akira sakata

「FISHERMAN’S.COM」(STARLET’S RECORDS EOCD−0002)
AKIRA SAKATA

 正直なところ、「テノクサカナ」以降の坂田明のリーダーアルバムに関しては、それほど熱心な聴き手ではなかった。山下トリオ在籍中あれだけ追っかけていたのが嘘のようであるが、このアルバムは久しぶりに、ほんとに久しぶりに、素直に「良かった」と言える。独立後の坂田さんは、それまでとは打って変わって、「メロディー」を重視した演奏を行うことが多く、ホーミーに接してからはとくにその傾向が強くて、どうもそのあたりがあの天空まで届くような飛翔感をそいでいるように思えていたのだが、このアルバムでは坂田さんが大事にしているその「メロディー」と即興の部分が、日本民謡という素材を介して、がっちり結合したように思える。朗々たるアルトの吹きっぷりも見事。とくにフラジオの美しさ、迫力は特筆すべきで、今、これだけの音を出せるアルト吹きは少ない。アルトという楽器は、テナーよりも「良い音」の幅が狭く、テナーなら「個性」として片づけられるのに、アルトだと「鳴ってない」「音が悪い」と言われてしまう。そんな軽〜い音のアルト吹きが多いわけだが、坂田さんのアルトはデビュー当時から今まで、とにかく圧倒的な存在感で鳴り響いており、それを聴くだけでも快感にひたれる。共演者も、ビル・ラズウェルの人選だと思うが、ドラムにハミッド・ドレイク、ギターにピート・コージーというのは、ラズウェルの人選をほめるべき。一曲目に「大漁節」が収録されているが、実は、私も自分のバンドでこの「大漁節」をフリージャズのテーマにして演奏していた。方法は若干ちがうが着眼点は坂田さんと一緒だったわけで、そのことについて私は自分をほめたい(そんなおおげさな)。ジャケットなどの作りもすばらしく、坂田さんの最近の代表作といえるのではないか。――――と書いたのが今から20年前である。坂田さんは今やとんでもないゴッドのような存在となり、世界の即興シーンにそびえたっている。私の20年前のしょうもない感想など、巨大な神像のほんの一部を撫でただけだったのである。反省。

「AKATOMBO」(DAPHNIA DPCD−0003)
AKIRA SAKATAmii

 坂田明の童謡〜民族音楽的な演奏の集大成的なアルバム。最近の坂田さんがよくやる、朗々とメロディーを歌いあげたあと、ソロも朗々と吹き、それが次第に崩れていき……というタイプの演奏が多く収録されている。こういうアルトって、たとえば、ソニー・クリスやデヴィッド・サンボーン、ハンク・クロフォード、メイシオ・パーカー……なんかを思い浮かべてしまうが、坂田明を「フリージャズのメイシオ・パーカー」とか「フリー・ジャズのデヴィッド・サンボーン」と呼ぶのはおそらく本人も心外だろう。だが、「フリージャズのジョニー・ホッジス」ならどうか。坂田さん自身も「ダダダ・オーケストラ・プレイズ・エリントン」というのを出しているぐらいだし。私は、このアルバムの演奏は、ジョニー・ホッジスがフリージャズをやったら……という思いで聞いた。朗々とした、美しくも、芯のあるアルトの音。それが凄まじい音圧とともにメロディーを吹く。誰もがやりそうで、実はできなかった演奏。フリーとメロディーの融合を、童謡という素材を媒介にして坂田明が成し遂げた、といったら大げさか。私には、誰もがなしえなかった新境地に思える。モンゴルの曲や自作の変態メロディーの曲も秀逸。ドラムがいないのも、このアルバムを徹底したものにした。だが、よく考えてみると、「赤とんぼ」の演奏自体の骨子は、あの「ゴースト」とほとんど変化はないのだよなあ。何となく録音バランスが悪いような気もするが、そのあたりは私の論評できる範囲を超えている。内容は最高です。

「ズボンで」(社会人レコード COCB53655)
坂田明&ちかもらち

 タイトルをなんとかせえよ! たぶん、タイトルのせいで買わなかった連中は山といるはず。中身は硬派なフリーなのに、なんでこのタイトル……。とにかく坂田明のアルバムとしては「フィッシャーマンズ・ドット・コム」につぐシリアスな内容で、もう言うことなし。「赤とんぼ」や「ひまわり」といった、朗々と歌い上げるタイプの作品が最近続いていたが、やっぱり坂田さんはこれやで! と、久しぶりにスピーカーのまえで「きーっ!」と顔をしかめながらあちこちを叩きまくる、といった聴き方ができて興奮しまくった。不勉強なので、ドラムもベースも知らないが、プロデュースがジム・オルークだけのことはあって、坂田の音楽性をよく理解したメンバーである。それにしても、昔はどんなにフリーなセッティングでも、きちんとしたフレーズを吹きながらフリーキーに……というのが坂田さんの特徴だったが、最近はけっこう(変な言い方だが)普通のフリージャズアルト的なぐじゃぐじゃっとしたクラスター的な吹き方もしている。けど、それがまたかっこいいのだから、なにも言うことはありませんっ。傑作!

「ゆめ」(DAPHNIA DPCD−0004)
坂田明 MII

 坂田明のミニアルバム。基本的にフリーのパートはなく、メロディアスに朗々と吹く坂田のアルトが聞けるのだが、物足りなさはない。なぜなら「貝殻節」における異常なボーカルがすべて解消してくれるからである。いやー、正直、聞きおえたとき、この曲のボーカルしか印象に残ってないなあ。それほど独特で異様で心を打つヘタウマの極限だ。これこそフリージャズだと思う。

「PEKING」(FRASCO FS−7023)
AKIRA SAKATA TRIO

 高校生のとき、考えに考えに考えて入手したアルバム。あの当時はお金がなくて、LPを買うというのは本当に「賭け」だった。購入して、やったー! と快哉を叫ぶ場合もあるが、げーっ! と落胆する場合もある。いまでもそういうことは多いが、当時とはその落胆の度合いが比べ物にならない。中古ではない新品のレコードを買うことなど、数カ月に一度だ。その機会と資金を、「げーっ」に回してしまったときのショックたるや、筆舌に尽くしがたかった。だからいきおい、ジャズ喫茶で内容を確かめてから、ということになるが、それもまたおもしろみにかける。内容を知ってしまうと、やはり、聴いたことのないアルバムのほうに魅力を感じるし、そのジャズ喫茶に行けばいつでもリクエストできると思うと、どうしても買う気が失せる。また、ジャズレコード辞典などに掲載されている大名盤なら、その紹介文から多少の見当もつくが、そういうのに載っていないマイナー作や新譜の場合は、メンバーとジャケットと値段を見比べて、えいやあっ、と買ってしまうしかない。本作はまさにそういう感じで、山下トリオの諸作を聴いて坂田さんの大ファンになっていた私だが、リーダー作を聴いたことはなく(その時点ではまだ、「カウンター・クロックワイズ・トリップ」と本作しか出ておらず、「カウンター……」はすでに入手困難だった)、リーダー作を買うより、まだ持っていない山下トリオのアルバムを買ったほうが無難ではないか、と相当悩んだのだが、やはりファンとしては聴きたい、どうしても聴きたい……と思って購入。いやー、買ってよかったです。聴いたことのあるひとは同感してくれると思うが、もう傑作傑作、大傑作なのである。一曲目の「ペキン」という曲における坂田の疾走ぶりは半端ではなく、今より100倍ぐらい饒舌で、自由奔放、とにかく一拍のなかに100ほどの音を詰め込むような凄まじい演奏が延々と続く。望月、小山のリズム陣もすばらしく、圧倒的とはこのこと……と呆然とするような演奏である。いやはや、かっこいい。久しぶりに今回聴き直してみたが、あのころの感動感激を想い出した。すごいっすよねー。2曲目の「カー・ソング」というのは、いわゆる「即興歌舞伎」みたいなもんで、坂田の不気味かつ迫力ある ウォイス・インプロヴィゼイションが延々と展開し、リズムのふたりもそれを煽る。もちろんサックスソロもすばらしい。B面に移って、いきなり驚くのモンクの「ブルー・ボリバー・ブルース」を演っていることで、坂田のブルース演奏(といっても相当フリーだが)が楽しめる。B−2の「アカタズ・ドリーム」という曲はアルトクラリネットが最高。Bラスに入っている「ソング・オブ・アキラ」という曲は、コルトレーンの「インディア」にクリソツで、迫力あるマイナー調のスピリチュアルなブロウが聞ける。ああ、ほんと傑作だと思うよ。ジャケットいっぱいに写っているニワトリの肉塊の度迫力がそのまま演奏を象徴している。たしか、帯に赤塚不二夫が文章を書いていたような記憶があるが、うちの盤にはそれは失われているので確かめられん。とにかくすばらしいので、未聴のひとはぜったいに聴いてみて!(CD化されているかどうかは知らん)

「COUNTER CLOCKWISE TRIP」(FRASCO FS−7001)
SAKATA AKIRA TRIO

 まあ、いままでにいろいろなレコードやCDを買ってきたわけだが、いわゆるマニアのような、オークションで何万も払った、というようなことは一度もしたことがない。フツーの値段で売っているものを買うだけである。そんな私がこれまで30年におよぶジャズファン歴のなかでいちばん高い買い物をしたのが、この「カウンター・クロックワイズ・トリップ」ともう一枚、イリノイ・ジャケーの「ゴー・パワー」だ。どちらも中古屋で5000円だった。たしか大学1年生のときだ。私は坂田ファンであることをひとにも言いまくっていたが、じつは坂田さんの初リーダーアルバムである本作を聴いたことはなく、そのことは隠していた。だって、ファンなのに初リーダー作を聴いたことがないなんて、恥ずかしいではないか。ジャズ喫茶にも置いてなくて、ずっとほぞをかんでいたのだが、あるとき梅田の阪急東通り商店街にあった(今は亡き)「LPコーナー」の二階の中古コーナーに本作が新入荷中古盤として置いてあり、5000円の値段がついていたのだ。いやー、悩みました。バイトをしていたので5000円のお金は持っていたのだが、どうしても買うふんぎりがつかない。5000円ですよ5000円。それだけの金があれば、中古盤3枚か4枚は買えるのだ。そう思うと、決心がつかず、1時間ほど店内をうろうろしたあと、一旦店を出た。そして、古本屋にはいったのだが、だんだんと、「あんな稀少盤、もう二度と遭遇できないかもしれない。こうしているうちにも誰かが買ってしまうかもしれない」……そういう思いがつのってきて、とうとう店に戻ったが、さいわい本作はまだ残っていた。そこでまたさんざん悩んで、今日はやめて、今度来たときまで残っていたら買うというのはどうか、などと考えたりもしたのだが、ついに決心して購入。レジのひとが、「あんたはえらい。バンザーイ」と叫んでくれるかと思ったが、そういうこともなく淡々と渡してくれました。で、家に帰って聴いてみたのだが、もちろんめちゃめちゃ漢こよく、大傑作でありました。私は感動するというよりも、ほっと胸を撫で下ろした……というのも、もしつまらなかったら、あれだけの逡巡と決心と投資が無駄になるからで、いやー、疲れた。あれ以来、じつはあんまり聴いていないのだ。たぶん5,6回かなあ、聴いたのは。なにしろもったいなくて……。傷ついたりしたら最悪ですからね。でも、内容最高で、アデルハルト・ロイディンガーのベースも森山さんのドラムも、そして坂田自身も信じられないぐらいの高みを飛翔する。一曲目の「フラスコレイション」という曲がとにかく凄くて、うぎゃあああ、これはすごいぞ、と思っていると、2曲目はその興奮に水をぶっかけるようなベースソロだけの曲。しかし、ロイディンガーのベースはすばらしくて、この構成はアリだと思う。3曲目もB面に移っての2曲もすばらしく、とくに森山威男のドラムはソロでもそうでない箇所でもとにかくずーーーーーっとすばらしい。坂田のアルトとクラリネット(クラはB−1)も信じられないぐらいかっこいい。とくにB−1は、山下トリオではできなかったであろう、ベースが入ったうえでの自由な表現だと思う。また、坂田の言葉によると、A−1やB−2は「ドラムとベースが4/4拍子や6/8拍子をキープしているにもかかわらず、全体的が形態的にフリーなリズムを感じさせている」ということだが、まったくそのとおりである。わたしはフリージャズを聴き始めの高校生のころ、リズムセクションがリズムと和声をキープしているのに、サックスがギャーギャー叫んでいる演奏がはたして「フリー」なのか、という疑問を持ち、それは山下トリオを離れての坂田さんのこういう演奏を聴いても(これは後退ではないのか)と思ったりもしたが(青いねえ)、たしかに坂田さんのこういったタイプの演奏は、オーネット・コールマン的というか、全部の制約をとっぱらったものではないにもかかわらず、聴いた印象は、「すっかり自由」というものなのだ。じつはLPコーナーの中古コーナーでは、一度悔しい思いをしていて、というのも、ずっと探していた小田切一己の「神風特攻隊」がたしか6000円で売っていて、さすがにそれは買わなかったが、あとでよくよく考えると、たとえ飯を何食か抜いてでも買っておくべきだった。あれ以来、「神風特攻隊」にはお目にかかっていない。ああー、今想い出しても口惜しい。聴きたいなあ、「神風特攻隊」。私が、本やレコードのためなら食事はいらない、ぐらいの気持ちでいつもいるのは、あのころの経験が染みついているからなのです。人間、何日か食わなくても死なないからね。ちなみに本作のタイトルが「左巻き旅行」だと知ったのは買ってから10年以上あとでした。本作は坂田明を語るうえで最重要なアルバムの一枚だとは思うが、いろんな個人的な思い入れその他から、個人的には「ペキン」のほうが好きかもしれない。でも、とにかく本作が傑作であることはまちがいない。ああ、あのとき清水の舞台から飛び降りるつもりで買っておいてよかったよかった。

「TENOCH SAKANA」(BETTER・DAYS YP−2502−N)
AKIRA SAKATA

このアルバムは、ほんとうにめちゃめちゃ久しぶりに聴いた。買ったとき、私はまだ高校生だったが、「坂田明がアナーキー・ダブ・テクノに挑戦!!」ということでめちゃめちゃ期待して聴いたのだが、聴いた印象ではまるで「アナーキー」ではなく、どちらかというとグルーヴを大事にした、おとなしめの演奏……という感じだった。個人的にはもっとえげつないまでのダブ・テクノサウンドに坂田のアルトがからまりあい、凄まじい効果を生み出す……みたいな世界を期待していただけに、肩すかしをくらったような気分だった。あれから、えーと……20数年(約30年か!)たったいま、あらためて聴いてみて、ちょっとだけ当時の坂田さんの考えていたことがわかったような気はしたが、やはりB−2のような、アルトがギャーッという演奏がどうしても心に残ってしまう。でも、この演奏がそのあとの「トラウマ」や「WHA−HA−HA」などにつながっていった、と思うと、その萌芽に立ち会えたことはうれしく思うのだ。

「POCHI」(BETTER・DAYS YP−2502−N)
AKIRA SAKATA

 坂田明が山下トリオから独立して率いた自己のトリオによるはじめてのアルバムで、坂田のリーダー作としてははじめてのライヴ盤でもある。吉野弘志、藤井信雄という当時の若手ふたりを起用してのこのトリオを、私は何度も生で見た。というのは、坂田ファンだった私は、坂田が山下トリオを離れて組んだこのグループを、(応援しなくては……)という勝手なファン意識とともに、ちょっとした「追っかけ」をしていたからで、といっても、全国のツアーについてまわるというわけにはいかず(なにしろまだ高校生〜大学に入ったころなのだ)、関西に来たときに行く程度だったが、それでも金も暇もない当時の私にとってはかなりがんばったほうなのだ。そんなこんなで、このトリオにはむちゃくちゃ愛着がある。山下トリオのほうは、武田さんを入れて存続していたわけだが、私は、そちらも応援しなくては、とも思ってはいたが、どちらかというと、坂田トリオのほうをよく聴いていたような気がする。この「ポチ」というアルバムは、いきなり意表をつく「ちょうちょ」(あの童謡です)の超硬派ハードボイルドバージョンで幕をあけ、その後も怒濤の演奏が並ぶ。どの曲も3人がパワー全開で襲いかかってくるので、聴くほうもよほど腹に力を入れてかからねば、ふっとばされてしまう。それぐらいこの3人の意気込みというか、新生坂田明トリオへかける熱が伝わってくる熱くて火傷しそうなライヴだ。とくにリーダー坂田は凄まじい咆哮と滝のような(アルトでの)しゃべくりをみせ、吹いて吹いて吹いて吹いて吹き倒す。ベースが入って、より「ジャズ」的な感じになったが、それはけっして悪い選択ではなかった。山下トリオに比べると、より地に足のついた、ドスのきいた演奏になっており、しかも行くときととことん飛翔する……という理想的なトリオだと思う。吉野弘志もすごいし、藤井信雄もすごくて、めちゃめちゃかっこいい。溶岩の塊のように一丸となったエネルギーの奔流だ。

「TRAUMA」(BETTER・DAYS YP−7403−BD)
SAKATA SEXTET

 最初に聴いたとき、そうか、あの「テノク・サカナ」がこうなったんだなあ、と思った。つまり、私はおそらく、「テノク・サカナ」というダブ・アルバムを坂田さんが出すと聴いたとき、こういうサウンドを期待していたのだろう。それが、いまいちそういうものではなかったわけだが、この45回転アルバムを聴いて、「やった!」と快哉を叫んだ。これこそ私が求めていた、80年代(だったと思う)のフリージャズだと感じたからだ。80年代のフリージャズと言った意味は、80年代のフリージャズはかくあらねばならぬ、というような理想のことではなく、ダブもテクノもシーケンサーもあるなかでフリージャズを模索していくものは当然、こういったサウンドにたどりつくだろうということだ。ブラッド・ウルマーやオリバー・レイクなどのフリー・ファンク的なサウンドをスティーヴ・レイシーはインプロヴァイズド・ミュージック的観点からは危険だと評したように記憶しているが、それはたしかにそうかもしれないが、だからといってフリージャズという伝統のなかにひっこんでしまっては、それこそフリーではない。果敢な挑戦、前進意欲でそういったものが失われたら、フリージャズも即興も、保護すべき伝統文化になってしまう。本作は80年代に目の前に並べられた音楽的素材を使って坂田が作り上げた、最上のフリージャズだ。なにより、理屈抜きでかっこいい。今聴いてもまったく古びていないどころか興奮しまっせー。このサウンドはそののちに形を変えて、サカタ・オーケストラになっていくような気がする。

「DANCE」(ENJA 28MJ3115)
AKIRA SAKATA TRIO

「ポチ」の約1年後のドイツでのライヴ。一曲目、いきなりの重厚なスローナンバーで、坂田のアルトクラリネットが爆発する。一曲目にアルトサックスではなくアルトクラの曲を持ってくるというのはなかなかすごい。よくわからないが、拍手の数からしておそらく観客はそれほどいないのではないか(というのも、演奏内容から考えると、客がたくさん入っていれば、怒濤の大拍手がくるはずだからである)。異国の、新生トリオの初ツアーで、しかも客はそれほど多くない……そういった状況下で、坂田が燃える。一曲目のラスト近くからはじまる即興ヴォイスパフォーマンスが壮絶である。「荒木又右衛門、もそっと近う……」そんなことドイツ人にわからんがな。「ダンケ……アインシュタイン……ツバイシュタイン……フランケンシュタイン!」……このあたりでは客もげらげら笑っている。そういうむちゃくちゃででたらめな即興歌舞伎(?)のバックを「ひたっ」とつけていくふたりのリズムもたいしたもんで、完全に「トリオ」として機能している。おなじみの「ストレンジ・アイランド」での絶叫もいいが、B面に移っての「ラジオのように」は、曲がはじまったとき、観客が「おおっ」という感じになる。ラストの「イナナキ」(ワハハで演ってた曲)に至るまでの全4曲、とにかく圧倒的な、毛ほどの手抜きもなく、一分の隙もない、ぎゅうぎゅう詰めの演奏が展開され、聴いていて腹いっぱいである。もう食えん! と叫んでいるうえからのしかかられて、口をこじあけられ、またまた大量の食物を流し込まれる……そんなマゾな快感にひたれることうけあいの最高の演奏である。ただし、日本語ライナーはどうもよくわからんなあ。

「BERLIN 28」(BETTER・DAYS YP−7047−N)
SAKATA ORCHESTRA

 本作に先立つサカタ・オーケストラの一枚目「4 O’CLOCK」がどうしても見つからない。どこにしまったのかなあ。じつはワハハのアルバムも一枚も見あたらないので、それと同じ場所にしまいこまれているのだろうが、困ったもんだ。で、サカタ・オーケストラの一枚目はもともと「生活向上委員会のメンバーとの共演」というのがうたい文句だったと記憶しており、発売をめちゃめちゃ楽しみにしていたのだが、こちらが期待していたような、丁々発止のやりとり……といったものとはちょっとちがっていて、なるほどこんな感じか、と思っているところへ登場したのが、この二作目(だよね?)である。オーケストラと名乗ってはいるが、管楽器は坂田さんと向井滋春のふたりだけ。つまりは、ジャズでいうと「2管編成」というやつであり、オーケストラどころか小編制のはずだが、ドラムが藤井信雄、村上ポンタのふたりだったり、ベースも吉野弘志に川端民生のふたり、パーカッションに仙波清彦率いる和楽器軍団、キーボードが橋本一子に千野秀一……という具合で今から考えるとめちゃめちゃ豪華なメンバーである。これで、たしかに壮大なオーケストラサウンドが響きわたるのだから恐れ入ります。「4 O’CLOCK」での音楽のフロントをシンプル化し、リズムを増強したものだが、印象はまるでちがう。そうか、これこそが坂田さんのやりたかったことなのだな、とはじめて合点がいった。めちゃめちゃかっこいいのだ。シンプルかつ耳に残るテーマ、カラフルかつパワフルなリズムの饗宴、フリーキーなブロウとどっしりしているがスポンティニアスかつフレキシブルな反応、そしてなにより延々と続くグルーヴ。たった2管なのに、なぜか最盛期のカウント・ベイシー・オーケストラのように聞こえるなあ、と思っていると、よく考えたら、単純なリフとすばらしいソロの応酬、そしてリズムの強烈なグルーヴによって、最初に奏でられたテーマがそのあとの異常な盛り上がりを経て最後にもう一度奏でられるときには、同じテーマのはずなのに百倍のパワーを注入されて、凄まじい爆発を生む……というあたりはサカタ・オーケストラはベイシーと共通している。その後、坂田さんはダダダオーケストラを結成して、エリントンナンバーを演奏したが、じつはシンプルかつパワフルかつフレキシブル……という点ではベイシーっぽいなあと今でも思っている。本作は、ジャケットデザインも含めて、とにかく傑作なので、未聴のひとは聴くようにね!

「20人格」(BETTER・DAYS YP−7006−N)
坂田明

 本作が出てすぐに、「枝雀寄席」のトークゲストとして出た坂田さんと枝雀師匠の会話を今でも想い出す。普遍的な笑いを追求していた枝雀さんにとって、本作のような「密室の笑い」「わかるものにしかわからない笑い」……はちょっと苦手だったようで、内容の一部を会場に流して聴いたあと、「きのう、家でひとりで聴いていると、ムカムカしましたが、こうやって皆さんとご一緒に聴いてみると、うまい具合に発散して、とても楽しいですね」というような意味のことを言っていた。たしかに密室芸的なのだが、今ならDVDで出すような内容をビジュアルのない状態で作品にしてあるので、ちょっとぴんとこないひとはこないかもしれない。そのあたりが、はじめからビジュアルのいらない内容である「取りみだしの美学」とは反対なのである。おもしろいものもビミョーなものもごった混ぜに収録されている感があって、そのあたりがかえって、「坂田明の世界」を浮かび上がらせる結果になっている。なんというか、単純にアハハと笑わせようとしているのではなく、笑わなくてもいい、いや、笑うな、とさえ思っている節がある。そこが、いわゆる冗談音楽とかコミックソング、お笑いパフォーマンスなどとは根本的にちがうところで、こういうものは「心のなかで笑えばいい」のである。こういったギャグ的側面と、坂田さんのハードボイルドなトリオ演奏の側面は表裏一体、すくなくとも切り離せるものではないと思う。そろそろ第二弾「40人格」を出してほしいと思うがどうか。

「ひまわり」(JCF GNCD−001)
坂田明

 坂田明=フリージャズのアルト吹きというイメージでいると、本作は「なんのこっちゃ」と思うしかない。ここでの坂田は、まるで……まるで、そう、ジョニー・ホッジスのようだ。ひたすら、艶やかな音色でメロディーを歌い上げることに専念している。というか、アドリブがほとんどない。これが「ええなあ、坂田明って!」となるか、「こんなん、坂田でなくても、だれでも吹けるやろ」と思うか、そのあたりでこういうアルバムの評価は大いに変わるだろう。私ですか? そりゃもう、坂田さんのファンなので、なにをやろうと大歓迎……なわけだが、もちろん坂田さんが吹いているわけで、選曲、共演者、演奏……どれをとっても、スタンダードなアルバムとは一線を画しているのはあたりまえだ。本作は朗々と歌いあげる坂田明の、そのあたりの微妙なニュアンスを味わうべき作品だと思う。もちろん、そんなヤヤコシイ聴きかたをする必要もなく、まっすぐに味わえばそれはそれでよいのだが。

「おむすび」(JCF GNCD−002)
坂田明

 ずっと「おにぎり」というタイトルだと思っていたが、今回よくよく見直してみると「おむすび」だったことが判明。メロディーを美しく、ソウルフルに歌い上げる、という、坂田明のいまでは柱のひとつになったタイプの演奏。フリーキーな、細かいフレーズを躊躇なく積み重ねていき、クライマックスのうえにクライマックスを作る……といったプレイはほとんど聞かれない。たとえば本作では「マイ・ファニー・バレンタイン」や「メモリーズ・オブ・ユー」はまさにそんな感じ。しかし、このアルバムがその手の坂田作品と微妙にちがうのは、ほかの素材(とくにボーカルもの)にある。宮沢賢治の詩を扱った「星めぐりの歌」は女性ボーカルとの掛け合いで坂田が歌い、一種の演劇的な展開になる。谷川俊太郎の「死んだ男の残したものは」に武満徹が曲をつけたものの演奏は、アルトも吹いてはいるが、基本的には坂田の「語り」が中心で、曲調もそうだが、なんとも野坂昭如とか初期フォークとかあのころの音楽を思わせる。坂田の語りはいつもの狂騒的なブラックユーモアや即興性を捨て、ひたむきに詩を「語る」。だれかに似ていると思ったら、そうだ、三上寛のボーカルにちょっと似ている。この演奏はひとの耳を引きつけずにはおかない、力強く、どろりとした手応えを持っている。この曲だけでも、本作の価値はある。全体をはさむ形になっている表題曲の「おむすび」もかっこよくて、かわいいジャケットにだまされることなく坂田ファンは購入すること。

「平家物語」(DOUBTMUSIC DMS−142)
坂田明

 この作品は、坂田明の現在の代表作といってもいいのではないか。ひとりでテキストを読み(歌い?)、サックス(とクラリネットとバスクラ)を吹き、銅鑼などのパーカッションを叩き、ベルを鳴らす。これはまさしく、デビュー以来ずっと保持していた坂田明の内面世界であって、それをもっともうまく表現できるのは坂田さん本人しかいないわけだから、こういう「ソロ」での録音にしたのは大正解だと思う。だれに気兼ねすることなく、坂田さんは自分の読みたいよう「平家物語」を読み、歌い、サックスを吹き、打楽器を叩く。それでいいのだ! そして今、このプロジェクト(?)はいろんなメンバーを加え、演出を加えて、どえらいことになっているらしいのだが、それはそれですごくよくわかる。というのも、このアルバムが「ソロ」で録音されていたからこそ、これを分析し、アレンジし、再構築することができたのだと思うからだ。それに、この演奏における最大の鍵は「平家物語」のテキストを坂田さんなりの表現力によって「読む」ということにあるわけだから、いわゆるヴォイスによるインプロヴィゼイションなどとはちがって、一種の「語り物」である。前衛的な演奏に思えるかもしれないが、これは琵琶法師によって奏でられ、歌われてきた「平家物語」の伝統をストレートに受け継いでいるのだ。講談やデロレン祭文や浪花節や説教節や……そういった「語り物」の延長上にある演奏だとすると、坂田さんの朗読がはっきりと聞き取れることが最大のポイントであるから、こういう「ソロ」という形式を最初にとった、というのは慧眼としか言いようがない。坂田明〜沼田順のすばらしい企画力だと思う。この作品については言いたいこと書きたいことが百万もあるが、書ききれないので、とにかく聴いてほしいというしかない。7曲(?)入っているのだが、適当にチョイスしたわけではなく、考え抜かれての選択だと思われる。だいたいにおいて「人の死」を扱った場面が多く、そのあたりも「平家物語」全編を通して流れる日本的な無常観をしっかり踏まえているのだ。こういうとんでもない傑作が、なんの前触れもなく突然にというか唐突にというか、できてしまうものだなあと思った。私が高校生のころから聴いている偉大なアイドルが、今もこうして最前線でアナーキーで自由でめちゃめちゃ楽しいすばらしい演奏をバリバリやっていることが、とにかく涙が出るほどうれしいのです。誇りなのです。感動なのです。

「百八煩悩」(OHRAI RECORDS JMCK−1020)
坂田明

(CDライナーより)
 坂田明の「音」は、まるで溶けた黄金が天から降ってくるようだ。
 私事で恐縮だが、私がジャズという音楽を聴くようになったのは、高校生のとき、ラジオからたまたま流れてきた山下トリオの「ホット・メニュー」を耳にしたのがきっかけである。なかんずくそのサックスプレイヤーのつくりだす凄まじい音の奔流に「落とされた」状態になった私は、ただちにそのアルバムを購入しただけでなく、アルトサックスを入手すべく走りまわることになった。以来、二十五年、坂田さんを聴きつづけている。彼がほかのサックスプレイヤーと区別される最大のポイントは、その「音」だ。アルト奏者は、演奏自体はすばらしくとも、肝心の音がぺらぺらだったり、か細かったり、メタリックすぎたりしてがっかりさせられることがままある。それほどアルトサックスというのはむずかしい楽器なのであるが、坂田さんのアルトは、最低音からフラジオまで、音の芯がそのまま大きくなったような、硬質で自然、しかもアルトらしい音である。高音の伸びはライブハウスの天井を突きぬけて遙か天空の高みまで届き、低音の深みは揚子江の滔々たる流れのようである。どんなにオーバーブローしても、そのソノリティは崩れることはない。ライブの場で、アルトの朝顔から噴出する生音を身体に浴びているだけでこちらもエクスタシーに達してしまう。そんな経験をさせてくれるサックス奏者が、今どれだけいるだろうか。
 その坂田明のソロアルバム。これほど聴くまえからわくわくどきどきしたアルバムは近年にない。私は、管楽器のソロアルバムが好きで、とくにサックスソロとなると何をおいても聴かずにはおれぬほどのサックソロ好きだが、その理由を述べよう。ジャズや即興演奏の場合、共演者がいると、相手がこう来たからこう……という「反応」が演奏の中心になることが多い。それはそれで聴きものだが、機械的反応の応酬になりがちな危険性もある。ソロの場合は、それがない。次に出す音もその次に出す音も、全部、自分の責任において選択しなければならないのだから。心中の葛藤がすべて音になってあらわれる。しかも、共演者がいない分、音がマスクされず、サックスの音色が聴くものに露骨に届く。それがサックスソロなのである。つまり、演奏者の技量や自信、そして音の善し悪しまでがもろに露呈してしまうという、サックスプレイヤーにとって両刃の剣ともいうべき演奏形態なのだ。多くのサックス奏者が「ソロ」に挑戦してきたが、坂田さんがソロアルバムを出していなかったというのは意外なことだ。ここに完成した「百八煩悩」は、なんと百八のソロが並べられた、ファン待望のソロアルバムである。百八つの即興。十個や二十個ならともかく、百八個とは……まさに前人未踏の試みだ。これは想像だが、こういった苛酷な条件下に自らを追いこむことによって、事前に用意したアイデアが、とか、手持ちのネタが、とかいった次元を飛びこえた、純粋な即興の地平が開けたのではないだろうか。つまり、ここで語られている百八の演奏は、坂田明の即興演奏家としての「本音」なのである。「本音」とは「本当の音」とも読めるではないか。
 最初は、一種の短編集、あるいはショートショート集のようなものだと思って聴いていた。しかし、何度か聴きなおすうちに、これはひとつの長編として考えることもできる、ということに気づいた。本作は実は、二枚組大河長編ソロサックスなのかもしれない。ステレオの音量をぐっとあげれば、坂田明の音はまるで溶けた黄金のように天から降りそそぐ。夾雑物にさえぎられることのないその「本音」をシャワーのように浴び、私の心はいつでも二十五年前のあの瞬間に戻っていくのである。
 もちろん以上は私の聴きかたである。どんな聴きかたをしようと自由だ。一日一曲ずつ聴いたり、同じ曲ばかり何度も聴いたり、お気に入りの曲ばかり編集してオリジナルアンソロジーを作ってみたり、シャッフルして聴いたり……いろいろな楽しみの詰まった宝物のような二枚組である。

「THE CLIFF OF TIME」(PNL RECORDS PNL022)
SAKATA/LONBERG−HOLM/GUTVIL/NILSSEN−LOVE

 坂田明〜ニルセンラヴの「アラシ」のライヴは、自分のイベントと重なってしまい、行けなかった(ほんとは自分のイベントをほったらかしてでも行きたかったのだがそうもいかない)。で、本作は坂田明とニルセンラヴに、おなじみのロンバーグホームとギターのケティル・ガトヴィク(と読むのか?)というひとが入った4人。ノルウェイでのスタジオ録音だが、めちゃくちゃかっこいい。で、本作の演奏を聴いて思ったのだが、坂田さんというひとはここでも徹頭徹尾坂田さんであって、自分のスタイルというものが完全にできあがっている。それはだれにも真似のできないワンアンドオンリーなものなのだが、このアルバムをパッと聴くと、全体の演奏は山下トリオとか坂田トリオとかそういうサウンドに聞こえる。なんの違和感もなく、自然にそう聞こえるのだ。たとえば凄まじい1曲目、チェロやらギターやらが入ってはいるが、坂田の強烈なブロウとこれまた強烈なニルセンラヴのやり取りだけ聞くと、これはあの坂田〜森山のやりとりのようではないか。つまりは、坂田明が入ると、どんなバンドでもああいう感じのサウンドになってしまうのではないか。坂田さんの影響力というか牽引力というか自分色に全体を染め上げる力というのは半端ではないのではないだろう、と本作を聴いて思ったのでした。坂田さんはアルトにクラリネットに大活躍で、その音は周囲を圧して響き渡っている。随所に聞かれるニルセンラヴとのガチンコ勝負も聞きものだ。闘争的なのに、しっくり溶け合うという相反するようなことが坂田明の音楽のなかではつねに当たり前のように行われているのだ。全員が嬉々として全力疾走している。そしてひとりも倒れて死ぬことなく完走するのだ。坂田さんはクラリネットで、チェロ対ギターによるノイズ成分多めの2曲目のタイトルは「伊豆の踊子」だが、なんでそんな名前なのかさっぱりわからん。傑作。

「海 LA MER HARPACTICOIDA」(ENJA RECORDS ENJACD9139−2)
AKIRA SAKATA

「ミジンコの宇宙」というビデオのために作った音源に「バラード・フォー・タコ」という曲を追加してCDにしたものらしい。自主制作で2000枚作り、それが売り切れたので、どうしようかと思っているうちに、エンヤが出した(私が持ってるのはそれ)。「私説ミジンコ大全」という本にもついている。曲は全曲坂田さんのオリジナルで、いつものようにフリーキーになる部分は皆無に近い。ひたすら、テーマを美しく、愛おしそうに吹いて、メロディアスにインプロヴァイズする。まさに歌い上げるという言葉が適切である(ソプラノが多用されているようだ)。こういうときの坂田さんは、ジョニー・ホッジスみたいに吹く。いわゆるバップイディオムとかジャズの語法より、シンガーのように音色に気を配り、ていねいに歌う。さっきジョニー・ホッジスを挙げたが、アール・ボスティックやハンク・クロフォード、グローバー・ワシントンなどにも共通するメロウな味わいがある。それにしても坂田さんはいい曲を書くなあ。坂田さんのこの手のアルバム(フリージャズでないやつというような意味)のなかではいちばん好きかも。力強いロングトーンだけでもほれぼれするし、かっこいいなんて、なかなかないですよ。世の中、きれいだけどペラペラの音のアルトも多いですからね。

「全面照射」(HELLO FROM THE GUTTER HFTG−015)
TRANSPARENTZ × AKIRA SAKATA

 このアルバムを聴いて私が言いたかったことはすべてライナーノートに書かれている。こんなすばらしいライナーも滅多にない。だから皆さんライナーを読んでください。とはいえ、私も一言。山本精一が参加するノイズバンドトランスペアレンツに坂田明がゲストで参加したライヴだが、冒頭いきなりHIKOの強烈なドラムとほぼ同時に坂田の激烈なブロウがはじまる。これはもうゲスト扱いではないな。完全にメンバーの一員である。やがてそこにエレクトロニクスがぶちまけられ、ギターが狂い、ベースがぶち切れ、混然一体となったサウンドがひたすら50分間続く。爆音のなかで唯一木管楽器で参加している坂田の音が暴力的なノイズの嵐のなかをつんざいて轟き渡る。こういうセッティングだと、坂田はフレーズを吹くというよりフラジオで叫ぶことが多くなるが(低音部はさすがにあまり聞こえない)、それでもまったく没入することなく力でも負けていない。このひとも71やで! この体力、この圧倒的な「吹く力」と「意欲」があればこそ、最近も非常階段やらなんやらといった異種格闘技戦にもひっぱりだこなのだろうな。これこそ体力バンド! 聞くほうもめっちゃ体力いりまっせ! そして驚くべきことに、轟音のうえに轟音が重なっていき、もうこれ以上は……と思ったときにまだそのうえを行くクライマックスが何度も何度も何度も何度も訪れるのだ。いや、すげー。山本精一のなにを言ってるのかわからない絶叫ヴォイス(デスボイスというか、大阪弁でいう「おがってる」感じ)も良い。そして、全員の集中力。おそるべし! 坂田明はゲスト扱いだが、トランスペアレンツもだれがリーダーというのがわからないので、便宜上坂田明の項に入れた。

「DUO IMPROVISATION」(TEICHIKU ENTERTAINMENT TECH−26487)
AKIRA SAKATA × FUTOSHI OKANO

 聴くまえから傑作ということはわかっていた。というのも、「ジャズ非常階段」のライヴを見たときに、坂田さんと岡野さんふたりによる壮絶極まりないデュオを目の当たりにしていたからで、居合わせた観客は(私も含めて)果てしなく続くかと思われる凄まじい演奏に唖然とし、終わったあと、「えらいもん見てしもた……」とぼそっとつぶやいたのである。それはまさしくとんでもないデュオで、坂田さんはいつまでたっても吹きやめず、クライマックスのうえにクライマックスが積み重なっていき、聴いていて怖くなるような演奏だった。70歳の坂田さんが、最後まで崩れないアンブシャーで伸びのある超高音を延々と連発し、まさに「吹きまくる」という言葉がぴったりのブロウをしゃにむに続けるのを受けて、ドラムの岡野さんも「叩きまくる」という言葉がぴったりの激烈なドラミングで応え、その日の白眉というか沸点というようなパフォーマンスだったのだ。私はもう泣きそうになり、高校生のころからあこがれ、真似をしようとし、尊敬し続けてきたアイドルが、今もなお、最前線でこのようなぶっ飛んだ、ど阿呆な、頭のおかしい、最高のプレイをし続けてくれていることに感謝し、感動し、感極まった。ということがあったものだから、坂田〜岡野のデュオが発売になると聞いた瞬間、ああ、傑作に決まっとる、と思ったのものだ。そのときは、「ジャズ非常階段」ツアーでの演奏があまりによかったから、後日、デュオだけの演奏を行ってライヴ録音したのかと思ったのだが、データをよく読んでみると、なんと「ジャズ非常階段」のピットインでのライヴ録音から、デュオの部分だけを取り出したものとわかった。いやー、それならよけいにまちがいなく傑作に決まっている。聴いてみると、最近、傑作ばかりを連発している坂田さんのアルバムのなかでもめちゃくちゃ大傑作で、もしかすると全アルバム中で考えても5本の指ぐらいには入るのではないかと思えるほどのどえらい作品だったので、もう嬉しいやら笑うやら泣くやら感動するやら。2曲目に入っている「早春賦」の部分はマジすごいからとにかく聴いてほしい。阿修羅のごとくドラムを叩きまくる岡野のまえで大噴火のようなパワーの「早春賦」が噴き上げられる。ああああ、これはすごい。3曲ともめちゃくちゃすばらしいので、ただひたすらフリーキーに疾走しまくるエグいパフォーマンスにもかかわらず、あれよあれよといううちにあっという間に聴きとおしてしまう。トータルで30分未満だが、ちょうどいいっすよ。毎日、朝聴こうぜ! 大傑作やーっ!

「ARASHI」(TROST RECORDS TR130)
AKIRA SAKATA/JOHAN BERTHLING/PAAL NILSSEN−LOVE

 アラシのファースト。このトリオはライヴに行く機会があったにもかかわらず、自分のイベントと重なっていたため聴けず、超残念な思いをした。坂田さんはいつもの坂田さんで凄いのだが、なにしろドラムがニルセンラヴなのでその分全体の迫力が段違いですごい。1曲目は完全即興で、最初は坂田さんはやや抑え目に感じるが、ニルセンラヴは冒頭からずっと飛ばしまくっていて、どうなるのかなと思っていると、ベースが入ってくると俄然アルトがブロウしはじめ、ニルセンラヴはさっきにも増して叩きまくるという激烈バカ的なえげつない展開で、しかもどんどんヒートアップしていき、もうむちゃくちゃに。このテンションの持続とクライマックスへの自然な道程、そして楽器を操る能力の高さ、音色の素晴らしさ、タフな肉体……など坂田明はいつまでたっても凄いのだ。わしのヒーローなのだ。ストックホルムのスタジオでこんな目が点になるような演奏が行われているとはなあ。坂田さんのアルトはもしかしたら最近どんどん出現する北欧のフリー系アルト奏者たちに影響を与えているのではなかろーか、などと考えながら、いやー、それにしても凄いわ、とあまりの演奏の熱さに聞きながら流れた汗を拭いていると、2曲目は例のヴォイスで叫ぶやつ。坂田さんは完全に日本のどこかの漁師か大工かなにかになりきっていて、頭のおかしいことを延々叫ぶ続ける。坂田さんは自分のリズムで自分にしかわからんことを勝手に叫んでいるのであって、ベースとドラムはそれに合わせることなく、これはこれで勝手に叩きまくり、弾きまくっているが、なぜかそれがすごく合っている感じに聞こえるのが音楽の素敵なところである。ボーカルが消えて、ドラムソロになったあと、銅鑼が連打され、坂田さんがなにごとかつぶやく……というエンディングは、私が聞いていると笑えてしまってしかたがない。この曲、坂田さんはヴォイスのみ。3曲目はまた即興。山下トリオや坂田トリオみたいな方法論の演奏だと思う。スピード感はあるが重厚。そして激アツ。4曲目はクラリネットでフリーなバラード。不気味さと叙情がないまぜになったような表現。これも山下トリオのころから培われている。しみじみーしているとまたヴォイスと銅鑼が……。ジャケットはサガキケイタさんの作品。かっこいい。このひとの絵は、とにかく一枚描くのにめちゃくちゃ時間かかるだろうなと思う。傑作。

「LIVE IN OTO」(CLAMSHELL RECORDS CR26)
AKIRA SAKATA/GIONANNI DI DOMENCO/JOHN EDWARDS/STEVE NOBLE

 エドワーズ〜ノーブルというおなじみのふたりに坂田明が加わり、ピアノが入った4人による演奏。全部で1曲で、途中でガイドも入っていないので、通して聴くしかない。ピアノのドメンコというひとは、フレーズというよりガンガン叩くように弾くひとのようで、エドワーズとノーブルも完璧に自分たちのやりかたがあるひとたちだが、そこに坂田明がどう斬りこむのかという興味がある。結果から言うと、坂田さんは世界のどこへいっても坂田さんであっておのれのやり方を通し、あとの3人を坂田色に染め上げてしまった。最初の部分での超アップテンポでのアルトのブロウ、それに続くパートでの例のヴォイス(貝殻節? 冒頭部はホーミーっぽかったが、あとはただただ日本語で叫ぶ。すばらしい。私は聞いていて爆笑したが、イギリスの聴衆はどうだったのだろう。真面目なヴォイスパフォーマンスと思って聴いていたのか)、そのあとのゆったりとしたフリーインプロヴィゼイション、無伴奏ソロになってからの叙情……いつもの坂田明だが、やはり共演者によってかなりちがったサウンドになっており、随所に出てくる坂田さんが共演者の音にぴたりと合わせたり、共演者のノリについていったり、逆に自分がぐいぐい引っ張ったり……というフリージャズ〜即興ならあたりまえのことかもしれないが、そういう基本的なことをしっかりやっていることがこういう緊密なコラボレーションがパッと生まれる基盤になっているのだと思う。ラストがちょっと尻切れトンボのようになっているのは、たぶん収録時間の問題だろう。たいへん楽しく聴けました。

「FIRST THIRST LIVE AT CAVE12」(NOTTWO RECORDS MW974−2)
AKIRA SAKATA NICOLAS FIELD

 坂田明とドラムのニコラス・フィールドのデュオ。ちょうどラリー・オークスとジマラルド・クリーヴァーが洞窟のなかでやってるデュオを聴いていたこともあって、タイトルを見て、てっきり本作も洞窟でのデュオだと勘違いして購入。でも、「ケイヴ12」というのはスイスのジュネーヴにあるライヴハウスらしい。しかし、聴いてよかった。「いつもの坂田さん」であることは間違いないのだが、強烈なドラムのせいですばらしく濃密な演奏になっているし、冒頭からアルトは快調そのもので鳴りまくっているし、ふたりとも一瞬たりとも攻撃の手をゆるめない。正直、こんな一直線で直情的で明快なフリージャズというものがほかにあるだろうか。どんなにアグレッシヴなひとも、いろいろ考えたり、探り合ったり、ためらったり、いつもとちがうことをしようとしたり、歪めたり、ねじったり、反対から見たり、くつがえそうとしたりするのではないか。しかし、坂田明はデビュー以来ほぼ一貫してこのスタイルだ。少なくとも私がはじめて見た高校生のときにはすでにそうだった。そして今もそうだ。このはっきりしたスタイルは世界中で説得力を持っている。第二期・第三期山下トリオとは、実は坂田明スタイルだったのだ、と言いたくなるほどだ(そんな単純なものではないが)。しかし、このスタイルをこの歳でもなお貫きとおすために坂田さんの払っている努力はいかなるものだろうか。この鳴り、このスピード、この高音、この低音、このパッション、この反応の速さ……なにをとってもあのころと同じだ(もちろんどんどん進歩はしていると思うが)。それは懐古的なものでもなんでもなく、太古から未来まで貫く坂田明の音楽性であり、とにかくめちゃくちゃ説得力があるのだ。コールマン・ホーキンスやレスター・ヤング、コルトレーン、ドルフィー……などと同様の「自分のスタイル」というものを持つことができた稀有の、幸せの、偉大なサックス奏者なのだ。……と自分で書いていても大げさな表現だなあ、と思いながら書いていると、2曲目の「貝殻節」がはじまってダハハハと笑ってしまった。そうそう、これもまさに坂田明のワンアンドオンリーな音楽性の一部なのだ。そして、共演のニコラス・フィールドはドラマーとしてだけでなく、ヴィジュアルアーティストやコンポーザーなどさまざまな顔があり、サックスのグレゴール・ヴィディクや坂田明とのツアー、ドラムデュオの「バターカップ・メタル・ポリッシュ」のツアーなどで日本でもおなじみのひとらしいが、私は(たぶん)生で見たことはない(はず)です。とにかくパワフルに叩きまくるドラマーで、坂田さんのコンセプトとの相性もよく、ほかもいろいろ聴いてみようと今入手を試みているところであります。3曲目のクラリネットの曲もいいなー。4曲目はニコラス・フィールドのめちゃくちゃ激しいドラムソロではじまり、途中から坂田明が果敢にそこに飛び込んでいき、一体となって燃焼していく凄まじいトラック。高音で狂ったように吹きまくるあいだに低音を一発ずつかましていく、という技も聴ける。終わった瞬間に大拍手が来るのもうなずける。いやー、やっぱりわれらの坂田明はすごいわ。というわけで、傑作でした!

「SAKATA AKIRA × TRIPLE EDGE」(FULLDESIGN RECORDS FDR−1040)
坂田明×坪口昌恭×早川岳晴×藤掛正隆

 トリプルエッジというトリオに坂田明が加わった作品。藤掛正隆には「なんとかエッジ」というのがいろいろあるのでよくわからないし、トリオねじ+坂田明というのもあったし、崖っぷちセッションというのもけっこう似通ったメンバーだったと思うが、でもそんなことはどうでもいいのです。今聴いているこのアルバムはとにかく最高なのだ。最近の坂田さんはなにを聴いても、どんなライヴへ行ってもだいたい一緒だ、なにをやるかは予定調和だ、インプロやってバラードやってスタンダードやってヴォイスで即興歌舞伎みたいなのをやって民謡をやって……みたいな意見も耳にするが、そんなことはない! 山下トリオからずーっとはるかに遠くまでやってきたこのすばらしいインプロヴァイザー、というか音楽家、というかこの「人物」は世界の宝物みたいなものだと思う。この恐るべき個性を生で体感できるのは本当に一期一会だと思う。こんな「恐るべきひと」はこれまでジャズの歴史のなかで唯一無二だ。ミンガスやカークに匹敵するオリジナリティだと思う。ビル・ラズウェルが「コンセプトがぶっ飛んでる」と言ったのもわかる。3曲目のヴォイスを聞けばわかるが、とにかく大阪弁でいう「アホ」なのだ。しかも、それは自由でめちゃくちゃでこれまでになかったかっこいいアホなのである。そして、坪口のキーボードもめちゃくちゃかっこいい。シンプルで野太くドスのきいたエレベも、これもまたシンプルなのに表現力豊かなドラムも、すべてが一体となって自由でファンキーで楽しい「場」を作り出している。こんな最高なことがアリマスカ! と思わずカタカナになってしまうぐらい凄い。このアルバムの録音時点で坂田さんは72歳だが、72歳のひとをまわりのトリオがうまく支えている……という感じではなく、坂田さんがどんどん突っ走っているように聞こえる。これですよ! 年齢とか関係なく、全員一丸となっての演奏がここにある。これは「聴くべき」音楽であります。みんなが輝いている。5曲目の冒頭とか、めちゃくちゃ面白いですけどー! 坂田さんはアルトもヴォイスもほとんど同じぐらいのレベルで操っていて、どっちでも同じような感じのクオリティの演奏をする。いや、たぶんクラリネットでもなんでも一緒だろう。それぐらいとてつもない高みに達しているのだ。おおげさ? だと思ったらこのアルバムを聴いてください! 傑作。こんなゲラゲラ笑える、パワフルで土着的で世界的でピュアでひたすらかっこいい音楽を作り出してくれた坂田明とその仲間たちには感謝しかない。内ジャケットの太い竹の写真を見ていると、本来、変化球というか捻じ曲がっているようなところからはじまっているフリージャズの表現だが、坂田さんのはこの竹のようにずっと変わらず、「真っ直ぐ」なのだなあ、と思ったりして。

「ミトコンドリア」(TROST 217)
AKIRA SAKATA & TAKEO MORIYAMA

 86年に行われたデュオライヴをアルバム化した2枚組。坂田明は「サクソフォン」とクレジットされているが、バスクラ(アルトクラリネットかもしれない)も吹いている。1枚目の1曲目はそのクラリネットによる無伴奏ソロ。肌がぞわぞわするような、不穏な空気感を作り出している。2曲目はタイトル曲でもある「ミトコンドリア」でドラムとアルトのガチンコデュオ。スネアの爆発に対してアルトの高音部のトリルが延々続き、聴いていて「ギョエーッ!」と叫ぶしかない。どれだけ後ろで爆音で叩かれても、しっかりしたトーンでひたすら吹きまくる坂田明には感動するしかないが、こういう場面は山下トリオでしょっちゅう体験していたのだろう。めちゃくちゃ「学ぶ」ものが多い。圧倒的な演奏で、すでにこの時点でスピーカーのまえで私はぶっ倒れている。3曲目の「ハチ」は、「タリラ、タリラ、タラリララ!」というだけの、リフともいえないような曲だが、それでこのふたりはオーケストラのように壮大で過激で疾走感のある即興をぶちかます。途中、坂田のブレイクになるが、なんのためらいもなくひたすらひとりで吹きまくり、そこに森山のドラムが容赦なく入ってくる場面はすさまじい。いやー、これぞ「デュオ」ですね。4曲目は坂田のクラリネットの激しい無伴奏ソロからはじまる。単音楽器とドラムのデュオなのに、こういう風にマイナーのペンタトニックでせつせつとメロディをつむぎ、音色を変化させ、ダイナミクスを強調すると、まるでベースとピアノがいるような……いやいやいやいや、そんなもんではないな、まるでオーケストラのように巨大な「モノ」がそこに立ち上がる。そして、そのあとをつむぐ森山のブラッシュワークの「間」の凄さよ。パワーや瞬発力がこの「間」によって何倍にもなっている。5曲目は森山の曲で凄まじくも的確なドラムソロオンリーの演奏。パワフルでめちゃくちゃかっこいいので気づきにくいが「歌って」いる。6曲目は「ゴースト」で、坂田のこの楽器の音色と鳴りがないと成立しない演奏。途中「赤とんぼ」が出てくるがそんなことに気づきもしないほど溶け込んでいる。こういうのを「自家薬籠中のものにする」というのだろうな。2枚目に行くと、1曲目は「キアズマ」で、やはりこのふたりにとって重要なレパートリーなのだろうなあと思った。ヘヴィなフリージャズ。合図のフレーズ→変態的なリズムのテーマ→フリー→合図のフレーズ→テーマ→フリー……というシンプルでわかりやすい展開の強みがここでも感じられる。実力のあるひとたちの手にかかると、ごちゃごちゃ言わないでも、このやりかたで「勝手に」演奏が場面を転換していき、なおかつどんどん盛り上がっていく……という魔法の方式なのだ。このやりかたを発明(?)した山下トリオはすごいと思うが、こういうやり方を否定する、というのは、カンザスシティジャズのリフブルースを否定するのと同じではないかと思う。「昔ながらの絶対イケるやり方」というやつです。ただし、演奏者に圧倒的な「腕」(個人技)が必要だし、いろいろなものを切り捨てているとは思うが、ここでこうして聴くと、とにかく説得力はとてつもない。これはもちろんこのふたりだからだ。「フリージャズなんて予定調和じゃん」(手探りではじまって、いろいろ小技を出しながら盛り上がっていき、最後は一緒にギャーッといって終わる)というひともたくさんいると思うが、こういう演奏を聴くと、予定調和ではない、とんでもないハプニングが連発して起きていき、こういう演奏を成立させているというのもよくわかる。それは、アホな表現かもしれないが「ひたむき」な演奏姿勢が生み出すものなのだ。2曲目「ダンス」はマジのガチンコの激烈なデュオ(途中で一瞬チュニジアの夜が引用)で、いやー、空に飛んでいく……みたいなすさまじい演奏。こんなドラムはほかにいないし、こんなアルトもほかにいないのだ。パカッと口を開けて、このとてつもない演奏をひたすら享受するしかない、という気になる、本作の白眉。坂田明のフリージャズ的なコンセプトが、ただただ「ぐじゃぐじゃっ」とノイズを吹くのではない、ということは皆さんご存じのとおりだが、それが具体的にどういうことかというと、「こういうこと」であります。すごいですよねーっ!3曲目は坂田のアルトの無伴奏ソロで始まるバラードで、なんというか「絶唱」という言葉がふさわしいのではないかと思う。ドラムもえげつないほどの凄まじさだが、それがバラードに結晶している点がすごすぎる。こういう演奏を聴くとひたすら歓喜が湧き上がってくるのだが、同時になんだか泣けてくるのである。大げさに思われるかもしれないが、音楽とは、人間とは、命とは……みたいなことを思ってしまう。ドラムソロのブラッシュの歌いあげもひたすら感動。ラストの坂田明のエンディングには感極まってしまう。私は泣きました。決して「山下トリオの山下抜き」ではない最高の演奏。ドラムとサックスだけで、こじんまりとすることなく、オーケストラにも匹敵するようなこれだけの世界が作り出せてしまうのだ……ということを体感できる。宝物のように輝いている演奏であります。横井一江さんのライナーも名解説です。傑作! 対等のデュオだと思うが、先に名前の出ている坂田明の項に入れた。

「NOT SEEING IS A FLOWER」(LEO RECORDS CD LR 843)
SAKATA NABATOV SEO MOORE

 坂田明とドラムのダレン・ムーア、ロシアのサイモン・ナバトフ、そして瀬尾高志という4人による即興。しかも、特筆すべきはこれがレオ・レコードからの発売と言うことであって、こういうのは私だけなんでしょうかね、私にとってLEO RECORDSというのはけっこう特別な意味合いがあり、そこから坂田明や瀬尾高志のアルバムが出るということ自体が感動である。これは正直、私だけの「感動」かもなあ、と思いつつ、聴いてみると、1曲目、ピアノとドラムの、いかにも「フリージャズ」という感じの展開ではじまるが3分過ぎぐらいに坂田明のアルトがまるでテナーのような野太い音でごわーっと入ってくるあたり、そのあとののびのびとした坂田の縦横無尽の吹きまくり……というのは、どれもこれも「古典的」なフリージャズの語法によるものだが、それが快感なのである。スウィングだってバップだってモードだってフュージョンだって古典的だがすばらしい。フリージャズも、この4人のような名手にかかれば「新しいもの=よい」という理屈を吹っ飛ばす最高の演奏になる。正直、「新しいもの=よい」という考え方こそが「古い」のである。1曲目は最初から超高速でバリバリやる展開。2曲目はピアノのナバトフ主体の即興。3曲目で坂田アルト再登場だが、ゆったりとしたリズムでの即興(四人とも絶品。ムーアのブラッシュ、坂田の力強くゆったりしたプレイ、緊張感のある瀬尾のベースとピアノのからみなど……)。4曲目はそこから坂田のフリーキー民謡ヴォイスが炸裂。これはお約束だが、正直、こんな風な即興ヴォーカルを体得しているのは世界でも坂田明ひとりだろう。なぜなら、似たようなことをやってるひとはいるかもしれないが、坂田の場合はひたすらでたらめでアナーキーなのである。言葉の意味がわかるとある種のユーモアを感じるかもしれないが、わからなければなおさらそのグロテスクな迫力が伝わると思う。そのあと全体にテンポが速くなり、5曲目の坂田さんはクラリネット。こういう即興はどんなにすごいひとたちが集まってもバラバラなときもあるが、この4人は完全に一丸となっている。もちろん、一丸となっていない、手探りだったり、合っていな即興が面白い場合もあるけど(とにかく「ここでの俺の役目はこれでしょ? はいはい、わかってます」といった感じの即興はなーんか面白くない。しかも、そういう演奏は、ベテランとして評価されているひとにも多いような気がする。地雷を踏んだ?)、とにかくここでの4人は100年ぐらい一緒にやってきたような一体感があって爽快というか痛快というか……。ここまでは一応曲として区切ってあるが実際はひと続きの即興である。ラストだけはそのまえに一旦途切れる感じがあっての演奏。最初は坂田アルト〜ムーアのデュオ。そこに野太いベースが入ってくる。こういうのはさっきも書いたが古い新しいではない。根源的な快感なのだ。4人ともすごいのだが、とくに坂田明の演奏は「縦横無尽」「自由奔放」という言葉がぴったりのえげつなさ。ベースとピアノのデュオ部分も力のこもったもので、最後はフッ……と終わる。これもすごいよねー。傑作だと思います。なぜかうちには2枚あります。なんでや。

「FLYING BASKET(すっ飛び篭)」(FAMILY VINEYARD FV88」
坂田明 & ジム・オルーク と ちかもらち & メルツバウ

 めちゃくちゃ豪華なメンバーによる70分を越える即興一本勝負。メルツバウの参加が目を引くが、ほかもみんなビッグネーム。メンバーからみるとノイズっぽいエロクトロニクスサウンドかなあと思ったが、基本、坂田明のアコースティックなアルトのしっかりした音のブロウが中心となった演奏だった。これはすごいことだと思う。最年長のはずの坂田のアルトサックスが全員をひきずっているのだから。とにかく吹き止めないのだ。それも、ヘロヘロになってもまだ吹いている、という感じではなく、しっかりしたトーンでまっすぐまえを見て吹きまくっている。すごいよなあ。最初のほうはエレクトロニクスの奔流のなかで「平家物語」を報復とさせる低音部の反復とクリス・コルサーノのドラムを中心としたリズムのうえで、とにかく坂田明がひたすら吹きまくる。涙が出るような感動を通り越して、だんだん、大丈夫か、おい、という感じになってくるほどの凄まじい演奏。ジム・オルークのギターもメルツバウのノイズもすばらしいが、やはり坂田明のとてつもないエネルギー、パワーが注がれたアルトソロが衝撃である。めちゃくちゃ面白いから70分を一気に聴いてしまう。途中何度か終止感があるが、すぐにまた曲調(?)が変化して再スタートする。坂田がクラリネットに持ち替え、フリーなスローナンバーになっても緊張感はそのまま維持される。全員が、たがいの音を聴きながら自己を主張しつつ音楽を形作っていく、という、正直いってかなり「伝統的」なフリーインプロヴァイズドミュージックの方法がここでも採用されている。また曲調が変わり、坂田がアルトに戻っても、天空を行くような飛翔感、浮遊感はそのままにどんどんパワフルになっていき、高みに達する。50分あたりの坂田のブレイクというかカデンツァはおそらくこれを聴いたひとたち全員をノックアウトするだろう。結局、コレなんですね。コルトレーンが「アイ・ウォント・トゥ・トーク・アバウト・ユー」のカデンツァで示したのは、サキソフォンにおける無伴奏の意味合いというか存在感だったように思うが、ここでの坂田のカデンツァもそれと同じぐらいのすごさである。そのあとの展開もめちゃくちゃかっこよくて、エレクトロニクスノイズのオーケストレイションをドラムとベースが支え、かつ煽りまくる。そして、坂田のヴォイスが炸裂。この展開を「いつものやつ」と思うのはいかがなものでしょうか。この、正直わけのわからない国際的な変態的超絶凄すぎミュージックを愛でるべきではないかと思う。頭がおかしいひとたちによるすばらしい演奏。あー、凄かった。あー、楽しかった。タイトルの「すっ飛び篭」というのはなんのことかわからんが(英文表記では「フライング・バスケット」となっているので「駕籠」ではなくて「篭」なんだよね……)、そんなことはどうでもいいような傑作です。

「IRUMAN」(MBARIMUSICA MBARI21)
AKIRA SAKATA/GIOVANNI DI DOMENICO

 坂田明と、ジム・オルークとのコラボをはじめワールドワイドな演奏活動で知られているピアニストのジョヴァンニ・デ・ドメニコのデュオ。東京でのスタジオ録音だが、ミックスとマスタリングはリスボンである(ドメニコはイタリア人)。ジャケットは円山応挙の虎の絵で、タイトルはたぶんポルトガル語で宣教師の意(ちがってるかも)。すべて即興だと思われるが、曲名が「静寂の一枚」「黄砂の踊り」「睡蓮の咲く古池」「山寺に聞こゆる声」「萌1」「田んぼに水が入る」「数寄屋造りの佇まい」「蜂とおひさま」「パピルマ(このタイトルはなんのことだかわからん)」「萌2」(ジャケットでは全部英語表記)……とどえらく日本情緒を強調したものになっている。内ジャケットには坂田明の手による「萌」という字が使われている。しかし、聴いたかぎりでは、過度に日本情緒を強調したような演奏ではなく(そもそも坂田明の即興からはつねに日本的なものを感じるから、これは通常運転である)、バランス的にも内容的にも理想的といってもいいデュオだと思う。坂田明はいつものようにアルトサックス、クラリネット、ヴォイス、小物……などを駆使して多様な表現を行っているが、ドメニコはピアノの音をさまざまに加工(?)して発しており、それが坂田の繰り出すさまざまな音とあいまってすばらしい効果をあげている。最後の曲は一種の組曲のような感じで坂田さんのアルトの最高の音色が味わえるし、ドメニコも最高の演奏で応えていて感動的である。いやー、すごいすごい。なんで「萌」なのか、なんで「黄砂」なのか、なんで「宣教師」なのか……わからん部分も多いが、そういうでたらめなネーミングセンスも坂田さんの世界なのだ。両者ががっぷり四つに組んだ対等のデュオで、聴きごたえ十分。こういうアルバムを聴くととにかく血沸き肉踊るなあ。こういう演奏を聴いて血が湧いて肉が踊っている間は俺も大丈夫だ(なにが?)と思う。めちゃくちゃ傑作!

「JIKAN」(PNL RECORDS PNL045)
ARASHI

 スーパーグループARASHIの(たぶん)第3弾でピットインのライヴ。タイトルの「ジカン」は「時間」だろうか? とにかくドラムはニルセンラヴなのに、完全に坂田明のいつものペースで演奏が進む。アルバムの一曲目の冒頭がいきなりヴォイスによる「松島や〜」なのだ。しかし、とはいうものの、共演者がちがうと、「いつものペース」といってもその展開は変わってくる。重量級のこのふたりとの共演による本作はずっしりと腹に来るヘヴィな演奏で、ヨハン・バースリングやニルセンラヴもかなり刺激を受けていると思われる。1曲目は坂田はサックスを吹かず、ひたすらヴォイスでの即興に徹していて、本作ではじめて坂田明の演奏に接したひとは、ああ、このひとはヴォイスのインプロヴァイザーなのだと思ったことだろう。かつてはある意味半分冗談というかハナモゲラの延長だったと思われる坂田のヴォイスが、こうして国際的メンバーのアルバムの冒頭の長い一曲を背負うような重要な表現方法として確立しているのは感動的である(非常にシリアスだが、どことなくユーモアも感じられるところが坂田明のヴォイスのすばらしいところである)。2曲目のタイトルチューンではいきなりアルトでの力強い即興ではじまる。ニルセンラヴの思い切りのいいドラムや、バースリングのアルコにあおられ、坂田のアルトも高音でのリズミカルな表現を多用していて、全体に幻想的な雰囲気で推移するが4分を過ぎたあたりから、いつもの超高速パワフルぐちゃぐちゃインプロになる。ドラムとベースのデュオから鬼のような爆発的ドラムソロになるあたりはもうめちゃくちゃ「ジャズ」を感じさせるストレートな演奏で、まさに王道。最後は三人で全力疾走。完全に3人が対等のトライアングルを作っている。よく、「三人が対等」と言うと、そんなはずはない、やはり、伴奏とソロという関係になっているはずだ、と思うことは多いが、ここでの彼らはマジで対等の関係だと思う。気持ちいいですね。3曲目は「山上憶良」というタイトルで、それだけでも「なんのこっちゃ」と思うのだが、アルトとベース(ピチカート)の熱気あふれるデュオではじまり、そこにニルセンラヴの絶妙のドラムがぶちこまれ、演奏はどんどんヒートアップしていく。坂田さんのすごいところは、このやり方というか吹き方で何十年も通してきているのにまるで音量、音質、フレージング、リズムなどの衰えがないどころかどんどん年を追うごとにいまだにすごくなっていっているところで、しかも、即興的な新しいアイデアが今でもつぎつぎと降ってきて、それを即座に試しながら共演者と交感する……ということができており、しかも、こういう演奏だと、ある程度盛り上がったら、それ以上というのはなかなか望めないはずだが、このひとの場合は、ここがクライマックスだろう、このフレーズがとどめだろう、と思ったところよりもさらにそのうえの盛り上がり、またそのうえ……と言う風にクライマックスにクライマックスが積み重なるようなことが楽勝でできてしまうという、まさに超人的で天才的な、このひとにしかできない強烈に個性的なアクロバットなのである。何十年も聴いてるが、最初に聴いたときから今に至るまでその凄まじい演奏のポテンシャルは変わらない。それがどんなにすごいことか、ということを書こうとしてもとても書き表せない。ニルセンラヴの爆風のようなドラムソロのあと、突然また坂田のヴォイスがでたらめ歌舞伎的な即興を展開するのだが、このあたりの面白さは日本語がわかるとよりいっそう笑える。ニルセンラヴがいかにも和風のリズムで応じているところも面白い。最後になぜか万葉集の柿本人麻呂の短歌が出てくるのだが、それでいてなぜタイトルが山上憶良なのか。わからん! ラスト4曲目はクラリネットによるバラードで、最後まで不気味な感じのまま押し通す。終わったあと坂田による力強いメンバー紹介があるが、このパフォーマンスが満足のいく出来だった、という気持ちが籠っているように聞こえる。傑作。

「LIVE AT HAKUSAN EIGA−KAN」(AIRPLANE LABEL AP−1099)
SAKATA AKIRA × SEO TAKASHI

 ここで聞かれるのは最近の通常運転の坂田さんだが、この「通常運転」がどれだけ凄いかということを我々はこのCDから思い知る。激しいブロウによる即興があって、クラリネットによるフリーな叙情があり、平家物語などをテキストにしたヴォイスパフォーマンスがあり、アンコールで「死んだ男の残したものは」(演奏というよりその詩をモチーフにした即興)などが演奏される。この一連のパッケージを、またか、というのは本当にまちがっていると思う。一曲一曲が研ぎ澄まされ、年齢的なことを考えても身体を、命を削って坂田さんはブロウし、叫び、我々になにかを伝えようとしているのだ。そんな大げさな、と思うかもしれないが、ブロッツマンはそういう日々を送ってついに死んだ。坂田明のこの凄まじいエネルギー、凄まじい表現から我々はなにかを得なければ、アホである。毎晩毎晩、坂田さんはこれだけのテンションのこれだけの演奏を皆に届けてくれているのだ。あたりまえのことではないです。そして瀬尾さん! 本当にすばらしい! なにをやってもすごいけど、ここでの坂田さんの相手役としては完璧で、狂乱のジジイに対してこれだけクールかつホットにびしびしと対応できるのはすごいとしか言いようがない。ああ、もう言葉がない。正直、このアルバムを聴いての正直な感想は「坂田さん、なにしてまんねん」という言葉ではあるが、誤解されるかもしれないけど、これは私にとって最大の褒め言葉なのです。ドラムもピアノもいないのに、この化け物じみたポテンシャル。えげつない、としか言いようがないですよね。ルイ・アームストロング、レスター・ヤング、チャーリー・パーカー……とジャズ史に残る10人をたとえば選んだとしたらかならず坂田さんは入るよなあ、と私は思ってます。とくに「平家物語」は、最近よく耳にするが、ここでのそれは、録音のせいもあるのだろう、目の前で坂田さんがシャウトしていて、その唾が全部かかってきているようなド迫力に満ちている。なーにが入道だ! アホか! というツッコミも含めて、絶賛するしかありません。坂田明という稀有なミュージャンの音源がいろいろなひとの尽力によってこうして残っていくのはひたすらありがたいことだと思う。

「MOOKO(蒙古)」(NEC AVENUE N32C−1003)
SAKATA AKIRA

 はじめて聴いたときはたぶん就職してすぐのころだな、と思う。一曲目を聴いて、めちゃくちゃかっこええ! と興奮したのを覚えている。坂田明がシャノン・ジャクソンとの共演を望んで手紙を出すと、ビル・ラズウェルにプロデュースを頼んだほうがよいとの返事だったので、「ラスト・イグジット」で共演したこともあるビル・ラズウェルに話を持ち掛けて、それらがこのアルバムに結実したということらしい。1曲目の「ニッチモサッチモ」はロック的なリズムに乗った骨太な曲で坂田の過激なブロウを存分に味わえる。2曲目は坂田のヴォイスもところどころに聞ける「和」な雰囲気の曲だが、シャノン・ジャクソンらがそれに見事に応えているのも楽しい。3曲目はバラードでめちゃくちゃいい曲。フリージャズとかノイズとかいったカテゴライズを突き抜けて、音程も音色もなにからなにまで、サクソフォーン奏者としてすばらしい状態になっている。とにかく尊敬するしかない。4曲目以降はタイトルにもある「蒙古」がモチーフになっているらしく、4曲目「羊飼いの晩餐」という即興は、ラズウェルの深くて重いエレベ、シャノン・ジャクソンの「間」を心得たパーカッションのあいだを坂田のアルトとクラリネットがゆったりと泳ぐ(オーバーダビングだと思う)。聴き手をふわふわした創造の海に遊ばせてくれる演奏で、コーフンしまくり。すばらしいです。「騎馬民族の踊り」という5曲目もたぶん即興なのだが、ファンクなリズムに乗ってアルトが自由自在に舞い踊る。ラストのタイトル曲「モーコ」は、バックにホーミー的な音が続くミニマル的ともいえる演奏。この時点ではまだ坂田さんはモンゴルに行ってホーミーに接してはいなかったのかも(はじめて行ったときのドキュメント番組を覚えている)。でも、雰囲気は最高です。坂田明がすごいのは当然として、ビル・ラズウェルとシャノン・ジャクソンもただものではないと思い知ったアルバムでした(あの頃は、ラズウェルはこの手の音楽を商売に結び付けようとするやり手のプロデューサーとして、シャノン・ジャクソンはオーネットのところから出てきたけどその後ファンクに行ったひと、みたいに思っていたのかも。今は完全にひれ伏しています)。傑作。

「近所の旅人」(MEENNA/FTARRI MEENNA−953)
坂田明 中村としまる 林頼我

 私がこれを書いてる2023年の時点で78歳の坂田明、ノー・インプット・ミキシング・ボードで有名な中村としまるは57歳、林栄一との演奏でデビューした林頼我は24歳。坂田さんと林さんの年齢差は54歳(!)ということで、そういう三人がひとつになって没入できるのだから、それだけでもすごい。しかし、そんなことはどうでもいい。いや、どうでもよくないのだが、ここは無心に音楽に浸ろう。アコースティックなサックスとアコースティックなドラムというラインとアコースティックなサックスとエレクトリックなミキシングボードというラインのふたつが存在して、一聴混沌としているかのようだが、じつはこの三人の楽器編成がものすごくバランスがよくてすっきりしていることにも驚く。そこに坂田さんの、平家物語やら中国のなんやらといった、物語性とか内容を切り捨て、「言葉の勢い」だけを抽出した例のヴォイスがアナーキーな混沌に拍車をかける。定番の展開のように思えるかもしれないが、そうではない。少なくとも私は、毎度毎度わくわくしながら聴いている。2曲目の後半に「死んだ男の……」のモチーフが現れるが、ばらばらに解体されて空間を浮遊している断片のいくつかに我々が衝突しただけのような感じである。坂田さんの内部では、まだなにかが続いており、かつ、なにかが断絶しているようである。それは我々の心を強く揺さぶる。1曲目が26分、2曲目が28分という即興だが、年齢とか関係なくキラキラ、ギラギラと輝くこの三人のトリオはなんともいえない魅力があって、引き込まれる。78歳と54歳と24歳がこうして自分の魂を遠慮会釈なくぶつけあい、なにかを作っていくことができるのだから、即興っていいよね……みたいなことを書くと、クラシックだって78歳と24歳が譜面を媒介にして共演できる、という意見が寄せられると思うが、やっぱりこれはデタラメな極致であって、クラシックではなくデタラメを選択したひとたちのみが許される「地獄」なのではないかと思う。地獄というのは、こういう三人がゲラゲラ笑いながら炎が燃え、血の池がたぎり、牛頭馬頭や鬼が歩くなかで演奏している世界のことだ。なんのことかわからなければ、それはそれでよい。それにしてもこのアルバム、三人がなんの楽器を演奏しているのかも書いていないし、プロデューサーや録音エンジニア等の名前もないし、めちゃくちゃシンプルで情報がないのはすごい。ジャケットもいい。すごく気に入りました。

「TORNADO!」(EUPHORIUM RECORDS EUPH 072)
GREAT SAKATA QUINTET

 いやー、これはよかった! いつもの坂田明のライヴとどこがちがうのだ、というひとがいるかもしれないが、いつもと同じでなにが悪いのだ。いつも坂田さんは最高である。ライプツィヒでのライヴ。バンド名が「グレート・坂田・クインテット」というのがすごい。古今、いろいろなジャズバンドの名前はあるだろうがプロレスラーのごとく「グレート坂田」と名乗り、それをバンド名にしたのはこのひとぐらいしかいないだろう……いや、まあ、いるかもな。でも、CDのバンド名にしたのはすごいですね。しかも、曲は「トルネード!」という即興一本勝負。坂田氏のほかはたぶんドイツのミュージシャンたち。ピアノに、ツインベース、ドラム。剛腕のメンバーがそろっていて、このひとたちだけのパートもめちゃくちゃ聴きごたえがあってかっこいいのだが、坂田さんが入るとまたちがった次元のドアが開く。歌舞伎風のドスの効いたヴォイスで「どんぐりころころ」の歌詞をぐじゃぐじゃどろどろに解体してぶちかますのだが、たぶん他のメンバーはあとで歌詞の意味を聴いたらひっくり返るのではないか。すべては坂田さんの狙いどおりに運んでいるのだ。この音楽的な異常な盛り上がりを聴いていると、これが「どんぐりころころ」をベースにしているのか、となんだか「もーしわけありません」という感情が生まれたりして、とにかく面白いのです。ダルい箇所や手探りの部分などまったくなく、とにかく全員が「よくわかって」いる感じで、徹底的に自分をぶつけまくり、一丸となって疾走していくのを聴いていると、全盛期の山下トリオもかくやという信頼感とエネルギーを感じる。ひたすら楽しくかっこいい演奏。たしかに「グレート坂田」である。ラストを民謡をシャウトしてしめるのもあいかわらずだが、この時空間がぶち壊されるような異常な感覚はフリージャズ史に打ち立てた坂田明独自の世界である。ものすごく分厚いライナーがついているのだが英語ではないのでまったくわかりませーん。傑作。

「LIVE IN EUROPE 2022」(TROST TR245)
AKIRA SAKATA & ENTASIS

 傑作としか言いようがないすばらしいリリースの二枚組。坂田明が現在、やはりとんでもない創造性、演奏力……を維持していることをまざまざと知ることができる壮絶なライブ。2022年の演奏なので去年(今は2023年)の演奏。われらが坂田明師匠とヨーロッパの精鋭との組み合わせ。コロナ下での海外演奏で、なかなかたいへんだっだのではないかと推測されるが、なんと二枚組。ギリシャのテッサロニキ、イタリアのパドヴァ、ベルギーのブリュッセルでのライヴが収録されている。ギリシャでのライヴはウッドベースが加わっているが、それ以外はベースレス、ギターの入ったカルテットで、ドラムは3カ所でそれぞれちがうひと。3カ所ともに参加しているジョヴァンニ・ディ・ドメニコはイタリアのミュージシャン、ギターのジョトス・ダミアニディス(と読むのか?)はギリシャのひと。とてもグローバルなメンバーで、しかも若い共演者とともに作り上げた傑作。1枚目の冒頭、不気味な雰囲気の即興アンサンブルではじまるが、ここでの坂田のアルトの音色の凄まじさは、インプロヴィゼイションがどうこうという以前の、管楽器を吹き鳴らす喜び(アイラー的と申しましょうか……)に満ち溢れており、説得力が凄い。例によって即興が過熱し、加速していくうちにパワフルなフリージャズになり(フリージャズという言葉の使い方も今となっては難しいが、これはフリー「ジャズ」といっていいのではないか……と思う)、まるで山下トリオを聴いているかのような気持ちになる。正直、ああいう演奏は今では世界共通で、その皮切りが山下トリオだった、ということなのかもね。とにかく圧倒的な音の奔流です。
 1曲目はとにかくピアノとのぶつかり合いが凄くて、言葉を失う。山下トリオばかり引き合いに出して申し訳ないがかつて山下トリオを聴いていたときの、拳を握りしめて振り上げ振り下ろしながら「あーっ!」と叫びつつ埋没していくような聴き方を思い出した。この方法論が、アメリカのいわゆる「フリージャズ」からいろいろ解放したのだと思う。2曲目はディストーションをかけたギターが主導する、これまた不気味で幻想的なはじまりから、坂田のクラリネットが哀愁のメロを奏で、全員がそれに和す。これは日本的なのかヨーロッパ的なのかとか考えることも不要な、人類の根源的なところから発するプリミティヴな響きである(とか言い切ってしまうのはめちゃくちゃ問題だが)。ブロッツマンのようにアブストラクトな感じではなく、坂田明の吹く音列は非常に具体的で、おそらくこのひとのなかにあるモノがここで露わになっているのだろうと思う(そこで「和」な感じとか民族音楽的なものとかが出てくるのはむしろ自然でしょう)。これは刺さる。この即興的なオーケストレイションはめちゃくちゃかっこよくて、国籍とか年齢差とかは一切無視したピュアな即興のように感じる。そして、突然おなじみの「死んだ男の残したものは……」とヴォイスがはじまるが、これは通訳的なものがあったのか、それともなかったのか……。この緊張感からして、おそらく「なにか」は伝わったものと思えます。言語的なものは関係なく、もしかすると単なるフリーなポエットリーディングのように感じられてるのかもしれないが、それでもこの凄まじい絶唱の意味合いはきっとリスナーに伝わっていると思う。そして、そのあとにぶちかまされるアルトの強烈なソロは絶対にその場のひとの心を動かしているだろう。最後の3曲目は坂田さんの強烈なアルト無伴奏ソロではじまり、そこからただただ全員での爆発が記録される。凄まじい集団即興だが手垢はまるでついていない。そして、その中心に坂田さんのアルトがつねにある、というのがすごくないっすか? しかも、坂田抜きのメンバーでの即興もすばらしいのです。でも、3曲目のめちゃくちゃすごい、しかもひたすら透明感がある純粋な演奏には心を動かさざるをえない。
 2枚目(だけで71分ある)は、1枚目の3曲目と同じくイタリアでの演奏だが、最初、ピアノ、ギター、ドラムによるフリーリズムなインプロヴィゼイションが続き、坂田が入ってくるのは3分半ぐらいしてから。それも「満を持して」という感じではなく、そろーっと入ってくる。こういうのは、もう相手を知り尽くしているからこそできることだと思う。クラリネットによる尖ったブロウがほかの三人の演奏に溶け込んでいて、すばらしい。坂田明の方法論がけっして古くなく、共演メンバーの方法論も決して新しくなく、とにかく年齢の相違こそあれ「今」を奏でることに真剣な演奏であることは間違いなく、それが我々を感動させるのだ。10分を過ぎたあたりでいったん静謐(?)な雰囲気になるが、フリーリズムのバラード的なその部分も聴きものである。クラリネットの「ソソファファミミレレドド……」というフレーズも凄いですよね。それを受けてピアノが狂っていく感じもすばらしい。そのあとまたまた坂田さんの「死んだ男の残したものは……」がはじまるが、相変わらず壮絶で、イタリアの聴衆には言葉の意味は分かっていないかもしれないが、それでもなにかはかならず伝わっていると思う。そこから不気味なアルトを中心とした激しいインプロヴィゼイションがはじまる。ただの感想に過ぎないが、たとえばブロッツマンのこういう演奏はすごく乾いたものに感じるが、坂田のこういう演奏はしっとりと濡れているような気がする(どちらがいいということではない)。最後は坂田の絶叫で幕を閉じる。2曲目はベルギーのライヴ。アルトの、蛇がうねうねと這いまわるような演奏を中心に全員がからみあい、ほどけあい、パワフルで激しい即興が展開する。途中からエレキギターが主体となった壮絶なノイズの嵐から、ピアノが抜け出すような感じになる。そのあと、ギターによるフリーリズムの場面に坂田が復帰して、ふたたび全員全力でのぶつかり合いになる。台風のようにすさまじい暴風が吹き荒れ、それが過ぎ去ったあと、ゆっくりと、しずしずと演奏は終わっていく。ラストの3曲目もベルギーでの演奏で、坂田クラリネットによるバラード的なはじまり。アコースティックでパーカッシヴなピアノとエレクトロニクスノイズなギターの対比が楽しい。9分すぎたあたりで坂田明の「貝殻節」がはじまる。このシュールな世界はなんなのだ。2022年のベルギーで、「よいやさのさっさ……」と絶叫するこの怪人……。わけがわからん……といって爆笑するのが正しい鑑賞なのか、どうなのか。まあ正しい鑑賞なんかはないのだ。リスナーそれぞれが好きに聴けばいいのだ。やってるほうもたぶん好きにやってるのだから。16分ぐらいで一旦静かになり、ピアノと美しいサックスのデュオになる。しばらくしてギターとドラムが入り、ノイジーな展開に。そのままパワーダウンすることなく、どんどんエスカレートしていき、クライマックスに達して、バシッと終わる。この集中力はすごいです。ヨーロッパ三か国で行われた坂田明グループの演奏。完全にすべてを出しきって燃え尽きたような演奏だが、聴いてるほうも燃え尽きた。
 坂田大師匠が海外のひとたちとぶつかり合い、彼らからも弾けまくった最高の演奏を引き出したいきいきとした記録です!

「ちからもち 空を飛ぶ」(KING RECORDS KICJ 637)
坂田明 & ちからもち

 いやー、これは傑作です! 坂田明とダーリン・グレイ、クリス・コルサーノというトリオによる「ちからもち」にゲストが加わったアルバム。5曲中4曲に山下洋輔が、同じく4曲にジム・オルーク(ミキシングも)が、3曲に八木美知依が参加している。1曲目は、トリオのみの演奏だが坂田のアルトはひたすらストレートアヘッドな「フリージャズ」を貫いており、すがすがしく感動的である。この「音」、この熱量、この集中力、この力強さ……我々がいわゆる「フリージャズ」に求めるもののすべてがここにシレッとそろっているではないか。ほかにあちこち探し回る必要はなかった。ここにあったのだ。坂田大先生の足元にそれはずっとあった。共演者は変わっても、坂田さんの本質はまったく変わっていない。もちろん進化はしているのだが、「こう吹くべし」という心持ちは同じだ。高校生のときの私がびくびくしながら「インタープレイ・ハチ」の暗い空間への階段を下りていき、聞いた坂田トリオのあの衝撃がまったく色褪せずにここにある。2曲目は山下洋輔とのデュオではじまるが、みずみずしい衝突で、手垢のまったく感じられない演奏。しかも、両者とも「フリージャズ」的な力強く激しい表現を徹底している。そこにドラムとベースが雪崩れ込んできて、どんどん盛り上がっていく。ジム・オルークと八木美知依も参加しているらしいがほぼ聞こえない。タイトルの「40年後」というのは山下トリオ時代から数えて、ということか? 3曲目も山下とオルークの加わった演奏で、これもパワーを減衰させることなくすべてを表現していく山下トリオ的な方法論による演奏。とにかく坂田さんが凄すぎて目が点になる。山下さんもガンガン煽る。興奮のるつぼ。4曲目はドラムとベースが抜けたカルテットなので、琴やギターの音もよくわかる。幻想的な即興バラード風にはじまるのだが、ヘヴィでノイジーで尖っていて、一筋縄ではいかない。「間」をいかしたノイズのなかから響き渡るアルトの音色が美しい。次第に激しい感じに展開していく。なんかウッドベースがいるような気がするが……。ラスト5曲目はドラムソロから始まるかなり長尺の曲。これはまた凄まじい演奏で、ド迫力。山下洋輔のピアノも異常なスピード感で疾走する。めちゃくちゃかっこいい。ピアノとギターのデュオになり、一旦静寂があって、坂田明のアルトが無伴奏で出現する。ここもすばらしい。次第に高まっていくノイズのなかをアルトが幽玄に、のびやかに吹奏される。そのあとの怒涛の展開には絶句しかない。終わって、客が「ぎゃーっ!」と叫ぶのも無理はない。それぐらいすごい演奏。坂田明が全曲アルトに専念しているのも珍しい。傑作!

「DA−DA−DA」(APOLLON MUSIC BM32−2002)
AKIRA SAKATA AND HIS DA−DA−DA ORCHESTRA

 一曲目「ロッキン・イン・リズム」の冒頭で軽快なリズムでピアノトリオによるイントロが「しれっ」と出てくるこの感じがなんともいえない。この当時に坂田明がエリントンナンバーをやる、というのだからなんらかの仕掛けや意気込みや前衛性があってもおかしくないのだが、そんなものは知らないよという風に、フツーにスウィングするビートが提供される。これがめちゃくちゃいい。このフツーさに、かえって坂田明の並々ならぬ気合いを感じる。1985年録音ということなのでもう40年近くまえのアルバムなのだ。信じられーん。オーケストラという名称だが、4管編成なので、ジャズメッセンジャーズぐらいでしょうか(まあ、「ベルリン28号」の坂田オーケストラは2管ですが)。坂田さんの演奏が変化しはじめたのは81年の「テノク・サカナ」や「4オクロック」「ワハハ」などの頃からだと思うが、「4オクロック」でオーケストラによる演奏を開始し、メンバーは違うが同じコンセプトでベルリンに赴き上記ライヴ盤(これはすごかった)を作ったあと、エリントンナンバーに題材をとって発表したのが本作である。当時、びっくりしたのは、坂田さんが「普通」に吹いていることで、エリントンの曲のテーマ部分をアルトで朗々と吹いているので驚いた。音を濁らせたりしてホッジスというかサンボーンのようでもあるこの「歌」の演奏にショックを受けたひとも多いかもしれない。アナーキーな坂田はどこにいったのだ、という感じで。しかし、この演奏がのちのちにつながるのだ。ドルフィ―やコルトレーン、パーカーなどをベースにしているはずの坂田さんの「普通」の表現が、いわゆるビバップ的なものではなく、こういうオールドジャズ的な吹き方だったというのがめちゃくちゃ興味深い。そして、今や坂田明の演奏はこの路線をとんでもない高みに推し進めただけでなく(一点の迷いもなく太く、美しい音色で吹き上げるアルトはまさにホッジスを連想させる)、フリージャズミュージャンとしてのアナーキーなブロウにもますます磨きがかかり、世界をまたにかけて日夜神がかった演奏を行っているのだから頭が下がる。そして、坂田氏が「サカタ・オーケストラ・プレイズ・エリントン」ではなく「ダ・ダ・ダ・オーケストラ」として録音に臨んだ本作が全編デューク・エリントンへのトリビュートというのもうれしいですね。相棒に渋谷毅を選んだというのも最適の人選でしょう。1曲目の「ロッキン・イン・リズム」は、坂田明がエリントンをどう料理するのだろう、きっと明後日の方角からぶっ飛んだ切り口で迫ってくるのだろう……というおおかたの先入観を吹き飛ばすかのように、ノリのいい4ビートのブルースが始まり、「ええーっ!」と良い意味で裏切られた感じのままテーマのアンサンブルに突入。先発ソロは清水靖晃のテナーもしくはバスクラ(だと思うが、マウスピースを外してトランペットのように唇を振動させて吹いている)で、このアコースティックノイズな演奏がこの曲にぴったりなのだ。続く坂田のソロはアルトでノイジーだがのびやかな演奏。なるほど、こういうことなのか、とリスナーが納得したあたりで渋谷毅のピアノソロになり、フリーなリズムの演奏。そして、また軽快なテーマに戻る。しかし、「ロッキン・イン・リズム」というこの曲はウェザー・リポートにも取り上げられ、ダ・ダ・ダ・オーケストラにも取り上げられ、そのどちらも演奏者の個性を思い切り発揮したものになっているのだからすごいですよね。2曲目「ブラック・アンド・タン・ファンタジー」は松本治のトロンボーンとギターによるテーマの提示、そして坂田によるサビのあまりのエリントンぶりに感動する。ドブルースな坂田明のソロはまさにホッジスであり、とにかくびっくりするほど正攻法な演奏なのだが、本当に堂々としたもので、はじめて聞いたとき、スピーカーのまえで「うーん、そうかあ。そうなのかあ」と呟いた。続くバスクラはたぶん原田依幸で、この稀代のピアニストをクラリネット奏者としてだけ起用している、というのも大胆ではないでしょうか。そして、クラリネットの短いがすばらしいソロがあり、松本治のローレンス・ブラウンかクエンティン・ジャクソンか……というようなプランジャーのソロを経てテーマに戻る。3曲目の自作バラードは超名曲で、たとえば森山威男とのデュオ「ミトコンドリア」などにも入っているが、哀愁溢れかえる渋谷のソロピアノによるイントロから坂田のクラリネットが入ってきて、そのあとクラの無伴奏ソロになる。なんとも絶妙の展開で、この部分の凛々しい展開は感動するしかない。4曲目の「ハッピー・ゴー・ラッキー・ローカル」の冒頭もシャッフルを強調したリズムのうえで坂田のアルトがイントロをネチっこく奏でるがここは聴きものである。いやー、これぞエリントンというアレンジになっている。先発ソロはエフェクターをかけた(たぶん)原田のソロ。途中で坂田の「ひとこと」が入ったあとようやくテーマがはじまる。要するにこの曲は「ナイト・トレイン」なのだが、このテンポでの三連の感じは「ナイト・トレイン」とは別ものなのである。ギターのソロを挟んで、あくまでトレインピースであることをしっかり守る展開で、この曲ではアレンジの妙が光る。5曲目「アイランド・バージン」はサンバ風のアレンジだが、渋谷さんの愛奏曲らしく、「エッセンシャル・エリントン」でも演奏されている。坂田明の変態的なのに美しいクラリネットソロ、清水の個性的としかいいようのないテナーソロ、廣木光一のギターのバッキングも絶妙。6曲目はゴスペルのような重厚で明るい雰囲気を醸し出す「ムード・インディゴ」で、見事な音色のクラリネットソロ、間をいかしたすばらしいピアノソロ、坂田明のアルトソロが余韻を含んで嫋々と響き渡る。ラストはおなじみの「E?E!!E?」で、フリーな感じのプロローグから唐突に終わるエンディングまで、それまでとは違った坂田明の「今」の演奏で締めくくる感がある。傑作だと思います。

「COME ON!」(LAOBAN LB17)
BIG FOOT

 マレーシアのヨン・ヤンセン、坂田明、瀬尾高志、オーストラリアのダレン・ムーアという四人による即興集団。2022年の岡山におけるライヴ。もうめちゃくちゃよかった。ものすごいクオリティ。こういったアコースティックなノイズ系で全員がワーッとやるタイプの即興で、なにが「めちゃくちゃよかった」ものと「そうでもない」ものをわけるのだろうか。これはまあ、私も何十年も考えているがわからない。毎日、こういうことをやっている当人にしてみたらもっとわからないだろうと思う。しかし、稚拙さをよし、とする感じの鑑賞を除くと、「うわあー、これはすごい!」というものと「なんや、これ。しょうもなー」というものは間違いなく存在する。しかも、往々にして同じミュージシャンにおいてそういうことがある。でも、毎回毎回判でついたように同じクオリティの演奏をする(アルバムとそっくりの演奏をする)ひとたちと、毎回クオリティが乱降下するひとたちとどっちを聞きたいかといわれると、やっぱり後者なのだ。これは痩せ我慢(?)で言ってるわけではなく、マジでそうなのです。古今亭志ん生や笑福亭松鶴、セロニアス・モンクといったひとたちの最高のパフォーマンスを求めて、今日も我々はライヴへ行き、CDを買い、「あー、またか」とぼやくのだ。しかし、本当にその「最高のパフォーマンス」はあるのか、ときかれると、「ある」としか言いようがないのだ。しかし一方では米朝師匠の言う、ある一定のラインから下がることがない芸人というのは大事である、そこからどれだけうえに行くかが勝負だ、というのもうなずける。でも、その「ある一定のライン」からドーンと最低ラインまで下がってしまうひともいるわけで、泥酔した片山さんや大原さんなんかもそうだったのかも。そういうのを目にして離れていくファンもいると思うけど、それはそれでまたしょうがない。
 何が言いたいのかというと、こういう即興でよしあしとはどういうところにあるのかということだ。たとえば本作での坂田のヴォイスはいつもやってる感じのものだが、とにかくここでは炸裂していて、場を押し寄せるマグマのような凄まじいポテンシャルに呆然となる。つまり、使い古された言葉だが「一期一会」なのである。「いつものメンバー」であっても即興の場合は一期一会……もう次はないのだ。ここに収められた演奏にはまさにそんな気概が感じられる。とにかく坂田さんがアルトとクラを吹きまくっていて圧倒的だが、そこにヨン・ヤンセンのテナーが一歩も引かない感じで壁のようにブロウしていてとにかくすごい。このひとが、ギターを弾いていたのに阿部薫を聞いてサックスにいきなり転向したのがちょっとまえ……というのを聞いたときには驚いた。あー、俺もちゃんとやらんとなあ……。驚くのは、このひとの「音」で、サックスなんか手にしたその日から吹けるわけだが、しっかりした深い音を出すのはなかなか至難のわざなのだ。しかし、ヤンセンのテナーは、加工されたフリーキーな部分も含めて、そのベースにあるのはいかにもテナー的な音でちょっと感激する(「アジアン・ミュージック・レコーディングス」に入ってる演奏と比べてどうか、みたいな話にはならない。「アジアン……」の時点で正直すでに突き抜けている感じがあって感動する)何度も言うけど、ほんとにテナーらしいテナーの音で、テクニック的にもいろいろ繰り出していて、ナチュラルな坂田より多彩なフレージングだ。リードを噛む(?)ことで高音のフリーキートーンを出すというのはだれでもやることだが、それを完全にコントロールしている点もすごい。まあ才能としか言いようがない。サックスという楽器はすぐに音が鳴るといえば鳴るのだが、そんなレベルではない。一音一音の音色まで完璧にコントロールしているではないか。ここまでしっかり転向されるとひたすら感動する。本当に多種多彩な技術を得とくしていてびっくりするのだが、それをちゃんと演奏にいかしているあたりが、よほど練習したのだろうと思うと泣けます。でもそんな感傷はどうでもいいというような演奏であるのだ。  38分過ぎぐらいから坂田のヴォイスが唐突にはじまるのだが、最初は「どんぐりころころ」としてはじまるのだ。しかし……それが「花色木綿」的な泥棒の一人称に落ち込んでいく。いったいこのおっさんはなにを言っておるのか、とは当然思うし、いやいや、こういうのがフリージャズなのだ坂田の世界なのだとも思うのだが、これはひどすぎる。知らないひとに「これが歌舞伎です」と言ったら信じるのではないか。でたらめもいいところだが、このでたらめさもフリージャズの大きな側面であり、坂田明の武器なのである。それにしてもこの圧倒的、感動的なアルバムの締めくくりがコレとは……いやー参りました。私はまだまだ修行が足りん。このあたりのすべてを仕切っている瀬尾高志さんの包容力がめちゃくちゃすごい。泥棒の独白をひたすらバックアップする日オーストラリアクアラルンプールメンバーってどうよとは思うが思わずゲラゲラ笑ってしまった。
 もちろんほかのメンバーもめちゃくちゃすごくて、柔らかに場面を変えていくダレン・ムーア。しかし、その叩き出すリズムは重くて深い。瀬尾高志もピチカート、アルコで貢献してるが、正直、主役といってもいいような場面もあり、この4人でしかなしとげられなかった演奏だと思う。完全に私好みの音です。傑作! 本作は「ビッグ・フット」というユニットの作品であり、だれのリーダーバンドというわけではないのだろうが、便宜上、最初に名前が出ている坂田明の項に入れておく。

「TROST LIVE SERIES」(TROST RECORDS TLS001)
ARASHI

 坂田明、ヨハン・バートリング、ポール・ニルセンラヴというこのグループも一回きりのセッションかと思いきや「トクゾー」でもう5作目だそうである。本作はストックホルムのトロストでの2017年のライヴ音源。坂田明の太いアルトのサブトーンではじまる。次第に燃え上がっていき、高みに達する。なんのテーマもビートもない、キマリのない世界。20分にわたる自由でよりどころのない演奏。しかし、三人が見つめている方向はひとつであり、その自信はゆるぐことはない。当たり前のように寄り添い、とんでもないパワーでぶっちぎっていく。まさにゲッターロボの「三つの心がひとつになれば、ひとつの正義は百万パワー」というあの歌詞そのままである。2曲目はアルコベースではじまり、そこに坂田のクラリネットが乗る。終始ゆったりしたフリ―リズムの演奏で、13分過ぎからとうとうあのフリーデスヴォイスというか詠唱というか呪詛というか、あれがはじまってしまう。ニルセンラヴのドラムソロもクールに燃えるかっこよさ。聴き終えたあとは、本当に大嵐がすべてを薙ぎ倒し、めちゃくちゃにして過ぎ去っていったような虚脱感と爽快感が押し寄せてくる。ライヴをそのまま録音しただけの音源なのかもしれないが、聴いてみると構成もしっかりしていて、テンションもダレることなく持続しており、ここぞというところでの盛り上がりはとんでもないという、最高の状態がしっかり収録されている。録音もよく、言うことないです。傑作!

「TOKUZO」(TROST RECORDS TR248)
ARASHI WITH TAKEO MORIYAMA

 ARASHIのメンバーにゲストで森山威男が加わった名古屋得三でのライヴ。一曲目はたぶん森山抜きの激しいインプロヴィゼイションで、ニルセンラヴのクールかつ激烈なドラムと坂田の対峙が凄い。1曲目とかはもうちょっとサックスが前面に出た録音になっているともっとよかったかもだが、これでも十分迫力は伝わるし、これだけ混沌とした演奏にもかかわらず、三つの楽器それぞれの音がきっちり聞き取れる。ひたすら純粋なフリージャズ。フリージャズという言葉の使い方は難しい、と年々思うが、これはまさにストレートアヘッドなフリージャズ。2曲目はベースからはじまり、坂田のヴォイスが雰囲気を設定するが、途中から3人でのフリーフォームなぶつかり合いになって高まっていく。これもたぶん森山抜きのトリオ。終わると必ず(?)「ブラボー」と叫ぶひとがいるのが変、というか「なんで?」(もしかしたらLasse Marhaugさんでしょうか?)。3曲目は森山と坂田のデュオで「クレイ」。このひとたちは、懐かしのアレをやろうぜ、みたいな感じにならないのがいいですね。そんな音楽ではないのだ。坂田のソロ終わりでベースとニルセンラヴのドラムも(ちょっと)加わる。ベースの力強いソロのあと、ふたたび坂田のアルトが登場し、四人でのインプロヴィゼイション。めちゃくちゃかっこいい。坂田さんのアルトは、いつもいつも思うが、こういう殴り合いみたいなパワフルなフリーな演奏でもつねに瑞々しい音をキープしているのがほんとにすばらしい。4曲目はまたベースからのスタートで、ええ感じの演奏。そこにブラッシュドラムが加わり、坂田のクラリネットがめちゃくちゃ雰囲気のある低音中心のソロをする。あー、もうたまらんよね。これはカルテットによる演奏(だと思います)。全体にぐっと抑えた感がいい即興だが、途中に出てくるアルコソロ+森山ドラムというあたりがひとつのクライマックスだと思う。ええ曲や。5曲目はついに出た! 感じの「音戸の舟唄」で、坂田の民謡ボーカル〜アルトを中心にした演奏。混沌としたインプロヴィゼイションだが、ずっと民謡というか和旋律を感じるのは坂田のアルトがそういうふうに吹いているからなのだ。このあたりもすごいですね。「また、いつものアレか」とか思っているひとがいたら、ちゃんと聴くことをおすすめします。ラスト6曲目は森山〜坂田デュオではじまる「浜辺の歌」で、坂田さんがアルトできっちりメロを吹いているバックで森山さんが自由に叩きまくり、それがまたバシッと合っているのはもう感動的で、アイラーを思ったり、ああ、ジャズとかフリージャズとかいうものからも解放されているのだなあと思ったり……。アルコベースが加わり、より豊穣な演奏になるが、いやあ、森山威男はすごい、というか、この四人は全員すごいという結論に至るわけですね。傑作。

「PATINA」(INNOCENT RECORDS ICR−028)
AKIRA SAKATA & KAZUHISA UCHIHASHI

 ベルリンにおけるライヴ。変幻自在、千変万化。天才ふたり。坂田明の最近のリリースの多さは私も全然フォローできていないぐらいに凄まじいが、だいたいはフリージャズ寄りで、本作はそういうなかでもいちばん「フリージャズ」からは遠い、好き勝手な自由音楽だと思う。内橋さんはいつもの内橋さんで、とにかく場面をどんどん変えていく感じで疾走し、ディープに耽溺し、アバンギャルドに爆発するのだが、坂田さんにとってはちょっとそういうコロコロ変わる展開がいつもと違う感で、ものすごく面白いものが引き出されているように思う。坂田明の最近のアルバムは、めちゃくちゃ凄いんだけど、だいたいこういう感じ……と展開がわかるものが多いが、本作はかなり「どうなるんだろう」的なハラハラドキドキ感があって、さすがは内橋和久だと思う。このひとはどんな共演者からも、それまでにない表現を引きずり出してしまうという意味でもっとも怖い即興のデュオ相手だろう。内橋さんがつぎつぎにチェンジしていくリズムとか大袈裟にいえば世界観にデュオ相手が「のっかって」いくのはたやすいだろうが、それだとずっと内橋さんの手の上で演奏していることになり、ある意味主導権を握られて引きずり回されているような感じになる。それを、(ブロッツマンとかもそうだと思うが)どのように自己を打ち出していくかというところが聴いていて本当にエキサイトする部分であり、こういう音楽の楽しさ、すばらしさなのであります。ラストに入ってる、おなじみの「死んだ男の残したものは」はこれまでさまざまな組み合わせで演奏されている曲だが、ベルリンの聴衆がこのポエットリーディングにどういう思いを抱いたのかとても気になる。私は、内橋さんのこの曲での演奏にはめちゃくちゃ感動しました。オーケストラ、土俗な打楽器、千万人の叫び、悪夢、狂気……などが聞こえてくるすさまじい演奏。坂田がアルトを吹き始めても、そのマグマが渦を巻くようなどろどろした異形の音はとどまることを知らず、ふたりだけでここまでできるのか、と圧倒される。ジャケットなどの絵(小金沢健人)もめちゃよくて、聴いたあとで見なおすと、うーん、なるほど……と思うような、内容にもぴったりの絵です。傑作!

「ROUGHLY RANDOM」(FTARRI−946)
AKIRA SAKATA  RIE NAKAJIMA

「荒っぽいでたらめ」というタイトルだが、聴いた印象としては全然荒っぽくなく、繊細な演奏。坂田明と中島吏英による2023年のFTARRIでのライヴ。「ランダム」と名付けられた二曲の即興で合計80分もある。中島吏英はロンドン在のアーティストで、金属のボウルなどの日用雑貨と自作のモーターなどを使った即興を行うひとらしく、坂田とはかなりまえから共演歴があるらしい。電気的な増幅をしていないと思われる中島の、細かい音の数々は、たとえばエアコンなどの音にもかき消されそうな小さなもので、坂田もそこで爆音で吹くことをやめて、ひたすら小さな音での演奏を試みるこれは近年の坂田としてはかなり珍しいと思う。しかし、中島のモーターが小さい音なりの存在感を示し、聴いているものも次第にその小音量に慣れていったあたりで、そこにダイナミクスも感じ取れるようになり、盛り上がりもきっちりわかってくる。ふたりの熟練の即興演奏家による、緊張感あふれるデュオである。かっこいい。中島によって、近年にない坂田の抑えに抑えた即興が引き出され、それがひとつになって空間を溶かしていく。緊張がずっと持続するタイプの即興だが、なんとも心地よい。なんだか全体的にドン・チェリーを連想させるような素朴さのある演奏だが、ああいう力強くプリミティヴな感じというより、もっとふわふわしていて、ドン・チェリーの演奏にある「遊び」みたいなものよりももっと低年齢の子どもたちが遊んでいるようだ。これが御年78歳のときの演奏なのだから、みんなもっともっと子どもに帰らなければならんよなあ……とかわけのわからないことを思ったりした。中島の演奏は、CDで聴いているだけではなにを弾いている(吹いている? 叩いている?)のかわからないものも多く、なにを使ってるんだろうと想像しながら聴くのも面白いです。ふたりとも、ほんのちょっとクレッシェンドするだけで、すごいインパクトなわけで、坂田明など普段の最初から轟音の演奏に比べるとずいぶんとおとなしいわけだが、これが癖になる。微細な音を聴き合っての演奏は、溶けて溶けて溶けて、ひとつになり、またふたつになる。全部聴き終わっての感想は「モーターというのは案外すごい力を発揮するものなのだなあ……」でした。最後の最後(全体の62分のあたり)に坂田の平家物語(?)が炸裂するのだが、そのバックで雨だれがうがつようなトントントントン……という音をつむいでいく中島が最高というか狂気です。全体の70分ぐらい(つまりほぼ終盤)にベルとおりんの音だけになるところが本作のクライマックスかも。そのあと一旦音が途切れて、終わりか?となるのだが、そのあと短いエンディング(?)があって、消えていく。傑作!