ブローテナーの歴史 第三章

ブローテナーの誕生(イリノイ・ジャケーとアーネット・コブ)

1.イリノイ・ジャケー

 偉大なイリノイ・ジャケー。

 彼こそが、ホンカー、スクリーマーなどと呼ばれるブローテナーの完成者であり、「ブロー」を個人の個性から「一つのジャンル」として確立した功労者である。彼の大成功によって、後進のテナーマンたちは、「これはもうかる! 俺もやろう!」というわけでどんどん彼の後に続き、こうしてホンクテナーという世界が構築されていったのだ。

 ある著名な外国の評論家は、自著でジャケーについて次のような主旨のことを書いている。

「(イリノイ・ジャケーは)コールマン・ホーキンスのソノリティをテナーの分野から汽笛の分野まで広げた男。JATPで大ブローを演じ、チンピラ聴衆を湧かせた張本人だが、彼のようなプレーヤーをこのような音楽の本に記す必要はない」

 ひどい酷評だが、お偉い評論家だとか研究家におとしめられ、けなされるのは、ブローテナにとっては勲章である。けなされればけなされるほど、それに反比例して一般的な人気や知名度は上がっていくのだ。

「テナーブローはイリノイ・ジャケーによって始まった。ライオネル・ハンプトンのビッグバンドにいた時に彼が残した「フライング・ホーム」のソロこそが、テナーブローの輝かしい出発点となったのである」

 テナーブローに関する本にはたいてい上記のような説明がある。

 それでは、彼の残したオリジナル・フライング・ホームのソロとはどのようなものか(この部分、「ふるばん新聞」掲載時はコピー譜付きだったが、インターネットでは私の知識・技術では譜面を載せられないのでレコードを聞きながら想像してほしい)。

 ソロ冒頭の部分は、大勢のミュージシャンが日常的に使っている、非常にポピュラーなフレーズである。オリジナルはたぶんレスター・ヤングである。しかし、この冒頭部が非常にキャッチーなので、このソロは人の心をつかんだと思われるのだ。そのあと、口でグリッサンドをおもいっきりかける奏法や、譜割にしにくい、めちゃめちゃねばるフレージングなど、ブロー派のテナーがよく使うフレーズ、奏法のオンパレードとなる。問題は、2コーラス目の頭から始まるトニックの音をえんえん連発して盛り上がりまくる部分である。サビを除いて、1コーラスにわたってほとんどトニックの音一発のソロが続くのである。これはもう、後年のブローテナーたちが駆使する「ホンク奏法」と呼ばれるものに他ならない。この部分をして人は「テナーブローはイリノイ・ジャケーによって始まった」と語るのであろう。だが、この「ブローテナーの歴史」の読者はすでに、こうしたホンキングの元祖がレスター・ヤングであることを承知してくれていることと思う。レスターがアイデアの一つとして軽くやったことを、ジャケーは「もう、これしかおまへん」という態度で徹底的にやったのだ。

 しかし、このソロの素晴らしい点は、確かにエキサイティングなブローを演じているにもかかわらず、音楽的に非常に高度で、くりかえし聞いてもあきることのない立派な演奏になっているということだ。ミンガス曰く「昔の偉いジャズマンはみんな自分の演ったソロをちゃんと覚えていて、客に、何月何日のソロをもう一度やってくれといわれたら、そのままくりかえしたものだ」と言って、その例としてコールマン・ホーキンスとジャケーを挙げているが、確かにこのソロをジャケーはこの後も何度も吹き込み直している。また、このソロは他の多くのジャズマンにも取り上げられているが、その一例を挙げてみよう。まず、ハンプトン楽団におけるジャケーの後任であるアーネット・コブが、その代表的傑作「アーネット・コブ・イズ・バック」の一曲目「フライング・ホーム」のソロの一部でこのソロを完コピして吹いている。また、ハンプトンのニューポートのライブの同曲でも吹いている(ただし、テンポが早すぎて、いまいち)他、何回か吹き込んでいる。ジョニー・グリフィンはもともとコブのバンドでバリサクを吹いていた男だが、オーケーに吹き込んだ「フライング・ホーム」では、バブス・ゴンザレスのボーカルとユニゾンでこのソロを吹く若かりしグリフィンが聞ける(これ、最高)。同じくバブス・ゴンザレスのボーカルをフィーチャーしたものでは、ベニー・グリーンの「アンコール」がある。この曲には「フライング・ホーム」のテーマは出てこず、ジャケーのソロに歌詞をつけたものをテーマとしているのだが、ジャケーのソロが完璧に「歌」になっているから違和感はない。私は、一時、このレコード(ブルーノートの「マイナー・レベレイション」)を一日一回聞かないとおさまらないほど入れ込んだ時があった。とにかく異常に盛り上がってしまうのである。また、現在のハンプトン楽団でこの曲を演奏する時は、ジャケーのソロをサックスセクション全員のソリにアレンジして、そのさまはまさしく「スーパー・サックス・プレイズ・ジャケー」である(そんなええもんか)。

 こうしたことができたのは、ジャズのアドリブソロが「歌」であった時代までであろう。たとえば、ニューオリンズのあるミュージシャンは、「わしがその時吹いたソロがヒットして、しばらくはどこへ行ってもそのソロを吹いてくれ、とせがまれたもんじゃ」と語り、また、あるミュージシャンはクリフォード・ブラウンのソロを評して、「ブラウニーのソロは、採譜すればそのまま全部テーマに使えるぐらい完璧に『歌』になっていた」と語っている。しかし、たとえば、コルトレーンに対して「何月何日にやったインプレッションズのソロをもう一度やってみてくれ」という人はいないだろう。ジャケーのソロにしても、ジャズのソロが「歌」だった時代のできごとなのである。

 話題がそれたが、さて、こと程さようにまですばらしいソロを残したイリノイ・ジャケーとは、そも何者であるか。それでは、この偉大なブローテナー第1号の足跡を辿ってみよう。

 イリノイ・ジャケーは、テキサス州ヒューストンの生まれ。もともとはアルト奏者だった。ミルト・ラーキンというバンドに参加したが、このバンドの同僚がアーネット・コブだったのだ。そのころから、いわゆるブローする感じの演奏をしていたらしいが、ある日ライオネル・ハンプトンに「俺のビッグバンドにはいらねえか」とさそわれたらしい。二つ返事で引き受けた若きジャケーにハンプトンはこう言った。「今おまえがアルトで演っていることを、俺のバンドではテナーで演ってもらいたい」こうして、ジャケーのテナー人生が始まったわけであるが、このハンプトンの一言が後年のグレートブローテナーを産むきっかけとなるとは余人の知りえたところではなかったともいうべき、まさしく歴史的な一言であったのだ。ハンプトンのバンドはそれからすぐに楽旅に出発し、そこでジャケーは「くちびるが石のようになるまで」練習させられた、と語っている。もともと、彼のアイドルはホーキンスだったらしいが、ハンプトンバンドのもつ「真っ黒けリズムアンドブルースバンド」的雰囲気のもと独自のブルージーでエキサイティングなスタイルを確立する。そこで吹き込んだ例の「フライングホーム」のブローによって、ジャケーの知名度はぐんとあがる。

 ハンプトンバンドで名を売ったジャケーは、キャブ・キャロウェイのバンドなどを歴て、あのJATPに参加し、悪名を天下に轟かせることになるのだが、それについて触れる前に、最初に一旦JATPに参加した後、彼がレギュラーとして在籍したかのカウント・ベイシーのオーケストラについて述べておこう。これはジャケーの経歴上案外見過ごされがちだが、実は非常に重要である。カウント・ベイシー・ストーリーというビデオにおけるジャケーのインタビューを見ると、彼がレスターやバディ・テイト、バック・クレイトン、スウィーツ・エディソンらと同じようなベイシー一家の一員だったことがわかる。それは、またベイシーの参加した彼の「ポート・オブ・リコ」を始めとする一連のレコードでもわかるし、SAGAというレーベルの「カウント・ベイシー・ウィズ・イリノイ・ジャケー」という当時のエアチェック盤は、強力なメンバーを要したオールド・ベイシーで全力でブローしまくるジャケーの姿が聞ける(ドラムがバディ・リッチでものすごい迫力)。ジャケーの音楽性における「カンサスシティジャズ」の要素、あるいは「ベイシースピリット」的なものはきわめて大きいと考えられる。実際のところ、今に至るジャケーの音楽というのは、いわゆるオールド・ベイシー時代のベイシーバンドにブローテナーが加わったものと考えてよいと思う。カウント・ベイシーのバンドでジャケーは「フライング・ホーム」と並ぶ彼の2大ヒットの一つとなった「ザ・キング」のソロでフィーチャーされ、またまたヒットを飛ばした。

 さて、話は戻るが、キャブ・キャロウェイのバンドにいた彼のもとに、ある日、一人の白人が訪ねてきた。ノーマン・グランツと名乗るその男は、ハンプトンバンドでのジャケーのソロを聞き、彼を引き抜きに来たのだ。目の玉の飛び出る程の高額のギャラを示され、ジャケーはその話に乗り、彼の主催するジャムセッション、すなわちJATPに参加するようになった。こうしてイリノイ・ジャケーの知名度は一気に大衆レベルまで上昇し、彼はスターダムにのしあがった。

 さて、彼の現在の日本のジャズ評論界における評価というのは、良くも悪くもこの「JATPのスター」というものである。筆者には、このことがジャケーの過少評価につながっているような気がしてならない。Yという評論家が、「40年代のJATP」というレコードの中の「パーディド」におけるジャケーとフリップ・フィリップスのテナーバトル(といってもたったの8小節だけ)を取り上げて、下品だが非常にエキサイティングだ、と評したのが、日本のジャケーにおける一般の評価につながっている。Yは、「40年代のJATP」が発売された遙か後年に出版されたジャズ批評のテナーサックス特集においても全く同じことしか言っていない。昔はいざ知らず、これだけジャズファンが多様化している今日、いまだにジャケー=JATPではあまりに勉強不足というものだ。日本におけるこの認識は、つい先頃、原田和典という人が「コテコテ・デラックス」という本でジャケーをホンカーの父として讃えるまで改められることはなかった。

「パーディド」のソロは確かに素晴らしく、熱狂する観客の様子が露骨なまでにはっきり録音されている。ジャケーがギエエと吠える度、観客は熱狂し「イエーイエー」と大拍手を送っている。アイドル歌手みたいなもんだ。最初に書いたある外国の評論家に酷評されたのもこの時期の演奏なのであり、ごく最近まで日本のジャズ評論家のジャケーに対する認識は、その評論家の丸コピーに過ぎなかったのだ。その後に数多く録音されたプレスティッジやアーゴ、カデットなどでのジャケーの凄まじいまでのブローの数々を全く聞いていなかったのだろうか。しかし、さっきも書いたとおり、評論家の酷評こそがエンターティナーであるブローテナーへの最大の賛辞でもあるのだ。評論家がけなせばけなすほど、彼らはハーレムの酒場やアポロ劇場、ジュークボックスなどのスターになっていくのだ。とにかく当時のジャケーの人気というのはたいへんなもので、バッバッバッとホンクする度に、大金がころがりこんでいたと想像される。

 さて、JATPで人気をはくした我等がイリノイ・ジャケーは、その手応えをもとについに念願の自分のバンドを持つことを決意する。スターに抜けられたノーマン・グランツはかなり困ったようだが、ジャケーの後釜にエディ・ロックジョウ・デイビスをすえる。ロックジョウ曰く「グランツはジャケーの後釜に俺を選んだ。奴は、テナーで絶叫できるプレイヤーを捜していたんだ」。

 ジャケーが自分のバンドを発足するにあたって共演者に選んだのは、ベイシーバンドでの仲間であるトランペットのジョー・ニューマンである。彼はこのあと当分ジャケーと行動を共にし、レコードも多数残している。そして、バリトンサックスに「バリトンのパーカー」レオ・パーカーである。彼もジャンプ系のプレイヤーで、ブルーノートに残した2枚のリーダーアルバムを聞いても、ジャケーバンドで得たものが大きかったことがわかる。

 しかし、あれだけJATPで人気のあったジャケーも、自分のバンドというのはやはりなかなか難しく、結局解散してしまう。その後、ジャケーはジャムセッションや臨時編成のバンドを組んだりしてずっと音楽活動を続けていくが、時代はすでにモダンジャズのものとなり、しだいに過去の人物とみなされていく。だが、そのプレイは衰えをみせず、円熟していくのである。

 以上がざっとしたイリノイ・ジャケーの歩みである。

 さて、このあたりで、彼の音楽的特徴を少し分析してみると、まず、そのビッグトーンが挙げられる。コールマン・ホーキンス〜ハーシャル・エバンスの流れをうけついだ太くてたくましい音色は、男性的でまさにテナーサックスの王者というにふさわしい。フレーズは、スイング的で良く歌う。バラードはベン・ウエブスターのように、豊かな音量のサブトーンで「いやらしく」歌いあげる。テキサステナーらしい、どす黒いまでのアーシーなブルース魂は、中期のプレスティッジやアーゴ・カデットの諸作品でいかんなく発揮されている。そして、ブロー的なテクニックとしては、観客が熱狂し、立ち上がって叫びだすまでやめないほどのしつこいホンク奏法、ぎょええええっというスクリーム奏法、音をファンキーにベンドする奏法、あらかさまな引用フレーズ、テナーの低音を使った鬼面人を驚かす奏法などがあり、まさにブローテナーの数々のテクニックの百貨店である。それに加えて、ハンプトン楽団仕込みのブラックエンターティナーとしての側面がある。日本公演でも見せた、サッチモの物真似で歌い、タップを踏み、テナーを吹きながらぐるぐる回ったりするあたりは、まさにハンプトン譲りの「観客を徹底的に楽しませてやろう」という決意のようなものが伝わってくるのである。こういうエンターテインメント精神がブローテナーとしてのジャケーの根本にあることはまちがいない。ついでに言うと、マウスピースはリンクのメタルではなく、特注品らしい。また、彼はバスーンも吹き、バスーンで「ラウンド・ミッドナイト」を演っているレコードがある。

 とにかく、テナー奏者の歴史の中でも際立った個性のある偉大なプレイヤーで、特にアーネット・コブと並んで、後進のテナーマンに与えた影響というのはジャケーの場合、著しいものがある。当時の若手のプレイヤーのほとんどは、ジャケーの影響を受けたというよりも、もっと直接的に「ジャケーを丸コピーした」はずである。ウェイン・ショーターがあるインタビューで、テナーサックスを自分の楽器としてえらんだ理由に、ジャケーの演奏を聞いたことを挙げていた。ビッグバンドをバックに、ジャケーのテナーは本当に自由にふるまっていた、というのである。ニューオリンズのブルーステナーマン、故リー・アレンも来日時のインタビューで、ジャケーのフレーズをコピーしたと告白している。

 イリノイ・ジャケーは、確か4回来日しているはずだ。1回目は、ニューポートジャズフェスティバル・イン・ジャパンで。この時の演奏はレコード化されている。2回目は、第1回オーレックスジャズフェスティバルのバトル・オブ・ザ・ホーンズの一員として。この時の演奏もレコード化されている。3回目は、まだらおジャズフェスティバルにテキサステナーズの一員として。この時の演奏はレコードにはなっていないが、TVで放映されたので、聞いた人も多いはずである。あと、自分のビッグバンドを組んだ時に、ファッションショーか何かのイベントに招かれて演奏しているはずだ。

 では、長かったこの項をしめくくる前に、イリノイ・ジャケーの代表的アルバムをいくつか紹介しておこう。とにかく、まず「ゴー・パワー!」(カデット)を聴いていただかないと話にならない。これはほんとにすごい。私は、中古屋で3000円で買ったのだが、一聴してぶっとびました。良い買い物をした、という気持ちで一杯になった。これが、何と日本盤が出てしまうのだから世の中変わったものだ。こういう凄いCDを出した原田和典氏は本当に偉い。あと、プレステッジでは「エクスプロージョン」が最高。オルガン入りビッグバンドをバックにスローブルースで絶叫するジャケーの最良の演奏が聞ける。でかい音で聴いていると、脳の血管がぶちきれそうになる。ジャケットもすばらしい。ブラックアンドブルーから出ている「イリノイ・ジャケー・ウィズ・ワイルド・ビル・デイビス」という2枚も、最高である。オルガンをバックに最高の「ブルー・アンド・センチメンタル」や「コットンテイル」「ミスティー」など、惚れ惚れするようなブローが聞ける。それに、「キング・ジャケー」というRCAのやつも良い。フルバンドをバックにしたジャケーのレコードはなぜか音が悪いのだが、これは強力にして強烈。意外に良いのがブラックライオン盤で、「テイク・ジ・Aトレイン」やベニー・グリーンの「アイ・ワナ・ブロウ」などをかなりえげつなく演っている。近年(といってもだいぶ前だが)出た若手を集めたビッグバンドは、どうせもうあかんやろう、というこちらの勝手な思い込みを吹き飛ばしてくれた。老いてますます盛んなゲイトマウス・ブラウンのレコードを聴いているような気持ちになる。ジャズ的に名盤とされるのが、ヴァーブの「スウィング・ザ・シング」。ロイ・エルドリッジとの2管で、「ハーレムノクターン」とかをやっているが、おとなしすぎてジャケーの凄さは堪能できない。あと、「コンプリート・アポロ・セッションズ」も有名だが、内容はすばらしいがレコードは音質が悪いので注意(CDは知らん)。

 日本盤が少ないだけで、ジャケーのレコードは本当はめったやたらに多いのだが、とにかくまずオリジナルの「フライング・ホーム」のソロを聞いてみて下さい。

第三章2節に続く

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