「PALLADIUM」(BRIDGE−043)
佐藤允彦トリオ
佐藤允彦の初期のアルバムだが、昔、ジャズ喫茶でレコードで聴いていたころはもっとどきどきするような先鋭的なアルバムという印象を持っていた。しかし、CDで買って聞き返してみると、意外にもときにバップ的であり、ときにビル・エヴァンス的であり、ときにチック・コリア的でめちゃめちゃ聴きやすいではないか。曲ごとの完成度も高く、何度か聞き返したが、円熟したピアノトリオという印象だ。これがのちにいろいろとやんちゃをしまくることになる佐藤允彦のキャリアのもっとも初期のアルバムとは……。こういう、ある意味どこにも傷がない、完璧な音楽を作りあげてしまうと、そのあと一旦崩すというのは勇気がいっただろうと思う。いろいろ考えさせられた。ちなみにこういったセッティングでの富樫雅彦のドラムもすばらしい。
「PIANO DUO(偶語)」(COLUMBIA YP−7033−N)
佐藤允彦&山下洋輔
ある意味ライバルだった山下洋輔と佐藤允彦のデュオ。しかも、ライヴ。じつははじめて聴きました。というのは、管楽器が入っていない音楽は若干苦手なので……。もちろん「ヨースケ・アローン」をはじめとする山下さんのソロは大好きで(とくに「インヴテイション」)、佐藤さんのアルバムで管楽器の入っていないものも好きなのだが、ピアノデュオということで二の足を踏んでいたのだが……いやー、このアルバムを聴かずに死なないでよかった。これがライヴとはとうてい思えない緻密で疾走感にあふれた、しかも構成力抜群(それはこのふたりの顔合わせなら当然想像できることだが)の即興が延々続く。とにかくめちゃめちゃなテンションで、圧倒される。若いこのふたりの、その後、それぞれに即興〜ジャズ界を担っていくふたりの、この時でしかできなかった凄まじいデュオである。これ、もし客席で聴いてたら、あまりに情報量が多すぎ、すべてを味わうことはできなかっただろう。こうしてアルバムになって、何度も聴き直すことによってはじめて細部まで楽しむことができるのだ。山下のキャリアにおいても佐藤のキャリアにおいても、それほど言い立てられることの少ないアルバムのようにも思うが、大傑作だと私は言うぞ。完全に対等のアルバムだが、今回は便宜的に、先に名前のでている佐藤さんの項にいれておきます。
「VOYAGES」(BAJ RECORDS BJSP 0001)
JOELLELE ANDRE/SATOH MASAHIKO
ピアノとベースのデュオだが、ライナーもなんにもない。しかし内容はあまりにすばらしくて、詰め込まれている情報量が多すぎて、どんどん新しい変化が起きすぎて、それを頭のなかで解析しようとしているうちにつぎからつぎへと新展開が目の前に登場し、うぎゃーっ、と言いながら、耳は音を追っている……そんな感じのすばらしい即興である。正直、聴くまえは、ジャケットのイメージから、もっと美しい、癒し系の演奏かと思っていたら、実際は「斬りあい」だった。冒頭、異常なテンションではじまるベースの弓弾きに、ピアノがかぶっていくところなど、背筋がぞくぞくする。とにかくどの曲も、心地よいテンションが波のように押し寄せては引くようなすばらしい即興ばかりで、ボーカル(ボイス?)の入った曲も最高である。佐藤允彦って最近は歌伴とかばっかりじゃないの? などと思ってるやつらは全員これを聴くべし。聴いて、深く深く反省すべし。いやー、これは傑作だとおもうよ。最近の佐藤允彦の凄みを味わいたければ、本作か「如是我聞」を聴かねば。というか、佐藤允彦はどんな時期も凄いのだ。本作を聴いて、あらためてそう思う。こんなすごいひとを聴かないのはもったいなすぎる。ベーシストの名前が先にでているが、プロデュースが佐藤さんなので便宜上佐藤允彦の項にいれておきます。
「SELECT LIVE UNDER THE SKY ’90」(EPIC/SONY RECORDS ESCA5171)
MASAHIKO SATOH/RANDOOGA
とんでもない傑作だと思う。このときのライヴが体験できなかったことが悔やまれるが、逆にいうと、こうしてレコーディングされていて、何度も聴けるということは世界中の音楽ファンにとってすばらしい贈り物だと思う。とにかく1曲目からラストの曲まで、どこを聴いても凄い瞬間のオンパレードなので、聴き始めたら最後、ずーっと興奮しっぱなしということになる。メンバーが超豪華絢爛で、ドラムにアレックス・アクーニャ、パーカッションにナナ・ヴァスコンセロスと高田みどりというリズムセクションだけでも凄いのに、ホーンにウェイン・ショーター(!)とレイ・アンダーソン、そして峰厚介と梅津和時というえげつない面子で、最初にCDを手にしたときは、うわあ、オールスターズやんか、でも、大スターの顔見せに終わってたりして……と勝手な危惧を抱きながら聴いたような記憶があるが、大間違いでした。リズムセクションは完全に自分を出し切り、しかも、有機的に結合しあいからみ合って、佐藤允彦ミュージックの一部として機能している。管楽器も、ちょっとソロを吹きにきた、というのとは180度ちがう、このプロジェクトのために俺はぜったい必要なのだ、だから俺はここにいて、この音楽が完璧であるための一翼をにない、しかも、俺の表現を付け加えているのだ、という気概に満ちている。そして、それらを融合させ、魅力を引き出しているのが、ほかならぬ佐藤允彦のコンポジションとアレンジなわけで、とにかくすべてがうまくいった状態というのはこういうことをいうのか、とただただ呆れるばかりなのだ。日本の民謡などがモチーフとして使われているのかもしれないが、ほぼ原型をとどめないほどに換骨奪胎されており、いわゆる「和ジャズ」ではない。1曲目は15分ほどの演奏だが、この曲を聴いただけでも壮大な組曲を聴いたような気になる。イントロのあと、強烈なリズムが提示され、ギターとベースによる印象的なテーマリフに乗ってショーターのイマジネイティヴなソプラノが延々とフィーチュアされる。この部分のかっこいいことは筆舌に尽くしがたい。そこにさまざまな楽器が付け加わっていき、どんどん盛り上がる。リズムもカラフルになり、スペーシーなリフが延々繰り返され、そこにシンセやナナのヴォイスなども絡まり合い、客席すべてを飲み込むような異空間が現出する。混沌としたパワーのなかから、3拍子になったテーマリフだけが残り、アレックス・アクーニャのドラムが縦横にとどろき、ソプラノがエキゾチックなフレーズを吹きはじめると、そのソプラノのまわりに楽器がひとつずつまた付け加わっていく……。とんでもない演奏である。2曲目はナナのビリンバウ(?)かなにかのパーカッションから演奏がはじまる。一旦リズムは消え、佐藤のピアノとショーターのソプラノのフリーなバラードデュオになる。なんというか、「静寂(しじま)」を感じさせる演奏だ。そこにベースとドラム、パーカッション、ギターなども加わっていくのだが、その「音のある静寂」は保たれたままだ。音があるのに静寂、いや、音があることがかえって静寂を強めている。「静かさや岩に染みいる蝉の声」というやつだ。3曲目は、マリンバ(?)とナナのパーカッション(ヴォイスも含む)のデュオで開幕し、長い複雑なリフをマリンバと(たぶん)佐藤のキーボードがユニゾンで弾きまくるという冒頭部分が、聴くものの胸を鷲づかみにする。サックスによるテーマが奏でられるあいだも、梅津和時のアグレッシヴなアルトソロの間も、ずっとその長いリフは延々と弾き続けられており、それがこの演奏のパワーの源泉となっている(リフといっても、ペンタトニック的なスケールのなかで自由に弾いているのだが)。こういう演奏を聴くと、ペンタトニックの「力」を感じる。4曲目は、レイ・アンダーソンのトロンボーンの無伴奏ソロではじまる。これは、完全にフリーなソロで、そのあと、トロンボーンと他の全楽器の掛け合いのような形でテーマが演奏される。その形式はずっと維持され、レイがアドリブでフレーズを吹くと、ほかの管楽器がそれを真似る……というパターンで演奏は進行していく。「ミニー・ザ・ムーチャー」みたいなもんですね。そのあとはレイのアドリブ→譜面に書かれたリフの掛け合いというパートもあり、複雑な構造になっているようだ。演奏は、途中からテンポアップし、どうなるのかな……と思っていたら、唐突にぴたりと終わり、うひょーっ、かっこいいっ、という感じになる。すばらしい。5曲目はラテンっぽいリズムと、低音楽器のリフに、サックスのエキゾチックなテーマが乗る。ちょっと70年代ジャズを思わせる雰囲気もある。峰厚介のモーダルなテナーソロは、曲調にぴったりで、もう興奮の坩堝。ほんとにうまいよね、このひとは。ショーターのソプラノ、梅津のアルト、峰のテナーと、それぞれ個性の違うサックス奏者3人をフロントにすえたことで、ひとつのうねりみたいなものが生まれたのも、このアルバムの成功の一因かもしれない。ショーターのソプラノソロも爆発しており、すばらしいが、途中からちょっとマイクから遠くなっていて聴き取りにくい。しかし、バンド全体のパッションやエネルギーはいささかも減じられることはない。6曲目は、ソロ回しの曲。祭というか音頭というか、そういったリズムと曲調をもつ曲で、踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊りゃなそんそん、という歌詞がつきそうな感じである。こういうツッカツッカツッカツッカ……と跳ねるリズムは4ビートジャズでは厳禁なのだが、それを前面に押し出したというおもしろい演奏。それに乗せて、ショーターがソプラノで、これまたわけのわからないソロをする。まさにショーター節で、佐藤允彦とウェイン・ショーターという、異質と思えるような顔合わせが、かなりの深度でがっちりと強いコラボをしたという意味で、本作は歴史的にも高く評価されるべきだと思う。つづく梅津さんのソロもまさに梅津節爆発。そして、そのあとの峰さんのテナーソロも日本風の節回しなのにハードボイルドで、コルトレーンが盆踊りでフィーチュアされたらこんな風に吹くかも、と思わせるほどのめちゃかっこいいソロ。ビリー・ハーパーのソーラン節はどうしてああなってしまったのかなあ。レイ・アンダーソンも絶対に自分を曲げないというか、フリーなソロに徹しているのだが、それがときどき、ジャッカジャッカジャッカジャッカ……という盆踊りとマッチしてしまうおもしろさ。笑ってしまいます。ソロとソロの合間には別のリフが挟まれる、というか一回ずつちがったパートになっていて、後述する「モチーフをそのときそのとき自由に選ぶ」みたいなやり方が成功しているのだと思う。ドラムとパーカッションがフィーチュアされたあと、佐藤さんのシンセがまるで祭りの笛のようなメロディを弾きはじめると、もう完全に「日本の夏、ああ金鳥」みたいな気分になる。めちゃめちゃおもろいやん。ラストの7曲目は、バラードで、ショーターのソプラノがフィーチュアされるが、そこにほかの管楽器も加わっていき、しまいには全員による演奏となる。しかし、最後までスカスカな演奏で、まるでワンホーンのままのような、いい空間が維持されたまま進行していく。これが(後述の)互いの音を聴き合って、距離感を保つということなのかもしれない。
なお、ランドゥーガというのは「がらん堂」(昔、佐藤さんが率いていたバンド名)をひっくり返したもので、バンドではなく、ひとつのプロジェクトである。ネットから引用すると、世界中の曲からメロディラインを佐藤允彦がセレクトし、それをヒントに構成、メロディーをつくり譜面をおこす。譜面はバラバラで、ひとつひとつには短いモチーフが書かれている。その譜面から、演奏するものをメンバーが自由にチョイスする。合わなくても合ってもいい。ずれることが面白い。演奏者の中に誰も中心になる人はいない。全員が主役である。共演者の演奏を注意深く聴き、演奏する……というようなことがネット上に書かれていた。そういう一種のコブラというかブッチ・モリス・コンダクションというか、ゲームミュージック的な側面があるらしいランドゥーガだが、少なくともこのアルバムに関しては、実験的な側面はうかがえず、ひたすらかっこよく、心地よく、洗練されたクールな視線が終始保たれたある意味理想の音楽のように思える。すばらしい。もう、すばらしいの言葉しか出てこない。
「SPRING SNOW」(PNL RECORDS PNL023)
MASAHIKO SATOH/PAAL NILSSEN−LOVE
2013年のピットインでのデュオライヴ。1曲目は、冒頭から飛ばしまくり、膨大なエネルギーを費やしてドラムをひたすら叩きまくる鬼神のようなニルセンラヴに対して、佐藤允彦が鋭く突っ込んでいくような感じの鬼気迫る演奏。いやー、これは凄いわ。ニルセンラヴはパワー全開だが、その場をリードし、場面を転換していくのは佐藤であるような印象。なにしろ、ピアノは必要最小限の音数で演奏したり、弾きまくったりと自在な変化を見せるのだが、ドラムは常に全力で音数多く叩きまくっており、これはいったいどうなるのかとはらはらするようなテンションだ。このときのライヴを体験したひとから、凄かったということは聞いていたのだが、こんなにえげつないとは思わなかった。20分を超えたあたりからピアノのソロになり、ここは佐藤さんの世界。そしてふたたびニルセンラヴが入ってくると、一転して静かな世界観でのデュオになる。ここもすばらしい。ニルセンラヴの驚異的なブラッシュワークに興奮しないひとはいないだろう。絶妙としかいいようがない。速すぎて目にもとまらないが、しかも信じがたいほど正確である。この演奏が録音されてこうして大勢の耳に届くというのは奇跡だ。個人的には、今年のベスト候補だと思う。いや、ジャズ史の本に載ってもいいぐらい。これが70年代の録音だったら、ぜったいその手の本に名盤として掲載されていると思うが、これは2014年発売のアルバムなのでそういう本には載らない。しかし、だれの耳にも届かずにスルーされるようなことはあってはならないと思う。そしてまたピアノソロになるが、ピアノの鍵盤を猛スピードではい回る佐藤さんの「間」が凄すぎて口がだらりと開く。そしてニルセンラヴのドラムソロになるが、ここまでフルマラソンを走るぐらいの激演だったにもかかわらず、イマジネイティヴで圧倒的な演奏だ。どれだけ体力あるねん。そのあとまた大音量のデュオになり、終末の予感が高まっていって、ぐわしゃん! と終わる。2曲目は、曲調が変わって、協調によるスペーシーな演奏。佐藤さんのソロの部分は遊び心に満ちた不思議な世界がコロコロと転がっていく。おもしろいなー。デュオも、ぴったりとした二重螺旋のようにからみあい、そのまま聴いているものをどこかに連れて行ってしまう。あー、心地よかったなあ。傑作だと思います。みんなに教えなくては。
「如是我聞」(OHRAI RECORDS JMCK−1030)
佐藤允彦
(CDライナーより)
私がはじめて佐藤允彦というピアニストの凄さを知ったのは、二十年以上もまえのことだ。高校生だった私は、富樫雅彦の「スピリチュアル・ネイチャー」というアルバムを中古屋で購入した。ライナーノートを読むと、ある曲の解説として、「この曲での佐藤允彦のピアノは『水』を表現したものだ」という意味のことが書かれていた。そんなことできるわけがない、と思いながらさっそく聴いてみると、その部分で聴かれるピアノは「水」以外の何ものでもなく、衝撃を受けた私はその曲ばかり何度も何度も聴いた。音符の連なりにすぎないはずのものが、まるで次元の異なった世界をそこに造りだしてしまう。本当にショックで、繰り返し聴いているうちに私は怖くなってきた。なぜなら、その作業には、テクニックに加えて、溢れんばかりの想像力と創造性が必要であることが、高校生だった私にも理解できたからだ。今から、その怖い人のアルバムについて文章を書かねばならない。
正直、このアルバム「如是我聞」は私の手に負えないほどの深さがあり、「こうなんです」と言い切るのは無理だ。今から書くことは、単に私がこう思った、という一個人の感想にすぎない。「如是我聞」……我は是(ルビ・かく)の如く聞けり、という言葉はまさに、今の私の心境である。しかし、だとすると、百人のリスナーがいれば百人の受け取りようがあることになる。それでいいのだろうか……?
いいのだ。「如是我聞」というタイトルが、そのことを肯定してくれている。
本作「如是我聞」で佐藤允彦は、「自然」との共演を試みている。こう書くと、いわゆる環境音楽みたいなものか、と誤解を招くかもしれない。冒頭、いきなり流れ出す鳥たちの声を聴くと、そう思うのも無理はないが、佐藤が共演者として選んだのは、鳥の声だけでなく、蝉の声、読経の声、木でなにかを叩く音、足音、木魚の音、銅鑼の音、その他「これこれだ」と言いにくい、なんだかわからない音の数々……。これは私の勝手な想像だが、山中にある寺の本堂で座禅を組んでいるとき、雑念を退けて無念無想の境地になろうとはするものの、実際にはさまざまな音が耳から入ってくるだろう。それは、鳥たちの鳴き交わす声であったり、全山を揺るがす蝉の叫びであったり、川のせせらぎであったり、木々の枝を揺らす風の声だったり、どうどうと落ちる滝の音であったり、誰かが砂利を踏みしめて近付いてくる足音であったり、別室から漏れ聞こえる何人もの僧侶が経を読む声であったり、肩を発止と叩く警策の音であったり、あるいは自らの内面から発せられる、外には聞こえない叫びであったりするはずだ。それらの雑音を乗り越え、または内部に取り込み、一つとなって、ついにはなにも聞こえない「無」の境地に到達する過程がここに描かれているのではないか……そんな妄想が浮かんでやまなかった。それはおそらく、「如是我聞」……私はそう聞いた、というだけにすぎないけれど。
自然との「共演」と書いたが、ピアノがいくら挑発しても、または、すり寄っても、「自然」のほうは変化してくれない。それは、大自然というものがあまりに泰然自若としていて、微細な動きは目に見えないからだ。桂枝雀が「雨乞い源兵衛」のマクラでよく使っていた「進化論」というネタがある。人間がお天気を予報することなどできない。向こうのほうがずっと上手なのだ。生命が海の中で発生し、最初は単細胞生物だったものが、クラゲのようになり、魚類が生まれ、両生類になり、やっと陸へ上がることを覚え、爬虫類となり、哺乳類、その中の猿の一群から直立するものがあらわれ……ようやく人間が誕生した。その間、何十億年。しかし、その間、お天気のほうはずっとお天気なのだから、きのう今日生まれた人間が当てられなくても当然だ、というネタだが、このお天気を「自然」に言い換えるならば、人間ごときが何らかのアプローチしても悠久不変の大自然が反応するはずもない、といえるだろう。このアルバムで佐藤允彦は、自然相手に小手先のインタープレイを挑んでいるのではなく、「自然のふところに抱かれる」という言葉があるが、まさにそんな感じで、まわりにちりばめた無為の音に対して、そのなかに「すっ」と入り込んでいる。そうしてできあがったのが、この曼荼羅のような音絵巻なのではないだろうか……。これもまた「如是我聞」。
私は、この文章を書くために、視聴盤をいろいろな場所で聴いたが、谷底にある小さな公園のベンチに座ってじっと聴いていたとき、周囲から吹き込んでくる風の音を、CDに入っている音だと錯覚していたことに気づき、思わずひとりで笑ってしまった。そしてふと周りを見渡すと、お腹に携帯を乗せて仮眠している青年、隣のベンチのうえを行きつ戻りつしているハト、車が走り去る音、ここからは見えないところで携帯電話をかけている女の声……それらすべてが本作の音と融合しているではないか。
今度、私はこのアルバムを持って草原に行くつもりである。草のうえに寝転がって、一曲目からたっぷりと音を浴びよう。それが次の仕事への活力になるはずだ。
「LIVE AT MOERS TRIBUTE TO TOGASHI MASAHIKO」(BAJ RECORDS BJCD0026)
SATOH MASAHIKO & SAIFA
死ぬほどかっこいいです。富樫雅彦はこのライヴ時点ではまだ健在だったが、長い旅には耐えられない健康状態であった。そこで、メールスニュージャズフェスティバルの呼びかけに応じて、盟友佐藤允彦がリーダーとなり、富樫の作曲した曲を演奏するプロジェクトを開催することになったらしい。アルバム作成に携わった関係者には、早々たる顔ぶれが並んでいる。もちろん本作は、富樫の作曲した曲を演奏する、というだけのバンドではない。富樫がその曲に注入した精神的なものを再現し、そこになにかを付け加えようという試みである。最初に、富樫をメールスに招聘しようとして果たせなかったプロデューサー、ブーカルト・ヘネンによる2分に及ぶMC(ヘネン氏が富樫をメールスに招聘しようといかに努力したか、ということとともに、このひとのフリージャズに対する熱い思いが伝わってきて感動するしかない。我々はこういう人たちの努力によって音楽を享受しているのだ)によってはじまる本作は、フリージャズの精鋭を集めたようなランドゥーガなどとは微妙に違い、「ジャズ」ミュージシャンがメンバーに多い。たとえばサックスは多田誠司、峰厚介、山口真文の三人である。しかし、彼らは富樫雅彦の曲をもとにして、佐藤允彦のアレンジ、指揮のもとにフリーミュージックを演奏する。そこがめちゃくちゃ面白いのであります。フリーミュージックをやり慣れたひとたちではなく、この人選にした、というところが、もう佐藤マジックなのだと思う。そして、その結果はかくのごとくすばらしいのだ。確信犯という言葉が頭に浮かんだ。
1曲目は3本のサックスがややずれた感じでルバートの海のなかを進行していくような曲(佐藤允彦は「にじみ効果」と呼んでいる)で、いきなりクライマックスに達する感じがある。そのあと一転して超アップテンポの4ビートジャズになり、ピアノが爆発しまくり、ホーンが吠える。多田のアルトはどんなにフリーキーに吹こうがつややかな音色をキープしたすばらしい演奏で感涙。最後にルバートのテーマに戻ったとき、ああ、これがメールスの天地に響いたのかと思うとほんまに感動でした。
2曲目は岡部洋一(!)のパーカッションがいきなりフィーチュアされる。ピアノとのからみがあって、変態的な今ポジションがぶちかまされたあとも岡部のパーカッションがメールスの空に鳴り響く。そのあと田村夏樹のトランペット(なんと生々しいのだろう)、テナーソロ(峰厚介?)のあとの展開もいつもの佐藤さんのトリオでは? と思うような自由奔放な感じ。
3曲目は富樫さんがスペインに旅したときに書いた曲で、もとはインテンポだったそうだが、ここではルバートに演奏されている。こうして聴くとゴスペルっぽい雰囲気もありますね。4曲目のテーマの変態的な雰囲気は筆舌に尽くしがたい。超かっこいい。こういうのが好きなんっすよねー。「間」をたっぷりとったテーマはめちゃかっこいい。山口真文のソプラノががっつりフィーチュアされて圧巻である。途中から田村夏樹のプランジャーソロ(+佐藤)がはじまり、この「人間的」というか、生々しさをぶつけるような演奏はすばらしい。ラスト5曲目はピアノの無伴奏ソロのイントロ〜ドラムソロから祝祭日的なテーマがはじまるが、そこから超アップテンポになり、多田誠司のアルトソロになる。そのあと、パーカッション〜トランペット〜サックスによるトリオになり、全員が雪崩れ込んでのアップテンポでのインプロヴィゼイションになる。かっこええ! 松本治のトロンボーンとソプラノサックスがフィーチュアされ、そのパワーを持続したままパーカッションとドラムのドラマチックなソロになる。リフがそれをどんどん盛り上げていき、おそらく佐藤允彦の即興的な指揮によってオーケストラが振り回され、何段階も上昇しているのだろう。最後は遊園地の回転木馬のようなラプソディックなテーマに戻る。まさに富樫雅彦の音楽である。傑作としか言いようがない作品です。
「LIVE AT CAFE OTO」(BBE MUSIC BBE737JCCD)
MASAHIKO SATOH & TAKEO MORIYAMA FEAT.LEON BRICHARD & IDRIS RAHMAN
これはまたなんとすばらしい音源なのだろう。おなじみのカフェ・オトでの佐藤允彦と森山威男のデュオにテナーとベースが加わったアルバム。この項を書いている今が2024年でこのアルバムのライヴ録音が5年まえなので、佐藤が78歳、森山が74歳のときの演奏である。年齢とか関係ないなあ、と思う。1曲目と2曲目は佐藤〜森山のデュオで、これがもうめちゃくちゃ凄いのである。生き生きとしているし、みずみずしいし、攻めまくっているし、もうバリバリのフリーで、自由奔放そのもののこのふたりが好き放題に弾きまくり叩きまくったこの2曲を聴いているかぎりでは、もう全編デュオでよかったんじゃないの、と思ったりしたが、3〜6曲目はカルテット編成であり、正直、私はふたりとも名前を知らなかった。3曲目が「イースト・プランツ」だったのも驚いたが、ここからぐっとフリーというよりは森山4的な音楽性になる。4曲目が「ワタラセ」というのもびっくりした。佐藤允彦が弾く「イースト・プランツ」と「ワタラセ」……ぜったい聴きたいよ、それは。とにかく堂々たる演奏である。佐藤允彦は、それがだれの曲であろうが全編「佐藤印」を刻印していくようなオリジナリティあふれるソロでありバッキングである。テナーとベースもがんばっていて好感度大。とくにテナーはいいですね。朗々としたモーダルなプレイはかっこいい。安定した高音部のロングトーンもほんとに好ましい。しかし、そのあと佐藤のソロがはじまると、あー、これだこれだこれですよ、となってしまうのは仕方がない。壮大な、というか、スケールがものすごく広いソロなのであります。もう一度書くが、年齢とか関係ないですね。そして森山威男のドラムソロもグサグサ突き刺さってくる、昔の名前で出ています、とか、そういう感じは一切ない、ひたすらすげーっと思う演奏で、このカルテットがもうちょっとレギュラー活動をしてくれたらいろいろ聴けるのにと思ったりしました。5曲目はベースのレオン・ブリチャードとテナーのアイドリス・ラーマンの曲で和旋律といってもいいスケールに基づいた曲。すごくいいと思う。ベースのオスティナートにテナーがモーダルなソロを繰り広げるがそこに加わる佐藤の鮮烈なソロは見事としかいいようがないし(あんた、何歳やねん! と言いたくなる。二十歳ぐらいの感性を感じる)、森山のブラッシュも素晴らしい。テナーソロもひたすらかっこいいし、それを盛り立てるピアノもすごい。ラストが「キアズマ」で、これはモードジャズというより思いっきりフリーなので、どうなるんでしょうかと思っていたら、テナーもがんばっているし、こんな山下トリオマターの曲で佐藤さんが個性丸出しで弾きまくっているというこの感動をどう表せばよいのか、というぐらい感情のコントロールができない。よくもまあ、この演奏をリリースしてくれと思う。感謝しかない。選曲も含めてマジで最高じゃないですか? 佐藤、森山どちらがリーダーでもないと思うが、先に名前の出ている佐藤允彦の項に入れた。
「KAM・NABI」(NIPPON CROWN CRCJ−9107)
佐藤允彦 ランドゥーガ
本作はたいへんな傑作で、何度聴いても新しい発見があり、民族音楽をここまで咀嚼して自己の表現としたバンドはないのではないかと思う。ランドゥーガは日本の、というか世界のジャズシーンにおいて足跡を残したグレイトなバンドだと思うが、今(2024年)での評価はどんなものだろうか。私としては「めちゃくちゃすげー」と思っているのだが。1曲目は3拍子の柔らかい曲調だが、いちど聴いたら忘れられない牧歌的なメロディと力強い太鼓が印象的。梅津のバスクラ、峰厚介のソプラノ、土岐のアルトがそれぞれに断片的なメロディをつむぎ、それがひとつの流れになる。東南アジアの田舎……みたいなイメージが勝手に浮かぶ。日本的に感じる部分もある。この一曲を聞くだけで、このアルバムが名作だとわかってしまう。2曲目は木津茂理のボーカルをフィーチュアした曲で、作詞は佐藤允彦である。神前で奏でられる雅楽を連想させるような、深く、神秘的で、しかも土俗的な力強さも感じられる演奏。私はそういうことはまるで知らないのだが、神楽とか田楽的なもの、つまり、いろいろな意味のことほぎの曲のように感じる。これが佐藤允彦の手になる新曲というのは驚きである。ちょっと完璧すぎて声も出ない完成度である。3曲目はライナー(めちゃくちゃしっかり書かれており、情報量も豊富で、必読である)によるとインドのキッシム地方のメロディを借りたものらしいが、筝の内藤洋子がフィーチュアされていて、筝の伝播の過程を音楽的に表現したものらしい。マリンバと筝とパーカッション(佐藤允彦によるもの)による三人の表現である。淡々としているようで、合わせる部分はバチバチ合わせていて、超かっこいい。4曲目は韓国の伝統音楽シナウィというのをベースにしたものらしい。いや、サムルノリとかしか知らない私には未知の世界だが、祝祭日のようにはじまるこのリズムは変拍子のようだがじつは4拍子である。梅津の強烈なブロウが遠くで聴こえ、ほかのサックスやリズム楽器群も遠くで鳴っている。だれがソロというのでもなく、それらが溶け合ってひとつの大きな奔流となる。韓国の農村の祝祭日的なものを勝手に思い浮かべてしまうが、全然関係ないのかもしれない。サムルノリにしろこのシナウィ(リズムだけ決まっていてあとは即興するような音楽らしい)にしろ、日本の雅楽とはちがってかなりリズムを重視している音楽だということはわかる。5曲目は内藤洋子の筝をフィーチュアした演奏で、バラード的な曲調。ちょっと触っただけでもほろほろと崩れてしまうようなもろい演奏のようだが、案外力強く、そのぐらいでもほどけないのかもしれない。いちばん無国籍というか「ジャズ」を感じた演奏。でも、インタープレイというより、全員がちょっとずつ出し合って、ひとつのものを作る感じ? 6曲目は、ライナーによるとイヌイットが動物の声を真似るようなイメージで作られた曲らしいが、3人のサックスがハレーションのように音をぶつけ合い、輝き合う演奏。どこまで書かれていて、どこからが即興なのかはよくわからないが、この一種の遊戯的演奏に「鳥羽絵もどき」というタイトルがついているのもなかなか意味深である。即興的なサックスアンサンブルとしとても楽しい。7曲目はトゥバのホーメイ(ライナーにはホーミーとあるが、ホーミーはモンゴルのものなのでちょっと違うかもしれません)をヒントにした曲と書かれている。口琴のソロではじまり、荘厳で壮大な東洋的な響きをもった演奏で、本作の白眉といっていいのでは。サックスが民族楽器のように響き渡り、口琴とのコールアンドレスポンスが古い時代の神聖な音楽儀式を呼び覚ます。8曲目は7拍子の曲なのだが、非常にジャズ的である。テーマが終わるとパーカッションたちの競演になり、ここは4拍子で正確無比かつ「踊り」というものの根源を言い当てているような盛り上がりがあって感動的である。また7拍子のテーマに戻ると、とてつもないエネルギーが下りてきていて「カムナビ」というアルバムタイトルの意味を感じたりする。ラストの9曲目はマリンバが中心の演奏。佐藤のピアノとともにアブストラクトな音をつむいでいく様は、縄文時代に石器で奏でられていたであろう古代音楽を連想したりする。 全体として、あまり「ソロ」というものを重視していない、というか、神聖化していない演奏だと思った。とにかく「全体」なのだ。ジャズとか聴いていると、どうしても伴奏とソロという聞き方になるが、たまにこういう演奏を聴くと、頭をぶっ飛ばされたような気持ちになる。個は全体に溶け込み、全体は個に没入する。すばらしいです。今こそ聴かれるべき音楽だと思います。傑作。