「THE JUKE BOX SUITE」(NOT TWO RECORDS MW 786−2)
ROVA SAXOPHONE QUARTET
ジュークボックスから流れる音楽に想を得たアルバムとのことだったので、もう少しおもちゃ箱を返したような、ポップで猥雑で雑然とした感じの内容かなあ、と勝手に思っていたが、聴いてみるといつもどおりというかあいかわらずというか、ローヴァの真摯な作品であった。このグループはほんと、(良い意味で)遊び心がない。ちょっと羽目を外すぞ、とか、無茶をやるぞ、というようなふりをしても、実際には、「真面目に、羽目を外すべく努力している」のであって、基本的には非常にシリアスなカルテットであり、たとえば(比べるのもおかしいが)ワールド・サキソホン・カルテットが、大づかみで、ときにはラフすぎるぐらい大味な部分があるのに比べても、とにかく狙いのはっきりした綿密なインプロヴィゼイションが重なりあう。よく「音のタペストリー」というが、私がいつも、本当の意味で「タペストリー」を感じるのはこのグループである。サックスカルテットは、下からバリトン、テナー、アルト、ソプラノ……と積み上げていく構造になっているが、それを重層的に利用して、立体的なパノラマのようなインプロヴィゼイションを作っていく。感心するほかない。
「FAVORITE STREET」(BLACK SAINT BSR0076)
ROVA PLAYS LACY
このアルバムではじめてロヴァを聴いた。どうしてそれまで聴かなかったのかというと、子供のころ、ゴジラ派とガメラ派があったように、当時、WSQ派とROVA派があって、私はWSQ派に属していたので、ロヴァのアルバムは、内心聴きたい思いはあったけれども、あえて聴かなかったのである……というのはもちろん冗談だが、ワールド・サクソホン・カルテットを聴いていた私にしてみたら、「え? WSQなんか聴いてるの? もっとすごい、ロヴァっていうのがあるんですよ、知らないの? へー」みたいに言われているようで、なかなか聴く勇気がなかったのである。そういうことないですか? けっこう、一生懸命リサーチしていろいろな音楽を聴いているつもりなのに、じつは自分のまったく知らないところで、ものすごい音楽があって、それを多くのひとが聴いていて、自分はまるで置いてきぼりになっているような妄想を抱くときが。いや、妄想ではなく、たまにそういうことが実体験であるからこそ怖いのである。だからなるべく音楽情報誌などは読まないようにしているのだが、それでもたまに見てしまい、「○○がすごい」とか書いてあると、思わず(うわー、聴きたいけど聴くの怖いなあ)と思ったりする。最近では「アトミック」とか「ジム・ブラック」とかがそうだった。どちらも個人的にはいまいち感心しなかったので、べつに問題ないのだが、ヘンリー・スレッジルのように、昔、何枚か聴いて、そのときは「しょうもなー」と思ったのに、あまりにメディアが持ち上げるので、最初は「アホか」と思っているのに、だんだんと自信がなくなってきて、あるとき思い切って聴いてみると、うぎゃー、めちゃめちゃすごいやん、と自説をひっこめざるをえないようになる経験も一方ではたくさんしているわけで、そういうときに自分の音楽的な鑑賞眼のつたなさを思い知らされるのである。話が横道にそれたが、ロヴァもそういう理由でずっと聴けなくて、アンドリュー・ヴォイトが脱退して、ソロで日本ツアーをする、というときに、私の知り合いのところに話が来て、結局は断ったのだが、そのときにさすがにちょっと聴いたほうがいいなあ、と思って、ちょうど出ていた本作を買ったのである。聴いてみると、なんのことはない、即興系サックスカルテットで、勝手にビビッていた自分が情けなかったが、よくよく聴いてみると、親近感も抱いた。WSQが内包している良さも問題点も、このロヴァのなかにもあるなあ、と思ったのだ。スティーヴ・レイシーの曲ばかりを演奏した本作は、かっこいいし、着眼点もいいし、レイシーのコンポジションの良さも引きだしているし、それぞれのソロもいいのだが、一方では、リズムセクションのないサックスのみのカルテットの弱さもあって、少々中だるみする。こちらの聞き方の問題かと思って、何度も何度も聴いたのだが、やはりダレる。そのあたりはWSQも同じであって、「メタモルフォセス」以後の、ゲストにリズムを入れた場合はそんなことはないが、それまではどうしても単調になりがちであった。でも、本作を聴いたのち、いまだにロヴァの新譜を聴いているのだから、やはり初体験が大事だなあと思わないでもない。
「JOHN COLTRANE’S ASCENSION」(BLACK SAINT 120180−2)
ROVA’S 1995 LIVE RECORDING
1995年当時、ラリー・オークス、スティーヴ・アダムス、ジョン・ラスキン、ブルース・アクリーという布陣だったローヴァ・サクソホン・カルテットに、グレン・スペアマン、デイヴ・ダグラス、ラフ・マリクら7人が参加した、コルトレーンの「アセンション」の再現(?)プロジェクト。2アルト、3テナー、2トランペット、2ベース、1ピアノ、1ドラム……と楽器編成的には完全に「アセンション」のまま(のはず)である。アレンジはラリー・オークスで、音楽監督はグレン・スペアマンだったらしい。1曲目は「ウェルカム」で、「トランジション」や「クル・セ・ママ」に入ってる曲。これをラリー・オークスがテナーで、ピアノトリオとともに演奏する。せつせつとした静謐な演奏で、とても穏やかで、しかも気持ちがこもっていて感動的である。豪快な感じではなく、震えるような微細なトーンを駆使してコルトレーンの音楽を伝えていく……すばらしいと思う。しょーもないスピリチュアルジャズもあるけど、こういうのをスピリチュアルジャズと呼ぶことにはあまり抵抗はない。終わったあとの聴衆の反応もいい。そのあと「アセンション」パートになる。テーマを聴くと、あー、そうそう、こんな曲だったなあ、と思い出す。だって、めったに聞かないもんなー。ラドラドレー……。スペアマンは独特のコンダクションでこのセッションをまとめているようだ。スペアマンは、81年の「ナイト・アフター・ナイト」というのをたまたま買って以来のファンだが、この録音の3年後(1998年)に亡くなっている。最初、混沌としたコレクティヴインプロヴィゼイションが続いたあと、先発ソロはスペアマン。このセッションの音楽性をはっきり示すような、直情的ですばらしいソロ。あれこれと様子を見ることなく、のっけからストレートにギョエーと言い倒すフリーキーなソロだが、フリーキーなだけでなく、根底の音色もしっかりしていて、高音と低音の交互のひとりチェイスなどはコルトレーンもやっていた技である。寄り添うように弾きまくっているクリス・ブラウンのピアノにも注目。ソロの途中からまた全員参加でぐじゃぐじゃになり、リフとかが演奏されて、つぎのソリスト……という形なのだが、ぐじゃぐじゃのように聞こえてじつは全員がしっかり理解してやっている、という点が「アセンション」とはちがうところだろう。つづくソロイストはラフ・マリク(日本語版ウィキによるとレッフ・マリクと発音することになっている。2006年死去)。非常にパワフルでストレートなソロ。そして、スティーヴ・アダムスのずっとキーキーいってるフリーキーなソロ(これがかっこいいのだ)。ROVAとか、けっこうみんな頭でっかちな印象ないですか? 実体はこんな感じ。肉体的にひたすらブロウする場面も多いのだ。そして、ブルース・アクリーのテナーソロ。最初から音を割るような感じのえげつないブロウを展開。ゴリゴリのフリージャズテナーの魅力をこれでもかと示してくれる。かっちょええ! しかも中音域も伸びやかで、しっかりと「ジャズ」的である。ピアノもベースもからみまくっている。それにしても、全員、フリージャズの伝統に乗っ取ったようなソロだなあ。そして、ラリー・オークスの登場。最近も気を吐きまくっているオークスだが、のっけから過激なフレージング連発で演奏がぐっと引き締まる。まるでシェップやアイラーがばりばりやってた頃のように、いや、コルトレーンがフリージャズに身を投じたころのように、ただただまっすぐで吹きすさぶ嵐のような演奏ではないか(大げさ?)。つまりは「アセンション」なのだ。つぎに来るデイヴ・ダグラスのソロからはかなりクールダウンした感じになる。このあたりはスペアマンのコンダクションの成果ではないかと思う。力強いがコントロールの行き届いたトランペットソロが響き渡る(ちょっと短いが、言いたいことは言いつくした感じ)。つぎはジョン・ラスキンのアルトソロで、これがまたかっこいいのだ。せっかくクールダウンしたのに、火をつけてどうする的な演奏。なんとも凄まじい、アルトの音域を超高音から低音まで駆使したソロ。クリス・ブラウンも弾きまくっている。そこからピアノソロに移行するのだが、ずっと過激に(伴奏的に)弾きまくっていたのに、ここからはほぼソロピアノになって、ときどき2ベースの合いの手が入る。これがまた凄まじい演奏で、リズムも自由自在な感じで展開していく。このトリオのかっこよさは格別。ピアノが消えてベースデュオになるあたりも、コンダクションの上手さだろう。そして、ドナルド・ロビンソンのドラムソロだが、叩きながらなにやら歌っているあたりが「アセンション」の緊張感とはまったくちがうところだ。エンターテインメントでもあるのだなあ。そして、最後のテーマになり、すべては混沌のなかにふたたびぶち込まれるわけだが、その混沌は明るい。「アセンション」とはまるでちがうのである。みんな「承知して」やっている感じだ。 結局、「アセンション」はコルトレーンひとりがすべてを承知していた「実験」で、しかも、セッションの結果がどうなるかはわからず、そして参加者はみんな「え? 俺たちなにをしたらいいの?」的な状態で演奏に放り込まれ、始まってしまったものにそれぞれがそのときに思うものを吐露する、というような形で行われた一種のドキュメントだった……そして、そのことにはたいへんなジャズ史的な意味合いがあった……とは思うが、この演奏は、「アセンション」も含めて、フリージャズやインプロヴィゼイションの裏も表も知り尽くした卓越したフリーミュージックの演奏家によってなされたのだから、まるで違っていてもおかしくはない。正直、私はこのアルバムの演奏の方に心ひかれた……ような気がする。傑作だと思う。 なお、セカンドステージはデイヴ・ダグラス・クインテットによる「リベリア」、スペアマンとドラムのドナルド・ロビンソンのデュオで「ヴィジル」、ラスキンのカルテットによる「ワン・ダウン・ワン・アップ」などが演奏されたそうである。