mototeru takagi

「MOSURA FREIGHT!」(MTCJ5520)
MOTOTERU TAKAGI TRIO

 ずっとレコードを探していたのだが、とうとうCDで再発されて、聴くことができた。しかし、聴いて驚け見て笑えで、あまりに凄まじい演奏内容に衝撃を受けた。凄い凄い凄すぎるぞこれはっ。高木さんの最後(に近い)生演奏に接することができて非常に幸福だ。こんな凄い演奏をしていた人だったのだなあ。入手できるアルバムは、LP時代からだいたい聴いたと思っていたが、「アイソレイション」や「パリ日本館コンサート」などなどを聴いているだけではわからない、圧倒的な世界があったのだ。かつて入手できたものでは、あの「インスピレイション・アンド・パワー」の沖至グループでのソプラノソロが近いかも。最近のものでは、「深海」という吉沢さんとの演奏がめちゃめちゃすごくて、これに近い。とにかく、聴いてもらわなきゃわからないが、いろんな人が「高木はすごい」と言うのがやっとわかった気がする。テナーはおそらく世界的レベルに個性的だが、バスクラもいい。昔のスウィング・ジャーナルに載ったファラオ・サンダースの「カーマ」の評で、高木さんがぼろくそに書いてるのを読んだが、その当時、こんな演奏をしていたのだとしたら、そりゃあの軟弱なアルバムをけなしても当然だわなあ、と思う。たぶん、このアルバムが出た当時、世界で、シェップやアイラー、ファラオ、ブロッツマン……などを押しのけて、実力は堂々一番だったはずの高木さんの音がこうして聞ける喜びは大きい。末永く愛聴したい。高木さんのように、いつまでもフリーな心を忘れずに演奏し続けたいものだ。最後にアルバムタイトルだが、モスラのつづりがMOTHRAではなくMOSURAなのはなぜ?(どうでもいいって? そりゃそうだ)

「JAZZ A MAISON DE JAPON,PARIS」(NADJA PA−3160)
TAKAGI ET KAKO QUARTET

このアルバムは学生のころ、ものすごくよく聴いた。毎日聴いていた時期もあるし、一日に何度も聴いた時期もある。どうしてそんなに聴いたかというと、うーん……内容がすばらしいというよりも、内容がいまいちよくわからなかったから、というのが正直なところだ。一聴してすぐに、おお、これはすごい!と思えるようなわかりやすいアルバムよりも、こういった「なんだかわからないけど、なんとなくひっかかる」ような作品のほうが、なんとかしてわかろうという思いから、繰り返し聴いてしまうものだ(あまりにわけがわからないと、何回か聴いて飽きてしまうこともあるが、「この作品にはなにかある。それをつきとめたい」みたいな直感が働くことがあるのです)。加古と高木、そしてケント・カーター、ロン・ピットナーという4人がつむぎだす音は、セッションではなく、完全なレギュラーグループとしてのものに聞こえる。加古のピアノはすばらしく、こういうのが現代音楽的というのかなあ、その方面には無知なのでよくわからないが、細部にまで意を払った即興で、リリカルかつパワフル、聞き惚れてしまうが、問題は高木で、彼のソロは、シンプルにストレートにブロウするような部分があまりなくて、ひとつのものを斜めから、裏から、横から見るような、そんなソロだ。熱くブロウしているのだが、そのエネルギーがドーンとこちらに伝わってくるような吹き方をしていない。どこか遠くから、大きな振幅で届く……これはなんなんだろう。そういう疑問がこのアルバムを私に何度もターンテーブルに載せさせているのだ。全体の印象は、モノクロームで、冷たい氷の炎が燃えさかっているような、そんな感じ……と書いてもわからんわなあ。とにかく聴いてもらわないと。双頭バンドだが、先に名前のでている高木の項にいれた。

「2001.07.06」(地底レコード B22F)
MOTOTERU TAKAGI

たいへん貴重な音源がこうして世に出ることの意義ははかりしれない。一曲目は高木さんのオリジナル。隙間だらけのすかすかな演奏だが、それが枯淡の極致のような、一方ではまた、奥に潜むどろどろした熱気を感じさせて、しだいに引き込まれていく。すごい存在感である。このとき60歳ちょっと過ぎたあたりだと思うが、高木さんは2002年12月に亡くなるので、録音されたものとしてはほんとうに「最後の演奏」ではないかと思う。私は神戸のビッグアップルでこのあとの時期の高木さんの演奏を聴いているが(たしか豊住さんとのデュオだったと思う)、そのときは、15分ぐらい吹くと「じゃあ、このへんで」と演奏を終わろうとするので、さすがに豊住さんが「もう1曲やりましょう」といってワンセット30分ぐらいやっていたように思う。体力的にきつかったのではないか。しかし、あの鋼鉄のような硬質な音色は健在で、瞬発力もあり、そういった凄味は本作にもちゃんととらえられている。二曲目は即興とのことだが、実際にはアイラーの曲だと思う。でも、似て非なるものかもしれない。三曲目もはじめはなんだか楽しい感じだなあと思っていると、一曲のなかで刻々と演奏形態が変化していき、様々なドラマが展開して、聴いていて気をゆるめることができない。四曲目はおなじみの「ロンリー・ウーマン」だが、濁った音もまじえながら朴訥に異形のメロディーをつむいでいく高木さんはデューイ・レッドマンに重なる。しかし、演奏が進むにつれて、その自由さ、好き放題な吹きっぷりが今度はオーネット・コールマンとダブってきたりして。まあ、勝手なリスナーの世迷い言ですけどね。ベースとドラムの息のあったプレイはさすがの聞きどころ。五曲目はチャールズ・タイラーの曲らしくて、なんとも凄い選曲。この曲での高木さんは自由奔放で、ねちっこく、ねばっこいフレーズをなんの仕掛けも仕込みもなしに振りまいて、これぞまさにフリージャズ、といった演奏をする。つまり、「フリー」で「ジャズ」なのだから、フリージャズとしか呼びようがないだろう。高木さんのアルバムでどれか一枚代表作を、というと、おそらくこのアルバムが挙げられることはないと思うが、私にとっては思い入れもあって大事な大事なアルバムです。アフターアワーズにいろいろお話を聴かせていただいたことも今となっては貴重な思い出です。感謝。

「不屈の民」(ちゃぷちゃぷレコード POCS−9353)
高木元輝

 96年の高木元輝ソロ。本来は、アルトの浅見光人とのデュオコンサートなのだが、そのなかから高木さんのソロ部分だけを抽出したものらしい。完全即興が2曲と「不屈の民」という構成だが、「不屈の民」もそのメロディが何度も繰り返されるパートがある、というだけで、実質的にはほとんど即興だと思う。最晩年の高木さんの演奏(豊住さんとのデュオ)に接したことがあるが(あれはとても貴重な体験だった)、体力的にはかなりきつかったろうと想像されるが演奏はやはりあちこち閃光のような輝きがあり、かつての凄まじい演奏をほうふつとさせた。96年の本作は、まだまだお元気だったはずだが、ここに聴かれるのはあの太い轟音で咆哮する姿は皆無で枯れた演奏である。たっぷりと「間」をいかし、しかもフレーズがはっきりと聴こえてくる独自のソロで、音もか細く、おしつけがましさは一切ない。全体に繊細極まりない即興で、基本的には中低音より高音部を中心に演奏されるので、途中ソプラノかと聞きまがう箇所があるほどである(が、全部テナーなんですよね?)。フレージングも、シンプルでメロディアスで、奇抜さや突飛な跳躍はない。まるで童謡かなにかの断片のようである。さっきも書いたが全体に音が小さく、そっとささやくような演奏で、ハーモニクス(ちょっとだけ聴かれる)やフリークトーンなどもほとんどないし、もちろん循環呼吸によるエヴァン・パーカー的な構築も、阿部薫的なものものしさも、ブロッツマンのような豪快なパワーもない。では、なにがあるのかというと、信じられないぐらいの優しさと哀しさである。サックスソロというのは吹いているもののすべてを剥きだしに晒けだすものだが、愛おしげにメロディを吹く高木元輝という「人間」がここにあるこの演奏だとしたら、高木さんのたどりついた境地というのはどれほどの高みだったのかと思う。正直、感動する。そして、何度も聴いていると、さっき書いた「枯れた演奏」という言葉を打ち消したくなってくる。枯れたように聞こえるが、切ってみるとそこにはおびただしい水気が溢れ出す「生きた木」だったのである。その芳香は鮮烈なのだ。いやー、これはいい演奏だと思います。3曲目のテーマなどはいくらでも思い入れをこめて感情的になることができそうなのに、軽いビブラートによるそっけないような吹き方に終始するが、それがかえって哀切な空気を生む。すばらしいアルバムだと思うが、聞き流すような聴き方ではまったく価値がわからないタイプの演奏だということも言えると思う。傑作。

「LIVE AT LITTLE JOHN,YOKOHAMA 1999」(NOBUSINESS RECORDS NBCD144)
MOTOTERU TAKAGI SUSUMU KONGO NAO TAKEUCHI SHOTA KOYAMA

 1999年の横浜でのライヴ。いや、もう最高でした! 1曲目は金剛督は竹内直とのバスクラデュオではじまり、そこに途中から高木元輝のテナーが加わる。そのあとドラムとテナーのデュオになるが、小山彰太の軽快かつ重みもあるドラムと高木のテナーは見事にからんでいる。すでに晩年であって(2年後に亡くなる)、吹奏力も衰えているのかなあと思って聴いてみると……とんでもない!(まあ、「2001年7月6日」までは元気で吹いていたわけだからなあ)音もしっかりしていてめちゃくちゃ迫力あるし、アイデアも明晰で具体的だ。変幻自在で、枯れた味わいもあり、音色のちょっとした変化での表現など、豪快さと繊細さが感じられる。それにしても、亡くなったのが61歳って……俺とたいして変わらんがな。そんなに若かったのか。最晩年のライヴを一度だけ見たことがあるが、あのときはもうあまり吹かなかった。しかし、本作の時点では活気あふれる演奏をしていたことがわかる。そこからフルートとバスクラのすさまじくドライヴするデュオや、テナーとフルートによる幻想的な交感、ドラムとテナーの力強いデュオ、激烈なテナー同士の対峙、竹内のテナーの無伴奏ソロ、アルトが加わり3サックスになるパート(混沌としていた4人がドラムきっかけで一体となっていく)、ドラムソロ、小山と金剛アルトのデュオ……目まぐるしいドラマチックな展開が押し寄せてきては去っていく。本当にすぐれたインプロヴァイザーたちであることよ。1曲目は40分のあるのだが、偉大な即興演奏家の手にかかれば、こんなにもすばらしい圧倒的な演奏が作り上げられるのだ。2曲目は竹内のバスクラによるアルコベースのような低音吹き伸ばし(サーキュラーだが、それだけですばらしい音楽になっている)を背景に、高木のテナーが力強く、朗々と、マイナーな旋律(「苦悩の人々」)を歌い上げ、感動的である。この2曲目は、場面がどんどん変化していく1曲目とはちがって、徹頭徹尾マイナーサウンドで押し通す迫力ある演奏。3曲目はアグレッシヴなフルートデュオではじまり、それだけで十分すごいのだが、そこにドラムが加わり、テナーが入って、疾風が渦を巻くようなサウンドになる。ときには4人のパーカッション奏者が共演しているかのようなリズミカルなアンサンブルになり、ものすごく興奮する。それが次第に落ち着いていき、ぐっと抑制されたサウンドへと変化する。2本のフルートがとにかくからんでからんでからみつきあう。13分あたりで一旦途切れ、新しい展開へと突入。小山のロールからバスドラを踏み込むリズムの繰り返しに乗って、竹内と高木がテナー、金剛がアルトに持ち替えて、フリークトーンを連発しまくるようなパワフルな3サックス。しかし、同時に吹いて、混沌とした集団即興のはずが、3者3様の個性が前面に強く出ていて、非常に感動的である。そして、全体に小山彰太の並々ならぬ即興センスとパワーが演奏を大きく広げている。最後はクレッシェンドの極みでエンディング。かっちょえーっ! これはすごい。この4人だからできたスーパーインプロヴィゼイション。よくぞ出してくださいました。傑作! 全体の展開としてはいわゆるリーダーのいないセッションだと思うが、高木さんの項に入れました。

「LOVE DANCE」(KING INTERNATIONAL KKJ 9014/8)
高木元輝

 すごい長文だが、どうせだれも最後まで読まないと思うので勝手に書く。めちゃくちゃ欲しいけど、1万円か……今の状況(出版社から前借りしまくりのうえ、それ以外からも借金しまくりで、わしゃ内田百閧ゥ! という感じ)では絶対に買ってはいけないな、とあきらめていたCD5枚組だが、ある日突然我が家に送られてきた。送られてきた、というか、私が買ったのであるが……まったく記憶がない。たぶん夜中に酔っぱらって、「きっとプレス数も少ないだろうから早く買わないとなくなる……」「○月に金が入るあてがあるし……」とか焦って購入したのだろうが、素面の(昼間の)私としてはたいへん困る。しかし、聴いてみると想像をはるかに超える凄さで、「買ってよかった!」と思った。貴重な音源であることは間違いないが、なにしろバラ売りなしの1万円なのだから、(失礼ではあるが)もしいまいちだったらどえらいことになる……というのはリスナー全員の思うところだろう。だが、はっきり申し上げて、これはすばらしいです。びっくりした。購入をためらっている皆さん、だまされたと思って、夜中に寄っぱらってポチりなさい……とは言わんけど。
 東京の「伝」というミニギャラリーで行なわれていたソロライヴの記録ということらしいが、CD5枚のうち4枚は1987年と89年に集中していて、そのとき高木氏は50歳前後で、心身ともにみなぎっている状態だったと思われる。このアルバムでの演奏はそういう意欲的なものばかりで、しかも録音もよく、ソロということで高木さんの音の出し方(サックスに対するアプローチという意味です)やアーティキュレイションなどなど細かな部分もものすごくよくわかるので、最高である。基本的にはなんらかのコンポジションをモチーフにしていて、たとえば1枚目の1曲目の「ストーン・ブルース」はEEUのアルバム(未聴)などでも取り上げられている高木のオリジナルで3回収録されている。ほかにはモンクの曲、ミンガスの曲、アリラン、小さな花、家路、バラ色の人生、不屈の民……などが取り上げられているが、阿部薫がチムチムチェリーやアカシアの雨がやむとき、暗い日曜日などを取り上げているのとはかなり異なり、阿部がそれらのチューンの断片をちらっとモチーフ的に吹くだけなのに比べて(あくまで即興のためのきっかけ、というスタンスだったのでしょう。阿部がテーマをバラバラに解体して投げつけくるような印象があるのに対して、高木元輝は歌い上げる。ライナーに高木の言葉として「僕は曲をやりたいんだ」と言っていたことが書かれているが、そのとおりの演奏だと思う)、高木は真正面からそのメロディを吹くのだ。それなのに、とても自由な空気を醸し出している。阿部の場合は、メロディをそのまま吹くことへのてらいというかはにかみがあったのかもしれないが、高木のソロにおけるメロディへのこだわりは、「これを吹くだけで自由になれるのだ」という確信のようなものがあったような気がする。
 1枚目1曲目「ストーン・ブルース」の最後のほうの硬質なトーンでの朗々とした歌い上げは本当に感動的である。2曲目は高木にとっておそらく重要な意味を持つ曲であったであろう「アリラン」で、ソプラノでメロディを延々と吹き上げるのは、まるでコルトレーンの「マイ・フェイヴァリット・シングス」を思わせる。途中フリーキーな部分も若干あり、それがかっこいいのだが、全体としてはひたすらメロディを大事に演奏している。なぜか最後は「悲しき願い」になるがサブトーンを駆使した、切々とした歌い上げである。こういう演奏を聴くと、高木元輝は日本のフリージャズにおけるソプラノサックスをメイン楽器にした先駆者的な存在だったのではないか、と思ったりする(完全に自家薬籠中のものとして扱っている)。3曲目の「ラヴ・ダンス」というのはこの5枚組アルバムのタイトルにもなっており、10テイク収録されているが、どれも曲調はバラバラなので、即興系の曲にとりあえず「ラヴ・ダンス」という名前を付けているのではないかという気もするし、タイトルがわからない曲をとりあえずこう呼んでいるのかもしれない。この1−3の「ラヴ・ダンス」はマイナーの物悲しい曲(もちろんウディ・ショウのアルバムとは関係ない)。ラプソディックというかヨーロッパの街角で演奏されているミュゼットとかポルカとかそういうものを連想する曲調で、サビもあるのであきらかにコンポジションである。途中で近くを走る車の音などが入っているのも臨場感があってすごく良い。4曲目はシドニー・ベシェの「小さな花」だが、前半はモチーフを展開していくような即興、後半にテーマがソプラノによって愛おしむように吹かれる。つづく5曲目も「ゴーイン・ホーム」のテーマがそのまま切々と吹かれる。ソロも、テーマに沿った変奏で、フリージャズ的なものではないが、その場で思いついたであろう音のダイナミクスやアーティキュレイションの選択などを聴いていると、これはこれで自由なのだと思う。6曲目は「ラ・ヴィ・アン・ローズ」でこれもまたソプラノによるストレートな演奏。本当にただそれだけなのだが、「それだけ」のなかにさまざまなものが詰まっている。7曲目は「小雨降る道」で、まるでソプラノサックスからフィドルのような音を引き出している。最高である。このCD−1に入っているスタンダードはどれも、マイナー曲もメジャー曲も物悲しい。このときの高木氏の心境がそういうものだったのかもしれない。ここでの高木元輝は、フリージャズの闘士というより、パリの街角でミュゼットを演奏している楽士のようである。
 CD−2は1枚目の3か月後の演奏で、1曲目は30分に渡る「ラヴ・ダンス」でテナーによる力強い演奏で、スクリームしたり、グロウルしたり、といったフリージャズ独特の表現はほとんどなく、ひとつのモチーフを順次発展させていくような、ある意味オーソドックスなジャズテナー的な吹き方である。しかし、その一方で、そのクールな感じのなかから哀切というかなんともいえないびしょびしょの情感が湧きあがってくるのが驚異なのである。これは阿部薫にも言えることであって、たとえば坂田明のあっけらかんとしたブロウとは(根は同じだとしても)まるでちがった表現である。ここまでメロディックだと、はシャンソンかなにかの有名曲なのかもしれないが、私にはわからない。ブルース的なフレーズ(「モーニン」も連想するようなブルースペンタトニックをかなり延々と吹く)も散りばめられている。高木はきっちりと真摯に30分間吹き続ける。客も真剣に聞き入っている。2曲目の冒頭などを聴いていると、これもなにかの曲なのかと思うのだが、わからない。とにかくひたすらメロディックで、引きつけられる。牧歌的なメロディを少しずつ変奏していくが、そこにいつものノイジーなものはない。ひとつのフレーズを4度とか5度とかで転調する。システマチックというかメカニカルな感じになるはずなのに、そうはならない。ドミナントモーションが起こるとブルースっぽくなったりするが、そっちへは行かない。そして、突然、「エピストロフィー」になる。これもたぶん仕込んでいたのではなく、吹いているうちに唐突に吹きたくなったのだと思われる。モンクというより、なんだか鼻歌のような「エピストロフィー」で、これも自由を感じる。3曲目はまた「ラヴダンス」で、ソプラノによるマイナーなメロディ。どう考えてもコンポジションであるが、1曲目とはまるでちがった曲調なのである。やはり「ラヴ・ダンス」というのはこのソロサックスシリーズを通してのイベントタイトル、というだけでなく、これはちゃんとしたコンポジションで、高木が(もしかしたら即興的に)作曲した曲のタイトルがわからないからとりあえず「ラヴ・ダンス」にしているだけ、ということなのかもしれない。CD−1の3曲目とこの演奏は、雰囲気はものすごく似ているのだが、テーマ的にはやはりちがう曲のようだし、知ってるひとなら「アホか、そんなことも知らんのか」というような知識なのかもしれないが、私にはよくわからない。しかし、この吹き方……タンギングによる表現とかめちゃくちゃすばらしい、というか人間的ではないでしょうか。手垢のついた表現かもしれないが、「高木元輝という人間を聴いている」ような演奏である。この音のカスレ具合とかリズムとか……最高じゃないっすか! いや、ほんま。マジで。演奏はメジャーになり、耳に馴染むメロディーが続く。私はまったくシャンソンには疎いのだが、こういったものをシャンソン的、といったらおかしいんでしょうかね。それともこれはシャンソンの有名曲なのか……。最後のほうはわらべ歌のようなペンタトニックが延々続く。4曲目は「ゴーイン・ホーム」。情感はこもっているが、すっきりしたいい演奏。ちりめんビブラートとソプラノならではの高音の張りがなんともいえません!
 CD−3は2枚目の約1年半後の演奏で、「ストーン・ブルース」から。テナーの高音部を中心とした柔らかいの音での自由な演奏から次第にメロディが現れる。ゆったりとしたノリでものすごくシンプルにフレーズをつむいでいく。このゆったりした感じと全編がルバートの自由なリズムはソロサックスならでは。ソロサックスでも、設定したビートを最後まで守るひともいるし、ルバートのリズム(つまり、「間」)が聴き手である自分の好みに合わない場合もあるのだが、高木さんの場合は相性ばっちりであります。最後のほうはブルースというかマイナーになり、ほとんど同じフレーズをしつこく吹いている。今気づいたが、このアルバムにおける高木さんは、テクニックの開陳とかこれ見よがしに押し付ける音色とか引き出しが多いことを示すフレーズの奔流とかフリージャズ的なテクニック(フリークトーン、マルチフォニックス、各種タンギングなど。たまにグロウルあり)をほとんど使っていないのだ。そういうものを客に「どうだ、すごいだろ!」といって披露するような境地からはとうに脱却していたのだろう。2曲目はまた「ラヴ・ダンス」。テナーの高音から低音までを駆使した(といっても、本人に「駆使する」気持ちがあったとは思えないが)めちゃくちゃかっこいいソロ。これはテーマに基づかないインプロヴィゼイションだと思う。音色のニュアンスの変化と音量のダイナミクスの変化だけで十分に音楽は成り立つということがわかる。ここまでくると「なにを吹いているかなんてどうでもいい」という感じ……と言ったら言い過ぎか(言い過ぎだろうな)。3曲目も「ラヴ・ダンス」でこちらはスタンダードのバラード風。あまりに見事な歌いあげなので、なにかアリものの曲なのかもしれないがよくわかりません(そういうの苦手です)。美しく、力強く、自由になにかを試そうとしている演奏。これが「周到に作曲された」ように聞こえる即興だとすると驚きであるが、考えてみれば、それはただの驚きであって、音楽の価値にはなんの変わりもないのである。最後になぜかみんなが笑うが理由はよくわからない。しかし、温かい空気であることはわかる。4曲目はソプラノによる「アリラン」で、いやー、すばらしいです。高木元輝がレイシーの影響を受けて演奏が変わってしまい云々という話はよく耳にするが、ここでの高木さんはまったく独自の演奏をしている。これでいいのだ! コルトレーンの「スピリチュアル」(だっけ?)のフレーズと似たメロもでてくる。熱い歌い上げである。5曲目はソプラノによる「ラヴ・ダンス」。ソプラノによる「ラヴ・ダンス」はこの物悲しいというか中近東風のメロディが出てくるのだか、これがコンポジションなのかどうなのかはよくわからない。6曲目は「ゴーイン・ホーム」で、ソプラノのハーモニクスではじまるが、こんな凄まじいオーケストレイションが無伴奏のサックス一本の即興で行なわれていることは感動的だ。高木さんはこの時期、たぶん「感動させよう」とか思っていない、自然体の演奏だと思うのでなおさらだ。この「ゴーイン・ホーム」も4分過ぎたあたりからそのメロディになるのだが、「じゃあ次は家路をやります」と言ってはじめた演奏ではないような気がする。吹いていて、気が付いたら「ゴーイン・ホーム」になっていた、ということではないだろうか。
 CD−4は「ラヴ・ダンス」が2曲(つまり全編即興ということ)。1曲目のほうはなんと44分を越える長尺。ここでの高木の演奏は、サックス奏者がソロをするときに若干は感じられる「間をあけることへの恐怖」「つぎが出てこないことへの焦り」みたいなものがまったく感じられない。マイペース。44分もあるのでさまざまな場面があり、ドラマチックな展開があり、音色も微細なものの連続からぶっとい鳴りまくりの音まで(そのときの気分で)使用され、いろんな曲の断片(「エピストロフィー」とか「家路」とか)が出て来たりするのだが、なんというか……音楽的必然性があってこうしているのだ、とか、全体の流れや構成を考えているのだ、とかというより、「気分」優先なおおらかな演奏であるような気がする。どんどん場面が変わっていって最後はボーンと放り出されるように終わる。すばらしい。2曲目も「ラヴ・ダンス」で、こちらは力強い、民謡的なペンタトニックではじまる即興。途中の展開は、これと「ストーン・ブルース」とどう違うのかと言われたら答えられないぐらいブルースペンタトニックを強調している。そこからまた違った展開になり、山あり谷ありで長いドラマを見ているような気分になる。
 5枚目は、4枚目から約7年半後の演奏で、写真家でこの一連のライヴの企画者でもある桑原敏郎さんのMCではじまる。1曲目は「グッドバイ・ポークパイ・ハット」ということになっているが、約17分の演奏でほとんどは「間」をいかした純粋な即興(だと思う)で、どこが「グッドバイ〜」なのかよくわからない。2曲目は「ストーン・ブルース」でマイナーな、ブルースを感じさせるフレーズを力強く積み重ねていく。3曲目はこの曲だけギターの杉本拓さんとのデュオでタイトルは「ラヴ・ダンス」。距離感がすばらしい絶妙のデュオで、すべてがサックスソロの5枚組のなかにこの1曲だけ入れたかった気持ちはわかるし、リスナーとしてはありがたい。とても丁寧な演奏だと感じた。4曲目はまた「ラヴ・ダンス」で力強くリズミカルなフレーズ、ヒステリックな高音、柔らかいサブトーンなどを自由に、かつドラマチックに並べていく。まったく一本調子にならないなあ。同じようなことを繰り返しているような場面もあるのだが、やっぱり(阿部薫と同じで)「間」がすばらしいので、ダレたりしないのだ。すごいです。ラストは高木さんの愛奏曲だったと思われる「不屈の民」で、いきなりテーマからはじまる、というか、テーマをひたすら愛おしそうに吹いているだけ、といってもいい。そこからなんともいえない哀切なものが立ちのぼっていく。この5枚組を締めくくるのにふさわしい演奏である。副島輝人さんが「日本のサックスは高木元輝と阿部薫のふたりだけでいい」と言ったらしくて(どういう文脈かはわからないけど)、それもどうかと正直思うのだが、それをこの5枚組の帯のあおりに使うのはもっといかがなものかと思う。でも、そういうことを抜きにして、この5枚組ソロはすばらしいと思いました。

「DUOS & SOLOS」(KING INTERNATIONAL KKJ 9019/21)
高木元輝 吉沢元治 LIVE AT GALERIE DE CAFE 伝

 録音がいい! とにかくテナーの生々しい音の峻烈さに感動する。きらきらする倍音が目のまえに突き付けられる感じで、これが「高木元輝の音」なのだ。伝説的な言葉で語られることも多かった高木が、等身大で、これほどにみずみずしく吹いている姿がとらえられているのはすばらしい。本当に意味のあるリリースだと思う。先日、アイラーのラストライヴの完全盤が出たが、それを聴いたときも思ったのは、これまで出たものに比べて圧倒的に音質が改善されていて、まるで別もののようにアイラーの音楽が胸に迫ってきた。本作も同様で、高木というテナー奏者の本来のソノリティがこんな風にリアルに味わえるのだから、これまでの高木観、高木論をベロリと一枚皮を剥ぐぐらいの新しい鑑賞が必要ではないかと思うほどだ(ときどき赤ん坊(?)の泣き声みたいなのが聞こえるのが生々しい)。もちろん、高木元輝の本質的な凄さは録音の善し悪しぐらいで評価が変わるような柔なものではないのだが、音楽家にとってその発するソノリティというのはそのひとの音楽とは不可分のものなので非常に重要な要素であることは疑う余地はない。みんな自分の楽器から自分が納得できるような「音」(音楽、という意味ではなく文字通りの「音」)を出そうとして研鑽を積んでいるのだ。同様に吉沢元治のウッドベースもすばらしい音質で録音されている。
 そして演奏内容はもうめちゃくちゃいいです。なんというか……夢のようです。興奮のるつぼです。高木も吉沢も自己の最高のリーダー作レベルの演奏をしていると思う。こういうのを「スピリチュアルジャズ」というなら、納得である。宗教的な雰囲気を演出しようとする演奏ではなく、魂の交歓だからである(それはもちろんミュージシャンとしての高度な音楽性、技術力に裏打ちされているのだ)。吉沢がときに使用しているエレクトロニクスも絶大な効果をあげているように思う。3枚組なので、なかなかパッと買う、というのはむずかしいかもしれないが(私もそうでした)、そういうひとたちに「買って聴いたもの」として言えるのは「とにかく傾聴にあたいする最高の内容」である、ということです。よくぞ録音していてくれましたよくぞ出してくれました的大傑作。ただただ感動です。
 なお、ディスク3は吉沢さんのソロ。これもめちゃくちゃいいです(演奏も録音も)。この3枚目のソロは独立したアルバムとしてほしかったような気もするし、同じ場での記録としてここに収録しようと考えた意図もわかるし……なのだが、とにかく独立した一枚の作品として評価されるべき充実の内容であります。