「一期一会」(OFF NOTE ON−15)
小山彰太トリオ
小山彰太の初リーダーアルバム。山下トリオでの輝かしいキャリアを考えると遅すぎる感がある。私がかつて生で聴いた坂田明や武田和命を擁した山下グループでの圧倒的な演奏は、いまでも耳の底にこびりついている。しかし正直言って、近年、小山さんのライブを聴きにいくと、どうもいまひとつあの頃のような手応えがないので、もう歳かなあと首をひねっていたのだが、あるとき千葉の某店で2テナーとドラムという変則トリオでの小山さんを聴く機会があり、そのときは、例のスネアひとつで繰り広げる蟻地獄のようなソロも含めて、あの頃の小山彰太がよみがえったとしか思えないすさまじい演奏で、失礼な言い方だが「うーん、やればできるのかっ」と叫んでしまった。以来、機会があるたびにライブに足をまた運ぶようになったが、その結果わかったことは、共演者によってこの人のドラミングにはかなりの差があるということだ。凡百のミュージシャン相手なら、ごくふつうの4ビートを提供するが、相手が凄腕だと燃えるのである。これは音楽のバランスということを考えてみればあたりまえのことであって、ドラムだけが突出してどかどか鳴っている演奏は、音楽とはいえない。しかし、聴く側も共演者が誰であるか注意を払わなければならないわけで、その意味で、この初リーダーアルバムは理想的な人選である。とくに、テナーの竹内直は、一聴しただけで彼だとわかる音色の持ち主で、リーダーアルバムもよいが、ここでもすばらしい演奏を展開している。バスクラとフルートもすばらしく、1枚聴き通しても飽きない。傑作である。
「音三昧T」(おーらいレコード SICH−1007)
小山彰太デュオ集
上記「一期一会」よりもさらにすばらしいのがこの「音三昧」で、とくにTのほうは、おーらいレコードのカタログのなかでも白眉といっていいほどの傑作である。まず、1曲目の坂田明とのデュオでぶっ飛ぶ。モンゴルの民謡が元になっているようだが、朗々としたアルトの鳴りとヒステリックなフレーズが交錯し、さいごには渾然となって爆発する。何度も聞き直したくなるほど、めちゃめちゃいい。2曲目の山下洋輔とのデュオもがっぷり四つで、聴き応え十分。上記アルバムよりも、こちらのほうが「一期一会」というにふさわしいかもしれない。日本のフリージャズの金字塔だと思う、最高のアルバムである。
「音三昧U」(おーらいレコード SICH−1008)
小山彰太デュオ集
どちらかをとれといわれれば、Tのほうを選ぶが、Uもなかなかのできばえである。個人的に一番好きなのは、一曲目の加藤崇之のギターとのデュオ。オーケストラと共演しているみたいな分厚い音と小山のシンプルなドラムとの会話はすごい。続く、原田依幸とのデュオを聴くと、Tの山下とのデュオよりもハードでストイックなので、息が詰まるほど。登さんとのデュオは、ドラムがきっかけを出してテーマに入るという、往年の山下トリオ的な演奏だが、日本一のビッグトーンテナーの豪快さが楽しい。でも、短いのが残念。もっともっとやってほしかった。短いといえば、このアルバムは聴き出すとあっというまに終わってしまう気がして、また最初から(というかTから)聞き直さざるをえない。私にとっては、ほんとにおいしい内容である。
「音噺<長短二席>」(OHRAI RECORDS JMCK−1034)
小山彰太ソロ
富樫正彦のソロアルバムが壮大なドラマというかオペラだとすれば、小山彰太のソロアルバムは墨絵の掛け軸のようなもので、聴くものの心にすーーーーーーっと自然に入り込んでくる。富樫のソロアルバムは、聴くまえにかなり身構えて、今からすごいものを聴くぞ的な一種の「居住まいを正す」感じがあるが、小山さんのソロはそんなものは一切必要ない。ただただ、楽しく聴くだけだ。しかし、聴き終わってからの感銘はどちらも同等で、ああ、すばらしいパーカッションアルバムを聴いたなあ、という思いに満たされる。本作も、いつもの小山さんのソロであって、私が何度も何度もライヴで接した「あの」ソロだ。ときにスネアのコーン!という一打で聴衆のハートをつかみ、ときにアリ地獄と評されたあのスネアロールでわれわれを引きずり込む、あの演奏がここにはふんだんに詰まっている。ドラムソロだけで一枚というのは、いくらなんでも飽きるというひとがいたら、私は言いたい。それなら、一回に一曲だけ聴けばいいのでは?と。そういう聴き方もあるのです。とにかくこのソロから感じるのは小山さんの、もちろん構成力もあるのだが、そんなものを遙かに上回る「自由」さで、その自由さは、いわゆるフリージャズがどうのとかインプロヴィゼイションがどうのとかいうようなむずかしいこととはちがった、寅さんのような奔放でいいかげんで好き勝手な自由さなのだ。だから、我々の気持ちにスーッと食い込んでくるのだ。
「なまったらん」(OHRAI RECORDS JMCK−1038)
小山彰太スペシャル・ユニット
(CDライナーより)
「ピアノトリオ」という言葉を聞くと、あの腑抜けたような音楽を反射的に思い浮かべてしまうのは、ジャズジャーナリズムが悪いのか、ミュージシャンが悪いのか、聴き手が悪いのか……いずれにしても、「ピアノトリオ」という言葉にまつわるああいったマイナスイメージを本作はハリケーンのごとく払拭してくれる。こういうピアノトリオが存在するという事実は、「ピアノトリオってようするにあれでしょ」的なジャズファンの先入観をぶち破るだろう。あれもピアノトリオ、これもピアノトリオ……つまり、編成の問題ではなく、ミュージシャンの「肝」の問題なのだ。考えてみれば、ピアノの入ったトリオは全部ピアノトリオだ(そういえばスガダイローは一時、ベースのかわりにバリトンサックスの入ったトリオを率いていた)。
小山彰太というひとは共演者が強力であればあるほど真価を発揮するドラマーだと思う。これまで数々のセッティングで何十回とそのライヴに接してきたが、彼がそのすべてを搾りだすのは相棒が凄いときだ。そして、このグループではスガダイローという怪物を相棒に得て、完全燃焼している。それにしてもスガダイローというピアニストは引きだしが多いひとだ。しかも、いつどの引きだしが開くのかがわからないような意外性があり、それが一種のデタラメというか無茶苦茶さをかもしだす。圧倒的なテクニックと音楽性があるのに、それらを総動員して明後日の方向の壁を押しているような異常さがある。なんというか「命がけで遊んでいる」ような印象なのだ。めまぐるしく変わる局面、凄まじいリズム、いつどこからなにが飛んでくるかわからない戦場のような修羅場が展開するが、小山彰太はそのすべてを完璧につかんで投げ返す。そのやりとりは壮絶の一言だ。そして、河村のぶっといベースは悠々と彼らを支え、ときにリードする。ジェットコースタームービーという言葉があるが、本作はまさにジェットコースタージャズだろう。聴きはじめたが最後、怒濤に流されるようにあれよあれよと運ばれてしまい、気がついたときにはエンディングを迎えている。巷でいうピアノトリオは、ミュージシャンが八割どころか四割ぐらいの力で演奏するのを良しとしているようだが、このアルバムの三者は全員百パーセントの力を出し切っている。そうしないと吹っ飛ばされてしまうからだろう。もちろん聴くにも体力がいる。聴き終わるとへとへとになるが、水増ししたような、味のない演奏を聴くぐらいなら、本作を聴いたほうがずっといい。疲労困憊した分、何枚分もの満足感を味わえること必定である。
個々の演奏に触れると、A−1はインプロヴィゼイションだというが、信じられない。河村のベースに導かれるようにしてはじまる演奏は、明確なリズムとアイデアをもったもので、三者の凄まじいソロがフィーチュアされる(とくにベースはめちゃめちゃ凄い)。A−2はあのアンソニー・ブラクストンの記号のようなタイトルの曲だがビビることはない。本作のなかでもっとも四ビートジャズ的な演奏。A−3は、小山彰太のオリジナルで、凍てつくような月の影を見ているような凛とした幻想感のあるバラード。頭がぶっとんでいるようなラグタイムではじまるA−4は、さっき書いたようなスガダイローの「どの引きだしが開くかわからない」的な演奏のショーケース。おもちゃ箱をぶちまけたような、そして、そのおもちゃの一部が壊れてギザギザになっているみたいな、きらきら輝く地獄巡りがドルフィーの奈落へと落下していく。河村のソロ、そしてリーダー小山の地獄へ落ちていくようなソロもフィーチュアされる。とんでもないテクニックと集中力による三者一丸の疾走につぐ疾走。そして完璧な着地。
本作はこのスペシャルグループによるライヴの1stセットの全容であるが、2ndセットの様子も近々リリースされるそうなので、楽しみにお待ちください。
「うすったらん」(OHRAI RECORDS JMCK−1039)
小山彰太スペシャル・ユニット
(CDライナーより)
今、「フリージャズ」という言葉を使うには勇気がいる。私も日頃は、フリージャズという言葉を意識的に使わないようにしているぐらいだが、今回はあえて確信犯的に使いまくりたいと思う。
いまだに、フリージャズというと騒音に満ちたでたらめな音楽、政治的・煽動的な音楽という認識が通用しているし、なかには「フリージャズなんて今でもあるんですか」とか「あれはあの時代だからよかったんです。いまどきの音楽じゃないですよ」などと言うひともいる。フリージャズは一昔どころか何昔もまえの遺物であり、現在進行形のフリージャズがあるなんて思ってもいないのだ。フリージャズが誕生してもう五十年。初期の、ギャーッと叫んでたらいいんです的なものから変貌を重ね、現代音楽やノイズ、電子音楽、ロック、民族音楽などと衝突・融合を繰り返しながら磨かれて現在に至るわけで、一口にフリージャズといってもその形態は多種多様だ。ジャズという言葉が不適当で、フリー・インプロヴィゼイションと呼ばねばならぬような内容のものも多い。「フリージャズと呼ばないでほしい」という考えのミュージシャンもいるし、それはそれで正しい。フリージャズというコトバには、非常に限定的なイメージがつきまとうからだろう。それに、今ではフリークトーンやクラスターといった「フリージャズ的技法」がポップス系のソロに堂々と使われていたりする。これはフリージャズ的技法が浸透・拡散したと考えられるが、反面、あまりに拡散・多様化しすぎてコアなフリージャズというものが見えにくくなっているのも事実である。
そういうわけで、今の時点で「フリージャズ」という言葉を言ったり書いたりすると、相手に誤解をもたらす可能性があり、私も日頃はあまり使わないのだが、そんななか、この小山彰太〜スガダイロー〜川村竜のトリオは、「これがフリージャズだ」となんのためらいもなく言いきれる数少ないグループだろう。フリーインプロヴィゼイションでもフリーミュージックでもない「フリージャズ」そのものだ。彼らは、かつてのフリージャズの思想的・政治的・煽動的側面とは無関係に、純粋にあのサウンド、あの演奏形態を愛し、表現方法としてチョイスしているのだと思う。そのことは本作を聴けばわかる。この熱気、このスリル、この密度、この芸術性、このエンターテインメント性をまえにして、だれが「いまどきの音楽じゃない」などと言える?
このトリオがすばらしいのは、三人それぞれが確信に満ち、ひとつの巨大な球のように一体となってまったくぶれずに、圧倒的集中力と凄まじい技術力によって猛スピードの交感をくり返しながら直進しているからで、それは手垢のついた表現とは無縁である。彼らは、明日のフリージャズを奏でているのだ。
なお、このアルバムに収められている演奏は、すでにおーらいレコードからリリースされている「なまったらん」と同じ日のライヴのものである。残りテイクとかそういうものではなくて、その日の1stセットが「なまったらん」、2ndセットがこの「うすったらん」なのである。
「悪くない」(PETIT PARIS)
小山彰太・南野梓・谷村武彦・柳川ホウメイ・イトウカズヒト
いきなり1曲目、アコースティックギターによるカッティングがはじまり、そこにヴァイオリンが乗っていて、え? と思うが、これがアルバム全体のイントロダクションというかオープニングアクトをつとめている形である。アズールという名前のデュオだそうだが、繊細かつ大胆な演奏で、ライヴなのに録音も良く、ヴァイオリンとギターが非常に生々しくとらえられている。エンディングもかっこいい。2曲目で耳慣れた小山彰太のドラムが登場し、そこに名古屋のおなじみ(?)のアルトインプロヴァイザー柳川芳命が加わってのデュオ。私は、正直、このひとは「凄い音してるなあ」とはいつも思うのだが、いかにもな昔ながらの「フリージャズ」で、ある意味お手本的というか「フリージャズってこういうもんでしょう」と皆の心にあるものをそのまま具現化しているように聞こえてちょっと苦手意識があったのだが、この演奏はそういう印象とはまるで逆で、予定調和的な感じは微塵も受けず、めちゃくちゃよかった。やっぱり音が素晴らしいし、ボキャブラリーも豊富で、いろいろとツボを心得ている。なんか、いきいきしているのです。小山さんもえげつないほどの全力で呼応している。いやー、すばらしい。本作の白眉だと思う。3曲目は最初のデュオにも入っていたヴァイオリンのひとと小山さんのデュオ。即興だと思うが、このヴァイオリンのひとはそういう場においてもメロディを全面的に押し出す演奏で、ええ感じである。そして、どんどん高まっていき、最後はヴァイオリンが艶やかに悲鳴を上げる。4曲は、最初のデュオのギタリストと小山さんのデュオ。これもメロディやリズムを重視した即興で、ビートはずっと一定。そのなかでギターがテクニックを披露する。引き出しが多く、フレーズによってつぎつぎと新たな場面を展開していくので、聴いていて飽きることはない。それを小山さんが聞き取って的確にプッシュする。本作のなかではもっとも正攻法の演奏。5曲目は、さっきとはべつのヴァイオリンのひとと小山さんとのデュオで、同じヴァイオリンでも明らかに資質がちがい、このひとは最初からかなりフリー寄りである。ビートに乗ったり安直な盛り上がりを拒絶するような場面が多く、なかなか一筋縄ではいかない。面白かった。最後は小山彰太ソロ曲。さすがに圧巻の演奏で、さまざまな見せ場があり、ストーリーもあって最高でした。このアルバム、一曲ごとにメンバーがバラバラなのだが、ちゃんと首尾一貫していて、すごく楽しめた。