「QUARTET」(SACKVILLE SKCD2−2009)
ROSCOE MITCHELL
こういうのをやらせるとロスコー・ミッチェルの独壇場ですなー。このアルバムはできるかぎりの大音量で聴きたいものだ。現代音楽の影響も感じられるような、微細な音の変化にまで気を配った即興であり、変態的な楽器編成が見事にはまっているのもいつものロスコーの手(?)だ。メンバーはAACM。しかし、考えてみたら、AACMというのはグレイトブラックミュージックを標榜しているが、本作に参加しているロスコーやジョージ・ルイスといい、ブラクストンといい、意外とクラシックや現代音楽に目を向けているひとが多いなあ。ロスコーといえば「知的」なイメージがあると思うが、知的というより、レスター・ボウイが諧謔や揶揄的な斜めに構えた表現を露骨に表に出すのとはちがった意味で、醒めた目で斜めから音楽を見ているひとだと思う。その冷静さ、シニカルさ、そしてアイデアの豊富さはレスター以上かも。本作ではそんなロスコー・ミッチェルの、たとえば「テナーサックスでものすごい小音量で吹く」「ソプラノで無頼漢が酔っぱらって吐きちらすような演奏をする」といった逆転(?)の発想が随所に炸裂しており、ジョージ・ルイスやリチャード・エイブラムスの思い切りの演奏もはまっていて、聴いていて楽しい。こういうさりげない変態的演奏を聴くと、やはりアイデアやなあ、とか、まだまだ新しい音楽的可能性というのはいっぱいあるなあ、と感心してしまう。
「ACCELERATED PROJECTION LIVE AT SANT’ANNA ARRESI」(ROGUE ART ROG−0079)
ROSCOE MITCHELL MATTHEW SHIPP
ロスコー・ミッチェルも77歳か。デイヴ・バレルと同い年だが、世界一過激でわけのわからない77歳であろう。いやー、デビュー以来ずっと一貫してわけのわからないことをやり続けてきたジジイの音楽がここに結実している。4曲目や6曲目など循環呼吸が延々続くソロなど、そのパワーに単純に感動してしまうのだが、いや、ただのパワーミュージックではあるまい、そのうしろに高邁な音楽性があるのだろうと思ってしまうが、それはロスコーのマジックなのだ。たぶんそんなものはない。面白い、と思ったことを書いて、演奏する、というのがロスコーがデビュー以来取ってきたやり方なのだと思う。ここにあるのはただの音の羅列だが、その羅列がなんと心地よいことか。音楽を通しての主義主張などとは無縁の、単なる「音」である。おそらく本人にきいたら、いやいやちゃんと主義も主張もテーマ性もあるよと言うかもしれないが、管楽器を持って、口にして、吹く……その素晴らしさがなににも勝っているとしか思えない。そして、このアホなジジイの音の羅列を百倍ぐらいに輝かせているのがマシュー・シップである。マシュー・シップの凄さは、管楽器奏者と組んだとき、その管楽器奏者の音を補完したり意味づけしたりするのではなく、「対峙」することにあるのではないかと思う。そういうところをデヴィッド・ウェアやイーヴォ・ペレルマンはわかっている。伴奏ではなく対峙なのだ。それにしても本作におけるシップのピアノに煽られたロスコーのソロはものすごい。自分がどんなめちゃくちゃなことをしても「こいつがちゃんと拾ってくれる」という確信があるのだろう。しかも、シップのソロ場面も本当に凄まじい。この作品は、後世に残るような傑作だと思うし、ロスコー、シップそれぞれの代表作でもあろうと思うが、そんなことは置いといて、めちゃくちゃかっこいいのでみんな聴いてほしい。ジジイは「芸」しかないと思っているひとは、この「芸術」を聴いて考えをあらためてほしい。そして、ロスコーのこの渾身のブロウは我々に勇気を与える。傑作!
「THE SOLO CONCERT」(KATALYST ENTERTAINMENT)
ROSCOE MITCHELL
ロスコー・ミッチェルの無伴奏ソロ。ツイッターで話題になっていたので久し振りに聴きたくなったのだが、LPはたぶん物置にあると思われ、取り出すことはほぼ不可能なので、CDを買った。AECのレーベルから再発されているのだ(やはりジャケットの迫力は、LPより格段に落ちますなー)。このレーベルはいろんな変なアルバムを出しているみたいだが、全貌はよくわからん。で、超久し振りに聴いてみたわけです。昔は正直なところこういう演奏は苦手だった。昔といっても35年ぐらいまえのことですよ。なぜ苦手だったかというと、サックスというのはしっかりした芯のある音で朗々と鳴ってほしいと思っていたから。とくにAACM系の多楽器奏者は、皆、音がへろへろで、「もっとちゃんと吹けよ」と思っていた。アルトならアルト、テナーならテナー、バリトンならバリトン……一種類のサックスを極めるだけでもなかなか大変なのに、サックスならソプラニーノからコントラバスまで、そのほか各種のフルート類、オーボエ、バスーンとなんでも吹く……ということは、結局どれひとつちゃんと吹けないということではないかと思っていたのである。しかし、アート・アンサンブルという「グループ」自体はめちゃくちゃ好きだった。大ファンだった。ライヴも観て驚愕した。でも、ロスコー・ミッチェルやジョセフ・ジャーマンの単独作はどうしてもピンと来なかったのだ。このふたりだけではない。アンソニー・ブラクストン、ヘンリー・スレッギル、オリバー・レイク、ジュリアス・ヘンフィルなども好きではなかった。すべては「音」の問題なのだ。ところがどうでしょう。今や、アンソニー・ブラクストンもスレッギルも死ぬほど好きで、ブラクストンなどはセクステットでパーカ―ナンバーをやってる11枚組を買おうかどうしようか迷っているぐらいファンになってしまっている(2枚組のやつは持っているのだが……)し、スレッギルもあまりにすばらしい音楽なので聴くと叩きのめされるほどだ。ジュリアス・ヘンフィルも大ファンである。時代は変わる? いや、そうではなく、学生のころの私が馬鹿耳だったのだ。サックスからはじつに多種多様な音色が出せるわけだが、その音楽に合った音色というか音、ソノリティ、アーティキュレイション……などがあるわけで、そういうことがわかっていなかっただけだ。というわけで、本作は超久し振りに聴いたが、やっぱりめちゃくちゃかっこよかった。ロスコー・ミッチェルは昔から、というか、デビュー作以来ずーっと、わけのわからん、頭のおかしい演奏を一生懸命やってきたひとで、筋金入りの変態ミュージシャンだが、変態もこれだけ長くひたむきにやり続ければそれは神となるのだ。そのことは、最近のシカゴ系フリーミュージシャンを集めた「メイド・イン・シカゴ」というライヴ盤(ロスコーの他、ディジョネットやヘンリー・スレッギル、リチャード・エイブラムス……)や、マシュー・シップとやってるデュオなど直近の演奏を聴けばわかる。わけのわからない作編曲、わけのわからないソロ、わけのわからない音、わけのわからない楽器チョイス……などへろへろで変態的ですばらしいロスコーの神髄が味わえる。進化・進歩しているのだが、なにも変わっていないともいえる。本作は、ジャケットではフルート、アルト、クラリネット、オーボエ、バスサックス、カーブドソプラノ、ピッコロ、木製リコーダー、テナー……とたくさん並べられているが、実際にはソプラノ、アルト、テナー、バスの4種類しか吹いていない。しかし、ほとんどなんのギミックもオルタネイティヴなテクニックも使っていないこのシンプル極まりない無伴奏ソロ、どの曲もものすごく面白いです。ロスコーが、その音楽性の秘密をちょっとだけ見せてくれているような気分でもある。例によって音はへろへろなのだが、そこがいいのだ(やっとそういう境地にたどりついた)。これこそロスコー・ミッチェルの音だ。しかし、1曲目は追いかけられたニワトリが鳴き叫んでるみたいな演奏だし、7曲目ではソプラノとバスサックスを二本同時に吹いたり、交互に吹いたりとけっこうアグレッシヴだし、8曲目は超高音と強烈なオーバートーンを延々と交互に出してひとりバトルをしたりして、なかなかパワフルな演奏も入っている。8曲目冒頭、音が出て、そのあと無音になり、また同じようにはじまるのは、たぶん編集ミスだと思うが、これがCDだけのことなのか元のレコードもそうだったのか、レコードがどこかに行ってしまったので確かめられない。まあ、べつにいいけど。
というわけで、やっぱり傑作でした。ソロサックスというと、超絶技巧だったり、ブロッツマンみたいにひたすらパワーミュージックだったり、循環+ハーモニクスが必須だったりするものを思い浮かべるかもしれないが、本作を聴くと、そんなことはないのだ、ということがよくわかります。
「MORE CUTSOUTS」(CECMA CD002)
ROSCOE MITCHELL
このレーベルに「カッツアウト」というアルバムがあって、その第二弾ということなのかと思っていたら、どうやらそうではないらしい。ロスコーのサックス類、ヒュー・レイギンのトランペット、タニ・タバールのドラム〜パーッカッションという変則トリオ編成で、出てくる音もじつに変態的だ。ロスコー・ミッチェルというひとは、ほんとうになにを考えているのかよくわからないが、そういう音楽をひたすらやり続けてきたのだ。なにをもって良しとするかは好みの問題だが、しっかりした音色でしっかりしたフレーズでしっかりしたリズムでスパッと割り切れる音楽をやることよりも、こういうわけのわからんふわふわした変てこな音楽を、しかも延々と何十年もやり続けることの偉大さというのは絶対にあるわけで、ロスコーの音楽を聴くというのは、そういった「頑固一徹のわけわからん感」を聴くということでもある。この快感にはまったら、抜けられなくなる。基本的にはコンポジションがしっかりあって、そこに即興の要素がある、ということなのだろうが、コンポジションがあまりに変てこで(この「変てこ」という言葉は、たとえば「ぶっとんでいて」とか「めちゃくちゃで」とか「でたらめで」とか、そういったものとは違うという意味で考えたすえに選んだ言葉なのだ)、そっちに気持ちがいかない。たぶんかなりゆるーい縛りなのだと思う。2曲目とかは、完全即興のような雰囲気だが、冒頭とラストを聴いているとやはりちゃんとコンポジションがあるのだ。ロスコーとレイギンがちょっとずつ音を出し合う感じの演奏なのだが、6分ぐらい過ぎたところで突然ロスコーがギャーッとマルチフォニックスをぶっこみ、それを受けてパーカッションがポコポコポコポコ……という音を出すあたりなどは笑わずには聞けない。なんなんだろうなあ、このゆったり感は。ロスコーはこの曲ではフルート→ソプラノ→フルートと楽器を持ち替えている。3曲目はぐにゃぐにゃした吹き方のサックスソロではじまるが、そのあとマリンバ(?)でインテンポになり、ちゃんとしたテーマがはじまり、ふたりが同時に吹くソロに受け継がれる。それがサックスとトランペットの掛け合いというか、4ビートに乗った対位法的な演奏で、非常にノリがいいので驚く。4曲目はヒュー・レイギンのへしゃげたような音でのソロファンファーレに、ドラムとわけのわからないサックスがからんでくるという、なんのこっちゃわからん演奏。とても楽しい。5曲目も曲があるのかどうかわからないが、まあ、そんなことはどうでもいい世界。テナーサックスとトランペットのふたつのラインが、互いを無視しているかのようにばらばらなことをずーっと吹いていく(じつはドラムも同じようなことをしているので、3つのラインか)。しかし、互いに好き勝手にやっているようだが、もちろんそんなはずはなく、ちゃんと意識しあいながら演奏しているわけだが、いわゆるフリージャズ的な「反応」の応酬はすごく希薄で、かすかなつながりだけがあり、それが全体として面白い音楽になっているのだからすごい。ドラムは途中からけっこう「伴奏」に回ったりするのでそのあたりの心理(?)も面白い。最後にかなり盛り上がったあと、テーマらしきものが出てくるのだが、冒頭にはないので、ラストだけ決めてあったのかもしれない。6〜8は別テイク。7曲目の「モア・カッツ」の別テイクは、ぐにゃぐにゃしたイントロのないバージョン。8曲目は5曲の別テイクなのだが、はじまりの部分を聞いてもまるで異なっているので、冒頭部にコンポジションはなさそう。最後の最後にギャーッと盛り上がっていく展開も同じなので、そういう意味でのアレンジはあるのか。驚いたことに、5曲目のラストで、明らかにテーマだと思っていた部分もこっちにはないので、あれは即興だったのか……。いやー、一筋縄でもふた筋縄でもいかないですなー、ロスコー・ミッチェル。こういう音楽を聴くのが人生の糧である。
「DOTS−PIECES FOR PERCUSSION AND WOODWINDS」(WIDE HIVE RECORDS WH−0359)
ROSCOE MITCHELL
2021年のロスコ―のソロアルバム。副題のとおり、パーカッションと木管楽器を使っての無伴奏ソロ。一部、多重録音がなされていると思う。「ドッツ」というタイトルのように、本当に全編が雨だれのようで、つまり「間」の世界だ。この「間」をひたすら味わえばよい。それこそが、このアルバムに対する聴き手のアプローチとしては大正解ということになる。こんな演奏、どう考えても理屈ではないので、ただただボーゼンとしてこのスカスカな「間」を感じ取るしかない。正直言って「禅」とかそういった言葉も頭に浮かぶほどである。でも、かっこいい。めちゃくちゃかっこいい。かつてはこういうヘロヘロのサックスを嫌っていた私だが、今になってみると、「このヘロヘロが……ヘロヘロがええねん!」ということになってしまい、ヘロヘロ万歳!な状態なのだ。一応パーカッションと木管楽器のための作品ということになっているが、基本的にはパーカッションというか鳴り物が主で、それが雨だれを連想するような自然なリズムを醸し出す。ある意味ドン・チェリーの演奏にも通じる音楽だ。こういうものだけでアルバム一枚を構成するのはどうなのかな、という意見も当然あると思うが、聴いてみるとわかるが、それはまったくの杞憂で、ひたすら楽しい。19曲入っているが、気が付いたら全編聴きとおしてしまっている。というか、曲の切れ目はないに等しい。ただただロスコ―爺さんが叩きものと戯れているのを聞くだけだ。しかし、その叩き方はなごみの空間を醸し出すだけでなく、ときに鋭い。傑作。