thelonious monk

「BRILLIANT CORNERS」(RIVERSIDE RECORDS VICJ−2085)
THELONIOUS MONK

 モンクの数ある作品のなかでも、もっとも過激というか前衛的といわれている名盤であるが、その根拠はたいがいアーニー・ヘンリーのアルトにあるようだ。実際聴いてみると、ソニー・ロリンズのソロは、けっこう鼻歌的というか、メロディーをいかしたリラックスしたものですばらしいし、モンクのソロはたしかに間をいかしたリズミックなもので、過激っちゅやあ過激だが、モンクはまあいつもこんなもんだともいえるのである。曲は、どれも名曲ばかりだし、ほかのメンバーもすぐれた演奏をしているけれど、ほかのアルバムからこのアルバムを差別化するポイントはやはり、異分子ともいえるアーニー・ヘンリーということになる。みんな、このアルト吹きのこのアルバムでのプレイをほめちぎる。オーネット・コールマンみたいだ、とか、一世一代の名演とか。でも、ほんとうにそうなのか。この、音がひょろひょろで、あきらかに基本はバップに根ざした、泥臭い、パーカーマナーのどっちかというと下手なアルト吹きの演奏がほんとうにいいのだろうか。なんだと聴いても「普通」すぎるほど普通である。たしかにちょこっと音をはずしたり、コードにない音を探り探り吹いているような箇所はあるが、それ以上のものはないのでは? 個人的には、このアルバムではモンクとロリンズのソロを愛しています。(と書いたけど、あれから〇十年、私もやっとアーニー・ヘンリーの良さがわかるようになりました)

「THELONIOUS MONK TRIO」(PRESTIGE UCCO−9057)
THELONIOUS MONK

モンクの作品でいちばん好きなのはなんといってもソロピアノの「セロニアス・ヒムセルフ」。何遍聴いたかわからん。そして、トリオ作でいちばん好きなのが、本作「セロニアス・モンク・トリオ」。ジャケットも好き。レコードで持っているのだが、ヘヴィローテーションでかけるためにCDで買い直した。1500円CDは文化の安売りという意味ではめちゃ腹が立つが、こういうときには便利かも。で、モンクはソロかトリオが好きで、管楽器が入ったものはほとんど興味がない。「ミステリオーソ」が一番好きかな。とくにリバーサイドの管が何人もごちゃごちゃ入っているやつはどれもあんまり聴かない。モンクの特異な音楽性はモンク自身のピアノにおいてもっとも発揮される、と思うし、管はそれを阻害すると思うので。グリフィンやコルトレーンは稀有な例なのだ。さて、本作はモンクとしてはかなり初期の録音だが、たとえば「ブルー・モンク」におけるモンクのソロは、後年の同じ曲のソロとほとんどかわらない。即興に命をかける、というようなタイプでないことはまちがいない。モンクのソロは、なんというか……アドリブというより曲の一部であり、曲と戯れている、あるいはピアノと戯れている感じ。表現はまったくちがうが、ショーターとも相通じるものを感じる。そんな「戯れ」的ソロに命を吹き込むのが、アート・ブレイキーやマックス・ローチのドラムであり、たとえばモンクのソロは普通のピアニストよりも遅い(8分音符で弾くべきところを4分音符でしか弾かないという意味)場合が多いが、そういうときブレイキーは逆に、倍テンで叩く。そういったぶつかりあいが全体として見た場合、いきいきした表現になってくる。そういった「阿吽」の呼吸が成立しているのだ。後年の、ぜーんぶモンクにあわせるような共演者たちではなく、この時期の共演者はスリリングなせめぎ合いや駆け引きがあり、モンクも喜々としてそれに応じている。同じ曲でも、まったくちがって聞こえる所以である。モンクは下手くそだ、とか、いやいや、じつはめちゃうまい、とか無意味な議論が過去何度もなされてきたが、自分の音楽が自分の音でちゃんと表現できているのだから、テクニックもくそもない、ということがわからんか。とにかく本作のピアノを聴いて、下手だと感じるやつはもっと真剣に聴いたほうがいい。

「THELONIOUS MONK QUARTET WITH JOHN COLTRANE AT CARNEGIE HALL」(BLUE NOTE RECORDS 0946 3 35174 2 4)
THELONIOUS MONK QUARTET WITH JOHN COLTRANE

 モンクとコルトレーンの伝説的な共演に関しては、先にファイヴ・スポットのライヴ盤が出ているわけだが、衝撃度はそちらのほうが遙かにうえだった。音もよくないが、内容はめちゃめちゃ充実していた。まあ、あれが出たときは、「うわー、これがあの伝説のファイヴ・スポットのモンク〜トレーンか。すげー」と宝物のようにありがたがって聴いたわけで、そういう聴き手側の聴く姿勢の問題もあるだろうが、とにかく、すげーすげーと興奮しまくって聴いた記憶がある。このカーネギーホールでのライヴは、ライヴというか、コンサートですな。つまり、大人数をまえにしての、ちょっと行儀のいい演奏になっている。音も、おそらくカーネギーホールの録音機材を使ったのだろう、格段によい。でも、演奏の熱気や衝撃性はやや薄まっている。第二弾というのはそういうものなのかもね。とはいうものの、なんといってもモンクとトレーンである。悪い演奏であるはずなく、とくにコルトレーンはまさにシーツ・オブ・サウンドのまっただなかの時期で、凄まじいまでにテナーをこきつかう。そう、「こきつかう」という言葉がぴったりなのだ。テナーは、本来こんなに早く演奏されるべき楽器ではないのに、あらゆるスケールが凄まじいスピードで「試される」。そして、モンクのソロは、いつものとおりで、この曲のこの部分はこういう弾き方、というのが完全に定着してしまっている感じ。たぶん、時期的に成熟を通り越して、マンネリになりかかっている時期なのだろうが、まだテンションはそこそこ高い(コルトレーンがいるせいかもしれない)。コルトレーンを聴くべきアルバムだと私は思いました。

「THELONIOUS HIMSELF」(RIVERSIDE RLP12−235)
THELONIOUS MONK

ジャズを聴きはじめの高校生のころ、ジャズピアノってようわからんなあ……と思っていたが、このアルバムに入っている「ラウンド・ミッドナイト」がラジオでかかっているのを聴いていて、ハッとわかったのだ。メロディをいかに弾いて、それをいかに崩して、自分の歌を載せて、そしてまた戻ってくるか、みたいなことが理解できた、というか、身体でわかったのだと思う。ジャズ、とくにモダンジャズ以降の演奏は、本などで、テーマがあって、それのコード進行に基づいてアドリブを行って云々とか書いてあっても、それを知識としては理解できても体得はできず、なんとなく、こんなもんかなあ、と思って聴いている場合が多いだろうと思う。私も高校生のころ、さすがに管楽器の演奏はピンときていたのだが、ジャズピアノというものがわからなくて、毎日、いわゆる名盤といわれるようなものを家やジャズ喫茶で聴いても、「わかったような顔」をしていただけだった。それが、あ、なるほど……と感じることができた、というのは、明田川荘之さんのトリオと本作のおかげである(どっちもラジオで聴いたのだ)。まあ、一種の悟りといえば大げさかもしれないが、まさにそんな感じで、音楽とか絵画とかに接するときは、こういう小さな「あ、なるほど……」を積み重ねることでだんだんわかってくるのでしょうね。というわけで、思い出のアルバムでもある本作は、もしかするとモンクの作品のなかでもっとも好きかもしれない。A−1の「エイプリル・イン・パリ」や「アイム・ゲッティング・センチメンタル・オーバー・ユー」など名演目白押しで、ラストにコルトレーンとウィルバー・ウェアを従えたドラムレストリオがおまけ的に入っており、これもよい。歴史的傑作。

「PIANO SOLO+1」(VOGUE/SONY MUSIC JAPAN INTERNATIONAL INC. SICP3980)
THELONIOUS MONK

 モンクのソロはいろいろあるけど、やはり一番ええのはこれやろなー。個人的には「セロニアス・ヒムセルフ」がもっとも好きなのだが、それは思い入れというか偏愛というかそういうものが手伝っているので、公平に見たら本作が全曲すばらしいし、曲もおいしいところばかりだし、本当に隅々まで味わい尽くしたいようなアルバム。ソロなので、モンク自身のリズム感というか、体内ビートみたいなものもよくわかるし、ああ、この曲はこういうコード付けがモンクの頭のなかで鳴っているサウンドなのだな、ということもわかる。それは決して変なコードではなく、逆にすごく自然でどっちかというとオーソドックスなコードをつけていると思う。チャーリー・ラウズとかグリフィンとかコルトレーンとかがいると、どうしてもそっちに耳が行くので、モンクのすべてをしゃぶりたい、なめまわしたいというひとは、この傑作が今たった1000円なので、ぜひ購入をお勧めします。私は、先輩に録音してもらったテープを持っていたのだが、さすがに今回CDで買い直しました。音がめっちゃよくて感動。モンク最高。時空を超えて響くこの生々しいサウンドは、最近のジャズのなかにも見出すことができる。モンクがいつまでも古くて新しいことがわかります。

「MISTERIOSO」(RIVERSIDE RECORDS 1133)
THELONIOUS MONK

モンクのアルバムはどれも好きだが、なかでも本作と「セロニアス・ヒムセルフ」が大々々好きである。結局酔っぱらって聴くモンクはその2枚、ということになる。収録曲はどれもええ曲ばかりで、しかもどれも超のつく名演であるが、なんといってもグリフィンのテナーが凄まじい。このカルテットのテナーはコルトレーンだったのに、そのときは録音せず、グリフィンに交代するまで待ったキープニュースは馬鹿だ、みたいなことが書かれた文章を読んだことがあるが、そういう裏事情は本作の価値をいささかも下げるものではない。グリフィンはテナーの高音部を中心に、倍テンで吹きまくっていて(まさに「吹きまくる」という言葉がぴったりのブロウである)、しかも、ただ闇雲に早吹きしているのではなく、バップ魂とモンクの音楽をきちんと踏まえたうえでの表現なので感動するしかない。2曲目のブルースでのブレイクとか、もう、身の毛がよだつようなかっこよさである。ラウズもすばらしいが、グリフィンの場合は「モンクに合わせない……のに合っている」感じが最高のマッチングなのである。そして、御大モンクのピアノははるかにぶっ飛んだ次元にあって、そのうえ心身充実していたであろう時期の演奏なので、いやー、すごいとしか言いようがない。山下洋輔のエッセイでのグリフィンとの逸話にも出てくる「レッツ・クール・ワン」(この曲でもグリフィンのブレイク(というより無伴奏ソロに近い)があって、凄まじい。恐るべし、グリフィン!)も躍動感にあふれているが、それだけでなく未知の心地よさというか「ジャズという音楽のなかにはこんな変態的ですばらしく楽しいものがまだ隠れていたのか」という驚きに満ちている。ロイ・ヘインズのドラムももちろん最高である。このアルバムのなかで一番長尺の演奏であるB−1の「イン・ウォークド・バド」のテーマ部分はモンクも含め、しっかりしたアレンジをきっちりと演奏していて、巷間に言われるような「モンクはいい加減」というのがただの風聞にすぎないことがわかる。じつに真面目なアンサンブルである。ここでのグリフィンの熱い吹きっぷりを聴いて興奮しないひとはいないだろう。グリフィン生涯の名演のひとつと言ってもいいのではないだろうか。「どれだけ引き出しあるねん!」と言いたくなるようなえげつないテナーソロである。モンクのピアノも、バップとか前衛ジャズというより、こどもが無心にピアノと戯れているような、スコーンと突き抜けたものがある。唯一のスタンダード「ジャスト・ア・ジゴロ」(ピアノソロ)を経て、ラストはタイトル曲の「ミステリオーソ」だが、この変態的ブルースはまさにミステリオーソとしか言えないような幾何学的で謎めいたモンクならではの世界。アフリカ発祥(とされている)ブルースという音楽がアメリカでこんな具合に解体され、再構築されたのを知ったらチャーリー・パットンもサン・ハウスも驚くだろう。そうなのだ。ブルースというのは音楽的にいろいろ剥ぎ取ると、こういうものが残るのである。そして、そこにグリフィンがぴったりとはまるのである。ここでのグリフィンも倍テンでひたすら吹きまくっているようだが、よく聴くと本当に、クリシェとか指癖で吹いているのではなく、ちゃんとしたアイデアのもとでこれだけのスピードでのソロをしているのだ。うーん、すごい。そのあとに出てくるモンクのソロの「遅さ」も凄い。ちゃんと対比しているのだ。キリコの絵も完璧に内容に合っている。それにしても、うちにあるレコード、もしかしてオリジナルなのかなあ……(マトリックス番号1になってる)。スクラッチはひどいのだが。