「DUO」(OFFNOTE ON−11)
篠田昌巳 西村卓也
一枚3000円もするんですよねー。高いよねー。と思って、ずっと買わずにいたのだが、とうとう買ってしまった。篠田さんはアルトサックスオンリーで、ベースとのデュオである。群馬の前橋にある百貨店のまえで、開店記念イベントとして演奏されたものを録音した……ということは知っていたのだが、個人的にはもっと、路上でのざわざわ感があるような、音の悪い、大雑把でやや大味な、まあライヴ感と歴史的価値が取り柄、みたいなものかなあ、と思っていたのだが、いやーーーーーーーー180度裏切られました。もう、めちゃめちゃよかった。びっくりした。というか、申し訳ない、と思った。なんやねんこれ、音、めちゃめちゃええやん。しかも、演奏も細かいところにまで気が行き届いてていて、まるでスタジオ。そうかあ、プロというのは、こんな営業というか路上ライヴでも、きっちりここまで吹くんだなあ、と土下座したい気分。どの曲も、デュオとは思えないほど広がりがあって(メロディーの力というのは大きいなあ)、力強くて、正直、私が生で聴いたときの篠田昌巳さんはこんな芯のある、いい音ではなかったような記憶があったが、とんでもなかった。すごいええ音してはります。オリジナル曲も、既存の曲の選曲もよくて、路上での営業的ライヴとはほんと、まったく思えません。こんなすごい音楽が日本のあちこちの路上で行われているとしたら、日本の音楽シーンのレベルはめちゃめちゃ高いはずだが、テレビや有線から聞こえてくる音楽はどれもこれもこれまたびっくりするぐらいしょうもないものが多いのは、不思議でしかたがない。3000円……安いです。
「TOKYO CHIN DON VOL.1」(PUFF UP LABELS PUFF−107)
篠田昌己
こんなすばらしい音世界を知らなかったというのは、ほとんど犯罪だった。チンドンというのはほんとにすばらしい。二枚組だが、しばらくのあいだ、毎夜、一枚ずつ聴いていた。じつは、うちの近所の河原で年に一回、こども会みたいなものが主催するイベントがあって、そこにチンドン屋が来るのだが、これがほんものではなく、どこかの劇団がアルバイトでやっているチンドン屋で、楽器は太鼓類だけ。メロディもなにもかも、ぶらさげた大型ラジカセから流れていて、みんなでチンドン屋のかっこうをして、テープにあわせて打楽器を叩くだけなのだ。まあ、チンドン屋という商売がなかなか成り立たない世の中だからしかたないのかもしれないが、こういう「真似」を見せて「これがチンドン屋ですよ」というのはこどもに対してまちがった知識を与えるのではないか、と思う。イベントの賑やかしなんだからいいじゃないか、という意見もあろうが、やはり「音楽」なのだから、守るべきところは守ってほしい。さて、チンドンの音楽の特徴は、私が聴くかぎりでは、「強烈なリズム」と「メロディの反復」にあると思う。勝手な思いこみで、立ったまま、歩きながら演奏されるわけだから、私はもっと、リズムはヨレヨレなんじゃないかな、と思っていたが、とーんでもない。最初っから最後まで激烈といってもいいビートが刻みつづけられる。これはもうめちゃめちゃ快感で、このリズムさえあったら一晩中でも踊れるのではないか、そんな風に思えるような、完璧にプロフェッショナルなリズムが延々と提供される。これはたぶん、かなりしんどいことだろうと思うが、それを一日中やりつづけるのがチンドンなのだ。そして、サックスやクラリネットによるメロディーのしつこいまでの繰り返しは、コルトレーンの「マイ・フェイヴァリット・シングス」じゃないけれど、一種の呪術的空間を作り出す。そんなたいそうなもんか? と言うひともいるかもしれないが、聴いてみてって。ぜったいそうやって。朗々と歌い上げるサックスのメロディは、ベースもギターも鍵盤楽器もない、という、管楽器にとっては苛酷な状況にもかかわらず、まるでそんなことを感じさせないぐらい自然に、まるでベースがいるかのようなハーモニーを聴き手に伝える。そうなのだ。メロディというのはこうやって反復すると、そのなかにハーモニーもリズムもしっかりと内包していることがよくわかる。多くの民族音楽や民俗音楽はそうですよね? チンドンは強烈なリズムと強烈なメロディの反復だけで一切合切を聴き手に伝えるという驚くべき音楽だった。あー、このリズムとメロディの邂逅はもうめちゃめちゃかっこよくて、めちゃめちゃ気持ちいいではないか。ライナーによると、東京通信社のやりかたはチンドンとしては音楽的に主流ではないようなことを書いてあるが、私としてはよそと比べようがないので、ここに収められている音源がとにもかくにも気持ちよすぎることしかわからない。ブックレットも強力で、チンドンを日本の文化としてきちんと評価し、後世に伝えよう、という意識をはっきり感じとれるアルバム作りになっていて、その情熱には頭が下がりまくる。篠田昌巳……ええ仕事しましたなあ。
「コンポステラ」(PUFF UP LABELS PUFF−101)
篠田昌巳
いろんな意味で篠田さんの残した音楽というのは敷居が高くなってしまっているかもしれないが、このアルバムなどを聴くと、いやいやそういう空気がいちばんいかん。あとでいろいろと考えたり付け加えたり解釈したりするのは自由だが、まずは、ただただ聴いて楽しめ、と思う。本作はコンポステラというグループではなく、篠田昌巳名義で作られた「コンポステラ」というタイトルのアルバムであり、ここからコンポステラというグループ(篠田、中尾、関島のトリオ)が発生したのだと思う(リアルな音楽史的にはよく知らないけど)。このアルバム、めちゃめちゃ好きなのです。昔むかし、ダビングしてもらったカセットテープを大事に聴いていたのだが、伸びてしまったので、泣く泣く処分したのだ。こうしてCDでだれでも聴けるようになってまずはめでたいが、だれでも聴けるということと誰もが聴くということはイコールではない。とにかく、みんなに聴いてもらわんとはじまらん。いやー、すばらしすぎるやろ。音楽というのは個人の好みだが、この音楽を少なくとも「大嫌い」というひとは世界中に存在しないのではないか、とすら思う。聴いたら好きになるはずだ、と私はわけのわからない確信を持っている。リズムは強烈だし、アドリブもハーモニーもすばらしいと思うが、篠田さんがここで言いたかったことは、「メロディーのなかに、リズムもハーモニーも音色もダイナミクスも起承転結もなにもかもある」ということではないか……とこれは、きっとまちがっているだろうと思うけど、あえて言う。勝手な解釈すぎて申しわけないのだが、そう思う。勝手な解釈ついでにもう少し言うと、篠田さんはチンドンでそういうことを発見したのだと思う。私はいつも、コンポステラを聴いていて、自分の小説と似たところを感じるのです。それは、私の小説観というのは「よいストーリーのなかには、アイデアもプロットもサプライズも人間観察も歴史観もキャラクターも人生もそれこそあらゆるものがふくまれる」ということです。ストーリーのない小説というのもあって、それも読むのは大好きだが、自分が書き手に回った場合、ストーリーにそういうものを託してしまう。おまえ、なにゆうとんねん、それとこの音楽となんの関係があるねん、と言われるかもしれないが、そう思うのです。このアルバムに詰め込まれている音楽は、世界中のさまざまな音楽の要素を含んでいるが、かなりベーシックなところにチンドンがあり、つまりは日本の「和」の音楽がどーんとあることはまちがいない。しかし、そこに西洋音楽やジャズやロックや各種民族音楽やなんやらかんやらが自然な形で乗っかっていて、なんの違和感もない、というのは、篠田さんのなかに、これとこれとをくっつけて、こういう風にすればこういう風に聞こえるか、というようなあざとい気持ちがなかったからではないでしょうか。ソプラノ、アルト、テナー、バリトン、フルート、クラリネット……どの楽器にも秀でていて、作編曲もすばらしく、世界中の「省みられないええ曲」を見いだすことにも長け、なによりも「音楽を見る目」「音楽に接する姿勢」「音楽を俯瞰する立ち位置」が異常に際立っていた篠田さん……選曲だけでなにかを表現する、というのは今では多く用いられていることだと思うが、篠田さんを嚆矢とするのではないか。そこにこめられたメッセージは痛烈で、皮肉で、ねじれていて、いやいや、そんな見方をしなくてもいい、逆に直球勝負、ストレートアヘッドでもある。これ以上になにかを付け加えることも削除することもない。我々は残された音源をこうしてくり返し聴くことができる。楽しむことができる。感動し、泣いたり笑ったりすることができる。なんとシアワセなことではないか。篠田さんの強烈な存在感がこのアルバムの中央で光り輝いている。それはたぶん今後も永遠に輝きつづけるだろう。
「1の知らせ」(PUFF UP LABELS PUFF−104)
COMPOSTELA
コンポステラの音楽は、とにかく「選曲」だけで音楽界を変えたといっても過言ではないと思う。もちろんそれに「解釈」(つまり広い意味のアレンジ)も加わってのことだが、こういう曲を選んで、こういう編成で、こういう風に演奏する、という部分にそれまでの音楽(あえてジャズという言葉は使わん)にはなかった強い意志が感じられるのだ。そしてその部分が、すべてをひっくりかえし、後進に道を示し、絶大な影響を与えたのだ。ときにチンドン的であったり、民族音楽的であったり、ジャズ的であったり、フリージャズ的であったり、もっと古いデキシーとかスウィング的であったり、室内楽的であったり、日本の民謡的であったり、クラシック的であったり……世界中のいろいろな音楽の要素を感じるが、ぶちまけられたおもちゃ箱のように一個一個の曲がちがった表情をを示すと同時に、それらがひとつの「コンポステラ」という長い串で貫かれているような統一感も伝わってくる。だまされたと思って(思わなくてもいいけど)、先入観なくとりあえず聴いてみてください。楽しいから。
「歩く人」(OFF NOTE ON−4)
COMPOSTERA
名盤「1の知らせ」を出したコンポステラのライヴ盤。ソウルを含め、5カ所での演奏が収められているが、いやー、よくこのアルバムを出してくれました。感想は、「1の知らせ」や「コンポステラ」などと重なるので詳細は省くが、とにかく一期一会のすばらしい演奏が詰まっていて、1曲1曲を垂涎の気持ちでなめるように聴くしかない。どの曲も、選曲、アレンジ、即興……すべてがよくて、バランスもとれいていて、しかもシンプルで、ああ、快感としか言いようがない。凄い技術力と、ヘタウマと、そのふたつがどちらもブレることなく同時に存在する世界。チンドン、世界の民族音楽、ポップス、鼻唄、ジャズ、ロック、演歌、ブルース……すべてが平等にここにある。小編成でチューバをこれだけ前面に出した、はじめてのバンドではないでしょうか。いろんなゲストが入り、いろんな楽器を演奏しているが、篠田さんはなんとずーっとアルト一本で通している。そして、門外漢の私がどうしても言いたいのは、この音楽が「楽しい」ことで、額に青筋立てて聴くようなものではない。とにかくキャッチーで、踊れて、楽しくて、笑えて……そして前衛なのだ。伝統の極みが前衛……そういうことがなんとなくわかるアルバム。私ごときがどーたらこーたらというのも無意味なので、とにかく聴いてくれればわかるって。傑作、傑作、ほんま傑作。