gary thomas

「OVERKILL」(WINTER & WINTER 051027−03)
GARY THOMAS

 なんやねん、これ。かっこよくない、とは言わん。ひじょーに過激である点もよい。意欲的だし、真っ向勝負だし、マジである。しかし……ラップやからなあ。自分の演奏に、ラップの要素を加えてみました、というようなものではない。徹頭徹尾ラップで、ゲイリー・トーマスのテナーソロは本当に添え物。ちらっと出てくるだけ。それだけ本気なのだ、本気でラップアルバムを作りたかったのだ、ということはわかる。曲はほとんどゲイリー・トーマス自身のものだし、たぶんラップアルバムとしても(よくわからんが)よくできているのだろうと思うが……まあ、きっともう聴かんやろな。

「SEVENTH QUADRANT」(ENJA RECORDS 5047)
GARY THOMAS

 小説家でもマンガ家でも芸人でも落語家でもそうだが、自分の好きなミュージシャン、一時は死ぬほど惚れ込んでいたミュージシャンの音楽性、演奏が、自分の好みとはちがっていった場合どうするか、という問題がある。俺の好みとはちがってきたんだから、もう聴かないよ、昔の好きだったころのアルバムを繰り返し聴くよ、という方法もある。または、いやいや、一度惚れ込んだ相手だ、向こうがなにをやろうが、それが彼の今一番やりたいことなら俺はとことんついていくよ、という方法もある。このゲイリー・トーマスがまさに私にとってそういうミュージシャンであって、初リーダー作(のはず)の本作が出たときは狂喜乱舞し、すげーっ、こいつはすげーっと思って、いやー、惚れちゃいました、なにからなにまで惚れちゃいました、一生着いていきます、と全幅の信頼を寄せ、リーダー作はおろか、参加作はことごとく聴きまくった。マイルスグループに抜擢されるときいたときは万歳三唱し、ボブ・バーグとの2テナー? うーん、これはどえらいことになったもんやなあとうれし涙をぬぐったものである。しかし、ゲイリー・トーマスとボブ・バーグの不仲が報じられ、まあ、そうやろなあ、気持ちはわかるわ、とは思ったが、ボブ・バーグはその後私が一番関心のないタイプのフュージョンのひととなり、あの凄かった音色も捨てて、ブレッカー的な音になり(そこがいちばんショックだった)、しかも、不運にも若死にしてしまった。もちろんデンオンの諸作も悪くないのだが、かつてのあの異常ともいうべき凄まじい演奏を聴いている身としては(それが彼にはデフォルトだった)、どうも聞き返す気にならん。そして、ゲイリー・トーマスも、なんだか迷走しているような気がする。ヒップホップのアルバムを出したり(しかも、サックスはほとんど吹いていない)、ジャズのビッグバンドに入ったり、なにやっとんじゃおまえは! と言いたくなるのだ。というのも、この初リーダー作で、ジェフ・ワッツらを従えて思う存分自分のやりたいことをやっているこの演奏のほうが、最近の彼よりもはるかに腰の据わった、ふてぶてしい感じに思えるからなのだ。ここでここまで昂揚していたミュージシャンが、なぜ? なぜ? なぜなぜなぜ? と思うのも無理ないでしょ? とにかく本作は凄いのだ。今聴いても衝撃はまるで衰えていない。テナーサックスというものは、ここまで鋼鉄のような音が出る楽器なのか、と思った。コルトレーンが、テナーから鋼鉄の音を引き出した、と言われているが、そんなものではない。ゲイリーの音は、ほんとうに真っ黒い馬鹿でかいそして冷たく無機質な鋼鉄(はがね)のようだ。それは、R&Bとかロック系のサックス奏者が、エッジの立ったメタリックな音を出すというのとはまるでレベルがちがい、黒々とした、とてつもなつ太い、ダークで冷え切った、巨大なロボットのような現代的な音だ(アジャストーン?)。その音で、彼は歌心のかけらもない、いや、彼なりの歌心なのかもしれないが、複雑なフレーズを圧倒的なテクニックで一瞬の躊躇もなくひたすら吹きまくる。本作では相棒のギタリストポール・ボーレンバックとともに暴れまくっている。初リーダー作としては、ピアノにリニー・ロスネス、ベースにアンソニー・コックスと豪華な布陣だが、リズムに気を使うゲイリーは本作でもジェフ・ワッツという凄腕ドラマーをバックにして、それと対峙するように吹いて吹いて吹き倒す。まるでふたつのドラマーが闘っているかのようだがじつは(あたりまえだが)協調しているのだ。そこに生まれる音楽は、(あの当時はとくに)未来のジャズだと単純に私は思ったものだ。そうか、ジャズはここまで来た、コルトレーンやマイルスがいなくてもまったく安心だ、ダイジョーV! と思った。私にとってゲイリーはジャズの未来であり、頼りになる存在であり、自分を投影できる、あるいは自分の代わりになにかをしでかしてくれるミュージシャンだったのだ。正直、そのころ流行りかけていたMベースとかはまったく関心がなかった。スティーヴ・コールマンのアルトの音色が好きではなかった(今でも。だから菊地さんが雑誌のアンケートに、音色の好きなサックス奏者としてスティーヴ・コールマンを挙げていたので驚いた)。ドラムのマーヴィン・スミッティ・スミスはスゲーッと思った。あのころは耳が腐っていた時期なので(今もダメ耳にはちがいないが)、今聴いたら、スティーヴ・コールマンめちゃくちゃスゲーッとなるかもしれない(ソロアルバムは私はダメでした)。本作の主人公であるゲイリー・トーマスもMベース派だと雑誌では報じられていたが、アホかおまえら、どこに耳つけとんねん、こいつの音楽はあんなんとはまったくちがうで! はるかにすごいし、はるかにドスが利いたジャズやで、と一人で吠えていた。本作は、1曲目でそのコンポーズ力をまず見せ付け、3曲目におけるドラムとのバトルでその圧倒的なテナーモンスターぶりを示し、B−1ではフルートでもリズムセクションを引きずり倒し、あおり倒す異能ぶりをみせ、そしてラストの曲で、ゲイリー・トーマスという獰猛なサックス怪獣の恐怖を徹底的にリスナーの骨身に染みさせる。これはすごい。これはこわい。ああ、一生ついていきます、とこの時点では思った私だったのだが。

「CODE VIOLATIONS」(ENJA RECORDS 5085 1)
GARY THOMAS AND SEVENTH QUADRANT

 1枚目のタイトルをグループ名にした2作目は、相棒のギタリストポール・ボーレンバックとベースのアンソニー・コックス以外のメンバーを入れ替えた面子での録音で、ドラマーがスティーヴ・ウィリアムスとデニス・チェンバースである点に興味が引かれるだろう(デニス・チェンバースは高校のころからの友達らしい。どっちも凄いのだが)。1曲目はまさにゲイリーの個性が出た作曲で、不穏なイントロ部からテーマのあとも、テナー奏者は姿を現さない。ベースソロとピアノソロを経て、ようやくあの黒々としたビッグトーンが登場するが、それはまさに太平洋の底から怪物が浮上した感がある。私はかつて本作が出たときにすぐ聴いて、ああ、ジャズはもう、楽しくスウィングして、イエーイとかいって聴く音楽ではなくなったなあ、と感動したものでありました。このハードでストイックでヘヴィでシリアスな演奏には、従来の気楽な聴き方の入り込む余地はなく、コルトレーンやマイルス、フリージャズの諸作ですら、そういう聴き方が可能だったのに、そういった享楽的というか呑気な要素がすべて削ぎ落とされた音楽になったのだと思った(それはもちろんまちがいだったけど)。2曲目はデニス・チェンバースとの壮絶なデュオである。一瞬のためらいもなくひたすらゴール(あるのかないのかわからない)を目指して邁進するふたりは、とめようがない。3曲目はフルートによる曲だが、フルートもテナーも同じで、ゲイリー・トーマスが吹くと、バンドが唸り、悶える。ここでは、ギターも主役を張っていて、フルートと二重螺旋を描くようにして高みへあがっていく。この作り込まれた演奏は、社会人になって右も左もわからず、お先真っ暗闇、人生終わったなあという精神的どん底にいた私のこころを鷲づかみにした。4曲目は珍しく非常にフリーな感じの演奏で、フルートとアコースティックギターのデュオである。ビート感はなく、リズムはあるのだが、現れてはまたうたかたのように消えていく。はかない美をもった即興的な演奏。5曲目はタイトルにもなっている「コード・バイオレイションズ」で、きわめて厳格な構築美をもった曲である。このコンポジションもまさにゲイリー・トーマス的で、5拍子の、悪夢を見ているかのようなギーガー的グロテスクさのある世界が一種異様な危うさをもってじりじりとつづられていく。ソロになってもその冷徹な空気は持続し、従来のジャズのように、ああ、ソロパートだ、というような解放感がなく、テーマと同様の暗さ、冷徹さが維持されつつ、聴く者を不気味な熱気のなかに巻き込んでいく。ブロウしても、スクリームしても、全体のサウンドは強固で息詰まるような緊張が延々と続く。すごい演奏だ。B面にいって、1曲目はリフ曲なのだが、テナーソロにずっとハーモナイザーが使われているので、ソロだかコンポジションだかわからないような感じに聞える。しかし、途中からソロが白熱化していき、普通のジャズソロとして聴くことができるようになるので、少しホッとする。それでもかなりえぐい演奏ではあるが、本作のなかでは唯一といっていいぐらいいわゆる「ジャズ」である。2曲目はフルートによる不安定で憂鬱なバラード。ウェザーリポートのある種の演奏を思わせるような、深さと暗さがある。ギターやベースが、「盛り上がって、最後にクライマックス」というジャズソロのパターンを壊すような、行く当てのないソロをつなげていく。3曲目はこれも当時のゲイリー・トーマスの面目躍如的な曲で、小気味よいドラムのビートに乗っての先発ソロのピアノ(ティム・マーフィ)の叩きつけるようなパーカッシヴなソロが、ジャズのパロディに聞えるほど、この時点ではゲイリー・トーマスのサウンドに毒されてしまっている。ゲイリーのソロは流暢だが、一般的な歌心を排した、甘さのかけらもないものだ。かっこいいねーっ。このひとが、学生時代はずっとデクスター・ゴードンのコピーをしていたというんだから、おもしろいよね。そういうビバップのフレーズ集から一番遠いところにいる演奏だ。テナーがスクリームするたびにデニス・チェンバースが逆に煽られたようにドラム全体を鳴らすのが、また凄まじいです。最後の曲は、スペーシーなというのか、ちょっと古臭いか(?)と思ってしまうようなシンセ(たぶんギターシンセ)のイントロではじまるが、内容は4ビートに乗ったシンセとテナーのチェイスのような展開で、そのあとけっこうぐちゃぐちゃになる。正直、このアルバムでいちばんわけのわからん曲だ。シンセのソロ(?)になり、ドラムとガチンコになるあたりは筆舌に尽くしがたいかっこよさがある。最後は、これから盛り上がりそうなところで、唐突に終わる。いや、1曲も気を抜けないアルバムです。傑作。エンヤの1枚目とこの2枚目は鉄壁だ。

「BY ANY MEANS NECESSARY」(BAMBOO POCJ−1973)
GARY THOMAS & SEVENTH QUADRANT

 エンヤからバンブーに移籍しての第一弾。世間的には、本作ではじけたということになっているのだろうか。私には、前2作の延長のように思える。メンバーも、基本的には前作「コード・ヴァイブレイションズ」と同じで、ただ、片腕のように(私は)感じていたギターのボーレンバックがいないというのが一番の変化だろう。あとは、ピアノにティム・マーフィー、ベースにアンソニー・コックス、ドラムにデニス・チェンバースと前作と同じで、そこに曲によっていろいろなゲストが加わる。ナナ・ヴァスコンセロスとかジョン・スコといった大物も参加している(ナナはほとんど全曲に参加しているので、ゲストともいえんかも)。演奏は、曲調といい、内容といい、前の2作を踏襲しており、テナーの音がハーモナイザーの使用が抑えられているからか、かなり聴きやすくなってはいると思うが(曲による。4曲目とかは思いきってかなりかけている)、その過激さ、過剰さ、シリアスさ、ストイックさはいささかも減じていないし、より方向性が明確になり、バンドが一丸となっている感じが高まっている。ハードボイルドとは、こういう演奏のことを言うのだよ……と思う。1曲目と2曲目あたりはまさにそういう演奏で、言うことはなにもない。ただ、聴くだけだ。長い長い、聴いていると息苦しくなってくるようなものすごく複雑なテーマを、超絶テクニックでしかも無愛想にビシッと吹いていくゲイリーのテナーに、彼の美学を感じる。ジョン・スコフィールドの加わった3曲は、A−3のほうはマイルスも演奏している「ユア・アンダー・アレスト」だが、あんまり関係ない。ジョン・スコもこのグループに完全に溶け込んでギターを弾きまくっているが、ボーレンバックのほうがよりむちゃくちゃだったような気もする。5曲目はフルート。フルートもほんとうにうまい。テナーの変態的なフレージングをフルートに置き換えている感じで、フルート奏者としてもかなり個性的なソロをするひとりではないでしょうか(もともとクラシックのフルート奏者だったらしい)。ジェリ・アレンのアコースティックピアノも、訥々としながらも急所を攻めてくる風でかっこいい。6曲目はナナのパーカッションやクイーカが鳴り響き、ベースやミック・グッドリックのギターがからみ合う、いかにもの「現代ジャズ」的な演奏で、ゲイリー・トーマスのテナーソロもまさしくそんな感じ。めちゃめちゃうまい。8曲目もそうかな。いわゆるジャズを鑑賞する文脈(?)で楽しめます。これまたハードボイルド。7曲目と9曲目はグレッグ・オスビーが参加しているがアルトの音はよくわからない(シンセだけ?)。前者はフルートとシンセかビリンバウみたいなもの(?)によってはじまる幽玄な演奏。即興なのだろうか。気持ちが一音一音に行き届いていて、ものすごく気持ちいいが、惜しむらくはすぐに終わる。後者はこれもやや古い感じ(わざと?)のシンセの音がちりばめられた演奏で、サックスソロはテナーとアルトのバトル(?)なのだが、どちらもハーモナイザーをきつくかけてあるので、まるで一本のサックスが続けて演奏しているように聞える。はっきり言って、めちゃめちゃかっこいいです。このふたりはほかのアルバムでもフロントをつとめてバトルをしたりしているが、ここでの演奏が白眉だと思う。まさに激突という感じ。しかも知的かつパワフルなぶつかりあいだ。というわけで、全体に、エンヤでの2作の集大成的な感じもあり、よりサウンドが練り込まれ、ゲイリー・トーマスの音楽観・世界観として完璧に構築されたようにも思うし、ある意味「手慣れた」感覚もあるが、その目指す音楽性にはいささかのブレもないようだ。未来を見通すまなざしというか……。ただし、エンヤでの2作のような切迫感というか、このアルバムで俺はすべてを出して、明日死んでもいい、みたいなギリギリの感覚はない。この時点でも一生ついていく予定だったのだが、このつぎの作品(「ゲイト・イズ・オープン」)がスタンダード集で、あまりのことにびっくりしてしまったのだった。もちろんゲイリー・トーマス流のスタンダード演奏なのだが、うーん……久しぶりに聴き直してみようかなー。

「THE KOLD KAGE」(BAMBOO POCJ−1070)
GARY THOMAS

 スタンダード集(?)の「ゲイト・イズ・オープン」を経ての本作である。「ゲイト・イズ……」はいわゆる企画物と考え、ゲイリー・トーマスの本分は本作にこそ継承されているはずだと思って聴いてみると、なんと、10曲中5曲、つまり半分がラップが本格的にフィーチュアされている。しかもそのうちの何曲かはゲイリー・トーマス自身がラッパーとなっている。このアルバムが出た91年頃は、ジャズミュージシャンがラップをフィーチュアするのが流行っていて、それが音楽的必然性だ、という論調の記事とか評論をよく目にしたが、私は「はあ?」と思っていて、今でもデヴィッド・マレイとかがラッパーと共演するのは、なんせ英語がわからんので、なにかを主張しているのだとしてもすんませんわかりませんというしかない。歌詞カードを見ろというかもしれないが、英語がわからない身としては歌詞カードがあってもぼんやりとしか意味はわからないし、翻訳して、それで「どう?」といわれても、その時点ですでにラップである意味からはかなり遠ざかった状態になっているでしょう。というわけで、スティーヴ・コールマンやブランフォードやゲイリー・トーマスやコートニー・パインやマレイやWSQやシェップや……もちろんマイルスもだが、ジャズマンがみんなラップをフィーチュアするようになって、私はちょっとへこたれた。そもそもジャズとジャズボーカルは同じようでやはり違うわけで、あ、この問題を語り出すと長くなるし、ドツボにはまるのでやめておくがとにかく本作はそのコンセプトの段階で私は半分興味が失せているのだ。でもね、本音を言うと、本作はものすごーくかっこええのである。それぐらいは私にもわかる。ただ、ラップの部分が「わからん」というのが、なんとなく「負けた気分」というか、おまえは本当に俺の音楽をわかってないだろ、英語も理解できない野郎にはよ、と言われてるような気になってしまい、冷静に聴けないのである。そんなん関係ないやん、サウンドとして楽しめばええやん、という意見もあるだろうし、そういう聴き方でOKなものも(たぶん)あるが、なかなか「そやな!」とスパッと割り切れないのです。以下、そういうことについてネチネチ書くと、たとえば1曲目などはめちゃめちゃかっこいいし、音楽的にもセブンス・カドラントの延長にある(メンバーもまさにそう。ギターも、ボーレンバックが戻ってきているし)と思うが、曲調が全体にキャッチーになっているかも、という以外はなんら問題なく楽しく聴ける。2曲目など、ゲイリー・トーマスにしては珍しく「歌心」を感じさせるようなソロだったりする。マルグリュー・ミラーは(ほかの連中に比べると)叙情性のあるええソロをしているし、ボーレンバックもすばらしい。しかし3曲目は、かっこいいんだけど、やはりラップが出てくると「なにいうてはるの?」という気持ちになって、音楽に入っていけない。ラップの部分だけ無視したらええやん、とか、歌詞の意味がわからなくてもサウンドとしてとらえればいいんだよ、という意見もあるかもしれないが、いや、きっとここでのメッセージが曲を味わうに重要にちがいない、とつい思ってしまうのだ。4曲目以降もおなじで、冒頭にラップがかまされると、やはりなにを言ってるのかが気になってしまう。一生懸命聴いても、かなりエグいことを言ってるらしい、という以外はわからん。ゲットーがどうの、マネーがどうの、死がどうの、ホームレスがどうの、仕事がどうのといったワードがかろうじて聞き取れるから、貧困とか現代社会を批判したものなのだろうが、「ブラックなんとかがストロングで」というのもわかった。これは結局、アーチー・シェップやらアミリ・バラカやらがやってたことと基本は一緒なのか? 音楽に政治を持ち込んでいるということか? それすら、私の馬鹿耳ではわからんのです。5曲目と6曲目はラップがないので、楽しくというか平常心で聴ける。5曲目はテナー、6曲目はフルートによる演奏で、めちゃめちかっこいい。7曲目はもろに全編ラップで、これは歌詞カードをみてもなにを言わんとしているのかわからない。すいません。テナーソロもそれなりの長さはあるが、なぜかそれほどこころ引かれない。マルグリュー・ミラーのピアノソロもいいが、それをぶった切るようにラップがふたたびフィーチュアされる。8曲目は超短い小品的な曲。9曲目はゲイリー自身のラップがいきなり飛び出てくるが、やっぱりなに言うてはるのか聞き取れん。そのあとのゲイリーのテナーソロ自体はあっというほど凄まじくてかっこよすぎるので、そのあたりはめちゃくちゃ好きなのだが、頭のどこかに、最初のラップはなに言うてたんだろうと思ってしまうのである(まあ、ブラックパワー! みたいなことのようだが)。このあたりで、私がゲイリー・トーマスのつぎのアルバムを聴く気が薄れたとしても、それはもうしょうがないでしょう。ラップが悪いとか言ってるんじゃないんです。これはもうどうにもならんよ。すまんゲイリー。だって、それならエンヤの2枚とか「バイ・エニー・ミーンズ・ネセサリー」を聴けばいいのだからね。というわけで、このあとに出たパット・メセニーとのスタンダード集も、その後レーベルを写ってウィンター・アンド・ウィンターに行ってからも、なんとなくどこかでぼんやりと耳にしたが、すでにあれほどハマッていた私とゲイリー・トーマスの蜜月時代は終わっていたのです。遅ればせながら購入して聴いたアルバムもあることはあるのだが、うーん……これはしゃあないよね。