「イロハウタ」(筆無精企画 FBPCD−001)
沖至ユニット
みんな、聴けよ、このアルバムを! 沖至といえば、「しらさぎ」の印象が強い。トランペットに電気的にエコーをかけ、めくるめくような空間を演出したあのアルバムは昔、よく聴いた(本当は、一番好きなのは、宇梶昌二のバリトンではなく高木元輝のソプラノが入った、「インスピレーション・アンド・パワー」に収録されているバージョンなのだが)。個人的には「殺人教室」よりも「ミラージュ」よりも「しらさぎ」を気に入っているのだが、このアルバムは「しらさぎ」と同じぐらい気に入った。共演は、登敬三、船戸博史、光田臣……といった関西の精鋭。しかし、これが2003年に録音されたアルバムだろうか。まるで、70年代、日本のフリージャズが初々しい輝きを放っていた時代の録音を思わせる、魂のこもった演奏がつまっている。船戸さんはさすがにいろんな意味で「かなめ」であって、ラインにアルコに大活躍。光田臣は4ビートを基調にしたドラマーだが、ここでは猛者たちのしかけてくるフリーなソロに、鮮やかなレガートでシャープに反応していてすばらしい。日本一音のでかいテナーと私が思っている登さんの最高の演奏がかくもリアルに録音されたのは、アルバムとしてははじめてだろう。一番すばらしいのは、そういった若い演奏家たちのエネルギッシュな演奏と比較して、沖至が一歩もひかぬ若々しいプレイを繰り広げていること、そして、彼のリーダーシップがはっきりと感じられることだろう。やっぱりフランスに行ってたのがよかったのだろうか。フリージャズのリーダーたちが、よくもわるくも次々と演奏形態を変化させていったこんにち、あのころのみずみずしい感性を失わず、より円熟してなおかつフリーフォームに根ざした演奏を続けている沖至には頭がさがる(往来レコードの諸作もすばらしい)。それを一番よい形でパッケージしたこのアルバムの成功要因は、やはり「沖さんが久しぶりに日本に帰ってきた機会をとらえて、セッションをしました」のではなく、バンドがきちんとしたユニットとして機能しているからだろう。曲もアンサンブルも、たくみにソロをもり立てている。もっともっと話題になるべきアルバム。こういうのを聴くと、スイングジャーナルの年間ベストみたいなものがアホらしくなってくる。ジャズジャーナリズムはこういうアルバムをもっとプッシュせんかい。現在、フリージャズはこうしたマイナーレーベルや奇特な有志たちの努力によってしか記録できない状況なのだから。惜しむらくは、ここに大原さんが加わっていたらなあ……と無い物ねだりしたりして。
「イロハウタ第2集」(筆無精企画 FBPCD−002R)
沖至ユニット
これは、上記「いろはうた」に収録しきれなかった残り曲や残りテイク計三曲をおさめたもので、CDRで限定300枚というかたちで発売されたもの。ジャケットもほとんど一緒なので、買うときまちがえないように。中身だが、たしかにこれは出したくなるわなあ、と思うような上質のテイクばかりで、とくに一曲目のフリーインプロヴィゼイションは極上。二曲目は藤井郷子の曲で、20分を超える長尺なので一集目に収録できなかったそうだが、いろいろ仕掛けもあり、場面もどんどん変わっていくので聴いていて長さを感じない。三曲目は「いろはうた」の別テイク。三曲ともすばらしい出来映えだが、さすがに一集目とくらべると、アルバムとしての統一感は若干うすい。だったら、最初っから二枚組にすればいいのに……というわけにもいかんのだろうな。とにかく、まずは第一集を聴いてからこちらを聴いてほしいが、二枚そろえる価値は十分にあるアルバム。メンバー全員よいが、とくに登さんの熱血ソロはいつ聴いても胸が熱くなる。
「ANTHOLOGIE PARIS−LYON」(OHRAI RECORDS JMCK−1011)
ITARU OKI
このアルバムは、「アンソロジー パリ〜リヨン」という名前どおり、パリの街やその郊外のあちこち、たとえば地下鉄の構内とか、街角の雑踏とか、公園とか、森の中とか……いたるところで録音した沖至と誰かとのセッションで構成されている。その「誰か」というのは、さまざまなミュージシャンでだけでなく、たとえば地下鉄の入ってくる音であったり、人々のガヤガヤいう声であったり、鳥の声であったり、野生の孔雀であったりする。そういったなかで、沖至はトランペットを吹き、笛を吹く。ときに朗々と、ときにしゃべるように、ときに口笛のように……。小品ばかり集めた一作なのに、なぜかすごい手応えがある。共演者はみなすばらしいが、古いフリージャズの良さも悪さも体現しているアーサー・ドイルがやはり圧倒的な存在感である。あと、孔雀も。ときどき取り出して聴くと、心がなごみ、何かをやろうという気にさせてくれるアルバムです。じつは沖さんの数多いアルバムのなかでも超重要作かもしれない、とふと思ったりして。
「殺人教室」(MOBYS 0013)
沖至
沖至のアルバムでいちばん好きなのは、「しらさぎ」もしくは「インスピレーション・アンド・パワー」に一曲だけ入っている沖グループの演奏(おなじ曲でほぼおなじメンバーだが、「しらさぎ」はサックスが宇梶昌二のバリサクで、「インスピレーション……」のほうは高木元輝のソプラノ。後者のほうがそのときの沖グループの演奏には合っていると思う)だったりするが、じつはアナログ時代に長いあいだ、このアルバムを聴きたくて、ずっと探していたのにめぐりあえず、CDによる再発で十年ほどまえにはじめて聴けた。ものすごく感銘を受けた。「しらさぎ」のようなふくよかで、ゆったりとした表現ではなく、ぎらぎらするような鋭い、抜き身のジャックナイフのように鮮烈で、切迫感のある血生ぐさいような表現に、鬼気せまる思いだった。タイトルの「殺人教室」というのも、どういう意味でそうつけたのか知らないが、内容にぴったりだ。当時のライナーを読むと、副島輝人と沖至、翠川敬基らとの座談会になっていて、そのなかで全員が繰り返し繰り返し、フリージャズではなくて「ニュージャズ」という言葉を使っているのが印象に残った。折に触れて聴きかえしているが、そのたびに、グループ全体から発せられる、異様ともいえる迫力というか、なにかに取り憑かれたような情念に打たれる。
「しらさぎ」(NADJA PA−3161)
沖至
これを最初に聴いたときは、マジで感動したなあ。きちんと言うと、「インスピレーション・アンド・パワー」に入っている「オクトーバー・リボリューション」のほうを先に聴いたわけだが、そちらも心底感動して、それでこのアルバムを聴いたのだ。「インスピレーション……」のほうはサックスが高木元輝のソプラノで、本作はそれが宇梶昌二のバリサクに変わっている。ソプラノとバリサク……対極にあるふたつの楽器が交替したことがグループにどういう影響を与えたかを聴くだけでもおもしろいが、私はあまりに「インスピレーション……」のバージョンに心酔していたため、本作のバリサクが一時期は重たく鈍重に感じたこともあった(正直な告白)。でも、もちろんそれはまちがいであって、宇梶さんのバリサクはめちゃめちゃこのバンドに合っている。沖至のアルバムでどれか一枚……といわれたら本作を挙げる……ような気がする(ほかにも傑作が多いからなあ)。A面いっぱいをしめる「しらさぎ」という曲は、4人のメンバーがテーマをあわせたあと、それぞれ一人ずつ、無伴奏ソロをする、という趣向で、最初に聴いたときはそのコンセプトにぶっとんだ。アート・アンサンブルにもそういう曲があるが、沖至のこの演奏はもっと徹底的である。真似して、私もあるバンドでやってみたことがあって、伊福部昭のラドンのテーマを全員で演って、そのあとひとりずつソロをする、というパターン。ようするにパクったのですが、うまくいきませんでした(あたりまえか)。このアルバムに関していつも思うのは、ライナーノートのことである。副島さんによるライナーがものすごく大げさで笑えるのです。たとえば宇梶さんのことを、
「まず通常のバリトンの音を出し、管を震動させてその裏の音をダブらせ、リードの処から出る高音をかぶせていく。このハーモナイズを音楽時間の中に溶解させた上で再構築していくとき、宇梶の大脳中枢は火と燃えているに違いないし、聴く者を緊張の断崖に立たせる。宇梶は時間の速度変更執行人。宇梶クロノス」
サックスのハーモニクス奏法のことをここまで大仰に書いた文章はなかなかお目にかかれません。申しわけないなあ、と思いつつ、「宇梶クロノス」の箇所でいつも笑ってしまうのだった。
「MIRAGE」(TRIO RECORDS PA−7178)
沖至
ピアノに加古隆、ベースに翠川敬基、ドラムに富樫雅彦……という最高のメンバーを擁した沖至の一大傑作である。「殺人教室」や「しらさぎ」で見せたアグレッシヴかつ現代的な機材を使用した演奏とはちがい、あくまでアコースティックに徹したワンホーンの演奏で、曲を大事にした、しかも全体としてみてハイレベルのフリージャズになっている、という魔法のような作品。ジャケットがあまりにかっこよくて、一時、部屋の壁に飾っていたほど。いつまでも豪放一直線なだけでは飽きてしまうし、かといって透かすような演奏ばかりでは禅味はあるかもしれないがはぐらかされた感がつきまとう。本作はストレートなパワーとリラックスとが、非常にバランスよく入り混ざった状態というか、即興もジャズもすべてを心得た4人が、すばらしい素材を得て、自在に演奏した……というような、まさにこの時期のこの瞬間にしかありえなかった一期一会。本当に美味しい、じっくりと賞味したい豊穣のアルバム。
「LIVE」(P.J.L MTCJ−3015)
沖至ユニット
ものすごくかっこいい瞬間が目白押し。とくに登敬三のテナーには目が、いや耳が点になるぐらい釘付けになる。豪快でテクニシャンで音がでかくてバップからフリーまでを自在に行き来する。日本でも有数のスタイリストだと思う。藤井郷子のピアノもソロにバッキングに大活躍だし、光田臣のドラムもシャープかつパワフルでこのバンドにはぴったり合っている。船戸のベースは堅実かつ奔放でこれもぴったり。もちろんラッパのふたりも堂々たるもの。唯一、よくわからないのはポエットリーディング(?)の白石かずこで、以前に生で聞いたときもそう思ったのだが、いやー、わからんなあ。嫌いだとかダメだとかではなく、「わからん」。そう言うしかありません。
「幻想ノート」(OFFBEAT RECORDS ORLP−1010 DMP128)
沖至
これはずっと聴きたかったアルバムだが、今回の再発ではじめて聴けた。ダウトミュージックはえらい。今聴いても過激な「殺人教室」や幻想的かつ即興の極北を目指したような「しらさぎ」は当時の沖の代表作なのだろうが、本作も負けず劣らずの傑作だった。金管というものを前面に出したような即興、ストレートアヘッドなジャズ、吉増剛造のポエットをフィーチュアした曲……どれも今の耳にも新鮮で大胆、そして華麗に響く。共演者も全員すばらしいが、とくに藤川義明のサックスがすばらしい。この凄まじいサックスは、もっともっと評価されるべきだと思う。先日聴いて狂喜乱舞した高柳昌行の「アーカイブ1」における演奏とともに、藤川さんの最高の演奏がおさめられている。
「ITARU OKI,LAST MESSAGE WITH MASAHIKO SATOH」(MOBYS RECORDS FJSP422)
ITARU OKI,MASAHIKO SATOH
凄いとしか言いようがない。佐藤さんが今もめちゃくちゃ凄いのはみんなわかっているが、沖さんの近作はスタンダードなどのチューンをしっかりしたクインテットでやるということが多かったと思う。それが、この沖さんの遺作といっていいデュオでは、壮絶な凄みのあるフリーミュージックを聴かせる。佐藤さんも沖さんもフリーミュージックオンリーではなく、多種多様な音楽を演ってきたひとで,そういうふたりが最後に邂逅したときにたどりついたのがこれ、というのは感慨深い。録音の良さとあいまって、すばらしい傑作になっていると思う。4曲目のスタンダードもそういう流れのなかにある。1曲目は、冒頭沖至の無伴奏ソロ。なにかをこすっているような音、エレクトリックノイズのような音、フリーキーなサックスのような音、そして、しっかりした金管の音も聞こえる。それほど多種多様な音色が聴こえてくる。もっと言うと、咳払いの音、風の音、木の葉の揺れる音……などもどこからか聴こえるような気がする。そして、2曲目(1曲目と切れ目なく演奏される)、ついに佐藤允彦のピアノが入ってくる。この絶妙な感じは、たぶん何十年まえに初共演したときから変わらないコンビネーションなのだろう。急に横への広がりが出て、演奏の世界が何回りも大きくなった。聴いていて身をよじりたくなるような快感がある。静から動へ、動から静へ……と演奏は目まぐるしく移り変わる。ふたりの交感を客席で(あるいはスピーカーのこちら側で)聴いている……と思っていたリスナーはそういう展開にいつしか巻き込まれ、客席ではなくステージで、あるいはスピーカーの向こう側で、ふたりのデュオに加わって、第3のメンバーとして演奏に参加していることに気づく。こういうフリーミュージックが大好きなのだ。リスナーを拒絶(というと語弊があるが)して、完全にミュージシャンだけで成立している、そうしようとしている演奏もあるが、私が好むのは、アート・アンサンブル・オブ・シカゴやジョー・マクフィーや阿部薫や芳垣さんや内橋さんやその他多くのフリーミュージックのひとがそうであるように、我々がその演奏のなかに心を遊ばせてくれるような演奏である(よく阿部薫は孤高のインプロヴァイザーと称されるが、私はそう思わないのです)。このデュオはその典型でしょう。これも語弊があるかもしれないが「つけいる隙のある演奏」ということだろうか。その「隙」に我々は心を開放するのだ。3曲目は佐藤允彦のソロ。17分にわたる即興音楽の大河をボートで下る旅。すばらしい! 4曲目から7曲目まではスタンダード。なぜかジャケットにはタイトルが書かれていないが、版権の問題か? 4曲目は「ラッシュ・ライフ」で、スタンダードの断片をモチーフにしてふたつの魂が融合する。5曲目はネイティヴアメリカンの笛とピアノのデュオ。ドン・チェリーを思わせる笛の2本吹きが、演奏の中心をなしている。6曲目はかなりジャズよりのハーモニーの演奏だが原曲はなんだかわからない。佐藤さんのピアノが凄すぎて思考が止まる。7曲目はきっと有名曲なのだろうが、私がわかってないので、なんだかわからないです。すいません。一旦演奏が終わったあと、ガチンコのデュオがはじまり、結局13分も続くのだ。この面白さよ。ラストの「ふたりを夕闇が〜」というスタンダード(?)に集約していく、なんというか驚天動地の展開もすごい。こんなすごい演奏をしたひとがもうこの世にいないとはなあ……。ジャケットの変形トランペットの写真を使ったデザインもすばらしいとしか言いようがない。沖さんについてはライナーノートをいくつか書かせていただいた想い出があるが(沖さんご本人は、こいつ誰?と思っておられたと思いますが)今にして思えば貴重な体験でした。傑作!
「オオゴマダラ サバ サバ! クール クール!」(OFF NOTE/AURASIA AUR−27)
沖至トリオ
こんなことを書くと不謹慎かもしれないが、沖至さんという稀有なミュ―ジシャンが、最晩年に本作のようなアルバムを残せたことは、沖さんにとっても、すべての音楽愛好者にとっても幸せなことではないかと思う。いや、幸せなこと、というような表現ではゆるい。とんでもない僥倖であり、奇跡ではないか、とすら思うのだ。それぐらい本作での演奏は突出している。当時の沖さんはずっとこのようなクオリティのライヴをつづけていたのかもしれないが、私も沖さんのアルバムのライナーを何作か書いたり、ライヴもけっこう観てきたので言わせてもらうと、このアルバムに収録されている3人での演奏はそういうなかでもすばらしい高みにあると思う。いやー、よくこの音源が録音されていて、こうして世に出て、私が聴くことができたなあ……と思うと、やはり奇跡としか思えない。いろんなライヴハウスが「配信」というのをやっていて、一期一会という言葉の意味も薄れてきている昨今だが、やはり、こういう演奏がたまたま録音されていて、多くのひとの耳に届くというのは、なんというか、大げさにいうと、音楽のカミサマに感謝したくなるようなうれしすぎることなのだ。この巨大な音楽を作っているのはたった3人なのだ。そのことにまず驚愕する。1曲目冒頭の、川下直広のヴァイオリンソロの段階で、もう本作のクオリティは保証されたようなものだ。トランペットとギターが自然に加わって3人による演奏になるが、これ以上付け加えることも減らすことも許されない、究極の3人の音だ。即興演奏が譜面に書かれた演奏よりも上位に位置するわけではないが、ときとして「即興」はこういう驚異的な「高み」を現出する。それは、いきなり、というか、唐突感があるかもしれないが、じつは入念に準備されたものである。突然、こんな凄い演奏が生まれるわけがないのだ。それぞれのミュージシャンがみずからの楽器について理解を含め、練習し、テクニックを得、音楽性を高め……といった作業と、多くのミュージシャンとの共演によって得る経験値によって、「すげーひと」になっている状態での邂逅によってこの一期一会の演奏が生まれたのである。そんな当たり前のことをなにをぐずぐず書いているのか、と言われるかもしれないが、沖至というすごいミュージシャンの遺作(?)が、即興としてポン! と出来上がったわけではない、ということが言いたいのだ。3人の蓄積がここに結集し、ぶつかり合って火花を散らし、ひとつの作品に昇華していくさまを聴くのはジャズ〜即興演奏ファン冥利につきるだろう。いやー、しかし、この1曲目は本当に録音されていたのが奇跡やなあ、と思うぐらいの快演だと思う。ヴァイオリンの独奏ではじまり、そこにトランペットとギターが入ってくるあたりのわくわく感をなんと言えばいいのか。このいきいきとしたインプロヴィゼイションを聴いていると、川下さんはもうずっとヴァイオリンでいい、とすら思ってしまうほどだ。沖至の笛は、ドン・チェリーという名前をあげる必要がないほど本当に自然で、流麗で、素朴で、川下のヴァイオリンと同じぐらい沖至の「話し言葉」になっている。冒頭から12分ぐらいの時間は、まさに夢を見ているような浮遊感と幸福感に包まれる演奏。そして、12分ぐらいで沖さんがトランペットに持ち替えての即興になる。この混沌とした美しさは感動ものだ。15分ぐらいで(たぶん)「ラッシュライフ」がはじまって、ギターによるエンディングになる。このあたりの自由さもすばらしい。本当に壮大なドラマを見たような気持ちだ。2曲目は沖至の曲で、沖至の笛と川下のヴァイオリン、波多江のギターでフリーにはじまり、ギターがリズムを出してかっこいい展開に。沖さんがトランペットに持ち替えたあと、5分過ぎぐらいで曲がはじまるが、即興の部分と曲の部分がまったく分け隔てなく聞こえるのがすばらしい。フリーだ、なんだかんだ、といっても、こういうことができるかどうかなのだろうな。3曲目は「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」で、川下がやっとテナーを吹く。テーマを吹くだけで「あー」とか「とほほ」とか「いい!」とか言いたくなるようなテナー。ソロは沖至。ギターだけを友とした真っ向勝負のシリアスな演奏なのだが、(沖至のこういった演奏全般に感じるように)ひたすら自由で自在な、巨大な天地に向かって吹いているような雰囲気がバーン! と伝わってくる。つづく波多江のギターソロもまったく同じで、俺はなにをやってもいいんだけど、今はこの曲のメロディつづるよ、といってる気がする。めちゃくちゃかっこいいのだが、そこから川下さんのテナーがテーマに戻るところもまたまためちゃくちゃかっこいいのだ。サビを沖さんが吹いているのを聞いてると、このひとはもういないのだ、という感慨に打たれてどうしようもなくなる。ラストは「愛の讃歌」で、川下さんの(たぶん)カーブド・ソプラノに主導されるメロによる切々とした短い演奏。このひとたちのすごいのは、主奏楽器がなんだろうと関係ないところですね。沖さんは各種トランペットだけでなくて笛を吹いても一枚のアルバムを作れるだろうし、川下さんもテナーを一切封印してもまったく問題ないぐらい、何でも表現できる。正直、このひとたちは、ライヴ中にたまたま目について手にとったはじめての楽器であっても、一時間ぐらいは余裕で聴衆を引きつける即興ができるのではないかと思う。ライナーノートは瀬川昌久、今貂子、巻上公一、川下直広の4人が寄せていて、それぞれ読みごたえがある文章。帯は菊池マリという、豪華すぎるラインナップで、ジャケットもおなじみのスズキコージという、めちゃくちゃ作りこんだ作品なのである。傑作としか言いようがない。毎日聴いてます。
「LIVE AT JAZZ SPOT COMBO 1975」(NO BUSINESS RECORDS NBCD 143)
ITARU OKI QUARTET
素晴らしい。沖至がフランスに渡って14カ月後、一時帰国したときのライヴであるが、音もめちゃくちゃいいし、内容も最高で、よくぞこの演奏が録音されていて、こうしてリリースされたものだ、といろいろな関係者に感謝したい。1曲目は、トランペットのルバートなソロを中心にした演奏ではじまり、おそらくテーマがある演奏で(どの曲も「コンボ・セッション」というタイトルになっているが、おそらくは沖至によるコンポジションだと思う)、藤川義明はフルート。先発ソロはその藤川のフルートで、今ならばスピリチュアルジャズと呼ばれるような演奏である。ドラムの田中穂積のバッキングがめちゃくちゃかっこよくて最高で、うっとり聞き惚れる。そのフルートに沖の笛がからむ。躍動感といい、いやー、これは凄いわ。そこに翠川敬基のベースが参加したあたりから、沖はトランペットに持ち替えて(ものすごくエコーをかけている)鋭く、力強いソロを繰り広げる。この切迫感のある演奏は心に突き刺さる。2曲目はアルコベースではじまり、2管によるテーマが奏でられる。そのあとアルトとドラムのデュオになるが、藤川のアルトはノイズではなくあくまでフレーズを吹こうとしていて説得力がある。そのあとテーマが挟まり、沖のトランペットの無伴奏ソロになる。そこにベースとドラムが加わり、トリオによるフリーインプロヴィゼイションになる。そして藤川が参加して4人が同時に吹きまくり、弾きまくり、叩きまくる。最後はテーマに戻ってビシッと終わるのかと思いきや、短いドラムソロになり、もう一度テーマがあって終演。3曲目は沖のトランペットソロではじまり、そこにブラッシュによるドラムが加わる。沖のトランペットは凛としているが哀愁の塊でもあり、かっこよすぎる。ドラムの反応の仕方が絶妙で、すばらしいとしか言いようがない。完璧な即興デュオ。この曲はデュオのみの演奏。4曲目はベースの野太いアルコの重低音ではじまり、そこに管楽器のロングトーン(藤川はフルート)がかぶさっていく。かなり長いフリーな集団即興になるが、ここでも田中穂積の独特なセンスはすばらしい。そのあとインテンポになり、沖至のソロはエレクトリックというほどではないがエコーをきかせた「しらさぎ」的な感じ。そのあと登場する藤川のアルトはそれまでとは打って変わって激情をぶつけるようなフリーキーなもので盛り上がる。そのあとふたたび沖至が登場し、13分あたりからの展開はもうかっこよすぎる感じ。4人の意志がひとつになっていて、こういうのをスピリチュアルジャズと呼ぶならわかる……と思いました。いやー、もう呆れるほどカッコいいです。最後の5曲目は沖のトランペットのストイックな雰囲気の無伴奏ソロではじまり(いろんな意味でかなり臨場感がある)、「ユー・ドント・ノウ・ファット・ラヴ・イズ」のテーマが聞こえてくる。そこに全員が加わったのち、藤川のアルトソロになるが、ひとつのモードに基づいたバリエーションを展開していく。最後は同じ音を延々と吹き続け、沖の笛にバトンタッチする。田中の激しいドラミングに対して沖の笛はかなり弱弱しい音なのだが、そこになんともいえないコラボが生じていて面白い。そのあとドラムソロになり、テーマがはじまり、ベースレスのドラムとトランペット、アルトのトリオになる。この部分はめちゃすごく、とくに藤川のアルトのキレッキレの絶叫ぶりは凄まじい。田中穂積の爆発的なドラミングの勢いはそのままにテーマに突入して終演。いやー、すばらしいです。4人のだれひとり欠けてもこの音楽は成立しなかっただろう。とくに田中穂積のドラムは最高としか言いようがないし、沖至のこのころの演奏には完全にマッチしている。また、このころの沖至と共演しているサックスとしては高木元輝、宇梶昌二らがいるが、藤川のアルトもまた当時の沖至の音楽にフィットしまくっている。折に触れ聴き直したいと思えるような傑作だと思います。