yoshihide otomo

「SOUP LIVE」(BLUES INTERACTIONS PCD18509/10)
SOUP OTOMO YOSHIHIDE,BILL LASWELL AND YOSHIGAKI YASUHIRO

 大友良英、ビル・ラズウェル、芳垣安洋によるトリオ「SOUP」の二枚組ライブ盤。こっちはゲストが3人入っていて、トリオだけの「SOUP」とはまたちがった世界が展開されている。私の好みとしては圧倒的にこっちなのだが、それはゲストのおもしろさを聴いているわけで、「SOUP」本来の音楽性とは少しちがうところを喜んでいる、ということも承知している。でもさでもさ、坂田明がこのトリオをバックに思う存分ブローしまくるところなんか、ほかで聴けまへんで。この曲1曲だけでも聴く価値はじゅうぶんにある(長いんです、一曲とはいっても)。鳴りまくる坂田のアルトが、ほんと、圧倒的迫力でとどろき渡り、ほとんど「へへーっ」とひれ伏してしまう感じ。でも、坂田がゲストで入ったラスト・イグジットと似ているといえば、似ている(あたりまえ)。でも、正直いって、今回のほうがずっとずっとずっとずっと気に入った。最近の坂田さんの演奏のなかではぴかいちといっていいぐらい興奮した。二枚目に入ってる菊地成孔のテナーをフィーチャーした曲もいい感じ。えげつなさとかっこよさと洗練を、すっと身をかわしながら行き来するような菊地のテナーは、ほんとかっこええ。何度もリピートして聞きたくなるぐらい。勝井さんの入った曲もよい。それ以外の曲(つまりゲストなしの曲)は私にとっては、少し興味が薄れるわけだが、聴いてみるとやはりそれらのほうがシンプルで、バンドとしての主張はそっちのほうにはっきりと出ている。古来(といったら大げさだが)、この編成のバンドってロックだけじゃなくて、ジャズ〜インプロヴィゼイション系でもいっぱいあったわけで(あんまり例が思いつかないけど、SALTとかアルタード・ステイツとかさあ。あちらでもいろいろあるよね……)、そういうなかでこのグループの存在意義は何なんでしょうね。ミュージック・マガジンには、芳垣のドラムはファンクに向かない、みたいなことが書いてあったけど、そんなことどうでもいいです。ここにぎゅーっと詰まった爆弾のような演奏は、今の私にとって、やる気と刺激を与えてくれる「宝」なのです。なお、3人が対等のリーダーアルバムだと思うが、最初に名前のなる大友と項に便宜上入れた。

「OTOMO YOSHIHIDE’S NEW JAZZ QUINTET LIVE」(DIW RECORDS DIW−942)
OTOMO YOSHIHIDE’S NEW JAZZ QUINTET

 ニュー・ジャズ・クインテットのアルバムのなかでは一番好き。菊地が退団するまえなので、2サックス編成。テナーが大フィーチュアされており、とくに最後の曲ではブロウしまくりである。ティポグラフィカやザビヌルバッハとはちがった、大げさで大向こう受けするようなノリ一発のフリーキーなブロウをわざとしている。スウィングからフリーまでのジャズというかサックスの歴史を体現しているようなひとで、あらゆるスタイルで吹けるうえ、そこに自分を出していける。よほどのテクニックと音楽性がないとできないことだが、ときにはそのテクニックも音楽性も隠してしまうこともできるのである。たいしたもんだよなあ。そして、私の耳はいつも菊地に向いがちだが、もうひとりのサックスである津上研太……このひとはほんとにうまいよね。ほれぼれする。もちろんすべてを支える芳垣安洋のドラムも貢献大である。彼以外がドラムだったら、このバンドはべつの音を発しているだろう。

「GUITAR SOLO PERFORMED BY OTOMO YOSHIHIDE」(DOUBT MUSIC DMF−101)
OTOMO YOSHIHIDE

 大友良英というひとの魅力のひとつは多様性だとおもう。このひとのなかにはさまざまな音楽や楽器や知識が同居していて、それをずらっと並べたてるだけでひとつの絵巻物になる。音楽にかぎらず、おそらく演劇や舞踏や詩や文章……とにかくさまざまな要素がいっぱいに詰まっているという点で、大友良英は一昔まえのクリエイター、たとえば寺山修司や唐十郎などに近いような気がする。ターンテーブルやギターによる即興は彼のほんの一側面であり、世界各地をとびまわり、ニューカマーからオールドタイマーまでさまざまなミュージシャンと共演し、大きな演奏組織をコーディネートし、曲を書き、演奏し……たいしたひとだと思う。しかし、本作ではギターだけの即興、というシンプルでなかなか怖いセッティングのみにしぼり、それをライヴ録音して世に問うという。あえて多様性を捨てたようにも見えるが、実際に音を聴いていただければわかるが、このシンプルな状態においても、大友良英の多様性はいささかも減じられていないのである。オリジナルとスタンダード中のスタンダードを交互に出してくるような露骨な手法もあざとくない。全部、大友良英の世界のなかのパーツなのだ。つまりはギター一本でも存分に表現できるし、やることはいくらでもある、という自分のなかにある引き出しの数に対する自信があればこそのギターソロ(しかもライヴ)なのだと思う。すばらしいジャケットデザインも含めて、ようできたアルバムだよなあまったく。

「OTOMO YOSHIHIDE’S NEW JAZZ ORCHESTRA」(DOUBT MUSIC DMF−102)
ONJO

聴くまえの興味はなんといってもマツ・グスタフソンとアルフレッド・ハートが並ぶ驚異のサックスセクションであるが、聴いてみるとそんなものは「瑣末」と思えるほどの密度の濃い演奏がぎっしり。お約束のノイズではじまり、聴き手の期待感をあおる。こういうところはじつにうまい。そのあとオーケストラがドカーンと爆発するのかと思いきや、カヒミ・カリイのヤバいヴォイスパフォーマンスがぽつん……という感じではじまり、それを包み込むように管楽器が徐々に自己主張をはじめる。なるほどなあ……「ただのオーケストラ」ではないよ、という展開。どろどろとマグマのように煮えたぎる、熱く混沌としたコレクティヴ・インプロヴィゼイションがつづき、スクラッチノイズがブツブツとこちらの神経を逆撫でするなか、なんとも好奇心をくすぐる演奏がはじまり、このあたりで完全に大友良英の世界に引きずり込まれている。オーネットの曲はばらばらに解体されているし、つづく「ロスト・イン・ザ・レイン」(雨中の喪失?)という思わせぶりなタイトルの曲はシンセっぽいイントロにつづいて、またしてもカヒミ・カリイの、なんというかうるうるしたボーカル。これはずるいよな。「ニュー・ジャズ・オーケストラ」であることをこっちがすっかり忘れて、聞き入ってしまう。つづく「オレンジ・ワズ・ザ・カラー……」はギル・エヴァンスでおなじみのミンガスの曲。これをどういう風に演奏するのか、と期待していると、冒頭こそ(どうなるのかなあ、このあと……」的にはじまったが、そのあとはなんとかなりストレートな調理。そして、大友自身のオリジナルにメドレーとしてつなげるという大胆な展開。マツのバリサクはじめ、サックスセクションが、ええ味出してます。つづいて「真夜中の静かな黒い河のうえに浮かびあがる白い百合の花」という、おそろしく長い名前の曲。またしても官能的なボーカルがなんだかよくわからんことを囁く。なんじゃ、こりゃーっ! と悶々とする気持ちが伝わったかのようにサックスがじわじわ咆哮し、とろとろの脂のような世界を形成する。そしてラストの「ア・シ・タ」という曲は、これまた美味しい即興的イントロダクションではじまり、女声ボーカルフィーチュアのねっとり・まったりした即興曲。「言葉」というものを現代の音楽においてこういう風に使えばいいのか、ということを教えてくれる。美しいです。演奏も、日本語も。というわけで、全体として「オーケストラ=ビッグバンド」と考えると大きなまちがいである、ということを再認識させてくれるが(渋さ知らずは、まさにオーケストラでありビッグバンドでもあります)、これだけ豪華な布陣を得て、こんなスカスカの音で、しかもスリリングで、しかも温かい演奏を作り上げた大友良英に拍手。

「LIVE VOL.1 SERIES CIRCUIT」(DOUBT MUSIC DMF−115/116)
ONJO

二枚組ライヴだが、1枚目の冒頭、ライヴっぽさがまるでないうえ、「オーケストラ」っぽくもない、静謐な演奏でスタート。うーん、思わせぶりだなあ(だいたい、大友良英というひとのアプローチは、つねに思わせぶりなのだ。ストレートアヘッドではなく、変化球をばんばんぶつけてくる)。この感じがめっちゃいい。そのあと、ドルフィーの「アウト・トゥ・ランチ」(なんとポエットリーディング付き)をぐちゃぐちゃに解体したような演奏。途中でボサ風になったり、やりたい放題。そもそもドルフィーのこの曲の演奏はバップを解体・再構成したようなものなので、それをまた解体してしまったわけである。ちゃんとオリジナル通り(?)ビブラホンも入ってるしね。3曲目は「プレイガール」のBGMだが、これをベルリンで演奏したということに驚きと喜びを感じる。女性ボーカルがけだるく「プレイガール……プレイガール」と連呼するだけのこの曲、ドイツの観客はなんだと思ったでしょうか。こういうのを聴くと、良い意味で大友さんは「いちびり」だと感じる。このグループは真摯と洒落が同居しているのだ。そのあとは大友の曲が3曲並ぶ。フリーインプロヴィゼイションのような演奏がつづき、最後はバスクラフィーチュアのバラード(いわゆる「盛り上がり系のバラード」)という構成もよい。二枚目はさらに充実しており、一曲目のドルフィーの「ストレート・アップ・アンド・ダウン」から「真夜中の静かな黒い川のうえに浮かび上がる白い百合の花」(これもなんとも思わせぶりなタイトルだ。「忘却の船に流れは光」みたいなもんか)という23分もあるメドレー(?)がすごい。女声による朗読みたいなものが聞きとりにくいのもよい。芳垣のドラムをバックにした混沌としているようで(たぶんコンダクションされた)筋の通ったフリーブロウイングがかっこいい! むちゃくちゃのようで、用意周到なアンサンブル。こういうのはほんと、ツボにはまる。二曲目「涙から明日へ」の女性ボーカルのハミング(?)によるテーマ提示はそれだけで感動的で、これは大友氏がよく使う方法だと思うが、このあたりたぶん「してやったり」的な感想を演奏者としては抱いているのではないか……これはあくまで想像ですけどね。弦楽器をフィーチュアした3曲目は非常にスリリングで、聴いていてドキドキする。最後はまたまたドルフィーの曲で、ノイズギターが暴れる展開など、ドルフィーが生きてたら瞠目するだろうな、と思ったり、また、いやいや、ドルフィーもこんな感じで演ったにちがいないと思ったり……。とかなんとか、まあ、いろいろ考えさせてくれるという点でもすばらしいアルバムだと思う。要するに、触発してくれる=いい演奏なのだ。

「LIVE VOL.2 SERIES CIRCUIT」(DOUBT MUSIC DMF−117/118)
ONJO

一枚目がよかったので期待が高まる。ということはハードルもあがっているわけだが、なんなくクリアした印象。一曲目の「七人の刑事」はこのバンド(とONJQ)が自家薬籠中のものとしている感がある「ゆったりした耳なじむメロディーをはじめはゆったり、そのうちに激しいリズムに載せていき、最終的にはめちゃめちゃなエネルギーをともなって爆発する」というパターンの変化系。典型はDIWからでたONJQのライヴ(傑作!)に入ってる「EUREKA」(このアルバムにも入っている)だが、このシリーズの一作目の「クライマーズ・ハイ・オープニング」という曲などもその系統。こういう展開の演奏ではドラムが鍵だが、なにしろ芳垣さんなのでまったく問題なし。というか、凄すぎて目が点にある瞬間多々あり。もちろん猛者を集めたグループなので、どのひとが……とかはないのだが、ドラムだけを聴いていてもじゅうぶん興奮できるアルバム。ドルフィーの二曲目やヘイデンの「ソング・フォー・チェ」などをメドレーにした3曲目は、普通のフリージャズとして聴いてもじゅうぶん楽しめる。まあ、こういうサックスがギャーっといってドラムがガガガガガガというような演奏が好きなのです。4曲目の「スーパージェッター」は、我々にとってはなじみのあるこの曲をバラード風というか癒し系オルゴールみたいに再構築して、「どうです?」と余裕たっぷりに示してみせた演奏。5曲目は騒音系のフリーで、高柳昌行的な演奏といったら誤解を受けるだろうか。「集団投射」的な感じである。かっこいい! 二枚目は、だれもが(どんな演奏になっているのだろう)と注目するはずの「ルパン3世」で幕をあける。こういう注目をひくような「思わせぶり」がじつにうまいのである。いやー、この曲にはまいりました。拳銃の音が演奏と同じ比重で扱われている。「ルパンジャズ」など足下にも及ばないものすごさ。ここまでひたすら拳銃の音を前面に押し出した即興演奏があっただろうか。こういう感覚は、ターンテーブル奏者である大友良英ならではなのだろう。この一曲だけでも価値あるアルバムといえるが、もちろんほかの演奏もすごくて、この二枚組の第一集・第二集の4枚を一度に出すというのはダウトミュージックの大英断だとおもうが、出す意味はあったなあ。二曲目は、一転して三十分にも及ぶ大作でインプロヴィゼイション主体の曲(第一集にも入っていたが、べつの曲みたい)。たとえていえば、テリトリーバンドっぽいか。三曲目はまたドルフィーの曲だが、曲の構成など主体として即興を展開しているわけではなく、曲からインスピレーションを得たうえであとは自由にしている……のかな? そして最後の曲はもう感動の嵐。ささやくような官能的かつ叙情的なヴォイスに導かれて管楽器たちが甘美な旋律を奏で脈動し激昂し果てていく。あいかわらずええ曲やー。というわけで、へとへとになったが心地よい疲労感である。たまにはこの四枚を聴いて、汗を流したいとおもう。

「SOLA」(EWE RECORDS EWCD−0135)
OTOMO YOSHIHIDE INVISIBLE SONGS

 ここまで来ると、ジャズとかフリーとかインプロヴァイズとかノイズとかロックとかクラシックとかもう関係なくなる。大友良英という音楽家のなかにある「音楽」を全部見せていただいている感じ。そこには彼がこれまで遍歴してきたあらゆる音楽、いや音楽だけではなく、あらゆる事象が含まれている。そんなことはあたりまえで、どんなミュージシャンもそうじゃないのか? という意見もあるだろうが、だが、それを実践できているミュージシャンがどれだけいるだろうか。たいていはジャンルやハコや共演者に飲み込まれて、全部を出してそれを効果的に並べる、というようなことはできずにいる。大友がそれを実践しているというのは、とてつもなく強い意志の力によって可能になっているのだろうと思う。このアルバムを聴いて、いろいろあざとい部分とか、これはなあ……と反発するような部分とか、思わせぶりな部分とかすべてを含めて、大友という音楽家の凄さをひしひしと感じた。楽しく聞いていながらも(エンタテインメント性も彼の音楽の特徴のひとつ)、どこかしから居住まいを正さざるをえないようなところがあり、なんとも大きな大きな作品ができあがったなあと思う。とにかく、このアルバムを聴くひとは、大友のこれまでの演奏とか仕事とか人となりとか(まあ、もちろんそれらのうえに積み重なっているものではなるのだが)そういったすべての先入観を一旦捨てて、それから聴いて欲しい。あ、聴いて欲しいなどとえらそうなことを書いてしまった。でも、そういう気持ちなのです。

「LONELY WOMAN」(DOUBT MUSIC DMF−138)

「BELLS」(DOUBT MUSIC DMF−139)
OTOMO YOSHIHIDE’S NEW JAZZ TRIO +

 この2作は双子のようなものだから一緒に感想を書いてもいいだろう。大友良英率いるトリオOJTがふたりのゲスト(
)を加えた5人で、ギターソロからクインテットまでのさまざまな編成で、一枚はオーネットの「ロンリー・ウーマン」だけを、一枚はアイラーの「ベルズ」だけを演奏した、かなりコンセプチュアルなアルバム。こういう企画はもう、聴くまえからぞくぞくするなあ。傑作に決まってるとは思っていたが、実際、こちらの想像のうえをいくのだから
もうとにかく凄いことになっておるのです。たいがいのジャズファンは、えーっ、一枚をロンリー・ウーマンばっかり? そんなん飽きるやん、だれが買うねん、と思うだろうが、こういう音楽が好きなひとたちというのは、逆に、それはすごい、なにがなんでも聴きたい! となるわけだろう。聴いてみて、興奮しまくりました。同じ曲をずーっとやっていることにまちがいはないのだが、正直、同じ曲とはおもえない、というか同じ曲とか違う曲とかいう意味がないと思った。つまり、全体をとおして一枚はもうロンリー・ウーマンそのものであり、もう一枚はベルズそのものであり、何曲入ってるとかそういうことは無意味だ。ここまでくると「天才」という言葉をつい使ってしまいたくなる。こういうコンセプトのもとに2枚のアルバムを作ってしまうということ自体が凄いが、それをやりとげて、リリースするということも含めて、これは偉業だ。偉業は異形に通じる。こんな異形な偉業を過去だれがやったのか。パーカーの別テイクが、とか、アンドリュー・ホワイトのジャイアントステップスばかりのアルバムとかとは意味がちがうのだ。しかも、これはこっちの先入観かもしれないが、ロンリーウーマンのほうはオーネットの、ベルズはアイラーの音楽性を感じるし、それをなぞるというのではなく(なぞりになるわけがない。だいたい管楽器を排している点がそもそもコンセプテュアル)あくまで2010年のインプロヴァイズドミュージックになっていることもすばらしい。とにかく、頭でっかちではまったくなく、めちゃめちゃ肉体的でかっこいい演奏なのだが、聴いていると、そのベースにあるシリアスさ、メンバー個々の凄み、ともに目指している頂点の高さ、そして即興音楽50年の歴史がここに結実していることの感動……などなどが一斉に押し寄せてくる。傑作というほかない。2010年という年は異常な年であって、日本ジャズ〜インプロヴィゼイションシーンにおいてライヴもそうだが、アルバムとしても傑作がボコボコと星の数ほど生まれた年なのだ。そして、そのうちの多くがこのdoubt musicからリリースされていることを考えると、同レーベルの化け物ぶりがわかる。しかし、こんなにも日本のジャズ〜インプロヴィゼイションが充実しているときはない、というのに、どうして日本のジャズ雑誌の特集はバド・パウエルなのか。どこを見とるのか。この異常な事態をなぜ感じないのか。いやになりますよほんと。

「OTOMO YOSHIHIDE YAMAMOTO SEIICHI GUITAR DUO」(F.M.N SOUND FACTORY FMC−041)
OTOMO YOSHIHIDE YAMAMOTO SEIICHI

ギターミュージック(と私が勝手に読んでいる音楽)が苦手である。ギタープレイヤーが集まって、にやにやしながら、お、あなたはそう来ましたか、じゃあ私はこんな感じで、おっ、それは知らなかった、でもこれはどうですか、おおっ、やりますなー、では私はこれで……みたいな、ギター奏者にしかわからない技の披露のしあい、というか、音楽として成立する喜びの根幹に「まずはギターであること」があるような演奏のことである。スウィングギターのセッションなどを観に行くとたいがいそういう感じだし、大昔に流行ったラリー・コリエルとかジョン・マクラフリン、パコ・デ・ルシア、アル・ディ・メオラなどがやってたバンドとか、これも昔の渡辺賀津美のギターセッションなんかは、あー、わしらにはわからん喜びを見せつけよるなあ、と思うだけだし……。とにかくギター系の弦楽器はあんまりわからんのだ。しかし、しかしですよ。こういうのはめちゃめちゃ好きです! これってギターか? いや、ギターだ。たしかにギターにしかできん音楽だ。高柳昌行や内橋さん、そしてこのアルバムなどを聴くと、なんてかっこいいんだろう、なんて自由なんだろう、なんてすごいんだろうと泣きたくなる。いや、ほんま、泣きたくなるのである。ギターにくらべると、サックスなんか不自由だよなあ、と思ってしまい悲しくなる、という部分もあるが、やはり感動で泣きたくなるのだ。もちろんサックスがギターより優れている部分をあげろといわれれば、100ぐらいはすぐにあげられる。しかし、ギターという楽器のすぐれた部分というのは、こういうすごいひとたちがデュオ形式で演奏すると、いやもう、露骨にわかってしまう。あー怖。1曲目の、高柳さんを想起させるような過激で天国へ連れて行かれるような至福のサウンドもすばらしいが、2曲目のアコースティックな、バラード的な演奏もハラワタに沁みる。3曲目の、ぐっ……と気持ちを抑えた微妙かつエネルギーをじりじりじわじわと内側にため込んでいき、重苦しい展開の果てに、それを地味にどろどろと爆発させるような演奏も、めちゃかっこいい。最後のハレーションのようなめくるめく光景は、まるでオーケストラを聴いているようだ。しかも、エフェクターとかを使いまくっているのに、なぜか印象は「アコースティック」なのだ(これは内橋さんの演奏でもよく感じること。このあたりが私の好きなギターとそうでないギターのちがいのような気がするが、今、それには深入りしない)。4曲目がまた、「弦をはじいている」という感じのプレイで、これがまた死ぬほどいい。なんやねん、この感じっていったい……。はじいた弦の余韻ひとつひとつがじつにすみずみまで気持ちが行き届いていることに感銘をうけます。夜中に月を見上げていて、知らず知らずのうちに、その月に吸い込まれているような演奏だ。──え? さっきから月並みな表現ばかりだって? いやはや、こういう凄い演奏を表現するには、こういう陳腐で月並みな表現で十分なのである。とにかくこのデュオは、聴いてよかったです。もし、ギターデュオなんか……という気持ちで聴かなかったとしたら、と思うと怖い。それぐらいおもしろい、すばらしい、つまりおもしろすばらしい演奏だった。名盤です。

「ONJQ LIVE IN LISBON」(CLEANFEED RECORDS CF063CD)
OTOMO YOSHIHIDE’S NEW JAZZ QINTET

 リスボンでのライヴ盤だが、ジャケットは日本の洋食屋「リスボン」の店頭看板。よくクリーンフィードがこれでOK出したな。遊び心いっぱいの、ええ雰囲気のアルバム。これが出たとき、芳垣さんが「おまえがめっちゃ好きそうな、すごいの出来たから聴け」と言われて、ライヴの物販でただちに購入したことを覚えている。マッツ・グスタフソンが入っていて、津上研太との2管で、バリサクとテナーを吹き、ちゃんと譜面もきっちり吹いているが、テーマを吹くときの音色の美しさや音程の確かさに驚く。1曲目はチャーリー・ヘイデンのおなじみの「ソング・フォー・チェ」から大友さんのオリジナル「レデューシング・エージェント」につながる演奏。大友さんのギターソロのあたりで、芳垣さんが叩きまくり、めちゃめちゃ昂揚します。そのあとのドラムソロも、しっかりしたテクニックに基づいているのは当然なのだが、そんなことが微塵も感じられないぐらいメーターの振り切ったえげつないもので度肝を抜かれる(しかも、ドラムソロで終わる)。2曲目はドルフィーの「セレーネ」。マッツのハーモニクスの吹き伸ばしと津上さんのアルト、ギターのノイズ……などが不穏なインプロヴィゼイションを冒頭から延々と続け、いやがうえにも期待が高まる。そのノイズがぶっちぎれた瞬間にドルフィーミュージックが幕を開けるあたりのかっこよさはしびれまくる。壮絶にうまい展開。さすがは大友さん。こういう音楽におけるかっこよさを完璧にわかってる。そしてテーマのあとはふたたびノイズ。それがどんどん人食いアメーバのように膨れあがっていき、これはどうなるのか……という絶頂で、さっきと同じようにゆったりしたジャズに。いやー、めちゃめちゃかっこええ。全員がのりのりでやってるのがわかる。ドルフィーのテーマに対して、ドルフィーライクなソロを行わず、これがドルフィーの精神だとばかりに自己主張した演奏のように思われるが、それは完璧な形で成功していると思う。すごい。3曲目は大友さんの曲で、「フラッター」。25分もある本作でもっとも長い演奏。暴れまくるドラムとギターのうえをたゆたうようにバリサクとアルトがメロディーを奏でていく。ここでのマッツのバリトンソロは、凄まじい咆哮をしていると同時にバラードでもあり、その表現は、深手を負ってもがくが次第に弱っていく野獣のようで、聴いていて心が締めつけられる。つづくアルトソロも無伴奏からはじまるが、そこでの音量を極端に抑え、ほぼサブトーンによるインプロヴィゼイションの豊饒さには感動します。バックが、そーっと入ってきてからの展開も、このアルト奏者の実力が存分に発揮されたものだと思う。芳垣さんの凄まじいドラミングとともに本作の白眉といえる瞬間を形作っている。そして、ノイジーなギターの無伴奏ソロになり、けっこうきつい演奏へと雪崩れ込んでいく。これはリスボンの聴衆にものすごくウケたようである。最後は、このバンドではおなじみのジム・オルークの「ユーレカ」だが、いつもはもっと延々とやっていると思うがここでは14分ぐらい。芳垣さんのトランペットも聴かれるます。サックスがテーマをずーっと吹き、そのバックで全員大暴れという展開はわかっているのに、なぜかこれだけ異常な盛り上がりを示すのだ。ドラムの活躍、ギターもすごい、ベースも暴れている。サックス二本だけがしっかりしている……と思いきや、だんだんそれも怪しくなっていく……というこの狂乱の宴。すごいなあ。傑作だと思います。

「OUT TO LUNCH」(DOUBTMUSIC DMF−108)
OTOMO TOSHIHIDE’S NEW JAZZ ORCHESTRA

 ONJOがドルフィーのアルバム「アウト・トゥ・ランチ」の曲をまるごと演奏したアルバム。ものすごいメンバーが集結しているが、大友さんが彼らの演奏をまとめあげ、ひとつの巨大な世界を作り上げて、ドルフィーへのトリビュートとする技術には驚くしかない。こういうアルバムの場合、そのアルバムの収録曲をそのまま演奏しようが、バラバラに解体して再構築しようが、断片を残してまったく別の曲にしてしまおうが、それはたいした問題ではなく、要は、全体としてドルフィーへのトリビュートになっているか、ドルフィーの音楽を現代に反映させたものになっているかが大事だと思う。それを言うなら、ドルフィーへのトリビュートになっていなくてもいいんじゃないの? ドルフィーの音楽から曲だけを持ってきて、あとはあくまで自分の音楽にしちゃえばいいんじゃないの? という意見も当然出てくるだろうが、それだったら、だれかへのトリビュートアルバムにする意味がない。あえて無視するにしても、どこかに一旦はドルフィーの音楽と対峙する意識がないと、無視もできない。で、本作はどうなっているかというと、ほぼ完璧に「これは確かにドルフィーだ。この演奏の現場にドルフィーの魂は存在したと思う。やっぱりセンスやな。トリビュートするにしても、センスが必要なのだ。サックス奏者をはじめとして、どの奏者もドルフィーのフレーズを真似しようというものはいない。それぞれの個性を露骨に出したソロをぶちかまし、それが最終的にドルフィー的精神(というのも変な言葉だが)を感じさせる演奏になっていく。つまり、人選も大事だということだろう。1曲目はいきなりテーマを聴いているだけでなんとなく感涙するのはなぜか。テーマ後のブレイクからアレックス・ドナーが個性丸出しの演奏をし、それをアルフレッド・ハートのバスクラが引き継ぐ。虫が鳴くような、鳥がさえずるようなアルトソロのあと、マッツ・グスタフソンのバリトンがぼりぼりばりばりという破裂音主体のソロをする。ギター、ドラム、ベース、エレクトロニクスなどなどが互いに反応しあうあたりを聞いていると、なるほど、ドルフィーだなあと思う。2曲目はバスクラが冴え渡るオープニングから、めっちゃええ感じなのだが、テーマがはじまると、またしてもなぜか感涙しそうになる。この不穏で美しいテーマの吹き伸ばしを聞いているだけでシアワセ。まるで雅楽のようでもあり、どこかの民族音楽のようでもあるが、そういった「異世界」感がまた、ドルフィー的である。リード楽器も、トランペットも、弦楽器も、電気楽器も、それぞれが音を歪めながら長く長く伸ばし、それらが渾然一体となって、不思議で不気味な「あちら側」のポップミュージックを奏でる。3曲目は、本作中最もリアレンジを露骨にほどこした演奏だと思う。8ビートのハードロック+ノイズというドルフィーチューンは、たぶんこういう曲が1曲は入ってるだろうなとだれもが思っていたものだと思うが、その期待に期待以上に応えた感じの、ノイジーに暴れまわる各プレイヤーのぐじゃぐじゃなサウンドが、どこかでドルフィーとつながっている。生活向上委員会や坂田オーケストラなども連想させられるような、ビッグバンドジャズとしてのONJOの醍醐味。4曲目は、ゆったりとした4ビートと混沌とした部分が交互に現れ、そこにヴィブラホンがからむところなど、オリジナルの演奏の雰囲気が残っている。各ソロをフィーチュアした、というより、バンド全体がねっとりと融合してひとつの生き物のようになっているところが聞きものか。最後の曲は、非常にビッグバンドジャズ的なスコアになっていておもしろいが、そのあとリズムが消えて、微細な音響の変化によるインプロヴィゼイションのパートになり、延々とそれが続くが、いつのまにかグスタフソンが大音量で吹きまくり、芳垣さんが叩きまくるというパートに達して、そこからテーマへと戻る。フェイドアウトして一旦終了するのだが、そこから完全即興の曲(?)へと移行する。無音の部分が多く、そこに微妙なノイズが蛍が明滅するように現れては消える。ボリュームも上がったり下がったりして、異常なまでのダイナミクスがついている。人力ノイズが墓場のお化けのように、いろいろな箇所から、ときには思ってもみなかったような場所から細々と出現し、たがいにからみ合って、そこになにかが胎動する。正直、かなり抽象的な音楽なので、集中力を途切れさせないようにじっと我慢して聞いていると、それらの音の断片のひとつずつが生きているようにじりじりと集まってきて、最後になにかひとつの集合体になりそうな直前で、この演奏は終わる。かーっくいーっ! 日本人がここまでドルフィーを理解して、自分の血肉とした表現をなしえたことに感動します。

「OTOMO YOSHIHIDE SACHIKO M EVAN PARKER TONY MARSH JOHN EDWARDS JOHN BUTCHER」(OTO ROKU 009)
OTOMO YOSHIHIDE

 大友良英とSACHIKO MのふたりとイギリスのミュージシャンとのOTOでのライヴをヴァイナルにしたもの。2009年の録音だから、ちょっとまえの演奏ということになるが、A面はこのふたりにエヴァン・パーカー、トニー・マーシュ、ジョン・エドワーズが加わったクインテット、B面はさらにジョン・ブッチャーが入ってのセクステットによる即興2本勝負。だれでも名前を知っている大物プレイヤーばかりなので、聴きごたえがあるとかレベルがどうこうとかいうことは考える必要もなく、ただひたすら音を楽しむだけでよい。マジで、すごい場面満載で、両面聴くとおなかいっぱいになること請け合い。個人的にはエヴァン・パーカーの(ソプラノでなく)テナーがたっぷり聴けることと、エヴァンと大友ギターのからみのあまりのカッコよさにうなりました。ものすごくジャズっぽい瞬間があって(A面のエヴァン・パーカーのテナーがブロウするところとか、B面のサックス2本のからみとか)、ああ、ここはジャズやなあと思ったりするのも楽しかった。手練れというか猛者たちというか、このあたりのひとたちになってくると、マンネリとかクリシェとかいう言葉すら意味を失うな。毎回新鮮であることがそれぞれのやりかたでちゃんと保たれている。リセットの方法はそれぞれだろうが、あたりまえのようにフレッシュだ。50分ほどメンバーのひとりになったつもりで心を遊ばせてくれて感謝。真剣に聴けば聴くほど楽しい音楽。こういう、私がめちゃめちゃ好きなタイプの演奏が毎晩のように行われているのだろうなあ、OTOは。でも、日本のライヴハウスなどもじつは負けてはいないのだ。なお、ミックスはジョン・ブッチャーが担当している。

「PIANO SOLO」(OTO ROKU 008)
OTOMO YOSHIHIDE

 大友良英さんの初のピアノソロアルバムだというので、ミンガスやシェップやディジョネットなどが余技のようにして披露するピアノみたいなもんかと思った私はおろかでしたーっ。全編、ふつうのピアノの音はほぼゼロで、いつもの大友さんの音楽なのだ。たぶん、なにも知らされていなかったら、ギターやサンプラーその他を使った即興なのだろうと思って聴いていただろう(ときどき弦をひっかいているような音がして、ああ、ピアノやなあと思うけど)。それにしても美しい演奏で、酔っ払って聴くと、ちょっと泣きそうになる。非常にリアルな一面もあって、まさに眼前でその場で作り上げられていくスリルや生々しさがひしひしと感じられる。ダイナミクスの変化も迫力があり、ノイズっぽいところも、抒情的なところも同居していて、超かっこいいです。内容はすばらしいのだが、ギターやサンプラーでもできるようなこれをなぜピアノで……という気もしたが、おそらくピアノでないとこの「音」は出てこないのだろう。それは演奏者本人でないと、聴き手にはわからないことなのだ。たぶん現場で生で見ていたら、そのあたりのことはすんなり納得できるのだろう。やっぱり生で見るのはだいじだ。買ってから何度も聴いているが、途中で音がパッととまる箇所が何度かあって、そのたびに(なぜか)興奮するのです。えー、大友さんのピアノソロ? と思っているひとがいたら、ぜひ聞いてみてください。かっこええから。なお、45回転なのだが、私はうっかり33回転で両面とも再生して、なんやこれーと思ったのは内緒にしておこう。

「GUITAR SOLO 2015 LEFT」(DOUBTMUSIC DMS−155)
OTOMO YOSHIHIDE

 大友さんのソロ。高柳昌行のギターを譲り受けての演奏だというが、そのギターがあの銀巴里セッションや解体的交感、ロンリーウーマンなどの名作のレコーディングに使われた百戦錬磨の本当の愛器だったようで、だからどうだというわけではないのかもしれないが、やはりなにかを「受け継ぐ」とかそういう心の震えやテンションは伝わってくる。正直言って、有名曲(「ソング・フォー・チェ」「ロンリー・ウーマン」など)を演奏するということに果たして意義はあるのか、と思いながら聴いたわけだが、途中からそんなことはどうでもよくなった。それぐらい気に入ったのです。とにかく聴いてると、最初は適正音量だと思っていたものが、次第にでかくなってきて、こりゃ近所迷惑やで、と一旦下げると、しばらくしてそれでもでかくなってきて、また下げる、という繰りかえしだった。大友さんが弾きながらエキサイトしていく感じがよく伝わってくる。さっきも書いたように、とくに「ロンリー・ウーマン」のテーマの弾き方自体は非常にストレートで露骨なほどで、これがロンリー・ウーマンである意味はあるのか? テーマをカットしたってかまわないのではないか? などと思いながら聴いていたわけだが、聴いているうちに、いやいや、やっぱりこれはロンリー・ウーマンだからでてきた表現・展開であって、それ以外ではないのだと思うようになった。普段はそんなことを考えないのだが、本作においては曲と即興が不可分なのかどうかということを聞きながらずっと考えさせられた。そういう内容の演奏だったということだろう。ほかの曲もしかりで、私には最高のソロインプロヴィゼイションだと思えた。私はギターのことをほとんど知らないので、これがギターミュージックとしてどうなのかはわからないが、これが高柳さんのギターを使ったから、とか、そういう次元とははるかに遠いところで構築された音楽だということはわかる。だれそれのギターを使った、とか、どこそこのスタジオで録音した、とか、だれだれがブースで聴いていた、とか……そういったことは本人にとっては重要かもしれないが、我々聴き手としてはおもろいかどうかだけなのだが、このアルバムはひたすらおもろかったです。どれだけ馬鹿でかい音になったとしても心地よさはなくならないタイプの即興で、そのあたりが物足らないというひともいるかもしれないが、私は聴きながらいろんなことを考えさせられたし、「あまちゃん」からファンになったひとにも、このアルバムは無条件ですすめられるやつだとも思いました。メロディもリズムもはっきりと提示されているが、いたるところに自由があったなあ。まちがってるかもしれないが、たとえば超絶なスパニッシュギターの名手を聴いているような感動もある(とくに3曲目とか。めっちゃすごいよ)。5曲目ではボーカルも聴けます。

「OTOMO YOSHIHIDE’S NEW JAZZ QUINTET + TATSUYA OE」(P−VINE RECORDS PCD−5850)
OTOMO YOSHIHIDE’S NEW JAZZ QUINTET + TATSUYA OE

 2曲収録。ある意味、大友良英ニュー・ジャズ・クインテットのアルバム中最大の問題作かもしれない。当時のレギュラーメンバーに、大江達也さんというDJが加わって、音源をいろいろ遊びまくるというアルバム。いつものONJQのアルバムに比べると非常に静謐な感じの演奏で、冒頭も、DJによって切り刻まれ別の様相を呈した音楽として出発するが、それがしだいに溶け合って、というか、音源とDJという支配する・される関係ではなく、ひとつのバンドのようになって、大きなうねりをともないながらグルーヴしていくさまは圧巻。最初聞いたときは、ニュー・ジャズ・クインテットと名乗っているのに、本作はあまりジャズっぽくないな、と思ったが、いやいや、そうではない、これこそジャズではないか、という考えに変わってきた。よく聞くと、ベースは唸り、サックスはその場その場で好き勝手なフレーズを吹き、ギターは血みどろのリフを弾き、ドラムは隙のないグルーヴを叩いている。ときどきハッとするような即興的なドキュメントが生まれて、また消える……そんなさまを聴いていると、いや、これがジャズだよな、と思う。1曲目は、大江作成のトラックのうえをONJQが演奏し、それをまたミックスしている。2曲目はその逆である。しかし、「たがいの音を聞き合って→即興」というプロセスはまったく一緒なので、こういういきいきした狂った世界が作り上げられるわけである。何度聴いても新鮮で、いわゆる音響派的なものとはちがって、終始グルーヴしているし、とんがっている。めちゃかっこいいし、手ごたえというか聞きごたえのある内容。たとえば2曲目の菊地が歌心あふれるバラード的テナーを吹くバックで津上のサックスが狂ったように暴れ回り、その両極端なふたつの要素がギターやベースやドラムによって包みこまれ、とんでもない世界が現出しているあたりなど、ちょっとほかにない凄さ。緊張感プラスグルーヴが持続するので、長尺だがまったくダレずに聴けます。あと、2曲目は40分以上あるのだが、20分を過ぎたあたりで一旦終わり、そのあとずっと無音が続くので、終わったと勘違いするかもしれないので注意(鈴の音とともに、テナーが、サブトーンでボーッ、ボーッとリズミカルにロングトーンをしはじめるまで待つべし。でも、たったそれだけですごくかっこよく聴こえるのは魔法みたいなものか)。傑作。

「OTOMO YOSHIHIDE & PAAL NILSSEN−LOVE」(JVTLANDT JVT0011)
OTOMO YOSHIHIDE & PAAL NILSSEN−LOVE

 しょっぱなから繰り広げられる大音量でのぶつかり合い。ニルセンラヴの凄まじいドラムに対応するには、よほどのスピード感が必要だが、大友さんのギターがスピード的に十分の余裕を持っていることがよくわかる。ニルセンラヴのドラムは、まさしく「千変万化」してどんどん変化していくのだが、どんな瞬間もえげつないぐらいのリズムの爆発が感じられる。説得力というのか、本当に魂を込めて叩いていると思う。大友さんのギターも千変万化という点では同じだが、もっと楽々と垣根も崖も境界線も飛び越えて飛翔しているようだ。少しタイプのちがうこのふたりだから、こういう演奏になったわけですなー。いやはや、日本の即興界にはギターの人材が豊富すぎる。全一曲で、33分一本勝負だが、最初からぶっとばし、途中さまざまな場面を挟んで、最後も異常に盛り上がり、そしてあと2分ぐらいになったところからの凄まじい展開→エンディングは呆れかえるパワーで、あっという間に聴きとおしてしまう。いやー、かっこええ。

「OTOMO YOSHIHIDE SPECIAL BIGBAND LIVE AT SHINJUKU PIT INN」(PIT INN MUSIC PILJ−0009)
OTOMO YOSHIHIDE SPECIAL BIGBAND

 大友さんのあまちゃんビッグバンドは、メンバーが即興とかフリージャズ、ノイズ……みたいなひとではなく、きちんと譜面を吹くひとが集まっているというようなイメージがあったので、正直、あまり関心がなく、最近になってようやく聴いたのだが、いやー、びっくりしました。私の大友さんの(アレンジの)印象は、あまりアレンジをせず(1番から4番までちがうことを割り振るようないわゆるビッグバンドとか吹奏楽的な意味での、です。)、基本はユニゾンで、メロディを延々繰り返し、そこから発生するものを、ギターをはじめとするリズム楽器類がさまざまに変化させ、盛り上げ、最後には怒濤の即興オーケストレイションが出来上がる……という感じである。これまで聴いたコンポジションものではそういう即興的な部分が多い、なおかつ構成がしっかりしているように聴こえる演奏になる。そして、このビッグバンドもまさにその実践だと言えるのではないか。どの曲も、基本的にはシンプルすぎるぐらいシンプルなモチーフをしつこくしつこく繰り返しているうちにある変化が起こり、音楽が転がりはじめ、次第に加速度を増し(ているかのように聞こえだし)、ついにはとてつもないエネルギーを持った状態で大爆発を起こすのである(オールドジャズでいうと、カウント・ベイシーの「ブルース・バックステージ」など)。ここにはそういうタイプの曲がたくさん入っているが、どれも聞きごたえ十分で、同じパターンだからといって飽きたりダレたりするようなことはない。これはユニゾンのマジック、リフのマジックでもあるが、大友マジックでもあるのだと思う。音の重ね方や対位法的なものなど、いわゆるアレンジアレンジした事柄よりも、構成とかタイミングとかいった、もっとべつのことに重点を置いたアレンジだと思う(と書いても、言いたいことが伝わらん。語彙のなさよ)。ひとの曲(ヘイデンやドルフィーやフォンテーヌやピアソラの曲)に対するアプローチはかなり斬新なのに、オリジナルへの敬意が強く感じられる好アレンジばかりだ。メンバーは若くて、クラシック経験者が多いように思われるが、それがとてもいい方向へ作用している。そうそう、みんなで面白いことしたらいいのだ。彼らの多くはチャンチキトルネイドというグループの出身者だそうだが、それについては何も知らない。とくにサックスのソロイストのふたりがめちゃ上手くて、驚いた。すごいひといっぱいおるなあ。で、選曲もめちゃめちゃよくて、1曲目があの「ソング・フォー・チェ」ではじまるのも印象的。「サムシング・スキート・サムシング・テンダー」(ひたすら混沌としてラストであのテーマが演奏される)、「ガッゼローニ」(いきなり全員でぶちかます、アフリカ象の大群が咆哮しているような大迫力だが、テーマオンリーの潔さ)、「ストレート・アップ・アンド・ダウン」(ギターのエレクトロニクスとアコースティックなマリンバ?の対比によって変態性がより強調されている。ギターソロもいいが、そのあとのサックスソロのすばらしさ。そこから抜け出してくるようなマリンバのかっこよさとピアノの重いコード、フルートのじわじわくる狂気……どのソロもかっこいいですねー)とドルフィー曲が3曲あるのもうれしい。バリサクがしみじみテーマを歌うピアソラの「孤独の歳月」も、そしてなによりラテン化した「ラジオのように」での哀愁ただよう爆発が凄くて、何度も何度もリピートして聞いてしまう(このアレンジでうちのフルバンでもやりたいです)。ラストに「あまちゃん」のテーマをやっているが、それも1曲目からそこまでのドラマがあってこそはじめて意味を持ってくるような気がする。ただのヒットナンバーではないのだ。もちろんほかの大友さんのオリジナルもすばらしい。パーカッションとバリサク(めっちゃかっこええ)をフィーチュアした「エンターテインメント・ワールド」も、荘厳で凛とした美しさに満ち、ギターがひたすら歌いまくる「OLOのテーマ」も、ハーモニカがフィーチュアされる抒情的な「海」も、重たく、沈み込むようなマーチに乗ってゆったりとしたテーマが奏でられ、そこにギターのノイズがからんでいく「三里塚に生きる」の確信犯的な演出(テーマを吹く管楽器のピッチのたしかさも爽快)も……いいんです。ああ、どの曲も目玉になるぐらいの豪華さだなあ。全員がノリまくって、「どやっ!」という感じで演奏しているのが伝わってくる。いやー、このアルバムはほんと傑作です。当日ピットインで聴けたひとがうらやましいが、こうして音源が残されて、発売されて本当に喜ばしい。

「PLAYS STANDARDS」(DIW RECORDS DIW−420)
GROUND−ZERO

 言わずとしれた大傑作。スタンダードといっても、枯葉とかマイ・ファニー・バレンタインをやるわけではない。1曲目は、しょっぱなから菊地成孔のテナーがダーティートーンで咆哮する「平和に生きる権利」。そのあとなぜか「八百屋お七」がなんの脈絡もなく挿入されるのだが、たしかに脈絡はないが、これがなんともいえない融合感があって、すばらしい。突然、架空の演劇を上演中の劇場に放り込まれたような感覚なのである。この1曲目で度肝を抜かれるので、あとはもうひたすらハレホレヒロハレと楽しませていただきました。このアルバム、折に触れて聴きかえすのはやはり2曲目のせいなのか。「ウルトラQ」をやるのは不思議はない(私も自分のバンドでやったことあります)が、冒頭のぐちゃぐちゃしたものがタイトルロゴになるイントロの部分からはじまり、それを拡大解釈した「恐怖系」フリーインプロヴィゼイションのあと、ベースラインが入ってくるあたりのかっこよさよ。最後にテーマが出てくるが、これがよくある「ウルトラQってこんなんだよね」という感じではなく、ちゃんと原曲に基づいたアレンジになっているあたりもすばらしい。3曲目は冒頭から菊地の「グロウルし過ぎやろ」というぐらい音のひび割れたテナーではじまり、物悲しいパートとダーティーでパワフルなパートが両立し、そして溶け合う。妙に和風の旋律が出てきたり、ぐちゃぐちゃのフリーになったりする。ケシャヴァンとクリョーヒンのデュオがサンプリングされているらしいが、よくわからんかった。たぶんこのぐちゃぐちゃしたパートのどこかに入っているのだろう。4曲目はサンバの曲で、原曲は知りません。ノイズの向こうで奏でられる遠いメロディがなぜか郷愁を誘う。これも演劇的な演出だろう。でも、演奏は本格的サンバである。5曲目もサンプリングされた電話での応対などのあいだに耳慣れたメロディが出たり入ったりするが、刺激的というよりノスタルジックでシニカルな雰囲気が持続する。6曲目は「アカシアの雨がやむとき」だが、阿部薫というより、ただただ大友良英的な演奏ですばらしいです。7曲目は、ずっと錆びついた重いドアを開閉するような音がテーマ(?)となっているような8ビートの直情的な曲。なぜか突然、仮名手本の早野勘平が「主人の安否こころもとなし、開門」という三段目を気が狂ったように叫ぶ場面が出てきてびっくりする。8曲目は一定のシンプルなビートにのって、いろいろな生活音(基本は風呂に入る音?)が展開する。だはははははは……これは笑うしかないっす。9曲目は、ドラムのえげつない大音量、手数多すぎのソロを背景にして、ソプラノが「見上げてごらん、夜の星を」をしっとりと歌い上げる……というある意味狂気の産物。だが、美しい。このメロディは、なるほど、こういうアヴァンギャルドでパワフルなリズムを内包しているかもしれない。そのあとの爆発的な展開はまさに極楽浄土。10曲目は、静謐ななかに沖縄テイストを感じる。11曲目はブレヒト/アイスラーなのだが、冒頭いきなり太の三味線がでーんでーんと弾かれて驚く。菊地のバリトンも牧歌的で優雅。そこに斬りこむ内橋和久の日本刀のようなギター。すばらしい。ええ曲やなあ。ラスト11曲目は「男たちの挽歌」からの「アイ・セイ・ア・リトル・プレイヤー」(ただし「ローラド・カーク・バージョンと注釈がついている)。不穏な出だしから、テナーがグロウル+シャウトしまくり、聴いてるこちらも頭の血管が切れそうになるほど興奮します。テーマを聴いているとなるほどカークバージョンという意味がわかる(ラストはアイラー的でもある)。その直後にシレッと出てくる三味線がはまりまくっていて、ホイッスルやらなにやらが見事に溶け合っているのを聴いていると、ああ、これは音楽の一大絵巻だ、総合芸術だ、歌舞伎だ……とつぶやきながら呆然としている自分に気づくのだ。絵も映像もなにもないのに、この音楽のひきおこすイマジネーションは凄まじい。これこそアヴァンギャルド、これこそエンターテイメント、何度聴いても「すごいものを聴かせてもらった」という感動が沸き起こる。これは「体験」だ。傑作。

「FROM 1959」(地底レコード B71F)
ショローCLUB

 ショーロクラブをもじったバンド名といい、コミカルなチラシといい、コミックバンドとまではいかないが、リラックスした楽しい演奏が聴けるのだろうかと思って、大阪でのライヴに行ってみると(バンド旗揚げのツアーで京都・名古屋、大阪の3カ所だけで演奏し、東京でのライヴはなかった。そのときの名古屋での演奏が収められている)、いやー、とんでもないえげつない、全力で叩きつけ、殴りつけ、かきむしり、走り抜けるような爆裂の演奏だった。まあ、このメンバーだったらそうなるわな。となると、この人を食ったようなバンド名はそぐわないのではないか……とも思ったが、おそらくこの3人はそんなこと気にもしていないだろう。ただただその場での燃焼に命を賭けるひとたちなのだ。大阪での演奏はとにかくめちゃくちゃすごくて、この普段はそれぞれ多くのリーダーバンドを率いている大物3人たちが顔を合わせたときに、いかに凄まじいことになるのか、を実証したような演奏で、シンプルなギター、ベース、ドラムのトリオだけにそれがくっきりと浮かび上がるような衝撃を受けたが、名古屋ではそれに山本精一が加わり(ゲストといっても6曲中4曲も入っている)、はたしてあの異常なまでの一体感はどうなるのだろう、薄れてしまうのか、それとも……といろいろ思いながら聞いてみると……ははははは、もちろん4人になっても最高でしたね! これもまた「そうなるわな」という感じである。1曲目の「ロンリー・ウーマン」、2曲目の「ラジオのように」、4曲目の「ファースト・ソング」、5曲目の「ひこうき」、6曲目の「SORA」など、メンバーがこれまでに何度も何度も演奏してきているいわば手慣れた素材ではあるが、この選曲に込められたメッセージ性は「手慣れた」などという言葉とは裏腹で、はじめて弾く、叩くような新鮮さで演奏されており、ライヴの場に居合わせた客でこういった曲のチョイスやその中身からなにかを感じなかったひとはいなかったと思う(そう信じたい)。記憶ではほかに「平和に生きる権利」なども演奏されたと思う。こういう演奏を皆で共有していれば、世界は平和になり、戦争も起きず、馬鹿な政治家をどうにかすることができるのではないか……とか考えるのはたぶん甘っちょろい考えなのかもしれない。しかし、その一助にはなると思う。強烈なメッセージが込められ、この「今」において非常に意味のある、しかも、めちゃくちゃかっこよく、楽しく、グルーヴしていて、なおかつ悲愴で、つらく、重い演奏ばかりである。傑作。なお、3曲目は完全即興で、2曲目と4曲目のみトリオでの演奏。5、6曲目で山本精一はボーカルも担当。三人対等のバンドであることは明らかだが、便宜上、大友さんの項に入れた。

「HAT AND BEARD」(F.M.N.SOUND FACTORY FMC−051)
OTOMO YOSHIHIDE’S NEW JAZZ QUINTET

 編成もあらたに再始動した大友良英のニュー・ジャズ・クインテット。こういう演奏にはたいがい入っているサックスを排して、トランペットとトロンボーンの2管。このメンバーでの演奏を、たぶん磔磔で聴いたと思うが、そのときはトロンボーンの今込治さんというかたはほとんどソロはしなかったような記憶がある(本作における2、3、6曲目が私が聴いた演奏らしい)。しかし、本作では1曲目の先発ソロからごりごり吹いている。経歴を見ると、ばりばりのクラシックの方のようである。1曲目は大友さんの曲で、最初ちょっとノイズっぽいがすぐに伊福部サウンドのような大きなうねりをともなった演奏になる。ドラムやベースがパルスのようなリズムを刻み、ギターが好き放題に弾きまくるなか、トロンボーン〜トランペットとソロが続くが、類家さんのソロがすばらしい。ライヴを観たときもそう思ったのだが、同じようなフレーズを吹いているのではなく、ほんのわずかニュアンスを変えて、それを積み重ねていく。音色、アタック、音量、息の混ぜ込み方、美しい音、ダーティーな音……などなどを本当に細やかに操って世界を作り上げていくその手腕にはほとほと脱帽。ダイナミクスもすごい。こういうことは生で観ないとわからないことだった。そこにからみつく(まさに蛇がからみつく感じ)ギターも凄い。そのあとのベースソロは力強く、シンプルで、山が崩れるような迫力がある。ギターソロに至っては「よくもまあ、これを『ジャズ・クインテット』と言ったよね、的な好き放題の独壇場である。かっこええ! 芳垣さんの自由な発想のソロがすべてを締める。あー、この1曲目だけでいいじゃん、と思ったりしたが、もちろん2曲目も聴く。2曲目は、磔磔のMCで聴いたとき、「いだてん」のなかの曲である、というようなことを言っていた記憶があるが定かではない。ギターの繊細なイントロからはじまるバラードだが、金管ふたりがじつに丁寧な吹き方でテーマを奏でており、それだけで満足できる。この美しいテーマをフロントふたりがどれだけ意を払ってメロディを奏でているか……。ECM的な凛とした美しさのようだが、そこにノイズ成分があり、単なる「清純」な感じではない。だが、(ノイズミュージックを聴くといつも思うことだが)ノイズ成分が清らかさを引き立てているようにも思える(素人なのでわからんのです)。ギターの作り出す「間」とそれを埋めていくドラムやベース。ここでもトランペットの異常なまでの繊細な吹きっぷりがすばらしい。このソロを採譜したとしてもこのニュアンスの1割も伝わらないだろう。トランペットにできることをすべてやってやろうとしているかのようだ。「全員がひとつになって」とかよく言うが、この曲の後半部はまさにそういう感じで一体感が味わえる。この曲1曲だけでCD一枚作ってもらっても全然かまわんぐらい、ひたすら聴いていられる。3曲目は大友さんがこれまで何度も執拗に取り上げてきたオーネットの「ロンリー・ウーマン」。芳垣さんのブラッシュが躍動する冒頭部から、唐突といっていい感じでギターがテーマを奏ではじめる。テーマのバックでベースやドラムがめちゃくちゃしようが、管楽器が暴走しようが、なにも崩れない。「テーマ」というもの、メロディというものの堅固さを感じる。だが、それが次第に崩れてくるのだ。山崩れのように。そこがかっこいい。思えば、オーネットも、この曲のテーマを作ったとき、こういうちゃんとしたものがあれば、あとは自由にでたらめに好き放題にできるではないか、ということであの演奏になったのかもな、と思ったりした。やはり類家さんの、さまざまなニュアンスをぶち込みながらもパワフルなトランペットが、ギターなどの煽りを受けて輝いているように思える。正直、トランペットとギターは同時にソロをしているぐらい前に出ている。かっこいい。いや、ほんまかっこいい。めちゃくちゃ速いビートのリズムに乗って、ギターはあのメロディを奏でる。そしてぶち壊す。これやね。こんなにぶっ早い、ぐじゃぐじゃな、過激な演奏なのに、なぜか「寂しい女」のイメージは残っている。ただの素材にはなっていない。やはりメロディには神が宿るのか。4曲目はドルフィーの「アウトワード・バウンド」でおなじみの「ハット・アンド・ベアード」。これまでもこのバンドで取り上げられていた。ロールではじまるこの曲……やっぱりかっこいいですね。ドルフィーの演奏を神格化するのではなくて、大友さんがすっかり自家薬籠中のものとしているのがわかる。冒頭、ピーーーーーーーというギターのノイズ一音のまわりに全員が集まっていくのがいい。いわゆるコレクティヴ・インプロヴィゼイションのなかでじつに繊細な交感がなされていて感動的だ。類家心平のソロのブレイク(ギターも入っている)の絶妙さはなんとも言えない。人間が肉体を使って音を出している……ということの生々しさ。そこに芳垣のドラムが入ってきて……というあたりの凄さは、いやいや、ドルフィーはこんなことしなかったって! と呆れるしかないのである。トロンボーンの存在感もすごい。構成も考えながらキチキチに奔放に演奏している5人が、ラストでバシッと合わせるこの感じもすばらしいですね。つぎの「ストレイト・アップ・アンド・ダウン」も同じく「アウトワード・バウンド」に入っている曲。私はドルフィーに関してはどれもこれもあれもそれも好きなので、とくに「アウトワード・バウンド」が……ということはないのだが、たぶん大友さんはこのアルバムへの思い入れがほかよりも強いのだろうというのはこれまでの作品からも容易に感じられる。類家心平のソロはさっきも書いたとおりで、微妙なニュアンスを肉体的に表現していて、それがまた短い周期で刻々と変化していくのだ。5人がめりめりと溶け合うようなパートを経て、大友さんのギターソロになるが、芳垣さんの過激的なバッキングとともに天国だか地獄だかへ到達するようなえげつない演奏が展開している。いや、マジですごいです。着地もばっちり決まって、こういうのを聴くと、芸術と職人芸というふたつの、相反すると思われているものの完璧な同居について考えざるを得ない。いやー、芳垣さんすごい。最後の6曲目はウェイン・ショーターの「スーパー・ノヴァ」に入ってる「スウィー・ピー」から大友さんの「ゼア」のメドレー。スカスカに見えて濃密な演奏がじっくり、しっとりと展開していく。類家さんのトランペットはここでも超繊細で(線が細いという意味ではない)、テーマをちょっと吹くだけでもその絶妙さがわかる。たしか類家さんは頬っぺたを膨らませて吹く奏法で、クラシックでは「あかん」と言われるやつだが、こうして聴くかぎりでは、要するに自分に合った奏法であればいいんですね。2本の金管がそれぞれ表現力のかぎりを尽くしての即興。サックスではなく金管によってこういう世界を実現した大友さんの狙いはばっちり当たっているようだ。たぶん「たまたまふたりともいい奏者なのでメンバーにしただけで、ふたりとも金管とかは関係ない」とかいうのではなく、ちゃんと狙っているにちがいない……と思う。傑作。ぜひ第二弾をお願いしたい。

「WITH RECORDS」(DOUBTMUSIC DME−201G)
OTOMO YOSHIHIDE+OZEKI MIKITO+MATS GUSTAFSSON

「マッツ・グスタフソンのバリトン・サックス・ソロLLP『IT IS ALL ABOUT』(TYFUSというフィンランドのレーベルから出た)レコード盤上に尾関幹人が切り絵を刻み付け、そのレコードを大友良英が ターンテーブル上で再生、操作、コントロールして生みだした音を録音……ということらしい。冒頭はスクラッチノイズではじまり、CDがおかしくなったのでは……と思うような感じで進むが、ノイズのあいまにマッツの人工ノイズが現れては消える。非常にシリアスで刺激的。2曲目3曲目も同じ感じで、偶然の面白さではあるが、その偶然が周到に用意された出会いであることを、こういう演奏においてはつねに感じる。一部のひとにはただの騒音、雑音としか感じられないかもしれないが、集中して聴いていると、そのなかにユーモアもあり、ついつい笑ってしまうときもある。『ENSEMBLES 09 休符だらけの音楽装置展』というイベントの企画展示である『WITH RECORDS』に合わせて発売された特典盤だそうです。

「UNCANNY MIRROR」(ELEATIC RECORDS ELEA007)
OTOMO YOSHIHIDE AND CHRIS PITSIOKOS

 2023年のロンドンのカフェ・オトとスロヴェニアのジャズフェスでのライヴ。ミックスもピッツィオコスが担当している。とにかく凄まじい集中力での演奏が冒頭から続き、もう完全に私の好みの演奏で、一回目はだらだらよだれを垂らしながら聴いたが、二度、三度と聞き直すにつれ、これを「壮絶なバトル」と考えることも「すばらしい協調」と考えることも「生々しい人間同士のぶつかり合い」と考えることも今はもう必要はないのではないかと思う。これはただの音であり、人間ふたりが発している音なのだ、という認識でいいのではないか。ただの音ならば、電線が風に鳴っていて、そこに電車が来た……みたいなことでもいいのか? ということだが、そういう自然音とはちがい、「意識をもって発せられた音」が寄り添ったりぶつかったりしながら冷徹に重なり合っているという感じでしょうか。即興においてはソロから大編成までいろいろな編成で演奏が行われるが、デュオあたりがいちばん聴いていて楽しいかも。それぞれの考え方や立ち位置の違い、心理の動き、本音……なんかも感じとれたりして、どうしてもけっこう生々しくなるのだが(音のやりとりを通じて相手と深くわかりあえる、というだけでなく、「家族八景」的というかいわゆるテレパスの苦悩(相手の心のなかが読めてしまうことの苦しさ)なんかにも思いをはせてしまった)、そこはさっき書いたように「音の冷徹な重なり」が基本にあり、このふたりはそれをはっきり認識したうえでこの演奏を実践しているような気がする。極楽浄土に流れているのはこういう音楽かもしれない。自分の楽器の奏法や演奏技術、音楽性への深い理解を経たうえで、一周回ってものすごくプリミティヴなところにいるようにも聞こえる。お互いにリアルタイムでお互いの音をサンプリングしたりループしたりしてるのだろうし、ターンテーブルも使っているので、もはやどの音をだれが出している、と考えるのも無意味なのか。いや、そんなことはないよね。まあ、そんなことをぐだぐだ言うことはなく、我々はただただこの楽しい音楽に身を任せればいいのだ。ありがたやありがたや。などと書くとマジで宗教的に聴こえてきたりして(とくに6曲目とか)。