goku nonaka

「OVER DRIVE」(MANISH RECORDS MR−0591)
のなか悟空&人間国宝

 私もいろんなアルバムにライナーノートを書いているが、このアルバムのライナーはかなり自分でも気に入っている。内容的にもメンバー的にも、人間国宝の最高傑作だと思うよ。曲は全部いいし(スタンダードである「マイ・フェイヴァリット・シングス」とガトーの曲と、映画音楽「シャレード」と近藤のおなじみのオリジナル「マッコイ」だが、なぜかマイナーキーのものばかりで、しかも曲調も似通っている)、演奏も気合い入りまくりだし、こういうバンドがよく陥る「気合いが空回りして、その場では迫力があっても、あとで録音を聴くとすごくダレている」状態にもまったくなっていない。ずっと、いい感じのテンションが持続しており、しかも、それがたびたびボルテージを超えるような昂揚を示す。じつに理想的な演奏展開のものばかり。パーカッションのゲストもよく効いているし、ほんと文句のつけようがない傑作中の傑作なのである。とくにリーダーののなか悟空の激しいプッシュとドラムソロ(とにかく叩きまくっているが、全然大味じゃない)、そして私が日本でも有数のテナーだと思ってる近藤直司(似たようなスタイルのテナーはけっこういるが、実際には彼が頭ひとつ抜けている。とにかくテナーの咆哮の理想形なのである)のふたりは圧倒的なパフォーマンスを聴くだけでも価値絶大である。でもなあ……録音がなあ……それだけがこのアルバムの欠点だが、べつにスウィングジャーナルゴールドディスクにするわけじゃなし、家で聴いて興奮しまくるにはこの録音でも十分ですよ。まあ、この手の音楽のファンは中古屋で見つけたら必ず買っておくべし。にんこく(人間国宝のこと)を聴いたことがないというひとにも、本作はおすすめいたします。

「DULL」(TRANSISTOR RECORD TAX−028)
のなか悟空&人間国宝

CDのレーベル面に「このCDは爆音で聞かないとしらけます」と印刷されている。これは制作者とミュージシャンの一種の照れ隠しなのかもしれないが、たしかにこういう演奏を音をしぼって聴いてもつまらんとは思う。でも、爆音でなくても、そこそこの音量で聴いても十分良さはわかります(そこそこの音量というのがひとによってちがうとは思うけど、ここではドアを閉めて、ヘッドホンでなく、スピーカーで聴いて、家族や近所からぎりぎり苦情がこない程度の音量という意味です)。ニンコクのアルバムはどれも録音がよくないが、これはしかたがないと思う。バランスだのなんだの言うとれるか! というノリなのだろう。だから、楽器同士の音がかぶってマスクしあい、それぞれの楽器の解像度が悪くなり、いきおい、大音量で聴かなくては聞き取れない音が出てくるのだろう(とくにテナーがわりを食っているが、生楽器だからしょーがないよなあ。私は近藤さんのスクリームの大ファンなので、もうちょっとリアルに録音してほしかったけど。とにかく近藤直司ほど、獅子吼とか絶叫とか悲鳴とか金切り声に命をかけているテナーマンは稀であるが、テナーとはもともとそういう楽器なのである。うまいとか下手とかを超越して、近藤は「叫ぶ男」なのである)。でも、いいではないか。とにかくこの熱気、ただごとならぬ、サウナのような熱気、異常なまでの汗の量……そういった現場の雰囲気だけでも感じ取れればいい(その意味では、徹頭徹尾全員が吠えまくる3曲目が白眉か? でも、やっぱり後半そうとうどさくさになるが、それもまたこのバンドらしくてよい。4曲目もいかにもな感じでめっちゃ好きです。近藤のガトー・バリビエリを連想させるダーティートーンとコブシまわし、ここぞというところでのドスのきいたスクリーム……すばらしい! ああ、もうちょっとテナーがまえに出た録音になっていたら天下の大名盤なのになあ……)。そもそもきっちりブースに入って……みたいな録音のしかたができるようなバンドではないし、やる気もなかろう。こうしてそのときどきのニンコクの音が記録されているというだけでも「ええこっちゃ」と思う。きっちりといい音で録音することによって、このバンドの熱気が少しでも削がれるならばそちらのほうが大きな損失だ……そう考えましょうよ皆さん。これを聴いて、ライヴではどんな風に聞こえているのか、想像せよ。想像せよ。想像せよ。

「CHICHITO」
野中光政・川下直広

 CD番号とかレーベルとか全然わからん。だが、そういう小賢しい(?)情報はこの演奏にふさわしくない。ただ聴くのみ。それでよい。録音状態はそれほどよくないが、これはひとつの記録であり、真剣に耳を傾けているうちに、その「記録」を押し破るようにして「熱」がほとばしりでてくる。テナーとドラムのデュオ。なんのギミックもない。剥きだしのふたりがひたすら汗みずくで闘う。寄り添うとか、合わせるとか、インタープレイとか、そういったいわゆる即興説明用語がもっとも似つかわしくない演奏。でも、じつは大きな意味あいにおいてこの二人は寄り添っており、合わせており、交歓しており、愉しんでいる。全力で疾走してひたすら力まかせに無茶苦茶やってる、という風に思うひともいるかもしれないが、そんなことはありません。とくに川下さんのテナーは、この長尺の即興においてさまざまなアプローチを繰り出しており、悟空さんもそれにいちいち反応している。その逆もある。もちろん、そうでなければ音楽にならない。あたりまえのことだが、この35分一本勝負をちゃんと客に飽きさせることなく聴かせる妙がちゃんとある。それは、演奏中にいちいち考えているわけではなく、ふたりのミュージシャンのこれまでの蓄積によるものだ。しかし、やはりここは、そういうことをわかったうえで、力任せの豪腕だ、一直線に気合いと情熱で吹きまくり、叩きまくってるだけだ、むずかしいことはひとつもありません、みんな頭からっぽにして聴いてくださーい、と(わざと)言ってしまいたくなるような演奏。見せ場、聴かせどころはいーっぱい用意されている。それを、フリージャズとしてのお約束だ、とか、結局予定調和だ、とかいうやつは馬鹿だと思う。そんなことどうでもいいんです。ただし真剣に聴かないと、なーんにも面白いことありませんので注意。ああ、もうちょっとテナーがでかく録音されてればなあ。22分あたりでテナーの無伴奏ソロになるあたりの荒っぽさがじつにいい手触りだ。聴き終えて、ふたりにお疲れ様でしたといいたいが、聴いてる私もお疲れ様なのである。スポーツだけでなく、音楽でも小説でも、そういう心地よい疲れというのはある。

「@井川てしゃまんく音楽祭」(BUMMEY RECORDS 002CD)
のなか悟空&人間国宝

 2016年8月の演奏なので、これが今の人間国宝ということである。ときどきこどもの声が入る。でも気にならない。注記もされているが1曲目の途中11分目ぐらいのベースソロのときノイズが入る。でも気にならない。これまでのCDとレパートリーがほぼ一緒。でも気にならない。しかもマイナー曲ばかり(これはこのバンドの特徴)。でも気にならない。つまり演奏が凄すぎてそういった枝葉末節はまるで気にならないのである。
 1曲目の冒頭、意外にもグッと抑えた感じのドラムソロで幕開け。これまで悟空さんはこういうときは、いきなりぶちうますぜとばかりドカドカドカドカとフルパワーで叩きまくり、見たか! と見得を切るようなイメージがあるが、うーん、悟空さんも枯れた演奏をするようになったか……と一瞬思った。しばらくするとヒゴヒロシさんのエレベがからんできて、ふたりでスペーシーな演奏に。これも抑えた感じ。ふーん、こんな風に続くのか……と思っていると、テナーが「マイ・ファイヴァリット・シングス」のテーマを荒い音で奏ではじめ、ソロに突入すると、一気に阿鼻叫喚、気温上昇、血液沸騰のフリーキー地獄になる。これだこれだ、人間国宝はこうでないと! と叫びながら、スピーカーのまえで拳を振り上げる。じつは何年かまえに京都で悟空〜近藤デュオというのを聞いて、たしかにパワーは衰えていないが、昔はもっと手数が多くて短い小節数に目いっぱい音を詰め込んだ、つまり、パワーやワイルドさの面で語られることが多い悟空さんだが、テクニックもめちゃくちゃあるひとで、それがあのえげつない演奏を支えていたわけで、やはりのなか悟空も歳なのか、いや、まだまだ十分聞きごたえはあるけどね……と思っていたのだが、今回のCDを聞くと、パワーもまだまだあるしテクニックもすごくて、しかもいい具合に味わいがあり、押すところは押して抑えるところは抑えるという演奏になっていて、ものすごくしっくりくる。テナーソロのあとヒゴさんが本領大発揮のソロをして(ここでノイズが入る)、そこから悟空さんのドラムソロになる。2曲目はバリサクで「ロンリー・ウーマン」。たしか、近藤さんが永田利樹、瀬尾高志のツインベースで吹き込んだ「デザイアレス」というLPでもこの曲をやっているはずだが未聴(CDは聴いたがそれには入っていない)。テーマを吹くだけでも十分にかっこいい。ええ音してるよなあ、このひとは。そのバックで叩きまくるドラムはものすごく的確である。3曲目はドラムの激しいソロからはじまり、その音量が小さくなり、ベースが入ってきて、あれ? どうなるの? と思っていたら、テナーが「シャレード」を吹きはじめるといつもの破壊的な音圧に一気に高まる。近藤直司のテナーを聴いていると、サックスは気合いであること、そしてその気合いをコントロールするのが重要だということがわかる。このひとのスクリームは、マジで日本一私のツボに来るのだ。ずーーっとグロウルしているし、ずーーっとスクリームしているが、それがいいんだからしかたがない。ヒゴヒロシさんのファンキー(?)なベースソロ、そして、最初はしずしずと不気味にはじまり、次第に煮えたぎっていき、ついには噴火する。パワーといい、ロールの粒立ちといい、安定感といい、それを崩そうとする破壊力といい、いやー、のなか悟空健在! 凄い! ラストのテナーのフリークトーン! こんなんだれでもやるやん、と思うかもしれないが、いやいや、近藤さんのは一味違うのです。4曲目は近藤直司の名曲「マッコイ」。いつもめちゃくちゃ速いテンポで演奏される。テーマ後はフリーになり、テナーが暴れまくるが、その底にはちゃんとその速いビートが流れている。ええぞ、かっこええぞ、近藤! このひととか広瀬淳二さんとか聴くと、やっぱりラーセンのメタルがいいのかなあ……と思ってひそかに吹いてみたりするのだが、やっぱり吹き負けしてしまうのだ(とくに低音)。こういう音をいっぺん出してみたいもんですよ。そのあとドラムのロングソロになって、ここはもうやりたい放題。そしてテーマ。さわやかすぎるMCのあと、「せーの」の掛け声とともにアンコール曲「ダル」に。これはひたすら全員で暴れる短い演奏。近藤さんはバリサク。いやー、ええもん聴かせてもらいました。1曲目のベースソロのノイズはともかくとして、これまでに出た人間国宝のアルバムのなかではいちばん「音がいい」のではないか。

「月蝕の夜」(地底レコード B83F)
蓮根魂

 タイトルといい、バンド名といい、メンバー(和楽器奏者がふたり)といい、格調高い即興と邦楽の融合が聴けるのかと思った。もちろんそういう側面もある。横澤和也というかたは石笛、篠笛、フルートの世界では第一人者であるらしい。大由鬼山というひとも尺八奏者としてはすごいようだ。西田紀子というひとはシエナのメンバーだというからクラシックのフルート奏者としてバリバリなのだろう。そして、西村直樹は言わずト知れた上々颱風のベーシストである。問題は、ドラムがのなか悟空であることで、しかもインプロヴィゼイションの1曲をのぞくと、4曲中3曲が悟空氏の作曲なのだ。しかし、こういうメンバーだから、おそらく悟空さんもいつもの凶悪なドラムを封印して幽玄の世界に溶け込むのか、と思ったわけだが、聞いてみると、事前に勝手に想像していたのとはまるでちがった音楽だった。まず、このなかでは正直いって悟空さんがいちばんおとなしい、というか、ちゃんとフリージャズ的な即興をやっているように思えるぐらい、全員がかなりめちゃくちゃ好き勝手、いや、奔放な演奏をしていて、1曲目の完全即興による曲など、冒頭、いきなり(おそらく)横澤氏によるホーミー的なヴォイスのソロではじまり、全員による間と距離感ばっちりのインプロヴィゼイションが展開するが、ところどころダレ場がある。しかし、こういう演奏でダレることを恐れる必要はまったくなく、逆に全編が美味しい部分ばかりつぎはぎしたような、あるいは破綻を恐れて置きにいったような即興のほうが気持ち悪い。何箇所かすばらしい瞬間があればそれでいいのだ。そして、そういう神がかった瞬間は随所にある。そういう意味でひじょうに真摯で、ていねいな演奏だと思った。そして、凛とした笛の音色とフレーズは、和音階というものの持つ力を再認識させてくれる。ところが、である。2曲目は突然、どこかの音頭か民謡のような、下世話なテーマではじまり、ひたすら「ドンドコ、ドンドコ、ドンドコ、ドンドコ……」という単純なリズムと、「どうしたどうした」とか「やっせいやっせい」といった祭の掛け声っぽい合いの手(?)が炸裂し、笛やフルートも祭りだ祭りだ! という感じの5音階のシンプルきわまりないフレーズを吹き続ける。ドラムソロも和太鼓的な超単純な力技のソロで、なんじゃこりゃ! 幽玄どこいったんじゃ! と叫びそうになるが……これがなかなか燃えるのだ。不思議なもんですなー。しかし、急に下世話になったなあ、と思っていると、3曲目はフリーな感じのドラムソロではじまり、3拍子のモードジャズ風になって、笛がハードなソロを繰り広げる。なかなかのハードボイルドな演奏だ、と思って聴いていると、ブレイクで突然「ゲゲゲの鬼太郎」になってしまうというソフトな演奏であった。それをのなか悟空のフリーなドラムソロがぎゅっと締める。4曲目は大由鬼山さんの曲で、フリーなインプロヴィゼイションではじまり、尺八の朗々とした響きが和音階というより、マカロニウエスタンのような冷徹でかっこいい旋律を吹きはじめる。ニ管のアンサンブルになっていて、和でもあり、フリーもあり、ファンキーでもある。後半ビート感のない即興になるあたりは私の好みでもあります。最後の尺八のカデンツァ的な部分は、吹き方はまさに尺八だが、フレージングは和旋律から離れていてかっこいい。ラストの5曲目は「あと2泊3日」という変なタイトルの悟空さんの曲だが、変拍子のテーマのあと、めちゃくちゃ速い4ビートになる。野蛮ギャルドとか気合い、根性……みたいなことばかり前面に出ている悟空さんの「上手さ」が光る演奏。めちゃくちゃ上手い。しかも、音の小さい、繊細な和楽器に対して、ときには情け容赦なくフルボリュームでぶつけ、ときにはぐっと音を小さくして繊細な表現に寄り添う悟空さんはすばらしい。ただ、ラストが唐突に終わるのはなぜ? サックス的なリード楽器や金管類がない、「笛」系中心のアンサンブルなのでなかなか珍しいと思うが成功している一枚だと思います。しかも、曲がどれもいい。幽玄と下世話のあいだを揺れる異色の作品! だれのリーダー作かわからないので、一番作曲数の多い悟空さんの項に入れた。

「元祖人間兇器」(ARAKAWAZOUEN RECORDS KWSM−A−005)
元祖人間兇器

 のなか悟空率いるトリオ。元祖でない人間兇器もあって、そちらは大編成。しかも本作のライナーにおいても「兇器」と「凶器」が混在していて、どちらが正式なネーミングかわからない。しかーし! そんなことはどうでもいいのだ。悟空さんといえば、人間国宝での川下直広、近藤直司とのコラボレーションが印象的なので、テナートリオと反射的に思ってしまうが、本作での(アルトの)立花秀輝との演奏はすばらしいの一言。立花さんは、AASや不破ワークスなどなどの演奏で超有名なアルト奏者だが、おそらく世界一変態的なボキャブラリーが多彩なひとで、本作でもその本領が存分に発揮されている。しかも、(板橋文夫や小山彰太らとスタンダードを演奏したあの傑作でもわかるように)バップ的なラインや哀愁のメロといったストレートなソロを吹いても凄いんだらかねー。(あとでも触れるが)一曲目のドラムソロの途中からの、ひたすらマルチフォニックスというか雑音というか絶叫というか、そういうノイズを吹き続けるあたりの大馬鹿さは、伏して教えを乞うしかない。そしてベースの一之瀬大悟というひと。すごいすごい、と最近噂には聴いていたがやっと聴けた。いやー、それにしても頭がおかしいとしか思えないアルバムである。タイトルが「元祖人間兇器」というのからして狂ってるが、曲名が「狂気フライングニー」「侠気バックドロップ」「凶器パワーボム」というのだから狂ってるし、ライナーの方には「人間兇器」ではなく「人間凶器」と二箇所も表記してあるのも狂ってるし(そんなことはどっちでもいいのだ! という宣言だろう)、悟空さんの書いたライナーノートの立花さんについての文章はほとんどなにも言っていないに等しくてこれまた狂ってる。では、肝心の演奏はどうかというともちろん狂ってる。一曲目は「お手柔らかに!」という言葉からはじまる、まーったくお手柔らかではない演奏。テナーのように図太い低音からはじまる立花のソロはサックスから出るおよそ考えられるかぎりの変な音を集めた、というようなオルタネイティヴな奏法のオンパレードで、もうめちゃくちゃかっこいい。暴れるドラムとベースのまえで低音部だけで哀愁のメロディーを吹く場面も、普通ならアルトの高音部で吹くべきだと思われるのにあえて低音にこだわっているのだろう。軋み、唸り、歪むドスのきいたアルコベースのスピード感もすばらしい。14分過ぎぐらいからはじまるドラムの激烈なソロはのなか悟空というドラマーの「現在」を表している。上手いのだ。めちゃくちゃ上手いのだが、それを上手いと感じさせないぐらいのパワーがある。日々の精進の賜物としか言いようがない。そして、そこにかぶるベースと「ぴぎゃーっ」とひたすら言い続けるアルトの絶叫は至福! とくにアルトについては、どうかしてしまったんじゃないか、と心配になるぐらいの狂乱のブロウだ。そして、アルトがふつうに高音部に転じてからはよりいっそうトリオの過激度が増していき、ベースのなんだかよくわからないバキバキいうえげつないソロから、また新たな展開になる。アルトが変態的なちゅばちゅばいう音を出し、ベースが(たぶん)弦をスティックで叩き、狂ったヴォイスが飛び交い、戦場のようになる。フリージャズ的になっていくドラムとベースに比して、アルトは「まるでアルトを吹いたことがないひとがアルトを吹いている」かのような、でたらめにしか聞こえないようなフレーズ(?)を延々吹きまくり、ここも壮絶である。ドラムがブラッシュに持ち替え、アルトが切々と、朗々と美しいメロディを奏で上げ、ベースも野太いアルコの音でそれに応じる。え? さっきのめちゃくちゃな演奏はなんだったのだ……と言いたくなるような展開だが、これが次第に壊れていくのである。ドラムソロのときに「いえいえいえいえいえ……」とか歌い続けているのはだれだ(たぶんあのひと)。そして、突然、爆弾が爆発したかのような三人による演奏になり、アルトが見事にストレートアヘッドなブロウをして、あれよあれよという間にびしっと終わる。いやー、すごいすごい。全員お疲れさまな一曲48分の怒涛の音楽ジェットコースター。そして、2曲目。へなへな……としたアルトとブラッシュ、そしてアルコベースではじまるが、隙間の多い即興が、ときに隙間が詰まったり、ビート感が出たり、またフリーになったり……を繰り返しながら進行していき、とても楽しい。7分ぐらいのあたりからインテンポになり、サックスはまたしてもわけのわからない音を楽しげに吹き続ける。ドラムが地面を這いずるような迫力のある演奏をはじめ、キーキーいうアルトに対して切れ目なくじわじわと襲いかかっていく。そして、ベースのピチカートでの「しゃべっている」みたいなソロになり、トリオでのええ感じのフリージャズになる。このあたりの、聴き手の想像力を刺激するような胸熱の展開を聞くといつも、「あー、これは俺の好きな音楽だ」と思うのである。いきなりクライマックスに達するような演奏もよいが、こうしてじりじりと燃え上がっていく炎がついに巨大な火の塊になるような演奏もこういう音楽の醍醐味であります。ラストに向かうところの悟空さんの狂乱のドラムは必聴! この曲が24分。そしてラストの3曲目は1分16秒の超短い演奏。これで締めくくり。いやー、すごいですね。これだけのパワーがあったら、音楽で世の中を変える、とかいうのもあながち妄想ではないような気がする。傑作。

「鎌鼬の里爆音ライブ」(地底レコードB86F・B87F)
騒乱武士

 めちゃくちゃ面白くて楽しいアルバムなのだ! でも、これをレビューするのは以前はさておき、今はけっこうむずかしいかもしれない。というのは、本作について「これこそがジャズだ! のなか悟空のもとに集まった野武士集団がどしゃめしゃにぶちかます熱気あふれるフリージャズ。ジャズは考えるな、理屈じゃねえ、感じろ! ぶっ叩け! ぶち壊せ! これは戦いだ!」みたいな昔ながらの直情的な感想を抱くのは当然のことだが、その奥にもっとなんだかわからないけど深いもの、変なものがあって、それをうまく文章化するのが困難なのだ。以前は人間国宝に絞った活動をしていたと思われる悟空さんが今、人間国宝だけでなく、この騒乱武士をはじめ人間凶器、元祖人間凶器、蓮根魂……といった複数の、それぞれコンセプトのちがうバンドをしている。それにもきっと意味があると思う。なぜ、今コレなのか。いや、今こそコレなのか。たぶん悟空さんにたずねたら、俺はずっと変わらないよ、という答が返ってくると思うのだが、この音楽をかつてのフリージャズ全盛期のよすが的なノスタルジーで語ることも、いまどきの音楽じゃないけどこういうのいいよね的なしたり顔で語ることも私にはできません。なぜなら、これは永遠の価値のある音楽だからである。デキシーやスウィング、ビーバップ、モードジャズ……などが今も真摯に演奏され続けていて、そこに新しい息吹が吹き込まれ、日々改革されているように、フリージャズも当然そういう状態にある。しかし、ここで聴かれるような、ぶっ叩け、吹きまくれ、倒れるまでやれ、死んでも吹け……みたいな熱血な演奏に関しては、こういうのはもう古いです、の一言で片付けられてしまいそうである。気合いと根性よりクールなインプロヴィゼイションが求められている……というともっともらしい。だが、じつは実際のライヴの場においては、聴衆の心をつかむのはこういうひたむきで、真っ直ぐで、でたらめなエネルギーの発露であって、それをうまくコントロールしてひとつの芸術に結晶させるだけのコンダクションがあれば、現在もこういう古いフリージャズの方法論は多くのひとの心をわしづかみにする。「古い」と書いたが、この言葉にひっかかるひともいると思う。でも、たとえばスウィングは古い、ビバップは古い、印象派は古い、バロックは古い……といってもだれも文句は言うまい。フリージャズだけが、前衛だからつねに新しくないと……という言葉の呪縛にとらわれているから、古いという言葉に引っかかるのだ。フリージャズだけでなく、どんなジャズも、どんな音楽も、古くて新しい……という状態を保てば永遠の命を得ることができるのだ。そして、演奏する側は、俺たちはこれが好きである、という強い気持ちと意気込みがあれば、古い皮袋にどんどん新しい酒を注ぎこむことができる。本作はそういうアルバムである。
 のなか悟空率いる騒乱武士が土方巽ゆかりの秋田県田代の通称「鎌鼬の里」で行ったライヴを収録した2枚組。ここには現在「鎌鼬美術館」があり、そこで年一度「鎌鼬音楽祭」が行われている。2018年に行われたライヴの模様がこのアルバムである。その背景や当日の模様はライナーに詳しく記されていて、このCDではわからないが、外国人ダンサーが20人も踊り狂っていたらしい。騒乱武士のメンバーは「予定のあいてるひとが参加する」という流動的なものだが、このときは立花秀輝や加藤一平らも参加している。内容は、さっきから書いているが「古いタイプのフリージャズ」であって、つまり私のいちばん好きなやつである。こういうのがなんといっても私の生きていく糧なのである。この「古い」タイプのフリージャズというのはさっきも書いたけど誤解を招きそうな表現だが、フリージャズ初期のこのドロドロのマグマのような熱気を今も内包している「アコースティックなパワーミュージック」だと私は思っている。フリージャズも誕生して60年にもなるのだから、そういう言い方をしてもええんちゃう? この言葉も誤解を招くと思うが、「アコースティック」というのはライヴエレクトロニクスやシンセ、エレキギターなどなどももちろん含み、その場でアンプから音を出してさえいれば私にとっては基本アコースティックなのである(めちゃくちゃ)。というわけで、本作はいわば正攻法ど真ん中のフリージャズ、いや、私に言わせればこれこそが「ジャズ」の王道なのだ。「古い」と「古臭い」はまるっきり違う。ニューオリンズジャズでもブルーズでも、バロックでも「ええもんはええ」のであるが、それはなんとも当たり前のことである。新しいものがよいかどうかわからない、というひとに対して、「新しいものは、それを生み出そうとする最前線での努力が必要なのだから、そこを評価すべき」などというわけのわからない評価軸を持ってこられても困るだけだ。この音楽を、情熱と汗と気合いのフリージャズ、とか、とにかく気持ちの赴くままどしゃめしゃやった演奏、うまくいこうがいくまいがひたむきにぶっ倒れるまでやる、それがフリージャズ……みたいな風にとらえるひともいるだろうし、そういう発言もときどき見受けられるが、それは高校球児が夏の炎天下に水も飲まずにプレイしてぶっ倒れて死ぬのと同じで、無意味である。ここにあるのは、そういう風に見えて、じつは巧みな計算とエンターテインメントとしての演出と、そして芸術としての深みのある、手ごたえのある音楽だ。おそらく悟空さんはそんなことを言うと「なにも考えてないよ」みたいなことを言うかもしれないが、たぶんめちゃくちゃ考えている。でないと、2枚組という長丁場が聴くにたえる演奏ができるわけがない。本作に収められているのはずっと言い続けているけどフリージャズである。フリージャズはダレたりする。フリージャズをなるべくダレないようにしよう、としたのは山下トリオだが、私はダレることもある演奏も好きだ。アート・アンサンブル・オブ・シカゴなんてしょっちゅうダレている。でも、ダレる部分があるからこそその後の高揚がある。ダレるのを恐れていたら即興なんかできん……と乱暴だがそう思う。ここに聴かれる演奏は、山あり谷ありダレ場あり高揚あり……しかし全編真摯で手を抜かず熱気に包まれ緊張感を持続した演奏ばかりである。そして、限られた理解者のまえでわかるひとにわかるように演奏されたものではなく、秋田の田舎でフリージャズなどいっぺんも聴いたことのないひとたちを含む聴衆をまえに嵐のようにやってきて「ドカーン!」と噴火のごとくぶつけた「生身」の音楽なのである。強靭である。ベタである。原始的である。そして……案外繊細である。フリージャズというのは、目利き(?)の聴衆以外の客をまえにしたら無力なのか? いや,そうではない。その答の一端がここにある。
 1曲目は、集団即興からマイナーの人懐こい曲がはじまる。ソプラノソロからトランペットソロになるが、いかにもそのときその場で「今」を吹いているという感じのソロがいい。CDを聴いていても臨場感があるのはそういうことでしょう。ちょっとしたリフを手掛かりに演奏がつながっていく。ベースソロはえげつなくかっこよく、そのあとイントロのリフからテーマ。こういうのって私は「カウント・ベイシーの『ブルース・バック・ステージ』方式」と呼んでいるのだが、ちょっとしたテーマのリフが数々のソロでの高揚を経て、最後にはとんでもない爆発になる。2曲目(ほぼ途切れなく演奏される)はぐじゃぐじゃのフリーインプロヴィゼイションから「おなら臭い」というマイナーブルーズっぽいリフ曲になる。先発ソロは立花秀輝で、やはり音がめちゃくちゃでかくて輪郭がしっかりしているので録音もリアルにとらえられていてすばらしい。そのあとヴァイオリンのフリーなソロになるのだが、このあたりの自由奔放さも聴きどころ。いやー、ドラマチックです。ラストにテーマに戻るところの強引さもかっちょいい。そこからまた集団即興になり三曲目に移行。フルートがかなり活躍する。またしてもマイナーのリフがテーマ(3曲続いて。「人間国宝」の曲もマイナーが多いが)。でも、こういう短いリフが印象に残るのだ。テーマのあとブレイクになって、フルートが吹きまくる。そのあと全員が入ってきてもフルート主体の演奏。フルートというかわいらしい楽器が暴風のように吹きすさぶ。このグループがたんに力任せの演奏をする集団でないことこの部分を聞くだけでわかるし、このフルートのひとの力量がすごいこともよくわかる。そのあとギターの加藤一平らの、圧倒的なすべてをぶち壊し、また再生するような演奏。そしてテーマに雪崩れ込む。かっこええ! 4曲目はフルートが旋律を吹きヴァイオリンがからむ、これまでとはまるでちがった夢幻のように美しい小品。メンバーのコーラスが入り、キャンプファイヤーのような、ちょっとうるうるするような演奏がはじまる。まさにこの鎌鼬の里での演奏会にふさわしい。フルートの素朴なラインのソロとコーラス、変な掛け声(?)などが入り混じり、そこからアルトのノイジーなソロになる。「みのりちゃん」がだれなのかはわからん。5曲目は悟空さんの「しょうがねえなあ。しょうがねえんだよ……」というぼやきからはじまる演奏で、おそらく現場ではかなりウケたのだと思うが、こうして録音で聞き返すと、「?」となる……かもしれないが、これこそがライヴでありこれこそフリージャズである。「しょうがねえんだよ。しょうゆはあるんだけど」……ええやんか! と私は思う。しょうがない、というのはケセラセラである。ブラスバンド的なストレートアヘッドな曲がはじまる。楽しい。コーラスも加わる。これでええ! これでええねん! しょうがない……のだ! ソプラノソロ、トランペットストレートなソロがリレーされ、ベースがそれを破壊する。そして、悟空さんのドラムを中心とした爆発から激烈なフリーインプロヴィゼイションになり、そこから突然ボーイスカウトか! というか歌声喫茶風になって爆笑。2枚目にいって1曲目。ヴァイオリンが主導するペンタトニック的なメロディにほかの楽器がまとわりつくようなルバートのアンサンブルが延々続き、7分を越えたあたりでやっとインテンポのファンキーなハチロクのベースラインが登場し、テーマとなる。立花秀輝の、音の太い力強いアルトソロになるが、こういうのはフリージャズでもなんでもなく、ただただ「いいジャズ」「いい演奏」なのである。続いて天神直樹のきらきら星を引用しながらも張り詰めたトランペットソロ。コンダクターでもあるクラッシーのパーカッションソロのあと、テーマに戻る。コーラス入りとクレジットがあるが、どこに入ってるのかわからん(ヴォイスみたいなのは聞こえるけど)。二曲目は「荒木一郎が好きだから」というわけのわからないタイトルの曲。昭和歌謡的なメロディだが、すごくいい曲。リズムが強調されているところが昭和歌謡とはちがうが、天地真理や「他人の関係」などを連想するキャッチーなテーマ。ギターソロがフリーキーに爆発し、狂ったドラムがそれをあおりまくる。この2枚組の白眉といっていい部分。音楽的、即興演奏的にいうと、たぶん「普通」であるこの部分が、銛をぶち込まれたような衝撃とともに聞き手を襲うのだ。これは理屈ではなく、原始的な、人間が根源的にもっている「めったやたらにぶっ叩け」「吹きまくれ」「弾きまくれ」「ひとよりでかい音を出せ」……という衝動を満たすからだと思う。いやいや、いまどきそんな風に音楽してるなんてアホですよ、という意見ももちろんあるだろうが、ここに集うミュージシャンたちはもちろんそんなことは百も承知で、そのうえであえてこういうプリミティヴな表現をしているのだ。3曲目もマイナー曲で、ぶっ速い3拍子のうえでヴァイオリンの自由なソロが展開する。そのあとブレイクになってフルートのソロになる。とても「騒乱武士」の名にふさわしい演奏ではなく、美しい即興アンサンブルが続く。かっこいい。4曲目はまたまたマイナー曲で、チンドン的、タンゴ的な哀愁のメロディが次第に速くなっていく。そこにトランペットソロが加わり、ますます加速していく。そして、急にゆっくりになり、また速くなる。こういうのはお約束なのだが、とても自然だ。自然に血湧き肉踊るのだ。五曲目はフルートやギターのバッキングを背景に「作文」(?)的な文章を読み上げるというパフォーマンスで、そのあとコーラス(?)が卒業式の校歌みたいな感じで歌い上げるというわけのわからない、その場にいるものしか理解できない、普通はCDではカットされるような部分もしっかり入っている。そして、ラスト6曲目はめちゃくちゃ速いテンポの「日本男児」というタイトルの曲でソプラノがフィーチュアされたあと、一瞬ぐちゃぐちゃになってからヴァイオリンの無伴奏ソロになる。パーカッションとドラムの溌剌としたデュオになり、テーマに突入。こういうところはコンダクターの腕ということになる。そして、なんといっても悟空氏の曲がいい。こんなもんただのリフやんけ! というひともいるかもしれないが、聞き終えて、さあ寝ようと布団に入ったとき、ここで聞かれる曲のどれかが頭のなかをぐるぐる回っていることに気づく。それはすなわち「名曲」ということだと思う。悟空さんは「オリジナル曲は1500曲ある」とうそぶいているそうだが、たぶんほとんどのひとは「ギャグは一兆個あります」というような漫才師のネタ的な感じでその発言を捉えていると思う(私もそうだった)。しかし、ここに収められている曲を聴いていると、なるほど、ただのリフではなく、ちゃんと心に残るキャッチーなものばかりではないか、と感心しまくる。まあ、そういうような小賢しいことを抜きにして心に突き刺さってくる音楽で、それはこのアルバムの客席の反応を聞いてもわかる。胸倉をつかまれ、揺さぶられるような演奏なのだ。騒乱武士は、人間凶器、元祖人間凶器、蓮根魂などと並んでのなか悟空氏が最近精力をかたむけているグループのひとつだが、関西でも演奏してくれることを切に願う。ジャケットの写真は土方巽を撮影した細江英公氏のもので、この迫力は凄い。そして、演奏内容も荒削りの包丁でぶった切るような迫力だが、じつはとても繊細で、ガーッ! という荒っぽい音の出し方のなかに細やかな感情が込められているのだった。よいフリージャズというのはたいていそうだと思う。

「人間狂器」
のなか悟空・立花秀輝・一ノ瀬大悟

 じつはタイトルがなんなのかもわからない。ジャケットには「人間狂器」とあるが、これがアルバムタイトルなのかバンド名なのかもわからん。しかもなかに入ってる「紙」(紙としか呼びようがない。メンバー名と録音日時・場所だけが印刷されたコピーなのだ)には「人間凶器」となっている。悟空さんは、本当にこういうことをきっちりしよう、というようなことには一切興味がないようだ。しかし、私にはそれが単に「興味がない」というより、「バンド名もアルバムタイトルもレーベル名もどうでもいいんだよ。中身を聴いてくれよ。中身が大事なんだよ」というメッセージのように思える。そして、内容はめちゃくちゃすばらしい。たった30分だが、異常なまでの集中力。よく「スピーカーのまえで対峙するように聴く」というが、自然にそういう風にせざるをえなくなるような真摯な演奏だ。しかし、遊び心もたっぷりあり、客のゲラゲラという笑い声もいっぱい聞こえる。前衛であり、エンターテインメントなのだ。そして、私はそういう音楽が大好きなのだ。悟空さんのなにげない一言のあといきなりはじまる激烈なドラムソロ……この部分がのなか悟空絶好調を聴衆に印象付ける。そして3人による凄まじい全力疾走。ハウリングのような立花秀輝のアルト、異常性を感じるほどひたむきな一ノ瀬大悟のベース、そして煽って煽って煽りまくるドラム(なんかわからないが金属製の板みたいなのをがしゃがしゃ叩きまくっている箇所もすごいよなー)。このドラムと共演しようと思ったら、よほどの覚悟と技術を持っていないと吹っ飛ばされてしまうだろう。そして、この30分の、聴きようによってはめちゃくちゃな即興の大爆発のなかに、実はとんでもない量の音楽性と楽器を操る技術力とタフさと集中力が込められているのだ。まっとうな技術もしかりだが、通常では使われないようなオルタネイティヴな変態的技術もこの3人はまっとうな楽器奏法と同様に練習して、自己薬籠中のものにしているので、説得力がすごいのだ。しかも、(正直な話)悟空さんのアルバムとしてはびっくりするぐらい録音が良い。この外観のしょぼい(すいません)CDが、のなか悟空の新しい代表作なのではないか、と私は思います。ほんま、めちゃくちゃ感動した。いまどきパワーミュージックなんて……と言ってるひとにこそ、このクライマックスのうえにクライマックスを重ねる演奏を聴いてほしい。あいた口がふさがらないとはこのことだ。最後の「一言」もいい。大傑作なので、もっと大勢のひとに行き渡るようにならないか、と思います。

「騒乱武士 LIVE@CON TON TON VIVO WITH 蜂谷真紀」(CHITEI RECORDS B100F)
のなか悟空

 このアルバムに関しては高野秀行さんのライナーがほとんど言い尽くしているので、私ごときがなにかを付け加える意味は正直いって、ない。騒乱武士というのは、人間国宝などと比べても悟空さんの個性というかリーダーシップが隅々までじわじわ行き届いているバンドで、すべてが悟空色に染まっている。といっても、個性豊かな、正直、音楽的にはばらばらなメンバーを自由奔放に演奏させながら、のなか悟空の音楽としてまとめあげている点が人間国宝との違いだろう。人間国宝は、同じ「フリージャズ」というものを目指してみずからを鍛え上げてきた少数精鋭のメンバーによる、最初から全員が完全に同じ方向を向いた演奏だが、ここではメンバーは別々の方向を向いていてもかまわないのだ(というか、悟空さんがそれを望んでこういうメンバーを集めた感がある)。それをまとめ上げてひとつの音楽に昇華させているのがリーダーののなか悟空なのだ。えっ? あんな野蛮なドラマーがそんなことをしているのか、と思うひとがいたら本作をもう一度聴き返したほうがいい。じつはのなか悟空というひとはリーダーとして繊細でメンバー個々の演奏に気を配り、しっかりとそれらをどう組み合わせるかを考えているのだ。もちろんコンダクションのクラッシー氏の力も大きいと思うが、リーダーの悟空さんとコンダクターの意志がしっかり統一されているからこそのこの即興アンサンブルなのだ。録音が少々悪くても、臨場感のほうを選択したのだろうと思うが、正直、悟空さんはわざと「録音にはこだわらない。こだわりたくない」という姿勢を貫いているのかもしれない。いい録音で聴いてもらうようなものは俺の音楽ではない、と。しかし、私としては最高の録音でののなか悟空グループの演奏を聴いてみたい、という思いもなきにしもあらずである。
 さて、個々の演奏についてだが、はっきり言って、1曲目の「おなら臭い」という曲で蜂谷さんが延々と「臭いわ〜!」とひたすら絶叫する演奏を乗り越えたひとだけがつぎのステージに進むことができるのだ。正直、めちゃくちゃ濃厚な演奏で、曲としてはシンプルなだけに、そのえげつなさがモロにかぶさってくる。なぜ、この曲をアルバムの1曲目にしたのか……という問題が襲いかかってくる。つまり、聴くひとを選ぶ音楽である、ということを露骨に、明確に、はっきりと1曲目で宣言した、ということなのだろうな。「なんじゃ、これは! 屁が臭いというような曲をなんで延々聞かされなあかんのや」というひとと「この変態的でパワフルでドロドロしたものの奥にはなにかあるのではないか……」と思うひとに分かれると思うのだが、本当はその両方をリスナーとして取り込むほうがいいわけである。しかし、悟空さんはそういうことを一切考えず、「おなら臭いがダメな連中は聴かなくていい」というメッセージをここで放っているのだ。それはもう理屈ではないのだ。のなか悟空のき生きざまなのである。
 この1曲目の印象があまりに強いので、2曲目はサンバっぽい曲でメンバーのガッツをかきたてる掛け声で盛り上げ、フルートをフィーチュアしたあと、混沌としたなかでめちゃくちゃ速いリズムが延々続くのだが、とてもさわやかに聴こえる。
 3曲目はお祭り騒ぎである。アイラーの音楽が祝祭日的ならばこの演奏もそうだろう。ソプラノサックスがフィーチュアされたあとはいきいきしたリズムのうえで混沌とした集団即興が続く。こういうのをやるとこのバンドは俄然魅力を増す。
 4曲目は蜂谷真紀のボーカルをフィーチュアしたマジのムード歌謡。天神直樹氏のプリミティヴなトランペットソロがフィーチュアされる。これでいいのだ。レスター・ボウイなのだ。
 5曲目は超アップテンポの曲で、冒頭から西田紀子氏のフルートがフィーチュアされる。このひとはシエナウインドオーケストラのメンバーだから、こういうブロークンなソロはある意味捨て身の演奏ではないかと思うが、カラフルかつパワフルなリズムにあおられて、どんどんフレーズが出てくる感じだ。なんだかわからないスキャットがフィーチュアされ、集団即興が延々と続く。異様な迫力と盛り上がり。
 6曲目は「ケーナの如く」というタイトルの意味はよくわからないが、R&B的なノリの曲。八方破れな感じのフルートがフィーチュアされたあとは例によって全員による集団即興になるが、蜂谷真紀氏のヴォイス、ノイズを貫く鈴木放屁氏のテナー、天神直樹氏のトランペットなどが心に染みる。
 7曲目は(たぶん)蜂谷真紀のピアノとフルートのデュオからはじまるバラードで、あまりの美しさに、というか「おなら臭い」とのギャップに驚く。小林ヤスタカ氏のソプラノがフィーチュアされる。歌詞も「お爺さんの翼、お婆さんの翼、みんな面白い翼で!」という箇所が泣ける。
 ラスト8曲目は「立たん」という曲で、21分超のいちばん長尺の曲。3拍子で、最初は豪快なフルートソロ。つぎはパーカッションソロだが、そのあいだもほかのメンバーは手を休めない。ヴォイスや鳴り物などで演奏を分厚くする。そして、鈴木放屁さんのテナーがひたすらノイズをぶちかまし、テーマに突入。10分過ぎぐらいで一旦終わるのだが、たぶんここからべつの曲になる(アンコール?)。鈴木放屁さんのテナーが炸裂し、そこにほかのメンバーもかぶってきてぐちゃぐちゃになる。こういう「ベースのビートは一定だが、そのほかのメンバーはやりたいようにやる」というのはこのバンドの特徴だと思う。ここでの悟空、蜂谷、鈴木のからみあいのかっこよさはすばらしい。そして、本作ではじめてと思われるのなか悟空のドラムソロになるが、いやー、これがかっこいいのである。延々と演奏をし続けてきてへとへとになった状態で、なおも絞り出すようなパワフルなソロ。そういう状態から「なにか」が出てくるのだ。血を流しながらガハハハと笑って叩きまくるのなか悟空に年齢は関係ない。余裕をもってきちんと叩くような演奏はのなか悟空にはふさわしくない。つねに全力である。今でも野外で爆音でドラムを練習し続けているのなか悟空さんの道標のひとつとして本作は記憶されるだろう。傑作!