもろいわ。マクフィーがサックス類を使わず、全編ポケット・トランペット(とヴォイス)に徹しているし、相手もフルート類だけ(リード楽器を演奏しているように聞こえたりするのがすごい。このひとはよほどうまいと思う)なので、買ったときはどうかなーと思ったのだが、めちゃめちゃ良かった。ヨーロッパのレーベルで、ライナーもフランス語だが、録音はニューヨークのロフトで、全編即興のライヴ。いやー、マクフィー節を堪能しました。濃いなあ。ジョー・マクフィーというひとは、誤解を恐れずにいうと、すごく楽器がうまい!というわけではないと思う。というか、楽器をいわゆる西洋的なセオリーに従って習熟することについてあまり意味を見いだしていないのではないか。サックスなどのリード楽器とトランペットなどのブラス系を両方演奏する姿勢にもそれは現れているように思う(私見だが、アルトクラリネットがいちばんうまいような気がする。低音から高音までのコントロール、木管としての音色などじつにいい)。フリージャズ初期にはあえてそういう道を選ぶミュージシャンが多数いたが、今は少ない。今のミュージシャンは楽器はめちゃめちゃうまく、どんなタイプの音楽でもどんな素材でもどんな複雑なフレーズでも演奏でき、理論や楽典にも通じているが、そのうえであえてフリージャズを選択している……というひとが多いが、マクフィーはそうではなく、古い時代の生き残り的に「異常なまでの個性と表現力」を前面に出すタイプだ。こういうひとを聴くと、彼の持っているもの凄いエネルギーがこちらにも流れ込んできて、元気になる。マクフィーなら、正直、楽器なんかなくても、ヴォイスだけとか机のうえを指で叩くだけでも1時間ぐらい客の耳をひきつけることができるだろう。このデュオも、演奏としてはけっこうおとなしいのだが、そこからほとばしる熱気、情熱などをビシバシ感じる。感動的といってもいい演奏だ。ユーモアもある。相方のジェローム・ブーデロン(と読むのか?)完璧な相方を務めていて、まったくマクフィーと対等のデュオだと思う。すばらしい。ディスクユニオンの中古で1000円だったのだが、めちゃもうかった。

「JOE MCPHEE,EVAN PAKER,DAUNIK LAZRO」(VAND’OEUVRE SEMANTIC750)

 3人のサックス奏者によるトリオだが、タイトルがシンプルちゅうか、そのまますぎるやろ。でも、中身はめちゃくちゃよかった。死ぬほどよかった。すごくよかった。1曲目は3人による演奏で、(おそらく)ソプラノ2、アルト1の高音域中心の繊細な即興で幕を開ける。ある意味型どおりな感じの、手探りのような微妙な応酬がかなり続いたあと、エヴァン・パーカーのソプラノソロになる。循環呼吸を使ったこのソロがめっちゃいい(相変わらず、と付け加えてもいい)。それが佳境に達したところで、ほかのふたりが被さってくる。もう手探り感はない。ここからさまざまな展開になっていくのだが、ジョー・マクフィーのアルトは骨太で「フリージャズ」という感じ。パーカーのソプラノはきらきら輝いている。ラズロのアルトはハーモニクスを効果的に使ってクールに自己主張。このあたりの面白さは筆舌に尽くしがたい。14分ぐらいしたあたりから、ものすごくディクレッシェンドしていき、微細な音でのやりとりが続く。それがまた次第にクレッシェンドしていく。マクフィーとラザロのアルトデュオも楽しい。まるで兄弟のような、まるで他人のような。そしてまた3人になる。結局、どれも同じやんか、というひともいるかもしれないが、私はやっぱりこういう演奏が好きだ。20分ぐらいして、はじめてメロディー的なものが出てきて(あくまで「的」です)、やりとり中心の即興から微妙に移行しはじめる。あー、めっちゃかっこええ。即興リフとハーモニクスの結合。マクフィーのアルトソロになるが、かなり延々と続くさすがにめっちゃいいソロだ。やはりフリージャズっぽくてス・テ・キ。ここでラズロがバリサクに持ちかえるが、ここからがまたすごいんだよ。パワーが倍増した感じ。そしてエヴァン・パーカーがテナーに持ち替え、3人での即興は熱を帯びていく。そして、またクールになり、吹き伸ばしによる幽玄な響きのなか、37分に及ぶ即興ドラマは幕を閉じる。2曲目は、マクフィーとパーカーのデュオ。マクフィーはポケットトランペットでパーカーはテナー。楽器のせいか、いきなりフリージャズっぽい。そうそう、フリージャズっぽく聞こえるとか、インプロヴィゼイションっぽく聞こえるとか、ノイズっぽく聞こえるというのは、多分に楽器チョイスのせいもあると思う。マクフィーが唾液を飛ばしながらのいきいきした力強い表現はやはりブラックミュージック的に感じるし、それに答えるパーカーのアタックの強いタンギングでのスタッカートが作り出すリズムも、伝統からのイマジネーションを感じる。3曲目はパーカーとラズロのデュオ。パーカーはテナーで、ラズロはアルト。これは、技術というか上手さを感じさせるデュオ。寄り添ったり離れたり、ふたりとも(当然だが)どういう瞬間にどういう音を出すべきか、どういう風に吹けばその音が出るかを完璧にわかっている。それだけに、スリルはないといえばないが、だからといってマイナスなことはない。4曲目はまた3人による演奏。マクフィーのアルトクラリネット(らしい)ソロで始まる。かっこいい。パーカーがソプラノで加わり、しばらくはデュオ。突然、循環呼吸による反復フレーズを駆使した激しいパートに突入。手に汗握る。マクフィーが吹き止め、パーカーとラズロ(アルト)のデュオになる。リズミックなフレーズによる応酬に、マクフィーがトランペットに持ち替えて参加。混沌とした状態になる。そののち、アルトクラリネットとアルトサックスによる少しメロディっぽい部分が表出して、それからラズロの朗々としたアルトソロになる。ここもめっちゃええ。3人になって、またメロディックな吹き伸ばしを多用したパート。全体にマクフィーのアルトクラがええ味を出している。坂田明にも感じることだが、アルトクラリネットという楽器はバスクラと比べても、なかなか効果的な使い方ができる優れた楽器だと思う。そして、ものすごく小さ区、柔らかい音でのロングトーンになり、牧歌的というより不気味な印象の演奏に推移。ときどき、悲鳴のような高音が聞こえるなか、終演となる。最後に拍手が来て、「え? ライヴだったの?」とびっくりするが、ライヴとしては相当細かいところまで気持ちの行き届いた、繊細さと緊張感のあるすばらしい演奏だと思います。だれや、こんなええCD売ったやつ(ユニオンで1000円だった)。3人対等の演奏だと思うが、最初に名前の出ているマクフィーの項に入れた。

「SONIC ELEMENTS」(CLEAN FEED CF278CD)
JOE MCPHEE

 ドン・チェリーに捧げたポケットトランペットソロ2曲(演奏は切れ目がない)と、オーネット・コールマンに捧げたアルトサックスソロ2曲(演奏は切れ目なし)によって構成されたソロコンサート。マクフィー自身によるライナーノートがかっこいいので読み逃さないように。マクフィーは、トランペットの音をねじ曲げ、息の音と唾液とよだれと肉声と呻き声でまみれさせる。およそ「楽器」を演奏しているとは思えない態度を終始貫き通す。そこから深いブルースがにじみ出してくる。詩のようなものを朗読するような部分もあるが、なにを言ってるのか私の耳ではわからない。(おそらく)水を入れたバケツかなにかにラッパを突っ込んで吹いている箇所もある。ごぼごぼ……という腐敗した汚らしいドブ川のような音、ぶっ、ぶっ、ぶごっ……という放屁のような音などがするが、そこからも醜悪なブルースが湧きだしてきて、人間的な、あまりに人間的な「美」へと変化していく。呪詛のような悪魔じみた歌と大勢の衆生の叫ぶ声に似たトランペットの音が同時に奏でられ、この楽器の計り知れない可能性を感じさせる。アルトサックスは非常にストレートに吹奏されるが、あいかわらずのヘタウマぶりですばらしい。このひとのサックスは、小学生がリコーダーで遊んでいるような感覚がつねに失われないところがいい。ときおり叫んだり、キーをかちゃかちゃいわせたり……というのもその場での思いつきでやっているわけだが、まるでこどもがいちびっているようだ。こういう人間味溢れるソロサックスを聞くと、エヴァン・パーカーやジョン・ブッチャー、ウルス・ライムグルーバー、スティーヴ・レイシー、ミッシェル・ドネダ、ヴァンダーマーク、グスタフソン……といったひとびとのソロに比べて、まったく別次元にいると思わずにはおれない。楽器の表現の極北を目指す……なーんてことは一切考えていないのだ。音色を磨こうとすら考えていないようにも聞こえる。要するにその場での思いつきをすぐに音にするという意味合いにおいて「鼻歌」なのだが、その鼻歌を真剣に、全身全霊をかけて、魂をこめて演奏しているのだ。こんな重い鼻歌があるだろうか。楽器と戯れているだけ……としか思えないが、それは実際には非常にむずかしいことだ。無心に楽器と遊ぼうと思っても、いろいろなものが邪魔をする。それは邪念、雑念であったり、理論であったり、テクニックであったり、客ウケであったり、演奏時間であったりだが、もしかしたらオーネット・コールマンとドン・チェリーが「発明」し、ジョー・マクフィーが受け継いだのは、そういった「なーんにも考えないで演奏する」ということではないか、とかわけのわからないことを思ったり思わなかったりしながら楽しく聞きました。

「IBSEN’S GOHSTS」(NOT TWO RECORDS MW876−2)
JOE MCPHEE・JEB BISHOP・INGEBRIGT HAKER FLATEN・MICHAEL ZELANG

 2009年のオスロでのライヴ。シカゴの猛者たちの、フラーテンの故郷への出演。ブロッツマンテンテットの一部メンバーによる演奏……なのかどうかはわからないけど、なかなか面白そうということで購入したのだろうか。じつはいつどこで買ったのかまるで覚えていないのです。もしかしたらフラーテンがらみのライヴの物販かもしれない。5曲のインプロヴィゼイションが入っていて、譜面ものは一切ないようだが、この4人だと即興も譜面も関係なく、テンポやリズムが自然発生的に現れて、それに乗ったノリノリのソロが出てきたり、またぐじゃぐじゃの集団即興になったりと変幻自在で、楽しいったらありゃしない! とレトロに叫びたくなる。とにかくずっとグルーヴがあるんですよ。最近「グルーヴ」という言葉をやたらと使う音楽評論は鬱陶しいなあと思うけど、このアルバムについては使ってもいいんじゃないかと思う。マクフィーはテナーに専念していて、それも聴き所(マクフィーのテナーはドスがきいていてすばらしいですからねー)。フリージャズ〜インプロヴィゼイションをやっているミュージシャンも数多いが、なかなかマクフィーの境地に達するのはむずかしいですよ。ほんと、好き放題だからな。本人に言わせたら、いろいろインタープレイとかその場の音楽性とか考えてやっとるんじゃ! と怒るかもしれないが、「すんまへん、わては勝手にやらせてもらいまっせ」と宣言しているとしか思えない。自由とはこういう演奏なのだ。ジェブ・ビショップはさすがで、このひとは耳がよくてテクニックがめちゃめちゃあるので、フリーなものでもなんでもしっかりと安定した演奏で筋を通す。いくら逸脱しても、でたらめの極地、みたいなことにはならず、それがとても気持ちがいい。フラーテンはやっぱり狂っていて、とくにアルコのとき、こいつ何考えてんねん、ヤバイんとちゃうかと思う。素敵。ツェラングもパーカッション的なアプローチのときにとくに面白いし、ソロもなんだかめちゃくちゃでいい。どの曲もどんどん局面が変わっていくので、結局ひとつの長ーい演奏のようにも思える。なんというか、中核になるひとがひとりいるというタイプの即興ではなく、4人が完全に対等な感じなので、求心的な盛り上がりはないのだが、その分、協調的に昂揚していく感じがあって、とても心地よいです。もし、この会場にいて生で見てたらものすごく感動したと思う。おいしい瞬間がたびたび来るので、ずっと集中して聞いていないと聞き逃すよ!

「LONLIEST WOMAN」(CORBETT VS.DEMPSEY CVSDCD0008)
JOE MCPHEE PO MUSIC

 1981年にスイスで録音された9人編成での演奏。どうやらハット・ハットで出ていたものが31年の歳月を経てCD化されたということらしい。「ロンリー・ウーマン、テイクワン」という声のあと、ベースが掻き鳴らされ、あのテーマが合奏される。もともと、胸を掻きむしられるような哀愁の感じられる曲を、これでもかこれでもかと悲痛に盛り上げていくものだから、聴いてるほうとしてはたまらん気持ちになる。マクフィーはポケットトランペットのみ。テナーはアンドレ・ジョーム。あと、バリトンとトロンボーンが入っているが、ぶつぶつと呟くようなトロンボーン、朗々と鳴りまくるトランペット(マクフィーのトランペットといえば、へしゃげたようなノイズを奏でるイメージがあるが、この頃はめちゃめちゃ鳴ってたのだなあ)、ジョームはまるでデューイ・レッドマンのように汚らしい音での表現を貫き、イレーネ・シュヴァイツァーのピアノはまるでハープのようにカリカリキリキリと聴くものの心を傷つける。特筆すべきはタミアという女性ボーカルで、もともとオーネット・コールマンのオリジナルバージョンは、薄汚れたような女の嘆き、哀しみ、叫び……が感じられる演奏だが、それをこのヴォイスが思い切り拡大解釈してぶつけてくるような感じだ。たしかにすばらしい演奏だし、「ロンリー・ウーマン」のカバー(?)の決定版のひとつといってもいい出来映えだと思う。それにしても13分の曲一曲だけのリリースというのはなんとかならんかったのか。1500円で一曲はなあ……。ディスクユニオンの通販で買ったのだが、サイトの紹介文にはなんにも書いてなかったので、聴いてみてびっくりしました。

「OLEO」(HAT HUT RECORDS HATOLOGY 579)
JOE MCPHEE PO MUSIC

 ジョー・マクフィーのポー・ミュージックによる演奏。もとはハットアートで出ていたやつらしい。11曲中、7曲はマクフィーとアンドレ・ジョームの2管に、ベース、エレキギターというカルテットでドラムはいない。残り4曲はベースもいなくて、ギターと2管という編成。ほとんどはマクフィーの曲だが、タイトルにもなっているロリンズの「オレオ」と、ゴルソンの「アイ・リメンバー・クリフォード」も演奏している。1曲目はその「オレオ」のテイクワンなのだが、テーマのあと、わけのわからないエレキギターによるノイズがドビューン! グワーン! とぶちかまされるという新鮮な演奏で思わず笑った。つづく「パブロ」という曲はスパニッシュモードの曲。ジョームのバスクラが利いてます。3曲目「フューチャー・レトロスペクティヴ」というのは、ベースの「ドドッ」というリフがかっこいい曲。ええ曲書くなあ、マクフィー。いや、いつも思うことでありますが。マクフィーのポケット・コルネット(ポケット・トランペットじゃないのか)が歌いあげ、ジョームのバスクラが炸裂する。いやー、素敵です。4曲目「アストラル・スピリッツ」というヤバげなタイトルの曲は、ゴスペルっぽい荘厳で味わい深いハーモニーの曲。これもええ曲や(アイラー兄弟に捧げた曲らしい)。「オレオ」2テイク目のつぎは、野太いウッドベースに支えられたマクフィーのテナーによる「アイ・リメンバー・クリフォード」で、ものすごーく正攻法な演奏で逆に驚いた。つぎは、アンドレ・ジョームのバスクラリネットの無伴奏ソロではじまり(見事)、そこに変態的なギターによシンセ的なサウンドがからんでいく。かっこいいですねー。最後に荘厳なテーマが現れる。そして、8曲目のタイトルは「フェン・ユー・ヒア・ミュージック」で、9曲目は「アフター・イッツ・オーバー」、10曲目は「イッツ・ゴーン・イン・ジ・エア」、11曲目は「ユー・キャン・ネヴァー・キャプチュア・イット・アゲイン」で、続けて読むとドルフィーの言葉になるという趣向(?)だ。この4曲はベースが抜けたトリオで、「オレオ」のセッションがあった夜に行われたコンサートの録音らしい。即興だが、あとでプレイバックを聴き直してみると、サウンドとフィーリングがドルフィの「ラストデイト」での言葉を思い起こさせた、ということで、こういう一連のタイトルになったらしい(バスクラのせいかな?)。そういうことはともかく、内容はじつにすばらしいフリーミュージックで、(この4曲の)1曲目はマクフィー、ジョームともに木管楽器の魅力が全開だ。2曲目マクフィのコルネットもいいし、3曲目のジョームの明るくブルージーなアルトサックスもいい。4曲目はフリーインプロヴィゼイション。マクフィーのおなじみコルネットのノイズ奏法とジョームのクラリネットのパーカッシヴな奏法が炸裂。ギターのレイモンド・ボニはもちろん全曲で凄くて八面六臂の大活躍だ。この4曲だけでもアルバム1枚になるような充実度があり、集中して聞くとへとへとになるよ。完璧な3人組。ますますマクフィーが好きになった。マクフィーのアルバムを聴くといつも、新鮮な気分になる。マクフィーは、どんな編成でもその編成に応じた曲を書き、即興し、これまでになかった、なにか新しいものを見せてくれる。傑作だと思います。

「RED SKY」(PNL RECORDS PNL016)
JOE MCPHEE/PAAL NILSSEN−LOVE

 マクフィーとニルセンラヴのデュオ。2008年のライヴ。1曲目はマクフィーのポケットトランペットとニルセンラヴのブラッシュによる繊細で大胆な交感ではじまり、それがテナーとシンバルのデュエットになる。3分36秒まではたしかにトランペットを吹いているのだが、3分45秒目にはすでにサックスを吹いている。素早い! 5分46秒あたりからハイハットの強烈な神技がはじまり、そこからニルセンラヴの素晴らしいテクニックを駆使したドラミングと、対照的なサックスのぐじゃぐじゃの演奏が対比される。そして最後はフリーキーな交感になる。2曲目は、ドラムの「間」をいかしたソロではじまり、最初はトランペットで、そのあとテナーでのエキゾチックな即興になる。3曲目は、サックスのタンポやキーをぱたぱた、かちゃかちゃいわせるノイズで始まり、非常にストレートアヘッドでリズミックなデュオになる。聴きごたえあり。4曲目は、「アイアン・マン・リターンズ」というタイトルで、エリック・ドルフィーからマーベルコミックス、そしてブラックサバスまでつながるイメージが根底にあるらしいが、ようわからん。凄まじいドラムソロで開幕し、そこにテナーが入ってくる。一応コンポジションというかテーマがあるらしいが、最初はゆったりと、そのうちフリークトーンでキーキー言い出して壮絶な演奏に発展する。ラストはエリントンの曲に基づいたゆったりした即興で、ちょっとブルース的なものを感じる演奏。収録時間は30何分と短いが、十分聴きごたえのある内容です。こういう、こちらの気持ちを遊ばせてくれる演奏というのは、意識してできるものではないと思う。ジョー・マクフィーの個性としか言いようがない。

「ALONE TOGETHER」(CORBETT VS.DEMPSEY CVSDCD021)
JOE MCPHEE

 74年と79年に録音されたジョー・マクフィーの多重録音によるソロをまとめたアルバム。最初にテナーのワンホーンによる「テーマ」が奏でられるが、これが音色といい、その悠揚迫らぬ吹き方といい、すばらしい。え? マクフィーってこんなに上手かったっけと失礼なことを思ってしまったほど。つづく9曲は、曲によってソプラノ〜アルト〜テナーのトリオだったり、フリューゲルとサックスのデュオだったり、トランペットとテナーだったり、アルトサックスだけのカルテットだったり、アルトホーンのカルテットだったり……と「リード楽器とブラス楽器」の両方を駆使した、マクフィーにしかなしえない独自の世界がこれでもかと展開していて、その知的かつプリミティヴな音楽にどっぷりつかることができる濃いアルバム。もちろん、ブラックネスがその底に流れていることはいうまでもない。とにかく、曲ごとに楽器も編成も変わるので、それを聞いているだけで面白いし、マクフィーのクールな狙いが伝わってきて静かに興奮する。マクフィーって、あんがいリー・コニッツと共通点があったりして。ラフな即興的アンサンブルもあるが、周到に準備された素材が多く、マクフィーのコンポジションのおかしさ(?)も味わえるが、基本的にはかなりええ加減で自由なひとなので、聞いてるとなんか笑えてきたりして、いろいろな楽しみ方ができるアルバムだと思う。こうしてソロを聞くと、やっぱりマクフィーは変態だなあ。大きな部分だけでなく、いろんな細かい箇所でそれを感じる。ラストにもう一度「テーマ」があるが、こちらはソロではなくトランペットとサックスのデュオで演奏される。その部分でのトランペットも、え? マクフィーってこんなにトランペット上手かったっけと失礼なことを思ってしまった。荘厳さも感じられるアルバム。傑作。

「NUCLEAR FAMILY」(CORBETT VS DEMPSEY CVSDCD031)
JOE MCPHEE & ANDRE JAUME

 HATHUTのために1979年に録音されたライヴだが、(理由は不明だが)発売されなかったのを、今になってこのレーベルによって発売になった……ということらしいが、お蔵入りしないでほんとうによかったと思える内容。管楽器ふたりだけの演奏だが、アルト、テナーとバスクラで正統派に迫るアンドレ・ジョームに対し(いや、ジョームもかなりアバンギャルドではあるんですが)、なにしろマクフィーは蝶のように自由にふるまうので、もう面白いったらありゃしない展開になり、聴いているあいだじゅうずっとわくわくがとまらん。何度も何度も繰り返し聴いているとこのふたりであるという理由、このふたりでなければならなかった理由……みたいなものが見えてくる……ような気がする。そして選曲が「直立猿人」「セルフポートレイト・イン・スリー・カラーズ」とミンガス2曲、「エヴィデンス」「ブルー・モンク」とモンク2曲、「チェルシー・ブリッジ」「カム・サンデイ」とエリントン2曲(前者はビリー・ストレイホーンだが)、「ロンリー・ウーマン」とオーネット1曲、それにふたりのオリジナル1曲ずつ……というなんともそそられるラインナップで、しかもどの曲も単に素材として取り上げているのではなく、作曲者のポートレイトが浮かんでくるような演奏になっているところがすばらしい。マクフィーは自分自身が自由奔放にふるまうだけでなく共演者をも感化してしまうところがすごい。タイトルは「核家族」という意味で、もしかすると「核」に核兵器などの隠喩が込められているのかもしれないが、最近政府が核家族がどうたらこうたらと言ってるのを聞くと、1979年ではなく2016年の今このアルバムが出された意義は大きい……ような気がする。めちゃくちゃよかった。傑作。

「AT THE HILL OF JAMES MAGEE」(TROST RECORDS TR174)
JOE MCPHEE/JOHN BUTCHER

 エルパソから60マイル以上もあるヒューストンの田舎の、ほかになにもない荒涼とした砂漠に、30年まえに謎のアーティストジェイムズ・マギーによって作られたアートスペース「ザ・ヒル」において録音されたジョー・マクフィーとジョン・ブッチャーのデュオ。はじめてのデュオだったらしいが、マクフィーはアルトに、ブッチャーはテナーに専念しての録音である。かなり変てこな場所だったらしく、曲によって録音場所を変えているのだが、そのたびにさまざまに音響効果が変化し、ふたりはそれを積極的に利用して演奏している……らしい(「ザ・ヒル」の内部の様子は撮影不可だそうで、よくわからない)。ライナーを読むと、「ザ・ヒル」の構造が詳しく書いてあるが、3曲目のブッチャーのソロの部分など、どう聴いても自然残響ではなくエフェクターなどで効果を足してるとしか思えないのだが、そうではないのだという。えげつない場所での演奏だ。しかも、それがめちゃくちゃ功を奏しているのだからジョン・ブッチャーはやはりただものではない。ライナーを読むと「文明の痕跡がまるでなく、電力網からもはるかに離れたごつごつした汚い道の果てに、そういうものがあるというのは不可解である。まるで2001年宇宙の旅のモノリスぐらいありそうもないことである」というようなことが書いてあって笑えます(このライナー、すごく長いけど面白いので読んだほうがいいっすよ。電気がない場所なので、この録音には2つのマイクと充電式の録音機を使った、とか書いてあってなかなかすごいので)。1曲目は、ジョー・マクフィーのアルトソロではじまる。力強く、シンプルで、プリミティヴである。なんのギミックもなく、ひたすらストレートに、ときにメロディックにブロウする。そこに、突然介入してくるのがジョン・ブッチャーのプロペラの回転のようにメカニカルなマルチフォニックスで、ここで両者の対比が決定的になる。しかし、聞き進んでいくと、こどものように素直で素朴でストレートなマクフィーと、オルタネイティヴで諧謔的でテクニカルなブッチャー……という構図はすぐに崩れ、両者は寄り添ったり、相手のやり方を真似たり、自分の方法論をひたすら押し出したりしながら、たったふたりで壮絶な即興アンサンブルを形作っていく。これがめっぽう面白くて、もう購入してから繰り返し聴いてしまう。どちらも個性的で、ただただ教則本的でないおのれだけの技を駆使しまくった演奏で、正直、こんなすごいものはない。フリージャズ、フリーインプロヴィゼイションが好きなひとは聴かない手はない! と叫びたいぐらい素敵で楽しく最高の演奏。2曲目はマクフィーのアルトソロ。メロディがしっかりある、まさに原始のモード的な演奏。3曲目はさっきも書いたけど、ブッチャーのソロで、超ロングエコーを利用したソロ。「ぶっ」と音を出すだけで、「びよよよよよよよん」という音になってしまう状況にあえて挑戦した演奏で、めちゃくちゃ面白い。4曲目はたぶんマクフィーのソロなのだがこれもけっこうなエコーがかかっていて、同じディープエコーでもブッチャーとマクフィーで利用の差があるのが面白い。風(?)の音が聞こえてくる5曲目はブッチャーのソロだが、テクニカルなマルチフォニックスとリズムとメロを自在に組み合わせていつもの世界を形作っている。即興演奏が、その場で思いついたことをやるだけ、ではなく、恐ろしいほどのオルタナティヴな奏法の練習のうえに成り立っているというのがわかる演奏。もちろん普通に聴いていたら、そういうことに気づくことはなく、気づく必要もない。後半は間をいかした演奏。めちゃかっこいい。6曲目はまたふたりによるデュオで、タンポをパタパタさせる音からはじまり、最終的には「ここまで行くか?」というような境地(?)になっている。終わってみたらそこはヒューストンの荒地で……というのもなかなか感動的なシチュエーションではないだろうか。うーん……傑作としか言いようがない。もう、当分のあいだずっと聞いていたい作品。最後にかなりの拍手が来るので、けっこう聴衆がいたようだが、みんなこの砂漠のなかのアートスペースまで聴きにきていたということか? 好きですねー。

「BLACK IS THE COLOR」(CORBETT VS DEMPSEY CVSD CD069)
JOE MCPHEE LIVE IN POUGHKEEPSIE AND NEW WINDSOR 1969−70

 なんと「ネーション・タイム」の前年に録音されたライヴ2枚組。3カ所のそれぞれちがう場所で録音されており、メンバーも同じではない。でも、同年に録音された「アンダーグラウンド・レイルロード」とメンバーもかぶっているので、このころマクフィーがよく一緒にやっていたメンツということなのだろう。 1枚目の1曲目「ゴッド・ブレス・ザ・チャイルド」は、とにかくマクフィーの力強いテナーが朗々と鳴り響き、このひとは根本的にはテナー奏者なのだ、と感じさせる。アーネスト・ボスティックというひとのビブラホンがシンセのような不思議な味わいを付け加えているが、基本的にはモードジャズ的で、フリーインプロヴァイズドミュージックという感じではない。2曲目はウォーキングテンポの4ビートによる「インプロヴィゼイション」というタイトルだが、フレージングなどはめちゃくちゃブルースっぽいけどなぜかブルースではないワンコードの曲(マイナーブルースのような展開もあるし、普通のブルースのようでもあるし、ワンコードの曲っぽくもある)。マクフィーはトランペットを吹いている。なんやねん、これ……と思わぬでもないが、こってりとした演奏である。盛り上がるというよりは、すっと静かだが枯れていないじわじわと熱い演奏。逆にヴァイブのボスティックは、よく知らないひとだが、フリーとか関係なく達者な演奏でダレることなく聴かせる。そのあとマクフィーはテナーに持ち替えて、即興的なテーマというかリフというかを吹くが、コテコテである。こってりした、いい感じのベースソロのあとまたリフみたいなものがあってエンディング。3曲目は「アフロ・ブルー」で、マクフィーはソプラノ。3拍子だが、ドラムがなぜか一拍目の頭にドスンとアクセントを置く叩き方なので、前のめりになる。このドラマーの癖か? マクフィーも粘っこい吹き方で、じわじわ盛り上がるかと思いきや、そうでもなく、そのあとのヴィブラホンの方が軽快である。単純に直情的に盛り上がるのではなく、全体として熱くなっていくような演奏は好感が持てる。4曲目は「ネイマ」でマクフィーはテナーに戻る。やっぱりテナーがいちばんしっくりくる。コルトレーンのあの凛とした清浄感とか、神聖なまでの凄みはなく、音色への配慮も感じられない、どちらかというと俗っぽい、汗や土の香りさえするごつごつとした大づかみな演奏なのだが、目指すものは一緒……という感じがするシリアスな演奏。ラストのヴィブラホンとドラムのからみがめちゃかっこいい。サン・ラを連想するようなスペーシーさがある。

 2枚目の1曲目はコルトレーンの「至上の愛」1曲目のリフをモチーフにした「インプロヴィゼイション」。マクフィーはトランペット。1枚目とはベース、ドラムが一緒。マクフィーはトランペットでもテナーと同じく、モーダルにこってり、じわじわとフレーズを積み重ねていく。レジー・マークスがフルートからテナーに持ち替え、トランペットとともに即興的なアンサンブルを展開。そのあとマークスのワンコードのソロにあるが、レジー・マークスはなかなかブロワーで、音色は(録音のせいか)茫洋としているが、フリーキーな表現にまで踏み込むガッツのある演奏。マウピだけの演奏から、マクフィーがテナーに戻ってのからみなどバラエティは豊かである。モードジャズ的なものの特徴(?)として、一本調子から抜け出せないというところがあるのだが、この演奏もこういう場面を愛でることができるかどうかで聴き手の感想も変わってくるだろう。いかにもインプロでした、という感じで終了。2曲目はアルバムタイトルにもなっている「ブラック・イズ・ザ・カラー」だが、もとはトラディショナルだそうだがスタンダードといってもいいぐらい大勢のジャズミュージシャンに取り上げられている。アップテンポの3拍子で、そこに大河のようにゆったりと乗るテナー(ひとり。たぶんマクフィー)による力強いテーマ提示のあと、混沌とした雰囲気の、しかもパワフルでまっすぐな演奏になる。録音のバランスが悪いが、熱気は伝わってくる。そして、マークスのソロになるが、直情的のようで、いろいろ考えている感じの演奏。そこにマクフィーがからみつき、ああ、1969年のフリージャズ、という感じだなあ、と(いい意味で)思う。アクセントの強いドラムソロのあとスピリチュアルな感じのアンサンブルのテーマになってエンディング。3曲目は「ジュジュ・フォー・ジョン・コルトレーン」という曲で、ショーターの「ジュジュ」が出たのが65年で、シェップの「マジック・オブ・ジュジュ」が出たのが67年(本作の二年前)だから、この時点で「ジュジュ」という音楽がどれぐらい認知されていたのかはよくわからないが、とにかくジュジュなのである。3拍子のリズムはずっとキープされているが混沌とした集団即興である(私はジュジュというと、短絡的にサニー・アデと思ってしまう程度の認識なのだが、今、ジュジュでググると、あの女性シンガーのことしか出てこないのでよくわからんのです)。ぐちゃぐちゃななかから力強く奔放なベースソロが抜け出してくるあたりはかなり説得力がある(このひとは「ネイション・タイム」のベーシストでものひごい表現力がある)。こういうカオスな感じが「ジュジュ」なのだろうか。4曲目からは録音場所とメンバーが変わる(録音バランスもよくなる)。4曲目はジェイムズ・ブラウンの曲で、ワンコードのファンキーなリズムのうえでマクフィーがテナーをねっとりねちねちと吹く。ラスティ・ブライアントとかこういうのとかが私にとっての「ジャズロック」で、リズムはファンキー、フレーズはブルース、でもホンクはしない……みたいな感じ。熱くてかっこいい。2曲目も同じパターンで、おなじみの「ファンキー・ブロードウェイ」。ボーカルが入る。オクタビウス・グラハムという、申し訳ないが私は全然知らんひと。なんかローカルなバンドというかラフなセッションを聞かされてる感じだが、聴くひとが聴いたらちがう印象を持つのだろうか。バラエティ……というのも厳しく、アルバムとしての統一感はここに至って崩壊したなあ、と思っていると、ラストの曲はこてこてのスローブルースで、ジョー・マクフィーのテナーがさすがの個性を発揮する。後ろのほうでギャーとか騒いでる客はこのソロがブルース的にかっこいいと思っているのだろうか、それともなーんにも聴いていないのか。ボーカルはめちゃくちゃストレートに歌い上げる。一応マクフィーはテナーサックスオンリーということになっているが、たぶんトランペットもマクフィーなのだろうな。マクフィーのコンポジションということになっていて、タイトルが「ブルーズ・フォー・ザ・ピープル」なので、そういう感じの歌詞なのかと思って聴いていたが、そうでもなかった。この3曲はなかなかきつかったです。  というわけで、かなりジョー・マクフィーファン向けのアルバムではないかと思いました。タイトルとか、ジャケットの写真とは微妙に雰囲気、ちがうかもなー。

「NATION TIME」(CJR RECORD PRODUCTIONS CJR−2/PCD−22220)
JOE MCPHEE

 言わずと知れた大傑作で超感動的で奇跡的な作品。聴く度に新鮮で、聴く度に熱くなる。今に至るジョー・マクフィーの長い長い旅はここからはじまったといっても過言ではないだろう。本作を聴けば明らかなように、この音楽はフリージャズとかフリーインプロヴィゼイションとかいったものというより、モードジャズもしくはその延長的であり、70年代ジャズによく聴かれる一発もの的な枠組みのなかで、どこまで過激で過剰で自由に振るまえるか、という感じの演奏で、調性やリズムをぶっ壊したり、逸脱したり、ということはあまりなく、逆に一定のリズム、調性はつねに提示されていて、そのリズムやモチーフの激しさと、そういうものを突き破ろうとする衝動の激しさ、ふたつの激しいものがぶつかり合っているような「激突」を感じる。コルトレーンの「トランジション」あたりの、これ以上行ったらもうめちゃくちゃになるしかない、という膨大なエネルギーと、そうなってしまったあとの恐怖、みたいなものをぎりぎり感じるような演奏との共通点を感じる。たとえば1曲目は途中でマクフィーのテナーが無伴奏ソロになり、そこから全員の集団即興になるが、どこかでテーマのリズムとフレーズが響いており、また、そこへ戻っていくのだ。こういう、今の耳からするとフリージャズというよりモードジャズ、スピリチュアルジャズのように聞こえる演奏(R&B的な要素もある)だが、いわゆる形式的なフリージャズよりもずっと自由で、破壊的で、思索的で、挑戦的に思える。まあ、こんなことをぐだぐだ書いていてもしかたないのだが、とにかく「圧倒的」と一言書けばよいのかもしれない。マクフィーの演奏はこの作品のあと今に至るまでどんどん自由で好き勝手で面白いものになっていくが、このときのマクフィーは音楽的な面白さ以上に思想的な主張に重きを置いて、シリアスな演奏を志していたのだろうと思う。しかし、その結果はここでこうして聴けるように、あらゆる音楽愛好家たちにとっての福音のようにすばらしい音楽となった。1曲目「ネイション・タイム」は冒頭、「ファット・タイム・イズ・イット」という絶叫と、こどもたちによる「ネイション・タイム!」というコール・アンド・レスポンスによって開幕する。シンプルなリフを繰り返す「インプレッションズ」的な曲で、最初はまさにそんな感じでピアノソロからはじまる。がちゃがちゃしたツインドラムとピアノとエレピの歪んだサウンドの混合、ベースの激しい自己主張……などが猥雑なパワーを感じさせる。そして、登場するマクフィーのテナーがテーマを奏でたあと、激しいソロになるが、その途中でたぶんドラマーが掛け声(?)をかけて煽りまくる。そして、リズムが消え、マクフィーのグロウルしまくりの無伴奏ソロになる(バックでパーカッションのリズムは小さく続いており、いろいろな小物が奏でられ、ベース奏者がトランペットを吹いたりして、次第に全体の音量が上がっていき、混沌とした集団即興になるのだが、どこか統率が取れている感じがする。このあたりも本当に面白い。ふたたびテーマになり(マクフィーがこれを吹けばとにかく全員それに合わせて、なんとかなる、という魔法の呪文のようなものである)、単純な反復のなかに底知れぬエネルギーが注ぎ込まれるような、ぐじゃぐじゃな展開になる。ここもめちゃくちゃ面白い。とくにマクフィーのフリーキーなソロにぶつけるような、エレピのアナーキーな演奏には興奮する。マクフィーの無伴奏による(たぶん即興的な)リフがはじまり、全員がそれに合わせる感じで新しい展開に突入。こういう、単純なリフひとつで自由になれる、というのは片山広明さんも言っていたことだが、カウント・ベイシーの昔から、リフというのは自由への鍵なのである。歪んだエレピがマクフィーのシリアスなコルトレーン的なソロを覆い隠すような音量でかぶってくる。このあたりのバランスの悪さもすばらしい。ふたたびリフを繰り返したあと、エレピが変態的なソロをする。このマイク・カルというひとは、マクフィーのライナーによると「つねに冷静で準備万端」とのことだが、ものすごく変態的なかっこよさのあるひとで、魅了されずにはおれない。そのあとのベースソロのバックでもどうしても耳はピアノのバッキングにいく。変態やー。ラストはふたたび「今、なんどきだい?」というコール・アンド・レスポンスに導かれてテーマが浮かび上がる。あー、かっこええ! 何遍聴いてもええなあ、この曲。そして、2曲目がまたかっちょええんです。1曲目のメンバーにオーティス・グリーンというアルトのひと、ハービー・レーマンというオルガン、デイヴ・ジョーンズのエレキギターが加わる。マクフィーはこの曲を演奏するにあたって、メンバーには「シンプルな枠組みだけを伝え」ただけらしい。「メロディーと呼べるものはなにもない」とも言っている。要するにR&B的なビートとワンコードでの反復が延々提示され、そこでノリノリのジャズファンクが展開するのだが、これは後年、ブラッド・ウルマーらが試みていたフリー・ファンク・ジャズみたいなものとまったく同じ発想だと思う。アルトとテナーが同時に、こういうベーシックなリズムとコードのうえでソロをする、というのがマクフィーのアイデアだったのだろうか。アルトのひとはどちらかというとワンコードのなかでがんばっていて、さまざまなアイデアをつぎつぎ繰り出しているが、マクフィーはもっと自由にフリーキーな表現も含めてゴリゴリ吹いていてそのからみが面白い。延々続いた2サックスのパートが終わると、エレキギターの本格的なR&Bっぽいソロになる。途中からかなり過激な表現が交じるが、ストレートアヘッドな演奏で聴かせる。そのあと、エレピのソロになるが、これはもっとめちゃくちゃになるかと思ったらものすごくちゃんとしたソロで逆に驚いた。テナーのソロになり、太い音色での悠々たる表現で、さまざまな過去のテナー奏者の影響というか影を感じる。つまり、マクフィーが伝統のなかにあるひとでもある、ということが感じられる。ラストの3曲目は1曲目と同じメンバーによる「スコルピオズ・ダンス」で、さそり座であるマクフィーがそこからインスパイアされた曲だそうだ。よく考えてみたら私もさそり座なのだが、いいえ私はさそり座の女……ぐらいしか思いつかない。テーマはトランペットで奏でられ、その部分は一応譜面にしてあったのだが、マクフィーはほかのメンバーにはテーマもなにも伝えていなかったそうで、演奏のクレジットは全員の名前を併記している。フリーなリズムとアルコベース、ピアノによるルバートな演奏のうえに乗る朗々としたトランペットではじまるが、すぐにマクフィーはテナーにチェンジする。アフロな感じの激しいリズムになり、マクフィーが熱く吹きまくって、どこがさそり座やねん、という展開。マクフィー自身がライナーで「フラメンコ的な激しさに変わった」と書いているとおりで、スパニッシュモードのパワフルな演奏になり、いつまででも聞いていられるような感じ。ピアノのバッキングの過激さは特筆すべきである。鈴(?)をバックにしたベースソロ(ハミングしながら弾いている)になり、ふたたび混沌としてのエンディング。ものすごく上手く着地し、拍手も起こる。とにかく宝物のようなすばらしい演奏が詰まっている。やはり1曲目が凄いと思うが、全曲、この時点でのマクフィーの主張を反映した演奏で、聴き返すたびにうれしくなるような傑作であります。

「ROUTE 84 QUARANTINE BLUES−BLACK CROSS SOLO SESSIONS 2」(CVSD CD081)
JOE MCPHEE

 コロナ禍下でのソロ録音シリーズ第2弾(第1弾はヴァンダーマーク)。これもめちゃくちゃすばらしかった。あいかわらずシンプルな演奏にありったけの感情を込めた、マクフィー独自の力強い表現で、説得力の塊のような曲ばかりだ。基本的にはコンポジションがあってそれを即興的に変奏していく感じだが、もうそういう構成的なものはどうでもいいというぐらい自由で、ごつごつと固く、人間味あふれる手触りのある最高の演奏である。1曲目はいきなりマクフィーの言葉からはじまる。カーラ・ブレイの曲を取り入れた曲だそうだが、テーマと即興部分が混然となっている。このテナーの音の出し方はずっとサプトーンが基礎になっているのだが、一定の吹き方をしようとと思っていないようで、その場のニュアンスで押し切るような感じだ。楽器がマクフィーと一体になっている、あるいは「音」というより「歌」のようである。2曲目はミンガスの曲にインスパイアされた演奏で、3つ(?)のパートに分かれていて、それぞれマクフィーの解説が入る。最初のパートはリードがきしむようなノイズやグロウル(というより呻き声)、ハーモニクスが凄まじい熱気と集中力で噴出する。2パート目はほとんどが息の音による切迫感のあるノイズではじまり、そういうロングトーンが延々と続くのだが、それが強烈な個性的な演奏に聞こえる、というのは音楽の不思議である。3パート目は、音を三つしか使わない超シンプルなリフを延々吹き続けるだけなのだが、次第にニュアンスが変化していき、恐ろしいほどのエネルギーと慟哭、絶叫……が込められた演奏になる。たったひとりなのに、何百人かの合唱を聴いているような気持ちにさえなる。しかし、リフ自体はずっと一緒なのだ。すばらしいとしか言いようがない。私は、こういう音楽はあらゆるひとの心を打つものと思っていたが、最近ネットとかを見ていると案外そうではないらしい。人間というものは結構狭量で、プロのミュージシャンなどでもいまだにフリージャズは糞とか言ってるひとがいて悲しい。3曲目は一種のフィールドレコーディング(たぶんタイトルにあるルート84の路上で演奏された無伴奏のスローブルースにもう一本のテナーをダビングしている)だが、ライナーを読むと、空のクローゼットに入ってズームで録音したり、といろいろ試したようなことが書いてある(ような気がする)。途中からラフなリズムになるが、ブルースであることはずっと維持されている。通り過ぎる車の音までが絶妙な伴奏に聞こえる。カークの「天才ローランド・カークの復活」のなかの「グッド・バイ・ポークパイ・ハット」のテナー2本によるソロを連想した。あまり他のひとの演奏に例えるのはこういうレビューにおいてはいいことではないと思うが、ここはそう書かざるをえない。4曲目はミンガスに捧げた、サブトーンとハーモニクスを組み合わせたような即興で、2曲目のパート2と共通する感じだが、ここまで来るとまさに「人間」という印象である。5曲目は3曲目から私が連想した「グッドバイ・ポークパイ・ハット」(「グッドバイ・ポーキー・ピッグ・ハット」というタイトルになっている)だが、カークの歌詞ではなく、途中からジョニー・ミッチェルの歌詞からインスピレーションを得た、という歌詞でマクフィーが歌う(即興的なものらしい)。しかし、ローランド・カークのバージョンにも匹敵するような、漆黒の深淵をのぞき込んでいるようなすばらしい表現である。なんの伴奏もなく、マクフィーがひとりで歌うこの歌は、音楽の原形を感じさせる。フィールドハラーやワークソング、田植え唄などの日本の民謡やその他数々の民族音楽にしても、皆が歌う、ということで成立していたのだから、こうしてひとりで歌うだけでも音楽になる、というのは当たり前のことなのだ。ドラムとベースとギターとサイドギターとピアノがいないとバンドにならないよ、というのは陥りやすい考えだが、まったくそんなことはないのだ。そういう意味で、ここでのマクフィーの演奏は、私にとってはサン・ハウスの「ジョン・ザ・リベレイター」を連想させる。自身の手拍子だけを伴奏に歌われる曲が、百人のオーケストラをバックにして歌われる歌と同様のポテンシャルを持っていることは驚愕である。声もいい。6〜10は短い即興を並べた一種の組曲で、演劇的な要素、全体を貫く諧謔的なニュアンスも含め、生々しく、強烈なメッセージに満ちていることはマクフィーの年齢(今年82歳)を考えると驚異である。普段はうすら寒くさえ感じる「創造的」という言葉が、この演奏を聴いているととてつもない重みを帯びてくる。ラストの曲はルース・ベイダー・ギンズバーグに捧げた演奏で、パイ皿(たぶんアルミのやつ)に水を入れて、それをパーカッションのように叩いているのだと思うが、聴いていると心は遥かアフリカに飛ぶ(大げさではありません)ような即興である。この集中力と持続力、重たいグルーヴは凄い! マクフィーによるかなり長文のライナーがついていて、そのせいでヴァンダーマークのは見開き2面だったのが本作は鏡開き3面になっている。マイクにかなりオンで録音されており、ソロということもあって、息の音や唾液の音、タンポのぱたぱたいう音なども非常にリアルにとらえられていて臨場感がある。かすれたような音、ほとんど聞こえないような音、グロウル、リードの軋み……なども見事に駆使され、オーケストレイションされてまとめあげられているが、それらが前もって予定されたものでないことは、この音楽に躍動感とこの先どうなるのかわからない緊張感を与えている。一音一音からマクフィーの人柄がにじみ出ている。正直、ド素人の音楽家である私にとって、本作はかなりの勇気と確信を与えてくれた。なんというか……「これでいいのだ!」という感じです。これまでジョー・マクフィーの数々の演奏を聴いてきたと思うが、本作はそのなかでもめちゃくちゃいい。めちゃくちゃ傑作! こういうのあるからなあ、マクフィーは。長生きしてください!