david s.ware

「LIVE IN THE NETHERLANDS」(SPLASC(H) CDH825.2)
DAVID S.WARE

 デヴィッド・ウェアの無伴奏ソロ。オランダのジャズフェスでのライブだと思うが、ライナーノートをマイケル・ブレッカーが書いているのが目をひく。ブレッカーとウェアのどこに接点があるのか、と思うだろうが、なんとふたりはバークリーの同期生なのである。デヴィッド・ウェアがバークリーでたとえ一時期でも習っていたという事実に驚かされるが、ブレッカーの、ウェアの音楽性を理解したうえでのあたたかい文章はこの盤に花をそえている。で、肝心の内容だが、すさまじいのひとこと。正直言って、ウェアのアルバムのなかで一番好きである。私はもともとサックスソロには目がないが、これはなかでも群を抜く。デヴィッド・S・ウェアやチャールズ・ゲイルなどの演奏を聴いていつも思うのは、最初から最後までぎんぎんに張りつめたあのテンションを維持するすごい精神力と、それを楽器で表現するための技術力、そしてパワーである。このアルバムは、ソロなので、それらの要素、とくに精神力が露骨に生のかたちであらわれていて、感動を呼ぶ。とにかくすごいすごいと手放しでほめちぎりたい。収録時間は短いが、中身の濃さはそれをおぎなってあまりある。何曲かにわかれているが、全体で一つの統一感がある。傑作と確信している。PARLLELS

「CORRIDORS & PARLLELS」(AUM FIDELITY AUM019)
DAVID S.WARE QUARTET

 不動のカルテットで快進撃を続けるデヴィッド・ウェア・グループのレギュラーピアニスト、マシュー・シップが、実はシンセその他をあやつるトータルミュージシャンであることは今でこそ(自分のリーダー作などにおいて)知られているわけだが、このアルバムが出たときは、少なくとも私はそんなこと全然知らず、リーダーのウェア同様のフリージャズの闘士(古いね)だと思っていたので、かなりびっくりした。ここでのマシュー・シップは全編シンセだけを弾いている。ほかのメンバーの演奏は、マシュー・シップが何を弾こうがあいかわらずなのだが、ウェアのテナーの反応はやはり少しちがっている。たとえば、二曲ほどドラムマシーンを使ったと思える曲があるのだが、そういう曲ではウェアはループするファンクリズムをぶち破ろう、ぶちこわそうとして、血を流しながらもがいているように聞こえるし、シップがたぶんわざと安っぽい電子音を使用して、そういった古めかしいコンピューターサウンドとウェアのテナーが交互に咆哮する曲では、アコースティックな叫びと未来的な音楽の戦いみたいな様相を感じずにはいられない。そう、このアルバムのコンセプトは、戦いであり、衝突なのではないか、とさえ思える。だが、もちろん、ウェアの、ごつごつした大岩のような、巨木を斧でぶった切るような、黒々としたテナーサウンドは相変わらずたいへんな存在感で、シンセごときでは揺らぐことはない。あちこち、ハッとするような展開も多く、聞き所満載のアルバムである。でも……やっぱり本音を言うと、個人的には(このグループでは)シップにはピアノを弾いてほしいかも。

「THREADS」(THIRSTY EAR RECORDINGS THI57137.2)
DAVID S.WARE STRING ENSEMBLE

 デヴィッド・ウェア・ウィズ・ストリングスという、驚異の企画。アホかあっ、と叫んで、聴いてみたものの、な、な、なんと悪くない。いや、悪くないどころか、めちゃめちゃええやん。ストリングスといっても、ムードミュージックではなく(あたりまえ)、現代音楽的(という言葉を、かなり安易に使いますが)というか、いつものウェアの音楽をそのままストリングスに反映させたような編曲。デヴィッド・ウェアのテナーブロウ自体は、いつもとまるで変わっておらず、それをストリングスがあおる。ストリングスだけのセクションも、まるでウェアのブロウのように熱く、不安で、とげとげしく、豊かで、鋭いサウンド。マシュー・シップも、ずっとストリングス系のシンセを使っている。ストリングスの秀逸なアレンジが誰なのかよくわからないが、たぶんマシュー・シップだろう。惜しむらくは、(理由はわからないけど)ぶつっ、と唐突に終わる曲が多いこと。わざとなのかなあ。よくわからんが、ちゃんと最後まで聴かせてほしい。せめてフェイドアウトしてほしい。何度も、「何かの効果なのかな」と考えたが、わかりませんでした。しかし、デヴィッド・ウェアという人、ソロもよし、ゴスペル集などの企画ものもよし、こうしてウィズ・ストリングスをやらしてもすごいことをする。ただもんじゃないですなあ。

「BALLARDWARE」(THIRSTY EAR RECORDINGS THI57173.2)
THE DAVID S.WARE QUARTET

 ウェアのスタンダード、バラード集。といっても、聴いた分にはいつものウェアとどこがちがうねん? という感じ。だいたいウェアはこれまでも、たまーにスタンダードを演るからね。「ゴスペライズド」とか「枯葉」とか。でも、本作にもその二曲(「ゴスペライズド」と「枯葉」)はきっちり入っているのだった。どういう経緯で吹き込まれたのかなーんにも書いてないのだが、とにかくいわゆるバラード集という概念からはかけ離れた、いつものウェアそのものである。しかし、すごい音ですよね。まあ、このメンバーでふつうのスタンダード集ができるわけもないが。マシュー・シップがあいかわらずすごいが、4人もその特徴を発揮したプレイで飽きさせない。「なーんや、またいつものメンバーか。それもスタンダードかい」と毛嫌いせずぜひ聴いてほしい一作。しかし、聴くたびに生で聴きたいという気持ちがふつふつわいてくるデヴィッド・S・ウェア。はじめてアルバムを聴いたのは大学のころなので(「ダーク・トゥ・ゼムセルヴズ」です)、二十年も聴いているわけだが、いちども御本尊を拝んでいない。そろそろ拝みたいもんですなんまんだぶなんまんだぶ。

「LIVE IN THE WORLD」(THIRSTY EAR RECORDINGS THI57153.2)
THE DAVID S.WARE QUARTETS

 これを傑作といわずしてなにを傑作というのか!!!! じつは、3枚組ということでしり込みして、買わずにいたのだが、あちこちで評判がいいので思い切って買ってみた。そしたら……いやはや不明を恥じるばかりなりけり。「傑作」という言葉さえ嘘っぽいほどの充実しきった3枚組。タイトルの由来はおそらく、一枚めがスイス、二枚目がイタリア、3枚めがイタリア(だけど2枚めとはちがう場所)の収録ということだろうが、スイスとイタリアだけで「イン・ザ・ワールド」とは大胆なネーミングである。だが、そんなことはどうでもいい。ここにおさめられたウァア・カルテットの充実ぶりは尋常ではない。とにかく一曲聴くとへとへとになるような、圧倒的なパワーミュージックを全編にわたって展開している。すごいですよ、これは。今までウェアのやってきたいろいろなこと……パワーミュージック的なものとか、ソロとか、バラード解釈とか、ゴスペル的なものや「フリーダム・スーツ」への取り組みとか、政治的、音楽的意志表明とか……いろいろなものが全部詰まっている。カルテットのメンバーのうち、ピアノ、ベースは不動で、ドラムだけが、スージー・イバーラ、ハミッド・ドレイク、ギレルモ・ブラウンと入れかわるが、それぞれにすばらしい。マッコイ、エルヴィン、ジミー・ギャリソンがいたころの不動のコルトレーンカルテットにも匹敵するような最高のカルテットである(このメンバーもついに解散らしい。やれることはすべてやりつくしたということらしい。気持ちはとてもよくわかるが……惜しいなあ。一度生で見たかった)。マジで、現時点での世界最高峰のテナーはデヴィッド・ウェアだと断言したい……そんな気にさせるほどのすばらしい3枚組。ただ、ジャケットが鼻がテナーサックスになっているガネーシャの絵で、ライナーにウェア本人が「ロード・ガネーシャ」への崇拝の念を吐露しているのはさっぱりわからん。このひと、ヒンドゥー教徒なの?

「RENUNCIATION」(AUM FIDELITY AUM042)
DAVID S.WARE QUARTET

 これだこれだこれですよ! 「バラードウェア」を最後にあの不動のカルテットを解散したあと、なにをやっているのかいまいちよくわからないウェアだが、このアルバムはあのカルテットの末期の演奏である。一曲目から、「これじゃーっ!」と叫びたくなるような、野太いテナーの咆哮が耳をつんざき、四者が一体となった猛烈な突進がじゅうぶん堪能できる。冒頭の、司会者によるかなり長い紹介もかっこいい。組曲風の曲での無伴奏になるところは、あの名盤「ライヴ・イン・ネイザーランド」や「ライブ・イン・ザ・ワールド」を思わせる迫力で、ああ、これこそウェアだ、すごいすごい、と、そのへんにあるものをバンバン叩いてしまう。曲もいいし、最後にこんな名演を残すとは……もったいないなあ、解散が惜しまれる。ちなみにこのアルバムは、デューイ・レッドマン、マイケル・ブレッカー、アリス・コルトレーンの三者に捧げられている。マイケル・ブレッカーは「イン・ザ・ネザーランズ」のライナーも書いているぐらい、ウェアとは親しかったようで(バークリーのサマースクールで同期だったらしい)、ウェアのことを「こんなスピリチュアルな演奏は私にはできない」と言っていた。そんなブレッカーの死はきっとウェアにとってもショックだったのだろう。かたや最高のテクニック極めたテナーのバーチュオーゾ、かたや精神性を前面に押し出したスクリーミングの帝王だが、両極端のふたりがたがいに認めあっていた、というのはうれしい話である。このアルバムに話を戻すと、二〇〇七年現在、世界のテナーの最高峰は誰? という問いに、このアルバムや「ライヴ・イン・ザ・ワールド」などを示して、このひとです、とはっきり答えられる……そんなアルバムである。あいかわらずライナーには、ガネーシャがどうとか、いろいろ書いているが、それはほら、コルトレーンだって至上の愛のライナーにわけのわからんことを書いてるじゃないですか。気にしない気にしない。我々は音だけ、どーんと正面から受け止めればいいのだ。ラストのMCでも、また盛り上がったりして。

「FREEDOM SUITE」(AUM FIDELITY AUM023)
DAVID S.WARE

 ロリンズの諸作のなかではあまり省みられることのない曲(アルバム?)だったと思うが、一時、いろんなひとがなぜかこの曲を再評価して吹き込んだ時期があって、そんなときの産物。黒人であり、テナー吹きであるウェアにとって、この曲には我々が考える以上に思い入れがあるのかもしれない。メンバーもいつものカルテットである。しかし、やはりどこかしらいつものウェアと違って聞こえるのは、曲の構成力というか、縛りがきついからのようにも思える。収録時間も短くて、あれ? もう終わりか、と思うが、ウェアのやる気というか切迫したなにかを感じることができるアルバム。この緊張感と初々しさは、けっして悪くありません。

「GO SEE THE WORLD」(COLUMBIA CK69138)
DAVID S.WARE

 ウェアは、コロンビアでは二枚しか出していない。デヴィッド・ウェアのアルバムは、目に付いたら必ず入手してきたはずだが、なぜかその二枚は持っていなくて、最近、中古で手に入れた。もしかしたら、コロンビアという大メジャーのイメージが、「なんでウェアがコロンビア?」という気持ちが働いて、買わなかったのかもしれない。たとえば、ジェイムズ・カーターでも、メジャーに行くと、あきらかにパワーダウンしたアルバムしか残していない(それはそれでおもしろいし、いいものも多いが、ああいったぶち切れのパワーは抑制ぎみである)。だから、きっとウェアもどうせコロンビアでは、いつものようには吹けないだろう、という勝手な思いこみがあったのではないか。そして、その先入観は見事に粉砕された。ウェアは、ここでもまさにウェアであり、いや、いつにもましてウェアであり、凄まじいまでにウェアだった。メンバーが、マシュー・シップ、ウィリアム・パーカー、スージー・イバーラという、あの黄金のカルテットなのだから、当然といえば当然かもしれないが、正直、コロンビアがよくこんな内容のアルバムを許したなあ……と思った。めっちゃええですよ。ほんと、びっくりした。控えめどころか、全員パワー全開である。曲もいいし、もちろん録音もよく、言うことない。ウェアを聴いたことのないひとに、どれか一枚と言われたら、これを推薦してもいいぐらい。それほど感心しました。うーん、もういっぺん聴こう。

「GOSPELIZED」(DIW RECORDS DIW−916)
DAVID S.WARE QUARTET

 最高傑作という言葉は軽々しく使ってはいけないとは思うが、本作がデヴィッド・ウェアの最高かどうかはわからないがかなりそれに近いあたりに位置する傑作であることはまちがいない。アルバムタイトルから、ゴスペル集かと思うかもしれないが、全曲ウェアのオリジナル(ただし、一曲、サン・ラの曲も演奏しているが)である。しかし、聞きおえた感触は「たしかにゴスペルアルバムを聴いた」というものである。それぐらい本作でのウェアの壮絶なブロウは、まさに「祈り」であり、宗教的法悦のレベにまで達している。ほんと、凄いですよこれは。最初、出たときにすぐに買って聞いて以来、おりにふれて聞き返しているが、そのたびに期待を裏切られたことはない。この重量感、豪快さ(の裏側の繊細さ)、音の太さ、リズムセクションとの関係、一丸となっての爆発(それもズドーンと単純なものばかりでなく、複雑にねちねちと曲がりくねっての爆発もあり)……あらゆる点が絶品で、もう、聴いていてよだれがだらだら垂れる状態である。とにかく、アホみたいに思うかもしれないが、私としては、この「ギャアアアアアアアアアッ」という咆哮だけで、もう十分に満足なのである。ウェアはすごいのである。以上。

「FROM SILENCE TO MUSIC」(PALM RECORDS PALM32)
DAVID.S.WARE FEATURING JEAN−CHARLES CAPON

めちゃめちゃ好きなアルバム。たしか、会社員になりたてのころ、三ノ宮のジャズレコード専門店(というか、フリージャズレコード専門店といってもいい店。もちろん今はつぶれた)で試聴させてもらって購入。以来、この愛想のない青いジャケットのアルバムをずっと愛聴している。デヴィッド・ウェアとチェロのデュオという、かなり変則的な編成だが、そのせいで当時のウェアのリアルなトーンや露骨な音楽観がドーンと前面に出ていて、もう美味しいったら。まあ、正直いって、よく準備されて、コンセプトを練って、練習を重ねたような演奏ではなく、かなりラフなセッションなのだろうとは思うが、A面のブルースなど、ダーティトーンで吹きまくる雄々しい姿が、ものすごくシンプルかつプリミティヴで、最初に聴いたとき、ああ、音楽ってこんな感じでいいんだ、と力づけられたことを覚えている。あっと言う間にA面B面を聴き終えてしまうが、いつ聴いても「これでいいのだ!」と思う。

「SATURNIAN(SOLO SAXOPHONENS,VOLUME 1)」(AUM FIDELITY AUM060)
DAVID S.WARE

ウェア復活作とのことだが、座って吹くサックスの無伴奏は聞いているものの心臓をつかむような露骨な痛々しさがある。テナーだけでなく、サクセロで一曲、ストリッチで一曲、そしてテナーで一曲という3曲構成なので、どうかなあと思ったが、思わず何度も何度も聞き返してしまうような名演だった。なんというか、身を削って、いや、余命を削って吹いているような感じなのだが、かといって、聴いていてつらいとかそういうことは一切なくて、たとえば勝新太郎の晩年の名演をみているような、そんな凄さがある。こうなると、音程がとか音色がとか関係ありませんね。ひとりの人間の生きざまが音になっているのだ。ジャケットの写真も、こちらにぐうっと乗り出してくるような迫力がある。

「WISDOM OF UNCERTAINTY」(AUM FIDELITY AUM001)
DAVID S.WARE QUARTET

 うぎゃあああっ、めちゃめちゃかっこええ! この時期、ウェアは心身共に最高の状態にあったと思われる。楽器は鳴りまくり、指は動きまくり、創造意欲、演奏意欲も頂点にあったのではないか。そして、共演者(おなじみマシュー・シップ、ウィリアム・パーカー、スージー・イバーラ)も、神の恩寵か、ほぼ同時に最高の状態にあり、コラボレイションという意味でも完璧である。この4人がひたすら吹きまくり、叩きまくり、弾きまくるのだから、その結果はもう恐るべしである。録音もよくて、ウェアの野太い音での「ぎょええええっ!」という咆哮につぐ咆哮が、すばらしい音色でとらえられており、目の前にこの巨人がそびえたち、テナーをブロウしまくっているのが見えるようだ。全曲最高で、もうたまらんわーっと叫びたくなるほど。飲みながら聴いていると、あまりの恍惚にトーゼンとなってしまう。極楽とはこのこと! 生で体験していたとしたら、失神していたかもしれない。それぐらい、圧倒的なエネルギーが怒濤のごとく押し寄せてくる傑作である。近年のウェアは、体調が悪いらしく、そういうなかでぽつりぽつりと良作を発表しているが、このころのウェアは、そんなことなーんにも考えずに、ただひたすら吹いていればこういう演奏になっていたのだろうなあ。そう思うと、少し感傷もあるが、とにかく凄まじいまでのポテンシャルの傑作なので、みんな聴くべし!

「ONECEPT」(AUM FIDELITY AUM064)
DAVID S.WARE

デヴィッド・ウェア復活作は、テナー、ストリッチ、サクセロを均等に使ったソロインプロヴィゼイションだったが、つづく本作は、ピアノレストリオによるワンホーンもの。そして、本作でもテナー、ストリッチ、サクセロを均等に使っている。長年カルテットの参謀格だったマシュー・シップがいない、ピアノレストリオという編成で、しかも病後のウェアがどんな演奏をするのだろうと、期待と、ちょっとした危惧を覚えつつ聴いてみてぶっとんだ。復帰作はサックスの無伴奏ソロだったので、ある意味、本人のコントロールがすべてであって、あとは情念というか「生き方」を見せるようなやりかたもあるわけだが、本作のようなガチンコのトリオだと、かなりの負担をサックスが背負わなければならないし、リーダーシップも発揮する必要がある。そして、ウェアはまったく問題なくそれをやりきった。これは、ほんとうに凄まじい演奏だと思う。リードに血が滲んでいるような、マグマのような情感をウェアはひたすらぶつけてくる。その粘りに粘った、どろどろの音塊は聴き手の心をわしづかみにする。インタープレイとかフレージングとかそんな生やさしいものではなく、剥き出しの心臓を押しつけられているような圧倒的な迫力だ。そさがピアノレスのせいで、よけいに迫ってくる。きいたところによると、ピアノレスという編成はウェアがやりたかったことだそうだ。おそらくリスナーはテナーでの演奏を期待するだろうが、ストリッチもサクセロも凄いので、まーったく問題ない。傑作。この調子でウェアにはまたどんどんアルバムを発表しつづけてもらいたいものである。ただし、体調にはくれぐれも注意して。なにしろ、このひとは今や、世界のジャズシーン、即興シーン、サックスシーンの宝といっていい存在なのだから。

「PLANETARY UNKNOWN」(AUM FIDELITY AUM068)
DAVID S.WARE /COOPER−MOORE/WILLIAM PARKER/MUHAMMAD ALI

 病気後に復帰してからのウェアがまず吹き込んだのは渾身のソロ作、そしてピアノレストリオによる演奏だったが、それにつづく復帰第3弾となる本作は、ピアノにクーパー・ムーアを加えた新カルテットである。ベースは不動のウィリアム・パーカーなので安心だし、ピアノも最近のこのシーンではおなじみのひとだし、共演歴もあるので問題なかろうとは思うが、やはり気になるのはドラムである。これまでウェアは、ピアノとベースは固定だが、ドラムはスージー・イバーラ、ギレルモ・ブラウン、ウォーレン・スミス、ハミッド・ドレイク……といった豪腕の名手たちを使い分けてきた。しかし、ムハマド・アリとはなあ……。ラシッド・アリの弟であるムハマド・アリ(アイラーの「ミュージック・イズ・ヒーリング・フォース・オブ・ジ・ユニバース」や「ラスト・アルバム」に参加しているベテラン)なのだが、いまいちどういうひとかというイメージはない。というわけでさっそく聞いてみると……ピアノはめちゃめちゃいいし、ドラムはバタバタしていて前任者たちよりも古いジャズを感じさせるが、これはこれではまってる。なーんや、心配して損した。3曲目はテナーとドラムのデュオで、これを聴くだけでこのふたりの相性はわかる。ウェアはテナーを中心にサクセロやストリッチも吹いているようだが、楽器に関係なくどれもすばらしい。どの演奏も、まるで「祈り」のように敬虔で力強い、プリミティヴなものばかりだ。激しいもの、バラード、ゴスペルを感じさせるもの……これらはすべてリーダーであるウェアの魂のなかから溢れ出る表現なのだろう。このカルテットが未来永劫続くことを祈る。

「FRIGHT OF I」(DIW RECORDS DIW−856)
DAVID S.WARE

 ウェアの日本初紹介アルバムだというが、そうだっけ。出たときに買って、のけぞった覚えがあるが、そのときはウェアのことはすでに知っていたし、アルバムも聴いていると思う。しかし、本作はかなりええ作品にしあがっているし、が日本のレコード会社による制作だというのは誇らしい。なんといっても、あのカルテットなのである(本作に先行するシルクハートのやつも、あのカルテットだけどね)。一曲目の衝撃。単純なテーマだがウェアが吹くと、めちゃめちゃかっこよくて重い。マシュー・シップもずしりと重くて、なおかつ狂ってる。このときはまさか「あんなひと」だとは思っていなかった。たしかシルクハートの一作目(つまり私がはじめて聴いたウェアのリーダー作)はマシュー・シップのいないトリオなのだ。とにかくウェアの凄まじさを十分に見せ付けられたアルバム。「アナザー・ユー」をやってるのは日本側からの要請かもしれないが、この演奏で彼らがどういう立脚点を持っているかがなんとなくわかったような気になる。まあ、そんなことは本当はどうでもいいことなのだが。アーサー・ジョーンズの「サド・アイズ」はタイトルどおりもの悲しいテーマの曲だが、ウェアはいまではすっかりおなじみになったあの「音色」で、狂気と悲哀に満ちたソロを切々と展開していく。リズムセクションがウェアの狂気をあおり、かつ、ぴったりとついていくその完璧な一体感には驚く。もっともびっくりしたのは4曲目で表題曲でもある「フライト・オブ・アイ」で、最初から最後まで徹頭徹尾、ピーピーピーピーとフラジオというかリードの軋む音のような音程のない音をひたすら吹きまくる。これはもう延々とつづくわけで、この演奏を聴いて私は、正直、なんちゅうやっちゃ! とスピーカーのまえで悶絶した。このとき、「バチッ!」という音が脳内でして、私はデヴィッド・ウェアのファンになったのである。5曲目「イエスタデイズ」は、のっけから痙攣しまくるような吹きかたで、これも印象深い。6曲目は、ようこんなもん「曲」と名乗ったなあ、というようなオリジナルであるが、それを曲たらしめているのはマシュー・シップかもしれない。ウェアも本アルバム最長の演奏ということで自由奔放に吹きまくっている。かっこいい!

「ORGANICA(SOLO SAXOPHONES VOLUME 2)」(AUM FIDELITY AUM070)
DAVID S.WARE

シカゴでのライヴ第二弾。復活(?)後のウェアは、まえにもましてサックスソロに意欲的に取り組んでいるが、これまでのソロはテナーとサクセロとストリッチを均等に吹き分けているものが多かったような気がする(気のせい? 調べろよ)。ところが本作ではな、な、なんと4曲中2曲がソプラニーノである。ソプラニーノといえば渡辺貞夫だが、正直、我々が知るデヴィッド・ウェアの音楽性からして、サクセロが限界で、ニーノはいくらなんでも小さすぎて高音すぎてかわいらしすぎるのではないか、とどうしても思ってしまう。しかし、聴いてみると、そんな杞憂は嘘のように霧散する。1曲目、いきなりソプラニーノなのだが、いやー、すごいですねー。過激にむちゃくちゃ吹きまくっているようでいて、具体的なフレーズをしっかり根幹にすえ、音も1音1音きっちりと出している。でたらめに指を動かして、ぎゃーぎゃーいってるような演奏とは根本的に違うのである。しかも、ソプラニーノだとフラジオで叫ぶことがむずかしいため、よけいにウェアの「フレージング」に対する露骨な部分が見えて興味深い。それにしても、ウェアのソプラニーノは、もっと息を吹き込みたいのに、楽器が小さすぎて息が余ってしまってる……そんな印象を受ける。サック奏者としては、どんな楽器でも、それに応じた息を入れて、きっちり「鳴らす」というのが本分であって、息が余るような吹きかたをするのは下手だというのが普通かもしれないが、ウェアだとそういうことが許されるような気がする。2曲目はテナー。いやー、やっぱりテナーはええなあ。ひと吹き聴いただけで、濃厚なブルースを聴いたような気になる。聴いているうちにじわじわと身体の中心が熱くなってくる……そんな演奏である。このソロを支えているものは、くめどもつきぬイマジネーション、そして、強烈な意志の力だと思う(ウェアの演奏に関しては、どんな形態であってもそう感じる)。なにしろこの2曲目はなんと24分、3曲目は22分半もあるのだが、この「途切れない精神力」はいったいどこからくるのか。おおげさでもなんでもなく「見習わなければ」と思います。私が仕事をするまえに、弛んだ精神を引き締めるときにウェアを聴くのは、座禅しているひとが「バシッ」と背中に警策を入れられるような気持ちになるからだと思う(座禅、やったことないけど)。3曲目のソプラニーノもまさに壮絶な演奏で、やるほうもたいへんだろうが聴くほうもへとへとになる(サーキュラーを使っていると思うが、もしかするとニーノなので息が長く続いている可能性も若干はあるかも)。ここまでくると楽器なんかもう関係ないですね。ラストへ至るえげつない高揚感は、呆然とするほどであります。4曲目はまたテナーで、これはまっすぐで、ある意味集大成的な演奏。かっこよすぎる。とにかくどの演奏を聴いても、雄々しくそそりたつ巌のようなウェアの雄姿が目のまえに浮かぶ。無骨だが、これ以上のものはないと確信させてくれる偉大なサックスプレイヤーであります。

「EARTHQUATION」(DIW RECORDS DIW−892)
DAVID S.WARE

 ああ……とうとう亡くなってしまった。というか、まさか死ぬとは思っていなかった。体調が悪いとは知っていたが、復活して演奏活動も再開し、CDも出ていたので、きっとこのままフリージャズテナーの仙人として、ずっと演奏していくのだろうという期待があったのだが……うーん、ロリンズより先に亡くなってしまうとは。残念という言葉では言い尽くせないほど、無念であり、口惜しい。その思いは、追悼の意味を込めてこのアルバムを久しぶりにたまたま聴いたときに、本当に身体の奥底からこみ上げてきた。自分のなかにどれだけこのもじゃもじゃ髭のおっさんが「棲んで」いたのかが実感としてわかって、泣けてきた。とにかく、こういったテナーのひとを聴くと、真似したい、とか、いろいろ学びたい、という気持ちになるものだが、デヴィッド・ウェアに関していうと、そんな考えをいつも微塵に打ち砕かれるのだ。絶対真似でけへんで、こんなやつは! このアルバムでも、CDのスタートボタンを押した瞬間にスピーカーからほとばしり出る絶叫の凄まじさよ。こういうことを書くと偏見だと言われるかもしれないが、やはりどうしても「血」というものを感じてしまう。人種なんて関係ない。それはもちろんそうだが、ブロッツマンらとは一線を画した、フランク・ライト、チャールズ・ゲイル、そしてこのデヴィッド・ウェアといったひとたちに代表される、ブラックフリージャズテナーというものが厳然として存在しているという気にさせられるのは(錯覚?)、やはりこのデヴィッド・ウェアの咆哮がもっとも説得力をもってそこに「あった」からではないでしょうか。それぐらい、このひとのブロウは血を吐き、またその血を飲んでいるような、ものすごい、すさまじい、ありえない、えげつない、おそろしいものだった。しかし、同時にすがすがしく、自由だった。たとえばシェップのブロウは、自由を求めてもがくような暗闇を手探りで進むような感じがあったが(あくまで昔の話ですよ)、ウェアのブロウは最初から(つまり、私がはじめて聴いたのは、セシル・テイラーの「ダーク・トゥ・ゼムセルヴズ」とかビーバー・ハリスの「アフリカン・ドラムス」とか、そのへん)手探りはしておらず、遥か彼方に光明をちゃんと見据えていて、そこへ突き進む超弩級の戦車のような真っ直ぐな迫力があった。一度でいいから生で聴いてみたかった。実際、生で聴いたことがない私がこんなところでぐだぐだと文章をつづってもしかたがない、というか、その権利はないのかもしれないが、返す返すも残念というしかない。慎んでご冥福をお祈りいたします。

「PLANETARY UNKNOWN」(AUM FIDELITY AUM074)
DAVID S.WARE LIVE AT JAZZ FESTIVAL SAALFELDEN 2011

 と、ここまでが購入時の感想。そしてウェアがとうとう亡くなって、今日、久しぶりに聴き直したときの感想が以下。最初は、ああ、ウェアも2011年にはこんなに元気でバリバリ吹きまくっていたのになあ……と感慨にふけっていたが、途中からそんな気持ちはどこかに行ってしまい、行けーっ、吹け吹け吹けっ、と興奮しまくってしまった。そんな一枚。いつも思うことだが、ウェアのソロというのは、どこでノッているのかわからないし、フレーズが独特すぎるのか、ドラムやベース、ピアノに対する反応も非常に好き勝手というか、自分流だし、いわゆる普通のフリージャズの反応とはだいぶちがう(いわゆる普通のフリージャズというのは、たとえばブロッツマンが共演者との即興のときに吹くようなああいうパワフルでストレートなレスポンスのことです)。また、これはたぶんみんなそう思って聴いてるのだと思うが、非常にブラックジャズ的というか、古い形のフリージャズ、いわゆるフリージャズ原初のエネルギーを感じる演奏なのだ。しかし、そういうかなり個性的なノリ、フレーズ、そして音(!)(音については、ウェアは晩年も衰えるどころか、逆にどんどん深化して、えげつなくなっていったような気がしている。これはコルトレーンもそうだった。だから「インターステラースペース」が一番好きなのだ。ウェアもそういう意味では最後の作品がテナーの音に関してはいちばんいいのかも)が合わさって、それをひたむきに、パワフルに、全身全霊を込めて吹きまくると……かくも凄まじく感動的な「音楽」ができあがるものか、と驚くほかない。ああ、最後まで「個性」のひとだった。そして、相手がどんな趣味趣向の人間だろうと、聞くひとすべてを納得させるだけの説得力をもった熱い魂が煮えたぎっていた。合掌。

「SURRENDERED」(COLUMBIA CK63816)
DAVID S.WARE

「GO SEE THE WORLD」と同じ時期の作品で、な、な、なぜかウェアが大手コロンビアと契約していたころのアルバム。一曲目は荘厳な雰囲気を醸し出すマイナーチューンで、不動のカルテットの凄さがびんびん伝わってくる。30分を超えるような、吹いて吹いて吹き倒す曲はないが、このカルテットの個々のメンバーの凄さ、そしてそれが結集して一丸となったときの暴風のような恐ろしいパワーとパッション、そしてスピリチュアルなエネルギーは十分伝わってくる。私はスピリチュアルジャズという呼称は好きではない、というかよくわからない。ファラオ・サンダースなんかは、どう考えてもパチモンスピリチュアルで、インチキ宗教の教祖みたいなことをやっとるだけだが(そこがいいんですよ!)、ウェアの信じる神がなんであれ、こういう演奏はたしかに「スピリチュアル」な空気を感じるなあ。2曲目はチャールズ・ロイドの曲だそうで、ウェアがこんな曲をやるなんて! そして、ちゃんとテーマを吹けるなんて!(失礼)。とはいえ、こんな軽いテーマを吹いても重量級で、変な感じなのはそうとうおもろい。スウィート・ジョージア・ブラウンのチェンジに基づいた曲だが、ソロに入ると、一応、バッキングによるコードチェンジには反応しているものの、その反応のしかたが絶品というか変態的で笑ってしまう。こういうのをウェアはやったらあかんで、と言いながらガハハハと笑って聴くのが正しい鑑賞法か? でも好き。3曲目は、なにがやりたいのかいまいちよくわからんがピアノによる叩きつけるようなコードの変化が謎を解く鍵か? チャイムのような4音によるシンプルなテーマだがコードは動いていて、これをしつこく繰り返す。ゴスペル的なものも感じる。4曲目も荘厳なピアノのイントロから、やはりバロック的ともゴスペル的ともいえるような、夢のような音楽が生まれていく。途中から3拍子の軽快な展開になるが、そのかっこよさは筆舌に尽くしがたい。とにかくウェアのテナーは真っ直ぐまえを向いていて、微動だにせず、その一音一音に、膨大な量のメッセージを込めて吹きあげる。あとの3人は、ウェアが向いている方向を向いて、じりじりと巨大な岩を引っ張っていくようなイメージが浮かぶ。5曲目は冒頭からカラフルなカリプソのリズムに乗って、ウェアの濁ったテナーの太い音が炸裂する。一応、テーマがきちんとある曲で、聴きようによってはポップ……いや、そんなことはないか。まあ、カリプソといえばカリプソだが、ウェアのテナーがあまりに強烈なので、どうもそういう風には聞こえない。タイトルも「グローリファイド・カリプソ」(!)。こういう明るい、チェンジのちゃんとある曲だと、ウェアは基本的にずーっとおんなじことを、しかも全身全霊を込めて徹底的にやるので、笑ってしまう。6曲目は3拍子の曲。ビーバー・ハリスの「アフリカン・ドラム」という曲だが、同タイトルのハリスのアルバムにはウェアも入っています。3拍子のいわゆるモードジャズ。ウェアは、中低音でうねうねぐずぐずと吹いたあと、高音で、本当に血のにじむような叫びを発する。これだけのパターンなのだが、これがとにかく気持ちいいし、かっこいいのだ。そういうやり方は古い、という意見もあるだろうが、それなら新しいものはいらない、という結論になってしまい、それはそれでまずいでしょう。普遍的なものと新しいものが混じり合って、少しずつ前進する……というので十分。一番あかんのは擬古的なもので、これは懐古的な気分や自分のなかの思い出を刺激してくるので、うっかり感動したり、泣きそうになったりするわけだが、そういう気持ちになるたびに自戒しております。ウェアの音楽は決して古いフリージャズにあえて向き合っているのではなく、今の音楽、自分の音楽としてのフリージャズなので、なんにも問題はない。というわけで、本作は「ゴー・シー・ザ・ワールド」ほどではないが、ウェアがメジャーレーベルという枠のなかで精一杯自分の音楽をぶつけまくった結果だと思う。よろしゅおます。

「SHAKTI」(AUM FIDELITY AUM052)
DAVID S.WARE

 ヒンドゥーに帰依したとはいえ、「シャクティ」とはそのものずばりのタイトルだよなー。ギターのジョー・モリスが入ったカルテットで、ドラムはウォーレン・スミス。ベースはもちろんウィリアム・パーカー。1曲目、ラストのフェイドアウトするところでも、まだフリークトーンを延々と吹き続けているウェアに感動。2曲目は本作中最も長尺(18分以上)だが、曲らしい曲というか、6拍子のベースのパターンが土台となって、ウェアはよれよれな感じのテナーを吹く(よれよれというのは変か。音をわざとぐにゃぐにゃにして、よじれたような感じの吹き方。これも変か)。その積み重ねが熱く煮えたぎるようになっていき、時間が歪み、空間がねじれる。モリスのギターも同じで、シンプルな短いフレーズを訥々と積み重ねていき、次第にそれが力を持ちはじめる。オープンなドラムソロのあと、迫力を倍加させたそれぞれのソロの応酬があり、その背後でアルコを弾きまくるウィリアム・パーカーも凄い。ジョー・モリスの2度目のソロとパーカーのからみは鬼気迫る。3曲目はバラード的、といっても、超硬派なバラードだ。テンポがフリーではあるが、終始、バラード的な雰囲気をキープしているという意味で、これはバラードだと思う。それにしても、なんという重い演奏だろうか。ひとりひとりが重量級の音を出すので、それが合わさるとメガトン級の重さだ。なお、ジョー・モリスはそこまでは一切音を出さず、テナーソロのあとに登場して、これもまた重いソロをつむいでいく。つまり、完全にソロイストとしての扱いなのだ。最後にテナーが現れて、テーマというのか、一連の音塊を吹奏して、演奏は終わる。4曲目はウェアはカリンバを延々弾き続け、パーカーのアルコベースが絡む。ちょうど半分ぐらいからウェアはテナーに持ち替えて、太い音色でのブロウになる。最初はゆっくり、次第に小刻みなフレーズを矢継ぎ早に繰り出して、それを載せていくような感じになり、しまいにはフリーキーに爆発する。冷静なモリスのコードワークもおもしろい。最後はフェイドアウト。5曲目はテナーとギターのユニゾンのテーマ。タイム感覚のおかしいウェアのうねるようなソロに続いて、モリスのギターソロも秀逸。6曲目はタイトル曲「シャクティ」だが、3パートにわかれていて、一種の組曲になっているようだが全体で10分弱。それぞれはっきりしたテーマがあり、パートのくぎりもはっきりしているが、共通のテーマがひとつあって、それがずっと通奏低音のように底に流れているよな感じか。ウェアのソロは凄まじいし、組曲を聴いた、という充実感もちゃんとある。

「DAO」(HOMESTAND RECORDS HMS230−2)
DAVID S.WARE QUARTET

 ウェアはヒンドゥー教徒なのかと思っていたら、このアルバムはタオだから道教をモチーフにしたもの。まあ、なんでもいいや。1曲目はテナーソロではじまり、マシュー・シップのピアノが主役のパートが長く続く。この箇所はめちゃめちゃかっこいい。ドラムの空間構築的なソロになり、テナーの無伴奏ソロになったと思ったらそこはもう2曲目なのである。ドラムが入り、デュオになる。ウェアはフリーフォームでものすごい勢いで吹いているが、ウィット・ディッキーのドラムは柔軟で、音量も抑えており、どしゃめしゃではない点がテナーとちょうど噛みあっている。それが突然終わったかと思うと、すぐさまピアノトリオになり、ドラムソロのあとテナーが入ってカルテットになってかなり猛烈な即興演奏になる。テナーが吹いているのに、テナー奏者のソロというようには聞こえず、ピアノも同時にソロをしているような感じ(最近聴いたイーヴォ・ペレルマンとシップのカルテットもそんな感じだったなあ)。そのあと、テーマがあって、ピアノが消え、より激烈なトリオ演奏になる。ウェアもここではフリークトーンをまじえてブロウしまくる。3曲目は、しっかりしたコンポジションで、ピアノが低音のリフをずっと弾いて、ウェアがメロディを吹く激しい曲。テナーは、ぐちゃぐちゃっとしたフレーズと伸びやかなフレーズに、ときどきメロディックなフレーズが混じり、印象が強烈である。シップのピアノは、やはり自分のソロのように弾きまくり、アイデアを出しまくり、ウェアを鼓舞する。煽られて、ウェアがパワーの塊と化して吹きまくる。凄い。4曲目は、モーダルなバラードといった雰囲気で始まる。いかにも黒人のフリージャズの伝統を踏まえたパワフルな表現で、テーマに沿ってダーティートーンでうねるように歌いあげるだけで、この4人の凄まじいパッションを感じずにはおれない。マグマが次第にふつふつと湧いていって、ついにはどろどろに煮えたぎって噴出するような、そういう緩慢かつ巨大なエネルギーを感じる演奏。すばらしい。5曲目は集団即興でかなりドシャメシャのパワーミュージック。この4人が揃ったら、そりゃあパワーも凄いですわ。ひたすら全力で押しまくり、引かないという、大音量のなかでの駆け引きであり、やりとりなのだ。本作中もっとも長尺で18分を超える猛烈な演奏。ウェアが吹いているときも、シップが自分のソロのようなさまざまな表現をしまくっていることは、いつものとおり。ドラムソロのあと、テナー(とピアノ)のドラムとの8バース(的なもの。要するに掛け合い)になるが、この4バースはジャズ史上もっとも凶暴な8バースといってもいいぐらいえげつない。それからピアノが消えてトリオになり、ウェアのブロウの凄みが増す(カルテットからピアノレスになった途端にウェアが大暴れするというのは、一種のパターンか、それともピアノレスになってより自由になったということか)。高音部でのぴーぴーいうようなハイトーンにしても、デヴィッド・マレイとちがって太くてドスがきいていて、いいですねー。テナーが終わって、ピアノトリオになり、ぽきぽきしたフレーズを重ねていくマシュー・シップのソロは向かうところ敵なし。重量感抜群で、どんなに速い、細かいフレーズを引きまくっても、その重々しさはとてつもない。セシル・テイラー的なことをしていても、軽やかな疾走感というより鉈でぶった切るような重さがある。6曲目は、4曲目とタイプの似た、モーダルでマイナーキーのバラード。コルトレーンの「インディア」、日本の民謡や「ラウンド・ミッドナイト」なども連想するようなゆったりしたテンポに激情を詰め込んだ演奏。ラストの7曲目はテナーの無伴奏ソロからスタートし、メガトンクラスの重量級のコードが響き渡り、ベースとドラムが空間を形成する。テナーはひたすらフリーに吹きまくり、ピアノが美しいコードをその背後でつづっていく。テナーのあとはピアノトリオになるが、ここはもうシップの独壇場といっていい。聴き惚れる見事なソロ。ジャズ評論家的な表現を使えば、「伝統と前衛の間を行き来するような」ソロということになるのだろうが、そんなことはどうでもよく、シップがこのとき感じていた「かっこよさ」が完璧に表現されたソロだと思う。シップのソロが最高潮に達したとき、満を持した感じで入ってくるウェアの狂ったようなソロは、引きやめないシップのピアノと相まって、凄まじい効果を発揮する。ハーモニクスというより、息の圧をかけてむりやり音を割るようなテナーソロは、吹き荒れる暴風のようで、本作の白眉のひとつ。これに興奮しないひとがいようか。すごいすごい。暴風はどんどんその激しさを増して、エンディングに向かってひた走り、循環呼吸を使っていることすらリスナーに感じさせないその爆発的クライマックスは終わることなく延々と続く。

「CRYPTOLOGY」(HOMESTAND RECORDS HMS220−2)
DAVID S.WARE QUARTET

 上記「タオ」の、ひとつまえの作品にあたるが、メンバーは全く一緒。どの曲も充実しまくっていて、気の抜ける曲がない。聴き終えるとへとへとになり、しばらくぐったりするが、このカルテットの真髄を味わい尽くすにはそういう「全身全霊で聴く」聴き方しかないのだ。1曲目からカルテットのパワーが爆発し、はじまってすぐにとんでもない瞬間が訪れる。いきなり針が振り切ったような感じで、あれよあれよというまにもっていかれてしまう。その怒濤の奔流に身を任せさえすれば、あとは終着点までこのカルテットが運んでくれる。2曲目はぶっ速いテンポの、これもカルテット一丸の進撃。ウェアのソロはとにかく凄まじいもので、それを煽るシップのピアノとともに、圧倒的な表現力を見せ付ける。とにかく吹き止めないんですなー。このカルテットの演奏をはじめて聴いたひとがいたとしても、この髭面の黒人テナー吹きが、なにかわからんが言いたいことがあって、それを必死になって伝えようとしているのだ、ということはわかるはずだ。それだけ説得力のある演奏なのだ。ピアノソロになるとトリオは軽快な疾走を示すが、つぎになにをやるか予想がつかないシップのピアノは、ほんとうにどきどきわくわくと興奮する。ベースソロも重く、かっこいい。3曲目はいちおうビート感はあるが、フリーな感じのイントロではじまり、そこにテナーがぶっとい、ダーティートーンで入りこんでくると、もういきなりの絶頂感。このフリークトーンの凄まじい破壊力は、ほかでは味わえない。えげつないなあ。ピアノソロになると、その重さが倍増する。叩きつける左手のコードはマッコイよりも、スカイドンよりも重い。すげえピアノだな、こいつは。パーカーのベースソロのときのアルコの音も、なんともいえぬ濁りがあって、聴く者の心にぐりぐりと入り込んでくる。4曲目の冒頭のテナーの無伴奏ソロは、短いがその音色といい、表現力といい、すばらしい。バックが入ってきてからは、ドラム、ベース、ピアノのうますぎるバッキング(?)に舌を巻く。ウェアのブロウを、あらゆる方法で支え、押し出している。ピアノはあいかわらず、自分のソロのように多彩なフレーズやリズムをまき散らしているが、ドラムの凄さも特筆もの。こういうのを「躍動感」というのだ。4人の集中力はハンパない。正直、冒頭から2分ほどで絶頂に達してしまうので、あとはそこからまだまだひたすらのぼりつづけるだけという、クライマックスのうえにクライマックスがどんどん積み重なっていく、すさまじい演奏になる。スタイルはまるでちがうが、全盛期の山下トリオのような感じすらある。ピアノトリオになってからも、そのど迫力はいささかも減衰しないし、クリシェにも陥らない。表現したいことが山のようにあるのだろう。ベースソロの力強く、一瞬も躊躇しないひたむきな演奏もすばらしい。演奏はベースソロのまま終わっていく。5曲目は、そろそろいくらなんでもバラードが来るんじゃないの、という期待を裏切り、えげつない集団即興。これもものすごーい演奏。ウェア一派の演奏はどの曲聴いても一緒じゃん、というひともいるだろうが、ここまで来ると一緒とかちがってるとか関係ない。ウェアの全演奏がひとつの巨大な組曲であってもいいじゃないか。どこを切ってもこのレベルの演奏が出てくるなら私はよろこんで永遠にウェアカルテットを聴き続けるでしょう。とにかく彼らが提供してくれるものは最上だ。それにしてもこの曲の盛り上がりは凄すぎる。最後のほう、もう血管がぶち切れるんじゃないかというえげつない演奏が聴かれる。そして、パーカーのアルコソロになって、ようやく平静を取り戻す感じであります。この曲もベースソロのまま終わっていく。どうなっとんねん。最後の曲は、朗々とビッグトーンで吹くウェアのテナーが、まるで大巨人のようにそびえ立つ。結局、バラードは一曲もなかったなあ、といいつつ、最後の激演を聴き終えて、ぐったりする私でありました。まさに、ストロンゲスト・テナー・サックス・プレイヤー・イン・ザ・ワールド!

「PASSAGE TO MUSIC」(SILKHEART SHCD113)
DAVID S.WARE TRIO

 88年の作品で、ベースはもちろんウィリアム・パーカーで、ドラムはマーク・エドワーズ。このころのウェアは、まだかなりちゃんとチューンをやろうという気があって、1曲目などアレンジもきちんとほどこされている。しかし、ウェアの太い音での情熱的・神秘的なブロウは相も変わらずで、十分に味わえる。ピアノがいないので、マシュー・シップのあの猛烈な鼓舞は聴けないが、その分、ウェアのひとりのブロウを存分に聴ける。2曲目はサクセロ、3曲目はストリッチ(つまり、ストレートアルト)を吹いている。サクセロは、私は吹いたことはないけど、要するにソプラノサックスのベルをひょいと曲げたようなもんじゃないかと思うんですが、ちがいます? ウェアのサクセロ演奏のすばらしさは晩年のソロワークなどでも十分わかるが、この2曲目でも徹底的に饒舌な表現で空間を構築する。パーカーのひきつったようなアルコベースとともに2本のラインがからみあいながら狂っていく。3曲目は表題曲。テーマといい、フリーというより、モードジャズといってもいいぐらい、オーソドックスなところのある演奏で、骨太なベースワークとアフロ的なドラミングに乗って、ウェアが伝統的なジャズの枠組みのなかでじわじわと暴れまわり、次第にその枠組みから外れていく過程を目の当たりにできる。なんというか、計画的に逸脱していくのではなく、その音色や音量のでかさ、わけのわからないフレージングなどによって、どうしようもなく外れていくのだ。抑制されたドラムソロも秀逸だし、変態的なベースソロもさすがと唸らされる。後テーマのあとにバラード風のエンディングがついている。4曲目はストリッチによる演奏で、これもすごくいい。ストリッチというのはストレートアルトに手を加えたようなもののはずだが、この演奏を聴いているかぎりではソプラノ的なところもある。モーダルなフレージングを重ねていくうちに、凄まじい絶叫のようなフレーズがほとばしるようになり、ベースがアルコになるころには、また、歌を歌うような朗々とした演奏になる。そして、悲鳴を延々と発するムンクの「叫び」のような凄まじいプレイを展開する。「タオ」の日本語ライナーによると「広い音域を駆け巡るうえに音色も多彩なウェアのスタイルは、やはりテナーで真価が発揮できる」とのことだが、私はウェアのストリッチとサクセロを心から愛するものである。ウィリアム・パーカーの頭がおかしいとしか思えないアルコの弾きまくりのあと、ふたたびストリッチが入ってきて、循環呼吸による爆走を見せ、エンディング。5曲目はめちゃめちゃ速い4ビート曲ではじまるが、途中で6拍子系の跳ねるリズムになる。ウェアのソロは、なにかエキゾチックな香りのするスケールを使っているような気がする。最後の最後はまた、速い4ビートのテーマになる。変な曲。6曲目と7曲目は、レコードには収録されていないCDだけのボーナストラックである。このCDが出たころ、ちょうど私はレコードとCDのどちらを買うかを毎回悩んでいた。しかし、こういったフリー系の海外盤までが、ボーナストラック(それも合計20分以上)がつくようになって、これはもう考えるまでもない……ということになったのです。6曲目は、タイトルに「ヒム」つまり賛美歌とあるように、アルコのゆったりした低音に乗って、ウェアがフリーではあるが全体に明るい感じのソロを行う。ドラムが大暴れをするのも聞きもの。パーカーのアルコソロもええ感じ。そして、なによりもウェア誠心誠意あふれるひたむきなソロを聴くべし。ラストはその名も「ミステリー」という曲で、3分過ぎたあたりの超ロングトーンの胸をかきむしられるような切迫感はすごい。基本的には歌心を感じさせるフレーズ中心のソロなのだが、それがときどき逸脱しまくって、悲鳴のような金切り声のような、咆哮のような音塊となって全方位へと放散される。パーカーのアルコの煽りもえげつないほどものすごく、それに応えてブロウするウェアの雄姿に私は興奮しまくり。パワーミュージック+スピリチュアルなエネルギーというべきか。とにかく、想像を絶するような壮絶な「エネルギー」を感じる演奏なのだ。この曲がLP未収録とはなあ。そら、CD買うしかないわなあ。

「GREAT BLISS,VOLUME ONE」(SILKHEART RECORDS SHCD127)
DAVID S.WARE QUARTET

 マシュー・シップが参加し、不動のカルテットとなったころのウェアバンドによる作品。1曲目は珍しくフルートによる演奏だが、これがめちゃめちゃいい。ウェアのフルートは後年はあまり演奏されなくなったように思うが、シップの重い、打楽器のような低音部や、パーカーの自由奔放なベースに煽られて、まさにフリーなソロを展開するが、基礎もしっかりしていて音もいい。ウェアのフルートをもっと聴きたかったかも。シップのソロも、イマジネーションが爆発している。マーク・エドワーズのブラッシュワークも感動ものだし、パーカーの間をいかしたアルコ〜ピチカートソロも幽玄な感じでいい。そのあとのドラムソロも最高っす。ああ、この1曲目めっちゃ好き。2曲目は、ウェアはサクセロを吹いている。最初、シップのソロからはじまるのだが、この部分がすでに感涙もの。そしてサクセロはソプラノともちがった雰囲気で、なんともいえない空間を創り上げている。どんどん展開が変化していくので、一瞬たりとも気がぬけない。3人のバッキング(とくにシップ)は、同じところにとどまるということがないので、全体が転がる大岩のように新しい局面へと突入していくのだ。かっこいい! 3曲目は、これはびっくりしました。テナーによる演奏だが、曲がその、なんというか、フュージョン(!)っぽい。リズムも曲調も、である。そして、最初のうちはウェアもその曲調に応じたようなソロをしていて、これまた驚くのだが、途中からだんだん逸脱が始まって、しまいにはヒステリックな大ブロウが展開されるのだが、リズムセクションはその間もずっと、ちゃんとバッキングを続けているという不思議な演奏。後年のウェアはたぶんこういう演奏は一切行わなかっただろう。シップのソロは、ウェアほどの逸脱はなく、コード進行のなかでいろいろやってみましたというソロ。4曲目はストリッチによる演奏。ストリッチというのはストレートアルトだが、ストレートな分、ソプラノに近い音色というかスケールの響きがするように思う。そういうストリッチの特色を生かし、「カデンツァ」というタイトルどおり、リズムセクションとの演奏とストリッチによる無伴奏のカデンツァ部分を交互に挟んだ演奏で、めちゃおもろい。ウェアは想像力のかぎりを尽くしたようなバリエーションを聴かせてくれる。そのあとピアノトリオ→ピアノソロ→ベースソロ→ピアノトリオ→ストリッチソロという展開に。5曲目も同じくストリッチによる演奏。マレットによるドラムソロのあと、ストリッチの無伴奏ソロがあって、カルテットによる集団即興に突入。そこから異常な盛り上がりを示す。ストリッチがウェアの大いなる武器となっていた証拠。ピアノソロやアルコソロなどいろいろな展開があるが、どれも入魂の演奏。終盤もめちゃめちゃ盛り上がる。さーすが。6曲目は、ウェア本人だと思うがポエットリーディングのような感じでスタートし、フルートを吹きながら声を出したりとローランド・カーク的な部分もある。フリーフォームなのだが、ものすごく「ジャズ」を感じさせる、めちゃめちゃいい演奏だと思う。後半、またポエットリーディングが出てきてエンディングへ。7曲目はサクセロの無伴奏ソロでタイトルも「サクセロスケイプ・ワン」。晩年のサクセロソロの原型はここにあったのか。ウェアは、エヴァン・パーカーやレイシー、ブッチャーなどなどのような形ではないが、たとえばブロッツマンと同様に、あるいはそれ以上に、生涯、サックスソロにこだわり続けたひとだったが、こういったしっかりしたトーンで、ギミックを使わず、歌心を感じさせつつ、力強く吹くことでたいへんな説得力を生み出すウェアのソロを私は心から愛しています。サクセロを彼が完全に自家薬籠中のものとし、その個性を引き出すことに成功していた証拠。これとか4、5曲目を聴いても、「タオ」の日本語ライナーを書いたひとのような「ウェアはテナーだけ」みたいな評価はおかしいとしか言いようがない。8曲目はテナーによるカルテット演奏で、本作中最も長尺の演奏。真っ向勝負で、ウェアもフリークトーンによる全力の咆哮をみせ、異常なハイテンション。見せ場もたっぷりあり、アルバムを締めくくるにはちょうどいい。あー、聴き通すと疲れる。さすがウェアだ。それにしてもこのアルバム、レコードは8曲中4曲しか入ってないらしい。そら、CD買うわなあ。ジャケットはフルートを吹くウェアの姿で、サックス以外を吹いているジャケットはこれだけかもね。

「THIRD EAR RECITATION」(DIW RECORDS DIW−870)
DAVID S.WARE

 これもまた圧倒的な一枚。ドラムはウィット・ディッキー。デヴィッド・ウェアというひとは、シルクハートだろうがDIWだろうがコロンビアだろうがサースティー・イアーだろうがオーム・ファイデリティーだろうが、まったく変わらない演奏姿勢を貫いた。これは驚くべきことだと思うが、本人にとっては「当たり前」だったのかもしれない。とにかく不器用で、これしかできまへんと言いながら、ひたすら「血」を感じさせる演奏をひたむきに行うテナー奏者だと思うが、その不器用さの結果としての圧倒的な迫力と、凄まじい破壊力に満ちたえげつないまでの高みにある音楽がこのアルバムにもまた結実している。出たときは、「枯葉」と「エンジェル・アイズ」を演奏していることで話題になった記憶があるが、どちらもテーマはピアノやベースに任せて、本人はただただ激烈にテナーを鳴らしまくっている……と思っていたら、アルバムの最後にもう一度入っている「枯葉」は最後の最後にウェアがテナーでテーマを吹く。それにしても、こんなに重く、暗く、血みどろの「枯葉」や「エンジェル・アイズ」があるだろうか。作曲者が聴いたら卒倒するか激昂するにちがいない。曲ごとに展開がまるでちがうので、一枚まるごと一度に聞いてもまったく飽きません。マシュー・シップのピアノはさすがに異彩をはなっており、ほんと天才だよなあ。大天才シップや怪物パーカーらを従えた大ボスウェアは、愚直なまでにストレートアヘッドにフリージャズにまい進している。信念は山のように動かず、大地に根を生やしている。その堂々たる姿に、みんなついていくのだろう。そして、ジャケットの写真がめちゃくちゃかっこいい。DIWえらい。

「BIRTH OF BEING」(AUM FIDELITY AUM096/97)
DAVID S.WARE/APOGEE

 2015年に出たアルバムのなかで、本作はもっとも私の血を湧き立たせてくれたのが本作。いやー、凄いっす。これがウェアの初リーダー作? 信じられない。つまりは1作目から最高傑作を生んでしまったというわけなのか。本作は二枚組で、1枚目が初リーダー作「バース・オブ・ビーイング」の復刻(ハットハットから出たもの)で、2枚目がその残りテイクということらしいが、甲乙つけがたいほどすばらしい。これは「アポジー」というバンド名義であって、それはウェアとクーパー・ムーアとマーク・エドワーズのトリオなのだが、若き3人の闘志というか情熱がここに刻まれている。ウェアは、音色といいテクニックといいもう完璧で、晩年の録音だといっても通用するぐらいの完成度で、マジで感動的である。テナーサックスと言う楽器に対して生涯ブレがなかったひとなのだなあと思った。再発にあたっての詳細なライナーがついており、わかりやすい英語なので皆さん、読んだほうがいいですよ。60年代半ば、ロリンズに影響されてヴィレッジヴァンガードに何度も通って演奏を聴き、サーキュラーブリージングを教えてもらった話とかマイケル・ブレッカーによる17,8の頃にバークリーで一緒に過ごした話とか(あの傑作、オランダでのソロのライナーからの引用ですね)いろいろ出てくるが、なかでもクーパー・ムーアやマークとのバークリーでの出会いのエピソードが興味深い。フリージャズの闘士たちも若いころは学校で日々練習したのだなあと思うと微笑ましいが、そのときの演奏がこういうやつだからな。演奏に関していうと、3人のなかではウェアが首一つ抜け出していると思うが、ムーアもエドワーズも最高で、3人一丸となっての血の噴き出るようなブラックネスあふれるフリーミュージックは凄まじいの一言である。録音も良くて、ウェアのぎとぎとするような、しかも高貴さのある、そびえたつように圧倒的なテナーが存分に味わえる。個々の演奏については触れないが、たとえば2曲目のテーマの吹き方ひとつとっても、頭がいかれてるとしか思えない(ふつうに上がるべきところをオクターブ上がる)。二枚目の残りテイクも、一枚目とクオリティはまったく一緒なので、こうして完全盤として発表されたことはたいへん喜ばしい。1枚目にも2枚目にも入っている「プレイヤー」という曲は、後年にウェアが発表するゴスペル集と同じ趣旨の演奏だし、二枚目2曲目の「クライ」という曲はすごく歪んだテイストのバラードで心に染みる。なお、2枚目4曲目はクーパー・ムーアのシロホンソロで、5曲目はウェアのソロだが、ウェアのソロは後年のソロアルバムとなんら遜色はない。全体にウェアは無茶苦茶に激情のまま吹いているように聞こえるかもしれないが、サックスを吹くひとならすぐにわかるように、一音一音をしっかりと出している。そういう丁寧な、信念に基づいたような奏法は晩年まで変わることはなかった。とかなんとか細かいことを言ってるが、とにかくなにかにイライラしたときとか、厭なことがあったときとか、しんどいときとかにこのアルバムを聴くと、スカーッとして、いろいろやる気が出ることはまちがいない(すくなくとも私はそうです)。まさに宝物のような音が詰まりまくった一枚。私もはじめて聴いたのだが、ウェアのファンなら、いや、ジャズファンならけっして聞き逃してはいけない大傑作でしょう。

「LIVE IN SANT’ANNA ARRESI,2004」(AUM FIDELITY AUM100 DSW−ARC02)
DAVID S.WARE & MATTHEW SHIPP DUO

 デヴィッド・ウェアのアーカイヴとして、順次発表されていくらしいプロジェクトの第二弾(第一弾は「アポジー」)。2004年のイタリアでのライヴ。内側の写真では、ウェアは珍しく(?)メタルのマウスピースを使っているように見える。でも、内容はいつも通り。マシュー・シップとの緊密かつ大胆なコラボレーションで、冒頭からいきなり疾走し、吹きまくる。この力強さ! 太い樹木がドーンとそそりたっているようだ。トトロのワンシーンみたいに、みるみるうちにその大木はどんどん太い枝を無数に伸ばしていき、そこには葉が生え、花が咲く。大木の根も四方八方に伸びていき、高速道路を破壊し、ビルを貫いて大地をしっかりとつかむ。そんな光景が頭に浮かぶような、自然発生的ではあるが、全方向に開かれ、全方向に伸びていくような演奏だ。ウェアはもちろんだがシップのパワーと集中力はただごとではない。このふたりが完全即興で約45分全力で走り抜けた記録である。いやー、これは凄いわ。ウェアを聞いて、凄いわと思わなかったことは一度もないが、これは……このアルバムは凄いわ。こういう音源がぼこぼこ出てくるんだろうなあ、これからも。そうあってほしいです。マシュー・シップがコードをリズミックに連打するのをバックにウェアがひたすら野太いフラジオでピーピーピーピーピーピー……と吹きまくる部分など、もう「恐れ入りました。すいませんでした。私が悪うございました」と悪代官のように恐れ入ってしまう。どれだけ体力あるねん、このおっさん! 45分間、聴きどころだらけ。場面がどんどん変わっていくところは、これはシップの力量だよねー。それぞれの無伴奏ソロもあるが、全部瞠目……まさに瞠目ですよ! これこそ「フリージャズ」。これこそ音楽。これこそデヴィッド・ウェア。最高! まあ、世の中いろいろあって自分の思うとおりにはならないし、嫌なこと、鬱陶しいこと、自分の力ではどうにもできないことも多い(とくに最近)。でも、ウェアの演奏を聴いているとたいがいのことはどうでもよくなる(というかその素晴らしさに一旦忘れられる。世の中捨てたもんじゃないと思える)。自分の小説もそうありたいです。カスみたいなもんは書かないつもりであります。

「LIVE IN NEW YORK,2010」(AUM FIDELITY AUM102/103)
DAVID S.WARE TRIO

 発掘盤。今後もいろいろ出そうな気がする。2枚組ライヴで、マシュー・シップが抜けたあと病気から復活したときのトリオでの演奏。ウェアの長い無伴奏ソロも入っている。この時期、ウェアはストリッチ、つまり、ストレートアルトに凝っていたようで、12曲中8曲で使っている。だから、ウェアのテナーを聴きたいひとには物足らないかもしれないが、こういう発掘盤を手にするようなひとはたぶんそんな聴き方はしていないだろうから、声を大にして言いたいが、「この2枚組はええぞ!」。ウェアが吹けばストリッチだろうがテナーだろうがほかのだれにも真似できない驚異のオリジナル楽器に豹変してしまう。じゃあ、なにを吹いても一緒やないか、と言うかもしれないが、そうではない。あくまでストリッチはストリッチらしく、テナーはテナーらしく……なのだ。ウィリアム・パーカーが太い音で土台をしっかり支えており、ウェアはただただひたすらまっしぐらに吹きまくっている。ストレートアルトというのは、おそらく自分の音が聞こえにくく、録音もしにくく、けっこう扱いにくい楽器ではないかと推察するが、なぜウェアがこの楽器にはまったのかはよくわからん。でも、テナーでも楽器が悲鳴を上げるようなエネルギーを注ぎ込むウェアが、アルトを吹くと、パワーが延々と持続し、いつまでも吹きやめないのではないか、と思ってしまうほどだ。たとえば1枚目の最初の3曲(じつは1曲)は全部で40分近いが、ウェアはパーカーのアルコソロのときを除いてあとはほぼずーーーーーっと吹いているのだ。大病後だというのに(そしてこのあとすぐに亡くなるのに)、この人間離れしたパッションとエネルギーはどこから来るのか。ただただ音楽に、演奏にすべてを投じた結果としか言いようがないではないか。そんな大げさなと思うひとは、ただちにこの二枚組を聴いて欲しい。いや、マジで、人間ってすげーよなー、と思いますよ。まあ、ウィリアム・パーカーもウォーレン・スミスもすごいのだが(2枚目5曲目のサックスとベースの交歓は感動的である)、ウェアの凄さは図抜けていて、本当の意味の巨人だと思う。陸上競技とか見てても人間の限界ってどこらへんなんや、と思うけど、ウェアを聴いてるとそんな妄想が浮かんでくる。スポーツと芸術は違うかもしれないが、どちらも肉体を使ってなにかをすることなのだ。2枚組を聴き通すのはなかなかたいへんだが、がんばって聴こう。こういう感じって、インパルス以降のコルトレーンを聴くときにもつきまとうよなあ。しんどいのはわかってるけど、聴いたら聴いたでものすごい感動がある、みたいな……。あー、デヴィッド・ウェア、一遍でいいから見たかったなあ(船戸さんは見たそうですが)。傑作。続編待望!

「THE BALANCE」(AUM FIDELITY AUM107)
DAVID S.WARE TRIO

 何度も注文したのに「入荷しませんでした」メールばかりでまるで手に入らず、やっと聴けた。まあ、正直言って「言葉にならない」という感想しか出てこない。よく「○○は神」という表現があるが、本作を聴いていると、文字通りの意味でデヴィッド・S.ウェアが神ではないかと思うような部分がある。音も演奏もとにかく「圧倒的」としか言いようがないのだが、はじめのほうで「人間を超えた」みたいな瞬間があり、そのあとはひたすら「神のお告げを聴いている」状態になってしまった。いや、誇張じゃないんです。いやー……ただただ脱帽するだけだ。これが生前未発表の音源とはなあ……考えられん。軽々しく言うべきことではないが、「最高傑作」という言葉もちらつくほどの凄まじい音楽である。いや……いろいろ考えさせられる。サックスって凄いね。そして、人間って凄いね。いやはやなんとも……ああ、聴けてよかった。これ以上感想を書いても同じことの繰り返しになるのでやめるが、ひとりでも多くのかたにこのすばらしいアルバムを聴いていただけることを願う。こういうのは「スピリチュアルジャズ」ではないのか? バークリーの同期だったマイケル・ブレッカーはウェアの演奏について「こんなスピリチュアルな演奏は私にはできない」と語っていたが……。

「THEATRE GARONNE,2008」(AUM FIDELITY AUM−113)
DAVID S.WARE NEW QUARTET

 ウェアの未発表音源のひとつ。マシュー・シップが抜けたあとのニュー・カルテットの時期の作品で、ジョー・モリスがギターで参加しており、「シャクティ」とかに通じる演奏。2008年のフランスでのライヴで、一曲目2曲目はひとつづきの組曲。ウェアにしてはメロディのある曲だなあと思うが(インパルス後期のコルトレーンの曲を想起させる……か?)、ソロになってしまえばあとはいつものウェアミュージック。それにしてもウェアの力強い演奏は「豪快」とはまるで違う、音はでかいし、たくましいし、個性的で、圧倒的なのに……繊細なのである。これはいつ聴いても凄いことだと思う。梅津和時さんが、片山さんが亡くなったときに、自分より音がでかいサックス奏者は片山とデヴィッド・ウェア……みたいなことを言っていたが、ウェアの場合、音がめちゃくちゃでかくて、しかもパッと聴くとすぐにウェアだとわかる個性的なもので、しかも細かい表現をそのでかい音でつづっていく、というところが凄いし、説得力があるところである。ウィリアム・パーカーのベースがいかにウェアのことをよく理解し、ソロを支え、また、刺激しているかがよくわかる。モリス、パーカー、スミスはソリストとしてもすばらしい演奏をしており、例によってジョー・モリスのわけのわからん浮遊感と朴訥さのあるソロはマシュー・シップのいないこのカルテットにおいて大いに聞きものになっている。2曲目半ばにおけるウェアの無伴奏ソロはテナーの楽器コントロールがめちゃくちゃ凄く、聞き惚れるしかない。それに続くモリスのギターを中心にしたトリオのパートはひたむきで熱く、しかもシンプルでこれも大きな昂揚を作り出している。三曲目は非常に単純な音階のメロディをウェアが提示して、それがテーマへとつながっていく。ジョー・モリスがそれをそのまま受け継いでのソロになる。単音中心のソロで、緊張感もグルーヴもあり、すばらしい。そして、ウェアの圧倒的な咆哮は原始の叫びとしか言いようがないほど、人間の根源的ななにかをつかみだし、ぶちまける。それを煽るトリオの演奏も凄まじい。こういう演奏を例の「スピリチュアルジャズ」という言葉で形容するのはまったくふさわしくないが、たしかにスピリチュアルで根源的で人間的な「叫び」の感じられる、とてつもない演奏だ。こういうのを聴くと、ライヴに接することができなかったことが本当に悔やまれる。4曲目はバラード(?)で、ウェアの無伴奏ソロからはじまり、そのあとカルテットになって、モリスの美しいギターをフィーチュアしたトリオになる。単音で訥々と奏でていくモリスにかぶさるように、これまた美しいウェアのテナーソロがはじまり、異様なテンションのなか、しみじみと音をつづっていく。人類が生み出した、もっとも美しい瞬間のひとつがここにある。つまりは……「音」なんっすよ! 最後は怒涛のサーキュラー。すごい! 5曲目はベースとドラムのデュオでのアップテンポの激しい演奏からはじまり、パーカーがアルコを弾き、テナーがフリーに吹きまくるパートになる(ときどき出てくる「トー、トトレーロー」という音列がテーマのようだ)。こういうリフひとつで自由になる、というのはフリージャズのひとがみんなやるひとつの手段だと思う。あとは、それをかっこよくやるかどうかなのだが、ここでの演奏はもちろん超かっこいいのであります。後半に行けば行くほど昂揚するウェアのテナーは、ありがたがって拝むか、爆笑するかのどちらかだと思うが、どちらの反応も正しいと思う。リードを軋ませまくる例のプレイや、最後のオーバートーンの連打も、まったくためらいというものがない。いや……凄すぎて驚く。ラストの6曲目は一曲目の再演。メンバー紹介のあと、ギターのリフを背景にしたブロウに継ぐブロウ。まあ、とにかくこういうのを聴くと、生で聴けなかったことが本当に悔やまれる。コルトレーンやロリンズ、デクスター・ゴードン、ショーター、ブレッカー……などと並ぶ「ジャズ」の巨星だったことが本作を聴いてもひしひしとわかる。このひとの演奏のすばらしさを、たとえ万分の一でも伝えていければなあ、と思う。音源が尽きるまで出してほしいです。傑作。