2.アーネット・コブ
アーネット・コブはテナーの怪物である。
演奏だけでなく、容姿もまさにモンスターである。
松葉杖をついたガマ蛙のような親父が、のっしのっしと現れ、一度聞いたら忘れられないような強烈な音でテナーを唸らせ、吹いて吹いて吹きまくり、なみいる聴衆を興奮のるつぼにたたき込むのだ。これを、怪物といわずして何というのか。
これから、わが最愛のテナーマン、アーネット・コブについて語りたいと思う。
(以下の文章は、まだ、コブが存命中に書いたものである。筆者がその後、コブの生に接し、異常な感動を覚えたいきさつや、コブが亡くなった時の衝撃などは、おまけエッセイに書いたのでそちらを参照のこと。コブはすでに亡くなっているので、今の目から見ておかしな点はだいたい改めたつもりだが、一部、つじつまのあわないところが残っているかもしれないので、ご了承ください)。
「アーネット・コブ・イズ・バック」というレコードがある。その1曲目「フライング・ホーム」こそが筆者をしてブローテナーの泥沼に踏み込ませた原因となった曲なのである。それまでコルトレーン、ファラオ、アイラー、シェップなどを聞いていた純真無垢なニュージャズ青年は、松葉杖をついた老テナーマンの咆哮に、ファラオやシェップを上回る「叫び」を感じとり、そのままアーネット・コブのミーハー的なファンになってしまったのである。以来、会う人ごとに「わしが尊敬するテナーマンはアーネット・コブや」と言いまくり、コンサートチケットの端券の「今後来日してほしいミュージシャン」欄には必ず「アーネット・コブ」と書き、コブの入っているレコードならどんなしょうもないものも買い、部屋にコブの写真を貼り、テレビで林家こぶ平という名前を聞いたり、街を歩いていて塩昆布の看板を目にする度にドキッとするという、まことにイビツなジャズファンになってしまったのである。しかし、今それを筆者は全く後悔していない。それどころか、あらゆるジャズファンにこの人間国宝的テナーマンの麻薬的魅力を伝えようと、日夜努力しているのである。
アーネット・コブ。
何という素晴らしい響き。もはや偉大としかいいようのないこのグレートテナーマンのおいたちについて述べたいと思う。
アーネット・コブは1918年8月10日テキサス州で生まれた典型的なテキサステナーである。33年にプロ入り。42年にイリノイ・ジャケーの後釜としてライオネル・ハンプトン楽団に入り、「フライング・ホーム・ナンバー2」のソロでいちやく人気を高める。当時のハンプトン楽団におけるコブのソロは幾つかのアルバムで聞けるが、キャット・アンダーソン、ジョー・モリス、ブーティー・ウッド、アール・ボスティック、アル・シアーズ、チャーリー・フォークス、ミルト・バックナー、スヌーキー・ヤング、ウェンデル・カーリー、ジミー・ノッティンガム、ボビー・プレイター、ジョニー・グリフィン、ジョー・ワイルダー等々といった猛者達が名を連ねるビッグバンドで、ほとんど毎曲ソロがある、というところをみても、アーネット・コブがハンプトン楽団随一のスタープレイヤーであったことがご理解いただけよう。
コブはこのバンドにおいて完全に自己のスタイルをつくりあげている。イリノイ・ジャケーの項で述べた「スイング的スタイルにブローの要素を加えた」というものではなく、完全な絶叫型のブローテナーとしてのジャズ史上第1号である。コブこそが真の意味合いにおいての「完全無欠のブローテナー」なのである。
ここでちょっと気になるのは、コブはジャケーの後釜として入ったハンプトン楽団において有名になったわけだが、その前に参加していたのはミルト・ラーキンというシンガーのバンドだった。そして、このバンドの同僚にはイリノイ・ジャケーがいたが、ミルト・ラーキン・バンドにおいては、コブはジャケーの先輩であったのだ。つまり、世間の評価としては、イリノイ・ジャケーが創始したブローの方法をコブが完成させた、ということになっているのだろうが、事実は逆かも知れないのだ。ジャケーが、ミルト・ラーキン・バンドの先輩であるコブに教えてもらったテナーブローを、ハンプトン楽団で試し、スターになった、ということも考えられる。まあ、おそらく本当は、相互に教えあい、刺激しあったのであろう。誰々が創始者だとか決めつけることは、先達の影響や見よう見まねによって伝承されていくジャズ音楽の場合はほとんど不可能だし、意味がない。いろいろなプレイヤーがアイデアを出し合って完成させたのがテナーブローであると考えるのが妥当だ。だから、「テナーブローはジャケーの『フライング・ホーム』のソロで始まった」というのは誤りともいえるのである。
47年にハンプトン楽団をやめ、自己の楽団を結成。ハンプトン楽団のR&B的アプローチを受け継いで、より一層ワイルドにした彼のバンドは黒人街の人気者になり、ジュークボックスからは毎夜R&B的3連符のリズムにのせてブルージーに咆哮するコブのテナーが聞こえてきた(と思うよ)。このころの彼のバンドは3リズムにトランペット、トロンボーン、テナーサックスという小編成でビッグバンドのサウンドを狙ったもので、ほとんどコブのソロだけをフィーチャーしている。まあ、これはジャケーの場合でもそうで、客はほとんどコブが気違いのようにブローしまくるのを聞きにくるのであって、他のものなど聞く気はないのである。こうしてアーネット・コブは「テキサスから来た世界一ワイルドなテナーマン」として、その名を不動のものとした。48年からしばらく病気のため引退していたらしいが、50年頃から再び活動を再開した。その頃の録音を聞くと、病気で引退など信じられない程強力なサウンドを聞かせてくれ、バリサクを加えた4管編成のアレンジもますますさえわたり、絶頂期を迎えたといっても過言ではないような気がする。「スムース・セイリン」などの代表曲もこの頃生まれている。ところが、好事魔多し。なんと、彼は自動車事故にあい、松葉杖をつくことを余儀なくされるのである。その後は入院、退院を繰り返すようになり、演奏活動も断続的になり、レギュラーバンドを維持することはむずかしく、またジャズ界の動向がバップ、モード、フリーと変わっていくにつれ、いつしか話題に昇ることも少なくなり、ローカルミュージシャンとしてほとんど引退同然のように思われていた。
ところが! コブははなばなしく復帰を遂げたのである。しかも、日本のレコード会社であるテイチクレコード(とプログレッシブレコードの提携)によって。78年の6月、ニューヨークのダウンタウンスタジオで行われたレコーディングに、コブは十二分の気合いを入れて臨んだ。そして、吹き込まれたアルバムこそ、偉大なアーネット・コブの劇的な復活をジャズ界に知らしめる「アーネット・コブ・イズ・バック」なのである。
その後、コブは7月に以前のボスにして恩師のライオネル・ハンプトンがニューポート・ジャズ・フェスティバルで結成した臨時編成のオールスタービッグバンドに参加、十八番の「フライング・ホーム」をブロウし、満場の大観衆を沸かせ、大喝采を受けたのである。オランダのノースシー・ジャズ・フェスティバルにも参加したこのハンプトン楽団を観たスイング・ジャーナルの記者は、次のように書いている。「脚の不自由なコブは立ち上がって吹けないが、渾身の力をこめてエモーショナルに吹くコブの男性的なアドリブ、その独特なトーン、ユニークなフレージング、どの点からみてもコブはテナーの猛者である」。
こうして、アーネット・コブはジャズ界の第1線に返り咲き、今に至っているのである(さっきも書いたけど、この文章はコブの生前に書かれたものです)。アーネット・コブはテキサステナーのドンであり、まさにボステナーというにふさわしい。ある評論家がどこかに書いていた「ジーン・アモンズ亡き後、ボステナーと呼べるのはスタンレー・タレンタインである。しかし、そのタレンタインも、吹いているジャズクラブにふらりとアーネット・コブが入ってくると、緊張のあまり直立不動になってしまう。コブはタレンタインよりもスケールが大きく、恐れられているテナーマンなのだ」というのもうなづける。
テクニックやハーモニー的なテンションに満ちたフレーズは使わないかわりに、気合いと根性とあふれんばかりのブルースフィーリングで勝負するテキサステナー。その頂点に立つ男アーネット・コブ。かつて、ジャズテナー界はコルトレーン一色であり、今もコルトレーン=テナーの最高峰という考え方が(特に日本では)支配的であるが、コルトレーンという稀代のミュージシャンが自己のスタイルを確立する過程において、無駄なものとして切り捨てていったものの全てを一身にまとった男こそアーネット・コブなのだ。太く、ダーティーな音。たっぷりの「間」を活かしたルーズでダルな感覚。どこを切っても金太郎飴のように出てくるブルース臭。感情のおもむくままに絶叫し、スクリームするブローの感覚。しみついた自然なユーモア。鬼面人を驚かすトリッキーな変態フレーズ・・・どれをとっても、コルトレーン(あるいはその一派)が捨ててしまったものである。それは、言い換えれば「黒人らしさ」といってもいいかもしれない。コルトレーンが「これはいらないよ」といって捨ててしまったものに筆者はつよい興味を感じるが、それに気付いたテナーマンこそ、アーチー・シェップなのである。
アーネット・コブの特徴の最たるものの一つにその音色がある。とにかく何時どこで聞いてもすぐにコブとわかってしまうほどの、個性的な音である。よく偉大なジャズマンを語る言葉に「彼はいつ聞いても彼の音とわかる独特の音をもっていた」というのがある。例をあげれば、マイルス・デイビス、レスター・ヤング、チャーリー・パーカー、ジョン・コルトレーン、デクスター・ゴードンなどグレートなジャズマンは必ずそのスタイルと密着した「音」を持っており、またそうでないジャズマンはそれを会得するために必死の努力を重ねるわけだ。コブは独特のしゃがれたような音を持っているが、昔のレコーディングを聞くとジャケーとそれほど変わらぬ音である。また、晩年はほとんどサブトーンぎみに吹き、時々フルトーンで荒々しく楽器を鳴らすところが言い知れぬファンキーさを感じさせるわけだが、昔の吹き込みを聞くと、ほとんどそのビッグトーンで全編を押し切っており、いかにも「世界一ワイルドなテナーマン」という感じだ。
晩年のコブ(というか「アーネット・コブ・イズ・バック」を吹き込んだ後のコブ)を形容すると「枯れた味わいのある深いブルースフィーリングを感じさせるブローテナー」という言葉が適当だが、彼は決して始めから今のスタイルだったわけではない。ベン・ウエブスターの影響、ハンプトン楽団での経験、R&Bバンドのバックとしての数多くの仕事、病気や事故による引退等々に加えて、長い年月の間にしみついた人生における悲しみと苦しみと喜びが、今の枯れたブローテナー「アーネット・コブ・スタイル」を生み出したわけなのである。
まあ、音色の問題を出発として、コブの音楽的特徴をずーっと述べていこうかと思ったが、それはかなり難しい作業であることに気付いた。彼の創造したフレーズを譜面にして、載せようかとも思ったが、それは彼の魅力の約10%にすぎない。とにかくコブについて語ることは筆者にとって最も困難な作業である。自分にとっての一番好きな何かを語る、あるいは文章にすることは、やりにくい。例えば、お好み焼きのことを文章にすることができようか。焦げる豚の脂、キャベツのしなっとしたような歯ざわり、じゅーじゅーという音、ソースの焦げた食欲をそそる臭い、かつおと青のりのかおり、焦げて固くなった端の方の部分の歯ざわり等々。ちょっと自分の好きなものについて書こうとすると、すぐに自分を見失ってしまい、「焦げる」という言葉が一つの文章に3回も出てきてしまう。しかも、これではお好み焼きの魅力の100分の1すら伝えていないのだ。
というわけで、コブの音楽的特徴についてはレコードを聞いていただくとして、次にコブの後進に与えた影響について述べよう。
オーネット・コールマンは、今でこそ前衛ジャズのアルト吹きとして知られているが、もともとはテキサスのR&Bのテナー吹きだった。彼の回顧によると、オーネットの少年時代のアイドルはアーネット・コブとリン・ホープ(頭にターバンを巻いたイスラム教徒のブローテナー)であって、彼はコブやホープの新譜をコピーしては、毎夜クラブでそれを机の上にのけぞって吹きまくっていたらしい。
ファッツ・ドミノやリトル・リチャードのバックミュージシャンとして有名で、ロウエル・フルスンとともに来日したこともあるニューオリンズ・ブルース界の有名なテナーマンリー・アレンは、吾妻光良のインタビューに答えて次のようなことを語っている。少し長いが引用してみよう(ザ・ブルース44号より)。
吾妻「何を、何を最初にしましたか、あなたサックス手にとって」
リー「・・・・・? おれがなにしたかって?」
吾「はい。何の曲? 種類の音楽?」
リ「あー、俺は、その頃はコールマン・ホーキンスだね」
吾「コールマン・ホーキンス!」
リ「住んでいたんだ(意味が良くわからない)」
吾「はあ・・・・?」
リ「そしておれは彼に傾倒してたんだ。コールマン・ホーキンス、ベン・ウエブスター」
吾「ベン・ウエブスター」
リ「それに・・・、デクスター・ゴードン。こういった人達が好きだね」
吾「んー、デクスター・ゴードン。彼らは全てジャズ・サキソフォン」
リ「そうだ。プログレッシブ・ジャズだね。そして、おれはコールマン・ホーキンスやベン・ウエブスターみたいな音を出したかったんだ。大きな音をね」
吾「大きくて太い音」
リ「そういうのが好きなんだ。そうだ。(しばし沈黙)そして・・・・、彼らが俺のアイドルだ」
(中略)
吾「えーと、あなたは演奏します、用いながら、用いながら、こんな様な音、わかりますか? えーとある種の“ヴァー”(と声を出す)わかりますか? ある種の歪んだ・・・」
リ「(割って入る)グロウルだ」
吾「グロウル?」
リ「グロウルって呼ばれるんだ」
(中略)
リ「そのグロウルってのは、おれは何年も前にアーネット・コブから教えてもらったものなんだ。ライオネル・ハンプトンのところにいた奴だ。彼ら(ライオネル・ハンプトン楽団)は「フライング・ホーム」って曲をやってたんだ。アーネット・コブはそこでグロウルをやってたんだ。彼が、あー(良く考えながら)彼がグロウルの発明者だ」
(中略)
リ「ミュージシャンは彼の感じる事を演奏するんだ。全てのミュージシャンが・・・、おれは自分のハートで演奏するんだ。でも、紙きれで演奏するミュージシャンも中にはいる。それとか、他の奴の演奏から演奏する奴もいる。おれはここで(と胸をたたいて)自分を演奏するんだ。自分の感じた様にね。それがソウルっていわれるわけだ。えーと、おれは・・・、何年も前に、まだ勉強中の身の頃に、コールマン・ホウキンスや、イリノイ・ジャケーや、デクスター・ゴードンをコピーしていた。段々それが身についてくると・・・、自分のソウルになるんだ。それが自分をtickするんだ。tick,tick,tick・・・。おれは自分自身を演奏するんだ」
グロウルの発明者はコブだ、とリー・アレンは言い切っているが、やはりジャケーにそういうことを教えたのはコブの方かもしれない。
リー・アレンに限らず、R&B畑で活躍するほとんどのテナーマンがアーネット・コブから大きな影響を受けていることはまちがいないが、デクスター・ゴードン、ブッカー・アービン、ジョニー・グリフィンといったモダンジャズの連中も、コブの深い影響を受けているにちがいない。特にグリフィンは一時コブのバンドにいた(バリトンを吹いていた)せいか相当の影響を受けているはずだ。また、間接的な影響を含めると、マイケル・ブレッカーを始めとして現在活躍中のテナー奏者のほとんどがコブの影響下にある(と筆者は勝手に考えている)。
これほどすごいテナー奏者にもかかわらず、コブの日本での評価はいまいちだ。だいたい日本という国は「ジャズは黒人の音楽」などと言うにもかかわらず、真の意味での「黒人的な音楽」を嫌う。オルガンジャズしかり、R&Bやブルースしかりである。ジャズマンでもコルトレーンやパウエル、モンク、ミンガスなどのブルースの真実をジャズとしてのフィルターにかけてソフィスティケートさせ、そこに自己主張を盛り込むといったタイプがもてはやされ、ローランド・カーク、ベニー・グリーン、ジーン・アモンズ、アール・ボスティック、ジミー・フォレスト、ビル・ドゲット、アイク・ケベックといった連中については低い評価か「まちがった評価」しか与えられていない。ブルースを吹く時に「ブルースを通して何かを表現する」タイプには高い評価を与え、「ブルースそのものを表現したい。ブルースはブルースであってそれを通して何かを表現するたの素材ではない」というタイプは「単なるブルース吹き」として片付けられてしまう。それはひとつには彼らのブルースが日本人にはヘビーすぎてしんどい、ということがあるかもしれない。いわゆる「くさすぎる」というやつだ。ジャズは黒人的なブルース感覚があるからいいんだ、などと、たとえばオスカー・ピーターソンぐらいのことをそういって持ち上げておきながら、たかだかキャノンボール・アダレイやボビー・ティモンズぐらいで「オーバー・ファンク」だと敬遠したり、ブラザー・ジャック・マクダフがウハウハ笑いながらこれでもかこれでもかと「どファンキー」なフレーズをつむぎだしている時、「分かった分かった。分かったからやめてくれー。くっさー。えげつなー」と逃げ腰になっているようでは、コブやジャケーたちのどす黒い音楽につきあう資格はないのである。ほー、音楽を聴くのに資格がいるのか、という人よ。酒のうまさをとやかく言うには、まず、酒が飲めんと話にならんでしょうが。
いくら日本人がコブを始めとする黒人音楽の本流に低い評価しか与えなくても、彼らは黒人のあいだでは大スターなのだ。黒人達に本当に愛されたのは彼らなのだ。エンターテインメントに徹して毎夜ブルースを吹き続けた連中のことを評価しないで、何がジャズジャーナリズムか。ジャズファンは今まで彼らのことを「こんなのジャズじゃない。ブルースだよ」としてR&Bやブルースのファンにまかせてきた。しかし、R&Bやブルース側から見ると、ボーカルのいないこういったインストゥルメンタルの、しかもギターではなくサックスを中心とした音楽は異端である。つまり、ブローテナーやくっさーいジャズは、今までどちらからも不遇な扱いを受けてきたのだ。しかし、原田和典氏の「コテコテデラックス」の出版やそれに伴うCDシリーズの発売などで、そろそろ時代はかわりつつあるのかもしれない。アシッドジャズのように「古い音楽に新しい光を当てよう」みたいなとらえ方ではなく、「古いものをその当時楽しまれていたのと同じ楽しみ方で味わおう」という「コテコテ」のとらえかたは全くもって正しいと思う。
だいぶ話が横道にそれたが、アーネット・コブについて語ろうとするとどうしても冷静さを失ってしまい、わけがわからないことになってしまう。代表レコードを挙げて、この項は終わりにしようと思うが、許していただけるだろうか。
まず、ライオネル・ハンプトン楽団時代のコブはMCAの「STEPPIN' OUT」と「RARITIES」の2枚で聞ける(CDではどうなっとるのか、わしゃ知らん)。「フライング・ホーム・ナンバー2」におけるコブのソロは、リー・アレンに教えたといわれる「グロウル」奏法を全編駆使しまくった非常にエキサイティングなものだ。ついでにいうと、ジャケーが「フライング・ホーム」をハンプトン楽団で吹き込んだのは42年。コブが「ナンバー2」を吹き込んだのは44年だが、45年に録音されたライブ(「オール・アメリカン・アワード・コンサート」)における「フライング・ホーム」では、コブはジャケーのコピーソロを吹いたあと、自己のソロへつなげるという後年のやりかたをすでにとっている。
独立してからのコブの演奏では、有名な47年のアポロセッションが、「コンプリート・アポロ・セッションズ」としてフランスのヴォーグから復刻されているが、スタンダードの「夢見る頃を過ぎても」や自作曲の「ダッチ・キッチン・バウンス」「ゴー・レッド・ゴー」などの後年の重要なレパートリーが演奏されている。これは、デルマーク経由でCDになっており、日本盤も出ている(「アーネット・ブロウズ・フォー1300」)。
また、それに続くオーケー時代のものは「オーケー・ジャズ」という2枚組で8曲復刻されているが、完全盤を聞きたい方はサークルというレーベルからコブのオーケーへの全吹き込みを集めた「ジャンピン・ザ・ブルース」というLPが出ている。アポロやオーケーの頃のものは全て内容的にも実に素晴らしく、これらのSP盤がハーレムのジュークボックスで度々かかったことが想像される。この頃、コブは常にぶっといフルトーンで吹きまくっている(48年から50年にかけて闘病生活を送っていたらしいが、オーケーの録音は51年頃だが、とてもとてもそんなことは感じられない)。
ここで、コブは自動車事故にあい、松葉杖で再起したのが、59年のプレステッジ録音だった。この時期で凄いのは、やはりエディ・ロックジョウ・デイビスとの壮絶なテナーバトルをフィーチャーした「ブロー!アーネット・ブロー!」であろう。オルガンにワイルド・ビル・デイビスを迎えたこの強力無比なセッションは「ゴー・パワー」という題でも復刻されている。「夢見る頃を過ぎても」や「ダッチ・キッチン・バウンス」「ゴー・レッド・ゴー」などをブローしまくる強烈なコブが聞ける。これがなんとコブのはじめてのLP録音だったらしい。プレスティッジ時代では、「パーティー・タイム」「モア・パーティー・タイム」「スムーズ・セイリン」などがおすすめ。昔、日本盤が出ていた「シッツリン」とかはいまいち。どうして、もっと凄いのがあるのにこんなやつを選ぶのか、と当時は経んに思っていたが、ようするにピアノがレッド・ガーランドなのだった。コブの音色はこの頃からやや晩年を思わせる風格をみせはじめている。
それから78年の「アーネット・コブ・イズ・バック」まで、コブはアメリカ本土ではヒューストンのローカルミュージシャン的存在だったわけだが、ヨーロッパへ行けば、大スターだった。これは、ジャケーやバディ・テイトなんかも同じだったが、彼は、この時期にフランスのブラック・アンド・ブルーにかなりの数の録音を残しており、中にはかなり凄い内容のものもある。有名なものとしては、その名もずばり「ザ・ワイルド・マン・フロム・テキサス」というのがあって、バスター・クーパーのボントロやアール・ウォーレンのアルト、ミルト・バックナーのオルガンなどが聞ける。曲は「スムース・セイリン」「ダッチ・キッチン・バウンス」「フライング・ホーム・ナンバー2」などをやっている。あと、アル・グレイのリーダーアルバムで「アル・グレイ・フィーチャーリング・アーネット・コブ」というのがある。これは強力ですよ。コブのルーズなソロが楽しめる他、アル・グレイのプランジャー・ミュートがたっぷり楽しめる。それからテキサステナーにはテキサスブルースギターというわけで、クラレンス・ゲイトマウス・ブラウンの「シングス・ルイ・ジョーダン」というのがあるらしいが、聞いたことがない。「プレッシャー・クッカー」や「ジャスト・ガット・ラッキー」という復刻盤で一部がきける。CDにもなっている「ディープ・パープル」というのもすばらしい。しかし、私がブラック・アンド・ブルーで一押しなのは「ジャンピン・アント・ザ・ウッドサイド」というLP。これはすごい。興奮が興奮を呼ぶ大ブローの連続である。
また、この時期のもので一番特筆すべきは、74年にパリで行われたタイニー・グライムズとの双頭バンドでのライブである。地元ミュージシャンをバックに吹きまくる熱いコブを聴いていると、78年のカムバックっていったい何だったんだ? と思わざるを得ない。コブは引退なんかしていなかったのである。これは「ライブ・イン・パリス1974」というCDで聴ける。
また、71年に、地元ヒューストンの連中とレコーディングした「チッタリン・シャウト」という未発表CDが88年に発売されたが、これを聴いて驚いた人も多かったのではないだろうか。なにしろジャズというか結構チープなR&Bサウンドに載って、熱く、黒くブローするコブがそこにいたから。これを聴くと、その後の「コブ・イズ・バック」における演奏はあくまで「ジャズ」の範疇のものだが、本当は彼はここまで突き抜けていたのだ、ということがわかる。
78年に復活(?)してからは、いろいろなレーベルに精力的に録音を続けたコブだが、「コブ・イズ・バック」を録音した直後にミューズのしきりでおこなわれたサンディーズでのライブ録音は最高である。これらは「ライブ・アット・サンディーズ」とその続編の「モア・フロム・サンディーズ」となって残されているが、アラン・ドウソン、ジョージ・デュビビエ、レイ・ブライアントによる素晴らしいリズム・セクションに加えて、アーネット・コブ、バディ・テイト、エディ・クリーンヘッド・ビンソンの3管編成で「ゴー・レッド・ゴー」「スムース・セイリン」「フライング・ホーム」「ブルー・アンド・センチメンタル」などが聞ける。このシリーズは他にバディ・テイトの名前で出ているものとエディ・ビンソンの名前で出ているものがあるが、いずれもすばらしい内容である。英文ライナーによるとバディ・テイトがコブを紹介する時に「The giant of the tenor saxophone is gonna tell ya a story 」とアナウンスし、コブが「サニーサイド・オブ・ザ・ストリート」を吹き出した、とある。いやあ、感動ですねえ。なるほど、コブのソロは一編の物語に聞こえる。ミューズにはこのメンバーでヘレン・ヒュームズの唄伴をしているのがあり、バディ・テイトの珍しいバリトンサックスが聞ける。
その他アーネット・コブのレコードは無数にあるが、どのようなリズム・セクションをあてがわれても、コブの深いブルースフィーリングを楽しむことができる。
長々とアーネット・コブについて語ってきたが、とにかくコブについて書くととまらないのでこのぐらいにしておこう。私は、一度だけだが、コブの生演奏に接することができたことを神に感謝したい。
なにわともあれ、ジャズ界の「がま親分」ことアーネット「ザ・ワイルド・マン・フロム・テキサス」コブが我々に残してくれたすばらしい演奏の数々を聞こうではないか。
(斉木克己氏、吾妻光良氏の文章を参考・引用させていただきました)
3.この章のまとめ
イリノイ・ジャケーとアーネット・コブ。ハンプトン楽団を去来したこの二人の偉大なテナーマンによってブローテナーは完成した。ここから、ブローテナーの百花繚乱の時代がはじまる。そして、その中から、史上最大のブローテナー、ビッグ・ジェイ・マクニーリーが出現するのだ。