katsura yamauchi

「SALMO SAX」(SALMO FISHING ASSOCIATION SFA001)
KATSURA YAMAUCHI SAX SOLO

 この人の演奏ははじめて聴いた。初アルバムがサックスソロということで、かなり期待したが、なんだかはぐらかされたような気分である。非常に美しく、神経の行き届いた、繊細なソロであることにまちがいはないし、微妙な音の変化を重ねていき、それが心のひだをざわざわと撫でるような演奏で、とても楽しく聞けるのだが、ある一定の境界のなかにとどまって、そこからこちらへ押し出してくるような「押し」が希薄である。そういう演奏なのだ、といってしまえばそれまでだが、サックスソロで初リーダーなのだから、ここは勝負をかけるところではないか。もう少し個性を全面に出してもいいかもなあと思った。この方法論をもっと徹底して推し進め、唯一無二の個性にまで高めてほしい。あと、ソプラニーノ、ソプラノ、アルト、バリトン、その他、各種サックスを使い分けているのだが、あまりその使い分けの効果があがっていないような気がした。アルト一本でもじゅうぶん表現できる世界のようだ。でも、それは吹く側の好みとかやりやすい方法論なのだから、大きなお世話かもしれない。それと、ラストに滝の音との共演が入っているのだが、滝の音に負けてるように思う。やっぱり自然は偉大だなあ、という結論になってしまうのは惜しすぎる。本人の意図がどのへんにあるのかわからないが、滝に対抗するにはもうちょっとがんばらんとあかんのでは。融合……という感じではないですね。

「波照間」(SALMO FISHING ASSOCIATION SFA002)
KATSURA YAMAUCHI

 待望のソロ二枚目。一枚目のときは、少々辛口なことを書いたが、二枚目はかなり期待した。しかし、やはりこのひとの演奏は私にはあわんのだなあ。たとえば、ひとつのモチーフをずーっと発展させていくタイプの曲については、申し訳ないが聴いていて途中で飽きてしまう。これが半分ぐらいでやめていれば、けっこういい感じなのだが、どうしてこんなに長くやるのだろう。ひとつのモチーフにこだわっているうちに、すごいパワーがみなぎってくる……というタイプのソロではまったくなくて、どっちかというと静謐にはじまり、そのまま静謐に行きすぎ、静謐に終わる、というものが多いだけに、微妙な変化を楽しむにも限界があり、やっぱり飽きてしまうのだ。そして、静かなのはいいのだが、内に秘めたパワーとかエネルギーというのはぜったい必要だと思うが、このひとのソロからは音色や音圧も含めて、それがどうも感じられない。「引き」の部分は十分わかるから、「押し」の部分ももうちょっとあってもいいのではないか。ただ、たいへんオリジナリティのある演奏で、いかにもフリージャズ、といった、ある意味「フリージャズの形式」をふまえたソロサックスが多い中で、こういった茨の道を選択していることはすばらしいと思う。今後もこのやりかたを推し進めていけば、きっとあらたな地平にたどりつくはずだ。私は今後もずっと聞き続けるでしょう。

「祝子(HOURI)」(SALMO FISHING ASSOCIATION OITA JAPAN SFA003)
SALMOSAX ENSEMBLE KATSURA YAMAUCHI

 山内桂というひとのソロサックスを一作目以来ずっと聴いているのだが、3作目にしてオーバーダビングによるひとりアンサンブルに挑戦している。1枚目、二枚目についても思ったのだが、非常に繊細な表現であり、音色や音量の微妙な変化によって聴き手になにかを伝えようというタイプの演奏だと思うが、繊細というのは裏返せば脆弱ということでもあり、滝の音との共演などは、私の耳には「こういうことをやる意味があるのかな」と思わぬでもなかったし、ニーノやアルトやバリトンを取っかえ引っかえの演奏も、アルト一本でも十分な表現では? と思ったりもした(まあ、そのあたりは演奏者本人の選択なのだから、いちばんそのときその場で吹きやすい楽器を選べばいいわけだが)。つまりは、「すごいっ」「最高っ」ということもなく、「いまいち」「おもしろくない」ということもない、自分のなかでは「謎」の即興演奏家だった。それはいまでもそうだ。というのはやはり、生で聴いたことがない、というのが最大の問題なのだろうと思う。このひとが、おそらくかなりこだわっている「生の音」にしても、録音されたものではなかなか伝わらない。おそらく一度でいいからライヴに接すれば、このひとについて自分の考えが定まるのに……と思っていらいらする(勝手なハナシですね)。そのいらいらが、こうしてアルバムが出るたびに購入して何度も聞き返す……という作業につながるのだ。で、今回はさっきも書いたようにひとりアンサンブルで、即興+チューンが表現の根幹となっている(というか、即興の要素はあんまりないかも。全体のアンサンブルでの表現というのが今回の眼目らしい)。「祝子(はふりこ)」という思わせぶりなタイトルや、用意周到なコンポジションがロングトーンの繰り返しや単純なリズムの反復による呪術的な感じを与えるものだったりするあたりを、まずは頭から取り払い、できるだけ先入観なしで聴いたつもりなのだが、押し寄せては引き返す波のような曲や即興に身体をまかせていると、そんな「聴きかた」などどうでもよくなる。心地よいのである。これはきっと、このひとの持っている「歌」なのだろうな。オーバーダビングを重ねていくたびにほんとは純度が落ちていくわけで、それなのにこの3作目の演奏が私にはいちばんとしても素直に聴けた。不思議なもんですね。いつかライヴに接して、いろいろなことを確かめてみたい、という気にさせてくれる……そんな謎の演奏家なのである。ただ、本作はCDのケース(?)が変わった作りになっていて、真ん中に粘着力のある小さな円があり、そこに貼り付けるようになっているのだ。このやりかただと埃がつくとすぐに粘着力が落ちてしまうだろうし、実際、そういう注意書きがあり、その場合は云々とか書いてあるのだが、もうすでに私が持っているやつは、CDを貼り付けて、ケースごと立てると、自重でCDが剥がれてコロコロ落ちてしまったりする。こういうやりかたのCDケース、すでにたくさん出ているのだろうか。いまひとつ使いにくいように思うのだが。ほんとはもっと何度も聞き返したいのだが、剥がれたりするのが嫌で、あまり触りたくなくて、その結果、聴かなくなる……という状態なので、これはいかんのではないでしょうか。

「LA DRACHE 白雨」(IMPROVISED MUSIC FROM JAPAN IMJ−528)
KATSURA YAMAUCHI MICHEL DONEDA

 顔ぶれをみて予想していたのはまさにこういう音だったわけだが、全編、ふたりのサックス奏者による即興である。かなり微細な変化を楽しむのが眼目であり、怒濤のブロウもフリーキーな金切り声も押しつけがましい技術の披露もあざとい盛り上げもここにはまったく存在しない。しかし、聴き手に対して相当の集中力を強いる演奏であり、ときどきこちらの緊張感が切れるときがある。生でライヴを観ているときならそんなことはないと思うのだが、こうしてCDによって追体験している場合はそれはしかたがないのかなあとも思う。なかなか手強い。たまにはいいが、こういう「一瞬の気のゆるみもなく必死に耳を傾けていなければわからない」アルバムばかりだときっと疲れる。でも、ときどきこういうタイプの即興を聴いて、頭をシャキッとさせる必要もあるし、それはそれで有意義な体験である。それにしても、ミュージシャンのほうはたいへんだろうなあ。聴くほうはこんな風にぐだぐだ言ってればいいのだが……。一応、先に名前の出ている山内桂の項に入れておく。