「深海」(SELFPORTRAIT INC. PSFD47)
吉沢元治・高木元輝・DUO
もう、めちゃめちゃかっこいい。高木さんの晩年のライヴに接することができた私だが、この69年という時期のライヴが、こんな良い音質で録音されていたことに驚愕する。高木のアルバムというのはいろいろあるが、これほど彼がストレートにブロウしているものは珍しい。サイドマンとしての参加作品はどうしてもリーダーの意向を受けての演奏になるし、リーダー作は少ないひとだからである。しかし、本作は吉沢元治との対等のデュオであり、しかもライヴ録音ということで、当時のふたりがどれほどの高みにいたかを実証するドキュメントであり、なおかつ非常にレベルの高い作品である。69年という録音年を考えると、世界でも他に類を見ないほどのハイレベルのフリージャズだと思う。テナー、ソプラノ、バスクラを操る高木に対して、吉沢はウッドベース一本で対峙するが、なぜか高木のほうがストレートアヘッドに聞こえ、ウッドベースだけの吉沢のほうが変幻自在に聞こえる。とにかくよくこのときの演奏が録音されていたなあ、とエジソンに深く感謝する次第である。知らないひとが聴いたら、ごく最近の演奏だと思うにちがいない。日本が生んだすばらしいフリージャズミュージシャンの残した奇跡である。完全に対等だと思うが、便宜上、先に名前の出ている吉沢の項に入れた。
「INLAND FISH」(TRIO RECORDS PA−3164)
MOTOHARU YOSHIZAWA
傑作。タイトルがいい。陸封魚。なんとも想像力を刺激する。そして、すばらしいジャケット。半人半魚の奇怪な版画(?)。ラヴクラフトの「インスマスの影」を連想させる不気味で魅力的な最高の絵である。もちろん、演奏はめちゃめちゃいい。冒頭の甲高い一音からコントラバスの魅力にずるずるひきずりこまれる。ああ、ほんとにこのアルバムはよく聴いたなあ、というか、今でもしょっちゅう聴いている。吉沢元治のベースソロアルバムはほかにもいろいろあるが、本作が私にとって特別なのは、最初の出会いだった、ということと、ジャケットやタイトルのインパクトがあまりに私の好みにあった、ということだと思う。こういった即興ソロを聴いているとき、その演奏のインパクトにひたすら聴き入ってしまうものと、聴いているうちにいろいろ刺激を受けて、さまざまなことを思いうかべるものと二種あり、どちらもいいのだが、個人的にはすべてを押しつけてくるような演奏よりは、こちらの想像力がはばたける隙間のある後者が好きである。そして、本作はもちろん後者である。B面には豊住さんのパーカッションも入っているが、このデュオもまた良い。ジャケットを眺めながらぼーっと聴いていると、至福の時間を過ごすことができる。フリージャズはぎゃーぎゃー叫んでやかましいだけ、といまだに思っているひとがいたら不幸であるが、本作は、侘びさび、毒、空間、エロス……無数のファクターを内包した美しい即興の「詩」である。じつは、このアルバムのことをネットの日記に書いたところ、ジャケットの絵を描いた作者のかたからメールをちょうだいし、それほど好きなら原画を差し上げましょう、という申し出をいただいたが、あまりに畏れおおく、また、この絵を私だけのものにしてしまうのはあまりに申しわけないので辞退した。それだけ本作のジャケットに思い入れがある、ということです。
「OUTFIT:BASS SOLO 2 1/2」(TRIO RECORDS PA−3165)
MOTOHARU YOSHIZAWA
傑作。「インランド・フィッシュ」に勝るとも劣らぬ内容で、しかも「インランド……」は半分が豊住さんとのデュオだったが、本作は全編ベースソロである。しかし、聴きとおすことはまったく辛くない。それどころか、また最初から聴きたくなるぐらい、めちゃめちゃおもしろい。ああ、こういうのを聴くのが即興の醍醐味だなあとしみじみ思う。ひとつの楽器にこだわるというのが、どういうことなのか、一般的にはわかりにくいと思う。例えば、パーカッシヴな音が欲しいときに、コントラバス本体をゴツゴツ叩いたり、ぺしぺし打ったり、弦を特殊な弾きかたをしたりするわけだが、そんなことしないでも、パーカッションを持ってきて叩けばいいじゃん、どうしてベースだけでやることにそんなに固執するの? と思うひとがいても不思議ではない。サックスソロでも、ラッパソロでも同様である。しかし、「ベースソロへの強いこだわり」があったからこそ、吉沢のざつそざまな問題作、傑作が生まれたのだと思う。安易に、ほかの楽器を持ってくればよいのかもしれない局面でも、ベースという木で作られたひとつの造形のなかから探り出すことができる音だけに限定して、音世界を作るというのは、私にはすごくよくわかるのだが……うまく伝えられないのはもどかしいが、とにかくそういうことなのです。ジャケットも秀逸。
「割れた鏡または化石の鳥」(MODERN MUSIC P.S.F RECORDS PSFD−55)
吉沢元治
ずっと聴きたかった演奏。吉沢元治最初期のベースソロである。当時は間章や清水俊彦といった文化人がこういう演奏に、実際には存在しない「意味」をつけくわえていたわけだが、今聴くと、純粋に「音楽」としてものすごく楽しく聴ける。ベースから万華鏡のように多彩な音とリズムを引きだしてくるそのさまはまるで魔法のようだ。コントラバスとたわむれているような演奏もあるが、戦っているような、むりやりなにかを引きずり出してくるような演奏もあり、我々は心地よい緊張感とともに全部を聞きおえることができる。もちろん、ぼーっとしていたら、いい瞬間を聞き逃すことになるので、「ながら聴き」はできないタイプの音楽であることは言うまでもない。というか、こういう演奏を聴くと、自然に、ほかのことをしていてもやめて、スピーカーに向き合うことになる。それは今は亡き吉沢元治の魂と向き合う行為なのだ。
「1983,4,3 AT グッドマン」
のなか悟空 & 吉沢元治 DUO
入ってるハガキには「吉沢元治DUOのなか悟空」とあり、CDには「のなか悟空 & 吉沢元治 DUO」とあるが、まあようするにそういうデュオだ。レーベルもCD番号もない。つまりはええかげんなコンセプトで出された、音質も隠し録りレベルの、顔合わせの貴重さだけが売り物のマニア向けのアルバムだろう……と思っていたら大間違いで、中身はめちゃめちゃいいんです。録音状態もいいし、なにより演奏がすばらしい。悟空さんのドラムも、いきいきとしていて、迫力と気合いとテクニックが見事にバランスしたシアワセな理想の状態にある。吉沢さんも、もちろんすごい。そして、えーっ、のなか悟空と吉沢元治のデュオって噛みあわんのちゃうか、という危惧を抱いているひとに対してのひとつの回答として、「めちゃめちゃ噛みあっている」ということを先に言っておこう。意外なぐらい、シリアスでたがいに音を聴き合って交感する、といういわゆる普通の即興のやりかたを愚直に貫いた演奏である。しかも、それがどちらにとってもいい方向へ働いており、直情的な暴走に終始することも、内省的すぎることもなく、なんともいえないみずみずしさに満ちた、楽しく、深いデュオになっている。これを出したことは大正解だが、もっと多くのひとに聴いてもらえる形でもよかったかも。