「SAXOPHONE COLOSSUS」(PRESTIGE LP7079)
SONNY ROLLINS
完璧すぎてしんどい。家で聴くことは、まずない。ジャズ喫茶でかかるか、有線でかかるか……そういう状態でないと聴かない。隙がなさすぎるというのもしんどいものである。たしかに名盤で、一曲目から、ロリンズによる、まるで譜面に書かれたような、最高のアドリブソロが展開する。しかも、譜面に書かれたような、といっても、躍動感にあふれ、リズム的なおもしろさもあり、かつ豪快であり、アーティキュレイションも完璧……となると、どこで息をついていいのやら。そのうえ、収録曲は全曲すごくて、いわゆるダレ場がないので、たとえ片面であっても通して聴くとへとへとになる。そのしんどさは、コルトレーンのヴィレッジ・ヴァンガードのライヴ盤を聴いたあとの疲労感とはまるで質がことなる。コルトレーンのほうを、ユーモア感覚のない超強力なプロレスラーの試合を見終わった感じ、とすれば、ロリンズの本作などは、ユーモア感覚はあるが人間国宝の茶の湯の師匠とふたりきりで茶をよばれた、みたいな感じか(たぶん全然伝わってないと思うけど)。「モリタート」はバップフレーズの教科書のような演奏だが、聴いているとなぜかバップっぽく響かないのは不思議。アーティキュレイションや、フレーズの並べ方、ニュアンスなどがちがうからか。「ユー・ドント・ノウ・ファット・ラヴ・イズ」は、名演ばかりの並ぶ本作のなかでも、一頭抜いた白眉の演奏だと思う。真剣に聴くと、ほとほと疲れる。しかし、これが26歳のときの作品とはなあ……天才としか言いようがないよ、ほんと。
「A NIGHT AT THE ”VILLAGE VANGUARD”」(BLUE NOTE BLP−1581)
SONNY ROLLINS
「サキソホン・コロッサス」でのロリンズとはあきらかに別人である。たぶん同じ名前のテナー奏者がふたりいるのだろう。同じようなフレーズを吹いても、こちらのロリンズはあきらかに、持っている筆が太い。テナーのサウンドが荒々しく、ノリも自由奔放だ。そもそも「きちんとしよう」という意図がないように思える。それはドラムがエルヴィンであり、ピアノがおらず、ライヴである、という状況がそういう音を生んだ、といえるのかもしれないが、それだけでは説明しきれないほどの大きな変化だと思う。ほとんどフリージャズといえるほどの、好き放題の精神がここにある。これが27歳のロリンズである。すごいよなあ……。どの曲も好きで、ロリンズでどれか一枚といわれたら、ベタだがこのアルバムを押すだろう。ジャケットの、紫色のバックにサングラスをかけている顔のアップも印象的で、サキソホン・コロッサスとちがう、ダークなイメージがある。これは、後年、ピアノレストリオを組むあらゆるテナー奏者にとって発想の原点となっているアルバムであり、聴いているだけで、なんの説明がなくても、「ああ、自由だな」と聴き手に思わせるような力にあふれている。本作以降のロリンズは、いろんな意味で「自由」というものをリアルに追求していき(「自由組曲」とか「アワ・マン・イン・ジャズ」とか)、ついには行き詰まるのだが、そういう硬質なまじめさも含めて、本作が「自由なロリンズ」の原点ではないか。A面もB面もよくて、しかも「サキソホン・コロッサス」のようにしんどくないので、毎日でも聴けます。超名盤ではないでしょうか。なお、別テイク(?」も含めた3枚組も聴いたが、いまいち印象が薄いのはなぜ?
「WAY OUT WEST」(CONTEMPORARY CR LAX 3010)
SONNY ROLLINS
家で聴くことはないが、たまにジャズ喫茶などでかかると、あまりの鮮烈さに背筋を正してしまう。そんなアルバム。よく、ユーモア感覚とかいろいろ評されるが、それはたぶんシェリー・マンやレイ・ブラウンといった共演者の「軽さ」や、素材(ウエスタンソング)の「軽さ」がそういう印象を与えるのであって、実際は「サキソフォン・コロッサス」に匹敵するぐらいの完璧さ、隙のなさを誇る傑作である。コラボレーションという意味ではこれほどすばらしい演奏はない。でも、やはり息がつまるようなしんどさがある。このあと、「ニュークス・タイム」を境にしてロリンズは変貌する。自由を求めてさまようようになる、といってもいいかもしれない。好き放題に吹く、という荒々しいブロウが、みずから自分のバンドを壊していく、みたいな感覚が現れはじめるわけだが、それはコルトレーンも通過する道なのだった。
「ST.THOMAS/SONNY ROLLINS TRIO IN STOCKHOLM 1959」(DRAGON DRLP 73)
SONNY ROLLINS
最初に聴いたとき、あまりに凄くて、ああ、ロリンズはほかはみんな売ってしまってもいい、このアルバムさえあればいい、とすら思った。それぐらい、いい演奏なのです。1曲目だけライヴで、「セント・トーマス」の頭が切れているが、あとはスタジオ録音。まだ31歳のロリンズだが、ある意味完璧な「ジャズ・テナー・インプロヴィゼイション」を聴かせる。「サキソホン・コロッサス」や「ヴィレッジ・ヴァンガードの夜」「ウェイ・アウト・ウエスト」などでの試行錯誤(完璧なものを作っては壊す作業)の果てに到達したのがこの境地ではないか、とおもわれる。ヘンリー・グライムズ、ピート・ラロッカによるトリオは、オーネット・コールマンの「ゴールデン・サークル」のトリオに匹敵するぐらい隙がない、完全なトライアングルで、どこを切っても3人による濃密なコミュケイションがあふれだす。とくにヘンリー・グライムズのベースは、バッキングだけでなく、ロリンズに続くソリストとしての立場も完璧にこなし、凄まじいの一言。こんなすごいひとがこのあとどうなるか、ということを知っている今の我々には、重すぎる演奏である。しかし、一聴、パーフェクトとも思えるこのトリオパフォーマンスを、ロリンズはこのあと、やはり自ら崩していくのである。即興演奏家としての良心に基づいての行動だと思うが、それが自分自身を袋小路に追い詰めていくわけだから、ジャズミュージシャンはたいへんだ。もっともそんなことを考えることもなく、歌心とスウィングさえあれば一生演っていけると思っているひともたくさんいるけれど。
「OUR MAN IN JAZZ」(RCA PG−24)
SONNY ROLLINS
昔、A面いっぱいを占める「オレオ」が「凄いっ」と思っていたが、今聴くと、B面の二曲(「ディアリー・ビラヴド」と「ドキシー」)のほうが凄いかもと思った。とにかく聴いていて、ロリンズの「やる気」「新しいものへ挑戦する気」がひしひしと、痛いほど伝わってきて、この作品に感動しないやつは、フリージャズファンではない、とまで思ってしまう。とにかく、やむにやまれぬロリンズの衝動、既成のもの(伝統とか、それに乗っかっている自分とか)をぶち壊して新しいものをつくりたいという凄まじい「やる気」が感じられてすばらしい。多くのファンは、なんでロリンズがこんなことを、と思ったらしいし、いまでもこのアルバムは一般のジャズファンからは、「フリージャズが流行っていたことに対する、ロリンズのちょっとした気まぐれ」みたいに思われているかもしれないが、なにしろ循環コードである「オレオ」が最後にはブルース進行になり、そしてまた突然、循環に戻るというA−1を聴いたら、心あるリスナーはロリンズがこのとき考えていたことのすべてをさとるはずだ。つまり、もっと自由に吹けないか、コード進行がどうのとか曲の構成がどうのとかいうことより、そのときブルースを吹きたくなればブルースを、バラードを吹きたくなればバラードを吹く……そんなジャズの自由を手に入れることはできないのか、ということだと思う。そのために彼はピアノレストリオでの実験を積み重ねてきたのだろう。ドン・チェリーよりもロリンズのほうが、ここでは自由なような気がする。なにしろ、ロリンズはまだこのとき32歳なのだ。円熟しろというほうが無理だろう。前進意欲旺盛だったロリンズの、血を流しながらも突き進もうとしたドキュメントである。
「SONNY ROLLINS ON IMPULSE!」(IMPULSE! YP−8507−AI)
SONNY ROLLINS
正直いうと、学生のとき、最初に聴いたときは、「は?」と思った。「サキソホン・コロッサス」の完璧な歌心あふれるロリンズではないし、「アワ・マン・イン・ジャズ」や「イースト・ブロードウェイ・ラン・ダウン」のように自由に吹きまくるロリンズでもないし、カリプソナンバーをやっていても、「セント・トーマス」や「ドント・ストップ・ザ・カーニバル」のように楽しくない。しかし、今となっては、私にとってこのアルバムでの演奏が最高のロリンズだと言い切れる。いやー、聴けば聴くほどいいんです。「アワ・マン・イン・ジャズ」ほど無茶苦茶ではないのだが、さまざまなロリンズ的要素(豪放、自由奔放、歌心、カリプソ、リズム、アーティキュレイション……などなど)が非常によいバランスで聞きとれる。「ヴィレッジ・ヴァンガードの夜」の荒々しい自由さを一歩先へすすめた感じだろうか。ワンフレーズ、ワンフレーズがヨダレが垂れるほど美味しい。私がもっとも好きなロリンズのアルバムを三枚あげろといわれたら、「ヴィレッジ・ヴァンガードの夜」「ニュークス・タイム」そしてこの「オン・インパルス」ということにいうことになるだろうか。中ジャケットの、テナーケースをふたつ持ったロリンズの写真もかっこいい。「ネクスト・アルバム」以降は本当に関心がないのです。
「TOKYO 1963」(RLR RECORDS RLR 88637)
SONNY ROLLINS QUINTET
ロリンズ初来日時の丸の内ホテルでのコンサートの隠し録りがソースらしいが、このような音源がほんとにあったのか……と驚いた。というのは、この時期のロリンズというのは「アワ・マン・イン・ジャズ」の直後であって、私がいちばん(音楽的に)興味があるときなのである。当時の日本のジャズファンやミュージシャンたちを驚かせたという若きロリンズ(33歳)の自由奔放な渾身のブロウは、機会があればぜひ聴いてみたかったのだが、こうしてディスクとして入手できるとは感無量である。聴いてみると、たしかにその前後の「アワ・マン・イン・ジャズ」「アフター・ザ・ブリッジ」「オン・インパルス」「イースト・ブロードウェイ・ラン・ダウン」あたりから想像される音であったとはいえ、非常にアグレッシヴで、パワフルで、とにかく自由であり、そして、なによりもロリンズそのもののソロである。「ネクスト・アルバム」以降のロリンズは唐突に私の関心の範囲から完全に去ってしまうわけだが、このころのロリンズはほんとうにすばらしい。ベティ・カーターの歌伴(2曲。ロリンズは入ってない)とか、日本人ミュージシャンとのジャムセッション(目指している音楽的方向がすでにずれているので、さほどの深みはないが、歴史的な記録としてはきわめて重要だと思う)とか、56年のマックス・ローチ・クインテットの放送録音なども入っていてイライラするが、目玉の2曲(「モリタート」と「オレオ」。どちらも20分を超える長尺の演奏で、完全にアドリブの素材として割り切ったプレイが聴ける。「オレオ」のドラムとの4バースなど壮絶極まりない)だけでよかったかもなあ。この日本ツアーにだけ参加したラシッド・クマル・アリというトランペットは、ライナーノートにも書いてあるが、「かなりミステリアスなトランペッター」であり、ライナーを書いたひと(マティアス・ライナーとかいうひと)がいくら調べてもほかの経歴がわからなかった、というひとである(私の英語力がとぼしいので、誤訳してるかもしれないが、まあそんなようなことが書いてあった)。私はだいぶまえに、ロリンズは初来日時にラシッド・アリを連れてきて、あまりにひどいプレイなのでツアーの途中で帰国させたが、そいつは帰国後、ドラマーになってコルトレーンクインテットに入った、みたいなことをある雑誌で読み、うかつにもそれを信じていたが、どうやら別人のようだ。これまでこの時期のロリンズの海賊盤はぜんぶヨーロッパツアーのもので、そのツアーにはドン・チェリーが参加しているので、このトランペッターが知られていないわけである。途中で首になったというのでどんなひどいラッパかと思っていたが、しかし、今回はじめて聴いてみると、そんなものすごくは悪くないと思う。でも、なにしろリズムセクションがポール・ブレイ、ヘンリー・グライムズ(こないだの原田依幸カイブツバンドが初来日だと勝手に思っていたが、そうではなかったのね。「オレオ」で強力なソロが聴ける)、ロイ・マッカーディというすごいメンバーだし、ゲストがベティ・カーターだし、ひとりだけ聴きおとりするのはしかたないかも。でも、ロリンズのワンホーンで十分(というか、そのほうがよい)バンドだし、首になるのもしゃあないやろ。
「SONNY ROLLINS IN COPENHAGEN 1968 THE FULL SESSION」(PACIFIC DELIGHTS XQAM−1628)
SONNY ROLLINS
信じられないぐらいの大傑作だと断言しましょう。すべてのロリンズのアルバムのなかでもかなり上位に来るほどの内容だと思う。もちろん「サキソフォン・コロッサス」「ヴィレッジ・ヴァンガードの夜」「ウェイ・アウト・ウエスト」「ニュークス・タイム」「アワ・マン・イン・ジャズ」「ブリッジ」……なども含めたうえでの話だ。テレビ用の収録だそうで、3曲しか入っていないが、3曲で充分。密度が濃い〜。冒頭のテナーの2分を超える無伴奏ソロから、もう超しびれる。その音、アーティキュレイション、歌心、コードチェンジ……すべてが完璧で、途中ちょっとカリプソっぽくなったりして、どうなるのだろうと思っていたら、最後に「フォア」のテーマが出てきて、リズムが入ってくる。いやー、これがまあすばらしい演奏で、一見豪快だが、じつは細部に至るまで気配りされた完璧なソロを繰り広げる。低音から高音までを駆使しているのに、あくまで音は「太い」感じ。そして、見事なアーティキュレイション。私はこのころのロリンズの八分音符のアーティキュレイションのなかにこそハードバップはあると思う。マジっすよ。バップの歌心が基本になっているのだが、そこにロリンズ節としか言いようがない個性が爆発していて、ひたすら聴き惚れるばかり。68年の演奏だが、このあと一旦引退して、復活したときには「ネクスト・アルバム」で、その後は今に至るまで、ああいうスタッカートな八分音符の吹き方、そして音色もラーセンメタルの荒々しいものになったことを考えると、この68年録音は奇跡としか言いようがない。まさしく、もっとも凄まじかった時期の最後の輝きをとらえているのだ(その後のロリンズももちろん大好きなのだが)。その「フォア」だが、ロリンズのソロのときはドリューはバッキングをしておらず、最後の最後にちょろっとコンピングがあって、ロリンズはソロをやめ、ドリューのピアノソロになる。ペデルセンのベースソロもある。2曲目は、これもすごく短いテナーの無伴奏のイントロから「グリーン・ドルフィン」。ここでのロリンズのソロの見事さは筆舌に尽くしがたい。なにが、どこがすごいのかを一言で言うのは不可能で、なぜかというと、何度も書いていることだが、歌心、アーティキュレイション、音色、リズム、コードの解釈、チャレンジ精神、ユーモア……などなど、テナーサックスという楽器を吹くにあたって留意すべき事柄のすべてが最高の状態になってこのソロを、この音楽を作り上げているのだから。ドリューのソロもいい。ベースソロも歌いまくっている。8バースがあって、ここでのロリンズも絶好調。ドラムソロのあとテーマ、そして最後のカデンツァがまたかっこいいんです。いやー、すばらしすぎるなあ、このカデンツァは。コルトレーンの「アイ・ウォント・トゥ・トーク・アバウト・ユー」と並ぶ……といったらおかしいか? それぐらいいい。自由で、楽しくて、音楽的にも深い。そして、3曲目の「セント・トーマス」だが、おそらく何百回も演奏したであろうこの曲を、ロリンズは新鮮そのもののみずみずしいプレイで我々を圧倒する。ドリューのピアノもよく合っている。ロリンズのソロは、その出だしからして、歌いまくり、アイデア出しまくりで、もう口をあんぐりとあけるだけ。遊び心や意欲的な部分も多多感じる。そしてペデルセンのベースソロが異常に凄い。というわけで、3曲しか入っていないが、このアルバムでのすべてのソロをコピーしたくなるほど、もう「完璧」な演奏の連打で、もう驚くしかない。68年といえば、「サキソフォン・コロッサス」「ヴィレッジ・ヴァンガード」などの名盤を残したあと、ピアノレストリオによる「フリーダム・スーツ」やコンテンポラリーでの「ブリッジ」「コンテンポラリー・リーダーズ」「ファッツ・ニュー」といった意欲作を残し(この時期のヨーロッパでのライヴで、ヘンリー・グライムズやピート・ラ・ロッカとやってるトリオとかがめちゃめちゃ好き!)、その流れでドン・チェリーとのあの傑作「アワ・マン・イン・ジャズ」に至る……という過激な流れ、そしてインパルス期に至り、「オン・インパルス!」「イースト・ブロードウェイ・ラン・ダウン」といったかなりエグ目の傑作を生む……というあたりの時期で、そのインパルスとの契約が切れたときのヨーロッパツアーなわけで、ロリンズ史的にいえば、だいぶフリーっぽいものもやっているころで、私も当然、そういう演奏が来るのかなあと期待していたら、いい意味で裏切られた。まるで「サキソフォン・コロッサス」あたりの、歌心ありまくりの超絶名演なのである。これを、時代を逆行したとか後退したとかいうのはまちがいで、どう聴いても、そういったいろいろな紆余曲折があってここにたどりついている、というのは聞けばわかるわけだ。このアルバムを一言で言うと、ライヴ版「サキソフォン・コロッサス」である(もちろん本作は厳密にはライヴではなく、テレビ放映用のものだが、映像収録が主体であるということから、ライヴに準ずると考えられる)。あの名盤は、本当に、なにか神が降りたとしかいいようがない、あらゆる面で最高の状態で作られた、なにかなにまで完璧な演奏だが、同時期の「ヴィレッジ・ヴァンガードの夜」がそのライヴ版かというと、「ヴィレッジ・ヴァンガード……」はそう呼ぶには荒いのである。そして、その荒さがめちゃめちゃいいほうに作用していて、私はロリンズのアルバムでは「ヴィレッジ・ヴァンガード……」がもっとも好きなのである。しかし、この「イン・コペンハーゲン・1968」は「サキソフォン・コロッサス」から10年以上が経てロリンズにふたたび神が降りたのではないか、と思わせるほどの、クオリティや演奏の性質などが「サキソフォン・コロッサス」レベルなのである。なにを言うとるんやと思うかもしれないが、まーあ聴いてみてください。とにかく凄いですから。これは私見だが、本作はスタジオ収録ではあるが、テレビ放送用の収録ということで、ライヴ感もあり、そのあたりがちょうど良い緊張感とリラックスが両方あったのではないかと考えられる)。なお、1968年の同メンバーでのモンマルトルなどでのライヴが従来海賊盤で出ているが、本作はテレビ用のスタジオ録音であり、ソースが違う。また、DVDでこのときの演奏が出ているが、それは3曲とも一部がカットされているらしい。とにかく、この凄まじい演奏のあと引退っつーのもさっぱりわからん。ロリンズの考えてることはわからん。でもこれが信じられないほどの傑作であることだけはまちがいないですよ。
「SONNY MEETS HAWK」(RCA /SONY MUSIC ENTERTAINMENT SICP4247)
SONNY ROLLINS
ロリンズが師匠格のコールマン・ホーキンスと共演した作品。激しいバトルを展開しているわけでもないし、同じようなスタイルで和気藹々と吹いているわけでもない。日本語ライナーで原田和典さんが、あいかわらずの断言口調で「これほど美しく、しかも緊張感を失わない交感セッションが他にあったら教えてほしいものだ」と書いているが、まあ、それはかなり極端な書き方だとしても、まあ、そういうことだと思う。当時ホーキンス58歳で、晩年はかなりよれよれになるが、このときはまだ力がみなぎっており、すでにジャズシーン的には過去の人扱いだったかもしれないが、まったくその個性も、男性的なトーンも、リズム感も健在な時期である。一方のロリンズは、あの「サキソフォン・コロッサス」をはじめ多くの傑作を発表したが、二度目の雲隠れをして復帰して、「橋」や「アワ・マン・イン・ジャズ」などのかなりフリーなアプローチを行っていた時期である。つまり、かたや大御所でよれよれになるまえの一番美味しいとき、かたやバップをつきつめた歌心の極限まで到達してフリーな表現を選んだとき。たぶん、この63年という瞬間でないと、この凄まじいアルバムは録音できなかったはずだ。もう少し早いと、ホーキンスはバリバリ吹いていただろうが、ロリンズも同じくバリバリとバップ〜ハードバップな演奏をしていたので、それこそ「普通のジャズのアドリブ奏者」としての優劣が出るような演奏になったかもしれないし、もう少し遅いと、ホーキンスが老境になってこんな力強い演奏にならず、また、ロリンズもいろいろ迷っている時期に入って、こんな吹っ切れた感じで演奏できなかったかもしれない。とにかく一期一会の瞬間をずばりと切り取ったアルバムなのだ。なかには、ロリンズがフリー化していてちゃんと吹いていないから共演になってないとかいうやつがいるかもしれないから言っておくと、これはめちゃめちゃすごい演奏なのだ。たとえば、1曲目「イエスタデイズ」で、イントロのぎくしゃくとした固いノリの無伴奏ソロだけがロリンズで、そのあとでてくるホーキンスの、サブトーンを駆使した悠々とした歌い上げのあと、ロリンズがわざと痙攣するようなフレーズでリズムを崩しながら入ってくるあたり、「ロリンズ! なに考えとんねん、ちゃんとやれ!」と多くのひとが発表当時スピーカーのまえで叫んだにちがいない。しかし、こどもの頃からのアイドルで、プロになってからも尊敬しまくっていた偉大なホーキンスをまえに、こんなフレーズを吹きつらねていくなんて、ロリンズというのは、なんとジャズをわかったやつなんだろう! と私はもううるうるしてしまうのです。2曲目の「オール・ザ・シングス・ユー・アー」でも、ホーキンスがサブトーンで見事にテーマを吹いているのに、ロリンズは妙なハーモニーをつけたりして素直には演奏しない。これが緊張感となって、その曲後のホーキンスのソロにも影響を与え、微妙なテンションが付与されていると思う。いつものおなじみのソロ吹いとったらええんやろ的な演奏ではダメだ、ということがホーキンスにもちゃんと感じ取れているわけです。そのために、かなり挑戦的なアグレッシヴなフレーズも吹きまくり、最低音から最高音までを駆使した演奏になっているのだ。つづくピアノソロもかなりねじれているが、これもポール・ブレイだと聞けば納得(ちなみにベースはヘンリー・グライムズ!)。ここでのロリンズのソロは完全に自分の世界で、ホーキンスを無視したような演奏を突き進む。それにしてもすごいリズム感。よくやった、ロリンズ。尊敬する大先輩に、俺はこんなに上手く吹けるんですと聞いてもらいたいだろうに、それはジャズではない。この63年の時点でロリンズが思っていた「ジャズ」をぶつけないと、共演の意味はないのだ。そういう意味で、このロリンズはすごい。そして、そのあとふたたび我が道をいく感じで飛び出してくるホーキンスもかっこいい。ふたりのバトルというか、同時演奏になるのだが、ここもシュールかつ男らしいブロウが続き、涙なみだ。3曲目の「サマータイム」は冒頭からロリンズがテーマを崩しながらまさにロリンズとしかいいようがない演奏を繰り広げたあと、ホーキンスがずずず……とサブトーンで吹きはじめ、それにロリンズが後ろでずっとからむ。ホーキンスの演奏は堂々たるものだが、いつものホーキンスであって、そこにロリンズが陰影をつけていく。グライムズのベースソロもまともではなく、心をかきむしられる。4曲目「ジャスト・フレンズ」は、ホーキンスがサブトーンで軽快にテーマを吹いたあと、ロリンズがテーマの後半を受け持つのだが、これがまあ普通の吹き方ではない。ごつごつとした巌のようなリズム。そのままロリンズのソロになり、低音を強調した、なにかを試しているような、べつのキーのフレーズを露骨にインポーズしたり、しつこく同じことを繰り返したりと、内省的だが雄々しいという、この時期のロリンズの特徴が前面にでた演奏。ピアノを一瞬挟んで、ホーキンスはめちゃくちゃ軽々と吹きまくり、これも好調。5曲目の「ラヴァーマン」は、ピアノのイントロに導かれて、ホーキンスが意表をつくような高音部でテーマを吹きはじめる。つづくロリンズは逆に低音を使った、印象深いフレーズを積み重ねていく。交互に吹いていくという趣向のようだが、それぞれ個性的だ。ロリンズは完全にやんちゃな子供のように無茶をかますし、ホーキンスもそれを受けて横綱相撲のようにみえて、やはりロリンズのテンションに感化されてか、ずいぶんと真剣な演奏のように聞こえる。どちらも堂々とそのときの自分のスタイルを貫いており、それがとんでもなくアサッテに聞こえてもじつはその一方はもう一方からの深い影響によってこのスタイルを作り上げたのだ、それが今、同時に同場所で共演しているのだ……と思うとなんとも感慨深い。とにかくこの曲でのロリンズのソロ、めちゃかっこいい。フリークトーンも駆使して、師匠のまえで立派にやりたいことをやってみせている。そのフリークトーンをバックに、悠々と吹く師匠もまた立派。本アルバムの白眉といえる演奏ではないか。最後の6曲目はリフ曲。先発のロリンズがリズムをずらしながら吹くので、ホーキンスがソロの出だしでわけがわからなくなってしまっているように思えるがどうか。基本的にピアノがバッキングをしない曲なので(後半に出てきてそのままピアノソロに)、そのあたりもおもしろい。ほとんど「好き勝手に吹いてください」というタイプの曲で、ホーキンスも無茶苦茶やっていておもしろい。ピアノソロを挟んでロリンズが一度テーマを吹き、そのままリズムを強調したソロに突入。このソロはかなり新し目のフレージングにあふれていていい。グロスマンみたいでもある。ロリンズとドラムのロイ・マッカーディとのバースになって、これがまたすごい。ロリンズがテーマを吹いてフェイドアウト。ロリンズの真剣さとテンションがこのアルバムの名演を作り出したのだろう。あるところで、このアルバムはくつろいだおおらかなユーモラスな表現にかけている、という批判を目にしたが、そういう感覚というのは、スタンダードのリラックスした演奏ならなんでも喜ぶ姿勢と同じで、この時期のロリンズにそういうものを求めるのもどうかしてるが、そもそもこのアルバムは二度とないふたりの巨人の一瞬の邂逅におけるストイックなテンションを味わうべきものだと思う。
「COMPLETE LIVE AT THE VILLAGE GATW 1962」(SOLAR RECORDS 4569959)
SONNY ROLLINS QUARTET WITH DON CHERRY
どひゃーっ。ロリンズの「アワ・マン・イン・ジャズ」は大好きなアルバムだが、最初に聴いたときにいきなり好きになったわけではない。あれはなかなか難しい作品で、なにが難しいかというと先入観なしに聴くのが難しいのである。つまり、それまでは「サキソフォン・コロッサス」をはじめ、ビバップの延長としてのコード分解によるめくるめく歌心をつむぎにつむいでいたロリンズが限界を感じて引退。そして、復帰後にいろいろあったうえで、当時最先端のジャズだったオーネット・コールマンの音楽に接近……とここまでは(コルトレーンもたどった道であり)いいのだが、その接近の仕方が、いきなりオーネットのサイドマンであるドン・チェリーとビリー・ヒギンズを共演者に迎えての演奏……というあまりにも露骨で直接過ぎる試みを行った……というところが、従来のロリンズファンにもフリージャズのファンにも、「血迷ったのかロリンズ」的なとらえ方をされたのではないかと思う。たしかにこのあとのロリンズは、ここまでストレートなフリージャズを演奏していないので、一時の気の迷いだったという結論になるのもわからんでもない。しかも「アワ・マン……」に収録されている3曲中2曲は「オレオ」と「ドキシー」で、ロリンズの代表曲として名演も残されている作品であり、それをあえて取り上げたというところも「?」がつく感じだ。そして、その演奏が、自分の作品をバラバラに分解して、異形の前衛彫刻として再構築しました、みたいなかなりめちゃくちゃなものであり、また、共演のドン・チェリーがとくに「オレオ」(超アップテンポ)では、まるでちゃんと吹けていないみたいな演奏に終始しているあたりも、評価がわかれると思う。私も、最初に聴いたときは、なんじゃこのアルバム、めちゃくちゃやがな、と思った。そういう風にひとに語ったこともある。しかし、折に触れ聴きかえして、ロリンズのソロってじつはものすごいことをやってるのではないか、という気になってきた。そして、何度も聴いているうちに大好きになったのである。だから、なかなか一筋縄ではいかないアルバムだと思っているのだが、今回、そのヴィレッジゲイトセッションが、なななんと6枚組という大胆な形で全貌が明らかになったのだ(この6枚組はコンプリートではなく、「アワ・マン……」の現行CDに入っているボーナストラックが入っていないではないかと思うかたもいらっしゃるかもしれないが、あれは翌年のセッションで関係ないのである)。さっそく聴いてみると、うわー、なるほどなあ、と私は目からうろこが百枚ぐらい落ちたのだ。なにがわかったのかというと、オリジナルの「アワ・マン・イン・ジャズ」は、この日の膨大な演奏のなかでも、とくにフリージャズ的な演奏ばかりを3曲収録しているということだ。つまり、ほかの演奏は、フリーっぽいものばかりではなく、見事なまでの歌心を発揮したロリンズ節あり、もっと過激なフリーな演奏あり、無伴奏の箇所あり、バラードあり……で、多種多様である。しかもそれをズドーンと貫いているのが、ロリンズの信じられないぐらいの自由奔放さであって、もうそのリーダーにあるまじき傍若無人なふるまいは凄まじい。勝手に吹き出して、勝手にテンポやキーを変え、勝手に別の曲に入り……これはどうやらサイドメンたちとの打ち合わせもなければ、演奏中のアイコンタクトなどによる意思の疎通もないようだな、と思えるところがたくさんある。みんな、ついていくのに必死だ。もちろん客も、うわーっ、すげーっ、と感動して聴いていたつぎの瞬間にはそれを全部放り捨てて、まったく新たな次元へ突入されて、置いてきぼりをくらっているはずだ。こういう「ひとりが全員を引っ張りまわす」ような演奏は真のフリージャズではない、という意見もあるかもしれないが、それは皮相的な見方ではないか。ロリンズがごりごり、がんがん吹きまくるのを、メンバーたちは果敢にインタープレイに挑もうとしており、その結果、おもしろい瞬間が続発しているのだ。しかも、どれだけ荒馬のように奔放に吹き倒していても、ロリンズのテナーの「音色」は最高であり、そのアーティキュレイションによる表現力のすばらしさもまた筆舌に尽くしがたい。つまりロリンズは豪快に、フリーに、自由に、好き放題にブロウしているようだが、そのテナーの音やフレーズなどには細心の注意が払われており、独自の世界とか個性豊かなといった生半可な表現では言い尽くせないほどのオリジナリティをもった世界が現出している。こんな風に吹けたらなあ……と思います。ああ、またこれを聴いてロリンズ熱再燃したなあ。このグループでロリンズが行った試みは、その後のロリンズの音楽に確実に反映されていると思う。たとえば「ロリンズ・オン・インパルス」や「イースト・ブロードウェイ・ラン・ダウン」や無伴奏ソロなどに。本アルバムの白眉はおそらく5枚目の一曲目に収録されている「アンタイトルドオリジナルC」だと思うが(20分を越えるそれはそれは凄い演奏)、全部熱いです。よくもまあこれだけいい音で全曲録音しといてくれたなあ、そしてそれをこうして出してくれたなあと感涙。ロリンズファンならずとも、テナー好き、フリージャズ好きはぜひ聴いてみてほしい。全体の底にブラックミュージックとしての黒くどろっとした表現が横たわっているのも聴きもの。
「AFTER THE BRIDGE」(SONY MUSIC LABELS INC. SICP4192〜3)
SONNY ROLLINS
うーん……ロリンズの「アフター・ザ・ブリッジ」2枚組が1500円か……。いい時代になったというべきか、この大傑作の価値が1500円かよ! というべきか、かなり複雑な思いである。しかし、本作が歴史的な意味合いのある、しかもジャズ史上まれにみる名演(名盤というのとはちがうかもしれない)であることはまちがいない。このアルバムが出たときのことはよく覚えている。「ブリッジ」というかなり硬派なアルバムを皮切りに、「ファッツ・ニュー」というカリプソ主体のアルバム、一転して「アワ・マン・イン・ジャズ」というフリージャズに肉薄したアルバム、そしてスタンダードなどの短い演奏に終始した「ナウズ・ザ・タイム」「ザ・スタンダーズ」……と散漫でなにがやりたかったのかわからなかったロリンズのRCA時代だが、それをひっくり返すような音源が出た!みたいな感じだったと思う。これはうろ覚えで、まちがっているかもしれないが、じつはロリンズはそのときも奔放かつすごい演奏をしていたのだが、RCAがロリンズの意向を無視してテープを編集し短い聴きやすいものにして、ああいう形で発売したのだ……みたいな話だったような気がする。「アフター・ザ・ブリッジ」は、レコード会社がフェイドアウトしたり鋏を入れたりするまえの、当時のそのまんまのロリンズの演奏が残っていた、だからすごいのだ的な売り文句だったように思う。しかし、当のロリンズは、作品の内容についての決定権は自分にあって、今回、それを無視したような形で世に出すことは許されないというようなコメントをしていた。つまり、従来発売されていた形が本人の意向にそったものだったというわけだ。このあたりのことはたいへん難しいと思うが、発売当時、聴くまえの私の期待としては、レコード会社の都合で口当たりのよいものになっていた演奏が全編まるまる聴けるすごい演奏……という感じだったのだが、聞いたあとの印象では、「なんやかんや言うても、フェイドアウトも多いし、わけのわからん好き勝手な演奏で、こんなもん切ろうが切るまいが一緒やん。わざとめちゃくちゃ速いテンポにしてそれについていけずに崩壊してるような演奏とか、わざとテーマを変な音で吹いたりとか、自己パロディとか……結局なにがやりたかったんや」というものであった。つまり、「ロリンズなに考えとんねん。これは、鋏を入れられてもしゃあないわ」というのが学生時代の私の感想だった。しかし、その後、あるときふと聴き返してみて、180度その印象がひっくり返ったのだ。「これは……ロリンズの生涯の大傑作では……」という風に。大袈裟だと思うかもしれないが、いやいやいやいや、これはいつわらざる感想であります。ここに、このアルバムに、ロリンズの凄さ、すさまじさが結集していると思う。しかし……このアルバムを、ロリンズをさほど聴いていないひとに、すごいでしょ、ね、ね、すごいでしょ! と言ってもなかなか理解してもらえないかもしれない。それはしゃあない! 私がこのアルバムについて思うのは、これが「フリージャズ」だということだ。「アワ・マン・イン・ジャズ」はそれが一番露骨な形であらわれているが、本作前後のロリンズは、メンバーがどうであれ、とにかくつねに自由な表現を模索していたのだと思う。オーネット・コールマンやコルトレーンとはちがったやりかたで、ロリンズなりの自由を獲得しようとしていた。そして、それは本作においてほぼ実現している、といえるのではないか。スタンダードやジャズの名曲、ブルースなどを解体して、べつのものにしていく作業は、「ほらね、こういう風にすればなんだって作れるんだよ。どんな相手とでも、どんなときでもね」と言われているような気になる。しかも、めちゃくちゃ正攻法の、見事な演奏も入っており、それについても「ちゃんとした吹き方をしたいときは、こうやって吹けばいいのさ」と言われているようでもある。つまり、フリージャズというのは常にギャーッと吠えるような、ノイジーな演奏がデフォルトなわけだが、ロリンズの自由さは、そういうフリージャズの「枠」さえ飛び越えてしまっていると思うのである。家のオーディオでは、どれだけでかい音でかけてもたかがしれており、ああ、このアルバムはさすがにジャズ喫茶で聴きたいなあ。
二枚組の1枚目1曲目「52丁目のテーマ」は循環の曲だがとにかくものすごく速いテンポ設定である。それをロリンズは効果的に使い、細かくビートに乗って吹きまくったり(しっかりした音、アーティキュレイションで吹かれており、めちゃくちゃすごい)、大きく乗ったり、同じフレーズを繰り返したり、他の曲を引用したり、立ち止まって考えたり、アブストラクトな感じになったり、ビートを無視してフリーっぽくなったり、ちょっとダレたり、また復活したり……つまり、長い演奏のなかにドラマがあるのだ。それも、口当たりのよい起承転結といった予定調和のドラマではない。なにしろテンポが速すぎるので立ち止まることは許されず、頭で考えていたのでは間に合わない。思いついたことをパッと吹いて、その続きをひたすら即興的につなげていくというチャレンジを延々行うことによって、予期せぬドラマが誕生している。全体でみると、フリージャズに接近したようなアグレッシヴな演奏になっている。これは凄いです。最後のほうで延々繰り返されるドラムとのバースも凄まじい。「ナウズ・ザ・タイム」に入っているバージョンよりはるかに過激で、長い。サド・ジョーンズも入っていない。2曲目「ジャンゴ」は、まずテーマの吹き方自体が、なんでこんな幽霊が出そうなひょろひょろした音で吹いてるの? と言いたくなるようなヘンテコな感じで、ソロに入った途端インテンポになり、しっかりした音で吹きだすのだが、同じ音を立てつづけに吹いたり、ロングトーンをするだけだったり、とかなりヤバい。なんでこんな演奏をしてるのか、と問われると、たぶん「そうしたかったから」と言うしたないのでは。答えはロリンズにしかわからない。ラストテーマも同じくひょろひょろした吹き方になり、そのあと変な倍音のロングトーンが続いて終わる。変なの! でも、かっこいい。3曲目は「ナウズ・ザ・タイム」で、テーマはやけに張り切った音で吹いているのだが、ソロに入ったら途端にわけのわからないフレーズ(?)を吹いたり、長く間を開けたり、スラップタンギングを繰り返したり、マルチフォニックスをリズミカルに連発したり、低音をボコボコ言わせたり……そのあいだずっとリズムセクションは普通にブルースのバッキングをしているのがおかしい。もともとブルースをブルースらしく吹かないことでは定評(?)のあるロリンズだが、ここでの演奏はそのもっとも過激な例かも。やりたい放題で、ほんとに思いつきで吹いているのだろう、底抜けの自由さを感じるし、また、なにかを探しているような苦悩、手垢のついたジャズ表現を突き破りたいという意欲も同時に感じる。だれにもソロを取らせないロリンズの独擅場的な演奏。そういうところも含めて、ロリンズは従来のジャズ、従来の自分を壊したかったのだろう。これもまた安易な起承転結をよしとしない(もともとロリンズはソロの構成力が抜群のひとなのだ)、アバンギャルドな演奏だ。同じフレーズをちょっとずつ変えてたり、リズムをずらしたりしながら延々と試しているようなロリンズ、マウスピースだけで変なノイズを出し、それと4バースするロリンズ……超かっこいい。1枚目のラストは「アイ・リメンバー・クリフォード」で、ロリンズはクリフォード・ブラウンの親友だったはずで、その死を悼んで作られたこの美しい名曲を、あえて単なる素材として扱っているようにも聞こえる。サド・ジョーンズは一生懸命、ちゃんとやろうとしているが、ロリンズは好きなように吹いている。かなり過激な演奏で、ラストのカデンツァなども、ほんと「なにしとんねん!」と言いたくなるようなよくわからないもので、そこがなんともいえないええ感じだよね、このころのロリンズは。逆に「ナウズ・ザ・タイム」に入ってるこの曲の演奏は、ちゃんとしているのだが、超短くて逆に物足らない(サド・ジョーンズも入っていない)。
2枚目の1曲目はあの「セント・トーマス」だが、この演奏を聴くかぎりでは、ロリンズはかつての自分の完璧な吹き込みをセルフパロディ化しているようにも聞こえる。テーマを一回吹いたらあとはソロをせずリズムセクションがコードをつないでいてもほったらかし。しかも、かなりたってから突然ソロを吹きだし、それも低音で遊んだり、テーマを変に崩したりして、最後はギャグで終わってしまう。ユーモアというより非常にシニカルなものを感じます。2曲目は「アフタヌーン・イン・パリ」。この2枚組のなかでは珍しくちゃんとした演奏で、ハンコックのソロをちょっとだけフィーチュアされる。そのあとロリンズはソロをせず、ドラムとの4バースになって、すぐテーマに入ってしまう。短いがロリンズらしさはちゃんと出ている。3曲目は「フォー」。見事なイントロからテーマのアレンジもいい感じで、ソロもすごくしっかりしている……と思ったのは最初だけで、途中からは好き勝手なアドリブになるのだが、それをぐいぐいと強引にまとめあげて、短いが言い尽くすようなソロに仕立て上げているのはさすが。ハンコックのええ感じの短いソロを挟んで、ロリンズとドラムの4バースになるのだが、これもかっこいい。4曲目は「フォー」の別テイクでちょっとテンポが速い。ロリンズは「52番街のテーマ」と並ぶぐらいの本アルバム全体を通して白眉ともいうべき圧巻の演奏。この時期のほかのテナーマンにこんなことができたかよ! という奔放で凄みのある演奏。このソロを聴いて、だれの演奏か当てるのは本当にたやすいはず。それぐらい個性が前面に出ている。いやー、参ったぜ。ロリンズ凄い! このころ、ロリンズはこの曲を愛奏していたみたいですね。しつこいエンディングも完璧じゃ! 5曲目は「ウィンターランド」で、甘いのに甘くないロリンズバラードの極致が聴ける。緊張感のある脆い美しさである。6曲目は「星に願いを」だというがテーマは冒頭にめちゃくちゃ崩した状態でちらっと出てくるだけである。エンディングもリズムセクションは「え? 終わりなの?」という感じでつけているようにも聞こえる。ラストの「トラヴェリン・ライト」はジム・ホールが入った演奏で、美しいバラード……のように聞こえるが、かなり危うい、不協和音やキーから外れたフレーズなどをぶつけまくっていて、凄い。ピアノソロかと思ったらうしろのほうでロリンズがフリーキーに吹いていて、そのまままえに出てきたり、もう映画を観ているようなドキュメントでもある(それはこの2枚組の演奏すべてに言えることだが)。ラストは、もしかしたらフェイドアウトなのか、それともここで終わったのか。このアルバムを「寄せ集め」とかいう人がいるようだが、この2枚組を貫く統一感は半端ではない。このアルバムが世に出たことを皆万歳三唱で祝うべきである。ある意味ロリンズの最高傑作の一枚(二枚?)と言っていいかもしれない。無心に聴くべし。いやー、かっちょええわ!傑作。
「SONNY ROLLINS IN HOLLAND THE 1967 STUDIO & LIVE RECORDINGS FEATURING RUDD JACOBS & HAN BENNINK」(RESONANCE RECORDS HCD−2048)
SONNY ROLLINS
オランダでのスタジオ録音+ライヴ2枚組。ほとんどが未発表音源で貴重なものだと思うが、貴重さだけでなく中身がめちゃくちゃ凄い。スタジオでの4曲は音質がきわめて良くて、1曲目の冒頭のロリンズの無伴奏ソロからテナーのほれぼれするような瑞々しく豪放な音色がすばらしく、ただただ聞き惚れる。そして、「これぞ4ビートジャズ」といえるロリンズ独特のアーティキュレイションの見事さが隅々まで明確に聴きとれる。ちょっとしたテーマの吹き方でも、音を伸ばしたり、うしろにずらしたり、音色を変化させたり、と微妙な部分を自由自在に操っていて、完璧としか言いようがない。そして、この歌心。吹けば吹くほど新しいフレーズが湧き出てくるようで、自然体のロリンズの凄みが発揮されている。ここでのハン・ベニンクは「よくスウィングする上手くて迫力のあるドラマー」で、フリーミュージックをやるときのベニンクとは別の顔だが、先日のカルテットでの来日でもわかるが、こういうオーソドックスな演奏がこのひとのアナーキーでめちゃくちゃ暴走するような演奏の根底にあるのだ。だが、奔放さはフリーミュージックをやるときと変わらない。ベースは、ヤコブス・ブラザーズというバンドでのリーダー作もある、オランダを代表するベーシストらしい(2019年に亡くなって、本作は彼の追悼盤でもある)。そして、ライヴ録音の曲は音質は劣るが、鑑賞には十分で、演奏のいきいきした躍動感はただごとではない。ロリンズはスタジオでも録音している「ラヴ・ウォークド・イン」(ディスク1の方)では冒頭3分以上の猛烈な無伴奏ソロをしていて、そのままの勢いでベニンクとの4バースに雪崩れ込む。ベースソロを挟んで、またしても4バース。まあ、普通はそんなことはしない。最後にはとうとう時間切れでMCが入ってしまう、という凄さ。そしてまた無伴奏ソロがあってテーマ……という異常な構成。ロリンズもベニンクももっと前衛的な演奏もめちゃくちゃ好きなのだが、こういうオーソドックスなタイプの演奏に込める狂気というか熱気はほぼイコールだと思う。「スリー・リトル・ワーズ」(この演奏は本当に「圧倒的」としか言いようがない)の4分過ぎぐらいからはじまる「同じフレーズ」に固執して延々と吹き続けるのもユーモアとかを逸脱して、狂気じみていてかっこよすぎる(7か所ぐらいで何度もぶっこんでくる)。この曲でのロリンズの吹きまくりぶりはえげつない。いつまでもやめない。ソロのやめどきがわからない、と言ったコルトレーンにマイルスがマウスピースを口から離せといった話は有名だが、ここでのロリンズもそういう感じである。とにかく自分のなかからなにかが出てきているあいだはそれを全部出しきるまでソロを続ける、という姿勢はコルトレーンもロリンズも同じように思う。それをひたすらあおるベニンクも凄い。そのふたりのあいだをしっかりと支えるベースも凄い。そしてまたしても喧嘩のような2バース。ロリンズの凄いところは、こういうオーソドックスなタイプの演奏でも、4バースをしたくなったら4バース、同じフレーズをひたすら吹きたくなったら同じフレーズ、カデンツァをやりたくなったらどこでもカデンツァ、別の曲をやりたくなったら別の曲……という具合に自由奔放といえば聞こえはいいが、好き放題勝手放題の演奏で、ある意味「フリージャズ」なのである。ピアノレスという形式はそういう突然方向を変えるような演奏にぴったりなことをロリンズは発見したのだと思う。だから、共演者はよほどの手練れでないとついていけない。ここでのふたりは理想的である。でも、まあたいへんだったと思うなあ。このロリンズについていけるひとはどんな相手と共演しても無敵だと思う。ディスク2はメドレーが多くて(ディスク1の「スリー・リトル・ワーズ」とかも長大なメドレーのようなものだが)、1曲目は「ゼイ・キャント・テイク・ザット・アウェイ・フロム・ミー」(「ザッツ・エンターテインメント」でおなじみ)からまたしても「サニー・ムーン・フォー・トゥー」へ(といっても、まるでコード進行のちがう曲をロリンズのふとした気分で強引に結び付けているだけ。いつもの展開である)。4ビートの曲を倍テンやその倍に分割して細かく吹いやるやん!」という感じで胸が熱くなる。ビバップ〜モダンジャズというより、それよりまえのスウィング的な要素を取り入れたような派手なドラミングに思える(ジーン・クルーパとか……)。それがすごく合ってるようだ。最後は伴奏ソロになり、がつんと締めくくる。ラストは、これも当時の愛奏曲だったらしい「フォア」(スタジオの4曲でも演奏している)でアップテンポにおけるベニンクのドスドスドスドス……というきついアクセントのつけかたが印象的である。ロリンズの硬質なフレージング(つまり、カクカク、ポキポキとしたホーキンス的なアーティキュレイション)とばっちり合っている。22分以上あるこのトリオ演奏で、3人はイマジネーションの限りを放出する。ロリンズはまたまた吹きまくりで、この曲がめちゃくちゃ合っているのだなあ、と思う。最後のあたりはでたらめメドレーといっていい展開で、リズムセクションも耳をそばだてて必死に合わせているのだろう。客もなにがどうなっているのか……とはらはらしているのではないか。そして大歓声。あー、ジャズですね! テナー一本抱えてヨーロッパに乗り込み、ここまでの音楽を「サクッ!」と作り上げてしまったロリンズに脱帽。あえて「自由」とか「フリー」とかいった言葉を使わなくても、そういった気配が横溢する傑作。
「LIVE UNDER THE SKY…’81」(EQUINOX EQ2CD6022)
SONNY ROLLINS/GEORGE DUKE/STANLEY CLARKE/AL FOSTER
巨大な山脈のようなとてつもないエネルギーにあふれた演奏である。私が大学に入学し、下手くそなサックスをちまちま練習していたころにラジオでエアチェックしたのと同じもので、私はそのエアチェックのカセットテープを後生大事に聴き続けてきたが、これでようやくテープが切れても安心、ということになった。めちゃくちゃうれしい。ロリンズのライヴでの爆発的な演奏はよく知られていると思うが、本作でのぶっ飛びぶりは神がかっている。とにかく1曲目の「リトル・ルー」を聴いてほしい。ロリンズは繊細なインプロヴァイザーだが、カリプソのリズムに乗ると解放されたかのように奔放に吹きまくる。このアルバムでの演奏はそういうものばかりで、明るく楽しいノリノリの演奏もここまで徹底されると聴いていて震えがくるような凄みを感じる。ひとたび吹きはじめると、限りないイマジネーションが湧きあがってきて、それをすべて出し尽くさずにはおれない、という衝動がひしひしと伝わってくる。ロリンズは芸術的とかエンターテインメントとかいったものを越えたステージにいる。ジョージ・デュークの過激なバッキングも、ロリンズの圧倒的なブロウに引きずられて、こうするしかない、という感じなのだ。この豪華なメンバーを引きずり倒し、引っ張りまわすかのごとく、いつまでもブロウをやめない。一瞬たりとも立ち止まらず、フレーズを重ねていく。正直、呆れて物も言えないぐらいの吹きまくりである。吹けば吹くほど自身が盛り上がっていき、次から次へと泉のようにアイデアが湧いていくのがわかる。この演奏がこうしてCD化されたことは本当にうれしい。20分に及ぶこの1曲目を、これだけの豪華なメンバーを従えながら、最初から最後までひとりでソロをするロリンズの雄姿よ! 2曲目はおなじみ「ストロード・ロード」だが、テーマの吹き方からして超かっこいい。このときのロリンズはラーセンのラバーだったみたいだが、音の濁らせ方も最高である。ジョージ・デュークのエレピのソロ、スタンリー・クラークのウッドベースのソロ(さすがの演奏でめちゃくちゃウケている)のあと、なかなかロリンズが出てこない。やっと出てきたかと思ったら、アル・フォスターとの4バースがはじまり、それからドラムソロになるが、かなりのロングソロにもかかわらず緊張感が持続するめちゃいいソロ。これもまた「さすが」の演奏。そして、ドビューン! と飛び出してくるような勢いのロリンズのブロウもえげつないぐらい凄い。このマグマの噴火のようなエネルギーはなんだ。いつまでも吹きやめない。ロリンズのなかで音楽があふれかえってしまって、それをすべて出すまではやめられない、という感じだ。3曲目はロリンズは珍しくソプラノを吹く(この演奏はエアチェックではカットされていた)。ロリンズのソプラノは正直言ってなぜかへろへろで、音といい吹き方といいチャルメラみたいな感じで、テナーだとあれだけ豪快に唸りをあげるような音を出すひとがどうして……? と思うのだが、こうして久々に聴いてみると、ソプラノもけっこう味わい深いですね。ラストのあたりの吹きっぷりは、楽器もフルトーンで鳴っていて、フレージングもさすがで、「ええやん、ロリンズのソプラノ」とはじめて思ったかも。2枚目に行って、1曲目はまたまた超おなじみの「ドント・ストップ・ザ・カーニバル」。「リトル・ルー」と同じく、テーマとその変奏を延々続けるだけなのだが、それがここまで爆発を伴うすさまじい奔流としてすべてを飲み込むようなスケールの大きい音楽になるというのは驚異だ。それも、(こういう言い方はスタープレイヤーたちに失礼かもしれないが)大勢のミュージシャンがそれぞれ力を尽くして……とかではなく、ロリンズというテナー奏者ひとりの力によってそういう状態が作られている、ような気がするのだ。ほかの3人はすばらしいバッキングをしているだけで、主役はあくまでロリンズ。ロリンズがこの曲でもジョージ・デュークとアル・フォスターのソロがフィーチュアされるが、それはそのあとに登場するロリンズを「待っている」状態であり、満を持して飛び出してくるロリンズの後半全体を占める、思い切りのよい鬼のブロウは、「サキソホン・コロッサス」や「ニュークス・タイム」などにおけるかつてのあの繊細さはどこへ行ったの? と思うぐらいの、ホンカーもかくやという凄まじいホンキングが延々続き、それを煽りまくるアル・フォスターの激しさは自分のソロのときを上回る。ロリンズは本当に見事なアーティキュレイションのひとで、50年代の録音については、8分音符のそれを聞くだけで「ああ、モダンジャズのテナーとはこれだ」と思うぐらい感動ものなのだが、ここではそういう絶妙のアーティキュレイションは一切かなぐり捨てられ、すべての音に強いアクセントがつけられる奏法になっていて、まるで別人のようだが、どちらがいいか、ときかれると、「どちらもいい」と答えるしかない。途中で「ウィー」が引用される。2曲目はソプラノによる「イズント・シー・ラヴリー」だが、ええ感じでテーマが奏でられたあと、ジョージ・デュークのめちゃかっこいい「心得てます」という美味しいロングソロになる。音数はわざと減らし、じっくり聴かせる。アル・フォスターやクラークとのからみも抜群。クラークのベースソロを経て、ロリンズの豪快極まりないソロがぶちかまされるが、テナーに持ち替えている。この曲、ロリンズに本当にはまりまくっている、というか、ロリンズがやると、最初からロリンズのために書かれた曲に聞こえるぐらいである。終わると、田園コロシアムを揺るがすような拍手が来る。そして、「セント・トーマス」。あの名演で知られるこの曲を、ロリンズはグロウルしまくったトーンでテーマを吹き、イメージを一新する。デュークの、鍵盤と戯れるようなかわいらしいソロ、クラーク、フォスターのソロに続き、ロリンズのソロがフィーチュアされる。そして、アンコールが起こり、それに応えてアナウンスでロリンズが「感謝します」と繰り返したあと、はじまったのが「モリタート」。まこにロリンズヒットメドレー。またしても汲めども尽きぬフレージングの嵐だが、「モリタート」すらこんなグロウルしたトーンでホンキングしまくるというのはすごいな。もはや「サキソホン・コロッサス」での名演の影も形もない(ほめてます!)。フレーズの最後を放り出すように音程を下げる、という癖(?)もあちこちで目立つ。ラストに「リトル・ルー」がちょっとだけ入っている。エアチェックのテープでは、児山紀芳によるナレーションが入っていて、ものすごい雨で開演が遅れたので、インターミッションなしでロリンズカルテットの演奏を今からお送りします、というようなことを1曲目のイントロにかぶせてしゃべっているので、本作の音源はエアチェックされたものではなく、おそらくNHKに残っていた放送用音源を使っているのだと思う(だから音もすごくいいです)。昔のロリンズが好きなんだ、というひとも、本作を聴いて楽しめぬことは絶対にないと思う。ある意味、テナーサックスの表現の極北のひとつではないか、とすら思える壮絶な演奏である。傑作。
「EASY LIVING」(MILESTONE RECORDS 00025218689328)
SONNY ROLLINS
いやー、これは好きですね。というか、以前は嫌いだったが、180度ひっくり返って今では大好き、という作品。じつは学生時代にジャズ喫茶とかで聴くたびに、なんやこれ……とがっかりした盤である。引退するたびにカムバックし、そのたびに力強くなっていくロリンズだが、本作は72年の「ネクスト・アルバム」によってその最後のカムバック(だろうね?)をとげたあとの安定期の作品である。しかし、このアルバムにおけるロリンズの演奏は、当時のロリンズの「あの感じ」で、豪快というより大味、音色もガーッというグロウルによる一本調子のもの、フレーズも以前のめくるめくアーティキュレイションはなく、リズムセクションも雑、曲もポップ過ぎる……というこの後のロリンズミュージックの象徴ともいうべき感じの演奏なので、そのあたりに抵抗があったのだと思う。ロリンズはもちろんデビュー時からプレスティッジ、ブルーノート……あたりの演奏は豪快ななかにもじつにええ感じの繊細さがあって、ほれぼれするような見事なものだった。その後もRCAやインパルスにおいても、ジャズシーンの動向にはまどわされず、自分なりの表現を作り出そうと挑戦し続ける姿は感動的だった。しかし、「ネクスト・アルバム」以降は「フュージョンに転じた」と言われ、私も正直、あの壮絶な神技のようなアーティキュレイションとフリーなブロウを捨てて、音量がつねに一定で、パキパキしたノリでフレーズを勢いに任せて吹きまくる姿は、すごいとは思ったが、ロリンズがコレをしなくてもいいのに……とは思っていた。しかし、その後、何度かライヴに接すると、はー、やっぱりすごいなあ、とストレートに感銘を受けるが、アルバムはどれもこれも「うーん……」という大味な感じに思えていた。しかし! 今、聞き直すと、私の耳がアホだったことがよくわかる。とくに本作などは、1曲目の「イズント・シー・ラヴリー」は必要あってソロを丸コピーして、今でも全部歌えるぐらい聞き込んだのに、「いまいち」と思っていたのだからアホだよねー。今聴くと、超名演であり、ロリンズらしいアクの強さもかなり前面に出た個性丸出しの演奏である。普通、この曲は原曲だと管楽器がやりにくいのでE♭でやる場合が多いが、ロリンズは原曲どおりのEでやっている。すごい! 私も何度か演奏したことがあるが、いつもE♭(テナーだとFになる)だったなあ。ロリンズはすごいです。2曲目はロリンズの曲だが、めちゃくちゃファンキーなリズムに乗って吹きまくる。一度聴いたら忘れられないメロディライン。ロリンズのソロはライヴでの演奏に近いような「その場で思いついたことを吹きたいように吹く」感じですばらしい。3曲目は「マイ・ワン・アンド・オンリー・ラヴ」をソプラノで。ロリンズのソプラノはいまいち評価の分かれるところなのだろうが、この「マイ・ワン……」の歌い上げはすごいじゃないですか! 4曲目もロリンズの曲で、これもソプラノによる演奏だが、「マイ・ワン……」とは打って変わってフルトーンでごりごり吹きまくっていて爽快である。二度目のソロなんか聴いてると、(これは学生のころにもそう思ったことがあるが)この時期のロリンズは豪快で楽しい演奏……という面ばかり目につくが、じつは新しいリズムや新時代のフレージングにものすごく適応したとんでもないひとなのではないかと思う。5曲目はバラードでタイトルチューンでもある「イージー・リヴィング」。本作においてはいちばん「4ビートジャズ」という感じの演奏だと思うが、これもまたライヴを聴いてるような感覚になる自由自在の、なんともロリンズらしい演奏。昔はこういうのが、いくらなんでも荒っぽすぎる、と感じたのだが、今聴くとめちゃくちゃええやん、と思う。最後はまたロリンズの曲で速い4ビート。収録作中いちばん長尺で、ベース以外全員がソロを回す。傑作!