「UNDINE」(DOUBTMUSIC DMF−145)
ONO RYOKO
冒頭を聴いた瞬間から衝撃をくらう。そして、笑ってしまう。なんじゃこりゃーっ、ぎゃはははははははははは。この曲を1曲目にもってきたというのはすごいセンスだと思うよ。やる気に満ちたアルバム作りであることがわかる。ホースとかに息を吹き込んだものをオーパダブして効果音をつけたものと推察されるが、こういう演奏を聴くと、「荘子」にある「大地の吐く息を風という。ひとたび大地の息が駆け抜けると、地上のあらゆる穴が一斉に鳴り響く。山林や、巨木にあいた穴や、さまざまな形の穴が一度に音を出す……」という文章(ほんとはもっと長い)を思い出す。大自然が風によって「鳴る」息吹きの音みたいなものが、木管楽器の即興演奏を聴いていて、ふっと思い浮かぶことがあるが、この1曲目はまさにそうした「大地の息吹」を感じさせる。2曲目はしっかりした音と運指によるアルトのソロインプロヴィゼイション(+打ち込みによるバック?)で、シリアスなムードも醸し出されるが、めちゃかっこいい。3曲目は、ハーモニクスを使った、私好みの完全なソロ(超短い)。4曲目は(こぶんこれも打ち込みのビートをバックにした)アルトソロだが、循環呼吸で延々とトリルを繰り返す。この思い切りの良さは惚れます(これも短い)。5曲目は二本の多重録音によるバラード的な演奏。6曲目も2管の多重録音によるスティーヴ・ライヒの「ピアノ・フェイズ」をサックスで演奏したものらしいが、循環呼吸(だと思われる)によってふたつのラインがストイックに、永久に続くかと思うような硬質さでずーっと奏でられていくのを聴いていると、ああ、このひとすごいわ、と思う。こういうことをやろうという「発想」がすごいのであります。そして、それを実際にやってしまうというアホさ加減(大阪のひとにはこれで通じるはずだが、そうでないひとに断っておくと、これは我々にとって最大級の讃辞です)を尊敬してしまうのです。そして7曲目は「鳥」のさえずりがのどかに聞こえるなかでのヴォーカリーズ的なチャーリー・パーカーメドレーでタイトルは「バード」。「ドナ・リー」→「オーニソロジー」→「スクラップル・フロム・ジ・アップル」→「オウ・プリヴァーブ」→「?」→「コンファメイション」→「ヤードバード組曲」→「レアード・ベアード」→「?」というメドレーになっている(当方がパーカーフリークでないので、わからない曲がありましてもーしわけない)。8曲目はジャズ的な即興フレージングを二管による多重録音でハモったもの。最初からか、あとで採譜したのかわからないけど、そういう冷静な目が加わっているのに、なんともいえない自然発生的な魅力がある。10曲目は、これも循環呼吸なのかなあ、とにかくタータラタータラとかタラララタラララというリズムだけでひたすらノンブレスで吹きまくる演奏で、正直、「めちゃめちゃうまい」(テクニックがすごい)と思いました。一瞬の乱れもないよね。ダイナミクスによる「表現」もものすごくアピール力があるし、これはすごい意志のもとに演奏されてますよ。うーん、かっこいい。エヴァン・パーカーとかカン・テーファンとかその他いろいろな人の名前を持ち出す必要はないぐらい「しっかり」している。11曲目は、10曲目が複音奏法を前面に押し出した演奏だったのに、単音(しかも、軽い感じ)による、谷川が流れていくような自然かつオリジナリティのあるインプロヴィゼイション。そしてそしてそして12曲目「タルカス」は……私ごときものでも知っているあの「タルカス」ですよ。超かっこええ! これを聴いて、「おお、すげえっ!」と絶叫しないひとはいないだろう。すごすぎるやんけ!わしゃもう惚れた。アルトで「ぎゃーーーーーーっ」といいたい皆さんは必ず聴くようにね! これはもう技術と音楽観と「叫び」が三位一体となった最高の「カッコイイ」音楽であります。私は原曲の「タルカス」とかはそれほどわからない人間なのだが、この演奏が死ぬほどかっこよくて、そのかっこよさにこのひとのアルトのスクリームと、きちんとした技術力による演奏が、完璧に奉仕していることはわかる。ラストの曲はひたすら美しいタイトル曲。いやー、なんの先入観もなく聴いたのですが、もう、死ぬほどびっくりしました。そして、死ぬほどはまりました。これは名盤であります。ジャケットもCDのデザインもかっこよすぎる。100万枚売れろ!
「ALTERNATE FLASH HEADS」(ALCHEMY RECORDS ARCD−241)
RYOKO ONO
傑作としか言いようがありません! 超短い演奏が全部で99曲入っているという(しかも全部で30分もないのだ。頭がおかしいとしか思えない超大胆なコンセプトによるアルバム。これを考え付いた時点で異常だが、それを成し遂げてしまい、また、ここまでのクオリティにしてしまった小埜涼子は天才としか言いようがない。こういう発想ってどこから来るのだろう。スラッシュメタル? 私の乏しい音楽体験では、ジャズ方面でこれに似たものってジョン・ゾーンの「スパイVSスパイ」とか坂田明「百八煩悩」とかしか思いつかないが、ここまで徹底的に突き詰めてしまったものはない。完全に突出している。凄いのはその99曲にかぶりがないことで、99のバラエティあるアイデアがずらりと並んでいて壮観である。ドラムとのデュオ(といっても別々に録音されているようだ)を中心に、多重録音などを駆使してのさまざまなタイプの演奏が収められている。フリーな即興、激情スクリーム、プログレ、ビッグバンド、ハードロック、中東風、ムードミュージック、童謡、映画音楽風、現代音楽、マウスピースだけのやつ、山下洋輔「ぐがん」風、ちんどんみたいなやつ、ジャズの練習風景みたいなの、雅楽風、ノイズ、クラスター、ヴォイス、無限ループ、教会音楽などなど……ほのぼのするものから凶悪極まりないものまで際限がない。リズムだけでも多種多様である。63曲目のリフがずれていくやつは何回聞いても感心する。だが、ただただいろいろ録音してみました、というだけでなく、どれも一工夫、ふた工夫というかひとひねり、ふたひねりが加えてあり、録音上の遊びなども随所に施されており、才気あふれる小埜涼子の99の引き出しが全部見られる。99個の引き出しをつぎつぎと開けていく作業は楽しすぎる。それもこれも、小埜涼子の圧倒的に鳴りまくるサックスの音が根本にあってのことだと思うし、時折登場するマグマのように熱血なブロウは感涙ものだ。しかし、普通はある程度の長さがあって、次第に盛り上がっていき、ついには頂点に……という演奏でないと、その音楽をちゃんと味わえない、という考え方があたりまえだと思うが、こうして何十秒かの断面をずばりと見せられてもその演奏のなんたるかが伝わるということは、案外音楽というのは(うまくできていれば)短くても長尺の演奏と同じ情報量やらなにやらを伝達できるのかもしれないと思ったりした。聞いていると、ラジオのチューナーをあれこれ適当に合わせて、どんどん次のチャンネルに移っていっている、つまりザッピングしているような気分になる。小埜涼子はこのアルバムをランダム再生してほしいとライナーに書いている。そうすることで99曲の組み合わせはほぼ無限になり、聴くたびに新しいものが生まれるというのだ。毎回、ちがう「曲」が誕生するというその発想の凄さと、それを実現してしまった才能に驚く。しかし、私は本作を入手してからたぶん10回ぐらい聴いたが、まだ一度もランダム再生していないのである。いくら作った本人が「ランダム再生してくれ」と言っていても、やはり最終的にこの曲順にしたというのはなんらかの意図があってのことだと思うので、まだ10回ぐらいではそれをちゃんと味わえていないのではないか、という気持ちが働いてしまっているのだ。次こそはランダム再生しよう、と毎回思うのだが、ついついそのまま聞いてしまう。いや、すいません。次こそは必ず……。とにかく音楽史に残るような傑作だと思います。脱帽。アルケミーからのリリースというのも重要。
「ELECTRONIC ELEMENTS SECOND EDITION」(R RECORDS)
RYOKO ONO
小埜涼子さんがひとりでサックスやキーボードなどを演奏し、それを加工した音絵巻。めちゃかっこいいが、ところどころ耳障りでイラッとする箇所もあり、またそれをしつこいプッシュされるとほんとにイライラするが、そのイライラが超快感になっていくこの嗜虐的な喜びはなんだ。リズムは複雑で、しかもドラム音がチープ。そこに不協和音のキーボードがうねり、サックスが吠え、歌う。そしてパーカッションがあちこちで重要な役割を果たしている。全11曲、驚くほどいろいろなタイプの曲が入っており、あの話題作「オルタネイト・フラッシュ・ヘッズ」の原型といえるかもしれない。疑似アフリカ、疑似インド、疑似中東、疑似中世ヨーロッパ……みたいな曲もあるが、これらは小埜涼子の脳内にのみ存在する国の音楽だろう。プログレ的なところも、フリージャズ的なところも、主流派ジャズ的なところも、テクノなところも、ニューウェイヴ的なところもあり、だれでも楽しめる音楽である。むずかしいところは皆無でめちゃ聴きやすいが、じつは一筋縄ではいかない、ひねくれて暗くて深い深海魚のようなところも感じる。凄いテクニックと音楽性、そしてダブやループをはじめとする各種の録音技術があいまって、この狂気の音楽を作り上げているのだ。一種の宅録みたいなものかもしれないが、それだけに小埜涼子の脳を内側から見ているような気分になるのだ。購入してから5回ぐらい聞いたが、やっぱり最初はイライラっとして(ノイズとかなら、そういうイライラは全然感じないのだよなー)、だんだん良くなってくる。中盤を過ぎたころから楽しくてたまらなくなり、最後まで聴いてしまうというパターンだ。そう、このアルバムはかなり中毒性がありますね。ブラックカレーみたいなもん?
「WOOD MOON」(JVTLAND JVT0016)
RYOKO ONO・ROGIER SMAL
とにかく心地よいのだ。もう「心地よい」という言葉しか感想として出てこないほどだ。しっかりした作りのアルバムだが、ジャケットのタイトル名とかミュージシャン名がデザイン的すぎてまったく読めない。録音日も録音場所も曲名もなんにも書いていない。これは一切の情報を遮断して無心に聴けということなのか。というわけで聴いてみると、なるほど、これはすごい。ここまでアコースティックでガチンコで即興一本勝負の小埜涼子のアルバムがかつてあっただろうか。アルトは太い音で上から下まで鳴り響き、ドラムもダイナミックに空間をリズムで埋め尽くし、これだこれだこういうのを聞きたかったのだと叫んでしまった。もちろんこれまでのリーダー作も凄かったが(というか、その徹底した変態的な透徹ぶりはそれらのほうが凄い)、等身大・ノーギミックの小埜涼子のすさまじさというのは本作において存分に発揮されている。林栄一とのデュオアルバム2枚もそうだったが、アルト一本でただただ吹くだけで小埜涼子はこんなにも凄いのだ。この楽器の鳴り、高音部の叫び、ハーモニクスの歪み……アルトが身をよじって「もうやめてくれ。これ以上息を吹き込まないでくれ」と泣き叫んでいるようなイメージすら伝わってくる。よく似たタイプの音を出すアルト吹きは世界中にいるが、音が薄くてぺらぺらなひとも多く、小埜涼子のように腰の据わった、ドスの利いた太い音をうえからしたまで吹けるひとは案外少ないと思う。この「音」とテクニックがあるからこそ、フリーをやっても変拍子プログレをやってもスラッシュをやってもブルースをやっても説得力があるのだ。本作では、ただひたすら生真面目に押しているばかりではなく、ドラムもときどきアホなことをやったりして、ユーモアのある自由なアプローチをしているが、小埜涼子もデタラメな言語(日本語の会話と無意味な「音」の狭間みたいな感じ?)を駆使したフリージャズ的バップスキャットみたいな必殺技を披露したり、マウスピースを水に突っ込んでぼこぼこいわせたり(音だけ聞いてると、たぶんそう)して、バラエティ豊かな構成になっており、(たぶん)ゴリゴリのフリーはしんどいという向きにも受け入れられると思う。いやー、かっこええ。たぶん今、世界でいちばんかっこええアルト(のひとり)なんじゃないですか? 6曲目の冒頭のところなんか、美味しすぎて泣く。そして、このふたりの絡み方は尋常ではなく、ものすごく真っ当に(というのも変だが)しっかりと絡みつき合って、そこがまた心地よいのだよなー。傑作としか言いようがありません。
「BEYOND SCREAMING SAX」(RRCD−REORDS RRCD−0009)
RYOKO ONO TOSHIJI MIKAWA
「聞き惚れる」というやつですね。小埜涼子さんのアルトというのは、とにかく「サックスの音を聴く喜び」に溢れていて、この鳴りの悦楽を一度経験すると病みつきになり、ひたすらその音を浴びていたいという気もちになるのだ。あのびゅんびゅん、ちゅわちゅわ、ぎゅんぎゅん……とその場の空気が軋み、発火するような唸りというかうねりというか、凄まじい生音の大爆発は、ハーモニクスやオーバートーンによるものだとわかっていても、あっけにとられ、ひたすらひれ伏すしかない。まあようするに音楽を聴く「快感」というのは、もちろん総合的なものなのだが、「音」の一点だけに絞っても、十分享受できるものなのだ。そして、このアルバムは非常階段の美川俊治のノイズとのデュオなのだが、これがまあ、見事な融合で、めちゃくちゃかっこいいのだ。「聞き惚れる」の二乗だ。エレクトリックノイズとアコースティックノイズがぶつかり合い、そして絡み合い、溶け合うさまが全編にわたってひたすら味わえる。そして、その戦いはいつ果てるともなく延々と続き、聴いているほうとしてはできるだけ長く戦ってほしい、この快楽が永久に続いてほしいと思っているのだが、やはりそれには終わりが訪れる。そのときはじめて、ああ、これは戦いではなく会話だったのだな、と思い、またCDのスタートボタンを押すことになる。
ここからちょっとわけのわからないことを書くが、こういうノイズ系の演奏に接するたびにいろいろと思うわけです。ノイズというのは、耳障りな音のことであって、実際そういうノイズミュージックもあるわけだが、美波俊治のノイズはいくらうるさい、一般的には不快だと思われるような音を出しても、それが悦楽への片道切符だとわかっているこちらにとってはまったく耳障りに感じないのだ。荘子の昔から、自然の奏でる笙の音、つまり、大風が吹きすぎるとき、木のうろや洞窟、岩の穴……などが一斉に音を立てる。いや、大風の音自体がすでに音楽である。今の世の中に目を転じても、車のクラクション、スマホの着信音、電車の音、だれかが叫ぶ声、猫や虫、鳥の鳴き声、勝手に流れるBGM、テレビの音、くしゃみ、咳、どこかで吹奏楽部が練習している音、ヘッドホーンから漏れるシンバルの音、空調の音……などなど生活音は我々が生きている間中ずーっと聞こえてくる。それらもすべてのある意味ノイズであり、音楽である。音楽として作曲され演奏されたものであっても、それが不必要な場所で不必要な時に聞こえてきたなら、それはノイズである。発しているものが音楽だと思っていなくても、受け取るものが音楽だと思えばそれは音楽である。ノイズは音楽であり、音楽はノイズだ。ノイズにも不愉快なものと快感のものがあるが、不愉快なノイズが悪くて心地よいノイズは良いのではない。不愉快なもの、耳障りなもの、頭が痛くなるもの、聴きたくないもの……そういうノイズもノイズとして正しい。もちろん心地よいノイズも正しい。では、あらゆる「音」は存在意義があるのか、と言われると私は「イエス」と言いたい。それを聴くものがどう考え、どう感じるかによって、音の意味合いは変わってくる。ある音色、音列を心地よく感じるのも不愉快に感じるのも聴き手の感覚なのだ。このデュオはノイズや音楽に関するそういう根本的なことを考えさせてくれる。セミの鳴き声を音楽として感じるもよし鬱陶しく暑苦しいものとして感じるもよし、である。耳に染みいる蝉の声だ。掃除機の音と原田仁のヴォイスとどこが違うのか。クーラーの排気音とアクセル・ドゥナーの息の音だけの循環呼吸とどこが違うのか。聴くほうが、これは俺が今聴きたいものだと思えばそれは意味があるし、今聴きたくないものだと感じればどんなクラシックの名曲も不要のものとなる。不要と思えばスイッチを切ればよいが、そうできないとき……聞きたくないのに聞かされる音は、どんなに美しいハーモニーでも「雑音」つまりノイズなのではないか。……と言うようなわけのわからないことを聞きながら考えた。私にとって、この音楽は、すべてが快感につながるものなので、一瞬たりとも聞き逃したくない。つまり、雑音でも騒音でもないのです。そんなごたくはともかく、このデュオはものすごく楽しいし、ふたりによる音の絵巻物はオーケストラのように響く。いい加減なジャケットに剥きだしで無造作に入れられたCDだが、このCDは私には宝物となったのです。タイトルの「絶叫するサックスを超えて」という意味はいかに?
「DMK」(R RECORDS RRCD−010)
RYORCHESTRA
ただただかっこいい。ひたすらかっこいい。聴いているうちに、なんだかわからんが爆笑してしまう。この世のものとは思われない快感・快楽がぎっしりと詰まった超贅沢なアルバム。ここまで行けば、苦痛も快楽だし、快感はもちろん快楽だし、森羅万象これすべて快楽だと言いたくなる。ノイズも甘美なメロディもファンキーなフレーズも変拍子も人間の声もグルーヴするリズムもテクノなビートも(サックスや人間の)スクリームもデスボイスもなにもかもがぐじゃぐじゃになって、ひとときの快楽のために奉仕する。頭のおかしいひとたちが集まって作られたようなクレイジーな音楽のように聞こえるが、凄腕のミュージシャンが揃っており、彼らをまとめあげてこの素晴らしいエクスタシーに満ちた音楽を作り上げた小埜涼子というひとはよほどクレバーなミュージシャンにちがいないと思うが、それがまた一周回って、どう聴いても気が狂ってるように聞こえてしまう……というのも楽しいなあ。つい「なんて馬鹿な音楽なんだ」と思ってしまうが、それはある意味正しいだろう。めちゃくちゃ周到に考えられていて、ここ、というところにもっとも適切な音がはまっていることに驚くが、ものすごく手間がかかったんだろうなあ。とにかくあまりによくできている(上から目線な言い方に聞こえるなあ。こういうときはどう言うべきなのだろうか……)のでもったいなくてちょっとずつ聴く。しかも、そういう風に緻密に作られているのに、それを上回る熱情と狂気がすべてを覆い隠してしまう。プログレでフリージャズでインプロヴィゼイションでラテンでフォーキーで有国籍音楽で無国籍音楽で前衛でポップで……あとなにがあるかな、とにかくぜんぶすばらしい! 人間の声は無敵だなあ。傑作としか言いようがないが、このわけのわからん壮大な砂上の楼閣をどう説明していいかさっぱりわからない。えーい、みんな聴けえっ! なるべくでかい音でね。
「PLASTIC DOGS」(ORDER TONE MUSIC & RECORDS)
PLASTIC DOGS
小埜涼子率いる4人組。四人とは思えないぐらい深くて、多層で、でかい音が鳴っている。小埜涼子のサイコーのコンポジションとアレンジ、複雑な変拍子の組み合わせを全員が凄いスピード感をもってやりきる迫力、ドラムが全身全霊で叩き出す力のこもったリズム、二本のギターが作るメタリックで過激で幻想的でゴリゴリで馬鹿馬鹿しいぐらい過剰なエネルギーに満ちた空間、そのなかを小埜涼子のサックスが暴風のように吹き荒れる。小埜涼子ののサックスは、ときにはめちゃくちゃ難しいリフをバシバシ合わせ、ときには耳に残るキャッチーなテーマを吹き、ときにはジャズ的な即興を奏でたりもするが、基本的には「あの音」を最大限に押し出した過激で刹那的で不意打ちのようなアコースティックノイズをぶち込んでくる。これがもうめちゃくちゃ、超超超かっこいいのです。文章で書くことはむずかしいが、なんとかがんばって表現してみると、「ブギョーッ、ギョエエエエエッ、ギャアオウ、ピーリピリリリリリ、キュオオオオン!」という感じである。とにかくこの四人が一秒ごとに聞き手にとってのさまざまな快感を刺激する要素をいろいろ組み合わせて超絶技巧、超絶熱量、超絶音量でぶつけてくるうえ、その要素というのがあまりに大量で一度に多くのことが起こりすぎて、インプットがぶっ壊れて、ハレハレハレハレ……となってしまうが、それがまた新たな快感を生む……というものすごい音楽なのだ。こういうことはある程度は計算して演奏できると思うが、この四人のコラボレイションはそれを上回る結果を生み出している。というのは、多くの快感要素のなかには失敗もあり、打ち消しあうものもあるだろうが、ここにはひたすらプラスしかないからだ。告白すると、何回か聴き直した時点でやっとツインギターでエレベがいないことに気づいたよ。すげーっ。10曲目にはデスボイス的なボーカルも入っている。こないだまでオーディオアンプが故障していて、そのあいだは仕方なくCDデッキにヘッドホンを突っ込んで聴いていたのだが、今日ようやくアンプが治り、まともな音で聴くことができた。ちゃんとした音で聴きなおしてみるとこれがまた凄いんですねー。いやー、通常の喜怒哀楽を全部1000倍に拡大してぶち込んだような、快楽極楽悦楽歓楽道楽……パラダイスの極みのかっこよすぎる音楽であります。傑作……というかとんでもない大傑作なのでは?
「IVERT」(R−RECORDS RRCD−014)」
PLASTIC DOGS
小埜涼子率いるプラスティック・ドッグスの2枚目。ハードなプログレでインスト、フロントがアルトサックス、ベースレスでギターが二人……と独特の編成ではあるが、あいかわらず聴いてみたらそういう編成がどーとか変拍子がこーとかいうことを吹っ飛ばして音楽が心臓にぶちこまれる。今から書くことは本当にただのシロートの妄言なのだが、正直な話、ここまでのエグい変拍子というのは演奏する側にとってはかなりたいへんだろうと察する。しかし、だったらフツーの4拍子、3拍子でええやん、それで十分、音楽楽しいっすよ、と思うのは、プログレをほとんどわかっていない私のような人間の浅はかな考えで、あえてこういうリズムにするのは意味がある(そらそやろ!)。4拍子、3拍子……などではなかなか喚起されないビートの突っかかり、みたいなものが、こういった周到な変拍子においてはリズムのなかからグワーッと噴き出してきて、その流れに押し流されて抵抗できない……そんな快感がある。曲はどれもドラマチックで、聴いていて顔をビンタされたぐらいの衝撃がある曲ばかりだ。「えげつないなあ……」という言葉を何度口にしたことか……。そして、やはり特筆すべきは小埜涼子のアルトの鳴りであろう。こういうバンドでアコースティックな管楽器が入っている意義は、この凄まじいサックスの「音」にある。ただただ曲を書いて、それをアンサンブルとしてきっちり演奏する、というだけでなく、とにかく圧倒的なサックスのソノリティの凄さよ! ひたすら気持ちいいしかっこいい(どの曲でもそうなのだが、とくに8曲目とか……)。こういうことが重要じゃん! と思う。アンサンブルとソロとでサックスの立ち位置が変化したりしていて、そういうのも面白い。骨だけになった落ち武者がぬいぐるみみたいなのを持ってるジャケットもめちゃくちゃええ感じ。個々の曲については触れないが、とにかくどの曲も相変わらずぞくぞくするような感動に満ちている。生でビッグアップルで聴いたが、こういうバンドは生もよし、アルバムもよし、なのだ。この、なんというか「ぎゅうぎゅうに詰まった」感がある2枚目もとんでもない傑作になった。どの曲も、聴いていて、拳を握りしめ、(スピーカーの近くにある)机や本棚をどつきまわしてしまうこのノリ! そして、何度も繰り返し聴けば聴くほど実感する深さ。名古屋に今、音楽の神が降臨しているような感じである。傑作としか言いようがない。全員すごい。なお、タイトルの「IVERT」というのはひっくり返す、とか逆さにする、という意味だそうです。とにかくひたすら心地よく、グワーッと持っていかれる音楽だが、ラストの10曲目はギターソロのみの激渋の短い演奏で涙……。なにか人間の根源的なところを巨大なショベルで掘り返されるような、もの凄い音楽です。
「THE DAYS」(RELATIVE PITCH RECORDS RPRSS034)
RYOKO ONO
小埜涼子のソロアルバム。シンプルなサックス無伴奏ソロが中心。先日、纐纈雅代のソロが発売されたリラティヴ・ピッチからのリリース。名古屋での録音、ミックス、マスタリングなのだが、録音もすばらしい。1、2曲目は本当にストレートアヘッドなアルトソロだが、生々しく、みずみずしい音が自然に聴き手の頭や身体に染み込んでくる感じ。気合いが入りまくっていて大暴れ、でもなく、力を抜いた静謐な感じでもない、柔軟というかフレキシブルな雰囲気のめちゃくちゃいいソロ。なかなかこうはいきません。3曲目はたぶん(数種類の)マウスピースとネックだけで、手の開き加減などで表現している演奏だと思うが、これが見事に、ガマガエルみたいなやつと少し小さな動物ともっと小さなやつの3匹の会話手みたいな感じのインタープレイになっていて、なんかせつなくなってくるような展開なのである。まるでアニメのアフレコのようで、すごい。途中から、水の入ったコップか容器に突っ込んでボコボコいわせるところも、録音のせいもあってめちゃくちゃ生々しく、「人間」という感じで、感動する。エンディングもいい。なんかSFというか、人類が絶滅したあとの近未来で人類ではない生物たちがおりなす会話……といったらわかってもらえるだろうか(わかってもらえないと思うが)。4曲目はけっこうフリークトーンを押し出した演奏。こういうのも心地よい。5曲目はパーカッシヴな破裂音と静かなフレーズが交互に会話するような演奏。ふたり芝居を観ているような気分になる。6曲目は、これはマルチフォニックスによる演奏をエフェクトで加工しているのか? 左右にゆっくりと振る感じがダブっぽくてかっこいい。ほぼ同じ音を延々サーキュラーで吹いているだけなのに、オーケストラのような広がりがあってすばらしい。この頑固なシンプルさから無限の宇宙が広がっている……というと大げさでしょうか。いや、そんなことはない。7曲目はリズミックというかラプソディックな曲調だが、このしっかりした音と揺らぐリズムを聴いていると世の中のたいがいのことはどうでもよくなるよ。すごく流暢な部分と、子どもが楽器と戯れているような部分が同居していて、それも管楽器ソロの魅力である。単に「上手い」だけの演奏ではないのはもちろんである。最後はサーキュラーでのブロウになるが、なんというか……暖かい。全体の構成もはじめから決めてあったのかどうかわからないが、とてもドラマチックです。8曲目は、7曲目の延長というかオルタネイティヴ・フィンガリングを使ったソロだが、循環呼吸を使わない演奏なので、この「間」が絶妙であります。空白が来るたびに聴いているほうもなんかホッとひと息つく感じ。ラストの9曲目はヴォイスとアルトのデュオ的な演奏で、なにがどうなってるのかよくわからないし、いろいろ考えることもあるのだが、とりあえずは「笑い」の範疇なのだろうと思うけど、本作のなかでじつは一番過激なものなのかも。これを最後に置いたのはほんとに考えさせられました。コトバというものを私も仕事で扱っているのだが、これはなあ……たまりませんね。「しゃべり」とアルトが完全に連動していて、気持ち悪いぐらいの気持ちよさ! 「だから、なんやねん!」と叫びたくなるような凄みがある。本作はとにかくめちゃくちゃ傑作なので、多くのひとが聴いてくれることを望みます。
「THE THIRD」(R−RECORDS RRCD−015)
PLASTIC DOGS
サックス、ツインギター、ドラムという4人のマッシヴというかストイックというか、削ぎ落された4人によるプログレフリージャズ、プラスチック・ドッグスの3枚目。前作のジャケットも最高だったが、今回は私のめちゃくちゃ好みのクトゥルー的なタコの化け物がジャケットで、コウモリの羽こそ生えていないけど、これはどう見てもクトゥルーでしょう。内容は、コンセプトは前2作のままで、よりパワフルになった感じ。もう、聴いていて「キーーーーッ」となるんだよね。毎回書いているが、プログレのことはほとんど疎いのでまるでわからないのだが、こういうリズムは「変拍子」とかではないですよね? たとえば11拍子とか13拍子とか……そういう一定のリズムが繰り返されるわけではなく、これはこういうリズムが頭に鳴ったからそれを書き出してみんなでやってみました的なものであって、一種のリズムのオーケストレイションですね。そう考えないと演奏できないのでは? ジャズ的な癖というか、分析して3+5+1+……とか考えてしまうのだが、そういうことには意味がない。ただただグルーヴに身を任せる方が無難。とにかく曲がすばらしいし、ふたりのギターの対比がすばらしいし、ドラムのあおりもすばらしいし、なにより小埜涼子のサックスがかっこよすぎる。録音もいいので、サックスのアコースティックな音がものすごくリアルに聴こえ、この変態的で壮絶な演奏に一種の異形な「生音」をぶちこんでくる快感をめちゃくちゃ感じる。このバンドのアルバムを聴くと、いつも「凄いなあ」と「かっこええなあ」と「ようやるなあ」と「アホやなあ」……というような感想しか出てこない。6曲目からの「ワンツースリーフォー」というぶっぱやいカウントではじまる4曲は組曲なのかもしれないがスラッシュ的に短いし、聴いている分には「一曲」としか思えない。「奇絶怪絶また壮絶」というやつですね。こういう曲でライヴをやりまくってるのだから、化けものやなあ。コンポジションも、惜しげもなく、各アルバムのメインになるようなキラーチューン的な曲が並べられている。とにかくタコ的な邪神がジャケットの裏表にいるので、インパクト絶大だ。そうか、この化けものはこの四人のことを表しているのだろう。四人の化けものがツルんだバンド。またライヴ観たいのでよろしくお願いします。聴く側としてはひたすら口をぽかんとあけて楽しめばよいわけだが、やってる方はたいへんだろうなあ。でも、そんなことを少しも感じさせず、グルーヴとフリーキーの快感を味合わせてくれる。まあ、そもそもプログレ的な変態的リズムというのはそれだけで「この世」ならざる「あの世」の音楽なわけで、ドルフィー的というか、異世界の音楽を感じても全然おかしくないはずだ。プラスチックドッグスを聴くと、いつもドルフィーを思ったりする。この快感は地球のものではないのだ。だから、異世界から来たコスミックホラーの化身クトゥルーがジャケットなのかもな。かっちょええ。36分の超濃密なジェットコースター的ドラマが展開する傑作!
「FROZEN IN TIME」(R−RECORDS RRCD−016)
JUNKO AND RYOKO ONO
JUNKOというひとについてはほとんど知らず(そもそもノイズは非常階段とメルツバウ、ボルビトマグースしか知らない)、「非常階段」のライヴでスクリームしてたあのひとか……ぐらいの知識しかなかった。「非常階段」をはじめて生で聴いたときにはとにかく驚愕したのだが、そのときはPAのこともあって、すげーなー、と思ったにとどまったが、こうして小埜涼子とがっつりの一枚を聴くと、その凄さがひしひしとわかった。わかりました。おそれいりました。おみそれしました。このアルバムを聴いたのは、兵庫県知事選挙の結果があまりにひどかったので、酒を浴びるほど飲んだが、それではどうにもならず、なにか心をずたずたにしてくれるような音楽を聴きたい……と思いこれを選んだのだが、たしかに凄まじい破壊力を持った演奏だった。小埜涼子のアルトによる高音のスクリームの感じとJUNKOのスクリームの感じがめちゃくちゃ似ていて、ちょうど同じような音域で同じような音色で発されるので、悪魔のブレンドというか、えげつないことになっている。聴いているうちに、選挙がどうとかいう不純なことはどうでもよくなり、ひたすらこの音に没入できた。美しい。心が澄んだような気がする。やっぱり音楽は大事だ。JUNKOの絶叫は、「ずっと一緒やん」というひとがいるかもしれないが、全然そんなことはなくて、この全力のスクリームがリズムといい微妙な変化といい、小埜涼子のアルトとの完璧なコラボレーションになっていて、いわゆるインタープレイがずっと行われていて楽しいことこのうえない。これだけ押せ押せのボリューム全開のスクリームを徹底的に行ったうえで、大音量のなかに微妙なニュアンスを表現しているのは素敵であります。これは「純粋」な表現だ。乏しい語彙で申し訳ないが、ジム・ホールとビル・エヴァンスのコラボと同じようなことをやっているように私には思える。こんなことを書くと怒るひともいるだろうな。43分一本勝負の声とサックスの奔流。即興。人間の声って、サックスって、こんなこともできるのです。造物主はこんなことをするために人間に声を与えたのか、アドルフ・サックスはこんなことをするためにサックスを発明したのか。知らん知らん、知らんがな。はははは。傑作! なお、対等のデュオだと思うがミックス、マスタリング、カバーデザインを手掛けている小埜涼子の項に入れた。