「斧琴菊」(BLOWBASS−01)
DAYSUKE TAKAOKA
ここしばらくのあいだで、こんなにおもろかったCDはないというぐらいおもろかった。そして、感動した。おもろくて感動する。これはもう最強ということではないか。基本的にはチューバのソロなのだが、そんなものでアルバム1枚持つのか、という危惧を抱くひとがいるとしたら、ぜーったい聴くべきである。非常に芸術的なのだが、かつエンターテインメントでもある。本人がどういう気持ちで演奏しているのかわからないが、おそらくは自分に忠実に演奏しているのだろう。だとしたら、この音楽は、芸術に徹しようとした結果が超一級のエンターテインメントにもなっているわけで、ルイ・アームストロングの音楽のようなものだ。よい芸術は娯楽である。森羅万象これエンターテインメント。演るほうはたいへんだろうが、聴き手である我々は楽である。なんでもかんでもおもしろいと思ったものを聴けばいいのだ。しかし……このアルバムはほんとにすごい。どうすごいのかは、私の筆ではとうてい表しようがない。それぐらいおもろい。多くのものを得た。勉強させてもらった。「勉強」という表現はよくない、と思うひとがいるかもしれないが、ほんとうにすごいものからは、勝手にいろいろなものを学んでしまうのである。圧倒的なパフォーマンスで、広く万人に勧めたい。チューバのソロ? いや、それはちょっと……などといってるひとにこそ聴いてほしい絶品ソロ。こういうのを聴くために私は生きているのです。
「GYRO」(BLOWBASS−02)
DAYSUKE TAKAOKA FIRST TUBA SOLO
高岡大祐チューバソロ第二弾。チープで耳障り(まさにノイズ!)なエレクトロニクスの演奏などもあるが、本質的には「斧琴菊」と同じく、めちゃめちゃおもろい芸術的エンターテインメント。こういう演奏を聴くと、音楽を芸術とか娯楽とかわけることがいかに無意味かと思う。もう一度いうが森羅万象これエンターテインメントなのだ。リアルな息づかい、金属を叩く音の現実味、そしてそれらの対極にあるような、安っぽいノイズが、なんともいえぬかっこよさで聴くものに迫る。レスター・ボウイのような諧謔精神も感じられる。ここまでくると、即興とかそうでないとかいう意味はない。ただただ「おもろい」「楽しい」「かっこいい」「笑える」「すごい」……そういう音楽です。
「WELTKLANG」(BXL BE)
DAYSUKE TAKAOKA SOLO
これもまた、演奏者の息づかいがリアルに迫ってきて、しかも、どこかスポーンと抜けたファンタジーのようにも思えて、楽しくてしかたがない。なんだか稲垣足穂を思い出させるようなのんしゃらんさと、プレイヤーの汗が目に浮かぶような狂熱と、クールな視点が同居しているような凄みがある。そして、グルーヴも……! こういうめちゃめちゃおもろい演奏が詰まった玉手箱のようなアルバムを、こういう安っぽさの極地のようなジャケットに収納して売るというのはいかがなものかとは思うが、それも含めて制作者・演奏者の意向なのかもしれない。まあ、皆さん、聴いてください……と人生幸朗師匠のように言うしかないアルバム。聴かなきゃダメ!
「借景 夏」
高岡大祐
発売されたことを知って、聴くのが楽しみで楽しみでしかたなかった。京都の田舎に籠もって録音されたソロ作品。これもきわめて面白い。無音のスタジオでの演奏よりも、自然音が入り込んでいることでかえって閑寂を感じさせる。きわめて刺激的である一方、静の極地も味わうことができる稀有な音楽。これがダビングなしの即興で行われていることには驚愕する。べつに、オーバーダビングがあろうと譜面があろうと、いい音楽はいい音楽であるにはちがいないが、やはりこのひとのやりかたというのはだれにも真似の出来ないすばらしいものだと思う。個々の演奏について詳しく書かない(書けない)が、細かいひとつひとつを味わうもよし、全体としてトータルなうねりを感じるもよし。反則かもしれないがシャッフルして聴くのもありだとおもう(初聴のときはあかんと思うけど)。すがすがしい気持ちになれ、人間とか生命とか管楽器とか呼吸とか肉体とか魂とかノイズとかメロディーとかリズムとか……聴いていていろんなことに思いをはせることのできる作品。すばらしい。ほんとはなんの先入観もなく聴いてほしいんだけど、これだけの短い文章でもけっこう先入観になってしまうかな。読まないでください(遅い)。
「SOLOS VOL.2 ”BLOW”」
DAISUKE TAKAOKA
チューバソロのアルバムを(たぶん)3枚リリースしている高岡大祐氏が、な、な、なんと15人の管楽器奏者のソロインプロヴィゼシイョンを集めたアルバム「ソロズ」をリリースした。非常に世間(といっても私の知っている世間ですよ)の評判も良く、しかも入手したひとによると通し番号がすでに900番台になっており(プレスは1000枚)、早く手に入れないとなくなってしまうよとそのひとにおどされたので、そのうちどないかして手に入るだろうとのんびりかまえていた私も、急に「えらいこっちゃ」とあわててしまい、思わず直接通販で注文。そしたらその日の晩に行ったライヴの物販で売ってた。あー、やっぱりあわてるとろくなことはない。届くまでに時間がかかるだろうから、物販で買うほうが早く聴けたのに、と後悔しまくったが、そうなると早く早く一刻も早く聴きたいという気持ちになり、ようやく届いたときは、べりべりと封筒を破り、なかから(おなじみの)段ボールみたいなジャケットを取り出し、なかからCDを引っ張り出してただちにプレイヤーに突っ込んだ。近年、ここまでCDが聴きたくてしかたがなかったことがあろうか、というぐらい待ちに待っていたのだが、1曲目の松本健一さんのテナーソロを聴いて、ああ、苦労が報われたという気になった(じつはなんにも苦労をしたわけでなく、ただ、物販で買えたのに通販してしまったというだけなのだが)。いやー、めちゃめちゃいいアルバムです。15人の個性が短い時間のなかに詰まっていて、聴けば聴くほど面白い。どこから聴いても面白いが、シャッフルして聴くのもいいかも。でも、最初のうちは順番に聴くべきだよなー。プロデューサーの高岡氏の、この順番に並べた「意味」もいっとあるはずだから。とにかく入手してから10回以上聞いたが、最後まで聴くときもあれば、途中で用事ができて止めるときもある。でも、いずれのときも、最初は松本テナー→有本トランペット→関島チューバ→田中テナー→伊藤アンプリファイアドテナー→古池トロンボーン……というあたりまではぜったいに聴くので、最近では松本さんのソロの細部まで覚えてしまったほど。聴けば聴くほどこの並べ方が絶妙だと思えてきた。たしかに、管楽器ソロを並べ立てたアルバムなのだが、ひとつづきの流れというか、組曲というか、そういうものが見えてくるような気になる。つまり、全員が一同に会していて、順番に無伴奏ソロをチェイスしていった……という錯覚に陥ったりする。この15人は、ほかのひとと似た演奏はひとつもなくて、それぞれ個性が際立っていて、どの1曲も埋没せず、くっきりと自己主張している。だからなのか、何度聞いても飽きない。こういうのを私は「エンターテインメント」と呼びたいのだがまちがってるだろうか。だって、聴いていてめちゃくちゃ楽しいし、面白いし、わくわくするのだ。この15人を人選したということだけでも、高岡氏の眼力(耳力)は凄いとおもうし、日本に今、少なくとも15人の凄い奏者がいるのだぞ(ほんとはもっともっといるけど)ということだけは世界に伝わるはずだ。みんな、これを聞き逃す手はありません。ぜひ、ぜひぜひ聴いてください。
「MEGIXIMA」(SOLOSOLO−006)
DAISUKE TAKAOKA TUBA SOLO AND FIELD RECORDING
高岡さんのチューバソロももう私の持ってるだけでも4枚目なのだが、どれもめちゃめちゃ面白くて、世界中のひとに聴いてもらいたいと思っているのだが、本作もすごかったなあ。すごかった、いうと力の入りまくった作品という風に思うかもしれないが、逆で、自然で素直に聴ける。しかしそれは力が入っていないわけではなく、もしかしたら最高に力を入れた作品かもしれない。「力が入っていないように聴こえるよう力を入れた」作品と言っていいのではないか。なにを言ってるのかわからない? まあ、聴いてみてください。チューバという名の金属の塊を、ときには管楽器として吹き、ときにはノイズマシーンとして使い、ときには叩き、ときにはしゃぶり、ときには息の音だけを抽出し……ある意味フリーインプロヴァイズドで、ある意味ノイジーなのだが、このひとのノイズなら朝から晩まで一日中聞いていてもいい。いや、聞きたい。ノイズには、うるさく感じさせるべきノイズもあって、それも好きなのだが、このひとのノイズは普段の生活のなかにあるノイズを切り取ってきて拡大しているようで、聴き手のさまざまな想像力を刺激してくれるし、ときには楽しく、愉快で、ときには悲しく、ときに腹立たしく、そして(ここが大事なのだが)ときにすごく心地よい。マウスピースにボンと息を入れるときの音を拡大すると、こんなに気持ちいい響きになるのかといった発見もある。こんな面白いものはない。あと、これまでの作品でも自然音との共演というか、勝手に自然音が入り込んでいるようなもの(蝉の音とか)があったが、本作はさらにそれが徹底していて、2曲目と11曲目にはこの録音を行った女木島の島のひとと思われるひとたちのトーク(ほんとにただのトーク。猫がどうしたこうしたとか猪がとか……そんな話。なんかほのぼのしているようでどことなく哀しげで、ほんとに「この島の日常」という感じで、よくぞここの部分を切り取った、としみじみ感心)が入っているのだが、それと演奏のつなぎめが見事すぎるぐらい見事で、良い演劇を見せられているような気持ちになる(ついでに書くと、私はこのトークと演奏のコラージュみたいなものを聴いて、ミルトン・ナシメントの「チャイ」というアルバムを思い出した)。マルチフォニックスを使った演奏もあるけど、どうやって録音してるのかわからないようなものもあって、たとえば4曲目のノイズはよくわからんけど、もしかしたらヤカンに湯を沸かしてそれの沸騰する音とチューバをミックスしているのか……とか想像したり(8曲目も?)、5曲目は海の波打ちぎわの音なのかそれとも室内で水を使って音を出しているのか、とか(9曲目は明らかに水をどうにかしている音だが、もしかして風呂? 洗濯? 雑巾を絞ってるの?)、7曲目の途中、かなり長時間無音の部分が何カ所かあって、それもすごくて驚いたり(CDが壊れたのかと思った。こういう無音の箇所って、じっと聴いていると、エアコンの音とかパソコンの音とか室外の虫の声とかを、スピーカーから出ているって勘違いしてしまったりして、それもまたよし)……そういう風にこちらがいろいろ考えながら聴けるのがとにかく楽しいのです。純粋に音楽を聴く、という意味においてはどうでもいいことなのかもしれないが、なんかすごく「入り込める」のである。スタジオのなかで完璧にアレンジされて一部の隙もない演奏に比べて、大げさに言うと宇宙的な広がりが感じられる。とにかく傑作なので、冒頭に書いたように世界中のひとに聴いてほしい。CD屋やアマゾンで買えないって? それぐらい努力して入手せえよ。
「INTRODUCING BRIGHT MOMENTS」(BLOWBASS−002)
BRIGHT MOMENTS
チューバの高岡大祐、トランペットとバスクラリネットの有本羅人(このひとは主奏楽器の選択の時点でもうすごいと思う)、ドラムの橋本達哉によるトリオ。コンポジションをベースに演奏しているらしいが、どう聴いても即興に聞こえる。これがめちゃめちゃいいんです。データが全部CDのおもてに印刷されているので、聴いているあいだは曲名とかメンバーとかを確認することができない仕組み(?)になっているのもいい。大きな音量の部分も含めてかなり静謐かつ丁寧で繊細な演奏なので、聴く側も注意深く、対峙するように聴かなければならないが、それがまた快感である。風が吹き渡るような演奏、波が寄せては返するような演奏、何万匹もの蚊や蠅や蜂を放ったような演奏、大地が息を吸ったり吐いたりしているような演奏、リズムが空間を密に埋めていくような演奏、ミルフィーユのように音を少しずつ重ねていくような演奏、メロディアスな演奏、そして凄まじい落雷が轟きわたるような演奏や地鳴りが大地を揺らしていくようなアグレッシヴな演奏もある。とくに9曲目の異常な盛り上がりはすごくて、何度もリピートして聴いてしまった(こういうのが聴きたくて、日々、CDを買ったりライヴに行ったりしとるんです)。三人とも自分のダイナミクスにすごく気を配っていて、それ自体が大きな表現となっているが、つまりはそれができる3人ということなのだろう。それぞれのソロも入っていて、全体としてひとつの組曲のようにも聞こえる。最初に聴いたとき、タイトルとかを先に読まなかったため、なんの先入観もなく接することができたので、切れ目を意識することなく一気に聴けて、めちゃめちゃ入り込むことができた。データをCDの表に印刷しちゃうというのは、いいアイデアだと思った。グループ名はカークのアルバムから取ったらしいが、たしかに聴いているときに輝かしい瞬間がいくつもあって、それを聞きのがさないようにキャッチすればいいのだなと思ったが、何度も聴いていると、え? こんな面白い瞬間あったっけ? と毎回新たな発見をするので、また聴くことになる。それが「ブライト・モーメンツ」なのだろうと私は勝手に思ったのでありました。ジャケットもシンプルでスタイリッシュで超かっこええんよ。
「BINAURAL RECORDING WITH MY HEAD」
DAISUKE TAKAOKA TUBA SOLO
バイノーラル録音という手法があり、それは自分の耳にはめ込んだ特殊なマイクを使用して、自分がその場で聴いているのにほぼ近い音を録音するということだそうだ。これを使って、自宅の台所、ベランダ、立ち飲み屋、公園などで録音しながらチューバを演奏した、一種のドキュメントである。ほとんどはチューバではなくその場の空間音(普通は「雑音」といってカットされてしまうだろう音)で占められ、ときどきチューバが演奏される。そういう現場の音が、なんとなく入っている、という感じではなく、ものすごくリアルに録音されていて、話している内容とかも全部はっきり聞こえるのだ。リスナーとしては、ついついその会話に聞き入ってしまい、そこへチューバが入ってくる……というかなり面白いドキュメントなのである。しかも、チューバはいつもの高岡さんのフリーなアプローチは少な目で、どちらかというとプラクティス風の演奏で、ロングトーンをいろいろな音域でしたり、アルペジオを吹いたりするのだが、それが妙にばっちりはまっている。私は聴きながら、昔聞いたクリフォード・ブラウンが練習している風景を録音したレコードとか、高校のときに模擬試験を受けているときにべつの棟で練習していた吹奏楽部の連中がてんでばらばらに吹いている基礎練の音が混じり合い、ひとつの音楽として聞こえてきたときの感動を思い出したりした。耳のところにマイクがついているためか、チューバのブレスするときの音がめちゃくちゃはっきり入っていて、それも面白い。高岡氏本人はライナーで、「(こうして録音して聴いてみると)普段どれだけの音を聞き逃しているのか、という気持ちになります。人はその場にある音すべてを聞くことはできません。ごくごく一部を選んで聴いているにすぎないのです」と書いているが、ほんまやなあとつくづく思った。とにかくものすごく面白いアルバムである。メガギシマでのソロで、二曲ほど現地のひとの会話が入っているだけの曲があったが、ああいう流れのなかにあるのかなあと思った。高岡氏は「もしかしたらこの作品は『音楽』ではないかもしれませんが、何か聴く人の『音の体験』の一つになればと思います」と書いているが、いやー、これも、いや、これこそ音楽でしょう。少なくとも私にとっては、「音楽的感動」を強く味わいました。非常に優れた試みであると思います。1曲入ってる口笛(歯笛?)もええ味出してる。
「盲声」(BLOWBASS−003)
歌女
「歌女」というのは「かじょ」と読み、グループ名らしい。ドラム〜パーカッションふたり(石原雄治さんと藤巻鉄郎さん)と高岡さんのチューバによる3人の演奏。ドラムは、バスドラムを大太鼓のように置いたり、個々のタムやスネア、シンバルなどを解体してその周囲に並べたりしているらしい。演奏はほんとすばらしいです。何度聴いてもいい。ドラムもドラムらしかったりらしくなかったり、チューバもチューバらしかったりらしくなかったりするので、楽器編成は正直、聴いているほうにとってはどうでもいいような気がする(演奏している側にとっては大きな問題だろうが)。ただひたすらこの音楽空間に浸っていたい。実際、「空間」というか、青い巨大なゼリー状のものがそこにあって、聴き手である私もそのなかにずぶずぶと入り込んでいるような気さえするのだ。この音楽は、美しく、品格があり、刺激的で、グルーヴしていて、なにも言うことはない。こういう音楽こそ生活に必要なのだ。人生の鬱陶しいことをリセットしてくれ、明日の活力を与えてくれる。どの曲もバラエティに富んでいるが、8曲目の大波がじわじわ押し寄せてきて、その緊張感が延々と続き、しまいには周囲が全部大海原になっているようなドラムにはただただ感動した。最後のほうは、高岡さんらしい生活音が入ったりしています。傑作。ジャケットと裏ジャケも秀逸。
「遠ざかる、一つになる」(BLOWBASS−004)
歌女
ドラマーふたりとチューバ、という変則的な編成による「歌女」の2枚目。これもフィールドレコーディングで、たまたま自然音が入っている、というより、自然音が主役の場面があったりして面白すぎる。セミだのカラスだのこどもの声だのが冒頭からガシガシ入り込んでくるが、まずはそれらの音を「当然あるもの」として受け入れるところからこのアルバムを聴く体制がはじまる。チューバは吹きのばしばかりだし、ドラムもなにかをこすったりしているだけなのだが、そこにとんでもない音楽が現出する。うーん、これはすごい。高岡さんのライヴに行っていつも思うのは、仕掛けのない即興性というか、まさに一期一会のその場かぎりの「音」なのだが、奇をてらっていない、自然にその場で沸き起こってくるモノなのだ。吹きながら首をしめたり、胸を叩いたり、頬を押したりするのもまったくの自然だし、チューバのベルを床に置いて引っ張ることでずるずるずる……というような音を出す……これって楽器を死ぬほど大事にしている一部のミュージシャンには逆立ちしてもできないことなのだが、高岡さんはそのときその場でそうしたい、と思ったらためらわずにそうする。管楽器奏者としてはそうとう凄いことだと思う。ここでの演奏は、一枚目同様、めくるめくテクニックや超絶技巧が使われているわけではなく、どちらかというと原始的な、一見だれにでもできるような感じのものばかりだが、絶対できない演奏なのだ。即興演奏にミュージシャンの人間性が出る、みたいなことはあまり信じていないし、そうであってほしいとかそうあるべきとも思わないのだが、ここでの演奏を聴くと、あー、人間って信じられるよなー、とか漠然と思ったりする。フィールドレコーディングなどというが、ここには実際本当の意味での「自由」がある。自然音を取り入れるとかいうけど、この自然音はかっこいいから置いておこう、これは邪魔だから取り除こう、みたいな取捨選択が行われたならば、それは「自然」でもなんでもないわけで、ここでの演奏は徹頭徹尾「セミ」との共演なのである。セミがジャージャー鳴いていてもいいんだから、ほかは全部許される。それこそ自由ではないでしょうか。みたいなことを突き付けられているような気がする。そしてまた、そのセミが……かっこいいんだよねー。そして、大自然のなかで演奏しているにもかかわらず、とても緻密で細心の注意が払われている繊細な即興なのだ。そして……そしてセミはずっと共演している! こどもの声も! 何度聴いてもかっこいいし、なんというかなー、そのなー、「音楽だーっ」と思うのだ。この演奏を、最新のテクノロジーで録音したものと比べて、こっちのほうがより自然でプリミティヴで云々というのは意味がない。どっちも「今」を録音したものだ。だが、ここで聴かれる音に強くひかれる。録音もよくて、高岡さんがチューバを持ってあちこちうろついているのがわかるし、どこを叩いているかよくわからんパーカッションもめちゃくちゃリアルだ。段ボールで作られたジャケット、必要最低限のことしか書いていないCD面など、ぶっきらぼうでいいかげんな感じに作られたアルバム……みたいな雰囲気だが、じつはデザイン的にも細心の注意を払って制作されており、めちゃくちゃスタイリッシュでかっこいいのである。「歌女」の2枚目は私にとって2019年年末の最高の贈りものになった。傑作としか言いようがない。こんなもん、みんな聴くしかないですよ!
「SIZEN CONCRETE 1」(BLOW BASS)
「SIZEN CONCRETE 2」(BLOW BASS)
「SATOYAMA CONCRETE」(BLOW BASS)
DAISUKE TAKAOKA
高岡大祐が、コロナ禍の最中、自宅に帰れず京都の田舎に仮住まいしていたときに録音したフィールドレコーディング。「SIZEN CONCRETE 1」「SIZEN CONCRETE 2」はダウンロードのみの販売で、「SATOYAMA CONCRETE」はCD−R。どれもめちゃくちゃ音がいい。ジョン・ブッチャーやレオナの作品で録音エンジニアとしても活躍している高岡氏ならではのクオリティだ。とにかく、蛙、蛙、蛙、蛙、カエル、カエル、カエル……だ。前後左右、だけでなく、前の前、後ろの後ろ、左の左、右の右、そして空や地中からも音が聞こえてくる。その大迫力は、自然音の録音にありがちな癒しとかなごみとかいった言葉を一瞬で粉砕する。蛙たちは「演奏」という概念のもとに声を発しているのではなく、それは大自然の営みなのだ。それをただ、聴いている我々が頭のなかで組み合わせて音楽として作り上げているのだ。つまりは蛙ではなく、録音者や聴取者によってこれらは音楽になっている……というのが普通の考えだと思うが、はたしてそうだろうか。どう聴いても、なにかを伝えたい、と思って声を発している、しかも反応しあっている蛙たち、いや、蛙だけでなく、電車も踏切も里山に存在するなにもかもが、意識を持って演奏しているように思える。それは錯覚なのか……。
「SIZEN CONCRETE 1」
1曲目はまさに「蛙の合唱」で、無数の生きたパーカッション軍団が四方八方から襲いかかってくる。ケチャのようだ。そのなかに高岡氏のベース鍵盤ハーモニカが蛙の一匹のような顔で立ち上がり、歌を歌う。鍵盤ハーモニカが消えたあとは、蛙たちの演奏を貫いていくように電車が通り過ぎていく。最後にはふたたびベース鍵盤ハーモニカが舞台の幕を下ろすように奏でられる。まるでミュージカルを観ているようなドラマチックな内容で、単に自然音を録音した、というだけでなく、作り手が「作品」としてこれを制作したことがわかる。そのことは、この3作品のすべてにわたって言えることである。それは、恣意的に、制作者が「電車が来るのを待っていた」というような恣意的な意味ではない。電車はたまたま来たのだ。そして、制作者がその部分を切り取った、ということなのだ。高岡氏は、インプロヴァイザーとしての直感で、「ここだ」と本人が思う瞬間に自分も参加しているが、おそらく「こうしてこうしてここで入ったらうまく作品になるな」というような意図は希薄だと思う。だからこそ心を打つ。最後のほうに右チャンネルから出てくる蛙は、明らかに完全なソロイストであって、その偶然にびっくりするが、それをソロイストとみなして最高の切り取り方をした編集がすばらしい。そこからバトルみたいな掛け合いになるあたりも驚愕するしかない。しかも、ものすごいタイミングで鍵盤ハーモニカが入るんだよねー。2曲目もすごいよ。「こふぉー」というチューバの音ではじまり、それは楽器を通して増幅された人間の息だ。おそらくクラシックなどだと容認されないだろう露骨な呼吸音、ずるずるした唾液の音、循環呼吸のときに鼻で息を吸う「ふー、はー」という音……などなどがリアルに録音されている。まるで原始時代に動物の骨を管楽器として鳴らしているようなプリミティヴな感動がある。マルチフォニックスも、テクニックとして使っているというよりクジラの声のように聴こえる。遠くでさえずる鳥の声。最高の距離感である。同じ音をひたすら吹くだけで、リズムだけでなくメロディもハーモニーも聞こえてきて、まるでオーケストラを聴いているような感動があるのはなぜだろう。ぶりっ、ぶるるん、ぼーっ、ぶばわわん、ぶばわわん……それだけで十分満たされる。なんというのかなあ……生きる力が湧いてくるような演奏なのだ。こういうミュージシャンがいるというだけで、くそみたいな世の中だが、捨てたものではない、という気分になる。最後の最後に無音になったあと、鳥の声とともに人間の会話みたいなものが聞こえるが、それがなんだかよくわからない……というのも、この演奏が「作品」である証拠だと思う。そして3曲目、この演奏はマジで何十回聴いたかわからない。水が流れている音からはじまる。この水の音の豊饒さには聞き惚れる。まさに「水」が録らえられているのだ。そしてベース鍵盤ハーモニカが水と対話する。自然音との対話、みたいな演奏は即興演奏家なら多くのひとが試みてきたと思うが、なかには自然音に完璧に負けているような演奏も多くて、それならただ単に自然音をレコーディングするだけにしておいた方がいいのでは、と思うこともあるが、ここでの高岡氏は「もうひとつの水」と化しているので、聴き手としては全体として「大自然を聴いている」、としか思わない。「水」は凄いのだが、やはりそれをちゃんと伝えてくれる録音が凄いのだ。そして、唐突に現れる電車のパワー。電車は一種のソロイストとして突然出現し、短いソロを残して去る。鍵盤ハーモニカのソロが終わったあと高岡氏は「なにか」をしているのだが、それがなんだかわからない。ぷしゅー、ぷしゅー、という音がなんともいえずかっこいい。
「SIZEN CONCRETE 2」
1曲目はウグイスの鳴き声ではじまる。コロナ禍で引きこもっているあいだ、あまりに運動不足なので、ほとんどひとがいない中山寺に散歩にいく毎日だが、そのときに桂枝雀師匠のお墓にお参りすることにしている。なんやかんやと毎日お墓と対話していると、ウグイスの声が聞こえてくる。風流な、というより、力強い声である。竹林があってそこにウグイスがいるのだ。梅にウグイス、竹にスズメ……というが竹にウグイスなのだ。毎日毎日、ウグイスの声を浴びている。だいぶまえに我孫子さんが京都の山のなかに住んでいたころ、泊まりにいったとき、庭にある木にウグイスの大群が来ていて、めちゃくちゃやかましかったことを思い出す。ウグイスも野生の鳥であり、この人間を癒そうとして鳴いているのではないのだ。1曲目は、その感動をあらたにしてくれる。2曲目も複数の鳥の声のアンサンブル。そこに電車が通る。踏切が鳴る。鳥(ウグイス?)は、明らかに一羽、「俺のソロね」と言ってるやつがいる。そして、そこに「俺もソロする」と言って高岡氏のチューバが加わる。ウグイス同士の絶妙のアンサンブルには感動するしかない。ホーホケキョとストレートに鳴いてるやつもいればグチュグチュグチュ……と潰したような鳴き方のやつもいる。ちゅんちゅんちゅんと雀のように鳴いてるやつもいる。それらがほぼ完璧な、大迫力の、四重、五重の分厚いアンサンブルになっていて、ときに対位法のような瞬間もあり、まるで譜面があるかのようだ。譜面はなくても、コブラのように、だれかが指揮をしているように聞こえる。そして、そのアンサンブルに溶け込むウグイスの一羽としてのチューバ。チューバはウグイスのアンサンブルを壊していない。犬(?)やカラス(?)もどこかで鳴いている。最後に出てくるチューバのシンプルなリフが自由気ままなウグイスたちの演奏を見事にまとめあげている。この二曲目はマジで凄いと思う。これまでウグイスのこれほどの強烈な演奏をとらえた音源があっただろうか。まるでコルトレーンの「アフリカブラス」のようだ。「ウグイスブラス」……といってもいいかも(なんのこっちゃ)。三曲目は鳥の声とともに雷が鳴る。雷というものをこんな風に録音として聴くことがこれまであっただろうか。その「雷」の「伴奏」をしようという、瞠目の試みである。四曲目は本作中の白眉ともいえる演奏で、これを聴いたとき、私は(大げさと思われるかもしれないが)全身が感動でびりびり震えた。何度聴いてもそのびりびりは変わらない。今聞き返しても圧倒的な感動がある。チューバですね。チューバという楽器はこんなにも凄いのかと思う。ここで聴かれるように、一音を「ぶわん……………………」と天に向かって放つだけで凄いのだ。こういうチューバの吹き方もあるのだ。チューバを持って歩き回りながら吹いているのか、とにかく立体的に、低音金管楽器の魅力が伝わってくる。五曲目は「SIZEN CONCRETE 1」であったような蛙たちの饗宴に、高岡氏の笛(?)が加わる。蛙たちのアンサンブルを従えて、ソロイストとして朗々と吹く高岡氏に、蛙たちもいろいろ変化して合いの手を入れたりする。ええ感じのかすれ具合の笛でダイナミクスもすばらしい。録音がいいから、そういうことも伝わるのだ。正直言って、笛は二音ぐらいしか吹いていないのだが、それでもこれほどの表現ができるのだ。以前にアート・アンサンブル・オブ・シカゴのライヴに行ったときにマラカイ・フェイヴァースがおもちゃのような横笛でドン・モイエとふたりでぴょんぴょん飛び跳ねながら即興して、圧倒的な空間を作り出していたことを思う。六曲目は、36分もある長尺の内容で、いきなり超ハイテンションの蛙の鳴き声が凄まじく轟きわたる。私は生まれてから19歳ぐらいまで大阪の新世界に住んでいたが、すぐ近くに天王寺動物園があり、夕方になるとアシカの「アオッ、アオッ、アオッ、アオッ……」という声や象のパオーッ、パオーッ、という声が風に乗って聞こえてきた。この曲の蛙たちはまさにそれに近い大迫力で、野生動物の鳴き声というものの容赦ない破壊力を感じる。しかも、そこに左チャンネルからのグダタン、グダタン……という音(蛙なのかなあ……。電車の音のようにも聞こえるが、とにかくずっと鳴っているパーカッシヴな音)、そしてチューバの柔らかなロングトーンが加わることで、これが「音楽」として完全に成立しているのだ。これはなんの音、これはなんの声……とわからなくても、というか、わからないほうが楽しい。「雨あられ」という言葉を思うような、「音」と「声」が慈雨のように降り注ぐすばらしい演奏です。8分過ぎぐらいから右チャンネルで、「俺のソロだよね」という蛙が出現し、マジで凄いソロをする。ブルーズシンガーのようなダミ声の迫力。そしてそのすべてを合唱が覆い包んだあたりでチューバが再登場する。これは本当に不思議なのだが、そこから蛙たちがどんどん盛り上がっていくのだ。具体的には、ボリュームが増していく。京都の田舎では、毎夜、こんな風な大迫力の演奏が繰り広げられていると思うと、うらやましいとしか言いようがないが、それをこうして作品の形で提示してくれた高岡さんには感謝しかない。なぜかときどき右チャンネルにソロイストが現れる。左側はアンサンブル要員で、右がソロイストという配置なのか(そんなわけない)。そしてテュッティ。ドカーン! と来る。そのあと高岡氏の抑制されたトーンでの素朴なメロディが現れては消えるが、蛙たちは「わしらはまだまだやめへんで」とばかり盛り上がっていく。こんな凄まじい演奏をヒーリング的にとらえることはぜったい不可能だが、こういうえげつない、何万円も払うようなクラシックのオーケストラ公演に匹敵する演奏が日夜いろいろなところで行なわれているとしたら、それはそれでとんでもないことではないか。私は関西に住んでいることで、東京で行われていたいろいろな組み合わせの演奏に接することができないのを本当に口惜しく思っていたのだが、この高岡さんのフィールドレコーディングを聴いて、そんなレベルではないぐらいの壮絶な演奏が日夜垂れ流されていた、ということを知り、考えが変わった。東京でのライヴも蛙の声も、聴けるものは聴ける、聴けないものは聴けない。7曲目はわおわおわおわおわお……という自然音とパーカッション、あるいはパーカッション的なチューバとのデュオ。チューバは、巖が息を吐くような感じの原始的な息吹がある。こういうのって意図してできる、というものではないのだろうなあ。本作の最後8曲目は、ただただ蛙が鳴き続ける。蛙、蛙、蛙、蛙、蛙……………………だ。蛙の声の奔流のなかにひたすら身を置いていると、川端茅舎の有名な句「蛙の目越えて漣又さざなみ」を思い出す。ときどき思い出したかのように左チャンネルで電車が走り、ときどき思い出したかのように右チャンネルでウシガエルが鳴く。そして、圧倒的なアンサンブルがガムランのようにすべてを包み、押し流していく。これが里山で日夜行われている充実した「生」の表現なのだ。小賢しい、人間のコントロールを圧倒して轟く声だ。ゲゲゲの鬼太郎の「ゲゲゲの鬼太郎讃える虫たち、どこかへ鬼太郎は消えていく」というカランコロンの歌を思い出す。自然の精である鬼太郎を讃える虫は、静かにか細く鳴いているのではなく、本作に聴かれるように全力で、朗々と、凄まじい音量で鳴いているのだと思った。
「SATOYAMA CONCRETE」
1曲目、キチキチキチッ……と鳴くのはなんの鳥なのか。そこに雨音と雷の音が加わる。このリアルな迫力。2曲目、くくくく……とベーシックな音で鳴いている蛙のうえにかぶさるようにして左右でタカタカタカ……と強いパーカッションを奏でている蛙。短い演奏。3曲目は鳥の声や犬の吠える声のなかに登場する低音鍵盤ハーモニカ。かなり強く、ソロイストとして鳥たちや犬を従えている感じである。遠くで踏切の警報機の音も鳴っている。ときどき息を吸うときの「ふわおっ」という音が聞こえ、そしてふたたび鍵盤ハーモニカがシンプルに鳴らされる。洟をすする音も聞こえる。それらの生々しい「人間の生活音」を鳥たちが覆う。これはいったいなんなのだ、と言われたら、おそらく演奏者も答えられないだろうと思うが、これはこれなのだ。4曲目は2曲目と同様の蛙たちの思い思いの鳴き声や車か電車かなにかの通過音のなかに「なにかを吹いている」人間の息使いが聞こえる(笛?)。おそらくこのなかで意図的に音を出そうと思って出しているのは高岡氏だけなのだ。かすれた、禅画のような笛のメロディが蛙たちの合唱のなかに、音量としては本当にかすかなのだが、屹立しているように聴こえる。小さな音を聴く喜びがある演奏。5曲目は、3曲目に続いてたくさんの明るい鳥(ウグイス多し)の声と踏切の警笛などのなかにチューバがかなりの音量で吹き鳴らされる。しかも、しっかりしたリフである。「SIZEN CONCRETE 2」の2曲目とも共通する「至上の愛」的なリフがウグイスたちの狂騒に溶け込む。いや、もう……「これでいいのだ!」としか言いようがない。6曲目は蛙のアンサンブルにいきなりチューバが参入する。しっかりしたチューバソロかと思いきや、異常に長い「間」があったりして、そこに風の音や蛙の声が浮かびあがる。こういう演奏体験ができた奏者はまれだろう。いろいろな事情によって、こういう場所でこういう演奏をしてこういう音源を作ることになった……それが「ええことや」とは、個人の事情なのでなんとも言えないのだが、少なくとも一介のリスナーとしては、一期一会のこの録音を全身全霊で味わいますよ、というしかない。最後の7曲目はかなり長尺の演奏で(23分ぐらい)、全体の集大成のような演奏(演奏、と普通に言ってるが、演奏しているのは蛙、鳥、虫、電車、自動車、踏切……などがほとんどではある)。無数の蛙たちがそれぞれのパーカッションを叩きまくり、自動車がどこかへと去り、電車は決められた時刻表に従って走る。高岡氏はなにもしない。口琴をちょこっと奏でるだけだ。我々はただひたすらこの蛙たちの歌に身をゆだねる。ずぶずぶずぶずぶ……浸っていく。危険な感じ……戻ってこられない感じもするが、それもまたよしではないか。あとはただただ蛙、蛙、蛙、蛙……23分にわたる蛙の歌がそこにある。これを「生命の賛歌だ!」とか「蛙たちに元気をもらった」「究極のヒーリングだ」というのもちょっと違う気がする。蛙は、たんに蛙だ。しかし……凄いのだ。蛙は凄い! 蛙は蛙のままで、なにも手を加えなくても凄い。
というわけで3枚のフィールドレコーディングを聴いたが、どれもめちゃくちゃすばらしかった。即興というものの可能性はもうない、というような意見もネットや雑誌のあちこちで見受けるが(私はそんなことは思わないけど)、正直、即興でなくてもよいし、練ったコンポジションでなくてもよいのだ。この圧倒的な蛙たちの合唱のまえでそんな議論は無意味だろう。蛙たちは、即興演奏をしようというような意図で鳴いているのではない。ある程度はオスとメスのコミュニケイションだったり、仲間同士の交歓だったりするのだろうが、意図したオーケストレイションを目指しているのではなく、自由に鳴いているのだ。しかし、それを全体として聴いたときに思わぬ音楽的感動がある。それはつまり聴き手がどうとらえるか、ということで、だからこそ切り取り方、録音のよしあしが重要になってくる。私は、40年ぐらいまえ、高校生のとき、学校で模擬試験を受けていた。そのとき、吹奏楽部がロングトーンをしているのが遠くから聞こえてきた。それぞれ思い思いにする基礎練習なのだが、全体として私の耳には「グローブユニティみたいだな」と思えた。つまり、聴き手の取りようなのである。蛙の歌は、そしてこの3作品はそういうことを私に思い出させてくれた。このコロナ禍で唯一よかったことがあったとすれば、それは私のダウンロードに対する苦手意識がなくなったことだろう。これまでも、ダウンロードしかない音源についてはしかたなくダウンロードしてパソコンで聴く、ということはあったが、それはあくまでCDがない場合の代替品としての利用であって、やはり、ブツがないと安心できなかった。「パソコンがつぶれたらどうすんねん」というわけである。しかし、今回はいろいろと背景に諸事情もあったので、いろんなひとがアップしている音源をたくさん聴いた。そうすることによって、ダウンロードについての偏見が薄れたのである(遅いね)。でも、やっぱり、ブツがあるものについてはこれからもそちらを選択するだろうが。皆さん、本当にすばらしいので「なんで蛙の声聴くのに金払わなあかんねん」とか思わず、ぜひ聴いてください。
「SOUND FISHING HACHIJO」(BLOWBASS 005)
DAISUKE TAKAOKA
2013年の八丈島でのソロ。フィールドレコーディングの音やチューバやパーカッションのソロなどがいろいろ組み合わさっている。7年前の録音だが、昨日録音されたかのように瑞々しい演奏が詰まっている。録音もめちゃくちゃ良くて、波とチューバのデュオ(?)など目のまえに光景が浮かぶようだ。蝉しぐれや鳥の鳴き声の後ろで聞こえるのは滝の音か川の音だろうか。船上で録音されたただの波の音が、なぜここまで感動的なのか。どこで吹いているのか、どうやってこの効果を出しているのかわからないが、ものすごい残響がある場所でのチューバソロなどはまるで山彦と会話しているみたいだ(「POOL」と題された演奏が3曲入っていて、それらがそういうやつ。どれも凄い)。とにかく凄すぎて、どうやってやってるのか……とかどうでもよくなってくる。気持ちいい。とにかく気持ちいい。「TAIKO」という演奏の最後に入っている女性の声も最高(商業録音ならこんなん入らんわなあ……)。「SCREAMING」という演奏のタイトルの意味は最後のほうまで聴いてやっとわかった。全部で16曲入っていて、15曲目の「NIGHTCAP」という演奏が約8分で一番長いのだが、微細なチューバの音の変化だけでなく、その背後の虫のすだく声や高岡氏が鼻から息を吸うリアルな音(かなり大きく録音されている)も全部音楽になっていると思う。チューバの演奏に関してはたぶんさまざまな高度なテクニックが使われているのだろうが、聴いているとだんだんそういうことはどうでもよくなってくる。巨大な大自然のなかでは人間や楽器は小さな存在のひとつであり、我々はただただ高岡大祐というミュージシャンとチューバという楽器と巨大な自然との融合をそのまま享受するのがいちばんいいのだろう。フィールドレコーディングだと、ときとして自然と対峙し、自然と勝負する、というような演奏になる場合があり、そうなるとどうしても勝ち負けの話になってしまうが(たいがい人間が負ける)、高岡大祐はそういうのとはまったく関係ない道を選択しているようだ。一曲一曲は短いが、全部通して聴くとひとつのドラマのようで編集のセンスも光る(カウベルソロではじまり、カウベルソロで幕を閉じる)。タイトルもこれ以上ない、というぐらいぴったりしている。傑作としか言いようがありません。
「LIVE」(BLOW BASS−006)
BRIGHT MOMENTS QUARTET
ローランド・カークのアルバムタイトルをグループ名にしたこのグループの最新録音だが、あまりにかっこよすぎてのけぞった。全部で73分28秒あるが、それが一瞬に感じるほどひたすらわくわくしまくった。4人だとは信じられないほどの濃厚で濃密な音の塊が目のまえに天井まで立ちはだかっており、そこに聴衆のひとりとして入っていく……みたいな体験をした。なんというか、部屋一杯に満たされた音のゼリーのなかに足を踏み入れ、全身の穴という穴を音で満たされて恍惚となる……という感じ。録音もすばらしい。四人の音がそれぞれはっきりと聴こえる。私はどちらかというとスカスカの即興が好きなのだ。それは、聴き手としてその空白の部分に自分を投入することができるからなのだが、この演奏は聴いていて自分を突っ込める隙間がない。キチキチだ。しかし、なぜかそれなのにこちらの魂をひたすら遊ばせてくれるような自由度がある。こういう演奏を聴くことは、小説を書くことへのやる気をかきたててくれるので、私にとってはどうしても必要なのである。もちろんライヴで摂取する方が、より効き目はあるかもしれないが、正直、こうやって何度も何度も体験できる録音ブツはうれしいし、宝物を所持しているような気持ちになる。場面がどんどん変わっていき、ひとところにとどまらないのも私の好みで、もちろんフジツボかイソギンチャクのようにひとところにじっと定着して展開していく即興にもすごいのはたくさんあると思うが、個人的には川のように動いているのが楽しい。こういう演奏を聴くことが生きていくうえでのエネルギーになる。そういうものが同時代的にある(それも、たくさん)というのは本当にありがたいことである。四人とも信念をもって演奏していることも強く伝わってくる。そう言う意味でも、じぶんもちゃんとやらなきゃ、と思うし、そういう切迫感のある音楽だ。ドルフィーなんかとも共通する切迫感。たとえ政治がどうなろうと戦争が起ころうと子どもが殺されようと明日もあさってもこの世界は続くんだからのんびりいこうよ……とは思わせてくれない切実さ。かっこよく、ドロドロしていて、しかもすがすがしく、楽しい音楽だ。この四人に感謝。