「BLACKSHEEP」(DOUBT MUSIC DMF−122)
BLACKSHEEP
(注・これはめちゃくちゃまえに書いた文章のままです)吉田隆一というバリサクのひとは、いろいろなアルバムで聴いているし、生でも渋さ知らずがらみで何度か目にしており、その度に感心していたのだが、これまで二枚(だっけ?)出ているリーダー作はどちらも作曲中心ということでスルーしていた。本作は、スガ・ダイローのピアノ、後藤篤のトロンボーンとのトリオということで期待して聴くと、はたしてその期待に100%応えてくれる充実作だった。たしかにコンポジションは重視されているし、ちょっと聴くとミニマルミュージック的なところもあるのだが、それが次第に即興が進んでいくにつれて熱くなっていき、頂点にのぼりつめたところでコンポジションがさっきの倍ほどに膨らんだ感じで覆い被さってくる……という、実質的にはひじょうにアグレッシヴな演奏で3人のソロも存分に楽しめる作りになっている。その構成は見事のひとこと。吉田隆一はほんとにいい曲を書くなあ。演奏の要というか推進力となっているのはスガ・ダイローの爆発的かつ知的なピアノであるのは言うまでもないが、トロンボーンもベースと管楽器両方の役割を負って、自在にふるまっていて、このバンドを支えている。めちゃ気に入りました。
「SAKAI」(DOUBTMUSIC DMS−157)
RYUICHI YOSHIDA BARITON SAXOPHONE SOLO
吉田隆一は言行一致のひとなのだ。まえからそう思っていたけど、やっぱりそうだった。「プレイズ・カーラ・ブレイ」「プレイズ・チャーリー・ヘイデン」「プレイズ・ガトー・バルビエリ」……といった意欲的かつ自身の音楽性を全面的に押し出したライヴを矢継ぎ早に(三日連続で)行い、さまざまなミュージシャンからひっぱりだこで、文筆業のほうも高評価を受け、今まさにマンモスフラワーが開花したような状況になっている吉田隆一だが、もちろんこのひとはずいぶん以前から同じような意欲的な活動を切れ目なくずっと行っているわけで、いまさら「開花」とか言うな、という意見もあるだろうが、やはり、自分がやろうとしていることが望むべき顔ぶれでちゃんと実現し、それに客が入って話題にもなる……というのは需要と供給的にいってもすばらしいことではないかと思う。そして、このソロアルバムである。
この私のレビューを読んでくれているひとなら、私が「ソロサックス」というものをいかに偏愛しているかわかってくれていると思うのだが、とにかく「ソロサックス」となると買って聴かざるをえない、それがまったく知らないひとであっても、いや、まったく知らないひとであればあるほど興味が湧いて、聴きたくなるのである。今でも愛聴しているサックス奏者のなかには、ソロサックスのアルバムを出していて、それを聴いたがゆえにその後、ほかの編成のものも聴くようになり、ずぶずぶ……というミュージシャンが少なくない。たとえばアシーフ・ツァハー、ラリー・スタビンス、ハンス・コッホ、ジョン・ブッチャー……えーと、えーと……とにかく枚挙にいとまがない。ジャズテナーの祖であるコールマン・ホーキンスがすでにソロを吹き込んでいることを考えると、サックスという楽器はソロをやりたくなる楽器なのかもしれない。
ここに聴かれる吉田隆一のソロは、とにかく「音色」や「ダイナミクス」がすばらしい。ソロの場合、そういうものが夾雑物なしでこちらに届くのでその音楽というか演奏というか「そのひと」自身にどっぷり浸っているような気分になる。レビュー等を読むと、いつもの吉田隆一の演奏とは少し違っていて、フリークトーンやノイジーな表現をあまり使わず、自然に素直に音色を生かして歌い上げている……というようなことが書かれていたが、私に言わせれば、これもまた、いや、これこそが等身大の吉田隆一そのものである。私にとっての「いつもの吉田隆一」とはこれなのだ。サックス奏者としてミュージシャンとしてそういう域にまで達していることの証明だ。たとえば本作でもグロウルやマルチフォニックスなども使われているが、それは吹いていて、自然に「ガーッ」という音が欲しい、と思ったら勝手にそうなってました的な感じで、こんなにも望ましい形の「ソロサックス」はなかなかない。
サックス奏者がソロをするにおいて、バリトンサックスの特異性について最後に触れたいが、どんなサックスでソロを吹こうが同じではないか、と思われるかもしれないが、そうではない。バリトンサックスという楽器は、テナーやアルトに比べて音域がかなり広い。言い変えると、アンサンブルなどで要求される音域が、最低音に近いあたりのバンプがけっこう多くて、たとえばテナーなんかだったらこんな下のほうの音なんか譜面で1、2回しか出てこないよ的な指使いのあたりで、延々としつこくパターンを、しかもしっかりと芯のある、でかい音で吹き続けなければならず、もちろん中音域でのアンサンブルなどもあり、ソロになると高音部やフラジオまで駆使しなければならない……というアルトやテナーなら使わないであろう運指のあたりも全部使うのがバリトンという楽器の宿命なのだ。それはバスサックスとかがジャズやロックなどでほとんど使用されていないから、バリトンに担当させているわけだが、そのせいで、バリトンサックス奏者は、テナーやアルト吹きが、中〜高音域に的をしぼったマウスピース、リードを選定すればいいのに比べて、低音から高音までしっかりと出せるようなセッティングにしなければならない。ここが大きな違いである。そういうバリトンの特性を完全に自家薬籠中のものにしたうえで、それを武器(?)として使っているのが吉田隆一であって、これはなかなか稀有なことである。どんなにすぐれたサックス奏者も、主奏楽器がテナーやアルトのひとは、バリトンサックスでいかにすばらしい演奏をしても、それは持ち替えっぽいところが顔を出すものだが(そして、そこがまた面白いのだが)、吉田の場合は生粋のバリトンのひとであり、長年バリトンとともに苦しみ、バリトンとともに喜び、バリトンのすべてを知り尽くしているがゆえに、別次元でバリトンサックスソロというものをこうして吹くことができているのだと思う。そういうことを感じたのは、これまでは宇梶昌二のソロだけである。
このアルバムでの吉田の演奏は、さっきも書いたけど、まずは「音」に注目してほしい。堂々たるこの個性的な音は、ハリー・カーネイ、チャーリー・フォークス、ペッパー・アダムス、ラーシュ・グリン、レオ・パーカー、ニック・ブリグノラ、ジョン・サーマン、ハミエット・ブルーイット……といったバリトンのエキスパートたちと同じ「音」を吹奏している。フレージングとかさまざまなテクニックに言及するときりがないが、とにかく本作は、フリージャズとかノイズミュージックとかフリーインプロヴィゼイションとかなんだとかかんだとかいった先入観を捨てて、無心で聴いても、めちゃくちゃかっこよくて、めちゃくちゃ楽しくて、だれでも聴ける音楽なのだが、これがバリトンサックス一本での演奏だというのは、正直、とんでもないことなのだと思う。ジャズや現代音楽、ポピュラーミュージックを土台にしているのだとは思うが、ある種の民族音楽をも思わせるのは、やはり、「管楽器のソロ」だからだろうか。本作はカセットがマスター音源らしいが「生々しい」の一言である。吉田隆一というひとをまったく知らない、これまでなにをしてきたひとかも知らない、というひとが車のなかで本作を聴いていたとして、何曲目かもわからず聴いていても、BGMにはならず、心のどこかに刺さってくるような音楽である。傑作。
「AUTUMN’92」
RYUICHI YOSHIDA
バリトンサックスの吉田隆一が、まだ学生のころ、録音したバリサクソロ。今から20年近くまえの演奏だが、プレイはきのう録音したかのように瑞々しい。某大学の学園祭でのライヴだそうだが、おそらくちゃちな機材で録音したのだろうが、かえってそれがリアルさ、迫力を生んでいるし、音圧もあって、音質的には十分。ブラクストンが家で録音した「フォー・アルト」も、リアルすぎる録音が効果を生んでいる。そんなことをいろいろ考えているうちに、自分でもやりたくなり、落語会を録音しているMDでこないだ自分のソロを録音してみたのだが、やはりイマジネーション不足はいかんともしがたく……あ、そんな枝葉のハナシはどうでもいい。このアルバムのことだ。このアルバムに関して痛烈に思うことは、「勇気」ということだ。いくら彼がうまくても、学生がたったひとりで客のまえでソロを演奏する、というのはよほど勇気のいることだ。根性、といってもいい。つくづく、(プロの)ミュージシャンになるひとには、そういう気合いというか踏み出す勇気があるのだなあ、と思う。私も、自分のコンボの演奏のなかで、一曲だけ無伴奏で15分ほど即興ソロをしたり、とソロにはこだわってきたのだが、ひとりだけで1ステージ、あるいは2ステージ……という大胆なことをするほどの勇気はなかった。ここが、多くのフリー系のミュージシャンに対して、すげえなあ……としみじみ思うことなのだ。楽曲に頼ってのソロならまだわかるが、完全なインプロヴィゼイションで、その日の演奏がどうなるかまったくわからないという状態で、よくやるよなあ。そんなことを学生の吉田隆一が(定期的に)やっていた、ということがうらやましいし、ああ、俺にはこんな根性はない(もちろん音楽性も、だが)、ミュージシャンの道を進もうとしないでほんとうによかった、と思うのだ。ああ、作家は楽だ。このアルバムに詰まっている音は、20年まえの吉田隆一そのものだが、今の吉田隆一の原点でもあり、聞いているといろんなことを考える。考えさせられる。音色のこと、リズムのこと、即興のこと、空間のこと、創作するということ、自分のこと……そういうことを思わせてくれるアルバムはほんとうに大事なのだ。何度も聴いたが、いつも途中からあまりに真剣に聴き入りすぎている自分に気づくのです。なにしろ、91年にジャズ研に入部して、92年にはいきなりグッドマンで定期ソロライヴだからなあ。このひとは文章(というか小説)の才能も相当なものなのだが、やはりなるべくしてミュージシャンになったと思う。
「荻窪の日」
吉田隆一バリトンサクソフォン・ソロ
素晴らしい。もう、聞き惚れる。というか、こういうソロサックスが私のツボ中のツボなのだ。音色がすばらしく、リズムがすばらしく、展開がすばらしく、即興ゆえのみずみずしさが全編にあふれていて、もう美味しすぎる。吉田氏本人からいただいたのだが、もらってから何遍聴いたことかわからん。テーマのあるものないもの、武満徹の主題による変奏みたいな曲やエリントンナンバーもあり、まるで聞き飽きないし、ダレることもないし、一度聴き始めると最後まで聴きとおしてしまう。これはよろしおまっせ! こういうのを聞くと、つい「自分でも……」と思ってしまうが、いやー、これはよほどの技術と基礎がないとダメでしょうね。サックス一本でひとを感動させる音楽を、しかも即興でやるというのは、なかなかたいへんなことだと思うが、本作なんか、その成功例の典型じゃないかと思うのだが。カセットテープで録ったという音の臨場感といい、安定感とスリルが同居した展開といい、ほんとにうまくいってる。一度生でソロを聞きたいものです。
「霞」(SINCERELY MUSIC SINM−004)
吉田隆一 + 石田幹雄
これは私がライナーノートを書いたアルバムだが、だからほめるわけではない。だれが聴いてもすばらしいと思う内容だから、そう書くまでだ。なにしろ、ライナーは一回没にされたからなあ。まるごと書き直したのが今のライナーなのである。本作だが、吉田にとっても石田にとっても、これまで発表されたアルバムのなかでもっとも普段のライヴに近い、アグレッシヴで濃密なものになった。ブラックシープなどもよいのだが、黒いバリトンを前後に揺らせて吹きまくる、日本を代表するバリサクソロイストとしての吉田の姿はここで聴かれるとおりだ。また、スガダイローとともにこれからのジャズシーンを確実に担っていくだろうピアニスト石田幹雄の、あの鍵盤のなかに没入してしまうかと思えるほどのめりこんで弾きまくるパワフルな異常性もここに聴かれるとおりである。そういう個性が、緻密な下準備のもとで奔放にぶつかりあうと、こんな「美」が生まれたのだ。美のなかには、ストレートなものもグロテスクなものもあり、ここにはその両方がある。少なくとも、私にはこのバリサクの音はべちゃっとは聞こえないけどなあ……。評論家の文章にふりまわされることなく、このアルバムが、多くのひとの耳に届くことを念願している。「音楽雑誌」でなんと書かれようと、じつは傑作ですから、よろしく。本作に関する私の思いは、購入のうえ、ライナーを読んでください。
「BLACKSHEEP/2」(DOUBT MUSIC DMF−140)
BLACKSHEEP
西島大介のポップなイラストをジャケットにした「ブラックシープ」の2枚目。内容はかなりハードだが、そのなかにじつは内在している愉しさを抽出して、ポップなイラストで象徴させる、というやりかたはジョン・ゾーンの「コブラ」のジャケを連想しなくもない。肝心の内容だがまさに満を持して、という言葉がぴったりな、吉田隆一の現時点における最高の作品だと思う。バリトンサックス、トロンボーン、ピアノという変態的な編成によるトリオだが、曲よし、アンサンブルよし、ソロよし、からみよし……なにからなにまでよしよしよしで、微塵も変態的な編成を感じさせない。と書くと、なるほど、こういう編成でもガチンコ即興ではないちゃんとした音楽ができるんだなあ、と思うひともいるかもしれないが、もちろんそうではない。これはこの3人だからできるのです。バリトンもトロンボーンもピアノも、ひとりひとりが3人分も4人分もの働きを兼ねており、それが可能なこのメンバーだからこそ、たった3人で無限の広がりのある演奏ができるのだ。よくぞ揃えたなあこのメンツ。このグループは今の日本のジャズの異常なまでの豊饒さをあらわしていると思う。すごいとしか言いようがないこの作品が、何気なく発表され、何気なく聴かれていくことの凄さよ! 過日、ベルベットサンで本作の発売記念イベントがあり、それをUSTで視聴していると、このグループの音楽を「フリージャズ」と何度も形容する発言があって、どうも気になった。というのは、これは個人的な感覚なのだが、こういう演奏って、いわゆるフリージャズとはもっとも遠い、というか、対極にある音楽のような気がするのです。ではなんと呼べばいいのか。うーん……それは知らんけど、少なくともフリージャズではない。つまりは、私にとっては、いちばんジャズらしいジャズという感じです。フリーしか聴かないというひとにも、フリーだけは聴かないというひとにも、ジャズは一切聴かないというひとにも、とにかくおすすめしたい傑作。
「TEA−POOL」(SINCERELY MUSIC SINM−002)
YOSHIDA RYUICHI
今やあちこちからひっぱりだこで、自己のグループの評価も高いうえ、SF評論家としても辣腕をふるう吉田隆一の10年(以上)まえの姿はどうだったのかを知りたければ本作を聴こう。すべて吉田隆一ひとりによる演奏で、ベーシックトラックのプログラミング、シンセ、フルート、バリトンなどによる宅録的な演奏で、短い曲が14曲収録されている。あたりまえだが完全に自己完結している。ミニマルミュージック的な部分、プログレ的な部分、チェンバーミュージック的な部分などもあるが、やはりどこかしらジャズ的な即興の匂いが感じられるし(8曲目とかはまさにそういう演奏)、アイラー的祝祭日やニューオリンズ、チンドンなどの要素も垣間見られて、要するに吉田隆一の頭のなかがのぞけるような内容になっている。そんなことをしたくない、というひともいるだろうが、なかなか興味深いですよ。それにしてもええ曲を書くなあ。どの曲も、ちょこっとしたところに才気というかひとひねりが感じられるものばかりである。それは、好ましい、自然な音の並びを少しだけいじるとか、リズムをほんの少しずらすとか、予定調和や先入観を聞いているものが気づかないぐらいわずかに壊して、「ひとり音楽」にいきいきしたものを吹き込んでいる。そういうことがリスナーに与える効果を熟知しているからできることなのだ。リズムトラックなどはチープな感じのところもあるが、それもわかったうえで面白がっているのだろう。バリトンの生音を上手くブレンドした曲も多いがそれも「バリトンサックス」であることに意味がある……ような気がする。
「響生体」
吉田隆一
酉島伝法(の絵)とのコラボということだが、要するにバリトンサックスソロ。購入するとダウンロードのパスワードを書いたカードがもらえるだけなので、あとはパソコンかスマホでダウンロードして聴かねばならない。一見短編集というかショートショート集だが通して聴くと長編の手ごたえもある。いわゆるスラッシュみたいに短いわけでもない。どの曲もそれなりの聴きごたえがある長さであり、つまりは短さを利用して逃げる、というわけにはいかない長さである。最近のサックスソロというとエヴァン・パーカーを筆頭にネッド・ローゼンバーグ、ジョン・ブッチャー、カンテーファンのように循環呼吸やマルチフォニックスを駆使した超絶技巧のものが多いなか、ブロッツマンのソロのようにノーギミックで、基本的に単音楽器であるサックスとひとりで向き合った場合どう演奏するのか、という、サックスソロの原点的な演奏のように思えた。楽器を吹き鳴らす原始の喜びに満ちているが、じつは一癖も二癖もあって一筋縄ではいかない。楽器の鳴り、音色の変化、息遣いなどへの気配りはこのひとならではで、非常に丁寧なだけに、ちゃんとした再生装置で聴きたいという気持ちにさせてもくれる。しかし、こういう形態をとったことの意味もまたわかる。録音も生々しく、めちゃよかったです。多重録音の曲もけっこうあるのだが、すごく効果的。シャッフルして聴くこともできるかもしれないが、この配列には意味があると思われるので、個人的にはそのまま聴くことをおすすめします。傑作。
「蒼い街」(地底RECORDS B109F)
吉田隆一 石田幹雄
吉田隆一〜石田幹雄デュオの二作目だが、前作「霞」のライナーをですね、私、書いた覚えがあります。でも、それが14年まえ? 嘘やろ? マジか。吉田、石田両氏と知り合ったのがそんなにまえとはなあ……。今回は帯を書きました。「長い旅の途上でヨシダとイシダが立ち寄ったのは、不可解な音に満ちた蒼い街だった。」というやつだが、「長い旅の果てに……」と最初はしていた。でも、吉田氏のライナーを読んで、「このアルバムは成果であると同時に途上の記録です」とあったので、「旅の途上で」と直した。
バリトンサックスというと、最近、ブリブリの低音バンプを武器に、踊りながら吹きまくるといったようなファンキーで楽しい楽器として新しい視点での使われ方をしているような気がするし、マッツ・グスタフソンのように非常にハードな音色、吹き方……でひたすら広いマウピ、硬いリードで楽器を苛め抜くようなゴリゴリのフリージャズをやる、という方面もつきつめられているようにも思うが、基本的に吉田のバリトンは本作においてはそういったものとは逆に、柔らかい音色、柔らかいフレージングである。ところどころグロウルしたり、叫ぶような音を使うこともあるが全体としては、柔らかい。しかも、バリトンらしさは失われておらず、というか、なんともバリトン的な演奏なのだ。
吉田は最近、ダブルリップに奏法を変えたらしい(下唇だけでなく上唇も巻き込んで吹くアンブシャーによる吹き方)。ここでの演奏はダブルリップ以前のものも入っていると思うが、奏法云々に関係なく、すでに吉田がそういう「柔らかい」演奏を志向していたこともよくわかる。つまり、バリトンサックスは木管楽器のひとつであり、けっしてノベルティな楽器ではなく、表現力に幅のある、無限の可能性を秘めた楽器だということを教えてくれる。大袈裟と思うかもしれないが、ほんとにそうなのです。このふたりの組み合わせは「当たり前」のように思えるかもしれないが、じつは奇跡であり、ヨシダもイシダも他のプレイヤーには代えがたい。このふたりが急がず焦らず、自分たちの音楽をじっくり時間をかけて熟成させる人だったからこそ、今回のこの成果が実ったのだ。そして、このふたりがすぐ隣で演奏しているかのようなリアルな録音もすばらしい。
1曲目「エチュード」は石田の曲。エチュードというと指の練習のための曲のようなイメージだが、微妙な「おや?」という音が混ぜ込まれており、物悲しいだけではなく一筋縄ではいかないラインをもった曲で、めちゃくちゃ好き。2曲目はチャーリー・ヘイデンの「ナイトフォール」で、夜が訪れる直前ぐらいの黄昏時分のことだと思う。吉田はかなり強いブロウもするが、この曲の持つバラード的な雰囲気は崩さない。それにからむ石田のピアノは見事すぎて、声が出ない。なんともシリアスで、言いたいことを搾り出そうとしているような演奏。3曲目は吉田隆一の曲で「乙女座の茫然」。マーチのようなピアノのコンピングではじまる印象的な曲。一定のリズムのうえでバリトンが縦横無尽に活躍する。バリトンソロからピアノソロに移行する部分のかっこよさは筆舌に尽くしがたいが、ここでの石田のピアノはあまりに圧倒的で「茫然」としてしまうのだ。いやー、すごいですねー。4曲目はビリー・ストレイホーンのバラード。有名な曲らしくて、いろいろなひとがやってるみたいだが、こういうときに私のジャズ的教養のなさが露呈するというか、全然覚えがない。ジョニー・ホッジスのインパルスのやつとかにも入ってるらしいですが……。とにかくふたりとも正攻法で、吉田はサブトーンなどを使ったりする王道のサックスプレイで、石田も少ない音数で包み込むような演奏。5曲目はタイトルチューンでもある「蒼い街」で、吉田の曲。4曲目に続いてこれもバラードだが、4曲目がいかにもなジャズバラードのスタイルだったのに比べて、もっと現代的な感じ。石田のソロの切迫感のある美しさは凄みがある。こういうバラードが書ける吉田隆一の作曲力もすごいと思います。6曲目はエルメート・パスコアールの曲でふたりだけで「あの世界」を作り上げている。本作収録曲中いちばんリズムが強調された、パワフルな曲だと思う。石田のソロはまるでライヴのようなド迫力と集中力で圧倒的である。続くバリトンソロのぶっちぎり具合もピアノとのからみが絶妙で、ああ、これは音楽だなあ、こういうのが音楽なのだ、と思う。さっきも書いたとおり、このふたりの組み合わせは本当に奇跡なのだ。ラストの「真夏の午寝(ひるね)」は石田の曲でアブストラクトなバラード。石田のソロの最後にサックスのロングトーンがずるりと入ってくるところなんか、めちゃくちゃかっこいいですよね。
一瞬も気を抜けない「デュオ」という形式で、テンションをしっかりキープしたまま、くつろいだ雰囲気も終始保ち、激しい曲もあるのだが全体としてバラードアルバムであるような印象を受ける。吉田隆一がバリトンに徹したのもこのアルバムを特別なものにした。単音楽器であるバリトンをあくまで単音楽器として扱い、空間に太かったり細かったりするたくさんの線を引いてそれをひとつずつ消していくような、水墨画や禅画を連想するような演奏だが、枯れたというのとはちがって、インプロヴァイザーというのは突き詰めていくとこういう世界にたどりつくのかなあ、と素人である私は思います。それがとくにデュオという形式で発露するのはけっこう納得なのです。傑作! たかだか二行ほどの文章ではあるが、すばらしい作品にかかわることができたことを感謝。