「LIVE 1973」(P.J.L MTCJ−5512)
山下洋輔トリオ
山下トリオの絶頂期を収録した未発表アルバム。メンバーは、森山〜坂田だから、内容は最高に決まっているし、同じときの演奏が一曲だけオムニバスアルバムの「インスピレイション・アンド・パワー」に収録されており、それは筆舌に尽くしがたいほどの圧倒的演奏なので、残り(同曲も収録されているが、音源が違う)であるこのアルバムの曲も悪いはずがない。ところが、このアルバムの音源は、なんとカセットテープであって、音がまたあきれるぐらい悪いのである。坂田も森山も山下も最高の演奏をしているのはわかるが、ピアノがいまひとつちゃんと聞こえない。山下トリオの音楽というのは、だいたいが「ぐちゃぐちゃっ」としたものであって、それをちゃんと味わい、興奮をともにするには、ある程度、解像度というか、個々の音のクリアさ、バランス……などが必要なのだ。四ビートのラインに乗っかって展開する、通常のジャズなんかよりははるかに、そういったオーディオ的な手当が要求されるのに、このアルバムは残念ながらもこもこした音にしかきこえない。ところが……ところがである。このアルバムは、そういったハンディをおぎなってあまりあるほどの、最高最上絶頂の演奏が詰まっているのであって、真剣に聴き入っているうちに、音質のことは念頭から去ってしまう。ここで繰り広げられている演奏はまさに一期一会の凄まじいものであることがわかる。この時期の山下トリオが、「世界一のジャズバンド」であったことを証明する、至高の演奏である。もちろん、もっと録音のよい同時期のアルバム(「クレイ」、「アップ・トゥ・デイト」、「フローズン・デイズ」、「キアズマ」……など)を聴くほうがずっと隅々まで苦労せずに味わえるわけで、まずはそれらをちゃんと聴いてから、このアルバムに移るべきではないかと思うけどね。何度もいうけど、中身は信じがたいほどすばらしいので、ほんっ……とに残念だ。あのコンサート(「インスピレイション・アンド・パワー」)の音源をすべて破棄したという会社の人間は、腹をかっさばいてあらゆる音楽ファンに詫びてほしいと思う。どんな事情があったかしらないが、そいつらはたぶん、音楽を愛していないにちがいない。もし、少しでも音楽が好きなら、そんなまねは死んでもできないはずだからである。そういう点も、聴いていていらいらするんだよなあ。
「WIND OF THE AGE」(VERVE POCJ−1396)
YOSUKE YAMASHITA NEW YORK TRIO
ニューヨークトリオに関しては、かつての山下ファンからはおそらく毀誉褒貶さまざまだと思うが、少なくとも本作に関しては、私は「傑作」だと断言したい。そして、その魅力のかなりの部分をラヴィ・コルトレーンというテナー奏者の力に因っていると思われる。ラヴィ・コルトレーンをはじめて聴いたのは、かなり昔、エルヴィン・ジョーンズ・ジャズマシーンでソニー・フォーチュンと2テナーで来日したときのことである。そのときはまだ未熟ではあったが、ラーセンのメタルでごりごり吹きまくるフォーチュンに対して、ラヴィはおとなしめで、考え考え、非常に端正にフレーズをつむいでいく、という風に思えた。そのぎこちなさが、このアルバムではすっかりとれて、かなりの自信にあふれた吹きっぷりだ。親父のような、一音にめちゃめちゃ重さを感じさせるような吹きかたではなく、とても現代的な、リーブマン以降のメソッドに基礎を置いたと思われる、ビル・エヴァンスとかに代表されるような、「いい音だけど軽い。でも芯があって、じつは重みがある」そんな奏法だ。とくにソプラノの軽々とした吹き方は、現代のサックス奏法をきちんと学び、消化し、日々のメカニカルな基礎練習も積んできたサックス奏者のものである。コルトレーンの息子という色眼鏡で見る必要はまったくない、「現代ジャズのテナーマンのひとり」という位置づけで十分納得させられるような、そんなごくごく普通に実力のテナー吹きに成長した姿がここにある。しかし、たいへんだったと思うわ。ジョシュアのように、親父がああいう変態的な奏法のテナーマンだったら、かなり楽だっただろうに、なにしろ親はコルトレーンだ。そんな圧力とか自負とか思いこみとか……いろんなものをはねのけて日々練習にはげむのは、相当のハンディだったと思う。よくやった、ラヴィ。さて、このアルバムだが、一曲目は変則ブルースだと山下自身が解説に書いているが、テーマを聴いてもよくわからないし、ラヴィのソロ(めちゃかっこええ)を聴いてもよくわからない。山下のソロになって、やっと「ああ、ブルースか」とわかるぐらいの難曲であるが、ラヴィはそれを軽々と吹きこなしている。二曲目は十拍子が出てくる、これまたかなりの難曲で、テーマ部分は一瞬たりとも息を抜けないし、ソロもめちゃむずかしいと思われるが、これまたラヴィのテナーは爆発している。三曲目は筒井さんの「邪眼鳥」に捧げた曲で、マイナームードのかっこいいベースラインのうえに、めちゃめちゃ変態的なテーマがソプラノによって演奏される。これも難曲だと思うが、ラヴィはさすがにムードをキープしたまま、いいソロをする。四曲目は、「二面性がある」と山下が書いているとおりの途中で曲調が変わる曲。五,六曲目はサックスが抜けたトリオの演奏だが、これもいい。そして、七曲目はスタンダードで「マイワン」。コルトレーンも演奏していた曲だが、ラヴィはコルトレーンスタイルではなく、親父よりも前の世代のテナーマンを思わせる、堂々たる演奏である。こいつは、親父が自己表現のために切り捨てていったジャズの美味しい部分をちゃんと拾いあげている。最後に「マイ・フェイヴァリット・シングス」が来るが、これは山下のアレンジによって生まれ変わった「マイ・フェイヴァリット……」であって、ラヴィもソプラノではなくテナーで吹きまくる。全体に、山下の作曲の才能が光る。ほんと、いい曲ばっかりである。もちろん、ベースもドラムも最高だが、ラヴィのテナーマンとしての実力がひしひしと伝わってくる。マジで名盤じゃないですか? 親父に全然似ていないラヴィだが、そのあまりにストイックなまじめさはコルトレーンと共通のものではないだろうか。これからも独自の道を歩み、実力を磨いてほしい。応援してまっせ。
「耳をすますキャンバス」(VERVE POCJ−1361)
山下洋輔
非常に久しぶりのソロピアノだったらしい。聴いてみると、すぐれた作曲とアドリブが有機的に結合した演奏だが、驚くのは徹頭徹尾、鉄のような自己抑制がきいていることであって、もちろん一度もフリーに暴れたりしないし、曲の最初にセッティングされた「曲調」を最後まで崩すことなくソロを展開していく。テーマ→アドリブ→テーマというより、全体がアドリブも含めてひとつの曲になっている。ちょっと聴くと環境音楽のように聞こえるほどの優しさ、口当たりの良さがあるが、よく聴くと、その構成力やリリシズムに圧倒される。鋭く、またパワフルである。「ジャズ」ピアニストなら、そのときの雰囲気でソロをしたり、途中で自分自身の音につり出されて唐突に熱くなったり、気まぐれに方向転換をしたり……ということはよくある。ジャズというのはそういうところが魅力なのだが、山下洋輔はソロピアノにおいては「いわゆるジャズ」の域を飛び越えてしまっているようだ。ソロピアノだけでなく、最近の山下の、たとえばクラシックオーケストラとの共演やビッグバンド演奏、ミュージカル的なものの伴奏(ジャズ忠臣蔵やフリン伝習録など)を聴いていると、こういうことは凄まじ自己抑制と、スイッチを切り替えたときの自己表現が両立できるひとでないと絶対無理、と思う。しかし、考えてみれば、山下さんの演奏って昔からそうだったのかもしれない。曲ごとに、グループごとに、演奏のイメージを設定し、それに向かって躊躇なく突き進む。フリーの場合はフリーに、スウィングジャズのときはスウィングに、オケとの共演の場合は譜面上与えられたスペースはオケと融合するような自己表現に、それぞれ徹する。ソロピアノの場合は共演者がいないので、よけいにそういうことが目立つのかもしれないが、「ヨースケ・アローン」はまだフリージャズピアニストのソロアルバム……的な感じがあったが、「インヴィテイション」(めちゃめちゃ好きなアルバム)あたりから、このアルバムのような自己抑制と解放は十分聴き取れる。その意味でこのアルバムは山下洋輔らしい作品といえるかもしれない。テーマを設定して、それをまったく崩すことなく弾ききっている。
「DAZZLING DAYS」(VERVE POCJ−1190)
山下洋輔
「クルディッシュ・ダンス」の成功を背景に吹き込まれた、ニューヨーク・トリオ+ジョー・ロヴァーノによる第二弾。テナーが入っているのは3曲だけで、基本的にはニューヨークトリオのアルバム。「プレイグラウンド」にテナー入りで入っていた「おじいさんの古時計」がトリオで再演されているが、これがめちゃめちゃええんです。ほかの曲ももちろんよくて、かなりむずかしいテーマ〜構成の曲が多くて、ロヴァーノも、ほんのセッションのつもりで来たら、めっちゃバンドやん……と思ったかどうかは知らんが、完全にグループに溶け込んでブロウしている。私は、ニューヨークトリオ+管では、ラヴィ・コルトレーンの入った「WIND OF THE AGE」がめっちゃ好きだが、本作もよい。ここまでくるとフリージャズの要素はほとんどなくて、まさに現代ジャズなのである。
「PLAYGROUND」(VERVE POCJ−1153)
山下洋輔
ニューヨークトリオと並んで山下さんが、オーディションで選んだ若手(かなりの若手)とともに国内で結成したニュートリオ。現在はメンバーチェンジがあり、アルトが加わってカルテットとなっている。本作は、曲によって菊地成孔、林栄一のサックスが加わっており、正直いって、本作の魅力のかなりの部分は(山下さんのピアノをのぞくと)このふたりのサックスに負っている面が多いかもしれないが、それにしてもアルバム全体の評価としては5つ星をつけるしかない。それほどの傑作だと思う。「クルディッシュ・ダンス」の再演や、テナー入り「おじいさんの古時計」、アルトフィーチュアの「グリーンスリーブス」、2管による「ブリック・ブロック」など聞きどころ満載だが、山下さんのピアノが、ニューヨークトリオに比べて、ガンガンとフリーに弾きまくっている感じがして、そのあたりも聞き物である。菊地成孔は、こういう曲調だと、素朴に朗々と歌いあげながら、フリーキーな展開にもっていく、という吹きかたをするが、アイラーを思わせるこういうソロはほんと手慣れた感じである。名盤だと思うが、世間の評価はどうなのだろう。みんな、先入観を捨てて、頭をからっぽにして聴いてください。ほら……名盤でしょう!
「木喰」(VICTOR SMJX−10088)
山下洋輔トリオ
この作品は、学生時代にどこかで一度聴いただけで、そのまま20年以上が経過して、今回ほとんどはじめて聴いたに等しい状態であった。正直、中村誠一在籍時の山下トリオは、私がジャズを聴き出した高校生のときにはすでに過去のものだったので、坂田さんの入ったアルバムをどうしても優先的に買うことになり、結局、いろいろ考えたすえ一枚だけ聴いてみようと思い、選びに選んだすえ、やはり山下トリオだからライヴがよかろうと、「コンサート・イン・ニュー・ジャズ」というのを買った。そして、今回CD再発によってこのアルバムをほぼはじめての状態で聴いてみて、ああ、あのとき「コンサート・イン・ニュー・ジャズ」ではなくてこれを買っていたら……と思った。中村誠一は、初リーダー作以来だいたいアルバムは聴いているし、ライヴでも何度も聴いているが(サインもいただいたことがあります)、そのときの印象から、(このひとはフリーのひとじゃないな)というのがあり、山下トリオ時代の演奏を勝手に敬遠していたのかもしれない。いやーーーーーーーーーーーあいた口がふさがらないとはこのこと! 中村誠一といえばテナーだと思っているから、一曲目の「木喰」(かなり長尺の演奏)がソプラノによるものだとわかったとき、さほど期待していなかったが、もう、聴いていて死んだ。あまりにかっこよくて死にました。すごいなあ、すごすぎるよ、このひと。二曲目のテナーもすごいが、一曲目のソプラノはとにかく圧倒的だ。まず、楽器のコントロールがすばらしく、音色、タンギング、鳴りなどが、「むちゃくちゃやってます」的いかがわしいフリージャズとはまるでちがう(そういうのも好きだが)。きちんとフレーズを積み重ねていき、そのうえでの爆発、それも爆発のうえに爆発を重ね、最後には大爆発が待っている。ソプラノは
きらきらと黄金の輝きを放射し、テナーも輝かしい音色で圧倒的な破壊力をしめす。もちろん若き山下と森山のプレイは最高で、もう仰天した。私は、リアルタイムでは小山彰太
入った、坂田がフロントのトリオからしか聴いておらず、そのまえの坂田〜山下〜森山のトリオさえアルバムでしか聴いていないわけで、そのまたまえとなるとこれは歴史上の世界である。そんなこんなであまりちゃんと聴いてこなかったが、もし「コンサート・イン・ニュー・ジャズ」ではなくこのアルバムを買っていたら、このころの山下トリオのアルバムは全部集めていたにちがいない(「コンサート・イン・ニュー・ジャズ」は録音が悪いので、迫力にかけるのです。とくに中村誠一のサックスはオフ気味で、当時の山下トリオの記録としては貴重だが……)。これがスタジオ録音とは信じられないライヴ的迫力に満ちているだけでなく、スタジオならではの繊細さも併せ持っている大傑作だと思います。あと、表ジャケットはよく知っているが、裏ジャケにボッシュの絵が使われているというのは今回はじめて知った。
「ミナのセカンドテーマ」(VICTOR SMJX−10075)
山下洋輔トリオ
これはテープで持っていたが、あまり聴かなかった。というのは、最初に聴いたときどうもピンとこなかったからで、表題曲や「ロイハニ」のもつバラードっぽさがどうもあわなかったのかもしれないし、「グガン」もゆっくりしたバージョンで、「コンサート・イン・ニュー・ジャズ」のブッ早いバージョンを聴いてしまうと、いまいちなあ……と思ったらしい。それであまり聴かなかったようだが、今回、CD再発を機会に購入し、だいたい20年ぶりぐらいであらためて聴いてみた。同時に買った「木喰」があまりに凄かったので、ある種の期待はあったが、いやはや、すばらしかった! そうかあ、こういうすごいものを俺はずっと聞かずにいたんだなあ。つまり、高校生の私にはこの音楽をきちんと理解できるだけの耳がなかったのだろう。(良い意味で)口当たりのいい坂田明入りトリオのほうにばかり耳がいってしまって、中村誠一のテナーのハードボイルドかつ初々しい青春の雄叫びを受け止められなかったのだ。うーん、残念無念。今日からおそまきながら心を入れ替えて、この時期の山下トリオを聴きまくることを宣言します。表題曲はもちろんのこと、「ロイハニ」も「グガン」もかつて思ったような点は微塵もなく、ここでの中村のテナーは、当時のフリージャズシーンにおいても最高のランクにいたのではないか、とすら思う。たぶん、アイラーもガトー・バルビエリもシェップもフランク・ロウ(今、うっかり変換したら腐乱苦労となった)も超えていたのではないか……そんな気になるほどここでの中村誠一はすごい。ひとつのアイデアというかモチーフを、ハイスピードで、凛とした音色で、緊張感をもって、畳みかけていくだけのテクニックと音楽性をそなえており、まさに無敵だ。もちろん山下も森山もすごい。すごいすごいみんなすごい。ああ、こんな風に吹けたらなあ……。
「CONCERT IN NEW JAZZ」(UNION RECORDS JUP−4)
山下洋輔トリオ
山下トリオのアルバムについては、どれもこれも「めちゃくちゃ凄い」「凄まじい」「凄すぎる」という言葉しかでてこないものが多いので、どれにも簡単に触れるだけにとどめたい。本作は、生まれてはじめて買った山下トリオのアルバム。最初に聴いたのは「ホット・メニュー」(の一曲目)だが、それはラジオで聴いたのだ。感動のあまり、ただちにレコード屋に走ったが、こういうときにオタク気質というか妙な考えをもってしまう私は、「やはり初期作品から順番に聴くべきだ」と思い、当時入手できたアルバムのなかからもっとも初期の録音のものを買ったのだ。「木喰」や「ミナのセカンドテーマ」などがスタジオ録音だったことも理由のひとつかもしれない。つまり、ライヴのほうが迫力も臨場感もあるにちがいないという先入観である。そういう経緯で、高校2年のときに本作を買ったわけだが、このアルバムはあまり録音がよろしくない。もちろん普通に鑑賞するには十分なのだが、微妙にバランスが悪かったり、オフだったりして、残念ながらいつものあの迫力にやや欠ける。山下トリオの演奏をさんざん聴いたあとなら、本作を聴いても、想像力でおぎなえるのだが、最初に聴く作品としてはほかのものを選択するべきだったかもしれない。というわけで、私は本作を買って、金のない高校時代なので、来る日も来る日も聴きつづけて、もとをとったのだが、結局、中村誠一の入ったアルバムはこれだけにとどめ、あとは坂田さんが入ってからのものばかり買ったのだった。やはり最初の印象というのは大事である。あのときもし、「木喰」とかを買っていたら、その後がまるで変わっていたかもしれない。今回、久しぶりに聴き直してみたら、やー、あのころさんざん聴いただけあって、いろいろなフレーズとかいっぱい覚えていた。で、今回の印象としては「おおっ、これはすごいなあ」という感心と、「やっぱり録音がいまいちだな」という再確認と両方だった。今ならこのアルバムの良さははっきりわかるのだが、当時はまだまだ耳が未熟だったのですね(今でもだけどね)。
「HOT MENU」(FRASCO FS−7028)
YOSUKE YAMASHITA TRIO LIVE AT NEWPORT’79
このアルバムに出会わなかったら、私は今、こんなにフリージャズばっかり聴く、フリージャズ漬けの人間になっていなかっただろう。そういう意味では、私にとっては超重要なアルバムであり、本作の一曲目「うさぎのダンス」をあのとき、(たしか正月に)ラジオで聴いたことは、自分史のなかでもかなりエポックメイキングな出来事であった。いやー、ああいうことがあるんですね。なにげなラジオをつけていたら、はじまった怒濤の演奏。なんじゃこりゃー! 坂田明のアルトを聴いてびっくりぎょうてん。すごいすごいすごすぎるー。とにかく驚いた。あまりに前衛的なのに、このおっさんのアルトのフレーズは、一から十まで、なにを言いたいのかぜーんぶわかるのだ。そう、山下トリオの演奏は、はじめて出会ったそのときに、すべてわかった。わかった、というのは上から目線の傲慢な言い方かもしれないが、とにかく、「ああっ、わかった!」という、禅でいう「悟り」の瞬間のような感じで、もう自分で自分のことをびっくりしたのだ。あとにもさきにも、あんな体験はなかった。コルトレーンもドルフィーもオーネットもアイラーもチャーリー・パーカーも、最初に聴いたときはなんのこっちゃよくわからなかった。その後、何度も聴くことで、じわじわわかっていったのだが、坂田明を擁した山下トリオの演奏はファーストコンタクトのときから「バシッー!」とミットが音をたてて捕球するような感じでなにもかも理解できたのだ。
「YOSUKE ALONE」(KING BELLWOOD RECORD JAZ(B)3013)
YOSUKE YAMASHITA SOLO PIANO
これはもう筆舌に尽くしがたいぐらい大好きなアルバムで、山下さんのソロのなかでも、「インヴィテイション」と同じくらい、いや、もしかしたらこっちのほうが微妙に上かも、と思えるぐらい好きだ。「インヴィテイション」以降の山下さんのソロは、トリオのときとは弾き方を変えていて、ピアノ一台で成立する完璧なソロピアノ音楽になっていると思うが、本作の時点では、トリオのときのあのアグレッシヴな、演奏者自身が「我を忘れている」ような麻薬的な没入感が残っており、しかも、それが作品としてぜんぜん悪く作用していない、それどころかめちゃめちゃ良いほうばかりに作用しており、なおかつ全体の構成とかバランス感覚もばっちり、という魔法のような稀有な状態が作り上げられている、という、このときの山下さんでしか弾けないような内容なのだ。このあとはさっきも書いたように、ソロはソロで独自の世界を確立しての演奏となっていくので、「ひとりでトリオをやっている」ような荒削りのチャレンジみたいな感覚はこの作品でしか聴けないと思う。もちろんそれはミュージシャンの発展として当然のことであるが、私はこの「ヨースケ・アローン」での世界観を永遠に愛しつづけるだろう。これがライヴというのは、ほんと信じられないよねー。
「CHIASMA」(MPS KUX−2−P)
YOSUKE YAMASHITA TRIO
最高傑作という言葉は軽々しく使ってはいけないと思うが、山下トリオの最高傑作であり、このアルバムが発売された年のグラミー賞とかレコード大賞とかノーベル賞とかあらゆる賞をあげるべきだったアルバムであり、世界の音楽史に燦然と輝く作品である。傑作というのは、内容が重くて体力・気力が充実しているときしか「聴こう」という気にならないものだが、このアルバムにかぎっては、針をおろしたら最後、ラストの一音まで一気に聴き入ってしまう。印象としては、トリオが一丸となって冒頭からぶちかます! みたいな感じだと思うが、じつはA面の3曲のうち、坂田さんが出てくるのは3曲目からで、それまでは山下ソロと山下〜森山デュオなのだ。つまり、このアルバムはA面最初からB面のラストまで、ひとつの組曲というか、「一曲」として聴くことが可能であり、だからこそ、これだけのずっしり来る内容の作品を一気呵成に聴いてしまえるのだろうと思う。内容の詳細は、いくら書いてもしかたないので、とにかく聴いたことがないひとは、聴くしかありません。
「MONTREUX AFTERGLOW」(FRASCO 18PJ−1009)
YOSUKE YAMASHITA TRIO
山下トリオの作品のなかでも、「フィーチュアリング坂田明」という副題をつけたくなるほど、坂田さんの印象が強いアルバム。A面B面一曲ずつで、たっぷりと山下トリオの世界に浸れる。このあたりから、めちゃめちゃエグいし、めちゃめちゃハードなのに、なぜかポップ……という、前人未踏の山下さんの世界が実現していく。「ゴースト」は、正直いって、「ゴースト」である必要はない。テーマを吹きあげたあと、唐突にフリーに突入するので、ほかの曲をもってきても、その後の展開は同じにできる。しかし、やはり全体を通しての印象は「ゴースト」でしかない、というアクロバットなのである。それは、テンポとかコード進行とか構成とかを超越して、「曲感」みたいなものを3人が頭に置いているからだろうと思う。坂田の赤とんぼも、最初に聴いたときは大笑いしたが、今聴くと、これしかない感じである。これを固定した山下さんは慧眼だなあ。B面の「バンスリカーナ」も変拍子のマイナーヴァンプで、フリージャズ版テイクファイヴみたいにも聴ける。ジャケットも秀逸で、ほんと、向かうところ敵なし、という充実作。
「FROSEN DAYS」(PANAM GGP−6)
YOSUKE YAMASHITA TRIO
めっちゃ久しぶりに聴いた。というのは学生のころ最初に聴いたときの印象として、「キアズマ」のスタジオバージョン、あるいは「キアズマ」の原型的なイメージがあり、とくに「キアズマ」という曲は、「キアズマ」収録のライヴバージョンにくらべてめちゃめちゃ遅く、うーん、これは物足りん、と思ったのである。あれから約二十年。ほんとに久々に取り出して聴いてみて、なんじゃこりゃ、めちゃめちゃ凄いやんけ! と逆立ちして周囲を歩きたくなるような衝撃を味わった。というか、自分のあまりの馬鹿耳を恥じた。とくに坂田明が、(こういう表現は誤解を生むかもしれないが、あえて書くと)山下トリオの坂田ではなく、まるで「普通のフリージャズ」のように吹いている場面があって興奮する。いつものような細かい、具体的な、痙攣しているようなフレージングの積み重ねではなく、たとえばアート・アンサンブルとかアイラーとかファラオ・サンダースとかを連想させるような「生々しい叫び」をあげていて凄まじい。このころまでの山下トリオはライヴとスタジオの差がそれほどなく、スタジオでもライヴ同様の高揚感があるうえ、微妙で繊細な表現が行き届いており、かえって良かったりするのであなどれない。とにかく、もう、今のところ毎日聴いてます。長い空白を取り戻すために。告白すると「アップ・トゥ・デイト」は金に困ったときに売ってしまったので、あれも入手しなくてはなあ……。
「A FIGURE OF YOSUKE YAMASHITA VOL.1」(FRASCO 28PJ−1004)
YOSUKE YAMASHITA
坂田明が抜けて武田和命が入ったトリオが、じつは私が生でいちばんよく観た山下トリオなのである。坂田さんの入った山下トリオは一回しか観たことがないうえ、そのときすでに武田さんがプラスワンで入っていたので、純粋な坂田さんの入ったトリオは観たことがない。まあ、そんな程度のファンである(だって、坂田さんが山下トリオを抜けたのは私がまだ高校生のときなので……)。で、その後に武田さんが入ったトリオをかなりの回数聴くことになったわけだが、これはもう、サックスが変わった、とかそういった変化ではなく、武田さんの入ったトリオはそれまでの山下トリオとはまるでちがうもの、と考えたほうがいい。中村誠一もそうだったが、坂田を得て、トリオは、ひじょーーーーーに細かいサックスのフレージングによる異常なまでにすばやい反応を手に入れた。それによってあの強烈な「やりとり」が可能だったのだ。しかし、武田さんは真逆といっていいほどゆっくりしていて、細かいフレーズもあまり吹かず、もともとスロースターターだそうだがたしかに、坂田がソロの冒頭からいきなり全力疾走でカマしてきて、そのままどんどん上昇していくのに対して、最初はのろのろと考えている感じである。坂田の音が入ってくることを想像している私は、はじめのうちは、あーんなんなんだこれは、こんなの山下トリオじゃない、とイライラしたことをここで告白しておきましょう。しかしである。はっきり言って、私は武田さんの入った時期のトリオが大好きだ。だから本作もめちゃめちゃ好きだ。じつは、武田さんの入った山下トリオのアルバムというのは一枚もない。国仲勝男のアルバムか、林栄一の入ったヨーロッパツアーのものか……とにかく純粋にトリオだけというものは存在しないのである。そういう意味で、本作はいちばん「武田和命が入っていたころの山下トリオ」の演奏に近いのではないか。国仲さんのベースが入った曲も多いが、トリオだけの曲もある。本作を久々に聴いてみて、ああ、この音だ、と感激した。あのころ、高校生〜大学生のころの私が追いかけていた山下トリオの音がここにある。ベースが入っていることもあって、モードジャズっぽい演奏も多いが、それもすごくいい。武田さんのテナーを存分に聴けるアルバム、と考えれば、これはある意味、「裏・ジェントル・ノヴェンバー」ではないでしょうか。
「A FIGURE OF YOSUKE YAMASHITA VOL.2」(FRASCO 28PJ−1005)
YOSUKE YAMASHITA
私自身がものすごく好きだった、とか、影響を受けた、とかいうことはもちろん、これが出た時期、おそらく日本中の学生ジャズミュージシャンがこのアルバム一色に染まったように記憶している。それぐらい影響力、浸透力のあったアルバム。全曲が名曲・名演。ほんまによく聴いた。というかいまでも聴いてる。このアルバムのコンサートにも行った。一曲目の「ミュージック・ランド」の向井のドアタマのフレーズからずーっと覚えているぐらいよく聴いた。もう、この曲、めちゃめちゃかっこいいですよね。二曲目の渡辺賀津美との演奏も、私はあまりギターは聴かない人間だが、この演奏は「ええなあ」と思ったもんです。「ファースト・ブリッジ」は必死でコピーした。清水靖晃のテナーはめちゃめちゃむずかしくてコピーはしたけど吹けなかった。でも、無伴奏になってからの部分とか、よくセッションで真似したなあ。よくこんな曲を思いつくものだ。中村誠一のハスキーな音色のテナーをフィーチュアした「活動写真」も忘れがたいが、やはり本作の白眉は坂田明のボーカルを前面に押し出した「寿限無」。ライヴで何度も武田さんのテナーによる演奏を聴いていたこの曲が……いやー、まさかまさかこんな風になってしまうとは。フリージャズとコミックソングというまったく相いれないはずの二つのものが、ここ日本で完璧に融合した瞬間である。いやー、ほとんどボーカルのフレーズも覚えてるなあ。ラストの「仙波山」もすばらしい。とにかく、聞きどころ満載でたしかに「山下洋輔の世界」であることよ、という仕上がり。聴いたことのないひと……なんているのかな。とにかく聴いたことないひとはぜったい聴いたほうがいいですよ。
「ARASHI」(FRASCO FS7019〜20)
YOSUKE YAMASHITA TRIO/DAIRAKUDAKAN/GERALD OHSHITA
大駱駝艦の舞踏につけた音楽、という特殊な事情があるせいか、いまいち話題になることが少ないアルバムのように思うが、実際聞いてみると、当時の山下トリオの魅力全開の傑作だ。印象的な「月の砂漠」ではじまり、「ゴースト」や「嵐のテーマ」など曲も魅力的で、坂田〜彰太〜山下のトリオは伴奏というより自分たちが主役という感じでガンガンぶっ飛ばし(レコードを聴いているかぎりではそう聞こえるが、山下のエッセイなどによると、舞踏とのインタープレイになっているらしい。しかし、それは実際に劇場にいたものにしかわからないことであって、我々はここにある音で想像・判断するしかない)、その破壊力たるやとんでもないエネルギーである。興奮興奮また興奮。ゲスト格のジェロルド大下も、テナーとソプラノで坂田とはひと味ちがう「いい味」を出しており、本作には彼のソロを聴くという愉しみもあるし、彼と山下トリオの融合や距離感などを味わう興味もある。ときどき生の叫び声や風の音のSEが聞こえてくるあたりも、こちらの想像力を刺激する。先日、CD化されたが、ジャケットの恐るべき衝撃はとうていCDのサイズでは味わえまい。こういうアルバムはやっぱりレコードで持っていたい。
「INVITATION YOSUKE IN THE GALLERY」(FRASCO 18PJ−1022)
YOSUKE YAMASHITA
これ、めちゃめちゃ好きです。「ヨースケ・アローン」もめちゃめちゃ好きだが、「ブレステイク」と「バンスリカーナ」を経て、ついに誕生した本作は、まさしく傑作である。「ヨースケ・アローン」はソロとはいえ当時の山下トリオの音楽をひきずっており(ひきずるというのは悪い意味ではなく、その延長上にある、というようなことです)、たいへんな傑作となったが、その後のソロアルバムは、トリオとは一線を画した「ソロピアノ」ならでは、というか、ソロピアノでしかできない演奏を志向していったように思う。そして、その第一の完成形が本作なのだ(と私は勝手に考えているのだ)。スタンダードやモダンジャズの曲が多くとりあげられているのも特徴だし、一曲が短く、構成が露骨なまでにしっかりしているのも目をひく。もちろん山下節も随所に顔を出すし、いつものゴリゴリしたパッショネイトな部分もあるのだが、全体としては「耽美」に近い印象である。すばらしいジャケットから受ける印象もそれに近く、ギャーとかグエーッとかいう音楽がちょっとしんどくなったとき、このアルバムをよく聴いた。「ヨースケ・イン・ザ・ギャラリー」という副題もよくぞつけたものだと思う。この作品のあと、山下さんのソロピアノはしばらくブランクがあって、そのあとトリオ解散後に多数発表されることになる。
「ダンシング古事記」(SUPER FUJI DISK FJSP−46)
山下洋輔トリオ
いやー、恥ずかしながらはじめて聴きました。一度聴いてみたかったんだけど、中古屋では信じられないほどの値段がついてたからなあ。で、はじめて聴いてみて思ったのは、意外に音がよかったこと。どうやら今回の復刻はマスターからではなくオリジナルのLPから起こしたらしいのだが、さすがの技術だなあ。非常にリアルなサウンドで、「コンサート・イン・ニュー・ジャズ」あたりと比べても遜色ない。若い日の山下、森山、中村が吠え、唸り、叫び、轟き、疾駆する様子が如実に伝わってくる。しかも、セッティングがセッティングだけに(69年の学園紛争真っ只中の早稲田キャンパスにおける、学生活動家たち主体のコンサート)気合いも十分だったと思われる。しかし、そんな状況でも、単なるガンガン、ゴンゴンの気合い空回り的なフリージャズではなく、「木食」では見事なまでに瑞々しい、情感ゆたかな即興が展開されており、その世界に聴衆も入りこみ、聞き入っているようだ。このあたりが、さすが! としか言いようがない山下トリオの「力」なのである。もともとは麿赤児がレコード化したらしいが、その炯眼はたいしたもんである。こうゆう風にして文化というのは作られていく。おかみが賞をやったり、なにかに認定したりすることとはまったく別に、である。
「APRIL FOOL〜キャシアス・クレイの死ぬ日」(SUPER FUJI DISKS FJSP−47)
山下洋輔トリオ
はじめて聞いた。いやー、中村誠一を擁したころの山下トリオの貴重な作品であって、曲も「ケーコタン」とか名前のみ知っていたものも入っているし、めっちゃかっこええ。いやはやすごいです。レコードから音を起こしたらしいが、音質的にはぜんぜん問題ないし、ど迫力で臨場感もある。でも、演奏とモハメッド・アリのインタビューとか試合風景とかのドキュメントが交互に並べられる構成になっていて、これがよくわからん。けっこう詳細なライナーノートを読んでみても、ついになんでモホメッド・アリなのか? という理由はわからなかった。その当時の状況はよくしらんが、今となっては、演奏だけを聞きたいように思う。山下トリオのファンならだれしも当然そう思うだろうが、たとえ山下トリオのファンでモハメッド・アリのファン(あるいはボクシングファン)であっても、この構成はめんどくさく感じるのではないか。音楽とスポーツを合体させようという試みなのか……いや、ちがうな。やはり単に並べただけだ。しかし、それが時代というものなのだろう。オリジナルに忠実な形で再発されたことは喜ぶべきだ。でもなあ……(もうええって)。
「グガン イントロデューシング・タケオ・モリヤマ」(東芝EMI TOCT−9362)
山下洋輔トリオとブラス12
本作には、森山威男というドラマーをフィーチュアして、皆様にあまねく紹介しよう、という意図とともに、山下トリオが発明・発見したフリーの方法論をビッグバンド化しようという意図もある。かなり意欲的な作品だといえる。結果的に大成功をおさめた作品だと思うが、山下〜中村〜森山というトリオだけの演奏とどうちがうのか。私はリアルタイムで本作を聴いていないが、おそらく当時の評価は、ごっつええけど、トリオだけのほうがやっぱりいいよね、というようなもんだったのではないか。本作においても、中村誠一のサックス(とくにソプラノの凄まじさは、聴いていて茫然自失とするばかりである。このひと、天才)、森山威男の息継ぎなく続くドラムソロ(森山威男の特色は、このブレス感がない、というか、ブレス感がひとの倍ほどもある長い長いワンフレーズにあるのでは?)、山下の圧倒的な弾きまくり……3者一体となった信じられないほどのテンションとボルテージ、高みへのぼりつめていく劇的な道程は、おそらく世界中でも類を見なかっただろうと思われる。それにあえて、ブラスセクションを加える意味があったのか………………あったのです。ブラスのリフのかっこよさは、フリージャズの頂点を極めたといっていい方法の3人の演奏を高め、煽り、より高く、より深くへと導く。山下のそのやりかたの「潔さ」は3人でフリージャズをやろうと決めたときの、いらない部分をすっぱり捨てるその突き詰めかたにも通じる大胆で徹底的なもので、リフをここぞというところにズバリと入れ、しかも、きっちりとしたリズムで合わせて、それをハモる。ジャズ・コンポーザーズ・オーケストラだとかグローブユニティだとかいっても、この作品が録音された時点(71年!!)でここまで徹底的にそれをやったアルバムはない。そして、本作は山下トリオのビッグバンド化とか、フリージャズの大編成化といったレベルではなく、じつはもっと大きなこと……フリージャズのポップ化を試みていたのだとおもう。今後の、山下自身の「砂山」や「寿限無」プロジェクトやパンジャオーケストラ……といった数々のプロジェクトにおける、フリージャズにおいてでたらめをやりまくることと、それをきちんと構成して、アレンジで型にはめることは両立するんだよ、という検証はもちろんのこと、坂田明のオーケストラや生活向上委員会、ドクトル梅津バンド、渋さ知らズをはじめとする多くのグループ、海外でも枚挙にいとまがないほど多くのグループで試みられた「フリージャズのポップ化」というものがこの71年の時点ですでに試みられていたというのは、ちょっとひっくりかえって逆立ちしてもいいぐらいの大大大衝撃なのである(ポップ化というと誤解を招くかもしれないが、かっちりした構成と自由きままなフリーという相反すると思われる要素が、じつは意外と親和性があった、という発見がベースになっているのだと思う。それをこの文では仮に「ポップ」と呼んでいるわけです)。そうじゃないですか? 高柳、阿倍、高木、吉沢……といったシリアスきわまりないフリージャズミュージシャンが日夜真摯な音をつむいでいたとき、山下はもっとべつのところを見ていたのだ(どっちがいいとか悪いとかいう話ではありません)。なぜそんなことをしたのだろうか。それはですね……この音、フリージャズの方法論にカッチリしたリフを合わせるというやりかたが「かっこいい」「心地よい」からに決まってる。それは自由を削ぐとか型にはめるとか枠に入れるといったマイナスなものではないのです。かっこいいんだからしかたないんです。まあ、そういったどうでもいい議論はさておき、本作がめちゃめちゃかっこよくて、しかも山下トリオの3人が信じられないほど暴走しまくっていて、しかもしかもきちんとアレンジメントが効果をあげていることはだれしも異論のないところだろうと思う。傑作です。
「RHAPSODY IN BLUE」(KITTY RECORDS H33K20062)
YOSUKE YAMASHITA
たぶんクラシックをよくわかっているひとやピアノを習っていたひとなどには本作の価値は私の数十倍わかるだろう。このアルバムは、山下さんがクラシックの曲の上っ面をちょろっと撫でて、あとはいつもの逸脱したソロをぶち込むというものではなく、逆にクラシックの曲と正面から向き合った作品であり、当然、コンポジションが前面に出ており、それをピアノという一台の楽器で表現するという、全体的な音楽の構造を味わう造りになっており、いわゆる即興の切った張ったはほとんどない(あっても、それはメインではない)。自作の4曲も凄い演奏だと思うが、それは弦楽四重奏(彼らは当然、山下さんが書いた譜面を弾いているわけだ)と山下ピアノの5人の創りだす音楽をトータルで享受しないといけないし、そういう風に山下さんもこの音楽を創っている。ということは、これはジャズとクラシックの融合というよりは、明らかにクラシックに属する音楽であって、私ごときが軽々しくなにかを言ったり書いたりすることはできん(ジャズやインプロヴィゼイションがクラシックより下だとかは一切思わないが、歴史の長さの点で負けとるがな。だから、クラシックについてものを言うときは気をつけてますねん)。本作で私が「おおっ」と思ったのはやはり最後の4曲(コンサート録音で、ストリングスカルテットとの演奏)だ。現代音楽的な響きもあって楽しいし、弦楽四重奏が山下さんのピアノとたがいに燃え上がっていくところや、ストリングスが山下さんの第3、第4…………の手足となって自在に動いているように思えるところも凄い。本作については、筒井さんのライナーノートがすべてを言い尽くしているとも思うので、取り合えずお読みください。
「KURDISH DANCE」(VERVE RECORDS/UNIVERSAL CLASSICS & JAZZ UCCJ−4035)
YOSUKE YAMASHITA
ニューヨークトリオにジョー・ロバーノを加えたクインテットによるアルバム。ニューヨークトリオは88年結成なので、このアルバムを録音したとき、すでに5年が経過していたわけだが、好評につき、2003年に再発になった。うちにあるのはその再発盤である。1曲目はロバーノを加えたカルテットによるアルバム表題曲で、6+3の9拍子をしつこく繰り返すリズムの曲。このリズムパターンはソロのあいだもずっと維持される。ただの9拍子なのだが、作曲のマジックによってかなりの変拍子のように聞こえる。非常にかっこいい曲で、ニューヨークトリオの代表曲のひとつと言ってもいいと思う。ロバーノのソロ、超快調。つづく山下さんの躍動感あふれるソロもすばらしい。2曲目は打って変わって、山下ソロのバラード。3曲目はカルテットで、きわめて魅力的な複雑なラインによるテーマの曲。かつての山下トリオを追想しているひとは一旦そのことは忘れて無心にこの曲と演奏を聴いてみれば、きわめてすぐれた現代ジャズ以外のなにものでもないとわかるはずである。めちゃかっこいいです。ロバーノは本当にこのグループの音楽性を理解していて、奔放かつ個性的なソロを展開していて惚れ惚れする。4曲目は古きよきジャズロック(!)的なリズムのうえで展開するベースのマクビーと山下のインタープレイも心地よい、トリオによる曲。ライヴと同等な迫力が感じられる、じつにいきのいいスタジオ録音だと思う。5曲目はロバーノが入ってのバラード。本当を言うと、こういうロバーノ(つまり、このアルバムにおけるロバーノという意味)がいちばん好きなのです。リーダー作は意欲的すぎて、それももちろんいいんだけど、こういうちょっとリラックスしたロバーノは、音色も美しく、力強く、しかもじつはいろいろかましてくれていて、ほんとに凄い。ロバーノ、もっと聴かねばなあ。6曲目はピアノソロで弾きまくるばーちゅおーぞ!な1曲。7曲目はぶっ速いテンポのカルテット曲で、こういうテンポだと山下さんはほぼフリーに近くなる。ロバーノもかなり過激な吹奏に終始して、めちゃかっこいい。マクビーとロバーノ、ピアノの激しいインタープレイは何度聴いてもよろしゅおまんなー。唯一、アクラフのドラムソロもあり。ラストの8曲目は、古いモダンジャズを思わせるトリオナンバー。めちゃくちゃええ曲。山下さんは、ロバーノがたぶんすっかり気に入ったのだろうなあ、翌年のアルバム「ダズリング・デイズ」でもまったく同じメンバーで録音している。
「IN EUROPE 1983−COMPLETE EDITION−」(PANJA NIPPON COLUMBIA COCB−54135)
YOSUKE YAMASHITA TRIO+1
楽しげなイラストによるジャケットにだまされてはいけない。ここに詰まっているのは、本当にお宝のような、壮絶極まりない演奏の数々だ。私がこの時期の吹き込みを偏愛しているのは、生でいちばんよく観た山下トリオがこの時期だったからで、私は「ホット・メニュー」をラジオで聴いてフリージャズの道に迷い込んだ人間だが、じつは坂田明在籍時は一度しか見ていないのです。それも、すでに武田さんが入っていて、坂田さんが辞めるというぎりぎりの時期で、そのあとすぐに坂田さんは辞めて、武田さんの入ったトリオになったのだ。だから、山下トリオとしての実体験は、ほとんどは武田〜小山のトリオで、ときどき本作のように林さんが入ったり、国仲さんが入ったり……という感じだった。今聴いても凄いよなあ。林さんのいきなりのブロウは(もちろん今でも凄いけど)感涙ものだ。ヨーロッパの聴衆はさぞかしのけぞったにちがいない。林さんの凄いのは、こういうときに自分を徹底的、全面的に出しきるところだ。もう、一音目からフリーな状態になっている坂田明とは180度違う。ものすごいテクニックでジャズのフレーズを吹きまくり、メカニカルなフレーズを否定することなく、とにかくおのれの信念に基づいてひたすら吹く、それが次第に熱気とともに膨れ上がっていき、フリーキーになり、どしゃめしゃになる(もちろんそうでない演奏もあります)。しかもそこに超ド級のマグマ的な「情熱」がひしひしと感じられるので、フリーだからとかそうでないからとか関係ない。山下トリオだから、フリーに吹かないといけないんだよね、みたいなファン側の勝手な約束事を身を持って取っ払ったのだ。冒頭の山下さんがメンバーを紹介する部分は、山下さんのメンバーに対する愛情が深く感じられる。武田さんのテナーは、当時はいろいろ言われていたが(こういう吹き方は、普通のジャズならいいけど「山下トリオ」には合わない、とか……。それはほとんどが前任者の坂田明と比較において言われていただけだと思う)、こうしていい録音で聞くと、武骨でガッツのある骨太なテナーで、どれだけフリーキーに吹いても、「しっかり」一音一音が発せられており、ああ、テナーを聴いた、という気分にさせてくれる。たとえばブロッツマンとかより、デヴィッド・ウェアなどを聴いたときの感覚に近い。つまり、ブラックネスがあるのだ。そういうひとはそれまで山下トリオにはいなかったのです。武田さんもまた、林さんと同じように、これまでの山下トリオ観を身を持ってぶち壊してくれたひとだ。激情的なカデンツァとか、まさに血を流しているかのようなフリークトーンによる「絶叫」など、心を掻き毟られる。そして! グレイトな小山彰太! 私は、正直言って、山下グループ(トリオも含むいろいろ)のドラムのなかでは一番好きです。ここでも凄すぎるドラムで共演者を煽りまくり、引くべきところは引き、出るべきときは怒涛の爆発。いやー、フレキシブルかつ偏執狂的なものを感じる、最高のドラムだと思う。山下さんとのデュオの部分なんて、もう涎が出まくる。歴代のメンバーを集めた日比谷でのコンサートとのとき、近くに座っていたファンらしきひとが、「やっぱり小山彰太は森山威夫にはかなわない。まるで格がちがう」みたいなことを言っていて、殴ったろかと思ったが、そのような認識のひとがいまだにいるのは悲しい。つーか、馬鹿じゃないのか。比較すること自体が変だが、私は断然小山さんが好きです(森山さんも好きです)。ジャズの歴史に残る偉大なドラマーだと断言します(まあ、私が高校生のときからずーーーーーーーっと小山さんのドラムを、なにかにつけ聴いてきたことが大きいのだろうな。ときどき、信じられないぐらい昂揚しまくり、創造的とはこのことだ! と叫びたくなるような凄いときがあるのだ)。もちろん山下さんのピアノも疾走しまくり、粒立ちしまくり(4曲目のかなりの部分を山下さんのすばらしいソロが占める)で、ああ、ほんと快感だなあ。LPでは、1曲目の多くの部分と3曲目、5曲目が入ってなかったので、たしかにそれらがないと、このライヴの凄さは伝わらないかもしれない。ぜひ、皆さん、このCDを聴いてください。この時期の演奏がもっともっと日の目を見ることを切望したい。武田さんのテナーを「いい音」で聞きたいというのはみんなの願いだと思うのです(「ジェントル・ノヴェンバー」も含んで、武田さんの今聴ける音源というのは、どれもたいへん貴重なものだとは思うが、私がずっと聴いていたあのテナーの「音」が聴けるものがないように思うのだ。指向性の強い、太くたくましく、鋼のような音。あれが聴きたい。本作はそれに近いのです。でも、もっともっと……ねえ?)。
「LIVE,AND THEN……PICASSO」(COLUMBIA COCB−54134)
YOSUKE YAMASHITA
パンじゃレーベルの第一弾としてこのアルバムが出た当時、私は聴いたことは聴いたのだが買わなかった。サックスが(メインソロイストとして)入っていない、ということもあったが、「寿限無」というアルバムあたりからの、定型ビートがあって、それに乗ってどしゃめしゃやったりきちんと弾いたりするという演奏が、学生時代の私にはピンと来なかったらしい。山下トリオの凄さは、三人が一斉にそれぞれのリズムを即興的にぶつけ合うことで生まれる最強のスウィング感にあり、決まったビートがない点が世界に冠たるところだと思い込んでいたのである(実際は、山下トリオ時代の演奏にも、定型ビートのものはある)。たしかに、こういう演奏をさせたら村上ポンタが当時は最高だったとは思うが、これは「フリージャズ」ではない、という思いだったのである。しかし、こういうメンバーによる、わかりやすい、しかも超絶技巧かつ異常に盛り上がる演奏を行うことで山下洋輔はそれまでとは異なった多大なファンを獲得したと思う。そして、今から考えたら、わかりやすいことはなーんにも悪いことではないのだった。私が狭量だったのです。そして、今聴くと、レコードではA面全部を占めていた一曲目の「イントロダクション〜ファーストブリッジ」は本当にすばらしくて、フリーフォームとはちがった即興のぶつけ合いと目まぐるしい展開、そしてグルーヴがある。もとはカセットで録音した音源だそうだが、聴くにはなんら問題はない。レコードだとB面に入っていた3曲は、スタジオ収録で、ホーンセクションが入っている。岡野等、粉川忠範、ボブ斉藤……という人選を見てもわかるが、山下さんの音楽においてのソロイストとしての起用ではなく、ひたすら分厚いホーンセクションが欲しかったのだ。これまでも、「ぐがん〜イントロデューシング・タケオ・モリヤマ」とか「砂山」とか、ブラスセクションをフリージャズと組み合わせたようなアルバムを作っており、それは山下トリオが定型ビートを排して飛翔するということと相反するようなことであり、正直、かなりむずかしい試みでもあるのだが、これだけ何度も行っているところを見ると、山下さんはこういう形式によほどこだわりがあったのだと思う。それがのちのビッグバンドやオーケストラにつながった……のかどうかはわからないが、フリージャズ黎明期から、そういう問題(?)はあって、有名なジャズコンポーザーズオーケストラでのオーケストレイションとフリージャズを融合するという試み(めちゃかっこいい)以来、こういう試みは多数行われている。よく考えると、山下トリオ時代の、途中はぐちゃぐちゃだが、テーマだけはバシッと合わせる、という部分の「快感」がもうすでに、この試みとほぼイコールなのだ。だが、このアルバムが出た当時は、私個人の気持ちとしては、たとえば坂田オーケストラにしても、定型ビートのうえでいくらフリーに吹いてもなあ……という気持ちがあって(フリーキーにどしゃめしゃやることと、フリーフォームとはちがう、と思っていたわけだ)、これもわが狭量さを示す例なのだが、聴いたら聴いたでめちゃくちゃかっこいいこともあり、なにか落ち着かないような気がしながら聴いていた。まあ、この問題はここでうだうだ言ってもしかたないし、あれもあり、これもあり、ということで結論づけるしかないとは思うが、本作を今回あらためて聴いてみて、とにかくかっこいいんだからいいじゃん、と以前は小さな声でそう思っていたものが、大声で断言できるような気持ちになっている(4曲目「ピカソ」のピアノソロ部分などは鬼気迫る迫力)。それにしても、こういうアホな発想(ピカソの名前に曲をつける)からはじめて、こんなオーケストレイションをつけて、凄まじい音楽へと昇華してしまう山下さんの才能というのは、本当に呆れるばかりだ。しかも、本作はなななんと5曲も未発表が追加されているということで、レコードを持ってるひとも買うしかないのでは……と思う。しかも未発表曲が、どれも、どうして未発表だったのかまったく理解に苦しむようなすばらしい出来なのだ。ポンタ秀一のとんでもないドラミングに加え、川端民生のベースワークも最高です。傑作。