kazunori takeda

「INFINITY」(AKETA’S DISK AD−25CD)
TAKEDA KAZUNORI MEETS FURUSAWA RYOJIRO

 武田和命追悼盤としては「アイ・ディデュント・ノウ・アバウト・ユー」に先立つ作品。古澤良治郎との邂逅をとらえた、ピアノレストリオによるライヴで、武田節がたっぷり聴ける。武田和命というひとは、「骨太」とか「無骨」とかいう言葉がぴったりで、決して流麗ではないが、その存在感は圧倒的である。私は山下トリオでの演奏はたぶん十回以上聴いているし、いろいろなセッションや自己のクインテットでの演奏にも接しているが、世間では「武田は山下トリオにははまらなかった」とか「坂田に比べると……」的な意見があるようだが、私は山下トリオでの武田さんのプレイはけっして悪くなかったと思っている。ベースレスという編成で、山下洋輔のコンピングにのって吹く武田さんのフレーズひとつひとつは、鉈でぶった切るような迫力があったし、フリージャズというものをなにもかも心得ている坂田さんの派手で縦横無尽なソロに比べて、ずっと考えに考えて一音を出し、また考えて一音を出す、という武田のスタイルは、一聴、のろのろ運転のようだが、じつはものすごいスピード感があり、はまると病みつきになるのだ。あの時期は、完全にかたまってしまった山下トリオのコンセプトを一度バラバラにして、「とにかくなにをやってもいいんだ」というフリージャズというもののありかた(?)を聴き手に一から考え直させてくれた大事な期間だったと思う。山下トリオ解散後の武田さんは、セッションや自己のバンドなどで活躍したが、こういうスタンダードを演らせると、本当に、さっきも書いたが無骨で骨太で、ええ感じに「もっさり」した演奏になり、最高である。独特の間や、太く、ある意味愛想のない中音域や、コルトレーンに似た、やや細い高音や、時折見せるハーモニクスによるフリークトーン、バップを基礎とした、これまた愛想のないフレージング(たどたどしいと言ってもいい)……それらがあいまった個性はまさにワンアンドオンリーで、ほんとにすばらしい。本作は残念ながらあまり録音状態はよいとはいえないが、内容は聴きごたえ十分である。武田さんのスタイルについて、ライナーで明田川さんが書いているが、これがさすがにミュージシャン同士というか、「わかってらっしゃる」文章なのである。私にはここまではっきり言い切ることはできない、というぐらい踏み込んだ意見だ。つまり、武田さんのテナーはすごく下手に聞こえるし、自分も最初はそう思った、とはっきり書いたうえで、しかし、調子がいいときの武田さんは素晴らしいし、引き締まった音もすごい、というようなことを具体的に書いている。まさにそのとおりで、付け加えるべき言葉はない。武田さんのテナーは、たしかに好不調がなきにしもあらずで、つねに100%を求めるようなスタイルである山下トリオとはそういう意味ではまらなかったかもしれない(山下トリオはフリージャズであるが、なおかつプロフェッショナルのエンタテインメントだから)。しかし、我々リスナーは意外と辛抱強いし、そのあたりもよくわかっているものなので、武田さんのテナーがその日いまいち不発でも、次回に期待しようと思って、さほど気にしないものだ。そして、武田さんがノリにのったときに聴かせてくれる魂のブロウや、天上へ届かんばかりの盛り上がり、不調のときが嘘のようにフレーズが魔法のようにつながっていきどんどん高みに向かっていく高揚感……などを一度体験すると、またいつかきっと……と思ってしまうのだ。ジャズというのはそういうものではないだろうか。本作の話に戻ると、全曲スタンダードで、そのなかを武田さんのテナーが遊びたわむれているかのごとく自由に漂っている。こういうピアノレスの編成はテナーマンにとって、裸の自分が出せる、というより出てしまう、実力を試されるような露骨なセッティングであり、怖いといえば怖いはずだが、武田〜吉野弘志〜古澤の3人は、このアルバムによって我々に1時間弱のモダンジャズの夢を見せてくれる。こういうときの武田のテナーは、曲がなんだろうが関係なく、とにかく気持ちの赴くままに吹きまくり(豪快ということではない。無骨なのだ)、まさに武田流フリージャズである。テーマに戻った瞬間に、あっ、この曲をやっていたのか、とわかる程度で、ソロの部分は本当に「遊んでいる」感じだ。個人的には「オールド・フォークス」がいちばん好きだが、本作もめちゃめちゃ好きだ(「オールド・フォークス」は渋谷さんのリーダー作、あるいは双頭リーダー作なのかなあ)。だが、いやいや、まだまだこんなもんじゃない、とも思う。きっともっともっとすばらしい音源がたくさん埋もれているはずだ。どんどん発掘してほしい。

「GENTLE NOVEMBER」(FRASCO OMAGATOKI SC−7104)
KAZUNORI TAKEDA

 本作をはじめて聴いたときは私はまだ学生で、山下トリオを追っかけていた。坂田明さんが好きでアルトをはじめたのだが、山下トリオで坂田さんが入った状態のやつは一回しか聴いたことがなく、それも武田さんがプラスワンでくわわっている編成だったような気がする。そのあと坂田さんは退団し、武田さんの入った新山下トリオがスタートする。私が一番よくライヴに行った山下トリオはこの時期のものである。山下トリオでの武田さんは、いわゆるどしゃめしゃのフリージャズを要求され、それに真摯に応えようとしていたが、そのあたりは前任の坂田さんがきわめてしまっていて、武田さんはああいう細かいフレーズをものすごい勢いで吹きまくるといったタイプではないのにそういう「役」を負っていたのだ……と私は勝手に思っていた。それは山下トリオの方法論に立脚することだから、山下トリオの一員になった以上はそうせざるをえないわけだが、武骨にゴツゴツしたフレーズを吹く武田さんの演奏はとてもダークですばらしかった。そこで出たアルバムが本作で、初リーダーアルバムである。我々は、平岡正明の書いた「朝日のようにさわやかに」(だったっけ?)というエッセイによる刷り込みで、エルヴィン・ジョーンズと対等に吹きまくる、ハーモニクスなどを駆使してコルトレーンのように激烈な演奏をするテナー吹き、と武田さんを認識しており、ドラムが森山威男であることもあって、「幻のテナーマン」によるさぞかしゴリゴリの演奏が収録されているのだろうと勝手に思っていたわけだが、聴いてみて「え? バラード集?」となった。1、2曲バラードが入るのはもちろん歓迎だが、初リーダー作がいきなり全曲バラードというのはどうよ? と思った。まあ、2作目、3作目でそういう演奏も聴けるだろうと思っていたら、結局武田さんは、アケタズディスクからのライヴ音源をCD化したものや、DVDなどを除くと、きちんとした形でのアルバムは本作だけしか残さず逝ってしまった。学生のころの私は、本作のような演奏を聴くよりは、もっと過激でエグい演奏を好んでいたので、本作の評価はいまひとつだった。アルバムも所持していたが、金がないときに売ってしまった。で、月日はめぐって、今はどうなのかというと、これがもう、自分でも信じられないのだが、このアルバムを聴くとうるうる……となるのだ。今日も聞いていて、一曲目が終わるあたりで泣きそうになった。それぐらい大好きになったのだ。フレーズの端々まで、ちょっとしたニュアンスも覚えてしまうほど聴きまくり、いやー、いいねえ、こんな風にバラードを吹けるテナー吹きがほかにいるか! と思う。聴くたびに感動する。この深み、この味わい。クールな吹き方のようでじつは熱い。コルトレーンのバラードの吹き方を真似た、というより、コルトレーンと同じ域にまで達したために勝手にこうなった、というような演奏である。今にして思えば、武田さんのジャズシーン復帰第一作がバラード集で本当によかったなあと思う。そして、山下さんの慧眼に恐れ入りまくるのである。後半4曲の武田作曲のバラードもスタンダードと遜色ない出来である。傑作!