「LIVE AT KOLN」(JAMRICE JACD−0401)
MASAHIKO TOGASHI TRIO
富樫雅彦の最後のライヴ盤と考えられる。現在、彼は演奏活動をやめてしまっており、復活はのぞめないらしい。このアルバムは、山下洋輔がピアノだが、富樫〜山下トリオではなく、富樫トリオなのである。そのあたりが本作を聴く鍵なのだろうか。二枚組で、管楽器のいないピアノトリオのフォーマットではあるが、コンポジションといい、演奏内容といい、ひじょうに濃い。正直なところ、富樫はすでに全盛期のあの鋭さを失っているが、そのことは山下もよくわかっていて、もう対等とはいえないドラムに対して、アルバムをひとりで背負うがごときがんばりを見せる。そこが、このアルバムの聞き所でもある。しかし、本当の聞き所は、音数少なく、パワーもなく、思うようにスティックが動かないにちがいない富樫が、じつは本作のバックに常に存在していて、演奏の動向に巨大な影を落としているというところだ。やはり、このアルバムは「富樫雅彦トリオ」なのである。けっして「天才の残滓」などではない、富樫が最後に誇れるアルバムである。重い、本当に重い作品で、今後、何度も聞き返せないかもしれないが、このずっしりした重さを感じるためにも、がんばって聴き続けていきたいと思う。
「SPIRITUAL NATURE」(EAST WIND 15PJ−1011)
MASAHIKO TOGASHI
これぞ、録音当時の日本ジャズの総力を結集した最高の「音楽」であった。フリーとか主流派とか関係なく、創造的な演奏をするミュージシャンが集い、富樫雅彦の指揮のもと、すばらしいものを作り上げたのである。その成果は、この一枚のディスクに見事に収録されている。はじめて聞いたのはたぶん大学1年生のころだったと思うが、私はこのアルバムを聴くまで、フリージャズというのはどしゃめしゃ暴れまくり、叫びまくるものだと思っていた。それが好きだったわけだが、本作を聴いてはじめて目から鱗が落ちた、というか、鱗が100万枚ほど落ちた。静寂かつ躍動的な「生」がコンポジションと即興によって表現されている。ジャズを原点として、ここまですばらしい音世界、音絵巻が創造できるのか、という驚愕、感動、そして法悦。宗教的とさえいってよいほどの世界観が描かれている。もしかすると、一部のひとはこれを「桃源郷」である、とか「あの世」である、とかいうかもしれない。それぐらい「高み」を感じさせる演奏だ。ああ、日本のジャズはこのアルバム録音当時、ここまでいってしまったのだなあ。世界に通用する、という言葉はある意味いやな言葉ではあるが、当時の日本ジャズにとって、この作品が「できてしまった」ことはどれだけ強力な礎となったことだろう。あきらかに世界でも最高レベルの音楽なのである。そして、その感動は今聞いてもまったく色あせることはない。メンバーは、渡辺貞夫をはじめとして、全員が富樫の意図をきちんと把握したうえで、自分の演奏をしていてすばらしいが、特筆すべきは佐藤允彦で、彼のピアノは「水」を表現しているらしいが、たしかにどう聞いても「水」以外のなにものでもない、と感じさせる。標題音楽的であるが、即興演奏でここまでできるのだ、という凄さに、学生時代の私はスピーカーのまえで慄然としていたのでした。以来、ずっと佐藤さんのファンです。フュージョンブームのまっただ中だった大学一年のとき、ある野外ジャズフェスティバルで、深夜、フュージョンバンドに混じって、富樫〜佐藤デュオが出演した。馬鹿な客が「フリージャズは帰れ」「やめろやめろ」と叫んでいるなか、彼らは凛とした即興を演奏しつづけたが、私はそういう馬鹿な客に腹をたてる、というより、どうしてこの感動的な演奏がわからないのか、とずっと疑問に思っていた。普通に聴けば、だれでもそのよさがわかるはずの、なんら難解なところのない純粋な音楽なのに。
「THE FACE OF PERCUSSION」(PADDLE WHEEL K28P−6050)
MASAHIKO TOGASHI
ふだんはあまり、サックスが入っていないアルバムを購入することはないが、金のない学生時代はその傾向がもっとひどくて、ピアノトリオだの、ギターカルテットだの、なんで俺が買わなあかんねん、と思っていた。しかし、富樫がパーカッションだけを演奏したこのアルバムだけはどうしても聴きたくて、考えに考えたすえ、購入してしまった。真っ青な空にぽつんとアオスジアゲハが飛翔している、大胆な構図のジャケットもすばらしい(富樫自身が撮影した写真らしい)が、内容もマジで素晴らしく、ドラムソロなのに作曲? という私の認識不足を一瞬にして打ち砕いてくれた。たしかに、どの曲も、「即興的パーカッションソロ」というべきではなく、「富樫の曲」であり、その曲に基づいて、即興が行われ、きちんと完結している。その感動は、「ひとりスピリチュアル・ネイチャー」と呼んでもさしつかえない。ひたひたと囁くようなピアニシモから雷鳴のようなフォルテシモまで、ダイナミクスの振幅もものすごくて、聞きおえるとぐったりするほどのドラマが詰まっている。前作「リング」は、同じくパーカッションソロではあるが、音階の出るパーカッションも使用しているが、本作は全編、普通のパーカッションだけで構築されており、つまり、基本的には「音色」と「音の大小」だけで音楽を作り上げているにもかかわらず、聞いた印象としてはなぜかそこにメロディーがあったように聞こえるのだ。それだけ富樫のパーカッションが歌心があるということなのだろう。とにかく聴いてもらわないと説明のしようがないが、ほんとすごいんですから。もう、ぜったい聴いてみてほしいめちゃめちゃ好きなアルバム。
「ISOLATION」(MASTER SONIC SW−7051)
富樫雅彦・高木元輝
冒頭、いきなり富樫のバスドラのキックが聞こえ、ぴーんと引き締まった演奏空間が現出する。学生のころ、このアルバムのことは名のみ聞いていた。聴きたくて聴きたくて、あちこち探したが、どこのジャズ喫茶にもなくて、だからこそ中古で入手したときはうれしかった。以来、何度聴いたかわからん。今回、久々に聴き直したが、やっぱりすごい。緻密で、神経質で、全体に重苦しい、ぴりぴりしたような印象があるが、どこかしこに、意外とずーんと突き抜けたような、力まかせに大鉈を振り回したような部分もあり、それが一種の救いになっている。それはやはり、高木元輝の個性によるものだろう。この作品のあと、富樫も高木も、それぞれに模索と創造を繰り返して、どんどん自分を高めていくわけだが、これは富樫と高木がたったふたりで、密室で作り出した、重油のように鈍く輝く珠玉の即興だ。69年という、万博もまだ行われていなかったときに、よくもまあここまで……というような聴きかたをするのはいかんのかもしれないが、どうしてもそういう感慨にとらわれてしまう。
「KIZASHI」(NEXT WAVE 25PJ−1001)
TOGASHI−YAMASHITA DUO
ピアノとドラムのデュオなるものが果たして意味があるのか。この作品をはじめて聴いたときには、そんなことを思ったりした。ピアノとベースならともかく、リズム楽器であるドラムとピアノの組み合わせは、対等のデュオというより、リズム楽器とそのうえに乗っかるピアノ、ということになり、どうしてもピアノが主でドラムが従になるのではないか、と。たしかに富樫はすばらしいミュージシャンだが、佐藤允彦と演っているようなまったくの即興ではなく、この演奏のような、きちんと曲があって、そのガイドにそって演奏を進めていく、みたいな展開だと、あまり富樫である意味がないのではないか……。しかし、聴いてみると、そんなことはまったくなく、ふたりががっぷり4つに組んだ最高のデュオであって、私は自分の不明を恥じた。この出会いにはほんとうに意味があるなあ、と感じた。しかし、一方では、こんなにまで「曲」を前面に押し出してしまうと、せっかく日本を代表するインプロヴァイザーふたりの久々の邂逅なのに、ちょっと自由度が低くてもったいないなあ、ふたりともおとなしいし……という気がしたのも事実である。とか言うわりによく聴いたアルバムであり、曲とか展開とかも覚えてしまうぐらい耳馴染んだアルバムではあったが……今回、ものすごく久しぶりに聴いてみて、心底びっくりした。というのも、私がかつて抱いたような感想が軽くぶっとんでしまうような「大傑作」だと思えたからで、いやー、これは参った。こんなに良かったかなあ、このアルバム。どの曲もすばらしく、どのプレイも瑞々しく、富樫も山下も「おとなしい」どころか、自在に叩き、弾き、駆け回っており、もう言うことなしである。やっぱり俺の耳はアホやった、と情けなく思うと同時に、こんなにも最高の音楽がちゃんと録音されて残ったという事実に深く感謝したい。安易に使うべきではないが、山下にとっても富樫にとっても、最高に近い傑作ではないかと思った。じつは「兆ライヴ」という本作のライヴバージョンは、聴いたことがないので、その点もほんとうに俺はアホやなあ、としみじみ自分のアホさ加減にあきれている次第。それにしても「ネクストウェイヴ」というレーベルは傑作揃いだわ。まったく対等の作品だと思うが、先に名前の出ている富樫の項に入れた。いやー、すばらしいです。
「INDUCTIONS」(BAJ RECORDS BJSP 0004)
TOGASHI MASAHIKO SATOH MASAHIKO
もう最高。買ってからまだ間がないが、もう十回以上聴いた。信じられないぐらいすごいです。こんな演奏が初アルバム化とはなあ……。傑作です。名盤です。フリージャズ史に残るようなすばらしい演奏です。全二曲。どちらもなんのきめごともない純粋なインプロヴィゼイションだと思われるが、いやー、こういうのを聴いてしまうと、即興というものはたいへんなものだなあ、としみじみ思う。私のような技術も音楽性もない人間がうかうかと手を出せるようなものではないのだ、とさえ思う。この演奏の深み、凄み、迫力、起伏……すべてがもう「納得!」の出来映えで、佐藤さんがこの日の演奏はすごく良かった、というようなことをライナーで書いておられるが、まさにそのとおり。何度も何度もこのふたりはデュオを行っているが(たぶん何十回、いや、何百回かもしれない)、やはり即興なので出来不出来というのはあって、それがまた即興の良さだが、この日のこの演奏が録音されていたというのはまさしく奇跡だとおもう。このアルバムを聴かずに死んだ音楽評論家はほんとに不幸である。そのひとの書いたものになんの価値もない、とはいわないが、この作品を聴いていないということにおいて、すべての文章に画竜点睛を欠く状態になっているからだ。言い過ぎと思いますか。それぐらい言いたくなるぐらい、このアルバムはあらゆる音楽ファンが聴くべき傑作だと思います。こういうのを聴くと、即興でもこれぐらいできるんだ、などという言葉があまりにあさはかだとわかる。即興だからこそこれぐらいできるんだ、という言葉も同じぐらいあさはかなのだが、この演奏を聴くと、後者に圧倒的な意味合いをどうしても感じてしまう。即興だからよい、ということはないのはわかっている。わかっているけど……やはり……。しかしまあ、たったふたりでなあ……このふたりのマサヒコは凄すぎる。まったく対等の演奏だと思うが、便宜的に最初に名前のでている富樫さんの項にいれた。
「INTER−ACTION 〜LIVE AT HALL EGG FARM ON DECEMBER 9,1995」(TAKE ONE RECORDS TKOJ−2)
MASAHIKO TOGASHI & INTER−ACTION
1995年にライヴ録音された富樫カルテットの演奏。メンバーは広瀬淳二、佐藤允彦、井野信義という最強の布陣。これで面白くないわけがない。広瀬さんは今は吹かなくなってしまったが、このアルバムではソプラノも吹いている。昔よくカーブドを吹いていたのを何度も観ているので、ここでもそれかもしれない(ニュアンスのつけかたなどがそれっぽいけど、ちがうかもね)。相変わらず、ドラムとは信じられないぐらいよく歌う富樫雅彦のすばらしいドラミングと、これもまたフリーフォームでもよく歌う、相変わらずの巨匠佐藤允彦のすばらしいプレイが盤石としてあるのだが、それは「安定」とはほど遠い、つねにチャレンジ精神に基づいた「盤石」なのである。ふたりとも、全方位に耳がついているのではないかと思えるほど、空間に散ったどんな音も見逃さず、それに対して自分がそのときにできることをぶつけていく。それも、瞬間瞬間で終わるような反応ではなく、かなり先を見据えた構築美を即興的に目論んでいるので、演奏がどんどん大きく広く高く深く膨らんでいく。それにしても、広瀬さんの鋭いソプラノプレイのバックで、聴いている我々が驚くような斬新なレスポンスをつぎつぎと生み出していく富樫さんは、まるで20代ぐらいの若者が演奏しているようだ。広瀬淳二のバラードプレイなどは、ほかではなかなか聴けないと思うが、どの曲においても、音色といい音程といいすばらしいうえに、モーダルなアイデアに基づいた多彩なフレーズをすごいテクニックで吹きまくっているのであります。これだけジャズができるひとなのかとあらためて感心。しかも、音色その他への気の配り方は尋常ではない。こういうタイプのソロをする広瀬淳二は、ほかのアルバムではなかなか聴けないと思う。もちろんフリーなソロ、循環呼吸その他を駆使したいつものソロもたっぷりと聴ける。ほとんどがソプラノだが、テナーは5曲目で吹きまくっていて、「これこれ、この音色ですよ。私が惚れたのはこの音!」という感じで思わずスピーカーのまえで踊ってしまった。ベースの井野さんだけ、ちょっと音量が小さく録音されてるような気がするが、うちのスピーカーだけの問題だろうか。でも、同じく5曲目でベースソロがフィーチュアされ、存分に味わえる。アンコール曲である7曲目でも、井野さんのアルコソロが爆発する。全編とにかくすばらしい演奏の連続で、おおっ、と思う場面も多くてめちゃくちゃ楽しい。全曲富樫雅彦のオリジナルという点も、たんに「曲を書きました」というだけでなく、どれもすごいいい曲ばかり(しかも、タイプがいろいろ)なので、このドラマー〜パーカッショニストのなみなみならぬ作曲能力を思い知らされる。しかも、一打一打に気合いと迫力があり、やはり並のドラマーではないなとおもわされる。ああ、惜しいひとを亡くしたなあ……。
「ESSENCE OF JAZZ」(ART UNION RECORDS ART CD−49)
MASAHIKO TOGASHI
いやもう驚愕の一枚。これを富樫雅彦の最高傑作と言ったら怒られるだろうか。もちろん私もそう信じ切っているわけではないのだが、そう言いたくなるような、すばらしい演奏が収められている。全曲富樫さんの曲だが、それがまず名曲ぞろい。アレンジもシンプルだがかっこいい。そう、富樫さんのアルバムで「かっこいい」と単純に言えるものは珍しいかもしれない。しかも、トロンボーンの佐藤春樹さんとテナー、ソプラノの広瀬淳二さんが、いや、もう、よくこんな演奏がレコーディングのときにできたなあというぐらい最高のうえのうえをいってる。とくにわが愛する広瀬淳二のソロは、えーっ、こんなに上手かったのかと思うぐらい、普通のジャズとして上手い。10回以上、いや、もっとか、生で聴いてるひとだが、フリーインプロヴァイザーとしては世界的レベルなのはわかってたけど、いやー、すごい。ソプラノも鳴りまくりで、フリーな歌心(?)が溢れまくっていて、聴いたらなくしかない(俺だけ?)。ていうか、学生〜会社員だったころに聴いてた広瀬さんってこんな感じだったかもなあ……ああ、美味しすぎて涎が……。そして、富樫さんのドラムはソロだけでなく、バッキングのときにもめちゃめちゃすごくて、ああ、ええなあ……と思う。芸術的な作品をたくさん作り、それらはどれも、聴くととにかく感動するすばらしいものなのだが、こういうコンボでのジャズ作品にもずっとこだわりがあったかたで、その最高の結実がこのアルバムかもしれない。JJスピリッツとかインターアクションとか、いろいろ富樫雅彦のジャズを具現化するためのバンドはあったが、これが一番かもなあ。とにかくめちゃめちゃいい作品であり、めちゃめちゃいいバンドだと思う。広瀬さん、佐藤さんの代表作といってもいいかもしれないぐらい。ただ、ライナーノートはなにを言いたいのかよくわからん。銀巴里セッションの富樫が帰ってきた、ということを言うためにこれだけの枚数を費やしているのか? 申し訳ないが、一言で済むことだと思う。
「DUO LIVE 1984」(STUDIO SONGS YZSO−10051)
MASAHIKO TOGASHI+MASAYUKI TAKAYANAGI LIVE AT FAR−OUT,NAGOYA,SEPTEMBER 29,1984
高柳と富樫がどう寄り添うのか。高柳はエレクトリックであの轟音なのかそれともアコースティックなのか。聴くまえからいろいろ考えて妄想は膨らみ、果たしてうまくいってるのか……というあたりまで考えたうえでのスタートボタン、という感じで一回聞いてみた。そして、2回目3回目……と聴いて(全部で36分しかないのです)、今4回目だが、聴くたびにいろいろと「なるほど」と思い、また感動もじわじわ高まってくる。そんな、スルメのような美味しいアルバムだ。高柳はエレクトロニクスを非常に効果的に、また、制限的に使い、富樫に斬り込む。その、ざらざらした、また、爆発的なノイズは、一瞬、富樫の音楽を壊してしまうのではないかと思えるほどに「強い」が、高柳はそのあたりをもちろん完全にコントロールしていて、すぐに引いたり、音色を変えたりとダイナミクスもばっちりで、結果的にすばらしいデュエットが展開することになる。こういう、かなりえぐい、ノイズ的なサウンドでも富樫の音楽とぴったり合うというのは、このふたりのふところの深さが尋常ではないということでもあるが、ちゃんとおのれを一切殺したり、控えたりすることなく個性を存分に出したうえでのこの演奏である。もちろん、富樫は富樫で、高柳は高柳で、自分のリーダーでの演奏だとまるでちがったアプローチ(自分をガンガン全面に出した演奏)になるわけだが、こういったふたりでの斬り合いだと、はたしてうまくいくかどうかというかなりの緊張もあっただろうが、それがとてもよいほうに作用して、このようなテンションの高い演奏を産んだのだ。たぶん両者にきいたら、我々は長いことこういう演奏をしているのだから、そんなこと当然わかったうえだよ、という答が返ってきたかもしれないが、いやー、そりゃそうでしょうが、やはり、すごくいい感じの緊張が伝わってくる。この緊張を味わうべきアルバムかも。傑作です。
「MASAHIKO TOGASHI ARCHIVE 2 DUO LIVE 1988」(STUDIO SONGS YZSO−10052)
富樫雅彦&高橋悠治
高橋悠治はここではピアノよりもシンセやマック、サンプラーなどによる音源を駆使して富樫のパーカッションに対峙している。もしかすると賛否両論あるのかもしれないが、私はめちゃ好きです。鳥の鳴く声や水の流れる音などを即興的にチョイスして富樫にぶつけていくそのやり方は刺激的だし、「環境音的BGMのなかでパーカッションソロをしている」みたいな状態に陥ることなく、あくまで共演になっているところがすばらしい。二枚組という長丁場のなかで、よほど真剣に聴かないと聞き過ごしてしまうような箇所も多数あるのだが、ちゃんと聴けば聴くほどこのデュオのすごさがわかってくるように思う。富樫さんのパーカッションが具体的で力強いリズムを提示したときに、高橋さんはそれに安易に乗っかるようなことをまったくといっていいほどしていない。かなり熟考したうえで、なんらかの回答を行っているが、それがまた「なるほどなあ」と思わずうなってしまうような「なにか」を返す。そのあたりのやり取りが興味深すぎる。繊細極まりないシンセの微弱音に対して富樫がこれまた繊細極まりない音で返答する。ああ、甘美。もちろんダイナミックで迫力ある表現もあり、聞き飽きない。また、ピアノを弾いている曲はさすがに切れ味抜群で、フリージャズのひととはまったく違ったアプローチで、その分、富樫雅彦のパーカッション自体も新鮮に感じる。そして、思わず身体の動くグルーヴも(実は)ふんだんにある(一枚目2曲目の、音程のあるビリンバウみたいな民族音楽的リズムに高橋悠治が「あぶく」の音で対応するあたりは一枚目の白眉かと……)。また、相当ノイズに寄ったような演奏もあって(とくに2枚目)、88年という時期を考えると、高橋悠治の凄さもわかる。新しいおもちゃと戯れてるような雰囲気もあり、その結果、ペラペラで幼稚な即興みたいに聞こえる箇所もあるが、それもまたよし(高橋さんは「(そのうち)電子音に飽きてきたし、機材を持ち歩くのも嫌になった」と語っている)。2枚目3曲目のピアノの長いラインによる即興とそれに対話するパーカッションはめちゃかっこいいし、4曲目の正確無比かつスウィングする富樫のドラムの「歌」に対するシンセのアプローチは見事の一言。購入はかなりためらったが、買ってよかったです。もう一度書きますが、めちゃくちゃ真剣に聴かないとダレますよ。
「RINGS」(EAST WIND UCCJ−9194)
MASAHIKO TOGASHI
富樫雅彦のパーカッションソロといえば、「フェイス・オブ・パーカッション」が一番好きだが、それに先立つ本作もたいへんな傑作である。本作では多重録音が使われており、「フェイス・オブ……」はオーバーダビングなし、という点がちがうが、どちらもクオリティの高さは圧倒的で、聴いているとその創造性というかやる気というかそういうものがグワーッと伝わってきて吐きそうになるほど。こういう演奏を聴くと、富樫さんの到達した「高み」というのは、凡百のパーカッション奏者が容易に到達できるようなもんでもはない、と思う。ここに聞かれるのは「間」の芸術であり、しかも西洋的なグルーヴや黒人音楽的なバウンスもふんだんにあり、いわゆるフリージャズ的な、もしくはフリーインプロヴァイズドミュージック的なパーカッションソロとはちがって非常に伝統的なビート感にのっとったものだ。そして、いちばんすごいと思うのは、それがエンターテインメントになっていることで、本作は聞いていて楽しいし、集中して聴くことももちろんできるが、なにかもやりながら聴くことも可能なのだ。コンポジションも、内容も文句のつけようがないすばらしいもので、本作などを聴くと、ほんと、惜しい人を失くしたなあと思う。
「PULSATION」(KING RECORDS/DISK UNION DIW−3046)
MASAHIKO TOGASHI & MASAYUKI TAKAYANAGI
今回CD化されてはじめて聴いたが、音が生々しくて驚く。そして、富樫さんのドラムの迫力にも仰天。冒頭、ズドズドズド……ドスドスドスと叩きまくられる重くて固いビートが本作の全体の印象を決定づけているかも。富樫雅彦のことを繊細で弱々しい即興パーカッショニストだと思ってるひとはこのアルバムを聴けば180度イメージが変わるだろう。間をいかした演奏だが、その「間」が、ふたりの集中力と凄まじいやる気と熱気によって、幽玄なものではなく、ぽっかりと黒い口を開いたブラックホールのような怖ろしいものに思えるほどだ。いやー、凄い演奏だ。よく、聴くとどんよりした暗い気分になるようなフリージャズや即興もあって、そういうのももちろん大好きなのだが、ここに収められている2曲を集中して聴くと、なんかやる気も出てくるし、心のそこから清々しい気持ちになる。
「MOMENT」(BAJ RECORDS BJCD−005)
TOGASHI MASAHIKO
「リングス」や「フェイス・オブ・パーカッション」「シーン」などと並ぶ富樫雅彦のパーカッションソロ。どれもすばらしいのだが、本作もそれと肩を並べる作品。ほかのものと違っているところがあるとすれば、マリンバ、ヴィブラホン、シロホン、グロッケン……といった鍵盤系を(たぶん)使っていないのでメロディのある曲がないことで、そのためにより純粋な打楽器ソロという感じになっている。シンプルで力強い。もちろん鍵盤系がなくても、チューニングによってある程度の音程はあるので、それを使ってメロディを感じさせる曲もある。ほとんど無音に近いような部分から、耳を聾するがごとき大音量の部分までダイナミクスの広さは半端ない。富樫さんが自分で描いたジャケットの絵は……なんかこわい。
「PASSING IN THE SILENCE」(TRANSHEART THU9502)
MASAHIKO TOGASHI SOLO
ソロアルバムとしては5枚目だそうだ。息苦しくなるほどのたっぷりとした「間」を置いた表現が続く。そういう「攻め」の姿勢は本作が一番かもしれない。音量もぐっと抑え目で、非常にシリアスでストイックな、ユーモアや遊び心が感じられない音をつきつけられている感じがする。しかし、よく聴いてみると、やはりそこにはグルーヴがあるし、スウィングもジャンプもロックも聞こえてくる。アフリカもブラジルも日本もぶわーっと浮かび上がってくる。ダイナミクスの魔術もあるし、生音の麻薬もある。そして、なによりスペーシーで、スピーカーのまえに3Dで巨大な建造物が屹立するような気がする。いや、建造物ではないな。どこかの国の、自然が生み出した大渓谷、密林、岩山、湖……そういうものが見えてくる。この凄まじい荘厳さは、ある種の宗教音楽のようですらある。そして、この演奏は(パーカッションソロにもかかわらず)じつに歌っている。8曲目なんか歌いまくりである。この、沈黙の多い音楽が「パッシング・イン・ザ・サイレンス」と名付けられたのは必然ともいえる。ライナー代わりのインタビューで富樫さんが「夜中に友だちと話をしながらとか、コーヒーを飲みながらとか、なんとなくBGM的に、それも小さな音で聴いてもらいたいね」と述べておられるが、いやいや、そんな風にはなかなか聴けません。傑作。
「THREE MASTERS」(日本フォノグラム/NEXT WAVE 25PJ−1006)
富樫雅彦
私が高校生のときにこのドナウエッシンゲン音楽祭「日本ジャズの夕べ」がドイツで開催され、大学1年のときにそのときのライヴ盤がつぎつぎと発売された。私は「ダンケ」を買って聴き、残りはジャズ喫茶やラジオなどで聴いて、たいへん感銘を受けた。感銘を受けた、などという生易しい言葉はふさわしくないな。とにかくあまりのすばらしさにめちゃくちゃ興奮したのである。たぶん「ダンケ」「スリー・マスターズ」「ダンシング・アイランド」の3枚が発売されたのだ。その後、残りの二枚も入手した。本作は、富樫のパーカッション、山本邦山の尺八、佐藤允彦のピアノの三者が正三角形を描く、理想のフリーインプロヴィゼイション(1曲目以外は、作曲された部分があり、それに基づいての即興ということだが)。それにしても、邦山の尺八の表現力はすごい。ほかのふたりはともかく、邦山というひとは有名な「銀界」や、本作のスタジオ録音盤ともいえる「」や「無限の譜(エコーナル・エコー)」といった作品はあるものの、なにしろ尺八界の大御所であり、人間国宝なのだ。そのひとがフリージャズ界の大物ふたりとがっぷり四つになり、このすばらしい即興音楽を、ドイツの聴衆のまえで繰り広げたことを思うと、単純な感想だが、音楽に洋楽も邦楽もない、ということを思い知らされる。もちろんそこには伝統を守りながら、それを破ろうというチャレンジ精神が(メンバー全員に)必要ではあるが、この三人に対してそのようなことを言うのも愚かであろう。富樫のブラッシュは感動的だし、コンポジションやアレンジを捨てたときの佐藤允彦のピアノの新鮮さ、斬新さは聴いていてどきどきするぐらいに鋭い。このふたりが会話すると、そこに一瞬まえまではまるで存在していなかった「机上の楼閣」がみるみるそびえたっていくのだ。そこに邦山の尺八が加わると、この三人でしか生み出せない豊穣な世界が構築される。この感動は、やはりそれがもろければもろいほど深く、強くなる。机上の楼閣は一瞬にして崩れ去り、あとをとどめない。かっちょえーっ! ラストに、この三人に加えて、梅津和時、向井滋春、原田依幸、小山彰太、國仲勝男が加わった集団即興(佐藤允彦がコンダクションしているらしい)が入っているが、これがなかなかいい。全員が互いの音を聞き合って、それぞれの役割を果たしながら自己主張する……という集団即興の基本がちゃんと押さえられており、それだけに力強く説得力がある。冒頭の邦山の尺八の無伴奏ソロがもうめちゃくちゃいいんです。今から40年以上まえの演奏だが、このときのミュージシャンたちも我々リスナーも感じたであろう胸躍るような新鮮な感慨は今でも本作のなかにちゃんと収められている、ということを今回久しぶりに聴き直して再確認した。傑作!