「SEPTET」(FTARRI MEENNA−333)
こういう演奏をCDにしようとしたことがまずすごいと思う。とにかく、セプテットというぐらいだから七人編成なのだが、全員の音量があまりに小さすぎて、なにをやってるのかさっぱりわからない。しかも、最初はピアニシモだが、そのうちにだんだん大きくなっていく……というのではなく、ずーーーーーーーーっとそうなのだ。音が小さいなら、オーディオのボリュームを上げればいいじゃんという意見もあるだろうが、そんなことをしてもほぼ一緒である。そもそも、普通の音量で聴いてこそ、アルバムの趣旨というか演奏意図がわかるはずだから、上げてはいかんのだ。それでも普段よりはかなりでかい音で、じっと聞き耳を立てていても、20分ぐらいは、ほぼなにも聞こえない。ようやく20分を過ぎたあたりから、ものすごーく小さな音での「会話」が行われていることがやっとわかってくるが、ネズミ同士の会話を深夜に聴いているようなもので、普通の音楽を聴く感覚では「無音」に等しい。21分を過ぎたところで、おそらくギターと思えるものがベーンと鳴るが、それがものすごく大きな音に聞こえるぐらい、すでに耳が静寂に慣れてしまっている。これはたしかにすごい。すごいといえばすごい。そのベーンをきっかけに、全員がほんの少しアクティヴになって、音が増えていく……ような気もするが、そうでない気もする。とにかく必死になってスピーカーと向き合っていないと、なにが起きているのかさっぱりわからないのだ。これがライヴだったら、ミュージシャンの動きで少しはわかるのだろが、CDだとそういう手がかりもない。27分ぐらいで、またギターがベーンと鳴り、ハッとする。この異常なまでの自己抑制というか、緊張感がなくなるギリギリのところでミュージシャンたちが音を出さずに堪えている感じというのは、なんだろうね、ストイックな感動があるな。ちょっとごそごそして、あ、ここから行くのかな、と思ったら、また、ぐーっと抑えてしまう。この徹底ぶりは、普段、やかましい音楽を聴いている身には斬新過ぎる。33分ぐらいから、けっこうカタカタ……ガタガタとうるさくなるが、正直、食卓で茶碗をカタカタ揺らしている程度の音量なのだ。またしても、ここから行くのか、と思ったら、それはそれで、ほかのひとの音を誘発することなく、沈んでいくのだ。どないなっとんねん! 突然40分ぐらいのところで、笛のような音が、けっこうなボリュームで入ってきて、これまたギョッとするが、それもそれだけで終わり。というわけで、一曲目は47分もあるというのに、ほぼ、衣服が擦れる音や、足音程度の生活音ぐらいの音が入ってるだけで終わってしまう。これを快挙というか暴挙といわずしてどうする。たぶん、録音機材の入力メーターはほとんど揺れてなかっただろうなあ。これぐらいの音、七人もいなくてもひとりでも十分出せる。いやいや、というか、家のなかで録音機を回しておいたほうがずっといろいろ録れてるだろう。皆さんいろいろ楽器とか機材を使っているようだが……いる? ほんと、すごい試みだと思う。では、20分ほどの2曲目は、さぞかし全員が丁々発止と音を出しまくっているのだろうと思ったら、うわあ……やっぱりそうか、これも同じなのだ。まあ、1曲目よりは少しはいろいろな音がアクティヴ(といっても、かなり小さい音だが)に発せられてはいて、普通のフリーインプロヴィゼイションに「やや」近いともいえるが、とくに7分過ぎぐらいから出現(?)する時計みたいなカチカチ音的リズムは1曲目にはまったくなかった音だ。なにしろそこからずーっと鳴っているのだからね。でも、その音にほかのメンバーがガンガンからんでくる、とかそういうこともあまりないなあ、と思っていると、10分過ぎぐらいから、なにがしかの反応が聞こえてくる。でも、小さい。小さいぞ。11分半ぐらいで、ギターがベーンと鳴り、尺八的な笛の音がボーッと、けっこう大きな音量で聞こえ、うわっとなるが、それをきっかけに延々続いていたカチカチ音が消える。そしてまたあいかわらずの消音世界になるが、またしても15分ぐらいでギターがベーンとなり、尺八的な音がボーッと鳴る。このふたつはペアなのか、とようやく気付く。16分半ぐらいから、ぎりぎり……というのこぎり的なノイズが出現。ああっ、でももうあと2分しかないぞ。結局、そのまま終わっていくのです(わかってたけどね)。あー、しんど。とにかく抑制の美としか言いようがない演奏が延々展開する。ご立派です。というわけで、なかなかすごい試みだとは思うが、もう一度このCDを真剣に聴き直すことがあるかどうかは微妙だ。全員対等の演奏だとは思うが、便宜上、一番最初に名前の書いてある直嶋岳史さんの項に入れておく。