david murray

「GWOTET」(JUSTIN TIME JUST 200−2)
DAVID MURRAY & GWO−KA MASTERS FEATURING PHAROAH SANDERS

 これはすごくいいアルバムで、前に出たラテン・ビッグ・バンドの延長みたいな感じだ。アフリカっぽいボーカルも入っているし、リズムもかっこいいし、いうことないのだが、こっちは「フィーチュアリング・ファラオ・サンダース」というのにひかれて買ったわけで、マレイ率いるビッグバンドをバックに、ファラオがギョエーッと絶叫しまくる……みたいなものを期待すると全然だめである。たしかにファラオもええ年だから、もうかつてのようなフリークトーンを連発することはできないのかもしれないが、最近のアルバムでも、けっこうがんばっているのもあるというのに、このアルバムのファラオははあまりにダメダメだ。けっこううまいのだが、うまいだけで、スクリームしないし、フリークトーンもつかわない(フラジオをずーっとピーっといわすソロはあるんだけど)。ファラオの個性が全然ないのだ。なんでだろう。せっかく、「スクリームしてくれ」といわんばかりのシチュエイションなのに、どうしておとなしいのだ? これなら、某誌で毎度まいど酷評されている日本制作のバラード集のほうがまだましだ。だって、中途半端だもんなー。いいアルバムであることは保証付きだが、ファラオの活躍を期待してはいけないということです。残念だ。ファラオも、まだまだがんばれるはず。(ファラオの)次作に期待します。

「3D FAMILY」(HATHUT RECORDS HATOLOGY 608)
DAVID MURRAY TRIO

レコードで持っている本作だが、ハットロジーからの再発ということで、なんとなくCDを買い直してみた。そういうことでもないと、なかなかレコードを聞き返したりしないからなあ。というわけで、めちゃめちゃ久しぶりに聴いた本作だが、やっぱり傑作だ。このときまだ20代? いやはや、マレイは凄い。とにかく、最初っから最後まで、ずーーーーーーーっと吹いているにもかかわらず、ポテンシャルが落ちないし、聴き手も飽きない。つまり、テナー一本で、ベースとドラムだけをバックに、つぎつぎと新しい場面転換をしていっているということであって、これはコルトレーンカルテットにも匹敵する「才能」と言わざるをえない。しかも、その方法論はきわめて古くさい「フリージャズ」のものなのだ。マレイやデヴィッド・ウェア、チャールズ・ゲイルなどは、この古い古い、60年代のブラックミュージックとしてのフリージャズやりかたが、現在でも立派に通用するということを証明してくれている。ほんとうに心強い連中である。このアルバムでのマレイは、ある意味、今と変わっていない。しかし、演奏のそこかしこに、「若さ」ゆえのバネやエネルギーを感じることができる。バラードも爆発的なフリーも全部含めて、とことん味わうしかないパワーミュージックであり、そして、表面的なパワーだけでなく、その黒々とした深みをのぞきこむと意外なほどそこは恐ろしく深く、底は見えない。マレイで一枚、と言われたらこのアルバムでどう? でも、このころのマレイってどれもいいんだけどね(トランペットが入っているやつは、やや求心力が削がれる感があるので、その意味でのワンホーントリオの本作はすばらしいのだ)。

「SACRED GROUND」(JUSTINE TIME JUST204−2)
DAVID MURRAY BLACK SAINT QUARTET FEATURING CASSANDRA WILSON

マレイがバスクラを吹いているジャケットがかっこいい。フィーチュアリング・カサンドラ・ウィルソンとなっているが、彼女の参加しているのは一曲めとラストの二曲だけで、あとはカルテットだけの演奏。正直なところ、カルテットの演奏は、カリプソあり、ジャズロック風あり、4ビートありで、楽しいことは楽しいのだが、まあいつものマレイだ。このアルバムの聴きものはやっぱりカサンドラ・ウィルソンの参加している二曲であって、ブルースを歌うカサンドラのバックでオブリガードをつけたり、ソロを吹いたりするマレイはすばらしいの一言。これぞコラボレーション、といいたくなるような、まさしく歌伴の鏡、しかもマレイはいつものあのスタイルでまったく妥協することなくフリーキーに吹きまくっているのに、それがボーカルとぴったりあっている。こんなことができるのはマレイだけだ。とにかくカサンドラの二曲における、歌とテナーには本当にぞくぞくさせられました。この二曲のためだけに買っても損はないと思った。

「DAVID MURRAY SPECIAL QUARTET」(DIW RECORDS DIW−843)
DAVID MURRAY

 すごいメンバーである。エルヴィンとマッコイを従え、しかもベースはフレッド・ホプキンス、プロデューサーがボブ・シールという、あきれかえるような最高の布陣でのマレイのカルテット。期待するなというほうがむりではないか。これは、中古屋で買ったのだが、一曲目の「これがほんとにエルヴィン〜マッコイか? マレイか?」と口走ってしまうようなぬるい演奏を聴いて、このアルバムがでたときのことを思い出した。たしか三ノ宮の今はなき某ジャズ専門レコード店で試聴して、最近のマレイはあかんで、DIWが録音させすぎとるんや、どの曲も、最初ふつうに吹いて、そのうちぐじゃぐじゃっとフリーにして、途中からピーピーと小鳥が鳴くみたいなフラジオをまじえて、延々とソロをする。そのあいだ、バックはずっとリズムをインテンポでつむいでいる。そんなんばっかりや。ええかげん飽きてくるで。──そんなことをぼやいていたのを思い出した。もう十五年以上まえのことである。だから、私はDIWでのマレイの企画ものはあまり手を出していないのだけど、最近、いやいやそういった思い込みはよくない、と思いなおし、いろいろ聴きかえしてみているのだが、うーん……やっぱりあの当時の印象のままだなあ。マッコイのソロはさすがに聞きどころが多く、感心するが、エルヴィンが、いまひとつこのピーピー吹くテナー奏者にどういうバッキングをすべきか迷っているようにも思えるし、なんといっても肝心のマレイがどうも「あいかわらずいつもの」的な演奏で、このメンバーでおそらく聴き手がのぞんでいるのはこんなレベルでの交歓ではなく、もっと怒濤の感動なのである。こういう演奏が嫌で、私はデヴィッド・ウェアやチャールズ・ゲイル、アーサー・ドイル……といったひとたちに傾いていってしまったのである。マレイに、このあとJUSTIN TIMEに移ってからのほうが傑作が多いのは、レーベルがどうのというより、マレイ自身の変化だろう。マレイはDIW時代、どうもひとつのパターンに固辞しつづけていたような気がする。それから抜け出した、ということではないか。とはいうものの、本作もぜんぜんダメということはもちろんなくて、六曲中五曲目の「イン・ア・センチメンタル・ムード」に至ってようやく「おおっ」と思うような場面が飛び出してくる。こういった、太い音でのバラードを堂々たる貫祿で吹きまくる……というのはマレイの独壇場であって、マッコイのピアノとのデュオというのも、マレイから良いものを引きだすことにつながっている。アルバム全編、マッコイとのデュオだったらよかったのかも。それで、もう一枚、エルヴィンとのデュオを吹き込めばよかったんじゃないか……などと妄想にふけってしまった。そしてラストの「3Dファミリー」は、この曲、なんべん吹きこんどるねん、といいたくなるぐらいマレイの十八番だが、エルヴィンもいちばんいきいきとしているし、マレイのマイペースかつワンパターンなブロウもこういう曲調がもっともはまってる……ような気がする(フェイドアウトしていくあたりがいちばん盛り上がっているのも惜しい)。こういう言い方はよくないが、あの凡作であるエルヴィン〜マッコイ〜ファラオの「ラヴ・アンド・ピース」も日本制作であり、どうもイメージ的には共通するものを感じてしまう。制作した方々には申し訳ないが、エルヴィン〜マッコイというリズムに、コルトレーンの影があるテナー奏者を組み合わせればなにか出てくるだろう的なやりかたが結局あかんのや、ということではないだろうか。

「LIVE IN BERLIN」(JAZZWERKSTATTJW035)
DAVID MURRAY BLACK SAINT QUARTET

 ディスクユニオンの通販がすぐに品切れになったので、アマゾンで買うとなぜか3000円以上した。某レコード店の通販では1700円ぐらいだった。こういう価格設定はよくわからん。まあ、内容には関係ない話である。中身がしょうもなかったら1000円でも高いわけで、そういう意味ではこのアルバムは3000円がぜんぜん高くない。それぐらい良かった。カサンドラ・ウィルソンが客演した前作で、ある程度の予感はあったが、この「ブラックセイント・カルテット」にはマレイの本気を感じる。ライヴでのマレイは雑になったり荒くなったりして大味に感じることが多いが、ここでのマレイはベルリンでのライヴにもかかわらず、きわめて好調で、迫力はそのままに気持ちが行き届いている。同じフレーズを吹いても、時と場所とメンバーでこれほどちがうのかと思えるほど、十分な気合いが伝わってくる。こういうマレイなら生で聴きたいものだ。ハミッド・ドレイクのドラムがやはり鍵なのかなあ。でもこのバンド名は、ビリー・ハーパーみたいだけど。

「SHAKILL’S WARRIOR」(DIW RECORDS DIW−850)
DAVID MURRAY QUARTET

 出たときすぐに聴いたときから、うーん……と思っていた。多作なマレイのいささか乱発ぎみの作品を片っ端から聴いていて、かなり食傷気味になっていたころであるが、なにしろドン・ピューレンとの双頭バンド、しかもピューレンはオルガンに専念、そしてあの「ソング・フロム・ジ・オールド・カントリー」が取り上げられている……とくれば、これは「聴くしかない」と思うではないか。ものすごく期待して聴いた。結果的には、いつものマレイだなあ、と思った。その当時の「いつものマレイ」である。つまり、どんなセッティングでもおんなじ吹き方で、気合い一発でこなしていくという感じ。よくいえば、共演者がだれであれ、楽器編成がどうであれ、つねに自分の吹き方は変わらないよ、ということでもあるが、逆にいうと、どんなにおもしろそうなセッティングにしても変わらないんなら、そんなにたくさん吹き込んでもしかたないのでは、ということにもなる。私の当時のマレイ観は、そうでした。「フラワーズ・フォー・アルバート」や「3Dファミリー」「ミング」「スウィート・ラヴリー」などのあの緊張感、タイトにひきしまった鋭いフレージング……などは正直、あまり感じられなくなっていたのだ。で、聴いてみて、さっきの感想になるわけだが、今回聴き直してみて、いや、けっこういけるやん、と思った。当時の私の耳は先入観にとらわれた馬鹿耳だったわけだ。一曲目のブルースで、ピューレンの唸りまくるオルガンのゴージャスかつファンキーなサウンドのうえをノリノリでブロウしまくるマレイは悪くない(上から物を言ってすいません)。「ソング・フロム……」はこちらの期待が高すぎたのだろう。ジョージ・アダムスはこの曲のテーマを一オクターブ上で吹く。オリジネイターのチャールズ・ウィリアムズもアルトではあるが、その音域で吹く。しかし、マレイはテナーの低音でこの曲を吹く。そこがどうも許されなかった、というか、私の頭のなかでこの曲の印象ができあがってしまっていて、それをオクターブ下でデロデロと吹くマレイが、ださい、というか、センス悪ー、と思ってしまったのだろう。すいません。でも、「ソング・フロム……」に関しては、ごく普通の出来だとおもう。それはさておき、このアルバム、ぐおんぐおんと唸り、叫ぶようなピューレンのアグレッシブなオルガンを得て、ゴリゴリ吹きまくるマレイの当時としては最良のプレイのひとつが記録されたということで、価値のある作品といえるのではないか。今の私はそう感じております。

「REAL DEAL」(DIW RECORDS DIW−867)
DAVID MURRAY & MILFORD GRAVES

 DIWのマレイにはあまりいい印象がない。さまざまな編成を試してはいるものの、なぜかおんなじような内容のアルバムばかりで、それはいくら外枠をかえてもマレイ自身がだいたいルーティーンのソロに終始しているからだと思う。太い音でリズムに乗ってドルフィー的な上下跳躍の多いフレーズを延々と吹きまくるが、ポテンシャルがずっと一定で盛りあがらないので飽きてくるし、最後はラーセン特有のピーピーとしたフラジオで決める。熱演なのだろうが、フレーズがアブストラクトなので、ロングソロを何度も聞き返したいと思うようなタイプの演奏ではもともとないわけで、あとはテンションの高さが問題となってくるが、マレイも初期のころはかなりの緊張感のある演奏をつねにしていたのに、DIWあたりになってくると「乱発」「一丁あがり」感がぬぐえない。当時、CDをあるジャズ専門レコード店で聴いていて、そういった感想をもらすと、店主が「でも、このめちゃめちゃ高音を出したりするのはすごいと思うけどなあ」と言った。そうではないのだ。ああいうキーキーしたフラジオはちょっとテナーをまじめに練習したひとならだれでもだせる。まったく特殊技能ではない。問題は、それをいかなる瞬間にいかなるテンションで発するかなのだ。この当時のマレイにはそのあたりが欠けているように思う(そういう意味でデイヴ・バレルとのバラードアルバムは、歌心と音色の両面で説得力があるが、でも全編どこを切ってもおんなじ……という感じはいなめない)。しかし……しかしである。本作は別。まーーーーーーったく別。ミルフォード・グレイヴスとマレイのデュオという企画自体がすばらしいが、グレイヴスという大先達の存在感、迫力、方法論その他もろもろがマレイから最高の緊張感を引きだしたとしか思えない。もともとマレイはドラム〜パーカッションとのデュオで燃える男だし、クリエイティヴになるし、イマジネーションを発揮するひとだと思っていた(カヒール・エルザバー、ディジョネットなどなどとの共演!)が、この作品はその極北であろう。かっこいいーっ!しびれるーっ! という昭和的死語を使いたくなるほど、説明不要の問答無用のかっこよさなのだ。バスクラを使った演奏がとくに説得力があるが、テナーももちろんいい。DIWのマレイは今聞き返すと、あのころはどうしてあんなに反発したのかなあと思ええるぐらい「許せる」演奏が多く(上から目線ですいません)、ああ、ここはかっこいいなあ、これもすごいなあ、と感心したりするが、当時の私の受け取りかたとしてはやはり「乱発」というものだった。そういうなかで、異物というか鬼子というか、突然変異のようにそそり立っている傑作だと思います。多くのひとに聴かれることを願います。なお、演奏内容といい、本作で演奏されているコンポジションの数といい、完全に対等だと思うが、先に名前のでているマレイの項にいれた。

「DAVID MURRAY BIG BAND CONDUCTED BY LAWRENCE ”BUTCH” MORRIS」(DIW RECORDS DIW−851)
DAVID MURRAY

これもDIWのマレイだが、おそらくもっとも制作費がかかっているだろうと思われるアルバム。なにしろメンバーがすごすぎる。ブラックセイントのころからの盟友ブッチ・モリスはもちろんのこと、トランペットがヒュー・レイギン、グラハム・ヘインズ他、トロンボーンがクレイグ・ハリス、フランク・レイシー他、ホルンがヴィンセント・チャンシー、チューバがボブ・ステュワート、リードがジョン・パーセル、ジェイムズ・スポールディング(!)、ドン・バイロン他、ベースがフレッド・ホプキンス、ドラムがタニー・タバール、ボーカルがアンディ・ベイ……などなどという超豪華メンバーのオーケストラをそろえて、いったいブッチとマレイがなにをやってくれるのだろうと、購入当時、わくわく半分不安半分で聴いてみたが、うーん……やっぱりか、という印象だった。今回約二十年弱ぶりに聴いてみたが、あれ? なかなかええやん……と思った。三回ぐらい聴いてみて、その印象は変わらなかった。つまり、ひじょーーーーに上質のビッグバンドジャズなのである。ブッチ・モリスのコンダクションがどれだけ寄与しているのかはよくわからないが、テーマ、アレンジ、アンサンブル……どれをとっても文句のつけどころがないし、そこに登場するきら星のごときソリスト(現代ジャズを代表する実力者ばかりなので、おもしろくないわけがない)……もう、超ゴージャスな最高のビッグバンドジャズである。また、主役というかリーダーのマレイのソロもブルースでもバラードでも最高である。とくにバラードでは、往年のスウィングの名手たちを想起するような演奏を、あのキラキラと倍音の豊富なリッチな音でブロウする。こりゃええわ! と思ったが、うーん……よく考えてみるとこれってべつにマレイでなくてもよかったかなあ。たぶん我々がマレイに期待しているものと、本人の考えが微妙にずれているのだと思う。つまり我々はフリージャズを牽引するパワフルでクリエイティヴで過激な闘将……的なイメージを勝手に持っているが、マレイのほうはブラックミュージック全般の体現者、ぐらいの気持ちでいるのだろう。こういったストレートアヘッドな演奏を「やってみたい」と思い、その結果も「良し」としているのだろうなあ、ということはわかる。しかし、やはりこのような、ちょっとフリージャズ風だが基本的にはめっちゃまとも、な演奏は、たしかに聴いているあいだはおもろいソロの連続でじゅうぶん楽しめるのだが、それ以上のものはない。マレイがブッチ・モリスと組んでビッグバンドをやるというのだから、なーんかもっと「上」を期待するのはぜいたくなのだろうか。それともマレイはエリントンやミンガスやジャズメッセンジャーズや……といったブラックジャズのなかに自分のバンドの演奏を同列に並べたいというぐらいの意識なのだろうか。よくわからん。おもしろいけど、おもしろくない、というなかなか複雑な思いを感ずるアルバムだ。いや、けっして悪くはない。というかめっちゃいいんですよ。たぶんこのアルバムがジャズ喫茶でかかったら、めっちゃええやん、だれ? と言うにちがいない。でもなあ。

「IN OUR STYLE」(DIW RECORDS DIW−8012)
DAVID MURRAY & JACK DEJOHNETTE

マレイといえば、カヒール・エルザバーとの何枚かのデュオ作、ミルフォード・グレイブスとのデュオなど、ドラムとのデュオによる傑作が多数(?)あるわけだが、本作はそのなかでもいちばんフツーの相手とのデュエットである。ただし、A−1とB−1という「核」になる長い演奏が、どちらもフレッド・ホプキンスのベース入りなので、デュオという感覚は薄い。なんでこんなことをしたのかなあ。純粋なデュオのほうが、より顔合わせが際立ったような気がするが……(でも、ベース入りの演奏はどちらもすばらしいが)。しかし、ディジョネットはスペシャル・エディションで一時マレイをレギュラーにしていたぐらいだから(そういえばWSQとの共演を観たなあ)、交流も密だっただろうし、レスター・ボウイをレギュラーにしていたグループ(ディレクションズ)もあったぐらい、フリージャズにも接近しているひとであるから、この顔合わせはなんらおかしくはない。どの相手とのデュオもそれぞれ特徴があるのだが、このマレイ〜ディジョネットという組み合わせは、単純な噴火ではなく、もっと粘着質の、膠(にかわ)がぐつぐつと沸騰していくような、どろどろした熱気を感じる。トニー・ウィリアムスやアル・フォスターとちがって、ディジョネットは「こっち側」やなあ、と思うのはこういう演奏を聴いたときである。対等のアルバムとは思うが、先に名前の出ているマレイの項に入れておく。

「DAVID MURRAY SOLO LIVE−VOL.1」(CECMA 1001)
DAVID MURRAY

宝物のようなアルバム。デヴィッド・マレイは、こうしたソロからビッグバンドまで、じつにさまざまな編成を試みるひとだが、個人的にはソロもしくはデュオあたりが好き。そして、本作とそれにつづく第二集、この二枚はすべてのデヴィッド・マレイのアルバムのなかでももっとも好きな二枚、というだけでなく、あらゆる「サックス・ソロ」のなかでも筆頭にくるぐらい好きで好きで好きで好きでしょうがないアルバム。最高です。これをはじめて聴いたのは、大学一年のころだったかなあ。「フラワーズ・フォー・アルバート」はすでに発売されていて、ブラックセイントなどのアルバムが続々出始めたころだった。「ミン」と「スウィート・ラヴリー」を聴いてめちゃめちゃはまったのだが、そんな時期に発売されたのがこのセクマの二枚のソロで、当時はサックスのソロアルバム、しかも、二枚同時に発売なんてひじょうに珍しいことだったと思う。学生で、金もなかったのだが、ジャケットの良さもあり、どうしても欲しくなって、思い切って二枚とも購入。家で聴いてみてびっくりした。もう、呆れるほどかっこよくて、毎日聴きくるった。どこがどうよいのか、一言で言うのはむずかしいが、サックス(もしくはバスクラ)だけで、しかもライヴで、冒頭の1音目から最後までを完璧にコントロールしながら、リズムもハーモニーも聴衆に十分に感じさせたうえで、度迫力の即興を展開していき、がんがん盛り上げ、そして、クライマックスに達したあとテーマに戻るという構成力もみせる、というブラックジャズの基本をちゃんと押さえている……という、離れ業的なソロなのである。まさに「楽器を自由自在に操る」とはこのことである。しかも、ふつうのジャズではなく、フリージャズなのに、ここまで聴衆の心をわしづかみにするか、と言いたくなるような、ものすごい表現力である。スクリームやホンクに近いことまでも折り込まれ、聴いているあいだは夢のような時間をすごせる。くり返すが、ベースもドラムもいない、多重録音もしていない、シンプルなソロなのだ。そのうえ、音色がめちゃめちゃすばらしい。この時期のマレイは、ほんとに音がすごくて、多彩で、ほれぼれする。「スウィート・ラヴリー」や「フラワーズ・フォー・アルバート」なども演奏している。学生会館でサックスを練習していたら、大先輩のテナー吹きの高田さんが来て、私のカバンのところに置いてあったこのアルバムを見つけ、おまえもマレイ好きなんか、と話しかけてもらえた。芳垣さんや北川さんとレギュラーバンドを組んでいる、雲の上のひとだったのでうれしくて、一生懸命しゃべったのを覚えている。「『フラワーズ・フォー・アルバート』は聴いたんやけど、あれよりよかったか?」ときかれ、ずっといいです、と答えたことや、「ドン・チェリーの『永遠のリズム』よりええか?」とよくわからない質問をうけたことも覚えている。だから、つい先頃、高田さんが私という後輩サックス吹きの存在自体を一切記憶していない、ということを知って、めちゃめちゃ落ち込みました。まあ、そんな風にしてマレイにのめりこんだ私だが、その後、この時期に出ていたアルバムのうち、ブッチ・モリスが入ってる編成のもの(ようするにほとんどのアルバム)は全部売ってしまいました。残したのは、「3Dファミリー」とか「スウィート・ラヴリー」とかのトリオもの、あとは本作である。だから、DIW以降のマレイにはあんまり興味がわかないんだよなー。まあ、これは本作とは関係ない懐かしバナシですが。とにかく、本作をもし聴いたことがないひとがいたら、ぜひ聴いてほしい。大傑作ですよマジで。テナーソロも良いが、バスクラソロも抜群に良い。マレイにとって、バスクラが、よくあるフリー系マルチリード奏者にとっての「味付け」的な持ち替えでなく、ドルフィーやポルタルらに匹敵するような主奏楽器であることがよくわかる。今は二枚まとめた形でCDで聴けるはず。じつはマレイは、この二枚に先立つ数年前に三枚のソロをリリースしていて、それはたしかバラバラのレーベルで出ているのだが、聴いたことはない。

「DAVID MURRAY SOLO LIVE−VOL.2」(CECMA 1002)
DAVID MURRAY

 1と同時期に出たアルバムだが、全編ライヴ録音の1に比べて、A面の3曲がスタジオ録音である。冒頭、「『ボディ・アンド・ソウル』テイクワン」という言葉ののちにテナーソロがスタートする。正直言って、ライヴの演奏に比べて、手堅くまとまっている感じで、熱気も不足しており、音色も朗々と鳴っているというよりもやや軽めに鳴らしてる感じで、私はずっとライヴの面ばかりを聞いていたように思う。しかし、今回、めちゃめちゃ久しぶりにスタジオの3曲を聴き直してみると、なるほど、その軽さが味わいになり、しかもめちゃめちゃうまくて、びっくりした。ふーん、ええやん。でも、B面のライヴでの即興2曲に比べると、やはりおとなしい感じで、どうしてもB面ばかり聞いてしまうなあ。A面は「ボディ・アンド・ソウル」のほか、モンクの「ウィー・シー」、そしてマレイオリジナルのタイトルのわからないナンバーの3曲を演奏している。

「SWEET LOVELY」(BLACK SAINT BSR0039)
DAVID MURRAY TRIO

 ジャケットがマレイ夫人であるミング(ミン?)の大写しで、たしかに超美人で色っぽいが、自分の嫁はんをここまでジャケットにでかでかと載せるかなあ。しかし、そういった甘いジャケットに比べて、内容はトリオによる超過激な演奏である。このころのマレイは、なにをやらせてもすごい。後年、パターン化して大味になっていくのとルーティーンはさほど変わらない演奏なのだが、気合いというか意気込みというか、演奏に賭ける姿勢がちがうのだろう。そのスピード感、音のみずみずしさ、メンバーとの交感の緻密さ、音色の迫力……なにをとってもまるでちがって聞こえる。あるとき、ブッチ・モリスやレスター・ボウイなど、ほかの管楽器がフロントにいるアルバムは全部売ってしまったのだが、ワンホーンのものは全部残した。聴き直してみると、本作をはじめ、どれもよくて、売ろうに売れなかったのである。ジャケットは好みがわかれるかもしれないが、私は好きです。コンポジションもいいし、完全即興の曲もすごい。テナーもバスクラもよい。マレイファンなら一家に一枚、お備え付けください。

「NOW IS ANOTHER TIME」(JUSTIN’TIME JUST161−2)
DAVID MURRAY LATIN BIG BAND

 マレイはいろいろなビッグバンドを作っているが、これはそのなかでも一番ゴージャスで、一番エンターテインメントになっているバンドだと思う。ブッチ・モリスとの大型グループなどでは実験的な要素が強く押し出されていて、途中でダレたりする場面もあるが、これはアンサンブルはかっこよく、テーマもかっこよく、つぎつぎと登場するソロイストも手練れぞろいでかっこよく、なんといっても全編を貫くラテンリズムがかっこいい。つまり、とにかく「かっこいい」のだ。相当難しい譜面が採用されており、ソロも短くてダレず、デヴィッド・マレイというと大味で大雑把な印象があるが、その対極にある作品。しかし、そういったキャッチーな部分はかなり強烈に押し出されているうえ、パーカッション軍団がずっとえげつないリズムを送りつづけているので、どこもかしこもノリノリなのだが、じつは各ソロは、気合い一発ではなく、めちゃくちゃハイレベルでびっくりする。トランペットにヒュー・レイン、バリサクにハミエット・ブルーイット、トロンボーンにクレイグ・ハリス……といったいつものマレイファミリーも要所にいるのだが、基本的にはメンバーのほとんどは若手のラテン系ミュージシャンであり、しかもそれがどれもこれも凄腕でびっくりする。一曲目の冒頭で出てくるバリサクのひとにも驚くし、アルトのソリストたちのかっこよさも特筆に値するが、なんといってもテナーのふたり! 4曲目でバトルするのだが、どちらもコルトレーンマナーのえげつないブロウで度肝を抜かれる。超かっこいいうえ、個性もあるので、これは美味しいです。なにも知らずに聴いたらマレイのアルバムだとは思うまい。正直言って、マレイは出てこなくてもいいぐらいソロイストも充実しており、一瞬たりとも飽きる瞬間がない。傑作!

「FO DEUK REVUE」(JUSTINE TIME JUST94−2)
DAVID MURRAY

 近年は、音楽的にはともかく自身のソロについては「おいおい」と言いたくなるようなふにゃけたテナーを聴かせているマレイだが、このアルバムはとにかくめちゃめちゃ凄いのであります。音楽的にも彼のブロウについても、めちゃくちゃいいので失禁しそうになる。パーカッション軍団のカラフルなリズムと暴れ回るジャマラディーン・タクーマのベースに乗せて、マレイが渾身のソロを存分にぶちかます曲を一曲目に持ってきたことも自分のソロに関しての自信の現われだろう。ドスの利いた、あの惚れ惚れするほど艶やかな音色での、天へ届くようなブロウだ。2曲目はアミリ・バラカの叫ぶような詩の朗読(奴隷だ奴隷だと何度も繰り返す)とヒュー・レイギンの血を吐くようなトランペットをフィーチュアした演奏で、これも聴いていて胸が熱くなる(これを書いているとき、アミリ・バラカの訃報が入りました。合掌)。3曲目はダカールのボーカリストアマドウ・バリー(だと思う)やポジティヴ・ブラック・ソウルというグループのラッパー(だと思う)、ジェウフ・ジェウル(と発音するのかどうかも定かではない)グループのボーカリストなどを連続的にフィーチュアしたアフリカンポップ的な明るい曲で、マレイのバスクラが歌とからむ。この曲にマレイの本アルバムの意図が色濃く感じられるし、その狙いは大成功したのではないかと思う。4曲目はロバート・アーヴィン3世の曲で、「飢えたひとたちが多すぎる」というタイトルのラップナンバー。めちゃかっこいい曲で、かなりがんばって歌詞を解読しようとしたのだが、やっぱりほとんどわからん。5曲目はボーカルとコーラスのコール・アンド・レスポンスで提示されるアフリカンチャント。ボーカル〜パーカッションのひとはセネガルの非常に有名なドゥドゥ・ンディアイェ・ローズというかただそうです。ここでの胸をかきむしられるようなマレイのテナーソロは絶品で、めちゃめちゃいいです。この曲が本作の最大の盛り上がりかもしれない。聴いていると凄まじいエネルギーを充填されるような気がするような演奏で、構成その他もかなり考えつくされていると思う。6曲目はジェウフ・ジェウルというグループを中心とした演奏で、ギターが大きくフィーチュアされる。力強く、グルーヴするリズムのうえでボーカルとマレイのテナーが叫ぶ。7曲目は現代的な曲調でラップやらコーラスやらホーンセクションやらいろんなものがてんこもりにフィーチュアされ、からみあう曲で、演劇的な要素も感じられる。マレイがこういうものをやるのは、たとえばウルマーの「フリー・ランシング」でホーンセクションをやったような感覚に近いのかも。8曲目は楽しいポップな曲で、ジェウフ・ジェウルのボーカルとギター、トランペット(民族楽器のように聞こえる)などがフィーチュアされる。
音楽的狙いの高さ、問題提起、たしかな人選でそれを可能にした構成力……などなど賞賛すべきポイントが多すぎるような傑作。ダレることも多いマレイのソロが本作にかぎってはどれも秀逸で外れがないというのも大きい。でも、とにかく音楽としてかっこいいし楽しいし、そのあたりはもう、だれでもそう思うでしょ的なすばらしいアルバムです。といっても考えてみたらもう20年近くもまえのアルバムなんだよなあ。

「SAXMEN」(SONY RECORDS SRCS 7378)
DAVID MURRAY

 マレイが先達的サックス奏者たちに捧げたアルバム。メンバーはジョン・ヒックス、レイ・ドラモンド、アンドリュー・シリルとすごい面々。捧げる相手も、レスター・ヤング、ソニー・ロリンズ、チャーリー・パーカー、チャーリー・ラウズ、ソニー・スティット、ジョン・コルトレーン……とすごいひとばかり。そして、プロデュースがボブ・シールとくれば、これは期待するしかないではないか。しかし、聴いてみると、うーん……相変わらずというか、だいたい予想の範囲内での演奏で、逸脱はない。逸脱なんかしないでいいんだよ、このひとはこういうスタイルなんだから、という意見もあるかもしれないが、なんというかチャレンジ精神が感じられないのである。もちろんいい感じの部分も多々あるのだが、正直、私がデヴィッド・マレイに求めているのはそんなもんではないのである。「音」の魅力についてはたしかにすばらしい、とうなずけるのだが(それが最大限に生かされているのはラストのコルトレーンのバラードか)、そんなレベルの音楽をしているひとではないはずである。ライナーノートには「マレイのSAXを通じてディープでタフなフリー・ジャズ的なるものの味をかみしめて欲しい」とあるが、このアルバムの演奏でのマレイについてはちょっと無理な相談ではないでしょうか。サックス奏者がサックス奏者にトリビュートする、というのは同じようなスタイルで吹く、ということではもちろんなくて、その奏者のスタイルを咀嚼して自分のスタイルのなかで生かして演奏する、ということだと思うが、ここでのマレイは曲を素材として扱っているだけのように思える。曲がなんであれ、トリビュートする相手がだれであれ、一緒やん……という感じです。ただ、ラストのコルトレーンの「セントラル・パーク・ウエスト」だけはマレイのテナーに賭ける美学がひしひしと感じられる名演だと思う。